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リーマンを語る 13.  古代への回帰と数学

「理想化された古代への回帰は、当時の現代的諸問題からの逃避を意味した」とラウグヴィッツは書いています。これを数学にあてはめると、「現実への応用の可能性を放棄する」ことになるのだそうですが、ナポレオンに圧迫されて国家存亡の危機に瀕している時期に、どうして現実逃避のような教育改革がめざされたのでしょうか。フンボルト個人の学問観に由来するという説明がなされていますが、フンボルトは国家の干渉からの自由をめざしたとのことで、そうしたらどうなったのかというと、象牙の塔に逃避するという現象が現われたのだそうです。
 国家そのものが危機に瀕したとき、精神は古代に回帰して、現実から乖離した学問の理想を追い求めるということのようですが、強いて日本史に類例を求めると、明治維新の前後の状況を思わせるところがあります。
 新人文主義には「神々しい古代というイメージ」が伴っているという記事もありますが、新しい大学の精神に刻まれたのは新人文主義だけではなく、もうひとつ、ドイツ観念論とロマン派自然哲学もまた大学の精神を規定していたとも言われています。数学史との関わりでは、ギムナジウムのカリキュラムで数学が異様に重視されていたことがやはり気にかかります。新人文主義とドイツ観念論とロマン派自然哲学、それに古代に回帰しようとする心情が、どうして数学と結びつくのでしょうか。
 どうもよくわからないことばかりですが、新人文主義がイメージする古代というのは古代のギリシアのことでしょうから、それでしたらプラトンの名前が想起されるところです。プラトンの対話篇には数学と数学者が随所に登場します。数学は非常に重んじられていたようなのですが、どうしてなのかというと、本当のところはよくわかりません。
 20年ほど前のことになりますが、インド哲学の玉城先生にお話をうかがったおりのこと、玉城先生がプラトン全集の一冊を書斎からもってきて、あるページを開き、こんなところに数学が出てくるんだ、どうしてなのかさっぱりわからない、と言われました。そうして、君ならわかるだろう、と問われたのですが、さっぱりわかりませんでした。
 プラトンが数学を重視したことは対話篇を見ればわかるのですから、明白な事実です。19世紀のはじめにプロイセンで遂行された教育改革で数学が重く見られたこともまた事実であり、実際に19世紀の全体を通じてドイツにはおそるべき数学者が次々と出現しました。その系譜の中に現在の数学もまた位置を占めていると見てまちがいありませんが、今日の数学はプラトンとはまったく無縁です。数学の歴史はどこかで大きく変容したのでしょう。
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リーマンを語る 12.  古代精神と数学

 リバラルアーツを構成する七科のうち四科までが数学に関係があり、それらがみなギムナジウムに移されて、しかも担当する教師は聖職者だったというところまで話が進みました。理系の四科のうち、算術と幾何と天文は数学系として、もう一科、音楽ななぜ数学に関係があると見られていたのでしょうか。なんだか古代の伝説のピタゴラス学派を想起させるようなことで、何かしら深いわけがあったのだろうと思わされるのですが、ひとまずこのままにしておくほかはありません。
 理系の科目の教師が聖職者、すなわちキリスト教のお坊さんたちというのもにわかにはうなづけないものがあります。もっとも16世紀あたりから日本にやってきた西欧諸国の宣教師たちは、日本で学校を開き、数学などを教えたという話もありますから、そんなものだったのかもしれません。それで、新たに設立されたギムナジウムの教師はとりあえずお坊さんたちでよいとして、将来の教師をどのように養成するのかというのは大きな問題です。ラウグヴィッツの本によると、これを担当するのは、新しく設立された大学、すなわちベルリン大学の哲学部だったのだそうです。まったく不思議なことがあるものです。
 ギムナジウムのカリキュラムを見ると、ギムナジウム10年間の各科目の学習時間の平均をとったのだろうと思われますが、一週間の学習時間が記されています。それによると、次のようになっています。
   ラテン語 76時間
   ギリシア語 50
   国語 40
   数学 60
   歴史と地理 30
   自然科学 20
   宗教 20
 ラテン語とギリシア語の時間が非常に多いことが目につきますが、この根底には「古代の精神への回帰」という風潮があった模様です。その古代というのは「理想化された古代」です。また、数学に割り当てられた時間も目立ちます。「古代精神への回帰」と数学との間には、何か関係があるのでしょうか。

リーマンを語る 11.  ラテン語学校とギムナジウム

 ドイツの学校制度もなんとなくわかっているような気がしていましたが、ひとつひとつ詰めていくと、みなあいまいになってしまいます。ベルリン大学の創設は1810年という事実は、プロイセンの教育改革を考えるうえで基本中の基本と思われますが、日本の明治元年が1868年ですから、1810年はそんなに昔のことには思えません。
 それはともかくラウグヴィッツの本によると、「一般的な準備教育」、すなわち「4科」が大学から分離され、従来のラテン語学校を解消して新たに作られたギムナジウムに所属させられ、しかもその教師は聖職者がつとめたということです。これだけでは何のことかさっぱりわかりませんが、翻訳者の山本さんの脚註によると、一般教養というのが7科あり、そのうちの四つ、すなわち「算術、幾何、天文、音楽」のことを指して「一般的な準備教育」と読んでいるのだそうです。これらの4科は「数学的」というのですが、そう言われればそんな感じでもあります。残りの三つは「文法、論理、修辞」です。
 「一般教養」というのは英語の「リベラル・アーツ」のことと思いますが、これはこれで古い歴史をもっています。日本の大学にも長い間リベラルアーツの伝統がありましたが、近年は専門教育を重視する方向に大きく傾いて、大学も専門学校みたいになっています。
 19世紀はじめのプロイセンにもどって、ラテン語学校とギムナジウムとの関係についてですが、「従来のラテン語学校を解消して新たに作られたギムナジウム」という記述をそのまま読むと、ドイツには前からラテン語学校という名前の中等教育機関が存在していたところ、フンボルトの改革によりラテン語学校に代ってギムナジウムという名前の学校が新たに設立されたというように理解されます。たぶんこれでよいのだろうと思いますが、ありとあらゆるラテン語学校がいっせいにギムナジウムになったというのも考えにくいところです。ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」の主人公はラテン語学校の生徒ですし、ラテン語学校のまま存続した学校もあったのでしょう。それに、フンボルトの教育改革の舞台はプロイセンでした。ギムナジウムはまずプロイセンで発生し、プロイセンによるドイツ統一が進むにつれて、ドイツ全域にギムナジウムが広がっていったのであろうと思います。

リーマンを語る 10.  プロイセンの教育改革

 1806/7年の敗北の後、プロイセンはエルベ川の東の辺境の小国になってしまいましたが、それでも独立国であることはまちがいありませんでした。当時のドイツはひとつの統一された国ではなく、ドイツと呼ばれる地域の中に非常に多くの小国が存在していたのですが、フランス革命の後にナポレオンに攻撃を受けて独立を失いました。唯一の例外がプロイセンで、小国は小国でもれっきとした独立国でした。
 そこでプロイセンはどうしたのかというと、内部の改革に取り組んだのだそうです。ラウグヴィッツはこれを「とうの昔に時代遅れになっていた」と批評しているのですが、内部改革がどうして時代遅れなのでしょうか。こんなところもよくわからないところです。
 それはともかく、プロイセンとしてはナポレオンに対抗するには旧態を保持していてはだめで、どうしても国の形を変えなければならないという状況に追い込まれていたのでしょう。それで内部改革の実情のことですが、当時のプロイセンにはヴィルヘルム・フォン・フンボルトという人がいて、たった14ヶ月の間に教育制度の再編成を遂行したのだそうです。フンボルトは哲学者であり、言語学者であり、外交官でもある人でした。内務省内の教育文化部門を指揮してこれを実行したというのですから、プロイセンの国家運営に関して相当に大きな権限をもっていたのでしょう。
 ところがここでまた素朴な疑問に直面するのですが、フンボルトは人間の全人格的形成という新人文主義的理想をもっていたということで、それでどうなるのかというと、国家を無用なものにして、自由な人格の発展ということを受け入れるということになるのだそうです。そうしますと、フンボルトが押し進める改革が完成すると、プロイセンという国家は消滅してしまうことになるのでしょうか。
 この疑問はそのままにしておいて、具体的な状況に目をやると、フンボルトの改革の果実のひとつとして、1810年にベルリン大学が創立されました。創設の理念は「教育と研究の場」とのことで、あたりまえのように見えてあたりまえではなく、従来の大学が純粋な教育機関だったのに対して「研究」を打ち出したところが斬新な構想だったみたいです。それならいったい「研究」とはどのようなことを意味するのでしょうか。

リーマンを語る 9.  ナポレオン戦争とプロイセン

 ラウグヴィッツは「教育と教養」という一節を設けて、19世紀の北ドイツの政治的文化的状況の説明を試みています。19世紀の北ドイツは数学史の流れを見ても確かに異常なものがあり、傑出した数学者が次々と出現しました。ある特定の時期に、ある特定の地域で、どうしてそのような現象が発生したのか、興味の深い問題です。
 北ドイツの人々の数学に対する適正や傾向ということでは説明できないとラウグヴィッツは書いています。なぜなら、他の時代にはそのようなことはないからだというのですが、これはその通りと思います。また、プロイセン的なものとプロテスタンティズムとの結びつきもよく引き合いに出されるのだそうですが、この説明は間接的な意味でしか当っていないというのがラウグヴィッツの意見です。「間接的な意味」というのはどのような意味なのか判然としませんが、この見方が当らないというのはたぶんその通りなのでしょう。
 18世紀のことになりますが、ベルリンには科学アカデミーがあり、1741年から1786年にいたるまでの間にはオイラー、ランベルト、ラグランジュ(この三人は北ドイツ人ではありません)がいて、科学アカデミーの全盛期でした。その影響が構成に及んだのではないかという見方もありますが、これもあまり高く評価することはできないとラウグヴィッツは一蹴し、当時のベルリンでは一般的な意味での啓蒙の精神のほうが勝っていたから、という論拠を挙げています。どうしてこの論拠が論拠でありうるのか、ここもまたよくわからないのですが、これもその通りとして、それならなぜ、という振り出しにもどることになります。
 直接影響があったのは、プロイセンで開始された高等教育制度の再編成だったと、ラウグヴィッツの説明は続きます。時代の背景にはナポレオン戦争がありました。
 このあたりの複雑な消息をたどるのはめんどうですが、大雑把に眺めると、1806年から1807年にかけてプロイセンはナポレオンとの戦いに破れ、苦境にありました。1806年7月、ナポレオンはベルリンを占領し、ブランデンブルク門を通って入城しました。1807年6月にはフリートラントの戦いでロシア軍を撃破し、7月、ティルジットの条約を結びました。細かく見ると、7月7日にフランスとロシア、7月9日にフランスとプロイセンが講和条約を締結したのですが、この条約によりプロイセンはエルベ川の西側の領土を失うことになりました。ポーランドも失い、ザクセン王国とロシアにも領土を割譲するというふうで、プロイセンはエルベ川の東側の辺境のひどく小さな国になりました。900万人もあった人口が400万人になったということです。

リーマンを語る 8. 年俸300ターラーの「員外教授」

 リーマンはゲッチンゲン大学を卒業した後、私講師になりました。私講師というのはドイツの大学の独特の制度で、講義をする資格を与えられるのですが、大学から俸給が出るわけではなく、講師は聴講者から直接、聴講料を徴収します。したがって聴講者がおおければ多いほど収入が増えることになりますが、何十人、何百人という聴講希望者が現われるとは考えられないことですし、多額の収入は見込めませんでした。
 リーマンが29歳のとき父が亡くなり、二年後の1857年の秋、このときリーマンは31歳だったのですが、弟のヴィルヘルムがブレーメンで亡くなりました。それで三人の姉妹を扶養しなければならなくなったということですが、幸いなことに「員外教授」に任命されて300ターラーの年俸が得られるようになったということです。
 ここでまた素朴な疑問が起こるのですが、母はどうしていたのでしょうか。何も記述がないのですが、なんだかもう亡くなっているような感じでもあります。それと、「員外教授」ということの意味合いはよくわかりません。300ターラーというのはどの程度の金額なのかということについて、ラウグヴィッツはデデキントの事例を紹介しています。デデキントが1858年4月にチューリッヒの工科学校に招聘されたときの年俸は約850ターラーでした。1864年にブラウンシュヴァイクの大学の教授になったときは、昇級して1480ターラーになりました。
 「ターラー」はTalerで、ヨーロッパで使われていた銀貨の呼称です。現在のアメリカの通貨はドルですが、「ドル」は「ダラー(dollar)」で、語源はターラーなのだそうです。

四度目の本巣行

 数学の学会で名古屋に行って来ました。本巣市にも足をのばし、高木先生の記念室を見学しました。本巣行はこれで四度目、記念室見学は三度目になります。保管されている資料は非常に大量で、三度閲覧した程度ではとても全貌はつかめませんが、その代わりそのつど発見の楽しみがあります。今回は一色学校の旧校舎の写真を見ることができました。
 高木先生は偉大な数学者で、郷土のほこりであることはまちがいありませんが、どこがどう偉いのか、郷里の小学生たちに説明するのはむずかしいことです。中学か、せいぜい高校程度の数学だけしか予備知識がないとして、類体論とはどのようなものなのか、理解してもらえるように語るのが理想です。現在、直面しているのはこの問題で、いろいろな試みを続けているところです。

リーマンを語る 7.  教員と学生の貧しい生活

 ゲッチンゲン大学あたりでも学者は裕福ではなかったようで、副業が頼りだったということです。副業というのは実際には何をするのかというと、補習授業をしたり、学生相手の下宿屋をしたりしたのだとか。補習授業が副業になるいというのはにわかには理解しがたい事態ですが、副業というからには当然、授業料をとっています。正規の講義と補習授業を同時期に設定しておいて、正規の講義を理解したければ補習授業を受けるようにと誘うのでしょうか。もしそうなら学生からしてみれば授業料を二重に徴発されるようなことになりそうです。下宿屋というのは、これはまあ部屋に余裕があればできそうですが、大学の教授が学生に部屋を貸して家賃をとるというのは、やっぱり想像しがたいものがあります。
 他の副業としては、ビールの醸造や小売り販売が挙げられています。これを要するに大学の先生というのはその程度の職業だったということなのでしょう。
 教師の生活がこんなふうでしたら、学生の生活はどうかというと、高等教育は相当に高くついたようです。リーマンは父から仕送りを受けていたようですが、一般的なことではないと、ラウグヴィッツはわざわざ明記しています。
 リーマンには弟がひとりと4人の姉妹がいました。弟は郵便局員になりました。父は牧師で、家族はみな牧師館に住んでいました。農地があり、作物を栽培していましたが、家族の日々の生活の分がまかなえる程度でした。ということはつまりリーマンの家は経済的には裕福とはほど遠く、子供が6人もいましたし、リーマンひとりを大学に進ませるので精一杯だったということでしょう。
 大学に入る前ははじめはハノーファー、次にリューネブルクのギムナジウムに通いましたが、ハノーファーのときは学校のそばに祖母の住む家があり、そこから通いましたのでお金はかかりませんでした。ところがリューネブルクに移ると下宿するための費用がかかるようになりました。
 1844年のイースターからが、ヘブライ語の教師のゼッファーという人の家に下宿しましたが、ゼッファーは校長のシュマールフスに頼まれてそうしたのです。「多額の出費にもかかわらず」リーマンを他の下宿人に加えたとゼッファーはどこかで述べているのだそうです。ゼッファーは学生あいての下宿屋を副業にしていたのでしょう。リーマンについては、校長の頼みだからというので破格の値段で住まわせたということなのでしょうか。

リーマンを語る 6.  ゲッチンゲン大学の年金制度

 リーマンはヒポコンドリーで通っていたということですが、こんな話から受けるリーマンの印象は極端に内向的で、孤独です。岡潔先生にもそんなところがありましたが、その代わりおそろしく濃厚な友情に包まれていました。それなら理はどうだったのだろうとつい思います。こんなことを念頭に置きつつ先に進みたいのですが、性格が内向きであるのに加えて、リーマンは体質もまた虚弱で、その結果、慢性的な閉塞感に見舞われたということです。
 1862年の秋というと満36歳のときのことになりますが、リーマンは胸膜炎にかかって肺を損傷し、イタリアにおもむいて長期にわたって滞在したのですが、回復しませんでした。虚弱で病気がちな体質だったのでしょう。
 それでもリーマンはわりとあちこちに出かけています。1863年の春にはシシリーを発ってゲッチンゲンに向かいましたが、イタリア滞在中には当地の数学者たちとの交際が目立ちます。1859年にはベルリンを訪問していますし、1860年にはパリを訪問しています。パリ滞在などは一ヶ月も続いたというのですから、内気で虚弱というばかりでもないようでもあります。
 こんな話の数々に続いて、ラウグヴィッツの筆は政治経済的状況に及びます。当時は老齢年金というものがありませんから、牧師も教師も大学教授も、あるいはまた他の職業の人たちもみな、死ぬまで職を離れませんでした。ただひとつの例外は、ガウスが尽力して実現したゲッチンゲン大学の大学教員寡婦年金なのだとか。リーマンはイタリアのピサ大学の招聘を受けたことがあり、断ったのですが、それはどうしてかというと、ゲッチンゲン大学の年金を考えたからではないかと、ラウグヴィッツは書いています。なかなかおもしろい話です。

リーマンを語る 5.  内気な性格

 リーマンの父については前回の報告の通りです。母については、ハノーファーの顧問官の娘としか書かれていません。顧問官といっても、何のことなのか、何もイメージがありません。
 リーマンの性格についてやや詳しい記述がありますが、それによるとリーマンは他人とのつきあいに困難を感じる人だったのだとか。大学生のときも私講師になったときも、学期休み以外の時期にたびたびヴィックボルンに引き蘢ったのだそうです。安らぎと隠棲のためにそうしてということです。極端に内気な人だったのでしょう。ところが1855年の秋に、ということはリーマンが29歳のときということになりますが、父が亡くなったため、安息の地は失われてしまいました。
 父が亡くなっても故郷は故郷と思われるところですが、父はヴィックボルンの牧師として赴任して家族とともに生活していたのでしょうから、亡くなった以上、後任の牧師がやってくるのでしょうし、そうしたら家族もまたヴィックボルンを離れることになるのでしょう。それからどこにいったのか、まだわかりません。
 リーマンは自分から求めて他人と交際することはありませんでした。アイゼンシュタインなどはリーマンと精神的に近いひとだったようですが、リーマンはアイゼンシュタインをかたくなに避けることがあったそうです。デデキントは、リーマンがひとりで部屋にいるところを連れ出すことに成功することがありましたが、どのような学問上の会話を交わしたのか、デデキントは何も報告していません。
 このようなリーマンの内向的性格には身体的原因があり、リーマンはヒポコンドリー(心気神経症)ということになっていました。後日、リーマンの奥さんは、リーマンの没後、リーマンの伝記を書いたデデキントに、この事実を打ち消すように依頼したのだそうです。ヒポコンドリーというのはいったいどのような症状なのでしょうか。わかりそうでわからい言葉が次から次に出てきます。

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オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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