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高木貞治 西欧近代の数学と日本 166. 落ち穂拾い(22)

 「西欧近代の数学と日本」というタイトルを附して3月16日からこのかた高木先生の評伝を書き綴ってきましたが、144回まで続いたところで一段落しました。ここまでで約24万字。400字詰原稿用紙に換算して600枚程度の分量になりました。その後、「落ち穂拾い」と題して断片的な記述を続けていますが、それとは別に、本文の600枚の原稿を再編成して350枚程度の作品を仕上げたいと思い、試みています。
 落ち穂拾いもまもなく終りますが、写真の紹介をもう少し続けたいと思います。それも終ったら、次の連載に取り掛かる予定ですが、今度はリーマンを語りたいと考えています。


      本巣駅

樽見線の本巣駅の駅舎です。ここから少し歩くと本巣市の市役所に着きます。 


         中島みゆきさんの祖父2~

歌手の中島みゆきさんの祖父、中島武市の胸像です。本巣市内の小さな公園内にあります。中島さんの祖父は本巣に生まれ、北海道に移って成功し、郷里のために尽力したということです。本巣を訪問してこの胸像を発見しました。
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高木貞治 西欧近代の数学と日本 165. 落ち穂拾い(21)

写真を少々。


     モレラ岐阜駅

樽見線のモレラ岐阜駅のプラットフォームの看板です。「モレラ」がローマ字で「MORERA」と表記されています。発音の通りの表音式です。ショッピングモールの名前は「モレラ岐阜」というのですが、こちらの「モレラ」は「MALera」と表記されています。

             樽見鉄道

モレラ岐阜駅のプラットフォームから眺めた本巣の風景です。北方の樽見方面に向かっています。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 164. 落ち穂拾い(20)

 高木先生の類体論研究を構成する二篇の主論文の掲載誌について、前に書いたことの中に間違いが見つかるとともに、新しい事実が判明しました。二篇の論文のひとつは大正9年(1920年)に公表された論文
 ”Über eine Theorie des relativ Abel’schen Zahlkörper(相対アーベル数体の理論)”
ですが、前にこの論文を紹介したとき、「東京帝国大学理科大学紀要、巻41, Art.9, 1-133頁」に掲載されたと書きました。この記述では「理科大学」の部分がまちがいで、「理学部」とするところでした。どうしてかというと、大正8年(1919年)2月に公布された「大学令」により、大学の分科大学制が廃しされて学部制になったからです。法、医、工、文、理、農、経済の7学部が設置されました。このうち経済学部は新設です。「東京帝国大学理科大学」は「東京帝国大学理学部」になりました。英語表記を併記しておくと、「東京帝国大学理学部紀要」は
Journal of the Faculty of Science, Imperial University of Tokyo
ですが、「東京帝国大学理科大学紀要」は
Journal of the College of Science. Imperial University of Tokyo
です。
第二の主論文は
”Über das Reciprocitätsgesetz in einem beliebigen algebraischen Zahlkörper(任意の代数的数体における相互法則)”
ですが、この論文の掲載誌も「東京帝国大学理科大学紀要」ではなく「東京帝国大学理学部紀要」です。
 紀要の形態についても認識が不足していました。たとえば第一論文は紀要の「巻41, Art.9, 1-133頁」に掲載されたというのですが、第41巻という名前の一冊の紀要があり、そのArt.9、すなわち第9番目の論文が第一論文であろうと考えていました。たいていの学術誌はそんなふうになっています。ただし、そのように理解すると「1-133頁」というところが奇妙ではあります。第9論文が巻頭論文であるかのように見えるからです。
 先日、第一論文が公表された際の実物を見る機会があったのですが、それは単独の一冊の論文でした。「東京帝国大学理科大学紀要、巻41, Art.9」という名前の全133頁の冊子で、値段がついて丸善で販売されていたというのでした。これにはびっくりしました。第二論文についても事情は同じです。
 事実の確定には実物を見ることが大事なことは、長年の経験を通じて重々承知しているのですが、論文の形態にまでは思いが及ばず、先入観にだまされていました。先日、K先生に論文の実物を見せていただきました。K先生に感謝します。

       高木貞治/胸像

土門拳が撮影した高木先生です。

京都数学史会議以後

京都数学史会議の終了後、東京に出てきました。昨日は神保町で出版社の人と打ち合わせ。今日は本郷で高木先生研究。それからゴローさんと銀座で談話会。土門拳の写真集「風貌」(アルス)に高木先生が出ているのですが、ゴローさんは「風貌」を知っていました。これには驚きました。昭和29年(1954年)に刊行された古い写真集です。、
明日は帰郷します。旅の日々もちょうど一週間になりました。

        高木貞治胸像


高木先生の胸像。本巣の糸貫中学校の校庭に立っています。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 163. 落ち穂拾い(19)

高木先生の評伝のための落ち穂拾いもだんだん残り少なくなってきましたが、藤原工業大学の教授に就任したことなどはあまり知られていないと思います。昭和16年(1941年)9月1日、高木先生は満66歳のとき、藤原工業大学教授に就任し、昭和22年7月31日まで在職しました。
 藤原工業大学というのは藤原銀次郎が私財800万円を投じて設立した私立の工業単科大学です、昭和14年(1939年)5月26日付で設置が許可されました。設置場所は横浜市の日吉で、大学予科2年、本科3年の5年制でした。昭和19年8月5日、慶応義塾大学に統合されて慶応義塾大学工学部になりましたから、晩年の高木先生は一時期、慶応大学に所属していたことになります。
 藤原工業大学のことは高木先生の生涯を調べ始めるまで知りませんでした。在職中、どのような仕事をしていたのか、具体的なことは何もわかりません。象徴的な存在だったのかもしれません。

 もうひとつの落ち穂拾い。戦後になってからのことですが、昭和26年の日本数学会雑誌、第3巻の第一分冊は高木先生の77歳記念号になりました。発行日は「1951年5月」です。第3巻は二分冊から成り、第二分冊の発行日は「1951年12月」です。
 高木先生の記念号というので寄稿者も厳選された模様ですが、岡先生も寄稿者のひとりになり、第8報「多変数解析函数について ? 基本的な補助的命題」の前半が掲載されました。後半は第二分冊に出ています。第8報が受理されたのは3月15日と記録されています。

京都数学史会議終了

京都数学史会議は昨日、無事に終了しました。講演件数は全部で27件。新人の参加もあり、おもしろい講演が続きました。次は津田塾大学で数学史シンポジウムが開催されます。10月9日と10日です。それからもうひとつ、「九州数学史会議」の企画があります。来年の2月あたりになりそうですが、どのような会議になるのか、京都で話し合いが始まりました。具体的になりましたらお伝えします。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 162. 落ち穂拾い(18)

 高木先生が文化勲章を受けたことにも触れておきたいと思います。昭和15年(1940年)のことで、そのとき高木先生は満65歳でした。文化勲章というと、授与式は11月3日のように思いがちですが、高木先生のときは11月10日でした。昭和15年は皇紀2600年にあたりますので、記念する式典が行われたのですが、文化勲章の授与式もそれに合わせたのでした。
 11月10日、宮中外苑において紀元二千六百年式典が挙行され、翌11日、同じく宮中外苑において紀元二千六百年奉祝会が挙行されました。
 高木先生が受けた分か勲章は第二回目です。同時に受賞したのは西田幾多郎(哲学)、佐々木隆興(生化学、病理学)、川合芳三郎(玉堂、日本画)。午後3時から賞勲局総裁室において授与式が行われました。西田幾多郎は病気のため出席できませんでした。
 当時の新聞に高木先生ほか三名の談話が掲載されています。

高木先生の談話
「光栄の文化勲章を拝受し誠に恐懼感激にたえません。現在第一流の数学者はほとんどアメリカに集っているありさまで、ドイツからもずいぶんアメリカに渡った人が多いが、日本の数学界は何分人も少ないのでまだ国際的水準にまで達しているとは申されないでしょう。数学は直接応用できるものではありませんが、この時局に対して・・・」(朝日新聞,昭和15年11月11日).


西田幾多郎の談話(家人を通して)
「恩師の井上哲次郎先生はじめ諸先輩がいるのに、自分が受賞する事は恐懼感激に堪えない。」(同上)

佐々木隆興の談話
「明治35年東大医科卒業以来アミノ酸と癌生成の研究を続けてきた自分が文化勲章を拝受しまして、責任の重くなった事を痛感。ますます研究を進めなければならぬと思っています。」(同上)

川合玉堂の談話
「一門の光栄これに過ぎるものはない。」(同上)
 
 この後、高木先生は大阪毎日新聞社の招待を受けて大阪で講演し、数の理論の基礎の話をしたという情報がありますが、未確認です。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 161. 落ち穂拾い(17)

 昭和22年にも岡先生は高木貞治に手紙を書いたようで、下書きが遺されています。高木先生からの返信は見あたりませんが、4月18日付の下書きの宛先は東京都新宿区諏訪町182となっています。高木先生は前年、すなわち昭和21年の10月1日に諏訪町に写っていますが、岡先生はそれを承知していたことになります。それならその前後にも手紙のやりとりがあったのでしょう。

13 岡先生から高木先生へ(第一信)
昭和22年4月18日
末尾の日付
「一九四七年四月一八日」

和歌山県伊都郡紀見村から東京都新宿区諏訪町182へ
(抜粋)
・・・私大学ヲ卒業シテ四年間ノ暗中模索ノ後、巴里ニJulia先生ノ所ニ三年居リマシテ、多変数解析函数ノ分野ヲ、其ノ意義及ビ其ノ面白サカラ、研究ノ対象トシテ撰ビマシタ。其ノ後十五年掛ツテ、Behnke-Thullenノ文献目録ニアル問題ハ略々解決シ了リマシタ。此ノコトハ一度先生ニ申シ上ゲマシタ。(尚其ノ始メノ四年間ハ行ケドモ行ケドモ陸地ノ見エナイ航海ノヤウナ苦シサデシタ。私ノ生涯デ一番苦シカツタ頃デゴザイマセウ)。所デ、先生ニ申シ上ゲタイノハ、其ノ本質的ナ部分ハ解イテ了ツタト思ツタ(今デモソウ信ジテ居マスガ)其ノ瞬間ニ、正確ニハ翌朝目ガ覚メマシタ時、何ダカ自分ノ一部分ガ死ンデ了ツタヤウナ気ガシテ、洞然トシテ秋ヲ感ジマシタ。ソレガ其ノ延長ノ重要部分ガ、上ニ申シマシタ様ニ、マダ解決サレテ居ズ容易ニハ解ケソウモナイ、ト云フコトガ分ツテ来マスト、何ダカ死ンダ児ガ生キ反ツテ呉レタ様ナ気ガシテ参リマシタ。本当ニ情緒ノ世界ト云フモノハ分ケ入レバ分ケ入ル程不思議ナモノデアツテ、ポアンカレノ言葉ヲ借リテ申シマスト、理智ノ世界ヨリハ、或ハ遥カニ次元ガ高イノデハナイカトサヘ思ハレマス。

14 岡先生から高木先生へ(第二信と第三信)
二通
表紙1枚(第二信と第三信を併せて、1枚の表紙がついている。)
表紙に、
「高木先生への第二の御手紙 1947.5,9,10(第十八、九日)
(下書きそのまヽ 之は是非一度清書しておくこと)
及ビ第三信(下書き)
1947.5.15」
と書かれています。
(1) 第二信
和歌山県伊都郡紀見村から東京都新宿区諏訪町182へ
本文1-6頁
日付は「一九四七年五月十日」。
午前10時。速達で出す。午後7時半、訂正を書く。
(2) 第三信
本文1-2頁
日付は「一九四七年五月十五日夜」。

15 岡先生から高木先生へ
(執筆されたのは5月20日と思われます。)
「1947.5.21(第三日)」,1-2頁

現在、遺されている岡先生の高木先生宛の手紙と高木先生からの返信はこれで全部です。ほかにもありそうですが、見つかりません。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 160. 落ち穂拾い(16)

 前回の最後に紹介した岡先生の手紙の日付は昭和20年3月7日でしたが、この後、丸一年ほど手紙のやりとりは途絶えます。高木先生は3月7日付の岡先生の手紙を受け取ってからまもなく、一週間後の3月13日の夜更けのことですが、米軍の空襲を受けて自宅が焼失するという変事に遭遇しました。そのためしばらく住所が安定しなかったのですが、終戦後の9月27日には郷里の数屋村にもどっています。正確な住所表記は岐阜県本巣郡一色村数屋です。
 昭和20年3月の時点までに高木先生に宛てて書かれた岡先生の手紙は、ことごとく焼失したことでしょう。
 終戦後第二年目の昭和21年3月、岡先生はちょうど一年後にまた高木先生に手紙を書きました。

9 岡先生から高木先生へ
昭和21年3月3日付
書簡の下書き

謹啓 漸ク梅一輪ヅツノ季節トナリマシタ。先生ニハ益々御清祥ノ御コトト拜察致シマス。私*)ノ其ノ後ノ多変数解析函数ニ関スル研究状況ノ概略ヲ申シ上ゲマス(昨年三月七日ニ改訂第十二報告「Cous inノ第二問題ノ拡張」ヲ御送付致シマシタ以後ノコトデアリマス)。昨年ハ引キ続キ馬齢薯等代用食ノ自給ヤ供出ニ可成リ時間ヲ割カナケレバナラナカツタノデスガ、ソレデモ、何時マデ研究ヲツヅケラレルカ分ラナイト云フ気持ニ緊張シテ居マシタ為カ意外ニ捗リマシテ、今年ノ二月中旬マデニノートデ云ツテ十冊バカリ書キ略々奇望シテ居タ諸結果ガ得ラレマシタ。ソレニ就テ一応理路ヲ檢討シテ見マシタガ、大体間違ツテ居ナイ様ニ思ハレマスカラ(慥カナコトハハツキリ書キ上ゲテ見ナケレバ分リマセンガ、ソレニハ時間ガ掛リマスシ)取リ敢ヘズ其ノ概要ヲ申シ上ゲヨウト存ジマス。

私、第六報告ガ出来マシタ際、其ノ概要(後ニ帝国学士院ヘ御報告致シマシタト同ジモノ)ヲH.Behnke(トH.Cartanト)ニ送リマシタ。ソレニ対シテBehnkeガ、此ノ問題(擬凸状域ハ正則域カト云フ問題、Behnke-Thullen 54頁)ハ30年間解ケナカツタモノデアツテ、此ノ論文は永久二貴兄ノ名ヲ冠スベキ傑作デアルト云ツテ大変褒メテ呉レマシテ、私ノ大学(Bon大学)カラ招ヘイスルカラ、此ノ戦争ガ一段落着イタラ是非来テ欲シイト云ツテ呉レマシタノデ、私モ其ノ気ニナツテ、ソレマデニ充分準備シテ置イテ、少シ長ク滞在シテ、問題ヲ主ニシタ本ヲ書クト面白イカモ知レナイト思ツテ居タノデスガ、間モナク獨ソ戰ガ突発シ、今日ニ及ンデ此ノ案ハ全ク目茶々々ニナツテ了ヒマシタ。
(原註)
*)昨年度モ御推薦ニヨリマシテ幸ヒ風樹会ノ援助ヲ受ケルコトガ出来マシタ。厚ク御礼申シアゲマス。
謹白

 この手紙を受けて、高木先生は3月26日付で返事を書きました。

10 高木先生から岡先生へ
岐阜縣本巣郡一色村數屋から和歌山縣伊都郡紀見村慶賀野へ
昭和21年3月26日付
[本文]
拜啓 時下益々御健勝の御事と存上げます。さて東京帝大宛の貴翰先日上京の節落手。御來示の趣了承しました・・・・・

「岐阜縣本巣郡一色村數屋」という高木先生の現住所が、読む者の目を奪います。

11 岡先生から高木先生へ
昭和21年4月3日
「高木貞治先生
 拜復,御書翰拜讀致シマシタ。」

12 岡先生から高木先生へ
昭和21年4月25日
書簡下書き
「高木先生へ返翰
 拜復、3月26日付ノ御書翰拜讀致シマシタ。」

上記の二通の書簡は同じものだったのかもしれません。同じものというのは変ですが、岡先生は3月26日付の高木先生の書簡に返信しようとして、下書きを試みていたのでしょう。実際に投函されたのは4月25日付の手紙のほうと思います。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 159. 落ち穂拾い(15)

 数学史の研究集会が始まりますので「落ち穂拾い」の余裕もとぼしくなりがちですが、高木先生と岡先生の手紙のやりとりの記録をもう少し続けます。前回は昭和18年の手紙を5通まで記録しました。

6 岡先生から高木先生へ
紀見村から東京市本郷区駒込曙町二十四番地へ
昭和19年12月15日付

7 岡先生から高木先生へ
昭和19年12月31日付
書簡下書き

謹啓 先生には益々御健勝の御ことヽ拜察致しお慶び申し上げます。
十二月二十四日付の御手紙拜讀致しました 色々細い点まで御配慮下さいまして御厚情の程感謝に耐えません 厚く御礼申し上げます。早速御礼申し上ぐべき筈でございましたが、研究の豫定を申し上げ度く存じまして、それに就て少し点檢して居りましたため御・・翰が遅くなつてしまひました。御海容の程を御願ひ申し上げます。多変数解析函数に就きましては今暫く拡張を中心として研究しようと考へます。具体的に申しますと分岐点や無窮遠点をも許容しようと云ふのであります。此の度の拡張は順調に運びましても三年位は掛かるかと存じますが此處まで踏み込んで置きませんと例へば多変数代数函数論への応用がございません(先生には充分御承知のこととは存じますが此の理論は其の基礎の部分さえ殆んど出来て居ない様に思はれます)。
研究は大体次の三つに分けることが出来るかと存じます
一、第一基礎的補助定理の拡張
二、第二基礎的補助定理の拡張
三、其の他の部分
どの程度まで出来ますかは予見致し兼ねます。其の内明年度の課題は(一)でございます。
先は御礼傍々明年度及び以後の研究の予定を申し上げました。よい春を御迎へ下さいます様御祈り申し上げます。
敬具
十二月三十一日
岡潔
高木貞治先生

8 岡先生から高木先生へ
書簡下書き
昭和20年3月7日付

謹啓
寒さも漸く去つて遠近の梅が綻び初めましたが同時に帝都の空も次第に騒がしさを・・・いりましたが先生には昨今如何御起居なされて居られますか。御伺ひ申し上げます。御推挙によりまして本年度も風樹會の援助が受けられることになりました。此の際誠に有難く御厚情の程厚く御礼申し上げます。此の頃では私なども馬齢藷甘藷等を供出しなければなりませんし、代用食副食物等も自作しなければなりません。到底手に入りませんから昨年からは以前の様に思索に没頭することは許されない様になりました。これさえ戴けましたならば農忙期中でも悠々として晴耕雨讀の境涯を楽しむことが出来ます多変数解析函数の分野は既に開拓せられて居る部分こそ狭小ですが、未開拓の部分は実に廣く、地勢の変化にも富んで居ますし、数学の他の藷分科とも充分通達して居る様に思はれます。こんな面白い所をどうしてこれまで打ち捨てヽ置いたのか不思議に思はれます。御庇護によりまして煩はしさから解法していただきまして充分時間に餘裕が出来ましたから、また壺中の別天地に・・・することが出来ます。連想を自由に遊ばせて様々な・・・畫き立てヽは消し消しては描くことも出来ます。或ひは觀察を細やかな問題に注中して造化の姉に驚くことも出來ます。次々と探索の網を拡げて行くのも問題の芽生えを培ふ育てヽ行くことも今から思つても実に楽しみです。先生の御高恩を深く感謝致します。
次に、昨年六月二十二日付御送付致しました「第十二報告 固有集合体の表現」に就てですが、是れは二ヶ所大きく間違つて居ます。一つは第2節の補助定理1であつて今一つは第6節の証明です 尤も其の他にもたとへば第1節の固有集合体の要素の定義の所では「・・を変数と見たときに応じるリーマン面上で一価」とすべきを「固有面上で一価」とした等不注意があるのでございますが、ともかく上述の二つの誤りは簡單には補正出来ません。どうしてこんなに大きく間違つたのか私にも分り兼ねますが多分一つは甘藷植え等の慣れない勞作に從事中でありましたためと今一つは餘り先々と計畫を立てることに專念して足許が少し留守になつて居たからと考へられます。杜撰なものを御目に掛けまして何とも申し訳ございません。辨解めいたことを申し上げまして恐縮致しますが御参考にもと考へたものでございますから、迂括にも此のことに気付きましたのは今年になつてからでございます。所で此の報告の巻末の結果自身は正しい様に思はれますしそれに之をかいては夫以後の計畫が一切駄目になつて了ひます それで何としてでも・・・証明したいと存じまして以後この問題に没頭致しました 其の一半が漸く補正出来ましたから、「第十二報告 Cousinの第二問題の拡張」として別封御送付致します 他半に就てもどうして補正するかと云ふ大体の目算だけは出来た積りでございますが、之から暫く馬齢藷植え等で忙しくなりますから、計畫通りに出来上つたと致しましても、御送付出来ますのは少し遅れるかと存じます。
末筆ながら御自愛專一に・・・下さいます様御祈り申し上げます。
敬具
昭和二十年三月七日

繰り返し申し上げました通り、私は此の研究に充分満足して居るのでございますが、ただ一つ時局と合はない憾があつて其の点がいつも氣に掛ります。それで何か他に先生が痛切と御考へになる研究問題がございましたならば、同時に其の方も併研究致します所存でございますから、其の節は何卒御下命下さいますよう御願ひ申し上げます。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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