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高木貞治 西欧近代の数学と日本 137.  フィールズ賞

 数学会議の実体は講演会ですが、講演ばかりがコングレス(学会)ではありませんと高木先生は話を続けます。チューリッヒの数学会議では、初日、すなわち9月4日の日曜日の夜には参会者のレセプション(歓迎会)がありました。月曜の晩は音楽堂で演奏会、火曜の午後はチューリッヒ湖で舟遊び、木曜は三組の遠足会、土曜の夜は市立劇場でスイス連邦主催の夜会、二度目の日曜日の午後にはドルダーホテルでチューリッヒ市主催のお茶の会がありました。これに加えて毎日のお昼休みが非常に長く、正午から3時まで取ってありましたから、会員たちが相互に自由に語り合う時間がたっぷりありました。高木先生の見るところ、このような配慮こそが数学会議の重要な半面であり、ベターハーフ(良き伴侶)なのでした。
 第一次世界大戦が終結してからこのかた、国際数学者会議は世界の各地で4年ごとに順調に開催されていました。高木先生は第6回目のストラスブルクの数学会議に出席し、類体論をテーマにして講演をしましたが、それは1920年のことでした。次の第7回目はカナダのトロント(1924年)、第8回目はイタリアのボローニャ(1928年)、その次がこのたびのチューリッヒですが、チューリッヒは1897年に第一回目の数学会議の開催地でもありました。
 チューリッヒでの二度目の数学会議では、フィールズ賞が制定されたことも大きなニュースでした。フィールズはカナダの数学者で、1924年のトロントの数学会議の時期にはカナダ王立協会の会長だった人ですが、数学会議の開催のために多額の寄附金を集めました。若い数学者の研究を顕彰し、数学の発展を願うという志の持ち主で、数学賞の創設を構想していたのですが、1932年8月9日に亡くなりました。おりしもチューリッヒの数学会議を一ヶ月後に控えた時期でした。この事態を受けて、トロントの数学会議のために集めた資金の残りを、フィールズの遺志に基づいて提供したいという申し出がカナダからありました。次の第10回目の数学会議は1936年にノルウェーのオスロで開催される予定になっていましたが、そのときから毎回二個の賞牌を「若い数学者」に授与するという趣旨の申し出でした。数学会議ではこの申し出を承認し、1936年までに実行の方法を定めることに決し、そのための委員が指名されました。委員は五人。ドイツのカラテオドリー、フランスのエリー・カルタン、イタリアのセヴェリ、アメリカのバーコフ、それに高木先生です。委員長はセヴェリでした。
 高木先生は固辞したのですが、民族と専門との組み合わせを考えて苦心して銓衡したのであるから受けてほしいという要請に応じ、引き受けることにしました。
 チューリッヒの後、高木先生はパリにもどりました。岩波茂雄宛の手紙を書いたのは9月下旬、所在地はパリでした。これからドイツに入り、ベルリン、ハンブルク、ゲッチンゲンを訪ね、ウィーン、ブダペストあたりまで足をのばしたいという考えでした。10月末にはマルセーユから乗船し、12月はじめに帰朝する予定でした。12月3日、神戸着。高木先生の最後の洋行はこれで終りました。

[補記]
「チューリッヒ連邦工科学校」と表記した学校は、今日の日本語の文献では「スイス連邦工科大学チューリッヒ校」と表記されています。略称は「チューリッヒ工科大学」。ローザンヌに姉妹校があり、そちらは「スイス連邦工科大学ローザンヌ校」です。高木先生は「連邦工芸学校」と表記しています。
 チューリッヒ連邦工科学校に隣接してチューリッヒ大学があります。工科学校は国立ですが、大学は州立です。
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高木貞治 西欧近代の数学と日本 136.  チューリッヒの数学会議

 岩波講座「数学」の第1回配本に収録された高木先生の2通の書簡のうち、一通目の岩波茂雄宛の手紙には、チューリッヒで開催された国際数学者会議の情景が描かれています。高木先生は欧州各国に出張の辞令を受け、7月12日に神戸を出港し、マルセーユに向かいました。大学卒業の直後のドイツ留学、ストラスブルクの数学会議出席をともなう欧米巡回に続き、ヨーロッパ行はこれで三回目になります。8月20日、ナポリ着。数学会議まで日にちに余裕がありますので、曾遊の地をしのぶことにして、ローマ、フィレンツェを経て9月3日、チューリッヒに到着。ここで岩波茂雄からの電報を受け取りました。
 国際数学者会議の会場はチューリッヒ連邦工科学校とチューリッヒ大学で、参加者は41カ国に及ぶ国々から優に800人を越えました。悪性貧血に苦しめられていたヒルベルトもようやく健康を回復したようで、来会しました。会期は9月4日から12日まで。午前中は9時から12時まで工科学校で一般講演が行われました。全部で20個。講演時間は各題目一時間以内。高木先生が書き並べている題目を参照すると、ガストン・ジュリアの講演「複素変数関数論の進展に関するエッセイ」が目に留まります。ジュリアはフランス留学時代の岡潔先生の師匠でした。ほかにカラテオドリー(ドイツの数学者)の講演「多変数関数による解析的写像について」、セヴェリ(イタリアの数学者)の講演「多変数解析関数の一般理論」と、多変数関数論の講演が二つあります。「クロネッカーの青春の夢」に関心を寄せていたフエターの講演もあり、題目は「イデアル論と関数論」でした。
 一般講演は各々の題目に関して数学の現状を大観するというものがあったり、あるいはまた自家の所見を宣伝するというものもあったりで、どれも有益で興味の深いものばかりでした。もっとも高木先生は早起きが得手というほうではありませんので、たいてい11時からの講演を聴いたのですが、水曜日(7日)は座長をせよとのお達しがあったため、この日に限って9時から12時まで聴講を余儀なくされました。そうしたところ、11時より前の講演もまた有益でしかも興味深いものでしたので、他の日の11時前の講演のおもしろさもまた推して知るべしと確信したことでした。高木先生は岩波茂雄に宛てて、こんなふうにおもしろい冗談を言ったりしました。
 午後は月水金土の四日間、すなわち5日、7日、9日、10日のことですが、3次から6時まで大学の教室で8個の分科に分れて講演が行われました。8個の分科の内訳は次の通りです。
 (1) 代数学および整数論
 (2) 解析学
 (3) 幾何学
 (4) 確率論、保険数学、統計学
 (5) 天文学
 (6) 力学、数理物理学
 (7) 哲学、歴史
 (8) 教育

 分科の講演は各題目15分以内でした。


[追記]
ヒルベルトの四篇の論文について、公表された時期をもう少し精密に考証してみます。

1「代数的数体の理論」(「数論報告」)
掲載誌 ドイツ数学者協会年報4、175-546頁、1897年。
序文の末尾に、「ゲッチンゲン、1897年4月10日」と記入されています。「数論報告」は1897年に完成し、その年のうちに公表されたと見てよさそうです。

2「相対二次数体の理論について」
掲載誌 ドイツ数学者協会年報6、88-94頁、1899年。
掲載誌の刊行年は1899年ですが、この論文は1897年にブラウンシュバイクの科学者協会で行われた講演の記録です。「数論報告」の執筆に伴って、その後の数論の歩みを思索していたのでしょう。

3「相対二次数体の理論について」
掲載誌 数学年報51、1-127頁、1899年
ブラウンシュバイクでの講演の内容を全面的に展開した長篇です。掲載誌の刊行年が1899年となっていますが、これは数学年報51の第4分冊の刊行が1899年に食い込んだためです、ヒルベルトの論文は第1分冊に掲載されました。その発行日は1898年9月20日です。
「数論報告」の序文が1897年4月10日。それから丸一年程度の歳月をかけて相対二次数体論を書き上げたのでしょう。

4「相対アーベル数体の理論」
掲載誌(1) アクタ・マテマチカ26、99-132頁、1902年
掲載誌(2) ゲッチンゲン科学協会報告370-399頁、1898年
この論文の初出は1898年のゲッチンゲン科学協会報告です。1902年のアクタ・マテマチカに再掲載されましたが、両者はまったく同じというわけではなく、序文など、だいぶ書き直されています。論文の主旨は同じです。ヒルベルトの全集の巻1にはアクタ・マテマチカに掲載された改訂版が収録されています。

 このような状況に鑑みますと、ヒルベルトは「数論報告」のための調査と執筆を通じて類体論のアイデアをつかみ、「数論報告」の完成から時を置かずに「相対二次数体論」と「相対アーベル数体論」の二篇の論文書き上げたと判断されます。本来のねらいは「相対アーベル数体論」にありましたが、構想を表明し、主立った諸命題を配列するだけに留まりました。「相対二次数体論」は「相対アーベル数体論」のための言わば瀬踏みのような作品です。
 数学年報51の刊行が1899年となっていたり、「相対アーベル数体論」が1902年のアクタ・マテマチカ26に掲載されていたりしているため、「数論報告」とその後の二論文の間に相当の隔たりがあるような感じがしたのですが、それは錯覚にすぎないことを、ここで強調しておきたいと思います。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 135. 新たな著作活動のはじまり

 数学研究とは別の方面に目を向けると、昭和初年ころから新たな著作活動が始まっています。昭和3年(1928年)はアルチンの一般相互法則の論文が発表された年(1927年)の翌年ですが、この年の4月から共立社の企画により「輓近高等数学講座」の刊行が始まりました。全18巻で構成され、昭和4年(1929年)10月までに完結しました。高木先生はこの講座のために「数学雑談」を分載しました。共立社は今日の共立出版の前身です。
「輓近高等数学講座」の完結に続いて、昭和5年(1930年)1月から「続輓近高等数学講座」と銘打って講座の続篇の刊行が始まりました。今度は全16巻で、昭和6年(1931年)11月までに完結しました。高木先生は「近世数学史談」と「続数学雑談」を執筆しました。この二つの講座を皮切りに、高木先生の活発な著作活動が始まりました。若いころからすでに『新撰算術』や『新撰代数学』や「新式算術講義」などを出していたのですが、その後は教科書の執筆が見られるだけに留まりました。この時期の高木先生は類体論に向けた思索に打ち込んでいたのですが、主要な二論文が完成して類体論研究に区切りがついたころを境にして、新たに教科書以外のさまざまな著作が現れはじめました。これをひとことで評すると、それらの作品には数学研究の体験が色濃く反映しています。どのひとつも長い期間にわたって読者が絶えず、没後50年の今も読み継がれています。
 昭和5年には『代数学講義』(共立社)が刊行され、昭和6年には『初等整数論講義』(共立社)が刊行されました。
 昭和7年の高木先生は満57歳ですが、この年の4月から大学で「解析概論」の講義を始めました。有名な著作『解析概論』(岩波書店)の根幹を作ることになる講義です。この年、7月12日から12月3日まで、欧州各国に出張に出かけました。これで三度目のヨーロッパ行になりますが、9月5日から12日まで、チューリッヒで開催された第9回国際数学者会議に日本学術研究会議代表として出席しています。これについては前に多少のことを報告したことがあります。 出張中の11月には岩波書店の新企画として岩波講座「数学」の配本が始まっています。岩波書店の店主の岩波茂雄の発案で実現した企画ですが、高木先生も協力を惜しみませんでした。11月に第一回目の配本があり、以後、月に一回ずつの目安で配本が続き、昭和10年8月、第30回目の配本があって完結しました。高木先生は「解析概論」と「代数的整数論」を執筆しました。
 高木先生は第一回目に配本された第1巻に「書信」という原稿を寄せました。二通の手紙で構成されていて、一通目は岩波茂雄宛で、チューリッヒの数学会議の状況報告です。末尾に
 「九月下旬 ぱりニテ」
と記入されています。もう一通は「S君」宛で,ヒルベルト訪問記です。1932年10月8日にゲッチンゲンにおいて執筆したと明記されていますが、高木先生はこの日、エミー・ネーターの案内を得て、ヴィルヘルム・ウェーバー通りに住む旧師のヒルベルトを訪問したのでした。「S君」というのは末綱恕一のことであろうと思います。
 岩波講座「数学」の「月報」にも4回にわたって記事を寄せています。題目のみ挙げると、次の通りです。
1 「解析概論について」 第5回配本(昭和8年4月) 末尾に記された日付は「昭和8年2月28日」.
2 「涓滴」 第10回配本(昭和8年9月)
3 「代数的整数論について」 第19回配本(昭和9年6月)
4 「終刊に際して」 第30回配本(昭和10年8月)

高木貞治 西欧近代の数学と日本 134.  第二論文の執筆時期について

 ヒルベルトの「数論報告」はガウス以降の19世紀のドイツの数論史を俯瞰して、行く末を展望しようとする作品でしたが、ヒルベルトは数論を完成の域に高めるための具体的なアイデアも同時に提案しました。それが「類体論」だったのですが、これを実現したのが高木先生でした。ヒルベルトが心に描いた類体論は本当に存在することが明るみに出されたのですが、その直後にアルチンが発見した一般相互法則は、さながら画龍点睛のような働きを示しました。
 ヒルベルトの「数論報告」が刊行されたのは1897年でした。それからおおよそ30年の後、1926年から1930年にかけてハッセによる「数論報告」が現れて、ハッセの目に映じた類体論の姿が精密に描写されました。ヒルベルトが心に描き、高木先生が実現した類体論の目標は一般相互法則と「クロネッカーの青春の夢」だったのですが、これらが二つとも解決された今、数論はそれからどのような道を進んでいったのでしょうか。
 ハッセの「数論報告」以降、すでに80年の歳月が流れました。今度はハッセが報告した類体論そのものが研究の対象となり、理論構成の整理整頓がさまざに工夫されました。類体論の高次元化や非可換化など、一般化の試みも盛んに行われています。では、高木先生自身はどうしていたのでしょうか。
 高木先生の没後、昭和48年(1973年)に欧文論文集
 ”The Collected Papers of TEIJI TAKAGI”(岩波書店)
が刊行されましたが、ここには計26篇の論文が収録されています。通し番号がついていて、類体論の第一論文は13番目、第二論文は17番目に位置を占めています。第二論文が公表されたのは1922年で、その後もなお9篇の論文が並んでいますが、みな短篇です。論文集の本文は計266頁。第二論文までで216頁で、ここまでで81パーセントを占めています。一番最後の第26番目の論文の刊行は1945年、すなわち昭和20年で、学士院紀要、第21巻に掲載されたのですが、刊行は3月12日と記されていますから、戦争のさなかの作品です。この直後の昭和20年4月13日の深夜、米軍の東京空襲により都内本郷区駒込曙町24番地にあった高木先生の自宅は焼失し、疎開を余儀なくされるという大変事に遭遇しました。
 論文の実際の執筆と公表年との間には少々のずれが見られるのが普通ですが、気のついたことを少々書き留めておきますと、第一論文の末尾には
 “Abgeschlossen im Februar,1920”
と記されています。1920年2月に書き終えたという意味の言葉です。この論文は日本を離れる直前の6月末まで書き続けたと前に報告しましたが、正確には2月までに完成していたことがわかります。ここはちょっと不注意でした。黒田成勝先生のエッセイ「高木貞治先生を敬慕して」を参照すると、「論文の校正を大急ぎで済ませて、別刷の発送を頼んで」ストラスブルクに旅立ったという事情が紹介されていて、黒田先生はこれを1930年代になってうかがったということです。論文を投稿しても校正をしなければ掲載にいたりませんから、執筆が完了したのは2月でも、校正刷が出て点検がすむまでに6月末までかかったということと思われますが、これならよくわかります。執筆完了が6月末になったというのはまちがいでした。
 もうひとつ、これは今度はじめて気づいたのですが、第二論文の末尾には
 “Abgeschlossen im Juni,1920”
と記されています。1920年6月に執筆が完了したという意味ですが、そうしますと日本を離れる直前まで書き続けていたことになります。欧米巡回を終えて帰国したのは1921年の5月、第二論文が東大の紀要に掲載されたのは翌1922年ですから、第二論文の執筆に取り掛かったのは帰国してからのことのように何となく考えていたのですが、事実はそうではなく、実際には二篇の論文は同時にできあがったのであり、合わせて一篇の論文が二分されて発表されたと見るべきであろうと思います。類体論という土台を構築して、そのうえに一般相互法則と「クロネッカーの青春の夢」の解決を打ち立てていくというのが高木先生の数学的構想だったのですから、二論文が不即不離の関係で結ばれているのは当然のことと言わなければならないところです。

[追記]
高木先生がストラスブルクの国際数学者会議で類体論を発表したとき、高木先生はフランス語で書いた講演用のノートを読み上げました。そのノートは欧文論文集に収録されています。第14番目の論文(168-171頁)です。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 133. ヨーロッパに根づく類体論

 高木先生の類体論はストラスブルクの数学会議ではじめて公表されましたが、ドイツの数学者が不在だったためか、当初は何も反響がありませんでした。ところがストラスブルクの会議の後、ハンブルクに出向いてみると、女性の助手が第一論文の別刷りを読んでいました。高木先生が思うに、その女性は後のエミール・アルチン夫人だったろうということでした。この話は前回引用した黒田成勝先生のエッセイに出ています。
 ゲッチンゲンでジーゲルのうわさを聞いた高木先生は、帰国後、ジーゲルのもとに第一論文の別刷りを送付しましたが、あるとき、というのは1922年になってからまもないころのことのようですが、ジーゲルはアルチンに高木先生の第一論文の別刷をわたし、読むようにとすすめました。アルチンはこれを受けて第一論文を読み、深く感動し、高木先生に依頼して第一論文の別刷を送ってもらいました。ジーゲルから拝借したのですが、自分のものも欲しかったのでしょう。第二論文の別刷も送られてきました。
 アルチンは1898年3月3日、オーストリアのウィーンに生まれました。第一次世界大戦中にウィーン大学に入学し、召集を受けて兵役につき、戦後、ライプチヒ大学で学位を取得しました。それから1921年から1922年にかけての一年間ほど、ゲッチンゲン大学に滞在しましたが、ジーゲルに高木先生の論文をすすめられたのはこの時期のことですから、満年齢でいうと23歳から24歳にかけてのことになります。1922年の秋10月、ハンブルク大学の助手になり、翌年にはハビリタツィオーンも取得して私講師になりました。
 アルチンは高木先生の第二論文にヒントを得て、1927年に「一般相互法則の証明」(ハンブルク大学数学セミナー論文集、第5巻、353–363頁)という論文を公表しました。これで相互法則は一段と完成度が高まったような感じになったのですが、そのためか、類体論は「高木、アルチンの類体論」と称されることもあります。
 アルチンにすすめられて高木先生の論文を読んだ人にヘルムート・ハッセがいます。ハッセは1898年8月25日、ドイツのヘッセン州北部の都市カッセルに生まれました。ベルリンのギムナジウムに学んだ後、海軍に志願して戦中をすごし、それからゲッチンゲン大学に入学し、さらにマールブルク大学に移ってヘンゼルのもとで学位を取り、続いてハビリタツィオーンも取得しました。1922年、キール大学講師。三年後の1925年にはハレ大学の教授に就任し、この年、ドイツ数学者協会の年会で「類体論の最近の発展について」という講演を行いました。内容はもっぱら高木類体論の紹介でした。高木先生の第一論文を読んだのは1923年ころのようですから、この間、二年ほどかけて高木類体論を研究したのでしょう。
 高木先生の論文を研究したアルチンは「アルチンの相互法則」を発見しましたが、ハッセはどうしたかといいますと、
 「代数的数体の理論の新しい研究と諸問題に関する報告」
という長大な報告書を作成しました。この報告は三部構成で、
 第一部 類体論 ドイツ数学者協会年報 第35巻(1926年)、1-55頁
 第二部 証明 ドイツ数学者協会年報 第36巻(1927年)、 233-311頁
 第三部 相互法則 ドイツ数学者協会年報 別巻6(1930年)、1-204頁
というふうに、完結までに五年を要しています。主役を演じるのは高木先生の類体論とアルチンの相互法則で、高木先生の数学者としての名声はこの報告により確立したと言えるのではないかと思います。
 類体論への関心はフランスにも生まれ、クロード・シュヴァレーとジャック・エルブランという二人の人物が現れました。シュヴァレーは1909年、エルブランは1908年の生まれで、ジーゲル、アルチン、ハッセが第一次世界大戦の戦中派の世代であったのに対し、シュヴァレーとエルブランは戦後の世代になります。もっともフランスに唐突に整数論が芽吹いたというわけではなく、シュヴァレーはパリのエコール・ノルマル・シュペリュールを卒業した後、ドイツに留学し、ハンブルク大学でアルチンに学び、マールブルク大学ではハッセのもとで学んでいます。エルブランもシュヴァレーと同じくパリのエコール・ノルマル・シュペリュールの出身ですが、卒業後、やはりドイツに留学しました。ハンブルクではアルチンに学び、ゲッチンゲンではエミー・ネーターに学んでいます。
 高木先生の類体論は、こんなふうにしてヨーロッパの地に根づき始めました。ジーゲルに送付した第一論文の別刷が端緒を開き、アルチン、ハッセ、シュヴァレー、エルブランたち若い世代の人たちの手にバトンがわたり、類体論の波頭は次第に広がっていきました。


[落ち穂拾い]
「高数研究」第5巻、第8号(昭和16年5月1日発行)に「高木貞治 掛谷宗一 両博士縦横対談記」という記事が出ていますが、藤澤先生の思い出も話題になっています。高木先生が披露しているエピソードのひとつを紹介しておきます。

高木
此方も若かったけれども、後で考えて笑ったんだが、何時もいろいろなことをいって田舎から出て来たものの度肝を抜くんだ。君は何処だという。僕は岐阜県ですというと、元亀、天正の頃にあの辺から英雄が出ましたねというからびっくりしてしまった。(笑声)

元亀、天正のころ、岐阜のあたりから出た英雄というと、織田信長のことでしょうか。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 132.  ゲッチンゲンでジーゲルのうわさを聞く

 高木先生の欧米巡回はストラスブルクの数学会議の後も続きました。ストラスブルクからパリにもどり、スイス、イタリアを経てドイツに行き、ゲッチンゲンではヒルベルトとランダウに会いました。ゲッチンゲンではジーゲルのうわさを耳にしました。ジーゲルは1896年12月31日、ベルリンに生まれた人で、はじめベルリン大学に学び、それから1919年になってゲッチンゲン大学に移ったばかりでした。高木先生は実際にジーゲルに会ったのかどうか、単にうわさを聞いただけなのかどうか、そのあたりの消息はわかりませんが、帰国後、ジーゲルのもとに第一論文の別刷を送ったほどですから、何かしらよほど強い印象を受ける出来事があったのでしょう。
 ドイツではベルリンとハンブルクにも行き、それからイギリス、アメリカを経て帰国しました。日本に到着したのは大正10年5月13日です。高木先生は東大では第三講座(代数学)を担当していたのですが、留守中は東北帝大の藤原松三郎が非常勤講師として代数学を講じました。
 大正9年には、数学科に新たに第五講座が設置されました。第五講座は幾何学の講座で、担当者は中川銓吉です。大正10年の秋10月、藤澤先生は満60歳になり、停年制度により退官しました。
 帰国した年の翌年の大正11年(1922年)、高木先生の類体論の第二論文「任意の代数的数体における相互法則」をが公表されました。第二論文のテーマは一般相互法則で、第一論文の類体論を基礎にして相互法則の姿形が解明されています。「クロネッカーの青春の夢」は第一論文の段階ですでに解決されていますから、ヒルベルトが表明した夢のような数学的世界が、こうしてすっかり実在のものとなりました。リーマンの一変数関数論も二篇の論文で構成されていますが、そこではまずはじめにリーマン面のアイデアが提示されて基礎理論の構築が行われ、続いてその基礎理論を土台にして「ヤコビの逆問題」が解決されました。このようなところに着目すると、高木先生の二論文はリーマンの二論文と非常によく似ています。

[追記1]
黒田成勝先生のエッセイ「高木貞治先生を敬慕して」(「科学」、第30巻、第5号、1960年5月、岩波書店。『追想 高木貞治先生』に再録)を参照して、書き落とした諸事実を少々付け加えておきたいと思います。
 高木先生が欧米巡回のため日本を離れたのは大正9年(1920年)7月8日ですが、このときの出港地は神戸で、乗船したのは日本郵船の阿波丸でした。
 1925年にヒルベルトから手紙があり、類体論の第一論文を数学年報に掲載したいという申し出を受けましたが、高木先生はこれに応じ、一夏をかけて読み直し(ということは、手紙が届いたのは夏の前の6月あたりのことになるのでしょうか)、原著の別刷に多少手を入れて送付したということです。「数学年報」には掲載されませんでした。

[追記2]
ウェーバーの論文「代数体における数群について」はドイツの数学誌「数学年報」に掲載されましたが、執筆時期や掲載時期について、もう少し精密に観察しておきたいと思います。「数学年報」は「年報」という名の通り一年ごとに一巻が刊行されるのが原則ですが、いつも原則通りというわけにもいかないようで、ときどき年数が重複します。また、一巻がまとまった形で刊行されるのではなく、4回に分けて分冊が出るのですが、これもまた毎年きちんと4冊というのはむずかしく、しばしば合併されます。
 「数学年報」の原語は”Mathematische Annalen(マテマティシュ・アナーレン)”です。
 ウェーバーの論文は三回に分けて公表されました。第一論文の掲載誌は「数学年報」の巻48で、これは「1897年」の年報ですが、分冊の状況は次の通りです。
 第1分冊と第2分冊は合併 1896年9月11日刊行
 第3分冊 1896年12月22日刊行
 第4分冊 1897年1月19日刊行
 第4分冊の刊行が1897年に食い込んでしまいましたので、巻48は「1897年の年報」とされています。ウェーバーの論文は第4分冊に掲載されました。論文の末尾に「1896年8月31日」という日付が記入されています。
 第一論文は全41頁の論文です。
 ウェーバーの第二論文は「数学年報」の巻49の第1分冊に掲載されました。巻49は正真正銘の「1897年の年報」で、4冊の分冊はすべて1897年内に刊行されました。第1分冊の発行日は1897年3月5日です。第二論文は18頁。そのものには日付の記入はありません。
 第三論文は巻50の第1分冊に掲載されました。第1分冊の発行日は1897年12月21日ですが、巻50は「1898年の年報」です。第2、3分冊は合併号になって1898年4月1日に発行され、第4分冊は1898年7月22日に発行されました。第三論文は26頁。末尾の日付は「1897年3月」。連作三篇を合わせると85頁になります。
 このような状況を観察すると、ウェーバーの論文「代数体における数群について」は1896年8月から翌年3月まで、8ヶ月ほどの間に執筆され、1897年の年初から年末までの間に世に出たことがわかります。「数学年報」の巻数だけを見ると1896年から1898年まで、二年の歳月をかけて執筆されたような印象を受けるのですが、それはささやかな錯覚であることをここで指摘しておきたいと思います。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 131.  高木先生の講演

 ストラスブルクの国際数学者会議の場での高木先生の講演の模様を伝えてくれるのは、高木先生の「回顧と展望」と小倉金之助の談話です。本田欣哉先生のエッセイ「高木先生の伝記」(『追想 高木貞治先生』所収)によると、本田先生は昭和36年4月27日に小倉金之助にインタビューしたということです。そのとき採集した情報は、本田先生が日本評論社の数学誌「数学セミナー」に連載した作品「高木貞治の生涯」の第5回(数学セミナー、1975年5月号)に紹介されています。
 本田先生の記事を参照し、適宜補いながら高木先生の講演の模様を再現してみたいと思います。高木先生は8月20日ころ,マルセーユに到着し、そのままパリに向かってオテル・ディエナに宿泊しました。ちょうど小倉金之助は留学してパリに滞在中だったのですが、この時期のパリには小倉のほかに園正造と阿部八代太郎(あべ・やよたろう)がいました。園は京都帝大の数学者で、河合十太郎とともに岡先生の数学の師匠でもあった人です。京大の学生だった岡先生に、高木先生とその類体論の話をしたこともあり、岡先生は深い感激をもってうかがったと伝えられています。阿部は数学教育の方面で著名な人物です。
 高木先生の講演はフランス語で行われたのですが、パリで日本大使館の世話を受けてフランス語の先生を見つけてもらったのだそうです。
 ある日の夕方、小倉、園、阿部の三人はホテル.ディエナに高木先生を訪ね、夕食をともにしました。その席で高木先生がストラスブルク数学会議にいっしょに行こうと誘ったところ、阿部と園は帰国直前で忙しいということで断りましたが、小倉は承諾し、急いで申込みをしました。
 数学者会議は9月22日が開会式でした。高木先生はその数日前にストラスブルク着。宿泊先はメサンジュ通りのヴィル・ド・パリ。小倉は会議の直前に到着し、駅前広場に面したオテル・クリストフに投宿しました。講演は9月25日の午前10時ころからで、小さい教室でした。講演の題目は「代数的な数の理論のいくつかの一般定理について」。座長はアメリカの数学者ディクソン。聞き手は50人ほどで、中にフエター、アダマール、アイゼンハルト、D.E.スミスなどがいました。高木先生は黒板に何も書かず、フランス語の原稿を読み続けました。終了後、10分ほどの質疑応答の時間が設けられていましたが、質問する人はありませんでした。
 本田先生の伝える小倉の回想は以上の通りです。高木先生の「回顧と展望」に基づいてもう少し補いますと、初日の9月22日の夜、レセプションがあったのですが、高木先生の近くで「あの日本人が整数論の話をするというではないか。たぶんフェルマをやるんだろう。こいつはおもしろいぞ」などという私語が聞こえました。これには高木先生も苦笑しました。
 高木先生の講演を聴いていた人のうち、フエターは「クロネッカーの青春の夢」の解決をめざして「虚二次数体におけるアーベル方程式」という論文を書いた人ですから、高木先生の講演に関心を示す可能性がありました。ゲッチンゲン大学でヒルベルトの指導を受けて学位を取得した人ですが、故郷はスイスのバーゼルですから、今度の会議に参加することができました。素数定理を証明したことで知られるフランスの数学者アダマールも、高木先生の講演の聴講者でした。高木先生はアダマールには期待をかけていたようで、「彼は問題を理解する。興味をもつか、もたんかは知らんが、問題を理解する人である」と書いています。実際には反響は何もありませんでした。講演は15分ほどです。
 ストラスブルクの数学会議の終了後、翌年のことになりますが、高木先生は1921年にハンブルグに行きました。この時期のハンブルク大学にはヘッケとブラシュケがいました。高木先生の論文の別刷が届いていて、女性の助手がそれを読んでいるのを高木先生は見ました。それで、類体論を一番早く読んだのはハンブルクだったろうと、高木先生は思いました。
 それならヒルベルトは読んだのかどうかといいますと、1925、6年ころのことですが、高木先生のもとにヒルベルトから手紙が届いたのだそうです。何でも代数的整数論の講義をしたとかするとかいうことで、ついては高木先生の論文を「はじめて読んだ」と書かれていて、そこのところに”ausführlich(アオスフューァリヒ)”と書き入れがありました。高木先生が思うに、1920年に受け取った論文を1925年になってはじめて読むというのではあまりに気の毒だから、「はじめて詳しく読んだ」ことにしたのではないかというのですが、たぶんそんなところだったのでしょう。この「詳しく」という一語の書き込みは高木先生もおかしかったようで、ヒルベルトもああ見えてもなかなか細心なところがあると思いました。
 ヒルベルトの手紙の主旨は、高木先生の論文を「数学年報」に転載したいという申し出だったのですが、断ったのかどうか、これは実現しませんでした。
 それでヒルベルトは高木先生の論文を読んで代数的整数論の講義をしたのかどうかということですが、講義が行われたのであれば、筆記録がとってあるでしょうから、それを見た人がいるのかどうか、高木先生も未確認ということです。ヒルベルトの伝記にも出てきませんし、おそらくこの講義は実現しなかったのではないかと思います。1925年というと、ゲッチンゲンでは6月21日にヒルベルトの同僚のクラインが亡くなっています。満76歳でした。ヒルベルトはヒルベルトで健康がすぐれず、この年の秋には悪性貧血という病名が判明しました。不治の病と見られていた難病でしたし、ヒルベルトも余命いくばくもないという状態に陥ったのですが、ちょうどこの年にアメリカで新しい治療法が発見され、そのおかげで健康が回復しました。まったく幸いなことでした。

[追記]
高木先生は最初の洋行のおり、横浜で見送ってくれた藤澤先生から、ヨーロッパに着いたら「マケロー」という料理を食べてみるようにとすすめられたことがあります。最初の洋行のときは試してみる機会が無かったのですが、後日、パリの大衆食堂で食べました。それは、1920年のストラスブルクの国際数学者会議のときのことだったろうと思います。マケローというのは焼き鯖の料理です。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 130.  数学会議の情景

 ストラスブルクの数学者会議は四部門に分れ、毎日午前9時から12時まで、各々の部門で同時に講演が行われました。出席者たちは銘々お好みに応じて好き勝手な部門のおもしろそうな講演を聴講するのですから、聴講者があふれる講演もあれば、講演者ひとりに聴講者ひとりなどという講演もあったそうです。講演時間は制限されて、ひとり20分以内と決められました。
 午後は各部門に分れることはなく、全員が集って、イギリスのラーモアの相対性理論の話とか、ベルギーのド・ラ・バレ・プサンの集合論的関数論の話など、4人か5人ほどの著名な数学者たちの講演を聴講しました。また、毎日レセプション、茶話会のようなものがひとつか二つ必ずありました。市とか総督とか大学の学友会、あるいはまたアルザスの理学協会(ストラスブルクはアルザス・ロレーヌ地域の中心地です)とかが主催するのですが、みな思い思いに参加して自由に言葉を交わしました。遠足も3、4回あり、ストラスブルクの数学者の案内を受けて市内や附近の旧跡名所を見物しました。こんなふうにして相互の親睦をはかろうとするのですが、これはたいへんけっこうなことで、日本でも大いにこの流儀を取り入れたらよいのではないかと高木先生は言い添えました。教室で講義を聴くというような窮屈なことにあまり時間を取ったりしないで、どうせ大勢の人が同じことに興味をもつことはむずかしいのだから、それよりも相互に自由に話し合う機会を増やすようにしたいというのでした。
 国際数学者会議は1897年にスイスのチューリッヒで開かれたのが第一回で、その次は三年後の1900年にパリで開催されました。パリの会議ではヒルベルトの「パリの講演」がありましたし、高木先生の記憶では、国際数学者会議はこの第二回目の会議から有名になりました。第三回以降は四年ごとに開催されることになり、第三回目(1904年)の開催地はドイツのハイデルベルク、第四回目(1908年)はイタリアのローマ、第五回目(1912年)はイギリスのケンブリッジでした。その次の第六回目は1916年にスウェーデンのストックホルムで開催されることになっていたのですが、第一次世界大戦のため国際会議としては成立せず、高木先生の記憶ではこの年は北欧諸国の数学者たちだけの集りになったのだそうです。
 それで本当なら今度のストラスブルクの会議は第七回目に数えるべきところ、ストックホルムの会議は勘定に入れませんので、第六回目ということになっています。ただし、会議の性格は大きく変わりました。というのは何分にも大戦の直後のことで、フランスは戦勝国、ドイツは敗戦国と明暗が分れましたので、ドイツとオーストリアの数学者はストラスブルクの会議には招かれず、連合国側の諸国と中立国の数学者だけの集まりとなりました。それに、今後も四年ごとに開会することは前の取り決めの通りですが、当分の間、ドイツとオーストリアの側の数学者たちには出席案内を出さないことにもなりました。高木先生はこの状勢を的確に指摘して、「少し性質の異った第一回万国数学会が開かれた訳であります」と報告しています。
 アルザス・ロレーヌ地域は長い歳月にわたってフランスとドイツの係争地でしたし、その中心地のストラスブルクが今度の会議の開催地に選定されたのは、そのこと自体にすでにドイツ排除の色彩が鮮明に現われています。ドイツ側にはドイツ側の不満があり、万国と名づけるのは不当である、組織が変化したのに同じ名前をつけるのは不可であるという抗議を行ったということです。「世界中の学者が戦争中の感情を棄てて戦前通り円満に交際するというのとは正反対の傾向」が現われているのですが、このように述べた後に高木先生は「誠に遺憾に思われます」と所見を付け加えました。国と国との間に発生する政治上の争いはそれはそれとして、学問は学問として万国の数学者たちが平和裡に話し合いを深めてほしいというほどの、率直な感情の表明です。それに、広くヨーロッパ諸国を見渡しても、代数的整数論の研究が行われているのはほとんどドイツだけでしたし、ウェーバー、ヒルベルトを通じてガウス以来のドイツの数論の系譜を継ごうとする高木先生にとって、そのドイツの数学者たちの姿が見られない国際会議はやはり物足りなかったのではないかと思われます。
 この時期のフランスでは、ドイツとの学術上の交際を断つということが新聞や書籍で盛んに論じられていました。ではありますが、学術上の交際は出版物を通じて行われることが多いのですし、ドイツ人の著作だから読まないということはなく、ドイツの書物はフランスにもだいぶ入ってきていました。ドイツ側との交際を断つというのは出版物の交際を断つということではなく、ドイツの書物はフランスで熱心に迎えられ、戦時中にドイツでできた新しい数学の雑誌なども盛んに読まれているということです。
 フランスの状況はどうかというと、経済上の事情により出版が非常に困難になっていて、定期刊行物なども休刊になったり廃刊になったりするものが多く、規模を小さくするものもあるとのこと。全集のような大きな出版物も当分延期を余儀なくされるような状況ですし、重大な問題になっているということです。他方、フランスの社会では古典文学と並んで数学が非常に尊敬されていて、一般社会の数学に対する理解が深いことは日本の及ぶところではないと、高木先生は痛切に感じました。今度の数学会議なども社会の評価は非常に高く、ストラスブルクでは開催地になったことを市の名誉と考えているということで、このようなところは日本としても大いに鑑みるべきではないかというのが高木先生の所見です。
 高木先生の報告はおおよそこんなふうですが、最後に「因にいう」として、御自身の講演のことを言い添えました。日本からの出席者は高木先生と小倉金之助の二人で、二人とも講演しました。小倉金之助の講演はインターポレーション(補間法)の理論についてのものでした。高木先生は「整数論に関する研究の結果」を披露しましたが、それは類体論の完成と「クロネッカーの青春の夢」の解決を告げる一番はじめの講演でした。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 129.  ストラスブルクの国際数学者会議

 高木先生の類体論の第一論文「相対アーベル数体の理論」は大正9年、すなわち1920年の東大の紀要に掲載されたのですが、もう少し精密に観察すると、その掲載誌が刊行されたのは7月の末日のことでした。ところがそのとき高木先生はすでに日本にはいませんでした。「回顧と展望」によると、大学教授の欧米巡回ということで出張を命じられたのですが、この年はストラスブルクでちょうど第6回目の国際数学者会議が開催される年にあたっていました。そこで高木先生はこの場を借りて類体論を発表しようという考えに傾いたようで、間に合わせるために急いで論文を書き上げました。出発前に印刷できれば別刷を持参することができたのですが、間に合わなかったため、後から送ってもらいました。
 ストラスブルクの大学にはかつて藤澤先生が滞在していたことがありました。晩年のハインリッヒ・ウェーバーがいましたので、高木先生も一時はベルリンからストラスブルクに移ろうとしたことがありました。そのころはドイツ領だったのですが、第一次世界大戦でフランスが勝ち、ドイツが負けたため、フランス領になりました。それで呼び名もフランス風にストラスブールと表記するほうがよさそうにも思いますが、高木先生は相変わらず「すとらすぶるぐ」「スロラスブルグ」と表記していますので、ここでもストラスブルクのままにしておきたいと思います。
 ウェーバーは世界大戦の直前の1913年に満71歳で亡くなっています。
 このときの高木先生の出張は非常に長期にわたり、帰国したのは翌年、すなわち大正10年(1921年)の5月13日のことでした。同年7月、東京高等師範学校で開催された日本中等教育数学会第三回総会の場で「すとらすぶるぐニ於ケル数学者大会ノ話」という演題を立てて講演を行い、国際数学者会議の模様を報告しました。「日本中等教育数学会雑誌」第3巻(1921年,113-116頁)に講演記録が掲載されていますので、これを基礎にして会議の模様を簡単に振り返ってみたいと思います。
 9月22日、大学の大講堂で開会式がありました。司会をつとめたのは大学の総長です。翌23日から27日まで講演が続きました。講演は下記のような四部門に分れていました。

 第一部 整数論、代数学、および関数論
 第二部 幾何学
 第三部 応用数学
 第四部 数学の歴史、教授法

少ない部門では出席者は12、3名ほどでしたが、多い部門では34、5名ほどの聴講者がありました。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 128. 類体論の主論文

 第一次の世界大戦が始まったのは大正3年(1914年)の夏7月、終結したのは大正7年(1918年)の秋11月になってからですから、丸々4年以上も戦争状態が継続したことになります。この間、満39歳の高木先生は満43歳になっていましたが、ちょうど世界大戦が始まった年から短い論文を書き始め、5篇に及びました。これらはすべて類体論の主論文のための助走と見るべき作品です。
 高木先生の類体論は二篇の論文で構成されています。第一論文は大正9年(1920年)の作品「相対アーベル数体の理論」、第二論文は大正11年(1922年)に公表された作品「任意の代数的数体における相互法則」で、ともに東京帝国大学理科大学紀要に掲載されました。第一論文の掲載誌は第41巻で、第1頁から第133頁までを占める長篇です。第二論文は第44巻に掲載されましたが、これも第1頁から第50頁までを占めています。二篇を合わせて183頁という、堂々たる大作です。
 高木先生は「回顧と展望」において類体論建設の苦心談を披瀝していますので、ここで紹介しておきたいと思います。類体論は、あれはヒルベルトにだまされたのですと、高木先生はおもしろい話から話し始めました。ヒルベルトの類体は不分岐な類体で、ヒルベルトはいつも不分岐ということをいうのですが、代数関数は何で定まるか、リーマン面で定まる、という立場から見れば、不分岐ということは非常な意味をもつような気がしないでもありません。「不分岐」ということは代数関数の場合には見られない現象だからです。ヒルベルトは代数関数論と代数的整数論の間に認められる親密な関係に着目し、強く心を惹かれた人ですので、数体の拡大の際に現われる不分岐という現象に特殊な意味をみいだそうとするのは自然な成り行きではないかと思われるのですが、実際にヒルベルトがそんなふうに思っていたのかどうか、実はそこはわからないのです。わからないのですが、高木先生はヒルベルトの言葉を聞いてそんなふうに思わされてしまったのだというのです。
 ところが、世界大戦の時代に入ってヨーロッパから本が来なくなったとき、不分岐などという条件を捨ててしまって自分でやってみると、というのはつまりヒルベルトの不分岐類体の概念を拡大して「分岐する類体」というものを考えてみたということなのですが、そうしたところ「アーベル体は類体である」という事実に出会いました。あまりにも意外なことですので、当然のことながら自分がまちがっていると思いました。それで、どこか間違っているに違いないと思い、間違いを探したのですが、見つかりませんでした。どんなに探しても見つからないので、神経衰弱になりかかったような気がしたというほどでした。よく夢を見ました。夢の中で疑問が解けたと思い、起きてやってみるとまるで違っていました。何がまちがいか、実例を探しても見つかりません。だいぶ長く間違いばかり探していたので、理論ができあがった後になっても自信がありませんでした。近くにチェックする人がいなかったことも、自信をもてなかった理由のひとつに数えられます。
 高木先生の類体論は「アーベル体は類体である」という事実を根底に据えて構築されました。高木先生はこれを「基本定理」と呼んでいます。
 高木先生は一般相互法則と「クロネッカーの青春の夢」を考えていたのですが、一般相互法則については世界大戦の前にフルトヴェングラーの一連の研究が公表されていました。論文のタイトルのみ、挙げておきます。
「ℓは奇素数として、代数的数体におけるℓ次の冪剰余の間の相互法則について」
数学年報58(1904年)
「代数的数体における素冪指数をもつ冪剰余に対する相互法則」
この論文は三連作で、「I」は数学年報67(1909年)、「II」は数学年報72(1912年)、「III」は数学年報74(1913年)に掲載されました。
 フィリップ・フルトヴェングラー(1869–1940)はドイツの数学者で、ゲッチンゲン大学でクラインの指導を受けて学位を取得した人です。名高い指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラーの親戚筋にあたる人物(いとこのようです)でもあります。
 「クロネッカーの青春の夢」の方面ではルドルフ・フエター(1880-1950)の論文「虚二次数体におけるアーベル方程式」があり、数学年報75(1914年)に掲載されました。1914年というと世界大戦の直前の時期ですが、もう少し精密に時系列を追うと、フエターの論文が掲載されたのは数学年報の第75巻の第2分冊で、1914年4月2日に刊行されています。
 フエターはオイラーの故郷でもあるスイスのバーゼルに生まれた人ですが、ゲッチンゲン大学でヒルベルトの指導を受けて学位を取得しました。学位論文は「二次体の類体と虚数乗法」というのですから、当初から「クロネッカーの青春の夢」をめざしていたのでしょう。
 高木先生はフルトヴェングラーの論文もフエターの論文も承知していましたし、実際に読みもしたのですが、読んでもよくわからないし、おもしろくなかったなどと回想しています。

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