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高木貞治 西欧近代の数学と日本 106.  アイゼンシュタイン

 「クロネッカーの青春の夢」の数学的および数学史的意味合いを理解するには、どうしてもガウスを源泉とする19世紀の数論史を回想しなければならず、これはこれで大変な仕事です。前回、アイゼンシュタインの名前を出しましたが、アイゼンシュタインはガウスに愛された早熟の天才です。1823年4月16日にベルリンに生まれた人で、同年末12月7日に生まれたクロネッカーと同い年ですが、1852年10月11日、29歳で亡くなりました。没後、数学の論文集が刊行されましたが、晩年のガウスが序文を寄せています。
 アイゼンシュタインは3次と4次の相互法則に証明を与えることに成功しましたが、ガウスの数学的意図を正しく汲み、3次と4次の相互法則と楕円関数との間に観察される親密な関係にも気づいていました。具体的に歩みを進めるには楕円関数論を構築していかなければなりませんが、アイゼンシュタインの時代の楕円関数論というと、オイラーの流れを汲むルジャンドルのテキストと、アーベルとヤコビの諸論文があるばかりでした。ヤコビには論文のほかに19世紀の楕円関数論の礎石になった『楕円関数論の新しい基礎』という著作もあり、高木先生もデュレージの著作を通じてヤコビの楕円関数論を学びました。
 アイゼンシュタインはガウスを継承して3次と4次の相互法則と楕円関数論との関係を明るみに出そうとする考えをもっていましたから、独自の楕円関数論を構築しようとして、独自の試みを続けました。この点はクロネッカーも同じで、晩年のクロネッカーは楕円関数論をテーマにして連作を書き続けたのですが、晩年のクロネッカーは若い日の「青春の夢」の解決をめざし、適切な楕円関数論を創造しようとしたのでした。
 アイゼンシュタインは「青春の夢」を語ったことはありませんが、アイゼンシュタインにはアイゼンシュタインの「青春の夢」があり、それはクロネッカーが抱いた「青春の夢」ほどの具体性は伴っていなかったものの、同じ夢を見ていたのは間違いありません。アイゼンシュタインが亡くなったのは1852年。クロネッカーが「クロネッカーの定理」とその一般化を語る論文を公表したのは、アイゼンシュタインの死の翌年のことでした。こんなところにも、必ずしも偶然とは言い切れない何物かを感じます。
 それで本当はアイゼンシュタインについて語りたいことがたくさんあるのですが、それは別の機会までとっておくことにして、高木先生の生涯の話を続けていきたいと思います。
 余談をひとつ。つい最近、必要があって東京物理学校雑誌、第161号(明治38年、1905年)を見たのですが、和算史家の三上義夫の寄せた翻訳稿の中で意外にもクロネッカーの名を見かけました。三上はアメリカの数学者ハルステッドと親交があったようで、明治38年1月13日、ハルステッドから書簡と論文「非ゆーくりっど幾何学ノ使命」を受け取りました。三上はこれを訳出して東京物理学校雑誌に掲載しました。
 ハルステッドはイギリスの数学者シルベスターに学んだのですが、シルベスターはクロネッカーと親交があった模様です。論文「非ゆーくりっど幾何学ノ使命」はこんなふうに書き出されています。

〈我とクロネッカーとは数学の定義を試みて、之を詩歌なりとするに於て一致するに至れり〉と大数学者シルベスターは嘗て余に語れり。然れども此詩歌の歴史は其自身亦詩歌なり〉

 クロネッカーとシルベスターは数学を詩歌と見ることにおいて一致したというのですが、ハルステッドはこのエピソードの紹介にあたり、「詩歌の歴史もまた詩歌である」と味わいの深いひとことを添えました。この流儀にならうなら、ガウスの数論も詩歌、「クロネッカーの青春の夢」も詩歌。ひいては19世紀のドイツの数論史もまた詩歌ということになりそうに思います。
 
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高木貞治 西欧近代の数学と日本 105.  「クロネッカーの青春の夢」の数学的意図をめぐって

 「クロネッカーの青春の夢」がガウスの数論において担う意味合いを、もう少し立ち入って考察したいと思います。といっても、これまでのところで同じようなことを繰り返し語ってきましたので、言わんとするところはおおかた言い尽くしてしまったような気配もあります。それでどうも繰り返し気味になってしまうのですが、「有理数体上のアーベル数体はすべて円分体である」という「クロネッカーの定理」の真意はどこにあるのかというと、ガウスのD.A.の第7章にあると答えたいと思います。D.A.の第7章のねらいは、平方剰余相互法則の証明を円周等分方程式論から取り出すことができることを示すところにありますが(ただし、これもまた繰り返しになりますが、このねらいはD.A.の段階では達成されず、もう一篇の論文「ある種の特異級数の和」の完成を待たなければなりませんでした)、このガウスの意想外のアイデアを受けて、ではどうしてそのようなことが可能なのだろうかと問い、「クロネッカーの定理」をもって答えたのがクロネッカーなのでした。
 4次剰余相互法則に移ると、今度は相互法則を考える場がガウス整数域に移りますが、レムニスケート曲線の等分方程式の考察の中から証明が取り出されます。これもまたガウスに由来するアイデアですが、ガウス自身は示唆したのみに留まったところ、アイゼンシュタインがこれを遂行しました。それで、ここでもまた、どうしてそのような証明が可能なのだろうかという問いが発生しますが、クロネッカーは「ガウス数体上の相対アーベル数体はレムニスケート曲線の等分方程式の根によって生成される」という事実をもって、この問いに答えようとしました。クロネッカーはこの事実を予想したのみで、クロネッカー自身の証明は公表されていませんが、高木先生の学位論文により、この予想は正しいことが確認されました。
 円周等分方程式の根は複素指数関数
  f(z)=e^z
の取る特別の値、すなわち特殊値として認識されますが、同様に、レムニスケート曲線の等分点はレムニスケート積分の逆関数、すなわちレムニスケート関数の特殊値として把握されます。
 3次剰余の相互法則の場合には、有理数体Qに1の原始3乗根ω=-(1/2)+(1/2)√-3を添加して生成される数体K=Q(ω)を設定し、ここで次数3の相互法則を確立していくことになりますが、これは実際に可能です。ガウスがそのように想定し、アイゼンシュタインはこれを実行したのですが、単に3次剰余相互法則を発見して証明したのみにとどまらず、ある種の楕円関数の等分方程式との関連をも示唆しました。アイゼンシュタインの心情もまたガウスのが開いた気圏に息づいていたのですが、ではどうしてそのような想定が可能なのか、という問いがここでもまた発生します。数体K=Q(ω)はガウス数体と同じく虚二次数体であるところに着目し、一般に虚二次数体の相対アーベル数体は「楕円関数の特異モジュールの変換方程式によって汲み尽くされる」という予想を立て、この事実をもって上記の問いに答えようとしたのがクロネッカーでした。
 観念的に考えると方程式論と数論は相互に無関係な二つの理論ですが、二つの流れが出会う、ある共通の場が存在することをガウスは示唆しました。しかもそこには複素指数関数や楕円関数に象徴されるような、超越的な証明の原理が宿っていました。ガウス自身は有理数体と円周等分方程式という小さな範例を示しただけでしたが、クロネッカーははるか先に開かれるであろう場所の存在を確信し、具体的に予想を立てたことになります。いくぶんわかりにくい情景ですが、ガウスの数学的意図そのものがクロネッカーに継承され、真に深く理解されたと言えるのではないかと思います。

[追記]
レムニスケート積分は、ルジャンドルの分類によると第一種に区分けされる楕円積分で、その逆関数は楕円関数になります。それをレムニスケート関数と呼んでいます。

アイゼンシュタインの二論文をここに挙げておきます。
(1)1の3乗根を用いて組み立てられる複素数の理論における3次剰余相互法則の証明
クレルレの数学誌27(1844年)
(2)楕円関数の理論への寄与 I.レムニスケート関数からの4次の基本定理の導出、並びに乗法公式と変換公式への諸注意
クレルレの数学誌30(1846年)

高木貞治 西欧近代の数学と日本 104.  類体論の主論文と学位論文

 このところ数学の話ばかりが続き、高木先生の人生から離れているような印象がありますが、目標とするところはなにしろ高木先生の「数学的評伝」なのですから、どうしても高木先生の数学研究の中味を無視するわけにはいきません。高木先生は類体論を建設して「クロネッカーの青春の夢」を解決し、さらに任意の代数的数体において相互法則を確立することにも成功しました。帝国大学もしくは東京帝大の数学者の系譜をたどると、菊池大麓を初代、藤澤先生を二代目として、高木先生は三代目に数えられますから、日本における西欧近代の数学は三代目にして欧米の水準に達し、あるいは凌駕したという見方が定まっています。この評価は正しいと思いますが、高木先生の数学的評伝という視点に立つと、高木先生はどうしてそのようなことができたのだろう、どのようなわけで類体論研究に向かったのだろうという、ごく素朴な疑問にいつも突き当たります。
 高木先生の類体論研究を構成する主論文は二篇あります。ひとつは1920年(大正9年)に公表された論文で、タイトルは

 ”Über eine Theorie des relativ Abel’schen Zahlkörper(相対アーベル数体の理論)”
(東京帝国大学理科大学紀要、巻41, Art.9, 1-133頁)

というものです。133頁の長篇で、「クロネッカーの青春の夢」はこの論文で解決されました。この年、高木先生は満45歳です。もうひとつは

”Über das Reciprocitätsgesetz in einem beliebigen algebraischen Zahlkörper(任意の代数的数体における相互法則)”
(東京帝国大学理科大学紀要、巻44, Art.5, 1-50頁)

という論文で、前の論文から二年後の1922年(大正11年)に公表されました。論文の内容は表題に言われている通り。この年、高木先生は満47歳になっていました。
 この二論文に先立って、1903年(明治36年)、満28歳のときのことですが、

“Über die im Bereiche der rationalen complexen Zahlen Abel’schen Zahlkörper(複素有理数域におけるアーベル数体について)”
(東京帝国大学理科大学紀要,19, Art.5,1-42頁)

という論文が公表されています。年末12月16日、高木先生はこの論文により東京帝国大学より理学博士の学位を授与され、論文博士の第一号になりました。この論文は洋行を終えて帰国してから後の作品ですが、実際に執筆されたのは1901年(明治34年)の年初のことで、高木先生はゲッチンゲンに滞在中でした。論文の末尾に、

 Göttingen, im Frühjahr, 1901
 (ゲッチンゲン、1901年、春)

と記入されています。「クロネッカーの青春の夢」の一端が、これで実現されました。


[追記]
論文博士というのは論文を提出して審査を受けたうえで取得する学位ですが、それならあたりまえのことのようにも思えます。わざわざ論文博士と称するのはなぜかといいますと、この時期にはしばしば「総長推薦により学位授与」ということがあったからです。高木先生の同僚の吉江琢兒、帝大をいっしょに卒業した林鶴一、後輩の藤原松三郎の学位は総長推薦です。藤澤利喜太郎先生も総長推薦で学位を授与されました。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 103. ガウスの数論の継承者たち

 ガウスは円周等分方程式という非常に特別な形の代数方程式の理論から平方剰余相互法則の証明を取り出しましたが、どうしてそのようなことが可能なのでしょうか。平方剰余の理論にとって、円周等分方程式は何かしら特別な意味合いをもっていることを明示する不思議な状況が現出しているのですが、この事実それ自体がすでにガウスの発見ですし、まさしくここにおいて数論(平方剰余相互法則)と代数方程式論(円周等分方程式)が出会う場が開かれました。ここで「数論」というとき、その数論はガウスがみずから創造(クリエイト)した数論のことなのであり、ガウス以前の数論、すなわちフェルマに端を発し、オイラー、ラグランジュ、ルジャンドルと継承された数論を指すのではないことに、くれぐれも留意しておきたいと思います。
 顧みればガウスの数論はさながら無限多面体のようで、さまざまな側面が連なって構成されていますが、ガウスの継承者たちはガウスの多面体の側面を一枚ずつ分担して引き受けたかのような印象があります。アーベルはアーベル方程式の概念を提示しましたが、ここでは、円周等分方程式は巡回方程式であるというガウスの発見が継承されています。ガウスは円周等分方程式の代数的可解性を示しましたが、その方法というのは、純粋方程式、すなわちx^k=aという形の方程式の連鎖を構成し、冪根を作ってこれらを解く作業を順々に積み重ねていくというものです。方程式が代数的に可解であれば、このような様式で解けるのだという具体的な情景を、ガウスは円周等分方程式に例を求めてぼくらの眼前にありありと繰り広げてくれたのですが、ガロアはこれをそのまま継承して「ガロア理論」を構築し、代数的可解性の必要十分条件に到達しました。
 4次剰余相互法則が存在する場所はガウス整数域でしたが、ガウス整数域というのは有理整数と√-1を組み合わせて構成される複素整数の作る数域でした。この場合、√-1というのは1の原始4乗根、すなわち方程式x^4=1の±1以外の根ですが、「4乗根」の「4」は「4次剰余」の「4」にほかなりません。同様に、3次剰余相互法則が存在する場を設定するには1の原始3乗根、すなわち方程式x^3=1の1以外の根、たとえば
  ω=-(1/2)+(1/2)√-3
を指定して、有理整数と組み合わせて新しいタイプの複素整数を構成しなければなりません。さらに一般に、高次の冪剰余相互法則を確立するには1のn乗根、すなわち方程式x^n=1の1以外の根を考えていくことになります。数体の言葉を借りるなら、円分体における整数域を相互法則の舞台として設定することになりますが、このようなアイデアはすべてガウスに由来します。
 ガウスは一般的なアイデアをわずかに示唆し、具体的には次数4の円分体内の整数域において4次剰余相互法則を発見するところまで到達しましたが、クンマーはガウスのアイデアをそのまま継承し、円分体の整数域において高次冪剰余相互法則を確立することに成功しました(ただし、完全に一般的にできたわけではなく、できる場合とできない場合が区分けされました)。クンマーもまたガウスの数論の一面を継承したのです。
 平方剰余相互法則のさまざまな証明のうち、ガウスの第二証明は二次形式の「種の理論」に基礎をもつ証明で、『アリトメチカ研究』の第五章に記述されています。クンマーの証明法は「一般化された種の理論」に依拠する方法ですが、その際、円分体の類数公式、すなわち円分体の類数を算出する公式が基礎的な役割を果たします。ガウスはすでに二次形式の類数の概念を得ていましたが、ディリクレは二次形式の類数公式を確立し、クンマーへと続く道を開きました。数体の言葉に移すと、ディリクレが獲得したのは二次体の類数公式です。ディリクレもまたガウスの有力な継承者のひとりです。
 ガウスは4次剰余相互法則の証明を手にしていたのですが、公表することはありませんでした。そこで4次剰余相互法則に証明を与えることがガウスの継承者たちに課された重要な課題になりましたが、これに成功した人にアイゼンシュタインがいます。しかもアイゼンシュタインの証明法というのはレムニスケート曲線の等分方程式の理論に依拠するものでした。平方剰余相互法則が円周等分方程式論に基づいて証明されるように、4次剰余相互法則はレムニスケート曲線の等分方程式論に基づいて証明されるのですが、この事実もまたガウスのごくわずかな示唆に由来しています。示唆とはいうものの、『アリトメチカ研究』の第7章の冒頭にレムニスケート積分が書き留められただけなのですが、アイゼンシュタインはガウスの意を正しく汲んだのでした。
 ざっと回想しただけでもこんなふうで、アーベル、ガロア、ディリクレ、クンマー、アイゼンシュタインと、ガウスの数論は何人もの継承者の手で少しずつ全容をあらわにしていきました。「クロネッカーの青春の夢」は、これらのすべての事蹟を包摂する場所に屹立しています。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 102.  アーベル数体と整数論

 ガウスの作品『アリトメチカ研究』の第7章のテーマは円周等分方程式論ですが、アリトメチカ、すなわち数論を書名に標榜する書物の中で、どうして代数方程式論が語られるのでしょうか。これは素朴な疑問ですが、だれもが疑問に思うであろうこともまた間違いのないところです。ガウス自身も案じていたようで、巻頭に配置された緒言でこの点に言及しています。
 円周等分方程式論は代数方程式論の一環ですが、円周の等分ができれば、等分点を線分で結んでいくことにより正多角形が作図されますから、初等的な幾何学の問題でもあります。ガウスの言葉をそのまま引くと、「第7章で取り扱われる円の分割の理論、もしくは正多角形の理論は、なるほどそれ自身はアリトメチカに所属するものではない」と明言し、そのうえで「しかし、それにもかかわらず」と言葉を続け、「その諸原理はひとえに高等的アリトメチカから取り出さなければならないのである」と言い添えています。それでもまだ誤解されるかもしれないという不安をぬぐいきれなかったようで、「このような状勢はおそらく幾何学者諸子にとっては意表をつく出来事であろうと思われるが、「私はこの泉から汲むことのできる数々の新しい真理が、意外に思う気持ちに劣らぬほどに彼らのお気に召すよう、希望してやまない」と、いかにも慎重に言葉を重ねました。ここまで言わなくてもいいのではないかと思えるほどですが、ガウスは自分の発見の斬新さに自覚があり、数学的真意が正しく汲まれることを願うとともに、伝わらないことを恐れる心情もあったのでしょう。
 ガウスの円周等分方程式論を代数方程式論の流れにおいて観察すると、何よりもまずガウスは次数が5を越える代数方程式には根の公式が存在しないことを確信し、そのうえで円周等分方程式は代数的に可解であることを証明しました。そのガウスの証明の根底にあるものは何かというと、方程式の代数的可解性を左右する基本原理は「諸根の相互依存関係」にあるという認識で、円周等分方程式の場合には(後の言葉でいうと)巡回方程式になるという事実に基づいて、代数的可解性が示されます。アーベルとガロアはこのガウスの基本認識を継承し、アーベルは巡回方程式の概念の延長線上においてアーベル方程式の概念を提案し、ガロアは「ガロア理論」を構築することに成功しました。カルダノの時代からラグランジュにいたるまで、優に200年を越えるガウス以前の代数方程式論の系譜から見ると、ガウスの寄与はあまりにもめざましく、ガウスにおいて時代が画されたという印象があります。
 ガウスの理論を正多角形の作図問題の方面から見ると、素次数pの円周等分方程式が平方根のみを用いて解けるのは、次数pが「フェルマ素数」である場合に限定されることをガウスは示しました。平方根のみを用いて解けるということは、定規とコンパスのみを用いて円周の等分点を指定するということで、それらの等分点を線分で結んでいけば正p角形が描かれます。フェルマ素数を書き並べていくと、まず3と5があり、その次に来るのは17、さらにその次は257です。以下、どこまでも続きますが、これだけでもすでに正17角形、正257角形の作図の可能性が明らかになりました。ユークリッドの著作と伝えられる『原論』に出ているのは正3角形と正5角形の作図法までですから、ガウスの円周等分方程式論には2000年の時を隔てる大発見が内包されていることになります。
 ガウスの円周等分方程式論は老ラグランジュに深い感銘を与えたようで、ラグランジュはガウスに宛てて二通の手紙を書き、感想を述べました。ひとつの手紙は1804年5月31日付で、1736年1月25日に生まれたラグランジュはこのとき68歳。ガウスは27歳です。もう一通は1808年4月17日付で、ラグランジュは72歳、ガウスもまた30歳になっていました。ラグランジュはガウスが円周等分方程式を代数的に解いたことに感動したのですが、ガウスにしてみれば、ラグランジュの賞賛こそ、まさしくガウスが恐れていた誤解だったのではないかと思います。
 ガウスの円周等分方程式論には方程式論と作図問題のほかに、もうひとつの意図が秘められています。それは平方剰余相互法則のことなのですが、ガウスは今日のいわゆる「ガウスの和」というものに着目し、その数値の決定を試みています。これは難問で、『アリトメチカ研究』の第7章の時点では「ガウスの和」の絶対値の算出には成功しましたが、符号を正しく決定するにはいたりませんでした。それで「ガウスの和の符号決定問題」が生じたのですが、ガウスは『アリトメチカ研究』の刊行後も思索を続け、10年後の1811年になって「ある種の特異級数の和」という論文を書いてこの問題を解決しました。
 それなら「ガウスの和」の数値の決定はどのような意味をもつのかといいますと、1811年の論文「ある種の特異級数の和」を見るとわかることなのですが、ここから平方剰余相互法則の証明が取り出されるのです。ガウスの数論の実体をひとことで言うと「相互法則の究明」ということになりますが、平方剰余相互法則はガウスの数論の出発点であり、ガウスは原理を異にするさまざまな証明を得ようとして工夫を重ねました。そのひとつが「ガウスの和の数値決定」に依拠する証明で、ガウスはそれを『アリトメチカ研究』の第7章で提示し、1811年の論文「ある種の特異級数の和」において完成させました。この間、実に10年の歳月が流れています。
 円周等分方程式の解法理論には平方剰余相互法則の証明の原理が秘められています。それを認識したところにガウスの創意があり、円周等分方程式論を『アリトメチカ研究』という書名の書物に収録した真意もまたそこにあります。ラグランジュといえどもそこまでは思いいたらなかったようですが、『アリトメチカ研究』の段階ではまだ平方剰余相互法則の証明を書くことができなかったのですから、仕方のないことでもありました。
 それでは、円周等分方程式論にはなぜ平方剰余相互法則を証明する力があるのでしょうか。これもまた難問ですが、クロネッカーの若い日の思索はこの問いに向けられました。「有理整係数をもつアーベル方程式は円周等分方程式によって汲み尽くされる」という、「クロネッカーの定理」の真意はそこにあります。
 円周等分方程式の係数はすべて1ですから、円周等分方程式の係数域は有理数体です。巡回方程式はアーベル方程式の一種ですから、円周等分方程式の根を有理数体に添加するとアーベル数体が生じますが(有理数体上のアーベル数体ですから、いわば絶対アーベル数体であり、相対アーベル数体ではありません)、「クロネッカーの定理」を数体の拡大の言葉に移すと、「有理数体上のアーベル数体はすべて円分体である」ということが判明します。
 有理数体のアーベル数体には平方剰余相互法則を証明する力があり、有理数体上のアーベル数体は円分体で汲み尽くされます。まさしくそれゆえに、円周等分方程式論の考察により平方剰余相互法則を証明することができるのだというところに、「クロネッカーの定理」の真意があります。アーベルが提案したアーベル方程式の概念には実に深い意味があり、アーベル数体の考察は相互法則との関連において数論でありえます。ガウスの円周等分方程式論は、この大掛かりな数学的情景の存在を示唆するみごとな雛形でありました。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 101.  代数方程式論と整数論

 クロネッカーが「一番好きな青春の夢」という言葉を語ったのは1880年3月15日のことですが、何分にも手紙の中でのことですから、これだけでたちまち数学者の世界に流布したというわけではありません。科学アカデミーの議事報告に掲載されたのは1895年(明治28年)。この年、高木先生は満20歳。前年7月に三高を卒業し、9月を待って帝国大学に入学したばかりでした。
 大学二年までの高木先生は菊池大麓や藤澤先生の講義を聴いて勉強を続けました。その情景は吉江琢兒が遺した講義ノートに現われている通りです。「クロネッカーの青春の夢」という言葉にすでに触れていたのかどうか、具体的な諸事情は不明ですが、この時期までは高木先生も特に独自の勉強に打ち込んだというふうではなく、講義の聴講に専念していたのであろうという印象があります。
 高木先生の勉強ぶりに大きな変化が見られるのは三年生になってからで、藤澤先生のセミナリーでアーベル方程式を勉強したことが、数学者としての生涯を決定するほどの転機になりました。藤澤先生が期待したのはセレの著作を読んで勉強することだったようですが、高木先生は「ウェーバーの代数学」やジョルダンの「置換論」など、当時の最新の代数学に親しみ、斬新な視点からアーベル方程式を論じました。書き上げたレポートのできばえはすばらしく、藤澤先生の予想をもはるかに凌駕して、激賞を受けました。
 これまでに見てきたところは以上の通りです。高木先生は藤澤セミナリーを通じてはじめて本格的な代数学の世界に踏み込んでいったのですが、その代数学というのはセレのいう「方程式の解析」の領域であり、これだけではまだ整数論ではありません。それで問題となるのは、高木先生はいつどのようにして数論に出会ったのかということです。セレの「高等代数学」にも整数論は書かれていることはいましたが、初等的にすぎるように思いますし、ここはやはり「ウェーバーの代数学」を挙げるべきであろうと思います。巻2、第五部門の「代数的数」の記述を見れば、代数的整数論との出会いという言葉がよくあてはまります。それと、ヒルベルトの「数論報告」との出会いも重要です。この有名な報告書が刊行されたのは1897年(明治30年)ですが、高木先生はこの年の7月に東京帝大を卒業し、それから大学院に進みましたが、秋11月には早くも「数論報告」が大学に届きました。高木先生はこれを読み、代数的整数論への親しみを深めていきました。代数的整数論とは何かといえば、それはガウスの数論のことにほかならず、さらにその実体を問うていけば、端的に「相互法則の探求」と応じるのが正解です。
 高木先生と数論との出会いについては、これでだいぶよくわかりましたが、ここにひとつの基礎的な問いが残されています。それは、「クロネッカーの青春の夢」に象徴されるアーベル方程式の構成問題、もしくは相対アーベル数体の構成問題はどうして整数論でありうるのだろうか、という問いです。これは難問ですが、ガウスの著作『アリトメチカ研究』の中に、すでに正解の所在地が示唆されています。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 100. 「クロネッカーの青春の夢」(再論)

 クロネッカーが表明した「クロネッカーの青春の夢」はあくまでも代数方程式論の世界における命題であり、アーベル方程式の構成問題という形をとっています。有理整数を係数にもつアーベル方程式が円周等分方程式によって汲み尽くされるのと同様に、「有理数の平方根を伴うアーベル方程式は特異モジュールをもつ楕円関数の変換方程式で汲み尽くされる」というのが「クロネッカーの青春の夢」ですが、「有理数の平方根」はここでは「負の有理数の平方根」、すなわちnは平方因子をもたない正の整数として、√-nという形の虚数を意味しています。このような形の虚数は二次方程式x^2+n=0の根ですから次数2の代数的整数であり、ひとくちに「虚二次数」と呼ばれています。虚二次整数といってもさしつかえません。虚二次数√-nで生成される数体は「虚二次体」と呼ばれます。すると、「クロネッカーの青春の夢」は、
〈虚二次体を係数域とするアーベル方程式は特異モジュールをもつ楕円関数の変換方程式で汲み尽くされる〉
というふうに言い表されます。これを数体の拡大という観点から見ると、
〈虚二次体上の相対アーベル数体は特異モジュールをもつ楕円関数の変換方程式の根を添加することにより生成される〉
というふうになり、虚二次体の相対アーベル数体の構成問題へと変容します。論理的にはどちらでも同じことですが、定係数域をもつアーベル方程式の構成問題がどこまでも方程式論の課題であったのに対し、相対アーベル数体の構成問題には整数論、もっと具体的にいえばガウスの数論の匂いがします。
 このあたりの消息をもう少し立ち入って考察したいのですが、その前にクロネッカーの言葉に最後まで耳を傾けておきたいと思います。次に引くのはデデキントへの手紙の一節です。

〈この数ヶ月の間、私はある研究に立ち返って鋭意心を傾けてきました。この研究が終結するまでにはなお多くの困難が行く手に立ちはだかっていたのですが、私は今日では最後の困難を克服したと信じます。そのことをあなたにお知らせするよい機会と思います。それは私の最愛の青春の夢のことです。詳しく申し上げますと、整係数アーベル方程式は円周等分方程式で汲み尽くされるのですが、まさしくそのように、有理数の平方根を伴うアーベル方程式は特異モジュールをもつ楕円関数の変換方程式で汲み尽くされるということの証明のことなのです。〉

 ここに「私の最愛の青春の夢」という言葉が出ていますが、これが根拠になって「クロネッカーの青春の夢」という言葉が生まれました。「青春の夢」という言葉はデデキント宛の手紙が初出で、日付は1880年3月15日。1823年12月7日に生まれたクロネッカーは、このとき満56歳です。命題そのものは1877年の論文「アーベル方程式について」において表明されました。この論文は1877年4月16日に科学アカデミーで報告され、クロネッカーの全集の巻4に収録されています。
 この論文で、クロネッカーは「楕円関数の特異モジュールもしくは楕円関数それ自身を根にもつ方程式の性質」に関心を寄せ、そのような方程式は「その係数が整数の平方根以外の非有理性をもたないようなアーベル方程式になる」と述べ、そのうえで視点を逆転し、
〈そのような方程式(註。虚二次整数域を係数域とするアーベル方程式を指しています)の全体は、楕円関数の理論から生じる方程式により汲み尽くされる〉
という予想を表明しました。「楕円関数の理論から生じる方程式」というのは「楕円関数の特異モジュールもしくは楕円関数それ自身を根にもつ方程式」のことですが、そのような方程式の性質についてはすでに1857年の論文「虚数乗法が生起する楕円関数」で報告されています。この論文は1857年10月29日にベルリンの科学アカデミーで報告されました。クロネッカー全集,巻4に収録されています。
 クロネッカーのデデキント宛書簡は、クロネッカーの没後、1895年の王立プロイセン科学アカデミー議事報告に掲載されました。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 99. 方程式から代数体へ

 ここまでのところを回想しますと、代数的数体の中に整数域があり、代数的数体の概念は代数方程式論に由来し、整数域の概念はガウスの数論に由来することを指摘するところまで進みました。代数的数体は「代数体」と略称されることがあります。
 方程式論で語られる事柄はそのまま数体の言葉に翻案されて、代数体の理論の基礎的諸概念が手に入ります。一般に代数方程式の根は、その方程式の係数により生成される体、すなわち係数体Kには所属しませんが、根を係数体に添加すると新たな数体Lが生成されます。それは係数体Kを包含していますから、係数体Kの方面から見るとLはKの「拡大体」ですが、ここに「相対的」という形容詞を冠して「K上の相対的な拡大体」、簡単に「K上の相対数体」ということがあります。「相対」があれば「絶対」もありそうですが、それは有理数体上の拡大体のためにとっておかれている言葉です。
 拡大体Lの方面から見るとKはLの「部分体」です。
 アーベル方程式の根を係数体Kに添加して生成される拡大体Lは「K上のアーベル的な相対数体」ですが、これを「K上の相対アーベル数体」と呼ぶと非常に簡明です。
 クロネッカーは1853年の論文において「有理係数をもつアーベル方程式は円周等分方程式である」という命題を表明しましたが、これを数体の言葉に翻案すると、「有理数体Q上のアーベル数体は円分体である」というふうに言い換えられます。円分体というのは、有理数体に円周等分方程式の根を添加することにより生成される拡大体のことです。これは後にウェーバーとヒルベルトが証明しました。この命題の延長線上に「クロネッカーの青春の夢」があります。
 「クロネッカーの青春の夢」というのはクロネッカー自身の言葉で、出所はデデキントに宛てて書かれた1880年3月15日付のクロネッカーの書簡です。クロネッカーはその手紙の中で「私の最愛の青春の夢」を語りました。「青春の夢」はドイツ語のJugendtraum(ユーゲント・トラオム)の訳語です。この言葉が語られたとき,クロネッカーはすでに(日本流に数えて)58歳でした。この数ヶ月間,「ある研究に立ち返って鋭意心を傾けて」きたとクロネッカーはデデキントに語りました。その研究が完成するまでには多くの困難が行く手に立ちはだかっていたのですが、今では最後の困難を克服したとクロネッカーの言葉は続きます。ここで語られる「ある研究」というのは「私の最愛の青春の夢」の解決をめざす研究のことで、整係数アーベル方程式が円周等分方程式で汲み尽くされるのと同様に、
〈有理数の平方根を伴うアーベル方程式は特異モジュールをもつ楕円関数の変換方程式で汲み尽くされる〉
という事実を証明することに、クロネッカーは成功したというのです。虚数乗法論の成立の可能性を具体的に開示する言葉です。ただし、クロネッカーは証明を書きませんでしたから、未解決の問題として後進の思索を誘い、ウェーバー、ヒルベルトを経て、類体論の力を借りて高木先生の手で証明されました。この解決の模様を報告したのが、高木先生の主論文「相対アーベル数体の理論」です。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 98.  ガウスの数論と代数方程式論

 存在するのかどうか、確認するすべのない高次冪剰余相互法則を、ガウスはどうして感知することができたのか、考えるほどに不思議さがつのります。ガウスが実際に遂行したことを具体的に観察すると、一般の高次冪剰余相互法則を発見して表明するところまではいかなかったようですが、3次と4次の相互法則を発見したのはまちがいありません。3次の相互法則については遺稿の中にスケッチが遺されているのみですが、4次の相互法則については下記の二篇の大きな論文が執筆され、公表されました。
 「4次剰余の理論 第一論文」(1828年)
 「4次剰余の理論 第二論文」(1832年)
1828年のガウスは51歳、1832年のガウスは55歳になります。平方剰余相互法則の第一補充法則を発見した1795年の時点から見ると、この間には33年、37年という歳月が流れています。この二論文について語ろうとすると、それはそれで果てしのない状態になってしまうのですが、数体における整数という、現在直面しているテーマとの関連でいうと、特に重要な一事があります。それは「数論における複素数の導入」という出来事のことで、ガウスは4次剰余の理論の研究の途次、複素数の導入が不可欠であることに気づいたのでした。
 第一論文では4次剰余相互法則の二つの補充法則が提示され、証明も与えられていますが、すべて有理整数の範囲内で行われています。第二論文に移ってからも、しばらくは有理整数の範囲で4次剰余相互法則の探索が試みられますが、途中で事態が急変し、ガウスの探索の舞台は複素数域へと移行します。ガウスの言葉をそのまま引くと、「一般理論の真実の泉の探索は,アリトメチカの領域を拡大して,その中で行わなければならないという確信に到達した」というのですが、ここで言われている「拡大されたアリトメチカの領域」というのはガウス整数域を指しています。4次剰余相互法則を見つけるにはガウス整数域において探索しなければならないというのがガウスの確信ですが、ガウスは実際に発見に成功し、その情景を「第二論文」において描写しました。ガウスの確信は正鵠を射ていたことをみずから裏付けた恰好ですが、証明は欠如していました。そこで4次剰余相互法則を正しく証明することが、ヤコビ、アイゼンシュタイン、ディリクレなど、ガウスの次の世代の一群の継承者たちの目標になりました
 複素数は実数と虚数√-1を組み合わせて構成されますが、√-1というのは「平方すると-1になる数」、すなわち方程式x^2=-1の根のことです。観念的に考えますと、そんな数は存在しない、存在するはずがないと思われますし、無理に飲み込もうとしてもどこかしら不安な感じに襲われます。ではありますが、これは問いの形式が悪いのであり、そのために不安をぬぐえないのではないかと思います。「平方すると-1になる数」は存在するのか、存在しないのか、どちらなのかと問うても答はありません。他方、4次剰余相互法則のように、複素数域の場で探索してはじめて十全に姿を現す数学的事実が確かに存在しますし、そのことがかえって「平方すると-1になる数」の実在感を支えているのではないでしょうか。少なくともガウスはそうでしたし、ガウスの継承者たちはみな、ガウスの抱いた実在感を共有していたのであろうと思います。
 数体と整数域の話にもどりますと、ガウス整数域の出所はあくまでもガウスの数論なのであり、ガウス以前の代数方程式論の流れからガウス整数域へと通じる道は存在しないことに、くれぐれも留意しておきたいと思います。数論と方程式論はもともと数学の別個の領域でしたし、代数方程式の解法をどこまで追求しても、ガウス整数のような代数的整数の概念が生まれることはありません。ところがガウスの数論の出現とともに思いがけない現象が発生し、方程式論と数論が同じ場所で出会い、代数的整数論の出発点が形成されました。
 

高木貞治 西欧近代の数学と日本 97. 平方剰余相互法則を越えて

 平方剰余相互法則は、なにしろガウスの数論の出発点なのですから、もう少し立ち入って語っておくほうがよいのではないかと思います。有理整数の範疇で考えることにして、今、pとqは相異なる奇素数とします。素数といえば必ず奇数のようにも思えますが、ただひとつ、2は偶数の素数ですので、奇素数といえば「2以外の素数」という意味になります。pとqの一方を法として採用すると、二つの合同式
 (1) x^2≡p (mod.q)
 (2) x^2≡q (mod.p)
が同時に考えられますが、これらは同時に解けたり、同時に解けなかったり、一方は解けても他方は解けなかったりします。合同式(1)が解をもてば、そのときpはqの平方剰余といい、合同式(2)が解をもてば、そのときqはpの平方剰余というのでした。平方剰余ではないときは平方非剰余という言葉が用いられます。
 平方剰余相互法則というのは、個々の合同式(1)(2)を解くことそれ自体ではなく、両者が解けたり解けなかったりする現象の間に、ある特定の「相互依存関係」が認められるところに深い関心が寄せられています。その関係はpとqの形状によって決まります。すなわち、
I pとqのどちらか一方がp≡1 (mod.4)という形なら、合同式(1)(2)は同時に解けるか、あるいは同時に解けないかのいずれかです。
また、
II pとqがどちらもp≡3 (mod.4)という形なら、合同式(1)(2)のどちらか一方は解けますが、もう一方は解けません。数学的事実としては簡明ですが、どうしてこのような相互関係が存在するのか、考えれば考えほど不思議さがつのります。
 以上の法則を平方剰余相互法則の本体として、これに二つの補充法則が伴います。ひとつはガウスが17歳のときに発見した第一補充法則で、pは素数として、合同式
 x^2≡-1 (mod.p)
が解をもつかどうかを教える法則です。これはpの形によって決まり、p≡1(mod.4)のときは解をもち、それ以外のときは解をもちません。これについては前に報告したことがあります。もうひとつは第二補充法則で、pは素数として、合同式
 x^2≡2 (mod.p)
が解をもつのはいつかを教える法則です。解をもつのはp≡1または7(mod.8)のときで、それ以外の場合、すなわちp≡3または5(mod.8)のときは解をもちません。このように、法pが-1と2の場合は例外で、個別に対処しなければなりません。
 平方剰余相互法則についてはひとまずこれでよいのですが、3次、4次、一般に高次冪剰余の世界に移ると、状勢はにわかに混迷の度合いを深めてきます。平方剰余相互法則の第一補充法則を発見した17歳のガウスは、平方剰余相互法則の本体の存在を同時に確信したのですが、そればかりではなく高次の冪剰余相互法則をも感知しました。平方剰余相互法則のほうはまもなく実際に見つかり、証明もできたのですが、不思議なのは高次冪剰余相互法則です。高次の冪剰余の世界では具体性のある法則は何もなく、相互法則の本体はおろか補充法則さえ見つかっていませんでした。氷山の一角も見つからないありさまなのですが、それでもなおガウスは相互法則の名に相応しい法則を感知し、存在を確信し、自分の目でそれを見ようとして長い年月にわたって思索を重ねました。どうしてそんなことができたのか、まったく不思議なことというほかはありません。

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