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高木貞治 西欧近代の数学と日本 77. 藤澤セミナリーのはじまり

 藤澤先生が帝大で始めたセミナリーは「藤澤セミナリー」と呼ばれて広く知られていますが、藤澤先生が藤澤セミナリーを企画したのはいつころなのでしょうか。だいぶ前にお伝えしたことですが、『日本の数学100年史』には明治26年(1893年)に改訂された帝国大学理科大学数学科の課程表が掲載されています。その翌年の明治27年9月に高木先生と吉江琢兒が入学し、一年前に制定されたばかりの新課程表に沿って講義を受けました。吉江琢兒による克明な講義ノートが遺されていますので、だれがどのような講義をしたのか、手に取るようにわかります。
 物理学実験や数学演習など、吉江琢兒のノートに記録のない課程もありますが、物理学実験については様子がわからなくともそれほど困りません。数学演習の中味は興味深いですが、ノートにはないものの、吉江琢兒のエッセイにその一端が紹介されていて、なんでもむやみにむずかしい積分の計算をやったということでした。これらのほかにもうひとつ、第三学年の課程に「数学研究(随意)」というのがあります。時間の割り当ては毎週3時間で、担当は藤澤先生。これがつまり「藤澤セミナリー」だったのであろうと推察されます。「随意」というのですから、あるいは選択科目だったのでしょうか。あるいはまた、研究テーマがはじめから決められていたというのではなく、そのつど自由に、藤澤先生と学生ひとりひとりが話し合ってテーマを選定したというほどの意味でしょうか。学生も教師も極端に少ない時代だったことですし、選択科目というのは考えにくいですから、ここはやはり「自由研究」と見るべきところと思います。
 藤澤セミナリーの記録は、5年分だけですが、5冊の単行本の形で出版されています。東大の大学院、数理科学研究科の図書室に貴重図書の扱いで保管されているのですが、マイクロフィルムの作成に応じていただけましたので、複製が手もとにあります。書名は
 『藤澤教授セミナリー演習録』
といい、表紙の下部に、
 「東京数学物理学会編纂委員編纂ス」
と記されています。奥付を見ると、著作者として山川健次郎の名が記されていますが、この人は当時の帝大総長です。刊行年は下記の通りです。

 第一冊 明治29年11月13日
 第二冊 明治30年10月13日
 第三冊 明治31年7月1日
 第四冊 明治31年10月22日
 第五冊 明治33年4月1日

 記録が残されているのはこれだけで、第一冊の刊行前の明治26、27、28年の三年間にもセミナリーは行われていたのかもしれませんが、消息は不明です。第五冊以降についてはどうかといいますと、刊行された冊子は存在しないものの、セミナリーは継続して行われた模様です。
 「高数研究」第3巻、第7号に掲載された「高木・吉江両博士を囲む会」という座談会でも藤澤セミナリーが話題になっていますが、高木先生が掛谷宗一に向かって「君のときにもやったじゃないか」と水を向けると、掛谷は「やりましたが」と応じています。掛谷の卒業年次は明治42年(1909年)です。それから高木先生が末綱恕一に向かい、「末綱君のときもやったでしょう」と声をかけると、末綱は「われわれはやりません」と答えました。末綱恕一は大正11年(1922年)の卒業ですが、藤澤先生はちょうど同じ年に退官していますから、末綱は最後の学生だったことになります。藤澤セミナリーは最後の年には行われなかったことがわかります。
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高木貞治 西欧近代の数学と日本 76. 林鶴一と河合先生

 関口先生と加賀の数学について語っているうちについつい深入りして西田幾多郎にまで話が広がってしまい、なんだか高木先生の評伝ではないみたいな雰囲気になってきました。どうしてこんなことになったのかといいますと、吉江琢兒の回想に誘われて河合先生のことを紹介しようとしたからでした。本当は高木先生本人を通して河合先生を紹介することができればよかったのですが、その道筋が見あたりませんので、高木先生に代って同期の吉江琢兒に登場してもらったという次第です。
 それならどうして吉江琢兒の回想に着目したのかというと、高木先生が大学時代に学んだ数学の中味を知りたかったからで、そのために今も東大に保管されている「吉江先生ノート」の概観を試みるとともに、吉江琢兒本人の語る回想に耳を傾けたいと思ったのでした。こんなふうにして大学の数学講義の状況はだいぶ詳しくわかりましたので、次はいよいよ懸案の「藤澤セミナリー」を語る順番になったのですが、その前にもう少し寄り道をしたいことがあります。それはやはり河合先生のことなのですが、つい最近、「高数研究」に掲載された小倉金之助のエッセイ「林鶴一先生のことども」を読む機会がありました。エッセイの末尾に「昭和11年10月4日」という日付が記入され、「林先生一周忌の当日」という言葉が添えられています。林鶴一は三高で高木先生と吉江琢兒の一年上だった人で、大学入学も一年先だったのですが、在学中にチフスにかかったため一年の休学を余儀なくされたため、卒業は高木先生、吉江琢兒といっしょになりました。生地は徳島で、徳島中学から三高に進みました。生誕日は明治6年(1873年)6月13日、没年は昭和10年10月4日。小倉金之助は林鶴一の一周忌を期してさまざまな角度から論じていますが、高木先生との関連のもとでひときわ興味が深いのは三高時代の河合先生との交流の模様です。
 小倉金之助は岡部勇という人の回顧録「六十余年の御生涯」を引いているのですが、そこに林鶴一の三高時代の一面が描かれています。掲載誌は「養正会報」の昭和10年12月号で、養正会という会の会誌のようですが、実物は今も見つかりません。それで小倉金之助の引用を孫引きすることにしますが、それによりますと、河合先生は林鶴一に学校の課程以外の勉強を多いに奨励し、主として三角法に力を入れて、毎日百題ずつの問題を解くようにと命じたのだそうです。やさしい問題でも毎日百題はつらいですが、難問になると一題解くのも苦しくなります。林鶴一はたいへんな勉強家だったというのですが、ついに匙を投げて、一日百題は不可能と訴えたところ、河合先生はとがめることもなく「今後はできるだけやれ」といいますので、これに力を得てまた続行するというありさまだったとか。
 あるとき「ロックの大三角法」(これは意味がわかりませんでした。ロックという人の三角法の著作を指すのでしょうか)の消去に関する問題を解いていたときのこと、ある問題を解くのに三日三晩考えてもわからないので河合先生にヒントをもらおうと思い、河合先生を訪ねると、「これはすぐできるからもう一度考えよ」と言いました。それで再び机に向かってまたも三日間。ついに力尽きて降参し、再び河合先生に教えを乞うと、「もう一日考えよ。すぐできる」とのこと。そこでまたもや考え込んで一週間がすぎ、ついに解を得て大判の用紙三枚に書き上げました。
 林鶴一の思うに、少なくともすぐにはできません。そこで河合先生に「すぐにできる法」を教えてほしいと願い出たところ、河合先生自身が試みてもすぐにはできません。そこで林鶴一が、「ここに紙三枚を費やしてできています」と申し出たところ、河合先生は林鶴一の熱意に打たれ、ますます信頼を厚くしたということです。
 河合先生の教授法は自分で考えて何事かをさとることを期待しているかのようですが、それならかつて河合先生自身が関口先生に教わったときの様子とそっくりで、和算の伝統が生きていると言えそうに思います。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 75. 関口開と石川県加賀の数学 補遺9 関口先生と西田幾多郎

 関口先生と西田幾多郎は学問の姿において似通ったところがあります。二人とも洋行の機会はなく、日本国内に留まって学問を継続したのですが、社会的な処遇という面から見ると必ずしも恵まれていたとは言えませんでした。菊池大麓や藤澤先生が人生の早い時期に国費で洋行し、帰国後は大学で講義を続けたのと比べるといかにも不遇ですし、関口先生と西田幾多郎は全然別の種類の人生を生きたというほかはありません。
 関口先生は和算の方面では師匠がいましたが、洋算は多少の手ほどきをしてくれた人がいただけで、ほぼ完全に独学を続けて英語の原書を解読することができるようになりました。このあたりまでは菊池大麓と比べても遜色がありません。それから先を観察すると、菊池大麓には藤澤先生という後継者がいて、19世紀の後半期のドイツの数学を修得して日本に持ち帰りましたので、東京の大学の数学は大いに面目を一新することになりました。さてここからが興味深いところですが、菊池大麓と藤澤先生のもとには関口先生の門下生たちが相次いで集ってきました。西田幾多郎の師匠の北條時敬もそうですし、河合十太郎先生も森外三郎もそうでした。これらの人たちは別段、菊池大麓と藤澤先生に入門したというわけではなく、上京して大学に入学したところ、そこには純粋に洋算のみを学んだ二人の数学者がいたということです。関口先生の門下生たちと菊池大麓の後継者の藤澤先生の出会いという、実に興味の深い場面ですが、どのような情景が現われたのか、その間の消息を物語る文献は見たことがありません。北條時敬や河合先生や森外三郎が藤澤先生を語るエッセイなどがあればおもしろいのですが、見あたりません。あるいは、そのようなエッセイが存在しないということ、それ自体がすでに何事かを示唆しているのでしょうか。
 関口先生は洋行することはありませんでしたが、お弟子たちの中には洋行した人が何人もいて、帰国後は大学や高校に重要な位置を占めました。高木先生との関連でいいますとひときわ注目されるのは河合先生なのですが、河合先生は三高の教授になって、高木先生をはじめ林鶴一、吉江琢兒、藤原松三郎と、実に多くの学生を育てました。これらの人たちは関口先生から見ると孫弟子になりますが、大学では藤澤先生に学びましたので、菊池大麓から見ても孫弟子にあたります。それで、和算出身の洋算家の関口先生の系統と、蘭学から出た純粋の洋算家の菊池大麓、藤澤先生の系統が高木先生たちの世代において融合したかのような強い印象を受けるのですが、この印象は根も葉もない空想にすぎないのでしょうか。
 関口先生の没後、金沢市内の尾山(おやま)神社の境内に顕彰碑が建てられました。円柱に円錐形を乗せた巨石です。神田孝平が揮毫して「関口先生紀念標」と題し、別に碑を建てました。実物は見たことがなく、顕彰碑の写真を見ただけですので、いつか尾山神社を訪ねてみたいと願っています。
 西田幾多郎は石川県専門学校から第四高等中学校に移籍したのですが、中退してしまい、卒業にいたりませんでした。その理由としていろいろなうわさが流布していますが、西田自身が語っているところによりますと、西田幾多郎はつまり自主的に退学したのです。「山本晁水君の思出」に記されていることですが、石川県専門学校が廃止されて第四高等中学校が発足してから校風が一変したのだそうです。当時、文部大臣は薩摩の森有礼でしたが、四高に薩摩隼人の教育を注入するという方針に出て、初代校長に鹿児島の県会議長をしていた柏田という人を派遣してきました。もうひとつのエッセイ「四高の思出」によると、この初代校長のフルネームは柏田盛文というのです。開校式には森文部大臣が逗留先の山中温泉からやって来るというので、迎えるため、金沢近郊の野々市(ののいち)のあたりに半日ほど立たされたとか。柏田校長についてきた幹事や舎監もみな薩摩人で、警察官などしていた人たちでした。
 それでどうなったのかといいますと、西田の見ることろ、石川県専門学校という「一地方の家族的な学校」の校風が一変して「天下の学校」になりました。「師弟の間に親しみのあった暖な学校」から「忽ち規則づくめな武断的な学校」に変りました。西田たち生徒は学問文芸にあこがれ、非常に進歩的な思想を抱いていたのですが、新制四高ではそういう方向が喜ばれませんでした。これに加えて、当時の西田たちの目にも学力の不十分な先生などもあり、衝突することも多く、学校を不満に思うようになりました。それで学校がおもしろくなくなり、まず山本がやめ、それから西田もやめました。西田たちは青年の気を負うというか、意気も盛んで、こんな不満な学校をやめても独学でやっていける、何事も独立独行で道を開いていくのだという考えでした。憲法発布式の日に仲間数人が集り、「頂天立地自由人」という文字を掲げて写真をとったこともありました。
 四高をやめた後、西田は東京に出て東京帝大の文科大学哲学科の選科に入りました。選科というのは課程中の一課または数課を選んで専修する制度のことで、帝大の学生は学生でも高等中学校もしくは高等学校を卒業して入学してきた正規の学生とは違い、一段と格の低い扱いを受ける帝大生でした。岩波書店を創始した岩波茂雄は一高を中退して東京帝大の文科大学哲学科の選科に入りました。岡先生の親友の中谷治宇二郎は小松中学を出た後、家庭の事情で高校に進めなかったため、やはり東京帝大の選科生になりました。
 西田のエッセイ「明治二十四五年頃の東京文科大学選科」によりますと、当時の選科生というのはまことにみじめなもので、非常な差別待遇を受けていました。図書室の中央に大きな閲覧室がありましたが、選科生はその閲覧室で読書することは許されず、廊下に並べてあった机で読書することになっていました。三年生になると本科生、すなわち正規の道を経て大学に進んだ学生は書庫に入って書物を検索することができましたが、選科生には許されませんでした。課程を終えても「卒業」と名乗ることはできませんでした。「帝大卒業」と名乗れるのは本科生だけで、選科生の場合は単に「修了」というばかりです。万事がこんなふうでした。
 選科終了後、西田は帰郷して能登尋常中学校七尾分校の教師になりました。それからあちこちの学校の教師を転々としながら思索を深め、明治44年(1911年)1月、『善の研究』(弘道館)を刊行しましたが、その当時、西田は京都帝大文科大学の助教授に就任したばかりで、すでに満40歳になっていました。
 その後、西田は京都帝大教授に昇進し、当初は宗教学講座、後に哲学哲学史第一講座を担当しました。強靭な思索を続ける西田のもとに多くの俊秀が集い、京都学派と呼ばれる一群の思想家が出現しましたが、そのあたりの情景を描いた著作はおびただしい数にのぼります。
 京都学派の面々は相次いで洋行し、ヨーロッパの哲学者のもとで学んで帰国しましたが、ここであらためて想起されるのは、西田自身は洋行しなかったという一事です。西田は日本の学校制度の中では恵まれたとは言えない処遇を受け、長期にわたって無名の時代をすごしました。ヨーロッパの学問は書物を通じて学ぶだけだったのですが、思索に独創があり、著作には人生の影が射して魅力があり、三木清や西谷啓治のように、一高を出た後、東京帝大に進まずに、西田に師事するためにわざわざ京都帝大に進んだ人もありました。人生と学問に人の心を惹きつける力が備わっていたのですが、このようなところは関口先生と非常によく似ています。
 西田の師匠は北條時敬、高木先生の師匠は河合先生ですから、関口先生から見ると二人とも孫弟子になります。それで、高木先生の数学的思索にもあるいは西田に通じるところがあるのではないかと思い、あれこれと考え込んでいる今日このごろです。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 74. 関口開と石川県加賀の数学 補遺8 西田幾多郎の回想

 石川県専門学校の組織の概要を報告したときのことですが、大きく予備科と専門科に分れて、修業年限は各々3年。これに加えて初等中学科が附属していたと書きましたが、ちょっと間違っていたことに気がつきました。当初は初等中学科は存在せず、途中から設置されたのでした。
 だいぶ前のことになりますが、西田幾多郎の経歴を略記したことがありました。つい最近、西田のエッセイ「山本晁水君の思出」を読んだところ、石川県専門学校は「初等中学という四年の予科と、その上に法文理の専門部があって、七年の学校であった」と記されていました。これを見て少々困惑したのですが、どうも途中で学校組織の変更があったという印象を受けました。
 それであらためて調べ直したところ、石川県専門学校は当初は予備科と専門科が各6年で計6年の6年制であり、初等中学科というのは存在しませんでした。ところが明治17年度(1884年)になって予備科が廃止され、新たに初等中学科が設置されるという出来事がありました。ここが今度の調査で判明した事実です。8月に規則が改正され、施行されました。それから二年後の明治19年9月、西田は「石川県専門学校附属初等中学科第二級(第三学年)」に補欠で中途から入学したのですから、この時期には予備科というのはすでに廃止されていたことになります。このあたりの消息はまったく微妙で、よほど細かく制度変遷の経緯を追っていかないとすぐに間違ってしまいます。新設の初等中学科の修業年限は4年で、3年間の課程の専門科と合わせて、石川県専門学校は7年制の学校になりました。
 これも西田のエッセイ「山本晁水君の思出」を読んで判明したのですが、西田は石川県専門学校で鈴木大拙、藤岡作太郎と出会い、親友になったというのですから、同期生だったのだろう思っていたところ、実は必ずしも同期というわけではなく、山本晁水こと山本良吉や鈴木大拙は一、二級上の組にいたと思うと西田は書いています。もっともその当時の制度では半年ごとに昇級しますから、一、二級上というのは半年か一年程度の違いしかなく、ほとんど同級です。
 明治20年4月18日、第四高等中学校設立。同年9月、西田は第四高等中学校の予科第一級に編入されましたが、この編入にあたり、石川県専門学校初等中学科の二、三のクラスを合併し、選抜してひとつのクラスが作られて、西田はそのとき山本たちと同じ組になったのだそうです。しかも机も並んでいて、西田の右側に山本がいて、左側には藤岡作太郎がいました。また、西田は明記していませんが、きっとこのとき鈴木大拙とも同じ組になったのでしょう。
 金沢地代を回想するもうひとつの西田のエッセイに「コニク・セクションス」というのがあります。石川県専門学校時代の数学の勉強が回想されているのですが、エッセイのタイトルにいう「コニク・セクションス」というのは円錐曲線のことで、トドハンターの円錐曲線の本の翻訳書を指しています。西田はこの訳書を手に入れたのだそうで、翻訳者として長沢亀之助と川北朝鄰が挙げられていますが、このあたりを手がかりにして調べてみたところ、原著はトドハンターの“A Treatise on Plane Co-Ordinate Geometry as Applied to the Straight Line and the Conic Sections”、翻訳書は『軸式円錐曲線法』 という本で、訳者は長沢亀之助ではなく上野清。川北朝鄰は校閲者として名前を連ねています。原著の第5版の翻訳で、明治14年(1881年)7月、丸善から刊行されています。西田が石川県専門学校初等中学科に在学中の明治19年(1886年)1月には東京数理書院から第二版が出ていますから、西田はきっとこの第二版を購入したのでしょう。
 「コニク・セクションス」には関口先生の話題も出ています。「私共の先生から聞いた話」というのですから、北條時敬先生が話してくれたのだろうと思いますが、関口先生がトドハンターなどの翻訳に苦心していたころの英語の知識というのはきわめて不完全で、関口先生も数学の英語ですらたやすく読むというわけにはいきませんでした。数学の式を見て、これはこのような意味でなければならないというふうに考えたこともありました。たとえば、”set”という言葉は数学ではよく「一組」とか「一揃い」という意味で使われますが、当時の辞書には「置く」とか何とかいう訳語しか出ていませんでした。それで関口先生は数学の方面から見て意味を考えて、推測しました。杉田玄白や前田良沢たちの『解体新書』を思わせる出来事で、実にたいへんな、深く敬意を表すべき訳業と思います。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 73. 関口開と石川県加賀の数学 補遺7 関口先生の著作の紹介の続き

 関口先生の著作の紹介を続けます。

『平三角』 編 全一冊 成稿
明治4年。平面三角法の初等的部分。範式と例題を編纂したもの。典拠は不明ですが、後述するように関口先生はトドハンターの平面三角法の著作の翻訳を試みていますから、そこから例題を拾ったのではないかと思います。

『測量』 編 乾坤二冊 成稿
明治5年。陸地測量の様式と例題を編纂したもの。「距離高低より面積計算に至る」という説明がついています。

『弧三角』 編 上一冊 成稿
明治5年。球面三角法の初歩。辺および角の関係まで。下巻も企画されていたようですが、それはトドハンターの著作の翻訳書『弧三角術抄訳』に譲ったように思うという説明が添えられています。

『航海歴用法』 編 一冊 成稿
明治6年。

『微分術』 訳 一冊 成稿
明治7年。アメリカのロビンソンの微分法の著作を翻訳したもの。該当する原書と思われる本が「石川県専門学校洋書目録」に出ています。
Robinson,Horatio N. “A New Treatise on the Elements of Differential and Integral Calculus”
 この本は微分法と積分法の双方のテキストです。関口先生はあるいはこの本の微分法の部分だけを訳出したのかもしれません。「目録」によると、この本には「石川県中学師範学校」の蔵書印が捺されているそうです。話が前後しましたが、「目録」に記載されている原書の現在の保管先は金沢大学の資料館です。

『算法窮理問答』 編 上中下三冊 刊行
明治7年。物理の理論と計算法を問答体に編纂したもの。物理思想の普及をめざした作品のようです。

『答氏 微分術』 訳 全三冊 成稿
明治7年以降。トドハンターの微分学の翻訳書。「目録」には、トドハンターの著作
“A Treatise on the Differential Calculus”
が記載されています。「答氏」はトドハンター。

『微分術附録』 著 全一冊 成稿
明治7年。主として微分学の極大極小に関する例題を集めたもの。典拠は明記されていませんが、たぶんトドハンターの著作でしょう。

『答氏 弧三角術抄訳』 訳 全一冊 成稿
明治8年。原書はトドハンターの球面三角法の著作。『弧三角』の後編に相当します。「目録」には、トドハンターの著作
 “Spherical Trigonometry for the Use of Colleges and Schools”
が出ています。

『答氏 平三角術抄訳』 訳 上中下三冊 成稿
明治9年から明治12年にかけて成立しました。解説には、トドハンターの球面三角法の大平面三角法を訳出したものと記されているのですが、平面三角法に「大」の一語が冠されている理由はよくわかりません。「目録」にはトドハンターの著作
 “Plane Trigonometry”
が挙げられています。

『答氏 幾何学』 訳 全5冊 成稿
明治9年から明治13年にかけて成立。トドハンターの著作『ユークリッド』の翻訳書。原書は、
 “The Elements of Euclid”
です。ユークリッドの『幾何学原論』の解説書です。「目録」にも出ています。

『答氏 積分術』 訳 全二冊 成稿
明治9年から明治11年にかけて成立。原書はトドハンターの著作
 “A Treatise on the Integral Calculus”
と思われます。この本は「目録」に記載されています。

『代数学』 訳 第二編上下二冊 第三編上中下三冊
明治10年。トドハンターの代数学の翻訳書ですが、その代数学は「大代数」のほうで、“Algebra for the Use of Colleges and Schools”を指すと思われます。『點竄問題集』の後編。第二編上巻は刊行されましたが、下巻は未刊。第三編も刊行にいたりませんでした。

『答氏 円錐形載断術』 訳 全二冊 成稿
明治10年から明治12年にかけて成立しました。原書はトドハンターの『コニックセクション』。トドハンターには”A Treatise on Conic Sections”という著作があります。書名を見る限り、翻訳の原書としてはこれがもっとも相応しいのではないかと思われるのですが、この本は見たことがありません。「目録」にも出ていません。他方、トドハンターには“A Treatise on Plane Co-Ordinate Geometry as Applied to the Straight Line and the Conic Sections”という著作もあります。これは「目録」に記載されていて、「円錐曲線法」として紹介されています。関口先生が翻訳の典拠にしたのはこちらの本かもしれません。

『答氏 静力学解』 著 全一冊 成稿
明治14年。トドハンターの著作"A Treatise on Analytical Statics”の例題を解釈したもの。この本も「目録」に出ています。

 『関口先生小伝』に記載されている関口先生の著作は上記の通りで、全22冊です。幕末の和算書一冊を別にするとすべて洋算書で、明治3年から明治14年にかけて、わずか10年ほどの間の仕事です。なかでも際立っているのはトドハンターの著作を典拠にした作品が非常に多いことで、代数も幾何も微積分もみなトドハンターに学んでいます。このあたりの消息は菊池大麓も同様で、初期の東京大学ではトドハンターのいくつもの著作がテキストとして使われました。トドハンターは非常に多くの数学書を書いた人ですので、多くの著作が輸入され、人の目に触れる機会が多かったのでしょう。
 関口先生と菊池大麓の違いということであれば、関口先生の活躍の場所が金沢に限定されたのに対し、菊池大麓はイギリスに留学したという一事を挙げなければなりません。明治初期の日本ではトドハンターの著作は洋算の原点でしたが、菊池大麓はトドハンター本人にイギリスで学んでいるのですから、いわば原点のそのまた原点に直接学んだことになります。実際にイギリスに出かけてみればヨーロッパの数学事情にも理解が深まりますし、ドイツの数学に視線が向きはじめます。帰国後、菊池大麓自身はイギリスで学んだ数学を大学で教え続けましたが、後継者として期待をかけた藤澤先生には、洋行にあたってドイツに行くようにとすすめました。このアドバイスを受けて、藤澤先生はイギリスからドイツに移り、19世紀後半期のドイツの数学を修得して帰国し、デュレージの楕円関数論やクリストッフェルの複素関数論を講じました。これが日本の洋算事情の大きな転機となりました。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 72. 関口開と石川県加賀の数学 補遺6 関口先生の著作

 『関口先生小伝』には関口先生の著作リストがありますが、そこには22冊の作品が挙げられています。一冊は和算書で、『球類百題問答』というのですが、この本については前に紹介したことがあります。
 他の21冊はすべて洋算書です。この機会に、ひと通り紹介しておきたいと思います。

『點竄問題集』 編 上下二冊 刊行
明治5年、初版。明治9年、第二版。
アメリカのデーヴィスなどの代数の書物から抜粋し、編纂した代数の問題集。加減乗除から二次方程式まで。第二版ではトドハンターの代数の書物も参照し、『改正點竄問題集』として刊行。

『幾何初学』 訳 全二冊 刊行
明治7年、初版。デーヴィスの幾何の書物を翻訳したもの。

『幾何初学例題』 著 全一冊 刊行
明治13年。初等幾何学の例題375問を集め、巻末に代数的解釈の一班を示し、例題75問を集めたもの。

 上記の三冊については前に言及する機会がありました。『数学問題集』と『新撰数学』もすでに紹介しました。最近、「石川県専門学校洋書目録」を閲覧することができたのですが、そこに
W.and R.Chambers “Arithmetic, Theoretical and Practical”
(理論的および実践的な算術)
という本が出ています。また、目録には出ていませんが、W.and R.Chambersには“Introduction to arithmetic”(1860年)という算術書もあります。W.and R.ChambersというのはRobert(ロバート)とWilliam(ウィリアム)という二人のチェンバーズのことで、兄弟と思います。
 蛇足をひとつ。この目録にはトドハンターの著作“Algebra for the Use of Colleges and Schools”が記載されているのですが、そこに附されている簡単な説明の中に「大代数」という言葉が出ていました。これが「大代数」なら、トドハンターのもうひとつの代数の本“Algebra for beginners : with numerous examples”は「小代数」と見てさしつかえないところです。高木先生は岐阜中学時代に「トドハンターの小代数」を勉強したということですので、どの本を指して「小代数」と呼んでいるのか、懸案事項だったのですが、これで解明できたことになりそうです。まあまあ予想の通りでした。

『数学稽古本』 訳 全一冊 成稿
明治3年。「成稿」というのは、完成した原稿ではあるけれども刊行にはいたらなかった本という意味です。イギリスのホットンという人の数学書の翻訳書というのですが、ホットンとはいかなる人物なのか、少し調べてみたものの不明でした。「石川県専門学校洋書目録」にもホットンという著者の名前は見あたりません。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 71. 関口開と石川県加賀の数学 補遺5 明治初期の金沢の洋算事情

 『関口開先生小伝』に加藤和平という人の『懐旧談』というエッセイが出ていて、明治初年の日本の洋算の消息が語られていますので、紹介しておきたいと思います。加藤和平は明治3年12月、維新直後の藩政大改革のころ、関口先生のもとに入門しました。話が細かくなりますが、現在の金沢市の近辺は江戸期には前田家の領地で、一般に加賀藩と呼ばれています(正確に言うと、江戸時代には「藩」という呼称は存在しませんので、加賀藩というのは今日の通称です)。明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還を受けて金沢藩と名乗ることになりました。次いで明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県が実行され、金沢藩は金沢県になりました。それで金沢藩が存在したのは版籍奉還と廃藩置県の間のほんの二年ほどことになりますが、加藤和平が関口先生に入門したのはちょうどこの一時期のことでした。
 藩政大改革の流れを受けて、金沢藩ではところどころに小学校を設置し、学科を読書、習字、洋算の三部に分け、部門ごとに専門の教師が教える体勢を整えたのですが、洋算の教師を確保することが喫緊の大問題になりました。「学制」が公布されて、学校教育の現場で全面的に洋算が採用されることが決まったのが明治5年。それに先立って金沢藩ではすでに洋算の採用に踏み切っていたことがわかりますが、洋算を教えることのできる教師が乏しいのが悩みの種でした。
 おりから材木町小学校が新設の運びとなりました。加藤和平は和算家の瀧川吉之丞の師範代だったとのことで、旧師は三好善蔵。その三好善蔵の推薦を受けて、明治4年3月、材木町小学校の教員に任命されました。三好善蔵は関口先生の和算修業時代の師匠でもあり、そのころは加藤和平と同門の門人でした。
 加藤和平は当時の洋算の教師たちの名前を11名まで挙げています。ほかに名前を忘れた人が二名。さらに加藤和平と関口先生を加えると全部で15名になります。このうち二名は関口門下ではないということですが、差し引き13名の関口門下の教師が金沢の小学校で洋算を教えていたことになります。
 関口先生の門下の人も門下ではない人も、毎月一回持ち回りで各々の家に一同集会し、教授方法などをめぐって打ち合わせをしました。洋算の翻訳書はどこにもありませんから、関口先生がぽつぽつ翻訳して教授用の本を作りました。これが一冊出るとみな引っ張り合いで謄写したもので、中には明日入用だなどという人もいるくらいでした。関口先生もまた小学校で教えていたのですが、帰宅すると門弟たちが続々と押し寄せてきますので、翻訳を急がないと教科書にさしつかえるというありさまでした。そうこうするうちに『数学問題集』が出版されましたので、ようやく教科書謄写の手数が省けるようになりました。
 『数学問題集』は上下二冊。明治4年、初版。明治8年、第二版。合計35000部も出ました。イギリスのチェーンバーズの数学書を基礎として編纂した算術の問題集です。この本は洋書の直訳で、問題の度量衡や貨幣はイギリスで使われているものでしたので、日本の日常生活には適しません。そこで加藤和平たち門下生がこの点を修正し、『新撰数学』を編集しました。度量衡の制度が日本の制度に改められたのに加え、内容もことごとく改正されました。初版は全3冊。明治6年刊行。第二版より合わせて全一冊にして明治8年刊行。以下、版を重ね、関口先生没後の明治19年、第六版刊行。通算約22万部に達しました。
 明治3年から明治5、6年まではこのような状況でした。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 70. 関口開と石川県加賀の数学 補遺4 関口先生略伝

 石川県専門学校の状況を心覚えに略記しておきたいと思います。大きく予備科と専門科に分れ、修業年限は予備科も専門科もそれぞれ3年です。専門科は法理文の三科に分れます。森外三郎のエッセイを紹介するとき、「予科」「理科」と書きましたが、正確な呼称は「予備科」「理学科」です。
 啓明学校が中学師範学校と改称したことは既述の通りですが、中学師範学校の目的は中等学校の教員を養成するところにありました。この目的を根本的に変更し、「英才優秀の士」を育てるための専門学校を創設するというのが、石川県専門学校設立のねらいでした。予備科と本科がこの専門学校の本体ですが、初等中学科が附属していました。明治19年4月に中学校令が公布され、金沢を含む第四学区内に高等中学校が設立されることになり、これを受けて石川県専門学校の管理が石川県から文部省に移管されました。第四高等中学校を金沢に誘致しようという動きが起り、石川県専門学校が受け入れの母体になったのです。明治20年4月、第四高等中学校設立。同年10月26日、開校式。石川県専門学校は明治21年3月に閉校しました。
 『関口開先生小伝』により関口先生の経歴を追ってみます。関口先生は天保13年6月29日(1842年8月5日)、金沢泉町に生まれました。父は松原信吾。第四子。幼名、安次郎。長じて甚之丞。後に開と改名。安政4年6月、関口甚兵衛の養子となり、文久3年12月、家を継ぎました。はじめ岩田勇三郎、次に佐野鼎について英語を学び、綴字と文法の一斑を知り、それから先はただ辞書を頼りにして勉強を続け、英語の数学書の翻訳ができるようになりました。このあたりの年月日は和暦のまま表記しました。
 数学はどうしたかといいますと、はじめ兄の匠作に和算を学び、それから算額師範第二世(これはどのような意味なのでしょうか)、瀧川秀蔵に学びました。長足の進歩を示し、23歳のとき、第三世瀧川吉之丞の師範代の三好善蔵から免許を受け、併せて師範を許されました。このころ「球類百題問答」という和算書を編纂しました。
 「球類百題問答」の編纂がなったのは文久元治のころということですが、これより前、金沢藩では海軍所を設け、軍艦を購入し、航海術と数学の教授として長州藩から戸倉伊八郎という人を招聘するという出来事がありました。関口先生は戸倉伊八郎に洋算の一斑を学び、和算にまさっていることを認識しました。しばらく戸倉に師事したようですが、学問の進むにつれてあきたらなく思うようになり、独学を始めました。旧師の瀧川家には洋算の写本があったようですが、そのほかにも本多利明が訳出した航海術や渡海新法、八線表、対数表などに手がかりを求めて刻苦探求。独力研究を重ねて、ついに数学の洋書を解釈できるようになりました。
 関口先生は金沢藩の洋算家の鼻祖となりました。自宅に数学研究所を設置し、門人を宿泊させて数学を奨励しましたが、廃藩後の学制により小学校ができたとき、関口先生の門下生たちは新制度の小学校の数学教師になって洋算を教えました。他県では数学教師が欠乏したということですが、石川県に限ってそのようなことがなかったのはひとえに関口先生のおかげなのでした。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 69. 関口開と石川県加賀の数学 補遺3 河合先生の数学修業

 関口先生の教授法を考えるうえで、河合先生のエッセイ「関口先生に対する感想」も参考になります。石川県に啓明学校が開校したのは明治9年(1876年)2月20日。啓明学校の名称が廃されて石川県中学師範学校が設立されたのが翌年の明治10年7月。名称が少々紛らわしいのですが、この師範学校は「中学師範学校」という名称の学校であり、これとは別に教員養成のための「石川県師範学校」が存在します。一般に師範学校というのは初等学校、すなわち小学校の教員養成を目的として設置された学校ですが、中等学校の教員養成のためのレベルの高い教育課程もありました。明治8年に東京師範学校に中学師範学科が設立されたのがそれで、啓明学校はこれに刺激を受けて「中学師範学校」と改称したと言われています。
 明治14年7月、石川県中学師範学校はもう一度改称されて石川県専門学校となりました。
 さて、河合先生の語るところによりますと、河合先生は明治13年、15歳のとき啓明学校に入学したということです。明治13年でしたら啓明学校はすでに改称されて中学師範学校となっていたはずですが、この名称はあまりなじまなかったのかもしれません。河合先生は入学の前に規矩(きく)流の和算の三好質直(元の名は善蔵)先生のもとで點竄術を学んでいましたが、啓明学校では関口先生に洋算を学びました。ある日、円錐形に関する難問に出会ったことがありました。河合先生ははじめこれを和算の方法によって解こうとして、大いに悩みました。すると関口先生がその様子を見て、西洋人は円錐形を直角三角形の「基股」を軸として回転するときに生じる曲面と考えているとおもむろに言いました。「股(こ)」というのは和算の用語で、直角三角形の直角をはさむ長いほうの辺を指しています。関口先生のヒントはただこれだけだったのですが、河合先生はこのひとことを深く思い、「潜思玩味」したところ、ついに一筋の光明をみいだして難問を解決することができました。
 だんだん学業が進んでトドハンターの代数学のテキストを読むことになりましたが、「変数論」のあたりがなかなかむずかしく、読んでも理解できませんので関口先生に質問しました。すると関口先生はだまって本を閉じてしまいました。そうして本を手に取り、変数論の末尾に載せられている練習問題のうちの二、三を選び、解くようにと要請しました。河合先生は失望しましたが、帰宅して思索を続けたところ、深更に及んでついに解法を得ることができました。よほどうれしかったようで、「快なる哉」と河合先生は書いています。しかもそれと同時に直面していた難関もおのずから釈然として消滅し、変数論の理論も自然に会得されました。
 関口先生の教授法はいつもこんなふうでしたが、この方法は和算家が学生を導く方法そのものでした。和算では、一理を諒解させようとする場合、その理に関する数個の実例を挙げてそれらを理解させ、その後に類推して理論全体の理解へと導いていこうとするのが通例です。洋算はそうではなく、どこまでも諄々として理論を展開し、その後に実例を提示して理論と応用の理解を定着させようとします。関口先生は和算の達人で、しかも洋算のすぐれていることを承知していましたが、和算には和算の長所がありますのでそれを捨てず、洋算の指導に生かそうとしたのでした。
 河合先生のエッセイには末尾に大正8年2月9日という日付が記入されていますから、上記のエピソードはかれこれ40年の昔の出来事です。「予迢迢(ちょうちょう)四十年を経るの今日、前期の事実印象今尚脳裏に新たなり」と河合先生は回想しました。
 河合先生が言及したトドハンターの代数学というのは、“Algebra for the Use of Colleges and Schools”(1858年)のことと思います。この本の第28章は”Variation”と題されていますが、河合先生はこれを「変数論」と訳出したのでしょう。

ブログ1000件

 昨日のブログを投稿して気がついたのですが、投稿した記事が昨日までで1002件に達しました。今こうして書いている記事が1003件目になります。オイラー研究所の開設は3年前にさかのぼり、開設日は平成17年6月17日と記録されています。この間に書き続けたブログを基礎にして、二冊の単行本
 『岡先生 数学の詩人』(岩波新書)
 『無限解析のはじまり 私のオイラー』(ちくま学芸文庫M&S)
が成立しました。
 最近はアクセス数も安定し、読者から寄せられるコメントに教えられることもしばしばです。現在執筆中の高木先生の数学的評伝はようやく大学時代にさしかかったところで、道はなお半ばですが、完成をめざします。ときどき過去のブログを読み返していますが、恥ずかしい誤植や誤変換があちこちに見つかります。そのつど直していますが、目に余るところがありましたら御指摘いただけますよう、今後ともよろしくお願いします。

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