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高木貞治 西欧近代の数学と日本 45. 藤澤先生の回想

 藤原松三郎が記録した藤澤先生の話を再現しつつ、必要に応じて註釈をつけてみたいと思います。
 藤澤先生は明治15年7月に東京大学の物理科を卒業しましたが、その翌日、ということは7月6日のことになりますが、菊池大麓先生に呼ばれて数学をやるようにとすすめられました。数学をやることに決まればただちに留学させるという話でした。当時、留学はみなの非常なあこがれの的だったのですが、藤原先生は洋食がきらいで、バターや牛乳を好かないほうでしたので、たいして気乗りがしなかったのですが、祖母が大賛成だったこともあってついに受諾しました。藤澤先生と同時に土木では白石直治、外科では佐藤三吉が留学することになりました。ところが内科の人選がむずかしく、日時を要したため、一年ばかり留学の話が延期されました。それで留学に出かけるまでの一年間、医科の物理をやっていた村岡範為馳(むらおか・はんいち)のもとで助教授として何もやらずに暮らしました。
 ここまでのところは藤原松三郎の伝える藤澤先生の談話のままですが、いろいろな人の名前が登場しましたので、簡単に紹介しておきたいと思います。佐藤三吉は外科医で、藤澤先生と同じドイツに留学し、帰国して東大の教授になった人ですが、ちょっとおもしろいことに高木先生と同じ岐阜県の出身です。岐阜県は大きく飛騨と美濃に二分されますが、佐藤三吉は美濃国の大垣に生まれた人です。白石直治(しらいし・なおじ)は東大の土木科の出身で、まずはじめにアメリカに留学し、それからドイツに移りました。帰国後はやはり東大の教授になりました。
 村岡範為馳(むらおか・はんいち)は因幡国すなわち鳥取出身の物理学者で、東京数学物理学会ができたとき、初代会長になった人です。東京数学物理学会は戦後、日本数学会および日本物理学会に分れました。村岡範為馳は帰国後の一時期、東大の医学部に勤務しましたが、藤澤先生はその村岡範為馳のところで助教授になったと御自身で語りました。この意味はやや不明瞭ですが、藤原松三郎にも諒解し難かったらしく、ここに註釈を書き添えています。藤原松三郎は東京帝国大学五十年史を参照し、そこに「明治15年8月2日、予備門教諭に任ず」とあるのを見つけ、藤澤先生が村岡範為馳のもとで助教授になったというのはこの事実を指しているのではないかと推定しました。近々、東大五十年史を見て、このあたりの消息を確認したいと思います。
 村岡範為馳は医学部に勤務しましたが、教授ではなかったようで、詳しい事情は不明です。後に東京音楽学校(現在の東京芸大音楽学部)や京都帝大の教授になりました。
 藤澤先生の回想にもどりますと、このようなあれこれの経緯を経て、卒業の翌年の明治16年になってやっと内科の留学生が青山胤通(あおやま・たねみち)と決まりましたので、佐藤、青山といっしょに留学の途につきました。藤澤先生はこの時点で満21歳もしくは22歳です(満年齢を明記できないのは留学に出発した日時を特定することができないためです。調査して判明しましたらお伝えします)。
 青山胤通は帰国後、東大医学部の内科の教授になりました。生地は江戸ですが、父は苗木藩の藩士でした。苗木藩の所在地は美濃国で、岐阜の中津川のあたりです。「青山内科」の青山教授といえば非常に著名な医学者で、今も東大のキャンパスに銅像がありますが、北里柴三郎と野口英世を激しく批判し、排斥したことでも知られています。
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高木貞治 西欧近代の数学と日本 44.  藤澤先生の三人の同級生の消息

 藤澤先生が在学していたころの東京大学は、今日の目にはとても大学とは見えないほどの小さな学校で、法、理、文の三学部の学生を全部合わせてもようやく300人程度にすぎませんでした。大学というよりも学習塾のような感じでしたし、そのうえ藤澤先生が所属した数学物理学及星学科は三つの専門学科を合わせて一科とした学科で、同級生はたった四人。しかも寄宿舎も同室でした。明治15年にそろって卒業することになりましたが、正確にいうと隈元有尚(くまもと・ありたか)だけは卒業にいたりませんでした。
 藤澤先生の三人の同級生を簡単に紹介しておくと、まず田中舘愛橘(たなかだて・あいきつ)は陸奥国(岩手県)の人で、著名な地球物理学者です。明治24年10月、高木先生の郷里で濃尾地震が発生したとき、震源地の根尾谷の断層を発見したことでも知られています。また、西田幾多郎が金沢で関口開のお弟子の上山(かみやま)小三郎の塾で数学を学んでいたとき、天文学の木村栄(きむら・ひさし)と親しくなりましたが、田中舘 愛橘は木村栄の師匠でもありました。
 卒業の前年の明治14年になって、数学物理学及星学科の三つの学科がようやく独立し、数学科、物理学科、星学科となりました。田中舘愛橘が卒業したのは物理学科です。
 田中正平も物理学科を卒業した物理学者ですが、特に有名なのは音響学の方面で、「純正調オルガン」を発明したことで知られています。出身地は淡路島で、洋行してドイツに留学したときは森鴎外といっしょでした。
 隈元有尚(くまもと・ありたか)は九州の久留米の出身で、父は久留米藩士でした。星学を専攻し、星学科を卒業するはずのところ、明治15年7月5日に挙行された卒業式で菊池大麓から卒業証書を授与されたとき、「人物の真価豈一枚の紙を以て定むるを得んや」と言ってその場で破り捨ててしまいました。そのため学位認定を受けることができないという事態になったということですが、どうしてそんなことをしたのかというと、菊池大麓の学問に対してかねがね疑問を感じていたからというのです。硬骨の士だったのでしょう。九州福岡の修猷館の初代校長としても知られています。
 藤澤先生は物理学科を卒業しましたので、同級生四人の中に数学を志望する人はいなかったことになりますが、菊池先生は藤澤先生に数学を専攻するようにと強くすすめ、藤澤先生はこれを受け入れました。以下、経歴を略記しておきますと、大学卒業の翌年の明治16年に洋行し、イギリスとドイツに留学しました。明治20年5月、帰朝。同年6月、帝国大学理科大学教授に就任。明治24年、総長推薦により理学博士の学位を受けました。大正11年3月、定年退官。帝国学士院会員、貴族院議員。昭和8年12月23日、満72歳で亡くなりました。
 人物辞典風に経歴だけ書いていくとこれだけのことになってしまいますが、ここに貴重な資料があります。それは藤澤先生が自分の経歴を自分で語った談話を記録したもので、記録したのは東北帝大の数学者、藤原松三郎です。
 藤澤先生の没後、友人やお弟子たちがこもごも思い出を語り、一冊の本を作りました。それは
 『藤澤博士追想録』
という本で、「編纂兼発行者」は「東京帝国大学理学部数学教室 藤澤博士記念会」。この会の代表者は高木先生でした。発行日は昭和13年9月28日。非売品です。藤原松三郎は明治35年に帝国大学理科大学数学科に入学し、藤澤先生の講義を聴きました。明治44年(1911年)、東北帝大に理科大学が設立されたとき、東北帝大の創立委員のひとりだった藤澤先生は藤原松三郎を推挙しました。それで藤澤先生の追想録が編まれることになったとき、藤原松三郎も「追想」というエッセイを寄せたのですが、そこでは昭和7年4月ころ藤澤先生を訪ねたときのことが回想されています。
 そのころ藤澤先生は五反田に新居を建てて住んでいましたが、藤原松三郎はその五反田の新居を訪問しました。藤原松三郎が藤澤先生に向かい、「先生は近ごろ文芸春秋にいろいろ昔話を書いていますが、数学に関することは全然ありません。いつかぜひうかがいたいものです」と申し出たところ、藤澤先生は、今日は退屈でもあるし、少しばかり話してもよかろうと応じました。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 43.  藤澤先生

 これまでのところデュレージの名前を見聞したのは高木先生の回想録「回顧と展望」と、デデキントの著作の二回きりでした。数学者として何をした人なのか、どこでどのような人のもとで勉強したのか、簡単な経歴もわからないのですが、多少の見聞を寄せ集めると、フルネームはハインリッヒ・デュレージといい、ドイツの数学者です。生年は1821年、没年は1893年。デデキントの同僚ということですから、デデキントが実数の連続性を発見した1858年の秋の時点では、デデキントと同じくチューリッヒのスイス連邦工科大学に勤務していたのでしょう。著作もあり、高木先生が習ったという楕円関数論のテキストのほかにも、三次曲線に関する本や複素変数関数論の本があります。
 「デュレージの楕円関数論」の原書名は
Theorie der elliptischen Functionen : Versuch einer elementaren Darstellung
というもので、ドイツ語で書かれています。書名をそのまま訳出すると、
 「楕円関数の理論 初等的叙述の試み」
というふうになるところでしょうか。初版の刊行は1861年ですが、二版、三版と版を重ねています。現在の東京大学の大学院、数理科学研究科の図書館には1878年に刊行された第三版と1908年刊行の第五版が所蔵されています。第三版はおそらくドイツに留学した藤澤利喜太郎が購入して日本に持ち帰ったもので、藤澤利喜太郎はこれをテキストにして、高木先生たちを相手に講義を行ったのでしょう。
 デュレージの楕円関数論は「ヤコビの著作『楕円関数論の新しい基礎』の平易な解説といったおもむきのもの」であり、「複素関数論ができる前の楕円関数論」であるから、「ずいぶん時代離れのもの」だったと高木先生は言っています。この言葉の意味合いを探索していくとおのずと楕円関数論の形成史に遭遇し、ガウスをはじめとして、アーベルやヤコビをめぐって一連の物語を語りたい心情に駆られます。楕円関数論は高木先生の類体論と密接に結ばれている理論ですから、いずれこのテーマに取り組まなければならないのですが、それはもう少し後のことにしたいと思います。
 それで、高木先生の大学時代の数学の勉強ぶりの概観を続けたいのですが、この機会にデュレージの楕円関数論を講義をした藤澤利喜太郎を紹介しておくのがよいかもしれません。何分にも高木先生のそのまた先生のことですから、これから先は「藤澤先生」と呼ぶことにしたいと思いますが、藤澤先生は新潟の人で、文久元年(1861年)9 月9日(1861年10月12日)に新潟の佐渡に生まれました。父は藤沢親之(ふじさわ・ちかゆき)という人で、幕臣でした。蘭学を学び、オランダ語ができましたので、幕府から派遣されて新潟の奉行所で通詞として勤めていました。新潟は日本海側で唯一の開港地でした。
 維新後、藤沢親之は東京にもどり、内務省寺社局長になりました。藤澤先生は外国語学校に入学しましたが、翌年、外国語学校の英語科が分離して東京英語学校になりましたのでそこに移り、それからまた東京開成学校に移りました。
 明治10年(1877年)4月、東京開成学校が東京大学と東京大学予備門に分れるという出来事があり、同年9月、藤澤先生は東京大学理学部の数学物理及星学科に入学しました。同期生は田中館愛橘、田中正平、隈元有尚。藤澤先生はこの時期には藤澤力と名乗っていたという話もあり、小倉金之助の著作にそんなことが書かれているのを見たことがあります。藤澤力の「力」の読み方は「りき」なのか「ちから」なのか、この点についてはまだ情報がありません。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 42.  デュレージとデデキント

 高木先生の「回顧と展望」を読んで「デュレージの楕円関数論」のデュレージの名に出会ったとき、この名前には見覚えがあるように思いました。数学史に記録されるほどの著名な数学者ではないようで、楕円関数論の著作があることも高木先生のエッセイを読んではじめて知ったくらいですし、数学史の書物でもお目にかかったことがないのですが、ただひとつ、デデキントのエッセイ「連続性と無理数」の序文に名前が出てくる場面がありました。
 デデキントはゲッチンゲン大学で晩年のガウスに学んだ著名な数学者で、数学のいろいろな方面に足跡を印していますが、「連続性と無理数」というエッセイは実数というものの本性を探索したことで広く知られています。ぼくが読んだデデキントの著作は
 『数について 連続性と数の本質』(岩波文庫、河野伊三郎訳)
という本で、ここには二篇のエッセイ
 「連続性と無理数」(1872年)
 「数とは何か、何であるべきか」(1887年)
の邦訳が収録されています。前者のエッセイの序文には、デデキントがこのような方面に数学的思索を向けていくことになった契機が記されています。
 デデキントは1831年にドイツのブラウンシュバイク生まれた人です。ゲッチンゲンでガウスに学び、ディリクレやリーマンの影響を受けたデデキントは、1858年、スイス連邦工科大学の教授になり、この年の秋から微積分を講じることになりました。このときになってデデキントは「数の理論の真に科学的な基礎」が欠如していることを痛感しました。この欠如を補って微積分の基礎を確立しようとすると、「数とは何か」という問いが根源的な意味合いを帯びてくることにデデキントは気づきました。しかもその問いを解く鍵をにぎっているのは「連続性の本質」を正確に認識し、言葉を与えてこれを表明することなのですが、デデキントは「1858年11月24日」にこれに成功したということです。
 数学的思索が結実した日にちが正確に記録されるのは非常に珍しい事例ですが、この成功の数日後、デデキントはこの熟考の成果を親友に打ち明けました。その親友がデュレージなのでした。

高木貞治 西欧近代の数学と日本41. 高木先生のエッセイ「回顧と展望」

 明治27年7月、高木先生が帝国大学に入学したとき、理科大学数学科には数学の教授は二人しかいませんでした。ひとりは菊池大麓、もうひとりは藤澤利喜太郎です。数学の教官ということでしたら、正確に言えばもうひとり、三輪桓一郎(みわ・かんいちろう)という助教授がいました。三輪は東京大学の「仏語物理学科」というところの第3期卒業生で、卒業したのが明治13年7月。明治15年(1882年)、助教授に就任し、明治20年(1887年)までは専任の助教授でしたが、その後、学習院教授となり、東大助教授は兼任になりました。三輪助教授は東大で何をしていたのか、どうもよくわからないのですが、高木先生や吉江琢兒の回想を見ても三輪助教授が数学の講義をしていたという形跡は見られません。
 それで三輪助教授のことはしばらく措いて、高木先生の数学的評伝をめざすという視点から見て大きな問題となるのは、菊池、藤澤両先生の講義はどのようなものだったのかという一事です。これについては高木先生自身と吉江琢兒による回想記が参考になります。
 高木先生の回想録というのは、
 「回顧と展望」
というエッセイですが、書き下ろしのエッセイというのではなく、昭和15年12月7日に東大で行われた数学談話会での講演記録です。昭和15年という年は西暦でいうと1940年ですが、日本独自の紀元である皇紀で数えると2600年にあたるというので、国を挙げて奉祝の行事が行われました。11月10日は宮中外苑において紀元二千六百年式典、翌11日には同じく宮中外苑において紀元二千六百年奉祝会が挙行されました。お祝いに合わせていろいろな記念行賞があり、そのひとつが文化勲章賜授でした。11月10日授与式が行われました。文化勲章が授与されるのはこれで二回目になります。高木先生と同時に授与されたのは西田幾多郎(哲学)、佐々木隆興(生化学、病理学)、それに川合芳三郎(玉堂、日本画)の四人です。
 文化勲章を受けたことを記念して、12月7日、東大の数学教室で高木先生の講演会が行われました。その記録に多少加筆して改造社の総合誌「改造」の昭和16年(1941年)1月号に掲載されました。また、それとは別に「考へ方研究社」の数学誌「高数研究」の記者が速記をとり、その記録が高木先生の校閲を経たうえで「高数研究」第5巻、第4号(1941年1月号)に掲載されました。
 高木先生の回顧は東大の学生時代に聴講した数学の講義から始まります。大学に学生としてやって来たのは1894年で、ちょうど日清戦争が起った明治27年でした。1894年に田舎から東京に出てきたころ、数学教室の先生は菊池先生と藤澤先生の二人でした。何を教わったのか、古い記憶をたどってみると、まず微分積分。それから解析幾何学。これらは一年生のときの科目です。二年生になるとデュレージの楕円関数論というものをやりました。これは古い本で、中味はヤコビの楕円関数論。ということはつまり、ヤコビの著作『楕円関数論の新しい基礎』の平易な解説といったおもむきのものです。複素関数論ができる前の楕円関数論で、「ずいぶん時代離れのもの」と高木先生は回想しました。
 デュレージの楕円関数論のほかに、サルモンの代数曲線論を習いました。これで二年生まで進みました。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 40. 菊池大麓とイギリスの数学

 日本の暦が新暦に切り換わる前の出来事を記述する場合、当時の資料では日時の表記はいわゆる旧暦(幕末から明治初年にかけて使われていたのは天保歴です)によって表記されていますが、現在の書物ではそれらを新暦に換算して表記する習慣が定着しているように思います。これは一見して便利そうではありますが、しばしば混乱を招く原因になります。それで、少々めんどうでも旧暦と新暦を併記するのがよいのではないかと、このごろ思うようになりました。
 菊池大麓のイギリス行の日時の表記にだいぶ細かくこだわってしまいましたが、高木先生の評伝とはあまり関係がありませんので、こだわりがすぎてしまったかもしれません。この最初の洋行に出発したとき、菊池大麓は満11歳にすぎませんでしたし、英語を勉強してロンドンを見物し、子ども心にいささか見聞を広げたというほどのことで、数学とは無関係ですが、イギリスとの間に縁ができたことは間違いありません。
 帰国後、開成学校に入りましたが、明治3年(1870年)、今度は明治政府の命を受けて再び洋行することになりました。菊池大麓はこの時点で満15歳です。行き先はまたもイギリスだったのですが、洋行先の選定にあたり、最初のイギリス留学の体験が影響を及ぼしたと見てよいと思います。現に、最初の留学のおり、一行はロンドンでモルドベーという若い人物を雇って英語の勉強をしていたのですが、二度目のイギリス行のときはますますお世話なって、モルドベーの家に長らく滞在してそこから学校に通ったこともありました。
 最初の洋行の体験を生かして二度目の洋行先が決まり、今度もまたロンドン大学のユニバーシティ・カレッジに通い、それからケンブリッジ大学のセント・ジョーンズ・カレッジに移りました。ケンブリッジ大学では数学を学びましたが、教師の中にはトドハンターもいました。明治10年(1877年)5月、帰朝。6月、東京大学理学部教授に就任し、物理学と数学を講じました。こうして菊池大麓は日本で一番はじめの数学の大学教授になったのですが、一番はじめであるのと同時に、唯一でもありました。その結果、東京大学と帝国大学の数学教育はもっぱらイギリスの流儀で行われることになりました。
 19世紀の後半期のヨーロッパの数学研究の中心地はドイツでしたし、フランスの数学にも見るべきものがありました。イギリスの数学は実はあまりぱっとしなかったのですが、菊池大麓が満11歳のときにイギリスに留学したという事実に誘われて、日本の大学での数学教育はイギリスの流儀にならうという成り行きになりました。慶応3年の徳川幕府派遣英国留学組14人の中に数学者の卵がひとり混じっていて、東大のたったひとりの数学教授になったためにそんなふうになったのですから、偶然の産物というほかはありません。明治3年には北尾次郎がドイツに留学して物理学を学んでいますし、寺尾寿は明治12年にフランスに留学して天文学を修めました。数学の担当者はイギリスで学ばなければならないと決まっていたわけではありませんから、成り行きによっては日本の大学ではじめからドイツやフランスの流儀の数学が講じられた可能性もありました。
 ヨーロッパの数学は単色に彩られた球面状ではなく、さまざまな色彩で彩られたいくつもの側面をもつ多面体と見るべきであり、イギリスに学ぶだけでは全容を把握することはできません。菊池大麓自身も早くからそのことに気づいていたようで、現に藤澤利喜太郎に数学を専攻するようにうながして洋行をすすめたとき、まずイギリスに行き、それからドイツに行くようにと指示しています。藤澤利喜太郎はこれを実行し、帰国してドイツ仕込みの複素変数関数論の講義を始めました。
 帰国後の菊池大麓の経歴を略記しておきます。明治10年6月に東大教授に就任したと上に書きましたが、詳しくいうとまずはじめは四等教授という職名だったようで、後の助教授に相当する模様です。この四等教授在任期間は明治10年6月4日から8月26日までで、翌8月27日の日付で教授に就任しています。在職期間は明治31年(1898年)5月1日まで。この間、東京大学理学部長。理科大学学長を歴任。明治21年(1888年)、総長推薦により理学博士の学位を受けました。明治30年(1897年)は高木先生が帝大を卒業した年ですが、この年、菊池大麓は文部省学務局長に転じました。次いで文部次官になり、明治31年(1898年)5月、東京帝国大学総長に就任しました。
 明治34年(1901年)、第一次桂内閣の文部大臣。明治37年(1904年)、教育制度の確立に尽力した功により男爵を授けられました。明治39年(1906年)から一年間、学習院長。明治41年(1908年)から四年間にわたって京都帝国大学総長。貴族院議員、枢密顧問官、帝国学士院長。大正6年(1917年)には理化学研究所の初代所長に就任しましたが。同年8月19日、脳出血のため死去しました。満62歳でした。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 39. 幕末の英国派遣留学生

 菊池大麓については参考資料が多く、幕末の幕府派遣留学生のことも詳しく研究されていて、14人のメンバーのそれぞれの生涯や渡航の様子など、細かい諸事情が明らかにされています。それらを再現するのはたいへんな作業ですし、それに何よりも目標は高木先生の数学的評伝なのですから、あまり迂遠になる事態は避けることにして、ここではひとつだけ、菊池大麓の談話に沿って、多少の補足を添えるだけに留めたいと思います。
 菊池大麓の談話というのは博聞館から出ていた「中学世界」という雑誌に掲載された記事のことで、掲載誌は明治33年(1900年)に刊行された第3巻、第1号です。新年号ですので、「新年大附録」と銘打って「名流苦学談」という特集が組まれました。各界の著名人の苦学の思い出を聞くという主旨ですが、真っ先に登場するのが「東京帝国大学総長 菊池大麓君」です。
 徳川幕府がどうしてイギリスに留学生を派遣したのかというと、イギリス公使のパークスが幕府に強く要請したためで、アメリカやロシアやオランダには留学生を出しているのにイギリスにひとりも留学生を送らないのはけしからんというのがパークスの言い分でした。これを受けてイギリスに留学生を派遣することが決まりましたので、渡航の手配も現地到着後の世話も万事イギリス側が引き受けてくれることになりました。それで渡航中はロイドいう人が付き添いました。ロイドはイギリスの軍艦に乗り込んでいた教師だったのですが、「ちょうどその仕事を辞めて帰国することになったというので、留学生一行の世話係になりました。
 菊池大麓はこの時期はまだ養子に出る前だったようで、箕作大麓と名乗っていました。
 洋服や靴などは乗船の前に準備しましたが、頭の丁髷(ちょんまげ)はそのままだったところ、遠江灘のあたりで一同切り落としました。アラビア海で「西洋の新年」を迎え、スエズで船を降り、カイロを経てアレクサンドリアへ。それからフランスには行かず、ジブラルタル方面へと航海を続けて、まもなくロンドンに着きました。途中で「西洋の新年」をすごしたのですから、グレゴリオ暦ではすでに1868年に入っていることになりますが、当時の日本で使われていた暦ではまだ慶應2年の年末だったかもしれません。目下、正確な到着日時を調べているところですので、判明次第、お伝えします。
 ロンドンではユニバーシティ・カレッジに通い、英語の勉強もし、ロンドンの町のあちこちを物珍しく見物して回り、ずいぶん楽しくすごしましたが、なにしろまだ子どものことでもありますし、この時期に特に数学を勉強したということはありません。
 日本を出発した翌年、すなわち慶應3年の末ころのことになりますが、慶応4年(1868年)2月ころには幕府がつぶれてしまったとみえて、留学費が届かなくなりました。慶應4年の「2月ころ」というのは菊池大麓の談話に記されている日時なのですが、それから急遽帰国することになり、苦心を重ねた末、故国にたどりつきました。本国に帰ったらどんな目に会わされるのだろう、きっと幕府の落武者と同じに取り扱われて牢獄にでも打ち込まれるのだろうとだれもみな思わない者はなかったというのですが、出発点の横浜に到着してみるとそれほどのこともなく、めいめい自宅にもどりました。その時期はちょうど「明治元年の5月20日ごろ」であったと、菊池大麓の談話には出ています。
 これに対し、『日本の数学百年史』を参照すると「1868年(慶応4)年6月25日」に横浜に帰り着いたと記されています。日本の暦が新暦、すなわちグレゴリオ暦に変ったのは明治5年の年末のことで、この年の12月3日をもって明治6年元日とすることに決まりました。12月3日とはまた何だか中途半端な感じがありますが、それなら12月1日と2日はどうするのかといえば、この年11月23日の太政官布告により、12月1日と2日はそれぞれ11月30日、31日にすると定められました。従来の暦、すなわち陰暦では11月は29日まででおしまいで、陽暦で見ても30日までしかなかったのですから、まったく不可解な取り決めです。一説によると、こうすれば12月は存在しなかったことになり、明治政府としては公務員の12月分の給与を支払わなくてすむというので、こんな姑息な手を打ったということです。
 さて、それで菊池大麓たちの一行の横浜到着はいつなのかという問題にもどりますと、菊池大麓の談話に「上野の彰義隊を官軍の打払った後」と出ています。彰義隊が潰滅したのは慶応4年5月15日のことで、これは旧暦による表示です(新暦では1868年7月4日になります)。そこで『日本の数学百年史』にいう「1868年6月25日」は新暦による表示であり、菊池大麓はここのところは旧暦で表示して「5月20日ころ自宅にもどった」と書いたのでしょう。
 新暦の6月25日は旧暦の5月6日、旧暦の5月20日は新暦の7月9日です。ということは、横浜到着は旧暦の5月6日で、それから二週間後の5月20日に自宅にもどったということになりそうです。菊池大麓の談話を頼りにして詰めていけるのはこのあたりが限界ですが、横浜到着の日付などは他の文献を参照すれば正確にわかると思いますので、この点についても判明次第、報告します。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 38.  菊池大麓

 トドハンターはイングランド南東部のイーストサセックスの町ライに生まれた人ですが、高橋豊夫の談話に登場するヨーロッパの数学者はイギリス系統の人たちばかりです。実際、サーモン(1819-1904)はアイルランドの町ダブリン、ブール(1815-1864)はイングランド東部のリンカーンシャーの町リンカーン、フロスト(1817-1898)はイングランド北部のキングストン・アポン・ハルという町の出身です。こんなふうに中学、高校、大学と、日本の近代の数学教育はイギリスの強い影響のもとに歩み始めたのですが、そのようになった理由を考えますと菊池大麓の洋行先がイギリスだったという事実が大きな意味をもっているように思います。
 菊池大麓は東京大学で数学を教えた一番はじめの数学者でした。父は箕作秋坪という人で、津山藩士ですが、徳川幕府の外国方(外国奉行)に勤務していましたので、菊池大麓の生地は江戸になりました。生誕日は安政2年、1855年)1月29日(1855年3月17日)で、次男でした。父の箕作秋坪は蘭学者で開成所教授の箕作阮甫の次女と結婚し、箕作家の養子になったのですが、実家の姓は菊池です。
 文久元年(1861年)、菊池大麓は蕃書取調所に入って英語を学びました。また、神田孝平に算術と代数の初歩を学びました。
 慶應2年(1866年)10月25日(1866年12月1日)、幕府派遣留学生の一員に加わってイギリスに留学しました。この日の夕刻、同行者は14人イギリス艦ニポール号に乗船して横浜を出港したのですが、なにしろ満11歳というのですから、最年少でした。同行者を見ると、外山正一(とやま・まさかず)、林董(はやし・ただす)、福沢英一、中村正直(敬宇)などの名前が目に留まります。三歳上の兄の箕作奎吾(みつくり・けいご)もいました。

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高木貞治 西欧近代の数学と日本 37.  帝国大学の数学

 前回、トドハンターの著作”Elements of Euclid”の書名が出てくる場面に出会いましたが、この本はユークリッド『原論』(全13巻)の冒頭の6巻と第11巻、第12巻の一部分を翻案して作成されました。明治もまだ早い時期に翻訳も出版されています。それは、
 『宥克立』
 長澤龜之助譯 ; 川北朝鄰校閲
 明治17年(1884年、東京數理書院)
という本で、著者のトドハンターの名は「突兌翰多爾」と表記されています。書名の「宥克立」はユークリッドです。
 この翻訳書が刊行された明治17年は、帝国大学の前身の東京大学理学部数学科に最初の卒業生が出た年でもありました。第一回目の卒業生はひとりきりで、高橋豊夫(たかはし・とよお)という人です。数学史家の小倉金之助は、昭和6年(1931年)ころ、高橋豊夫に会ったことがあるそうで、そのときの談話を記録して「日本における近代的数学の成立過程」(『小倉金之助著作集』第2巻、昭和48年(1973年)、勁草書房、所収)という論文の中で紹介しています。
 小倉金之助が採取した高橋豊夫の談話をそのまま写すと次の通りです。

〈・・・菊池先生が用いた教科書は、トドハンターの『方程式論』、トドハンターの『微分』、『積分』、ブールの『微分方程式』、フロストの『立体解析幾何』であった。平面解析幾何は教科書を用いなかったがそれはサーモンの『円錐曲線』のような講義であった・・・。
 他に外国人がおり、イギリスのユーウィングは力学の講義をしたが、この人は日本にとっては、物理学の恩人で、磁気や地震の研究をやった先生です。またアメリカのポールがショヴネー(アメリカの数学者・天文学者)の『球面天文学』をやり、ほかに寺尾先生の天文学の講義がありました。それからアメリカのメンデンホールが物理学の講義をした。この人は富士山の頂で重力の観測をやった人です。その他に北尾次郎先生の音響学の講義があった。北尾先生の講義は、微分方程式がどんどん出てきて、ほかの先生の講義とは、段違いにむずかしかった・・・。〉

 この時期の修業年限は4年でした。「菊池先生」は菊池大麓。小倉金之助の「日本における近代的数学の成立過程」には講義で使われた教科書もしくは参考書が挙げられています。それによると、トドハンターの『方程式論』は3年生、『微分』と『積分』は2年生、ブールの『微分方程式』は2年生、フロストの『立体解析幾何』は3年生、サーモンの『円錐曲線』は3年生のときの講義で用いられたことがわかります。中学でもトドハンター、高校でもトドハンター。そして大学でもまたトドハンターです。まったくトドハンターは大人気でした。トドハンターが書いた数学のテキストの数々は日本の大学の図書館に揃っていて、今も容易に見ることができますが、微積分も代数も幾何も、どれを見ても特に際立った叙述はありません。全体に平凡な印象を受けるのですが、明治前期の日本では英語の数学書で勉強するということ、それ自体がすでに新時代の風をよく象徴していたのでしょう。
 「寺尾先生」は寺尾寿。北尾次郎は松江の人で、ドイツに留学してベルリン大学でキルヒホフ、ヘルムホルツに物理学を学び、クンマーに数学を学びました。専攻は理論物理です。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 36.  三高から帝大へ

 第三高等中学校を卒業した高木先生は、明治27年9月、東京に出て帝国大学に入学しました。所属先は理科大学の数学科です。理科大学というのは帝国大学を構成する五つの分科大学のひとつです。
 帝国大学の前身は東京大学で、東京大学は学部制だったのですが、明治19年に公布された帝国大学令により従来の東京大学は帝国大学になりました。これに伴って学部制は廃止され、新たに分科大学制が導入されたのですが、この制度が維持されたのは大正8年(1919年)2月までで、それから先はかつての学部制にもどり、そのまま現在に至っています。
 帝国大学が発足した当初の分科大学は五つで、法科大学、医科大学、工科大学、文科大学、それに理科大学でしたが、少し後に、というのは明治23年6月のことですが、農科大学が加わりました。修業年限は医科大学が4年で、他の分科大学は3年でした。各分科大学の長は「学長」と呼ばれ、帝国大学の全体の長は「総長」と呼ばれました。
 大学の学制の変遷にも相当にめまぐるしいものがありました。高木先生は入学して3年後の明治30年7月に卒業したのですが、この年の6月には帝国大学が「東京帝国大学」と改称されるという出来事がありました。これは京都にもうひとつの帝大が設置されることになったためで、東京帝大、京都帝大というふうに所在地の地名を附して区別することにしたのでした。これで日本の帝大は二つになり、「東西両京の帝大」と呼ばれるようになったのですが、それはともかくとして、高木先生は「帝大に入学して東京帝大を卒業する」という成り行きになりました。
 高木先生と同時に数学科に入学した学生は8人いたのですが、そのうち卒業したのはたった二人で、高木先生と吉江琢兒(よしえ・たくじ)だけでした。三高と同様、帝大もまた卒業がむずかしい学校でした。もっとも明治30年7月に数学科を卒業したのは実は3人で、高木先生と吉江琢兒のほかにもうひとり、林鶴一がいっしょでした。この三人はみな三高の出身ですが、林鶴一は一年先輩です。帝大にも一年早く入学しましたが、大学時代にチフスに感染して一年遅れたため、東大卒業は高木先生と同年になりました。
 吉江琢兒は明治7年(1874年)4月、山形県上山(かみのやま)に生まれました。高木先生よりひとつ年長になります。父は上山藩士で、吉江琢兒が生まれたころは県庁に勤務していましたが、その後、東京に出て陸軍省に勤務しました。吉江琢兒は東京の芝の小学校に入学し、10歳のとき、父の転勤により広島に移って転校。それから広島県尋常中学校を経て三高に進み、ここで高木先生と同期になりました。河合十太郎先生にデデキントの著作「連続性と無理数」を無理やり読まされて苦労したという逸話が残されています。広島の中学校の三年のときはトドハンターの”Algebra for beginners”や”Elements of Euclid”を教わったということですが、前者は高木先生が岐阜の中学で教わったという「トドハンターの小代数」と同じものと思います。後者はユークリッドの『原論』に基づく初等幾何の入門書です。
 大学卒業後、高木先生も吉江琢兒も教官要員として洋行し、帰朝して東大教授になり、高木先生は代数学、吉江琢兒は解析学の講座を担当しました。

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