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高木貞治 西欧近代の数学と日本 14. 寺尾寿の算術と菊池大麓の幾何

 高木先生の回想によると、岐阜県尋常中学校で使われた教科書は当初は原書ばかりだったということですが、高木先生が卒業するころになると日本語の教科書もぼつぼつと出るようになったそうです。高木先生は「飯島魁さんの動物学」「三好学さんの植物学」「菊池大麓さんの幾何学」「寺尾寿さんの算術」を例に挙げています。
 菊池大麓は明治維新で新政府が成立した後、東京に設立されたただひとつの大学で数学を講義した人で、この意味において日本近代の一番はじめの数学者です。高木先生のいう「菊池大麓さんの幾何学」が何を指すのか、高木先生のエッセイには明示されていませんが、ひとまず高木先生の中学時代が終了するまでの時期に限定して菊池大麓が刊行した数学書を概観すると、翻訳書としては、
 『平面幾何学教授條目』(博聞社、1887年)
があり、編纂した書物としては、
 『初等幾何学教科書 平面幾何学』(文部省編輯局、1888年)全二巻
 『初等幾何学教科書 立体幾何学』(文部省編輯局、1888年)全二巻
があります。高木先生が使用したのもこれらの教科書だったのでしょう。後者の平面幾何と立体幾何の二冊の本の発行元が民間の出版社ではなく、文部省編輯局となっているのはちょっと不思議な感じのするところですが、これについては後年の高木先生の発言があります。
 明治31年(1898年)5月、東大を卒業して大学院に在学中の高木先生は『新撰算術』という著作を刊行しましたが、後年、というのは東大を退官後の昭和14年(1939年)のことなのですが、「考へ方研究社」の数学誌「高数研究」第3巻、第7号(1939年4月)に掲載された「高木・吉江両博士を囲む会」という座談会の場で、『新撰算術』の発行部数について発言したことがあります。
 どのくらい発行されたのかと問われた高木先生は、「あれは印税ではないからわからない」と応じ、それから印税制度のはじまりを語りました。印税という制度は菊池大麓の幾何の教科書が始まりと聞いているが、あれは文部省が出して、後に民間に払い下げた。そのときにどうするかということになったが、結局、著作者と出版社の山分けということになったというのが、高木先生の話です。何事にもはじまりというのがあるもので、実におもしろい話です。
 「寺尾寿さんの算術」の「寺尾さん」というのは寺尾寿という人のことです。安政2年(1855年)9月、福岡藩士の子として筑前に生まれました。洋行してフランスに学び、帰朝後、東京大学理学部星学科の教授になり、東京天文台の初代所長も兼任しました。この寺尾寿が編纂した書物に
 『中等教育算術教科書』(敬業社、1888年)上下二巻
というものがあります。高木先生はおそらくこれを中学時代に勉強したのであろうと思います。高木先生の評によれば、「フランス式の初等整数論といった理論的の本」とのこと。『日本の数学100年史』には、「フランスのブリオーやセレーの算術書を参考に、寺尾自身の理論体系でまとめて講述したもの」であり、「いわゆる理論算術と呼ばれるものの嚆矢で、算術とはいっても理論的、整数論的色彩の強いものであった」と紹介されています。そこでブリオーとセレーの原著作を参照し、寺尾寿が編纂した教科書と比較参照するのもおもしろそうに思うのですが、その方面に踏み込むと明治初期日本の洋算受容史のようになってしまい、高木先生の生涯と学問を語ろうとする本来の道筋から、あまりにも遠く離れすぎてしまいそうです。
 寺尾寿の略歴を述べたついでに、菊池大麓についても生涯のあらましを紹介しておきたいと思います。
 菊池大麓は安政2年(1855年)1月29日、津山藩士の箕作秋坪の次男として江戸に生まれました。箕作家に生まれたのになぜ菊池を名乗ったのかといいますと、父の箕作秋坪が蘭学者の箕作阮甫の次女と結婚して箕作家の養子になったためで、父の実家の姓は菊池でした。菊池大麓は父方の家を継いだのでしょう。
 文久元年(1861年)、蕃書調所に入って英語を学び、神田孝平に算術と代数の初歩を学びました。慶應2年(1866年)、幕命によりイギリスに留学しましたが、幕府瓦解のため留学費が届かなくなったため、急遽、帰国。開成学校に入りました。明治3年(1870年)、今度は明治政府の命により再び渡英。明治10年(1877年)5月、帰朝。6月、東京大学理学部の教授に就任して物理と数学を講じました。高木先生が東京に出て帝国大学の数学科に入学したとき、数学科に在籍した教授は二人きりだったのですが、そのひとりが菊池大麓でした。
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高木貞治 西欧近代の数学と日本 13. 修学旅行(遠足運動)

 次に挙げるのは高木先生の作文の一節で、10月25日の模様が描写されています。

〈廿五日 午前六時出発す。四面皆山、未日光を見ず。寒気殊に甚し。行くこと里許にして大野郡河内村に至る。飛騨川の源流山麓を蜿蜒し河中奇石錯立怪岩屏列し、其水清冽或は馳せて激湍となり、或は渦して深淵となり、風景殊に奇絶、人をして自ら豪壮の気を起さしむ。十時久々野村に着し旅舎に就いて午餐を喫す。
正午宮峠に達す。峠海面を抜くこと二千余尺、太平洋日本海の分水界なり。峠を踰れば水無神社有り。(中略)乃境に小憩し再び隊伍を整へ午後二時高山町に達し、直に同地の三星製糸場及同織工場を参観し畢て乃旅舎に投す。時正に四時なり。〉

 この旅日記が掲載されたのは「学術講談会雑誌」の第6号ですが、この雑誌を発行したのは岐阜尋常中学校に設立された学術講談会の雑誌部です。第一号の発刊は明治23年7月18日ですから、高木先生が参加した修学旅行の少し前の時期です。
 学術講談会の前に「甲申会」という会が存在しました。これは明治17年に華陽学校に設立された演説討論会で、この会を引き継いだのが学術講談会です。学術講談雑誌の第1号に甲申会設立の主旨が記載されています。

〈明治一七年甲申ノ歳、職員中ニ有志ノ者数名アリテ、所定日課ノ傍ラ生徒ヲシテ互ニ知識ヲ交換シ弁論ヲ錬磨セシメントテ専ラ学術ニ関スル演説討論ノ買いヲ設ケンコトヲ主唱〉

一部分の引用ですが、例によって『岐阜県教育史 通史編 近代一』から引きました。
 高木先生には「中学時代のこと」というエッセイがあり、「学図」という雑誌の第1巻、第3号に掲載されていますが、発行されたのは昭和27年(1952年)ですから、実に77歳のときの回想記です。英語、理科、数学などの授業の様子が回想されていますが、明治初期の岐阜尋常中学の授業の模様を伝える資料はこの高木先生の回想記だけしかないようで、『岐阜県教育史 通史編 近代一』でももっぱら高木先生の体験談が引かれています。
 高木先生によると、バーレーの万国史、スウィントンの万国史、ロスコーの無機化学、スチュワートの物理など、外国の書物をそのまま教科書として使ったのだそうです。数学ではトドハンターの小代数、ウィルソンの幾何学を使いましたが、一年生や二年生にはとても読めませんから、先生が大意を講義して、生徒はそれを筆記するという流儀で進められました。それで、これらの本は「教科書というよりも、むしろ今いう参考書に近いものであった」と高木先生は言っています。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 12. 入学試験

 小学校と中学校の話はなかなか複雑ですが、ようやく高木先生が入学することになる岐阜県中学校の創設にたどりつきました。華陽学校の中学科は初等科と中等科に二分され、修業年限はそれぞれ4年と2年、計6年だったのに対し、岐阜県中学校の修業年限は5年になりました。学年は4月1日から翌年3月31日まで。生徒募集にあたって入学試験が行われました。
 華陽学校の中学科が岐阜県中学校になったのは明治19年5月6日ですが、その直後の5月11日に「華陽学校初等中学科」の生徒30名の募集を公示しました。廃止された華陽学校の生徒を募集するというのはいくぶん奇妙ではありますが、これはこのときの入試が「華陽学校中学科入学試業規則」に依拠して行われたためであろうと思われます。形式の上では華陽学校中学科初等科の最後の入学試験です。高木先生はこの試験に合格し、実際には岐阜県中学校に一年生として入学しました。入学の時期は、高木先生の回想録「中学時代のこと」によれば、この年の6月です。
 明治20年1月28日、岐阜県中学校は「岐阜県尋常中学校」と改称されました。明治23年10月、高木先生は最終学年の5年生になっていましたが、修学旅行に参加しました。『岐阜県教育史 通史編 近代一』に収録されている記録によると、往路は10月21日から25日までで、岐阜から下ノ保、金山、下呂、小坂を経て高山に向かいました。参加者は職員9名、喇叭(らっぱ)手その他職員5名、生徒41名、計55名です。復路はどうしたのか、不詳です。
 修学旅行は当時は遠足運動と呼ばれたりすることがあったそうです。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 11. 遷喬中学から岐阜県中学校まで

 岐阜県に一番はじめにできた中学の名前は「遷喬中学」というのですが、「遷喬」とはまたむずかしい言葉です。『岐阜県教育史 通史編 近代一』には解説が出ていますが、それによると出典は「詩経」とのことで、どのような意味かというと、小学館の『国語大辞典』から引いて、「鶯が谷から出て喬木に移り住むこと。転じて高い地位に昇進したりよい方向に転じたりすることのたとえ」と説明されています。「喬木」というのは背の高い木、すなわち「高木」のことなのですが、こんなところでひょっこりと高木先生のお名前に出会いました。どのくらいの高さなら喬木と呼ばれるのかといえば、1丈、すなわちおよそ3メートルを越えることが規準になっているようです。
 遷喬中学の在学期間は6年で、下等と上等に大きく二分され、各々の中学は六ヶ月ずつ区切られますから、下等中学は第六級から第一級までの三年間、上等中学もまた第六級から第一級までの三年間の課程を経て卒業することになります。半年ずつ区切られて、そのつど昇級試験が課されるところは小学校と同じです。生徒はどのくらい存在したのかというと、これも『岐阜県教育史 通史編 近代一』の記事ですが、明治7年9月7日の開校の時点で「入塾生30名、通学生45名」が入学を許可されたということです。
 遷喬中学は現在の岐阜県立岐阜高等学校の一番はじめの姿ですが、明治9年ころから遷喬中学という名称は次第に使われなくなり、代って「岐阜中学」という呼称が登場しました。このあたりの呼称の変遷も微妙なのですが、正式には明治10年5月11日付の県達丙第17号により遷喬学校は「岐阜県第一中学校」と改称することが告示されました。
 設立された学校は中学校ばかりではなく、師範学校などもできていたのですが、その後の変遷を略記すると、明治13年10月5日、師範学校と第一中学校が合併して「華陽学校」という学校になりました。ところが明治19年4月10日、「中学校令」が公布され、これを受けて、同年5月6日、華陽学校は再び解体されて師範学校と中学校に分れました。注意を要するのは呼称の微妙な相違で、正確に表記すると師範学校は「岐阜県師範学校」、中学校は「岐阜県中学校」となります。高木先生はこの岐阜県中学校に入学しました。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 10. 義務教育年限の変遷

 高木先生の中学校時代の話をする前に、小学校時代に関して新たに気づいたことがあります。それは義務教育の年限のことなのですが、「学制の時代」には教育年限を下等と上等が各々4年で計8年とされましたが、強制力は弱かったのだそうです。「教育令の時代」に移ると、教育年限は基本的に8年のままとして、最短16ヶ月通学すればよいという規定に改められました。16ヶ月というと1年半程度のことになります。この最短規定は明治13年12月28日に公布された改正教育令に移るとさらにもう一度改正されて、3年になりました。文部科学省のホームページに「我が国の義務教育制度の変遷」という記事があり、このようなことが判明しました。これを高木先生の場合にあてはめてみますと、高木先生の小学校時代はともかく4年間に及んだのですから、最短規定を越えています。中学校に進む資格は十分にあったことになります。
 少々蛇足ですが、「我が国の義務教育制度の変遷」を読み進めると、「教育令の時代」までは最短規定は存在したものの、「義務教育」という言葉そのものが使われていたわけではなく、この言葉がはじめて現われたのは明治19年の小学校令なのだそうです。
 さてそこで中学校のことですが、明治5年の「学制」には小学校のみならず中学に関する規定もありました。学制の根幹は学校を大学、中学、小学と三段階に区分けするところにありました。全国を8個の大学区に分け、各々の大学区に大学をひとつ作ります。次に各大学区を32個の中学区に分け、各々の中学区に中学をひとつ作ります。それから各中学区を210個の小学区に分け、各々の小学区に小学校をひとつ作ります。実に整然として雄大な構想で、これが実現すれば大学が8校、中学校が256校、そして小学校は53760校という、堂々たる構えが整えられることになりますが、もとよりこの構想の通りに実現するにはいたりませんでした。
 明治期の教育制度を細かく観察すると、「学制の時代」の前にも小学校や中学校が開設された地域はあったのですが、そのあたりの諸事情は省略して「学制の時代」から話を始め、しかも岐阜県のみに着目することにしたいと思います。
 『岐阜県教育史 通史編 近代一』の記述に沿うと、岐阜県は明治6年2月9日に「岐阜町小学義校開業願書」という文書を文部省に提出し、そこに「仮中学校」を開設したいという主旨の言葉を盛り込みました。2月14日、許可が下り、仮中学校の設置が決まりました。設置場所は「岐阜町六番地」。授業開始は9月5日。開校式は11月4日と記録されています。この仮中学が正式の中学になり、明治7年9月7日、「遷喬館」もしくは「遷喬学校」もしくは「遷喬中学」と呼ばれる中学校が開校しました。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 9.  4年2ヶ月の小学生時代

 高木先生のいう「十二の年」については前期の通りでひとまずよしとして、次に「(小学校を)卒業か中退かして」というところに考察を加えてみたいと思います。今日の常識的な観念からすると「小学校を卒業する」というのは普通のことですが、「退学する」ということは小学校にはありえません。ところが「学制の時代」や「教育令の時代」には退学というか、進級ができないという事態が実際にありえました。
 「学制の時代」でいうと、半年ごとに昇級試験がありました。たとえば第三級生が昇級試験に合格すれば「第三級卒業」の証書を授与されて第二級生に進みます。第一級生の場合には、下等小学の場合でも上等小学の場合でも、いずれにしても最上級のため昇級ということはありませんから、昇級試験ではなく「卒業試験」が行われます。昇級試験や卒業試験に合格しなければ昇級、卒業はできず、原級に留め置きということになります。このような事情は「教育令の時代」にも同様ですから、「小学校を卒業する」という、今日のような簡単明瞭な事態はありえません。しいていえば、「学制の時代」には下等小学の第一級の卒業試験に合格すれば下等小学を離れるわけですから、これをもって「下等小学卒業」と言うことができます。そのうえでさらに上等小学に入学して最後の第一級の卒業試験に合格すれば、「上等小学卒業」となります。この事情は「教育令の時代」になっても同様ですが、今度は「初等科卒業」「中等科卒業」「高等科卒業」と、三種類の小学校卒業があることになります。
 そこで高木先生のいわゆる「卒業か中退かして」にもどりますと、高木先生は「上等科七年前期」を卒業もしくは中退したというのでした。「上等科」の「上等」というのは「学制の時代」の上等小学の上等のことであろうと思われますが、高木先生は「教育令の時代」の小学生だったのですから、ここは「高等科」の間違いと思われます。なにしろ学制が複雑に変化した大昔の出来事の回想ですから、勘違いしたのでしょう。「七年前期」の「七年」というのは「学制の時代」には考えられないことですし、これは「教育令の時代」の小学校に入学して七年目の学年を指していると考えるのが妥当ですが、そうすると高等科の第一年に相当します。
 高木先生が高等科第一年を卒業または中退したのはいつのことだったのでしょうか。高木先生の言葉の通りとすると、明治19年6月には中学に進んでいるのですから、5月末あたりまでに「卒業か中退」をしていることになります。この点を明らかにするには中学校の成立事情についてもう少し詳しく考察する必要がありますが、小学校には明治15年4月から明治19年5月まで、4年と2ヶ月にわたって通学したと、ひとまず判断されます。ひとまずと保留したのは、入学が4月であることと、卒業または中退が5月であることに確信をもてないからです。
 それにしても小学校の課程をすべて踏めば8年を要するところ、4年ほどで終えてしまったのはいかにも不思議です。この点について、本田先生は飛び級をしたのだろうと推定しています。おそらくそうだったのだろうと思いますが、ではどの段階を飛び越したのか、正確なことはやはり不明です。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 8. 二つの生誕日

 高木先生のエッセイに「中学時代のこと」という回想記がありますが、そこには「十二の年に、郷里の小学校の上等科七年前期というものを、卒業か中退かして、明治十九年(一八八六)の六月に岐阜の中学校へ入った」と記されています。簡単な記事ではありますが、読み解こうとするといつも困惑を覚えます。
 これまでに何度も同じことを書いてきたようにも思いますが、疑問を誘われる箇所を挙げると、まず「十二の年」、次に「卒業か中退かして」という言葉、それと「六月」というところです。
 「十二の年」というのはいつのことなのでしょうか。高木先生の生誕日は明治8年4月21日ということになっていて、本田先生の評伝をはじめ、高木先生の生涯を語る記録は例外なくこの年月日を採っています。たぶんこれで間違いないのでしょうし、疑いをはさむ理由があるわけでもないのですが、根拠は何かというと、よくわかりません。他方、高木先生が岐阜中学を卒業したときの卒業証書の実物が本巣市の高木家に保管されているのですが、そこには「明治九年一月生」と明記されています。中学校の卒業証書に記載されているのですから、これは正式な数字というか、村役場に提出された出生届けに記入された生誕日と見てよいのではないかと思います。実際に生まれたのは明治8年4月21日で、これは通説の通りですが、年明けを待って生まれたことにして翌年早々に届け出たのであろうというのが、ひとまず念頭に浮かぶ仮説です。
 現在では誕生日をずらして届け出ることは一般的に見てありえませんが、以前はそうでもなく、実際よりも早くしたり遅くしたり、いろいろな都合により適当に届けられることがありました。年明けを待って届け出るのはきりもいいですし、それに何となくめでたい感じもあったのでしょう。岡潔先生は明治34年4月19日のお生まれですが、一ヶ月早めて3月19日に生まれたことにして届け出がなされましたので、これが正式な生誕日になりました。京都大学の旧教養部の図書館の地下に参考資料室というのがあり、そこに岡先生が三高を受験した時の受験票が保管されていて、生年月日が記入されているのですが、そこに見られるのは「3月19日」です。これはこれで正しい数字ですが、岡先生は岡先生で御自身の生誕日をいつも4月19日と書きました。さて、これをどのように諒解したらよいのでしょうか。
 生誕日を3月19日とする書類はいくつもありますから、大仰に言うと「3月19日」は文献学的な証拠に基づいています。これに対し「4月19日」のほうには文献上の根拠はありませんが、岡先生がいつ生まれたのか、実際のところを知っているのは岡家の人々のほかにありえませんし、その岡家で語られている以上、それをまちがっていると主張することはだれにもできません。それで岡先生の場合には、文献上の根拠のないことを承知したうえで、なおかつ岡先生の言葉をそのまま信じることにして、どうしても「4月19日」を採りたいという心情に傾きます。もっとも、生誕日を早めて届けるという事例は少ないのではないかと思います。
 上記のような状況を踏まえて高木先生の場合にもどりますと、実際の生誕日は明治8年4月21日で、これは高木家で語り伝えられた日時と考えられます。戸籍上の生誕日は明治9年1月ですが、1月の何日なのかというところまではまだ把握していません。
 ここで上記の高木先生のエッセイ中の「十二の年」にもどり、これは何年を指すのかというところを考察してみたいと思います。高木先生は幼年期には御自身の生誕日を明治8年4月21日と認識していたにちがいありませんし、たとえ実際の生誕日を承知していたとしても、表向きには戸籍上の日付を採用したと思われます。ですが、「中学時代のこと」というエッセイを書いたのはすでに晩年のことですから、もちろんすでに実際の誕生日を知っていたと思われます。また、高木先生は従来の風習をたぶんそのまま継承して、年齢を数え年で数えていたと思われます。この仮説に立つと、高木先生のいう「十二の年」は、明治8年を第一年目として12年目、すなわち明治19年になります。高木先生の中学入学は明治19年で、これはまちがいありませんから、ここでの仮説とぴったり合致します。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 7. 明治初期の学制の移り変わり

 現在、東京に滞在中で手もとに基礎文献が揃ってないことは既述の通りですが、昨日、すなわち3月22日に広尾の都立中央図書館にでかけたところ、意外な諸事実があれこれと判明しました。手もと不如意のまま『日本の数学100年史』だけを頼りにして河合先生を紹介するつもりだったのですが、いきなり高等中学時代に話を移すのはやはり乱暴で、小学校時代と中学校時代の話にもう一度、手をもどさなければならないと痛感しました。昨年末、本巣市訪問記を書こうとしたとき、話の糸口のつもりで高木先生の小学校時代のことに簡単に触れようとしたところ、細かな経緯をめぐって疑問が百出し、ああもあろう、こうもあろうと堂々巡りの考察がえんえんと続きました。今度もまた同じ事態に直面してしまったようで、調べれば調べるほどわからなくなるというのですから、まったく困惑するばかりです。
 3月22日は祭日で図書館は午後5時半で閉館になりますので、滞在時間は3時間程度だったのですが、まずはじめに

『岐阜県教育史 通史編 近代一』
(平成15年2月28日発行。編集発行は岐阜県教育委員会)

という本を参照しました。この本には明治初期の学校制度の変遷が詳述されているのですが、基本的な事実をおさえると、文部省が「学制」を頒布したのが明治5年8月3日(1872年9月5日)、続いて「小学規則」を制定したのが同年9月8日です。これによって小学校は上等小学と下等小学の二部制と規定されました。下等小学は初等教育機関で、習業年限は6歳から10歳までの4年間。上等小学は中等教育機関で、習業年限は10歳から14歳までの4年間。計8年間です。それぞれ8個の級に分け、習業期間は毎級6ヶ月ですから、飛び級などせずにすべての課程を踏んでいくと、下等小学の8級から始めて上等小学の1級で終ることになります。入学して一番はじめは下等小学の第8級に所属するわけですから、今日のような「小学校1年生」という数え方なのではありません。この時期を指して「学制の時代」と呼ぶことがあるようです。
 明治12年(1879年)9月29日、「教育令」が公布され、これにともなって、同日、学制が廃止されました。従来の「学制の時代」はこれで終焉し、新たに「教育令の時代」が始まりました。高木先生が一色学校に入学したのは明治15年4月ですから、すでに「教育令の時代」に入っています。それでこの時代の小学校の制度はどのように決められたのかというと、明治13年12月28日に教育令の改正が行われ、そこに新制度の方針が法制上明確に表明されました。すなわち、改正教育令の第23条の規定によると、「文部卿頒布スル所ノ綱領」に基づき、府知事県令が土地の状況を勘案して小学校教則を編成し、文部卿の認可を経ることになったのですが、これを要するに小学校の校則は府県単位で制定されるということにほかなりません。
 これを受けて、明治14年(1881年)5月4日、文部省は「小学校教則網領」を頒布しました。小学校教則のモデルケースを提示したわけですが、これを見ると小学校は初等科3年、中等科3年、高等科2年というふうに三つの課程に分けられています 。初等科3年(6歳から9歳まで)、中等科3年(9歳から12歳まで)、高等科2年(12歳から14歳まで)。計8年制です。「学制の時代」の「上等」「下等」という言葉はもう見られません。
 小学校の制度をこのようにせよという文部省の方針が出たのですから、岐阜県の側でも文部省の意向に沿うことになり、明治15年(1882年)1月28日、岐阜県は文部省の「小学校教則網領」を忠実になぞって「岐阜県小学校教則」を制定し、文部省に認可を仰ぎました。なにしろそっくりなぞっているのですから問題があろうはずがなく、2月24日、認可を受けました。3月29日、県下に告示。4月8日、岐阜県は郡役所に通達を出し、郡内の各学区に対し、「岐阜県小学校教則」に準じるようにと指示しました。ちょうど高木先生の一色小学入学と同じ時期のことです。今度の制度では学年が一年ごとに区切られていますが、各々の一年がさらに半年ごとに区分けされている点は従来の通りでしたの、入学時には初等科の第一年の前期に所属することになります。
 高木先生は一色小学の初等科の第一学年に入学し、まず前期課程の卒業をめざしたことがわかります。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 6. 出生前後

 高木先生の母はつね、父は木野村光蔵という人でした。高木家に生まれたつねは木野村家の嫁ぎましたが、お産のため実家の高木家にもどり、明治8年(1875年)4月21日、高木先生が生まれました。ところが、どうしてなのか理由はよくわからないのですが、つねは木野村家にもどらずそのまま高木家に留まり、高木先生はつねの兄の勘助の養子になりました。
 このあたりの消息は本田先生が詳しく調べていて、連載稿「高木貞治の生涯」に紹介していますが、それによると勘助には「いを」という奥さんがいて、いとこだったそうですが、そのいをには「しなよ」という名の女の子の連れ子がいました。勘助の母、すなわち高木先生の祖母にあたる人も健在で、名前は「たか」。勘助の父はやはり勘助という名で、嘉永6年(おおよそ1853年)に亡くなっています。そこにつねがもどってきて高木先生が生まれたのですから、高木先生の出生時には全部で6人の人が高木家に同居していたことになります。
 高木先生の養父の勘助は天保6年(おおよそ1835年)の生まれ、母のつねは天保14年(おおよそ1843年)の生まれですから、高木先生が生まれたとき、数え年で数えると勘助は41歳、つねは33歳ほどでした。高木家は農家でしたが、村役場で収入役をつとめていました。
 高木先生の母のつねが木野村家にもどらなかったことについて、本田先生は「蛭(ひる)の物語」を語っています。木野村家も農家でしたが、田が低地にあり、蛭がたくさんいました。それで田にはいると蛭にたかられて血をすわれるのですが、つねはそれに耐えられなかったために木野村家にもどらなかったというのが、本田先生の語る「蛭の物語」です。本田先生は非常に多くの人にインタビューをしていますので、高木先生の親戚筋のどなたかがそのような話をしたのかもしれませんが、田んぼに蛭がいたという程度のことで婚家から去るなどということが本当にあったのかどうか、にわかには信じ難い感じもあります。
 養父の勘助は後にもうひとり、保吉という名の養子をとりました。高木先生の弟になりますが、高木先生は東京に出ましたので、保吉が高木家を相続するかっこうになりました。現在、本巣市の高木家は保吉の孫の英美さんの代になっています。
 高木先生は一色学校から岐阜市内の中学校に進み、卒業後、京都の高等中学を経て東京の帝国大学に進みました。この間の経緯については前に詳述したことがあります。
 明治24年9月、高木先生は京都の第三高等中学校に入学し、河合十太郎先生に数学を学びました。数学的評伝という視点に立つと、高木先生の生涯において河合先生は非常に重要な一を占めることになりますので、この際、多少詳しく紹介しておきたいと思います。といっても、現在、旅行中のこともあり、手もとにあるのは
『日本の数学100年史』(上下2冊、「日本の数学100年史」編集委員会編、岩波書店、1983年)
の上巻だけしかありませんので、とりあえずこれを見て概略を書き留めるくらいのことしかできません。本当は『日本の数学100年史』の叙述の元になった文献に直接あたるのがよいのですが、旅行の後に、それを実行したいと思います。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 5. 複雑な地名と学制

 高木先生の周知の生地の出生当時の地名をわざわざ明記したのはなぜかといいますと、表記の変遷がやや複雑で、しばしば間違って記載されることがあるからです。番地は「557番地」でいいとして、ときおり見かけるのは「岐阜県本巣郡数屋村」という表記です。「本巣郡」ではなく「大野郡」が正解なのですが、後にいくつかの村が合併して「一色村」という村が作られて、しかもその一色村は本巣郡に編入されるという出来事があり、当初の「大野郡数屋村」は「本巣郡一色村数屋」へと変遷しました。高木先生の没後、生誕100年を記念して編纂された『追想 高木貞治先生』という本の末尾の年譜には、生地としてこの表記が採用されています。
 それからさらに、昭和30年になってからのことですからずっと後のことになるのですが、一色村は糸貫村の一部となり、糸貫村はさらに変容して糸貫町になりました。その糸貫町も今はなく、かつての数屋村は本巣市の一区域になっていることは既述の通りです。
 1882年(明治15年),高木先生は一色学校に入学しました。その名の通り、「一色」という地名の場所に設立されたのですが、一色は数屋村の隣の見延村に所属する地区で、一色学校が設立されたのは高木先生が生まれる4年前の明治11年のことでした。一色学校は小学校ですが、校名は一色学校であり、「一色小学校」ではありません。
 高木先生の生地を本巣郡一色村数屋と諒解することにすると、一色学校はさながら高木先生の故郷の村の小学校のような感じになりますが、生地の村はあくまでも数屋村であって一色村ではなく、しかも一色は数屋村の隣村の地区名なのですから、話の順番が逆になってしまいます。
 小学校の学制の変遷もなかなか複雑で、間違いやすいのですが、高木先生が一色学校に入学した当時、小学校は初等科(3年間)、中等科(3年間)、高等科(2年間)と、大きく三つの課程に区分けされていました。すべての課程を踏んでいくと、小学校を終えるのに全部で8年かかることになりますが、実際にはそんなフルコースをたどる子供はかえって少なかったようで、しかも飛び級というのもひんぱんに行われていたようでもありますから、何年何月に小学校を卒業したと、今日のように明快に書き記すことはなかなかできません。
 各々の学年は今日の小学校のような三学期制ではなく、セメスター制というか、前期と後期に区分けされました。しかも前期を終えれば前期課程修了の証書が出ますし、続いて後期を終えれば今度は後期課程の終了証書が出るというふうで、半期ごとに修了したりしなかったりしました。修了することができず留め置きになることもあったでしょうし、学校に来なくなってしまう子供もいたことと思います。そうかと思うと高木先生のように飛び級も可能でしたから、一般論で考えていくとついつい間違ってしまいます。
 このあたりの経緯については以前、詳しく考証したことがありますので、ここではこのくらいにしておきたいと思います。
 本田先生の評伝には、高木先生は小学校6年の課程(尋常科4年、高等科2年)を3年で終えて、さらに上等科に進んだと記されていますが、ここはやや複雑な間違いが入り混じっています。小学校の課程が尋常科と高等科に分けられたのは少し後のことで、高木先生が入学した当時は前述の通り、初等科、中等科、高等科に分れていました。ところがそれよりも前は下等科と上等科の二部制でした。各等の履修課程はそれぞれ八級から一級まで8段階に区分され、満年齢6歳で入学し、六箇月ごとに試験を受けて進級し、14歳で上等小学第一級を卒業するのが原則でした。本田先生が「上等科に進んだ」と書いたのは、このあたりの消息を混同したためではないかと思われます。

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