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岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想90.  玉城先生の訃報に接する

 平成11年の年初の羽村談話会の席でゴローさんと話し合ったときのことですが、ゴローさんは春雨村塾に大きな興味を示し、ぜひ一度、訪ねてみたいという希望を表明しました。それまわりと近々のことのようで、なんでも2月はじめに和歌山の熊野で文学仲間の集りがあった熊野に行くので、そのまま奈良に足をのばしたいというのでした。そこで春雨村塾の連絡先の住所を伝えるとともに、ぼくからもゴローさんの心情を伝えておくという話をしました。ゴローさんの春雨村塾訪問は2月初旬に本当に実現しました。
 1月16日、海南行。翌17日は第三日曜日でしたので、大津の義仲寺に出かけて「風日」の新年歌会に出席し、深夜、帰宅しました。
 それから一週間がすぎ、1月23日、新聞の朝刊で玉城康四郎先生の訃報に直面しました。1月14日の午後4時36分、肺炎のため三鷹市の病院で逝去されたことを伝える記事を見たのですが、たいへんな衝撃を受けました。玉城先生は大正4年(1915年)7月29日のお生まれですから、満年齢で数えると83歳でした。生地は熊本市です。仏教学者ですが、単に学者というよりも宗教者と呼ぶほうが相応しく、生涯がそのまま宗教であるような方でした。日本評論社の数学誌「数学セミナー」で「玉城先生に岡潔先生を語ってもらう」という主旨の企画を立てて、しばらくお話をうかがったことがあります。
 玉城先生は東京杉並の久我山にお住まいでした。新聞で訃報を知ってすぐに電話をかけると奥様が出ましたので、お悔やみの言葉を申し述べ、それからお亡くなりになるまでの消息をうかがいました。前年末、12月21日に熊本の兄が亡くなりました。それで、23日まで原稿の執筆を続け、24日、熊本に出向きました。熊本行の前まではお元気だったのですが、遠方の旅のためか、風邪をひいて東京にもどってきました。自宅で点滴を受けて治療を続けたものの、回復に向かうきざしが見られず、手に負えないから入院してほしいと主治医に言われました。12日、三鷹の病院に入院。14日、肺炎のため亡くなりました。
 最後まで頭が冴えていて、亡くなったのは4時36分と記録されていますが、4時をすぎたころ、心配ないからお帰り、と奥様に話しかけたということでした。本当に未練のない様子で、自分の世界に没入していた。かねがね死後の世界に深い関心を示していたから、今ころは冥界を探求しているのではないか。奥様はそんなふうに話してくれました。
 玉城先生は御自分の訃報のことは決してだれにも知らせてはならないと、かねがね言っていました。それでどこにも知らせなかったのですが、(東大の)文学部の事務から、新聞に出していいかという問い合わせがありましたので、学校に迷惑をかけてはならないと思い、受け入れたとのこと。それで1月23日付の新聞に出たという次第です。
 玉城先生には道元の『正法眼蔵』を教えていただきました。『正法眼蔵』は岡先生が長年にわたって愛読した書物ですが、玉城先生の仏教学は岡先生と道元の関わりを解き明かす重要な鍵です。ほとんど唯一の鍵であろうと思います。
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岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想89. 拡大する市民大学

 「心情圏」の昭和43年9月号の閲覧をもう少し続けると、市民大学が開講されて場所の一覧表が目に留まります。東京校、大阪校、京都校、神戸校、福岡校のそれぞれの所在地の住所が明記されているのですが、昭和45年2月号にはさらに仙台校、前橋校、広島校の住所が出ていますから、市民大学は順調に拡大を続けていたのでしょう。
 昭和43年11月号には「第二期学生募集要項」という記事が出ています。

 募集人員 本科生二百名
      聴講生 若干名
 入学資格 一般成人・学生
 修業年限 一カ年
 申込期間 十二月末日まで
 講義時間 毎週土曜日午後六時―九時

 岡先生の「提唱の言葉」が掲載されたのが9月号で、11月号ではすでに第二期学生の募集が始まっているというのですから、驚きを禁じえません。戦後の学生運動が最後に盛り上がりを見せた時期だったのですが、正反対の何物かを求める心もまた若い世代には芽生えていたのでしょう。ただし、ほどなくして学生運動も終焉し、市民大学もまた消滅しました。
 「心情圏」の昭和44年12月号には岡先生の色紙の写しが掲載されていました。文言は次の通りです。

 青年は今
 男子女人をとわず
 立ち上って日本
 を再建すべき秋でありま
 す
      岡潔

 「秋」の一字は「とき」と読むのでしょう。平成11年の年初、こんなふうにして国会図書館で「心情圏」のバックナンバーを閲覧して、それなりにおもしろい発見がありました。
 国会図書館を出て東京駅の八重洲口に向かうと、「支那そばやこうや 実験麺房」というお店がありました。ここは四谷の「支那そば屋 こうや」で修業した人が暖簾分けして開いたお店で、すぐにわかりました。
 翌7日、中野の中家を訪問し、秀子さんと新年の御挨拶を交わしました。夕方、羽村に行き、小山さんを訪問。羽村で一泊し、翌8日、小山さんといっしょに青梅の吉川英治記念館に行きました。この日も羽村泊。翌9日は第三回目の羽村談話会の日で、ゴローさんにお目にかかりました。10日、帰宅。年末28日から数えて、きっかり二週間の旅でした。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想88.  市民大学の提唱の言葉

 「心情圏」の昭和43年9月号には、岡先生による市民大学の提唱の言葉が掲載されています。岡先生は「顧問」となっています。

提唱の言葉
 日本は明治以来、西洋からの物質文明を大急ぎで取り入れたので、物質によって、すべてが説明できると思ってきました。それで、戦後二〇年、日本は畜生道の教育をしてきたようです。
 それで小我という自己中心の本能が現われてきたのです。その小我を自分だという迷いをさまして、真の自分(真我)を自分だと悟らねばなりません。今の教育は知情意の教育がうまくいかず人らしい人をつくり得ていないのです。
 現状を見ればわかるように世界の若者たちは真の教育を受けているとは思えません。今の大学もうまくいっているとはいえません。これは是非改めなければならないと思います。
 市民大学は地域に浸透して人と人とを結びつける新しい意味での大学です。心ある人たちが集って、警鐘を鳴らしていくのが市民大学です。

 この「提唱の言葉」が公表されたのは昭和43年9月のことですが、この年は学生運動がたいへんな盛り上がりを見せた年でもありました。岡先生は大学と日本の現状に危機を感じ、危機の根源を西欧の物質文明の中に見て、真我の青年を養成する真の大学を創設したいと念願したのでしょう。ただし、岡先生自身には理想の大学を組織する具体的な力があるわけではなく、そこに統一教会の組織力が介在し、岡先生を「心情圏」の看板にした恰好になりました。
 梅田学筵の機関誌「風動」でも、岡先生は胡蘭成と並んで二枚看板になりましたが、このような事例はほかにもいくつか見受けられます。世の中というのはそうしたものですが、当の本人の岡先生はその手の事情には配慮せず、ただ御自分の発言の場ができることを喜んでいたように思います。世間に向かって発言したいことをたくさん抱えていて、発言することを指して「警鐘を鳴らす」と言っていました。警鐘を鳴らす場所が「風動」であろうと「心情圏」であろうと、京産大の講義室であろうと、次々と出版されるエッセイ集であろうと、岡先生にとってはどれも同じことなのでした。
 ではありますが、岡先生が晩年に向かうにつれて、発言の場は徐々にせばまってきました。「風動」も「心情圏」もある時期を境に岡先生から離れていきましたし、エッセイ集の刊行も昭和44年までで終焉しました。最後の最後まで継続されたのは京産大の講義だけでした。そんな中で「春雨の曲」の執筆が始まったですが、この作品は、二冊の私家版は別にして、とうとう刊行にいたりませんでした。
 市民大学が発足した昭和43年は戦後23年目にあたりますが、現在、すなわち平成22年は戦後65年目。昭和43年から数えて42年目になります。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想87. 国会図書館

 平成11年のお正月を郷里ですごし、5日、郷里を発って東京方面に向かいました。途中、埼玉県北本市で下車し、小石沢さんを訪ねました。小石沢さんは春雨村塾の塾生で、北本駅前で石水塾という小さな学習塾を経営しています。新年の挨拶を交わし、しばらく話し合い、それから東京に向かいました。
 6日は永田町の国会図書館に出向きました。目的はかつて岡先生のエッセイを毎月のように掲載していた月刊誌「心情圏」のバックナンバーを閲覧することで、かねがね全部の号を見たかったのですが、この雑誌をもっている図書館はなかなか見つかりませんでした。それで、国会図書館ならさすがに保管しているだろうと期待して、足を運んだ次第です。この予想は的中し、閲覧に成功しました。ただし、この図書館は開架ではなく、カタログで誌名を指摘すると職員が書庫からもってくるという仕組みですので、じっと待たなければならない時間が非常に長かったです。そんなところにはさながら銀行みたいな感じでがありました。
 「心情圏」の昭和43年9月号には市民大学の開講案内が出ていました。

『市民大学講座』開講
開講案内
昨今、対話不足が言われています。
『心情圏』では誌上を通していろいろな先生方と皆様の対話を考えて来ました。今度、読者の方々の願いと岡潔先生のご提唱により共に対話する場として『市民大学講座』が開講されることになりました。
只今、学制募集中です。
どなたでも参加されます。
よろしくおねがいします。

「詳細についての問い合わせ、及び要覧請求(百円切手同封)は左記事務局の方にお願いします」という言葉が添えられて、大阪事務局が明記されていました。住所は、

 大阪市南区長堀橋筋二丁目6番地
 船舶ビル内

です。船舶ビルというのは「船舶振興ビル」のことで、笹川良一が創設した日本船舶振興会が運営していました。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想86.  「春雨の曲」の出版に向けて

 昭和46年9月28日の京産大講義での岡先生の発言をもう少し先まで読んでいくと、

〈そうして毎日新聞へ、もし出していいと思うなら出してよいと言ってやった。そうすると、やはりすぐじゃなかったですが、ちょっと時間あいてですが、出すことにするから、それからディテールを打ち合わせに近くうかがうと言ってきた。それからもう二十日には十分なるのに来ない。〉

という言葉に出会います。岡先生には「春雨の曲」を刊行する考えがあり、出版を担当する出版社として、毎日新聞社の出版局を念頭に置いていたことがわかります。岡先生の一番はじめのエッセイ集『春宵十話』を刊行したのは毎日新聞社でしたし、この時期の岡先生には、何かしら出発点にもどるというほどの心情があったのでしょう。岡先生の刊行された最後のエッセイ集は『曙』と『神々の花園』で、どちらも昭和44年に講談社の現代新書に入りました。岡先生としてはこれで終りにするつもりだったわけではなく、引き続き『流露』というエッセイ集を執筆し、講談社の現代新書編集部に送付したのですが、出版を断われてしまいました。これは昭和45年の年初の出来事です。春雨村塾に手書きの原稿が保管されていて、見ることができたのですが、「まえがき」の日付は「1月20日」です。400字詰の原稿用紙で240枚の作品です。
 『流露』が出版にいたらなかったことの背景には、岡先生のエッセイ集の売れ行きがそろそろにぶり始めたということがありました。いわば「ブームが去りつつあった」ということで、現代新書の編集部もそのように判断したのでした。
 岡先生の著作執筆活動はこれで頓挫した恰好になりました。昭和38年の『春宵十話』から昭和44年の『曙』と『神々の花園』にいたるまで、この間、7年です。それから昭和46年になり、6月の末ころから「春雨の曲」の執筆に取り掛かり、一ヶ月ほど打ち込んで7月末あたりまでかかって書き上げたということになります。岡先生の言葉によりますと、毎日新聞社は出版の意向を見せたようですが、結局、出版にいたりませんでした。
 そうこうするうちに平成10年も末に向かいましたので、またも旅に出ました。平成10年は出かけることが多く、こうして回想すると旅から旅へという感じもあり、旅の空のほうがかえって日常のようでもありました。12月28日は大阪まで。29日、海南市に行き、藤白神社を見物し、熊野古道を少し歩きました。30日、奈良の春雨村塾に行き、「研究室文書」のコピーを閲覧しました。コピーの山に囲まれて春雨村塾で一泊。翌日の大晦日を待って帰省しました。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想85. 「春雨の曲」の執筆のはじまり

 「研究室文書」とは別に、春雨村塾には岡先生の生涯を知るうえで実に貴重な一群の文書が保管されていました。なかでも驚嘆したのは「春雨の曲」の執筆の痕跡をとどめるさまざまな原稿でした。
 岡先生が晩年、心血を注いで書き継いでいたのは「春雨の曲」という作品ですが、書き直しが相次いで第八稿に及んだところで岡先生は世を去りましたので、ついに完成にいたりませんでした。いったいどのような作品なのか、かねがね気にかかっていたのですが、フィールドワークの初年の平成8年の夏、筑波山の梅田学筵の図書室で第七稿を閲覧することができました。第七稿と第八稿は私家版の形で少部数だけ活字になって刊行されたのですが、そのうちの第七稿の一冊が筑波山にあったのでした。幻の作品「春雨の曲」をはじめて目にして、非常に感激したのですが、春雨村塾には第七稿と第八稿の二冊の刊行本はもとより、手書きの原稿まで遺されていました。
 晩年の岡先生は昭和44年度から京都産業大学で「日本民族」という教養科目の講義を担当していたのですが、三年目の昭和46年度から書生の三上さんがテープレコーダーをもって同行し、講義を録音しました。その録音記録を松沢さんが聞き取って原稿にしたものが春雨村塾に保管されていましたので、講義の模様が詳しくわかります。このようなところにも春雨村塾ならではの特色があります。
 講義の録音が始まったのは昭和46年ですが、ちょうどこの年から「春雨の曲」の執筆が始まりましたので、京産大の講義でもしばしば「春雨の曲」が語られるようになりました。次に挙げるのは昭和46年9月28日の講義での岡先生の発言です。

〈わたし7月に本を書いたのいいましたね。その前、本二冊ほど書いた(註。講談社現代新書の『曙』と『神々の花園』を指します)。それから二年間ほど何もしなかった。しなかったというのは、新しいことがわかってやせんのでしょうない。ところが6月の末ころからにわかに、何ていうか、わかってきたというよりも書きたくなった。それでだいたい7月いっぱいくらいかかって書いた。〉

ここに語られているのは「春雨の曲」の執筆のはじまりのころの消息です。「異常な精神の高揚状態において書いた」という言葉も記録されています。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想84. 未定稿「リーマンの定理」の衝撃

 平成10年の秋11月の時点で「研究室文書」の完全なコピーが出現しましたが、ぼく自身のコピー作業が完結したわけではありませんので、その後もなお奈良に通ってコピーを続けていかなければなりませんでした。コピーを元にしてそのまたコピーを作ってもよいのですが、基本となるのはやはりオリジナルを直接コピーすることでした。
 少しさかのぼって、10月はじめにはじめて「研究室文書」を目にしたときのことですが、蔵書の手稿の山々に圧倒されたことは既述の通りとして、何にもまして深い感銘を受けたのは「リーマンの定理」と題された一系の研究ノートでした。研究記録を保管した大型の封筒が重ねられていて、それぞれの表に番号と日付、それに簡単なタイトルが記入されていたのですが、番号を追うと全部で51個まで数えられました。見ていくと、第19番目の封筒の表面に、
 「Riemannの定理」
 「1964.8.20以向」
というタイトルが読み取れました。「リーマンの定理」という言葉ひとつを見るだけで、研究テーマはすぐにわかりました。岡先生は代数関数論、それも多変数の代数関数論を思索していたのでした。これにはまったく驚きました。1964年8月といえば、岡先生はこのときすでに満64歳です。
 第19番目以降の封筒を見ていくと、表に「リーマンの定理」と記された封筒は連綿と続き、第30番目に及びました。多変数の代数関数論は岡先生の多変数関数論研究のいわば「約束の土地」であり、岡先生はリーマンが構築した一変数の代数関数論に誘われて多変数の代数関数論を構想したのですが、そのようなことをまとまった形で表明したことはありません。それではっきりとした根拠があったわけではないのですが、岡先生の論文集のここかしこに多変数代数関数論を志向する断片的な言葉が散りばめられていますので、きっとそうに違いないと、いつしか確信するようになりました。その確信が「リーマンの定理」の一語でたちまち裏付けられました。正確に言うと、これで裏付けられたと直観されました。8年余に及ぶフィールドワークを通じ、もっとも印象の深い出来事でした。

S.Y.様へ

2月18日のブログにコメントを寄せていただきましてありがとうございました。拝見してすぐに返信をさしあげたのですが、なぜか宛先不明でもどってきてしまいました。お手数ですが、再度、メールアドレスを教えてください。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想83.  「研究室文書」の完全なコピーが完成する

 16日は松沢さんが来訪しましたので、コピー作業をひと休みして語り合いました。それからまたコピーに取り掛かり、この日も徹夜になりました。これでけ打ち込んで続けても作業はいっこうに完了しそうになく、やや途方に暮れるという感じになってきたのですが、ここにきて意外な出来事がありました。ノートに記録がないのではっきりしたことは不明瞭なのですが、たしか15日のことだったと思います。すがねさんのお宅で杉田上人の法話を聴いて春雨村塾に向かうと、塾生の長老格の奈良在住の河野さんが来ていました。それに上原さんもいたように思います。最近出現した岡先生の遺稿のことや研究室に保管されている大量の文書のことを話題にして、すべてのコピーを作りたいと望んでいるけれども気が遠くなりそうだなどという話を披露したところ、河野さんが、それではみなで見に行こうではないかと提案しました。それで、それもそうだということになり、ぞろぞろと打ち揃って研究室に向かいました。
 壁に沿って並び、天井に達する書架に、あるいは積み重ねられ、またあるいはきれいに横並びに並んでいる文書や蔵書を見ると、一堂みな嘆息するばかりでした。ところが少しして河野さんが発言し、中古のコピー機をリースするなり購入するなりして据え付けて、みんなで取り組めばたちまちコピーができるのではないか、と提案しました。これにはぼくも感心し、そんなふうにすればたしかにできそうに思いましたが、具体的にどうするというあてがあるわけでもありませんので、このときはただ聞き置くだけにとどまり、ぼくはぼくで徹夜のコピーを続けた次第です。
 永遠に研究室に留まるわけにもいきませんので、なんだか後ろ髪を引かれるような心情に包まれたまま春雨村塾を離れ、17日に大阪に移動し、18日には旅の出発点にもどりました。ところが河野さんはこの手の実務に関しては抜群の能力の持ち主なのでした。この後、河野さんは即座に手配してコピー機を一代確保して春雨村塾に据え付けました。そして塾生のみなに呼びかけて、11月の後半の連休の時期に都合のつく人が入れ代わり立ち代わり春雨村塾にやってきて、24時間体制とまではいかないにしても、一代のコピー機をフルに稼働させて、たいへんな勢いでコピーを続けました。その結果、一週間もすると、本当にすべてのコピーが完了してしまいました。まったく唖然とするばかりでした。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想82.  秋の旅の続き

 11月10日、ぼくはまた旅に出ました。この日は大阪まで。翌11日、お昼前に大阪市立中央図書館に行き、午後、上京。国文研の山口さん、山根さん、それに日本教文社の編集部にお勤めの人(お名前を失念しました)に会い、しばらく話し合いました。12日は銀座に出て、イシイカンパニーを訪問しました。その名の通り、石井さんという人が個人でやっている会社ですが、石井さんは文芸同人誌「五人」の同人で、事務局長のような役割を担っています。「五人」は戦前戦中の台北高校を出て内地の大学に進んだ五人の仲間が、戦後まもない時期に東京に結集して始めた同人誌です。だいぶ後になって杉浦先生が同人に加わり、その杉浦先生に誘われてぼくも同人になりました。少し前に久しぶりに新しい号が出ましたので、同人が集まって合評会を開くことになりました。それに出席するというのが、このときの上京の具体的な目的でした。
 会社の近くの喫茶店で石井さんとしばらく語り合い、それから帰郷。郷里で一泊して、13日、再び東京に向かいました。数学セミナーの西川さんと横山さんに会いました。
 14日は土曜日でした。昼、中野に行き、中秀子さんを訪問しました。頼まれて買い物に出て、電気ストーブを買ったりしました。庭の柿の木の枝がお隣の家の敷地にまで伸びているというので、枝を払う仕事もありました。そこへ静岡市教育委員会の杉山さんが来訪しましたので、初対面の挨拶を交わすという一幕もありました。中先生は戦中、静岡市の郊外に疎開していたのですが、それが縁になって、静岡市に文学記念館が設立されることになりましたので、管轄の教育委員会の人がこうしてときおり相談に訪れるのでした。具体的には、中家にに保管されている中先生の蔵書や原稿など、静岡に移すものを決めるのが、この時期の大きな仕事になっていたように思います。
 午後、4時から新橋の中華料理屋「新橋亭」で「五人」の合評会がありました。二年ぶりの合評会です。杉浦先生にもお目にかかりましたが、秋の学会のおりに大阪でお会いし、津田塾大学の研究会で再会したばかりでしたから、この年はこれで立て続けに三回になります。珍しいことでした。
15日、朝早く東京を発って奈良に向かいました。先月はじめ奈良ですがねさんに会って話をしたときのことですが、すがねさんのお宅で開催される光明会のお念仏の月例会に出席するよう、要請されていましたので、これを受けて急遽、奈良に向かった次第です。芦屋の光明会本部聖堂から杉田上人が来訪し、みなでお念仏をして、それから杉田上人の法話を聴くという順序なのですが、お念仏には参加せずに法話だけ聴講しました。
 お念仏の会の後、春雨村塾に移動して四方山話。それから「研究室」に移動してコピーに取り掛かりました。この日も徹夜になりました。明け方までコンビニのコピー機を占拠してコピーを続け、大きな紙袋二つにいっぱいに詰め込んで、両手にぶらさげて運びました。もう明け方になっていましたが、あまり重いので途中でひと休み。明るみ始めた奈良の秋の空を眺めたことが、昨日のことのようになつかしく思い出されます。幸せなひとときでした。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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