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岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想64.  回天碑のあれこれ

 全国回天会の事務局の人にうかがった話を続けます。いくぶん正確さを欠くところもありそうですが、前述の通り、ひとまず聞いた通りのことをそのまま再現することにします。
 山形県の月山の山頂に神潮特別攻撃隊の鎮魂費があります。回天という特別攻撃のアイデアを提案したのは黒木博司大尉と仁科関夫中尉ですが、仁科中尉の出身地の長野県の佐久に回天碑があります。仁科中尉は滋賀県の大津で生まれたという記録もありますが、出身は佐久とのことで、このあたりはもう少し話を詰めたいところです。黒木大尉のほうは岐阜県の下呂町の出身で、戦後、黒木大尉を祭神とする楠公社という神社が下呂町に創建されました。このとき尽力したのは、黒木大尉が心酔していた国史の平泉澄先生でした。楠公社の祭神は黒木大尉ひとりというわけではなく、回天戦の他の戦死者たちもいっしょに祭られています。
 山口県の大津島には回天の記念館があります。おなじ山口の光市の光井港にも「回天の碑」があります。それから、やはり山口の平生(ひらお)にも「回天碑」があります。平生興業の敷地の中にあるということですが、最近、移設されたという話を聞いたことがあります。これらはみな、かつて回天の基地があった場所なのですが、回天の基地でしたら大分県日出(ひじ)町の大神(おおが)にもありました。それで大神の住吉神社の境内に末社として回天神社が創建されました。
 全国回天会の人に、おおよそこんなふうなお話をうかがいました。

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岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想63. 全国回天会

 二日間にわたって国立公文書館を訪問した後も、さまざまなことがありました。8月29日には埼玉県北本市にお住まいの小石沢さんと電話で話をしました。9月13日、これはどうしてそんなことになったのか、はっきりした記憶がないのですが、全国回天会に電話をかけてお話をうかがいました。「回天」というのは大東亜戦争の終りがけの登場した日本の特攻兵器ですが、戦後、生き残りの将兵が結集して全国回天会を組織しました。事務局は東京にあります。
 岡先生の評伝と特攻隊は関係がないようでもありますが、岡先生は小林秀雄との対話篇「人間の建設」の中で特攻隊に言及し、小林秀雄を驚かせたことがあります。特攻隊のことは岡先生の心情の内奥を知るうえで重要なポイントと思い、かねがね注目していました。
 回天の消息を伝える文献はたくさんありますし、これまでに相当に多くの書物に目を通してきましたが、ここでは電話でうかがったことをそのまま写しておきたいと思います。
 回天というのは正式な呼称ではなく、あくまでも部内名称だったということで、これは初耳でしたので非常に驚きました。正式名称は「神潮(かみしお)特別攻撃隊」というのですが、昭和20年3月25日の新聞紙上ではじめて公表されました。しかも公表されたのはこのときだけでしたので、どのような特攻部隊なのか、秘匿されていたことになります。航空機による特攻部隊は、海軍の場合には「神風(しんぷう)特別攻撃隊」と呼ばれましたので、「神風」に呼応して、水中特攻部隊を「神潮」と呼びました。「人間魚雷」という呼び名も広く行われていますが、回天は酸素魚雷に搭乗員一名が乗り込めるように改造して敵艦に体当たりをねらう兵器ですから、「人間魚雷」というあけすけな呼び名の通りなのですが、この呼称がはじめて現れたのは終戦後間もない昭和20年10月4日のことで、この日の新聞に「人間魚雷“回天”」という記事が出ました。神潮特攻隊の正体を知らせるという主旨の暴露記事でした。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想62. 分科大学の時代

 中金一さんが福岡医科大学に勤務していた時期の帝国大学は学部制ではなく、医科大学、工科大学、文科大学等々、いくつかの分科大学で構成されていて、各々の分科大学にはそれぞれ学長がいました。それで帝国大学の長は「学長」ではなく「総長」と呼ばれたのですが、後年、大学の制度が変わり、医科大学は医学部になるというように、今日のような学部制になりました。分科大学の長は学部長と呼ばれることになり、総長は学長になったのですが、依然として総長を名乗る大学は今日でもあちこちに存在します。九州大学は来年が創立100周年になりますが、九大の長もまた学長ではなく総長です。総長のほうがなんだか偉そうに見えるのでしょう。
 中金一さんは九州帝大の発足を前にして休職のまま退官しましたので、正式というた形式上のことを言うと、京都大学の先生ではあっても九州帝大の先生だったことはありません。ではありますが、福岡医科大学は当初から九州帝大の設立を視野に入れて設置されたのですから、心情の面では九大の一部分です。実際、現在の九大医学部の同窓会名簿を見ても、当初の教官陣の中に、内科学第二講座の初代教授として名前が記載されています。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想61. 休職同意書

岡潔先生をめぐる人々(続)
フィールドワークの日々の回想61. 休職同意書
 岡先生の休職の手続きは6月に入ってから進み始めましたが、これに先立って、岡先生は自分で休職同意書を書きました。広島文理科大学の方針は休職に傾いたのですが、手続きを進める上で岡先生本人の同意を前提にするほうがよいという判断がなされた模様です。将来の復職の可能性に道を残したということでしょう。実際に本人に同意書を書いてもらうのは容易とはいえず、岡先生をめぐる人たちの心も揺れましたし、さまざまな曲折がありました。同意書の文面は次の通りです。

 同意書
 私儀病気静養ノ為メ文官分限委員会
 ノ諮問ヲ経ス休職御発令ノ義同意候也
   昭和十三年五月二十九日
      広島文理科大学助教授
         岡 潔

 こんなわけで8月25日の国立公文書館探訪は意外な発見に結びついたのですが、なかでも岡先生の直筆の同意書が保管されているとはまったく思いもよらないことで、8年間に及ぶフィールドワークを通じてもっとも心に沁みる出来事になりました。この日の衝撃があまりにも大きかったため、なんだか離れ難い心情に陥って、翌26日、再び公文書館に赴きました。岡先生の休職に関する書類があるのであれば、もうひとつ、中金一さんの休職に関する書類もまた保管されているのではないかと思ったのですが、この予想は的中しました。
 中金一さんは中勘助先生の兄で、九州大学医学部の内科の教授だったのですが、就任して数年で病気になり、はじめ休職を余儀なくされ、その後、辞職することになりました。このあたりの経緯は岡先生の場合とよく似ています。
 公文書館では二つの文書が見つかりました。ひとつは文部大臣が総理大臣に対して中金一さんの休職の件を申し出る書類です。

 職甲第一六四一号
 京都帝国大学福岡医科大学教授医学博士 中 金一
 右ハ教務上ノ都合ニ依リ文官分限令第十一條第一項第四号ニ依リ休職相命シ
 度此段及稟議候也
   明治四十二年十二月八日
 文部大臣小松原英太郎内閣総理大臣侯爵 桂 太郎殿

この提案を受けて総理大臣が休職を認可するというのが、もうひとつの書類です。

 内閣書記官室
 文第五二二號
 十二月十日
 内閣総理大臣
 内閣書記官長
 文部大臣 指令
 京都帝国大学福岡医科大学教授医学博士 中 金一文官分限令第十一條第一項第四号ニ依リ休職ノ件認可ス
 十二月十日

「京都帝国大学福岡医科大学」というところは少々説明を要するのではないかと思います。福岡医科大学は九州帝国大学医科大学の前身なのですが、九州帝大の発足の前にひとまず京都帝国大学を構成する第二番目の医科大学として、福岡県福岡市に設立されました。京都にはすでに京都帝大の医科大学が存在しましたので、そのほうは京都医科大学と呼ぶことにして、福岡市にできた新たな医科大学は福岡医科大学と呼ばれることになりました。これは明治36年の出来事ですが、それから8年後の明治44年、4月1日をもって九州帝国大学が九州帝国大学医科大学が発足し、これに伴って京都帝国大学福岡医科大学は九州帝国大学医科大学となりました。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想60. 診断書

 岡先生は昭和13年6月に広島文理科大学を休職して帰郷したのですが、帰郷の前の所在地は静岡市でした。静岡には妹の岡田泰子さんの家族がお住まいでした。泰子さんの御主人は岡田弘先生という方で、静岡高校の仏文学者です。
 次に挙げるのは「休職理由」が簡単に書かれた文書です。

 文部省
 休職理由
 疾病ニ罹リ教育上支障アルニ由ル

こんなふうな手続きを経て岡先生の休職が決まりました。文部大臣の荒木貞夫が岡先生の官等の陞叙を奏上したのは6月14日。岡先生の休職を命じることを稟議する旨を、荒木文部大臣が近衛総理大臣に申告したのも、おなじ6月14日でした。これを受けて、岡先生の休職が決まりました。発令は6月20日。同じ日に官等の陞叙も発令されました。
 荒木文部大臣の文書には、岡先生御自身もまた休職に同意したと記されていますが、岡先生が書いた診断書もまた公文書館にありました。

 診断書
 静岡市大岩宮下町四八 岡田弘方
     岡 潔
     明治三十四年三月十九日生
 一 病名 脳神経衰弱症
   附記 頭書ノ疾患重症ナルニヨリ向後数ヶ年間安静加療ヲ要スルモノト認ム
 右之通診断候也 静岡市田町七丁目六十八番地
    静岡脳病院長
    理学博士 木村俊雄
 昭和十三年四月一日

 この文書の欄外に「二字削ル」という不思議な書き込みが残されていました。「昭和十三年四月一日」という日付はなぜか読みにくいのですが、ああでもない、こうでもない、ああも読める、こうも読める、としばらく案じた後、どうやらこういうことなのではないかと思い当たりました。それは、ここでは日付の修正が行われたのではないかということでした。
 よくよく見るとこの文書の日付は「一日」ではなくて「二十七日」のようでした。そうして「二」と「十」の二字に線が引かれて削除の意図が表明されて、さらに「七」の文字が加工されて漢数字の「壱」になったのではないかと思われました。そんなことをどうしてしたのかといいますと、恐らく診断書の方針を年度はじめにさかのぼり、「4月1日付」にしたかったのでしょう。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想59. 高等官四等から高等官三等へ

 前回の文書の文面によりますと、岡先生の官等を上がることと、「外一名」の依願による免官を許可してもらうよう、内閣総理大臣の近衛文麿が(天皇陛下に)裁可を仰いだということになります。「外一名」とあるのはだれを指すのか、わかりません。岡先生はこの時点では免官になるのではなく、休職の手続きを進めていました。
 岡先生は広島文理科大学の助教授で、国家公務員でしたから、官等をもっていました。その官等が上がることと依願免官が同時に行われるということですから、この二つの出来事は連動していることが諒解されます。これも公文書館にあった文書ですが、岡先生の「在職年数調」というのがあり、それによると岡先生は昭和11年3月2日付で四等官に叙せられています。それから「二年三ヶ月余」の在職年数を経て、位階がひとつ上がって三等官に叙せられました。次の文書にそのことが記されています。

 内閣
 文 第九六三号
 広島文理科大学助教授 岡 潔
 陞叙高等官三等
 右謹テ奏ス
  昭和十三年六月十四日
   文部大臣男爵 荒木貞夫

 これによると、岡先生を高等官三等に昇級させるようにと、荒木文部大臣が6月14日付で(天皇陛下に)奏上したことになります。これを受けて、6月17日付で近衛総理大臣が裁可を仰いだという順序になります。
 この文書は「第九六三号」ですが、これに続く「第九六四号」の文書には岡先生の休職認可の件が記されています。

 内閣
 文第九六四号
 広島文理科大学助教授 岡 潔
 右者文官分限令第十一條第一項第四号ニ依リ休職ヲ命ジ度ニ付御認可相成度此段稟議ス
 追テ本人ノ休職ニ付テハ文官分限令第十一條第三項但書ニ依ル本人ノ同意アリタルモノニ付申添フ
  昭和十三年六月十四日
   文部大臣男爵 荒木貞夫
 内閣総理大臣公爵 近衛文磨殿

この文書の日付も6月14日です。官等の陞叙の奏上と休職認可の承認の稟議が同じ日付で行われたことがわかります。また、「本人ノ同意アリタルモノニ付申添フ」とありますから、岡先生が休職に同意したという消息も伝わってきます。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想58. 北の丸公園の国立公文書館へ

 四泊五日の長丁場の合宿教室に参加した後、8月の末のことになりますが、24日、中野新井町の中秀子さんをお訪ねしました。この日は中家の過去帳などを見せていただいて、メモを作りました。中家のたくさんの御先祖たちの戒名が並び、お墓のあるお寺の名前が記されていました。お寺は一ヶ所ではなく、いくつかの異なるお寺の名前が目に入りました。どのお寺がどこにあるのか、気に掛かりました。そこまで踏み込んでいくと調査も非常に細やかになっていくのではないかと思いますが、いまだに実現していません。
 翌25日、北の丸公園の国立公文書館に出かけました。目的は文部省発行の職員録を閲覧することで、岡先生が京大の学生時代の数学教室の諸先生の移り変わりとか、広島文理科大学に在職していた当時の同僚の諸先生の名前などを知りたいと思いました。岡先生の父の寛治さんは職業軍人ではありませんが、一年志願兵出身の将校で、日露戦争に従軍した経歴をもっていますので、あるいはその当時の記録が職員録に記載されているのではないかという期待もありました。これはこれで多少のおもしろい発見がなかったわけではないのですが、それらとは別に、まったく偶然に意外な文書がいくつか見つかりました。それは、岡先生が広島文理科大学を離れた時期の消息を伝える一系の文書でした。
 国立公文書館が保管している資料は開架に並んでいるのではなく、閲覧したい資料を指定して職員にもってきてもらうのですが、そのために閲覧室には目録が置いてあります。はじめ職員録を指定して待っていたのですが、その間、目録の背表紙を見るともなく見ていたところ、「任免」と書かれた目録が目に留まりました。目録といっても一冊というわけではなく、薄い冊子が何十冊もあるのですが、ぱらぱらと見ていると時系列で配列されているようでした。それで岡先生が広島文理科大学を休職した昭和13年の記事を見ると、それは「巻七十」に収録されているのですが、そこに「岡潔」という文字がありました。これには少々興奮しました。
 目録の記事を書き抜いて閲覧を申し出ると、すべて見ることができました。文書のひとつの文面は次の通りです。

〈広島文理科大学助教授岡潔外一名官等陞叙竝依願免官ノ件
 右謹テ裁可ヲ仰ク
   昭和十三年六月十七日
   内閣総理大臣公爵 近衛文磨〉

 「陞叙(しょうじょ)」というのは「昇級」というほどの意味の言葉で、位階が上がって高い官位を与えられることです。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想57. 島守の塔の建立日について

 前回のブログで島守の塔のことを書きましたが、そのおり少々気に掛かったここがありましたのでインターネットで調べてみました。本当は沖縄に出かけてフィールドワークができるといいのですが、念願しながらいまだに実現していません。気になったことというのは建立の日時のことなのですが、文献によって微妙に食い違っています。「島守の塔」と呼ばれているのは
 「沖縄県知事島田叡 沖縄県警察部長荒井退蔵終焉之地」
 「沖縄県知事島田叡 沖縄県職員慰霊塔」
と刻まれた二基の塔のことで、どちらの碑もネット上に写真が出ていますが、裏面には

 「生存沖縄県職員一同」
 「一九五一年六月二二日 建立」

と刻まれています。この二基の碑の所在地は糸満市摩文仁の沖縄戦跡国定公園の一区域を占める平和祈念公園ですが、この公園にはほかにもいろいろな碑が設置されています。表面に
 「島守の塔沿革」
と刻まれた碑があり、四か条の記事が書かれていますが、一番はじめの記事は
 「昭和二十六年六月二十五日 建立」
となっています。「6月25日」というのは、「島守の塔」の除幕式と第一回目の慰霊祭が行われた日のことと思います。また、「島守の塔」の消息を伝えるホームページの中に、建立日を「6月23日」と明記したものもありました。「島守の塔」そのももに「6月22日」と刻まれているのですから、これで確定なのではないかと思うのですが、どうしてこんなにとりどりになってしまうのでしょうか。実に不可解な事態です。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想56.  最後の沖縄県知事島田叡さんのうわさを聴く

 平成10年夏の合宿教室では関先生の話のほかにもうひとつ、佐賀の末次先生から岡先生にまつわる興味深いお話をうかがうことができました。その話というのは島田叡さんのことで、末次先生は島田さんのことをよく知っているというのでした。
 島田叡さんは終戦前の沖縄県の最後の県知事だった人ですが、第三高等学校で岡先生と同期でしたので、名前を承知していました。岡先生の三高入学は大正8年9月のことで、岡先生は理科甲類、島田さんは文科甲類でした。三高の後、島田さんは東京帝大の法学部に進み、卒業後、内務省に入りましたが、一時期、佐賀県警に勤務したことがありました。佐賀時代は警察部長。それから大阪府に移って内政部長に就任しましたが、昭和20年1月、沖縄県知事に任命されました。前任者の知事は沖縄決戦を恐れて転出を画策し、香川県知事への移動に成功しました。島田さんはその後任になったのですが、だれもが恐れて拒んだ沖縄行を引き受けたのですから、はじめから戦死を覚悟していたのでしょう。
 佐賀市内に龍泰寺というお寺があり、佐々木雄堂という人が住職だったのですが、その佐々木住職が主催して西濠書院という勉強会が開かれていました。島田さんは佐賀県警時代にこの勉強会に参加して、佐々木住職と出会い、大いに感化されたと言われています。西濠書院は戦後、佐賀師友会になりました。末次先生は島田さんに会ったことはないと思いますが、教員で、佐賀師友会に参加していました。それで島田さんのこともおのずと承知するようになったのでしょう。
 島田さんは沖縄戦の集結とともに殉職したのですが、最後を看取った人はいません。沖縄の守備を担当したのは陸軍の第32軍で、司令官は牛島満中将、参謀長な長勇(ちょう・いさむ)中将でした牛島中将と長参謀長が摩文仁岳の洞窟で自決したのが6月23日の未明のことで、この日をもって沖縄決戦は終結しました。島田知事以下、沖縄県の職員は第32軍とともに移動して摩文仁の丘に到達しましたが、6月15日、県庁職員を集め、県の活動を停止すると告げました。それから先の消息がやや不明瞭なのですが、6月22日ころ、警察部長の荒井退造とともに戦死したと言われています。部下と別れの挨拶を交わし、全員を立ち去らせてからひとりで壕内深く入っていき、荒井警察部長があとを追ったということですが、最後の姿を見た者はいません。
 戦後、摩文仁の丘の裾の右方、終焉の地となった壕の前方に
 「沖縄県知事島田叡 沖縄県警察部長荒井退蔵終焉之地」

 「沖縄県知事島田叡 沖縄県職員慰霊塔」
の二基の記念碑が建てられました。この二基の塔は「島守の塔」と呼ばれています。建立は昭和26年6月22日(島守の塔に刻まれている日付)。 6月25日、除幕式と慰霊祭が行われました。島田知事と新井警察部長とともに祀られている沖縄県職員は445名を数えます(その後、名簿の改修が進み、現在の合祀者数は島田知事、新井警察部長以下468名です)。
 島田さんは三高時代は野球部員でした。それで三高野球部有志により、摩文仁の丘の上り口に鎮魂碑が建てられました(昭和46年建立)。

 鎮魂碑の表面に刻まれている鎮魂歌
  島守の塔にしづもるそのみ魂
   紅萌ゆるうたをきゝませ

歌の作者は島田さんと同期の三高野球部投手山根斎。揮毫は三高の対一高戦第3回戦主将、木下道雄。碑の裏面には、元三高野球部長、中村直勝先生による「由来記」が刻まれています。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想55. 詰問の続き

 国文研の慰霊祭というのは国を守るために亡くなった人を祭る儀式なのですが、降神、昇神の儀式にあたり、警蹕(けいひつ)といって、神職が独特の抑揚のある声を発します。降神は御霊をお迎えする儀式で、敬意をもってお迎えするようにと参列者に注意をうながすためにそうするのですが、御霊が祭場にやってくることを前提にしてそうしているわけですから、警蹕の声に乗って御霊が降臨するようにも思えるところです。
 降神、昇神というのは間違いだ、と岡先生は関先生を叱りつけました。紀見は神様がその辺にいると思っているのか、とたいへんな剣幕で、烈火の如く怒りました。呼んでくるといったって、どこから呼んでくるのだ。国のために死んだ人がそのあたりにうろうろしていると思っているのか。それじゃあ、亡霊だ。死んだ人はどこかにすぱっと入ってつながっている。亡くなった人が生きた人の体の中にすぱっと入れるようでなければ神ではない。どこかその辺にいて、おーい,こっちへ来てくれ、と言って呼ぶようなものではない。生まれ変ってどこかに生きているのだ。
 岡先生はこんなふうにまくしたてて、おれは(慰霊祭に)出ない、と言いました。これには関先生も大いに困惑して、なすすべを知らない状態になりましたが、そこへ長内俊平先生が来て、参列してください、とお願いしたところ、岡先生は一転、うん、出る、と応じました。ともあれこれで招聘講師の岡先生の参列が実現し、慰霊祭はとどこおりなく終りました。これが関先生にうかがった話のあらましです。
 後日、関先生がこの出来事を回想して思うには、警蹕ということは昔から普通にやってきたことで、どうしてそうするのかなどと考えたことはないが、そうかといって岡先生の言うことにももっともに思う。その場では何も言えませんでしたので、岡先生から大きな課題を与えられたような気持ちのまま30年がすぎてしまいました。今もどのように答えたらよいのかわからない。ただ、生まれ変るといっても、ぱっと生まれ変る人もいるし、600年もたってから生まれ変る人もいるような気もする。楠正成の魂などは、600年もかかって生まれ変ったと思う。関先生はこんなふうに述懐しました。
 それにしても長内先生はあのとき岡先生にどのようなことを語りかけたのでしょうか。長内先生にそんなことをお尋ねしたところ、何も特別なことを話したわけではない。ただ、とにかく出てくれませんか、とお願いしただけだ、ということでした。このあたりの消息には神韻縹渺とした情感がただよっています。この後、この年の岡先生の振舞は合宿教室の伝説のようになり、会員の間で長く語り継がれました。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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