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年末の旅の予定 高木先生の故郷訪問(5)本巣市まで

 中学の次は高校、その次は大学ですが、このあたりの消息は第一回目に書き留めた通りです。簡単に回想すると、高木先生は明治24年(1891年)に京都の第三高等中学に入学したのですが、第三高等中学が設置されたのは明治19年(1886年)4月ですから、中学校令の公布を受けて即座に開設されたことがわかります。いくぶん興味を引かれるのは所在地のことですが、創設当初の第三高等中学校の所在地は京都ではなくて大阪で、京都に移転したのは三年後の明治22年(1889年)でした。京都に移ってから二年後に高木先生が入学したのでした。卒業は明治27年(1894年)ですが、ちょうどこの年に高校の名称が変わり、「第三高等学校」になりました。
 第三高等中学を卒業した高木先生は、同年、帝国大学に入学しました。正確に書くと、「帝国大学理科大学数学科」に入学したのですが、「帝国大学」の下にもうひとつ、「理科大学」という名前の大学が続くところにはやや奇妙な印象があります。細かく書いていくときりがないのですが、これは「理科大学」という名前の「分科大学」で、後年の「学部」です。まったくややこしい限りですが、教育制度を整える側も試行錯誤の繰り返しだったのですから、仕方がありません。
 高木先生が数屋に生まれた明治8年には故郷に小学校があり、小学校を卒えると、少々遠方になりますが、岐阜市に出れば中学校がありました。中学校から先に進もうとすると、5年前まででしたら上京して大学予備門に入るほかはなく、子規や熊楠さんのように高木先生もおそらくそうしたであろうと思われますが、実にたいへんなことであることはまちがいありません。つまり、おそるべき金額のお金がかかります。ところが高木先生の中学卒業時には京都に高等中学が設置されていましたので、進学先にそちらを選ぶことになりました。各地の高等中学はみな同格で、今日の高校のように偏差値で格差がつけられているわけではありませんでした。もっとも東京の第一高等学校だけは、大学予備門の伝統を継承しているだけに、独特のプライドがあったとも伝えられています。
 高等教育の網の目を細かく編んで全国各地の秀才を掬い取り、彼らの力を国力発展の基礎にしようとするところに、学制の整備と拡大のねらいがありました。これを高木先生たち国民ひとりひとりの側から見ると、どれほど卓抜な能力の持ち主も岐阜の農村では使い道がありませんが、東京に出れば持てる力を存分に発揮する場所が与えられるのでした。幕末の長州藩や薩摩藩などは藩内の秀才を選りすぐって欧米に派遣したものですが、明治維新後は国内の学制の整備に伴って各種の才能がこぞって東京に集まるようになりました。高木先生は数学の方面でこの役割を担っていたのでした。

 平成21年の年末12月28日、名古屋から大垣を経由して本巣市を訪ねました。大垣から樽見鉄道に乗ったのですが、どの駅で降りたらよいのかよくわからないまま漫然と切符を買いました。大垣駅を出て、途中、瑞穂市を通って本巣市に入ると「モレラ岐阜駅」という不思議な名前の駅がありました。次が糸貫駅、その次が本巣駅です。それで市の名前と同じ本巣駅で降りてみました。それまで無人駅が続きましたが、本巣駅には駅員がいました。
 駅舎の周辺を眺めると駅前商店街のようなものは何もなく、一面に広がる畑の中に家々が散在しているという感じでした。タクシーが待っているわけでもなく、バスの停留所なども目に入りませんでした。それでもなぜか喫茶店がありましたので、一杯のコーヒーを注文し、経営するおばさんに話をうかがいました。本巣市の商店街はどこにあるのですかと尋ねると、昔は会ったが今はないとのこと。それでは買い物はどうするのですかと重ねて問うと、モレラに行くということでした。モレラというのはショッピングモールの「モール」と「時代」の意の「エラ」を合成して作った言葉で、畑の真ん中に忽然と出現した巨大なショッピングセンターの名前なのでした。モレラにお客さんを集めるために作った最寄りの駅が「モレラ岐阜駅」。モレラに近づくと大きなMAleraという字が目につくのですが、モレラ岐阜駅の読み方を表示するローマ字のモレラの部分は、発音通りMORERAとなっていました。
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年末の旅の予定 高木先生の故郷訪問(4)中学校の移り変わり

 小学校の次は中学校ですが、このブログの第一回目で「岐阜市内の岐阜尋常中学」などと書いてしまったことを思い返しますと、内心大いに忸怩たるものがあります。大雑把にいえばこれでも間違いではないのですが、正確にはまだ「尋常中学校」ではなく、「尋常」のつかない「岐阜県中学校」でした。岐阜県下にただひとつしかない中学校だったのです。また、「岐阜県立」というわけでもなく、「岐阜県」と「中学校」を離さずに続けて「岐阜県中学校」というのが正式な名称でした。ところが、本巣市で編纂した「資料・遺品目録」に出ている中学校の卒業証書を見ると、そこには「岐阜県尋常中学校」と明記されています。高木先生の入学と卒業の間に、何かしら学制の変更が行われたことが示唆されています。
 高木先生の中学入学は明治19年(1886年)6月のことですが、この年の3月2日、「帝国大学令」が布告され、続いて4月10日には「中学校令」が公布されています。帝国大学令というのはつまり帝国大学という名の大学を設立するための基礎となる法律のことで、これによって帝国大学が創設されたのですが、母体になったのは従来の東京大学と工部大学校でした。大雑把に言うと東京大学が工部大学校を吸収合併して帝国大学になったと見てよいのではないかと思いますが、そうしますと工部大学校とは何かという問題が発生します。これについてはここではこれ以上立ち入らないことにして、ただ今日の東京大学の工学部の前身とだけ言い添えておきたいと思います。
 「中学校令」というのは何かというと、大学予備門を拡大して、帝国大学に進むための予備教育を行うことを目的とする一群の学校を設立するための法律で、これによって明治19年から翌明治20年末にかけて全国に七つの「高等中学校」が創設されました。大学予備門が第一高等中学校に変容したほか、第二から第五まで、番号のついた四つの高等中学校。これで五つ。さらにあと二つ、山口県に山口高等中学校、鹿児島県に鹿児島高等中学造士館を合わせて全部で七つです。
 高等中学校ができて、従来の中学校はどうなったのかというと、名前が変わって「尋常中学校」になりました。岐阜県中学校は岐阜県尋常中学校になったのですが、「資料・遺品目録」に記載されている略年譜によると、その時期は明治20年1月ということですから、高木先生が第一学年に在学中の出来事です。というわけで、明治24年(1891年)3月末日、高木先生は「岐阜県尋常中学校」を卒業しました。
 中学の次は高校の番ですが、中学校にまつわる状況を物語るもうひとつの例として、画家の熊谷守一の経歴を多少回想してみたいと思います。熊谷さんは高木先生よりも五つ年下で、明治13年(1880年)4月2日、岐阜県恵那郡付知村に生まれたのですが、やや複雑な家庭の事情のため、幼少時を岐阜市ですごしました。明治27年(1894年)、岐阜中学に入学し、明治30年(1897年)、中学3年の時点で中退して上京しています。簡単に岐阜中学などと書きましたが、これまでに語ってきた通り、これは略称にすぎません。岐阜県歴史資料館が作成した『岐阜県所在史料目録』を参照すると、この歴史資料館は「岐阜縣平民 熊谷守一」の修業證書を所蔵しているようですが、それは「岐阜縣岐阜尋常中学校」の修業証書で、日付は明治30(1897年)3月31日なのだそうです。「尋常中学校」に地名が冠せられて「岐阜尋常中学校」になったところが高木先生のときとの相違ですが、これはつまり岐阜県下に中学校が増えたことを示唆しています。
 こんなふうに観察していくと話が細かくなるばかりで果てしがないのですが、一例を挙げてみますと、熊谷さんが岐阜中学に入学したのと同じ明治27年(1894年)には、岐阜市の隣町の大垣市(当時は「市」ではなく大垣町でした)に岐阜県尋常中学校大垣分校が開設されています。二年後の明治29年(1896年)には岐阜県大垣尋常中学校と改称されましたから、岐阜県尋常中学もこの時点で岐阜県岐阜尋常中学に変ったのでしょう。
 中学校の名称はさらに変遷し、明治32年には「尋常」の二文字がとれて「岐阜県岐阜中学校」になりました。

年末の旅の予定 高木先生の故郷訪問(3)小学校時代のあれこれ

 このブログの目的は実は高木先生の晩年のエッセイについて所感を書くことで、小学校や中学校のことなどは軽く触れるだけにするつもりだったのですが、「一色尋常小学校」に入学したと書いたとたんに、これではまずいと反省させられてしまいました。こんなことではいつになったら本来の目的地に到達できるのか、まったく心もとないのですが、このあたりの諸事情は決して些事ではありませんのでやむをえないことでもあります。
 高木先生が小学校の生徒だったころ、小学校には卒業という制度はなかったのではないかと前回、書きました。本巣市には糸貫老人福祉センターの中に「高木貞治記念室」が設置され、高木先生の御遺族をはじめとして多くの人たちから寄贈または寄託された基本資料が展示されていますが、りっぱな目録も作成されています。それは、

 「世界的な数学者
  高木貞治博士
  資料・遺品目録(解説付)」

という冊子ですが、これを見ると岐阜県尋常中学校の卒業証書の写真は出ているものの、小学校の卒業証書はありません。他方、これは高木先生の記念室のことではありませんが、明治初期の小学校の資料を収集した記念館で、小学生の第二学年だったか第三学年だったかの前期か後期の修了証書というのを見たことがあります。そんなことがありますので、絶対の確証があるわけではないのですが、当時はおそらく各学年の各期ごとに終了証書が出されたのであって、小学校の課程全体にわたっての卒業証書というのは存在しなかったのではないかと、ただいまのところ推定しています。高木先生の「高等科第七学年前期」の修了証書が見つかれば、この推定が裏付けられるのですが、これは今後の課題のひとつです。ただし、「高等科第七学年の前期課程」を4月と5月の二ヶ月だけで修了というのも考えにくいところですから、これはやはり中退であって、終了証書は存在しないのかもしれません。
 小学校時代のことについてはもうひとつ、不明なことがあります。それは在籍年数のことなのですが、高木先生は明治15年のたぶん4月に一色学校に入学し、明治19年5月には高等科の第一学年の前期課程を修了もしくは中退して、6月に「岐阜の中学校」に進んだのですが、そうしますと小学校の在籍期間は4年2ヶ月程度にすぎないことになります。これではあまりにも短すぎるのはないかというのが、ぼくの心にかかる素朴な疑問です。
 これもまた確証があるわけではないのですが、語り伝えられているところによると高木先生は小学校で「飛び級」を経験したということです。小学校の飛び級というのは今では考えられないことですが、高木先生のころはわりと普通のことだったようでもあります。この説を採用すると、高木先生は初等科と中等科の6年間のうち2年間を飛び越したことになります。おそらくそうだったのでしょう。高等科の第七学年というのは高等科の第一年目と同じです。

年末の旅の予定 高木先生の故郷訪問(2)

 前回、高木先生が卒業した小学校と中学校の名前を紹介しましたが、正確を期すため、少々訂正しておかなければなりません。あまり細かいことを書くのもどうかと思いましたので、「一色尋常小学校」「岐阜尋常中学」と書いたのですが、高木先生の成長と日本の変容のプロセスがパラレルに進行しているのですから、あんまり大雑把に話をまとめるのもよくないのではないかと反省した次第です。
 そうかといって事細かに学制の推移を追うのはあまりにも煩雑で、明治初期の学制発布から平成の御代の今日にいたるまで、おおよそ140年間の変遷を精密に記述していくとそれだけで大きな書物ができてしまいそうです。それで高木先生の成長に追随していくことにしたいと思うのですが、まず小学校はどうかというと、入学した小学校は「一色尋常小学校」でも「一色小学校」でもなく、「一色学校」でした。「小学校」ではなくて、単に「学校」と呼ばれていたというところが肝心なのですが、実体が小学校であることはまちがいなく、小学校の名前が「一色学校」だったのでした。小学校を名乗る小学校もあり、たとえば夏目漱石は小学校時代に転校を経験しているのですが、入学したのは市ヶ谷学校、卒業したのは錦華小学校でした。
 当時の学制を回想すると、小学校の上に中学校がありました。そのまた上に高等学校があれば形の整った制度になりそうですが、高等学校というものは存在しませんでした。大学はどうかというと、日本中にただひとつだけ、東京に「東京大学」がありました。「帝国大学」でも「東京帝国大学」でもなく、ただの「東京大学」というのですから、平成21年の現在の呼称と同じなのですが、この大学に入学するには中学を卒業した後に、入学試験を受けて「大学予備門」という学校に入学しなければなりませんでした。漱石もこの道筋をたどって東京大学に進みました。したがって大学予備門は高等学校に相当する位置を占めると考えられますが、東京にただひとつ存在するだけですから、東京大学に進もうと志す人は全国各地から上京して受験に備えました。正岡子規は四国松山から、南方熊楠は紀州和歌山から上京しましたが、たいへんなお金がかかりますから、相当の資産家の子弟のみに許されたことでした。
 高木先生が一色学校に入学したのは明治15年(1882年)。卒業したのはいつかというと、これが実ははっきりしないのですが、高木先生の晩年の回顧録「中学時代のこと」には,「十二の年に,郷里の小学校の上等科七年前期というものを,卒業か中退かして,明治十九年(一八八六)の六月に岐阜の中学校へ入った」と明記されています。「上等科」というのはやや不可解ですが、当時の小学校は初等科、中等科、高等科と三つの課程に区分けされていて、それぞれ3年、3年、2年の期間が割り当てられていましたから、高木先生のいう「上等科」は「高等科」を指すのではないかと思います。また、当時の小学校は今日の大学のように二学期制になっていて、各学年の一年間が「前期」と「後期」に二分されました。そこで「上等科七年前期」というのは、「高等科の第一年目の前期課程」という意味であろうと思います。
 それと、「卒業か中退かして」というところも妙で、このあたりはどうもよくわからないのですが、卒業でも中退でもなく、高等科第一年目の前期課程を修了して小学校を離れたということではないかと思います。小学校を卒業して、それから中学校に進むという整然としたプロセスが確立したのはもう少し後のことで、明治19年ころはまだ厳密な規定がなく、小学校を適当なところで切り上げて、中学に進む人もいれば学校はこれでおしまいという人もいたという状況だったのでしょう。したがって中学一年生の年齢がみな同じということもなく、千差万別というほどではないにしても、年齢はさまざまでした。

年末の旅の予定 高木先生の故郷訪問(1)

平成21年も四日を残すばかりとなりましたが、帰省の途次、岐阜県本巣市に出かけてみようと考えています。本巣市は高木貞治先生の故郷です。
 高木先生は明治8年(1875年)4月21日に本巣市に生まれました。当時の地名表記では岐阜県大野郡数屋村557番地ですが、それから複雑な変遷があり、現在は「本巣市数屋」という表記に落ち着きました。番地は確かめていないのですが、変っていないと思います。本巣市に行くにはどうしたらよいのか、調べてみたのですが、名古屋から東海道本線で岐阜市を経由して大垣に出て、大垣から樽見鉄道に乗って1時間足らずで本巣市内に入る模様です。樽見鉄道はJRではなく、第三セクター方式で運営されている株式会社です。会社の名前は樽見鉄道株式会社、路線の名称は樽見線です。インターネットで見物すると、たいへんな山奥の鉄道を気動車(ディーゼルカー)が走っています。ぼくの郷里には渡良瀬川の上流に沿って「わたらせ渓谷鉄道」が走っていますが、情景がとてもよく似ています。わたらせ渓谷鉄道も第三セクター方式の鉄道路線で、前身の国鉄時代には「足尾線」と呼ばれていました。
 樽見鉄道の前身は樽見線という国鉄ですが、開業は昭和31年(1956年)と記録されています。高木先生は数屋村の一色尋常小学校を卒業して岐阜市内の岐阜尋常中学に進んだのですが、明治初期のことで鉄道も附設されていませんし、数屋村から岐阜市に出るには歩くほかはなかったでしょう。歩いて岐阜市に出て中学の寄宿舎に入り、学業を続けました。
 岐阜尋常中学の次は京都の第三高等中学に進みました。そのころは東海道本線が新橋から神戸まで開通していた模様ですから、高木先生も鉄道で京都に出たのでしょう。京都の高等中学を卒えると,次は帝国大学ですが、当時は帝国大学は東京にひとつしかありませんでしたから、大学の名前も単純で、単に「帝国大学」というだけでした。ところが在学中に日清戦争が起り、戦後、京都にもうひとつの帝大ができました。そこで二つの帝大を区別するために大学の名前の冒頭に地名を附して、それぞれ「東京帝国大学」「京都帝国大学」と呼ぶことになり、いわゆる「東西両京の帝大」が成立しました。それで高木先生は「帝国大学」に入学して「東京帝国大学」を卒業したことになります。高木先生の成長とともに、日本の国の形もまた成長し、変化を続けていたのでした。
 大学卒業後、高木先生は「洋行」(「留学」ではありません)することになり、船でインド洋を回ってドイツに赴いて、はじめベルリンの大学に学び、それからゲッチンゲンの大学でヒルベルトに学びました。帰朝(「帰国」ではありません)後、東京帝大の教官になり、ヒルベルトのもとから持ち帰った数論の思索を続け、「類体論」の建設に成功しました。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想45.  兄の帽子

 海堀さんには海堀一郎という兄がいました。海堀さんと同じ伊都中学出身の秀才で、三高から京大理学部に進み、数学を学びました。ところが当時の京大理学部はどうも雰囲気がよくなかったようで、昭和18年9月に北大に移りました。京大には松本先生という、ボスのような人物が数学教室を仕切っていて、折り合いが悪かったというようでもありますし、それに軍事教練を受けなかったとかで、そんなあれこれが合わさって京大を離れることを余儀なくされたのでしょう。そんな印象を受けたのですが、詳細な事情はわかりません。
 北大に半年いて、昭和19年2月に教育召集を受けて入隊し、同年2月支那に移りました。出征の前に一日帰宅して、はがきを出すから、岩波全書の『微分学』『積分学』を送ってくれと言い残して出かけて行きました。どちらも掛谷宗一の著作です。このはがきは届いたようで、海堀さんは約束を守って二冊の本を送りましたが、返信はなく、そのままになったところ、昭和20年1月、中支で戦死との公報が届きました。後、海堀さんは戦中の日本を列車で札幌に行き、お兄さんの荷物を整理してもどってきたということです。
 海堀一郎さんは弟の海堀さんに三高時代の帽子を遺しました。正面の中央に三本の白線が横に引かれ、その中央に五弁の花びらが配置されています。夢の中でお兄さんが帰ってきて、「おい、あの学帽を返せ」と言ったことがあるそうで、そんな夢を二回見たと、海堀さんは話してくれました。
 その帽子を見せていただきました。かろうじて形を保っているものの、さわるとこわれてしまいそうでしたが、何というか、旧制度の高等学校の魂が立ち込められているかのようで、強い実在感があり、迫力がありました。かつて存在し、今はなくなってしまった学校への憧憬が、一個の学帽に投影しているのでしょう。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想44.  戦前戦中の秋月先生

 海堀さんは三高の入学試験を受けたころから秋月康夫先生とご縁があり、三高を卒業した後も交友が続きました。それで秋月先生にまつわるいろいろな話を御存知でした。
 秋月先生は戦中は三高の生徒主事になり、この仕事に浸食を忘れるほどに没頭し、数学の研究どころではない状態になりました。生徒の風紀一般の責任を受け持ったのですが、秋月先生の生活指導は非常にきびしく、生徒たちに相当にうらまれたようでした。それで戦争が終わると生徒の間で秋月先生に対する反感が大いに高まり、一時はさながら蛇蝎のように嫌われて、生徒たちはこの問題をめぐって徹底的に議論をたたかわせたのだそうです。海堀さんにしても、秋月先生をなぐってやろうと思ったこともあったくらいでした。
 敗戦の衝撃は秋月先生にとっても非常に大きく、そのために茫然自失という状態になりました。そんなとき岡先生が秋月先生のほおを張り倒して気合いを入れ、それから、もう一度数学をやろうとやさしく語りかけるという出来事がありました。秋月先生はこの話を海堀さんにして、岡になぐられてなあ、わしはあれで目がさめた、と述懐したということでした。
 終戦前の昭和20年の5月か6月ころのことですが、そのころ海堀さんは兵庫県の但馬竹田町の公会堂で生活していました。三高の生徒は召集は受けませんでしたが、健康に問題のない生徒は軍需工場で働き、結核の徴候のあるグレーゾーンの生徒は百姓をしながら集団疎開生活をしたのでした。海堀さんはまかない担当。監督の先生が二人いて、半月ごとに交代しましたが、秋月先生はその上の総監督で、数学の講義も担当しました。
 あるとき秋月先生が「岡の解と秋月の解」の話をしました。解析幾何の問題を取り上げたのですが、まずお昼前にむだをはぶいた見事な解法を示し、「これは岡の解」と紹介しました。海堀さんたち一同みな感嘆しました。続いてお昼すぎに、輪をかけてすばらしい解法を示し、「これは私(の解)」と言いました。海堀さんたちはますます唖然として驚きあきれたということで、今も同窓生たちの間の語り草になっているそうです。ところが、その秋月先生御自慢の解法というのはどのようなものだったのか、覚えている人はひとりもいないのだそうで、ただただ感嘆したことだけが語り継がれているのだとか。
 海堀さんはこんなふうに話をとりまとめ、いかにも楽しそうに笑いました。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想43.  三高の配属将校殴打事件

 山科で津名さんにお会いした日の翌日の5月12日、京都の四条寺町の三高同窓会館に行き、久しぶりに海堀さんにお目にかかり、三高の昔話をうかがいました。前にうかがったことのある話もありましたが、三高の話は何度聞いてもそのたびにおもしろく、心を惹かれます。旧制度の高等学校はよい学校でした。
 海堀さんはただ一度だけ岡先生に会ったことがあります。紀見村に岡先生を訪ねたのですが、それは昭和23年のお正月のことでした。これは前にうかがったことがありますが、海堀さんが岡先生を語るときの枕詞のようでもあります。
 戦中の昭和17年1月、三高で「軍人殴打事件」という出来事がありました。当時は配属将校といって軍事教練を担当する軍人が学校に派遣されていたのですが、三高の配属将校は軍人の位が高く、陸軍大佐でした。さて、昭和17年1月のある日の軍事教練のときのこと、そこの私語をしているやつ、とひとりの学生を名指して、上半身はだかの状態でグランドを駆け足するように命じました。その態度があまりに傲慢だったためでしょうか、ある生徒が配属将校の立つ台に駆け上がり、「あほなことはやめとかんか」と言いながら、銃の台尻で大佐の胸を突きました。陸軍がこれを怒り、大問題に発展しました。
 陸軍はこの不始末を処理するためということで7、8項目の要求を三高に突きつけて、これを受け入れなければ徴兵猶予を取り消すという構えに出てきたというのですが、三高と陸軍が対立した恰好になって交渉が始まりました。当時の三高の校長は前年赴任してきたばかりで、三高の様子がわからず、そのために交渉が滑らかに進まなかったという側面もあったようです。顛末はどうなったのか、なぜかノートに記述がないのではっきりしたことがわからないのですが、殴り掛かった生徒が退学処分を受けて落着したとうかがったように覚えています。
 二十歳になると徴兵検査を受けますが、昭和18年からは19歳に引き下げられました。昭和17年当時の徴兵検査はまだ二十歳でしたし、それに高等学校の生徒はおおむね二十歳未満ですから徴兵を取り消すとか取り消さないとかいうのは変なのですが、陸軍が決意を固めれば、三高の生徒のみ、在学中に徴兵検査を実施することも可能だったのかもしれません。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想42.  高橋博士の顕彰碑と岡先生

 津名さんは奈良女子大での岡先生の様子も話してくれましたが、なんでも大学側と岡先生の間では摩擦が絶えなかったということで、岡先生の長女のすがねさんには、それをやわらげる役割が期待されていたというのでした。天才と・・・は紙一重というくらいに見られていたようで、岡先生は岡先生で数学研究の中で生活するというスタイルを、大学に勤務してからもくずさなかったのでしょう。かつて広島文理科大学に勤務していたころもそんなふうで、学生に講義をボイコットされたりしたことさえありました。
 和歌山市の公園に「ビタミンA博士」こと高橋克己博士の50回忌をめどに顕彰碑を建てる話がもとあがったとき、和歌山の梅田さんから津名さんのもとに、手伝ってほしいと依頼がありました。具体的には、津名さんを通じて岡先生の支援がほしいということなのですが、こんなことがきっかけになって津名さんは久しぶりに岡先生に会うことになりました。大学に在学中に岡先生を足しげく訪問した時期があったものの、しばらく音信が途絶えていたのでした。
 ともあれ梅田さんの依頼を受けることにして、津名さんは尾崎さんと二人で奈良に出向きました。電車に乗って、四方山話にふけりながら奈良に行き、岡先生に会ったのですが、岡先生には前もって、顕彰碑の件でうかがうと、用向きを伝えておきました。しばらく話をしたものの、特に決まったことは何もないまま時間がたちました。岡先生が、どうするの、と言うので、尾崎さんはひとりで和歌山にもどり、津名さんは大学時代の友人でなら在住の藤田さんのお宅に泊めてもらうことにしました。それで、こんばんは藤田さんのところに泊まると岡先生に伝え、藤田さんのお宅に移ったのですが、そうこうするうちに岡先生から藤田さんに連絡がありました。岡先生の家に来るようにというのです。
 藤田さんはお金をもってもどってきて、これを岡先生から、と言って津名さんにわたしました。顕彰碑建立のお祝いのお金ということでした。岡先生には発起人に名を連ねてもらうことになり、これで津名さんの役割は無事に果たされた恰好になりました。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想41.  山科の津名さんの話

 5月11日の午後、JR山科駅の近くの京都銀行山科支店の前で待ち合わせ、津名さんにお会いしました。初対面の御挨拶を交わし、それから勉強部屋もしくは執筆部屋にしている近所のアパートに案内していただきました。岡先生にまつわるうわさ話のあれこれをうかがうという主旨ですので、すぐに話が通じました。
 津名さんは奈良女子大学の出身で、在学中に岡先生と面識ができたのですが、一学年上に岡先生の長女のすがねさんがいたことが、岡先生を知る直接のきっかけになりました。なんでも昭和28年の暮れ、光明会の杉田上人が奈良女子大の同窓会館「佐保会館」で講話を行うということがあったのだそうです。当時、光明会のお念仏に熱心に打ち込んでいた岡先生が呼んだのだろうと思います。津名さんは寄宿舎で生活していたのですが、同室に数学科の学生の桑田さんという人がいて、津名さんを杉田上人の講話に誘いました。光明会に心を寄せる人だったのでしょう。桑田さんはすがねさんと同期だったのですが、講話の当日、すがねさんが寄宿舎に桑田さんを呼びにきて、津名さんはそのときはじめてすがねさんに会いました。杉田上人の講話も聴講し、質問などもしたのだそうです。
 津名さんは学習研究社から『岡潔集』(全5巻)が出たとき月報にエッセイを寄せたのですが、その題目は実に
 「青春の慈父 岡先生」
というのでした。岡先生のお宅をひんぱんに訪れた一時期があり、芦屋の光明会で行われたお念仏の集まりにも、岡先生に連れられて参加したことがあります。奈良女子大に在学中に親鸞の『教行信証』を読んだときのこと。冒頭の「総序」を読むとすとんと心に入り、それから全部読んだところ、すらすらと心に入って気持ちが広くなりましたが,その後、急激に落ち込んでしまうという体験があったそうです。法悦の世界というのは「絶対他力の無色彩の闇」。ちょうどそんな時期に杉田上人の講話を聴きました。
 光明会にもいろいろな流れがあるのですが、杉田上人の派にはあまり親しめなかったようです。岡先生のほうではなぜか親鸞を好まなかったという感じを受けたそうです。それで岡先生との間にときどき摩擦めいたことが起り、あるとき岡先生が、「いくら話してもおわかりになりませんなあ」と津名さんに言ったことがあるそうです。宗教的情操において通い合うところがありながら、同時に、どこかしら根本のところで相容れないものがあったのでしょう。
 津名さんは保田先生のこともよく御存知でした。義仲寺には保田先生のお墓と早世した三男の直日さんのお墓があると教えていただきました。

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オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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