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岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想23. 岡先生の友人「松原」の消息

 八女の杉山さんから坂本繁二郎のことを教えていただいている渦中のことですが、1月29日、岡先生の友人の「松原」という人のことを調べようと思い、四国の愛媛県の高等学校の所在地を調べました。松原というのは岡先生の学生時代の友人で、大正8年にいっしょに三高に入学し、京大に進んで数学を学びました。大学では留年して、岡先生が卒業した後もまだ学生だったようですが、岡先生のエッセイによると、なんでもノルウェーの数学者リーの大著『変換群論』を読破するのだといって、講義に出ずに毎日、図書館に通って読みふけっていたというのです。リーの著作はドイツ語で書かれていて、全3巻という翁作品です。
 「友人の松原」を語る岡先生の言葉を、エッセイ「日本的情緒」から引きたいと思います。

《・・・私の友人に松原というのがある。三高を一緒に出て京大の数学科にもともに学んだ。二年の初めに幾何の西内先生にヘルムホルツ=リーの自由運動度の公理を教わって感動し(西内先生はそのとき「ナマコを初めて食ったやつも偉いが、リーも偉い」といわれた)リーの主著「変換群論」を読み上げるのだといって、ドイツ語で書かれた一冊六、七百ページ、全三冊のその本を小脇に抱え、かすりの着物に小倉のはかまをはいて、講義を休んで大学の図書館に通っていた。この図書室はみんなが勉強していて、その空気が好きだからといっていた。講義を聞きに通う私とは大学の中のきまった地点で出会うのだが「松原」というと「おお」と朗らかに答えるのが常だった。
 この松原があと微分幾何の単位だけ取れば卒業というとき、その試験期日を間違えてしまい、来てみると、もう前日すんでいた。それを聞いて私は、そのときは講師をしていたのだが、出題者の同僚に、すぐに追試験をしてやってほしいとずいぶん頼んでみた。しかしそれには教授会の承認がいるなどという余計な規則を知っていて、いっかな聞いてくれない。そのときである。松原はこういい切ったものだ。
「自分はこの講義はみな聞いた。(ノートはみなうずめたという意味である)これで試験の準備もちゃんとすませた。自分のなすべきことはもう残っていない。学校の規則がどうなっていようと、自分の関しないことだ」
 そしてそのままさっさと家へ帰ってしまった。このため当然、卒業証書はもらわずじまいだった。
 理路整然とした行為とはこのことではないだろうか。もちろん私など遠く及ばない。私はその後いく度この畏友の姿を思い浮かべ、愚かな自分をそのつど、どうにか梶取ってきたことかわからない。》

 岡先生はこんなふうに松原さんを紹介しました。それでぼくも以前から関心を寄せ、松原さんの消息を知りたいとかねがね念願していたのですが、手がかりがないので弱りました。岡先生は別のエッセイのどこかで、松原は三重の猟師の息子、などと書いていましたので、それなら津の中学の出身かもしれないと思ったこともありました。やはり岡先と三高の同期だった人に、作家の梶井基次郎や中谷孝雄がいますが、中谷孝雄は三重県第一中学(大正8年の時点での名称。翌9年、津中学校と改称しました)の出身ですし、松原さんも案外、中谷孝雄の同期生だったのかもなどと思ったことでした。
 ところが、おいおい判明したところによりますと、これは完全な間違いで、松原さんは愛媛の松山中学の出身でした。岡先生に見当はずれの方向にミスリードされてしまったため、松原さんを知る人にたどりつくまでにたいへんな手間ひまがかかりました。
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「現代思想」の特集「日本の数学者たち」

青土社の月刊誌「現代思想」の12月号で、「日本の数学者たち」という特集を組んでいます。語られているのは岡潔先生のほか、高木貞治、岩沢健吉、遠山啓、谷山豊、佐藤幹夫、それに関孝和などです。おもしろい記事もあればつまらない記事もあり、とりどりですが、岡先生を取り上げたエッセイが二つもあるのは注目に値すると思います。著者のひとりは数学界の長老の一松信先生です。
 数学の世界ではフェルマの大定理が証明されたり、ポアンカレ予想が確認されたりしましたが、今年は「リーマンの予想」が表明されてから150年の節目の年です。数学には根強いファンがいて、数学書の売れ行きは物理や化学に比べて断然よいという話です。単に魅力というよりも、数学には人の心を惹きつけてやまない「魔力」が秘められているのでしょう。数学そのものとは別に、「数学者」に関心が寄せられているという話を聞いたこともありますが、真偽のほどは不明です。
 物理学者や化学者というと、大学や研究所など、しかるべき組織に所属しているという印象があります。数学者も実際にはたいていそうですが、研究機関とは無関係に、「ひとりきりの数学者」も存在しうるような印象があります。広島の大学を辞めて郷里で数学研究に打ち込んでいた時期の岡先生がそうでした。あのころの岡先生はなにしろ無職ですし、数学を語り合う仲間もいませんし、ひとりきりの思索を楽しんでいました。当時の岡先生は何物かと問われれば、職業や肩書きをもって答えることはできません。ですが、岡先生は「数学者」でした。しかも、日本の近代の生んだ最高の数学者でした。数学者という言葉は岡先生のためにあると言っても過言ではありません。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想22.  坂本繁二郎と岡先生の弔電

 新年1月も末に迫ったころ、25日のことですが、福岡県八女市にお住まいの杉山さんと電話で話をしました。杉山さんは坂本繁二郎と親しいおつきあい会いのあった人で、晩年の坂本繁二郎の様子をよく知っています。坂本繁二郎は洋画家ですが、西日本新聞の企画で岡先生と対談したことがあります。岡先生の晩年の交友録の中でもっとも重要な三人の人物のひとりです。ちなみにあとの二人は小林秀雄と保田與重郎です。
 岡先生と坂本繁二郎との対談が行われたのは昭和41年(1966年)の秋10月のことで、場所は筑後柳川の料亭「お花」でした。杉山さんのお名前を知ったのはどうしてだったのか、どうもはっきりした記憶がないのですが、坂本繁二郎のことは非常に重視していましたので、岡先生との対談の模様を明らかにしたいと思い、アンテナを張っていました。こういう人がいると、どなたかに教えていただいたのではないかと思います。
 以下、杉山さんにうかがった話です。八女の市立図書館の二階に、水墨画や木炭によるデッサンなど、遺品を集めて坂本繁二郎資料館を作りました。坂本さんのお墓は八女市の無量寿院にあります。文芸評論家の山本健吉は山本忍月の子どもで、坂本さんと同じ無量寿院にお墓があります。(最初の)奥さんは山本秀野という人で、この人は俳人です。どうして山本健吉の名前が出てきたのか、よくわかりませんが、山本健吉は岡先生と対談したことがありますし、杉山さんはそのことを知っていたのかもしれません。杉山さんは満州の奉天の第二中学の卒業生で、四回生です。
 1月30日、また杉山さんと話をしました。坂本さんには幽子さんという娘がいて、現在(というのは平成10年の年初のことですが)80歳。幽子さんには暁彦さんという息子がいて、福岡市内で「サカモト」という画廊をやっていると教えていただきました。5年ほど前、坂本さんのアトリエの跡地を八女市に寄贈しましたが、そのときは杉山さんたち、お弟子筋の人たちが片付けに出向きました。手紙の束が数通ずつ、ひもでしばって箱に入れてありました。これらの手紙は後日、暁彦さんのもとに届けました。坂本さんは亡くなる前に庭で手紙類を燃やしていたそうですが、すべてを燃やしてしまうこともできなかったのでしょう。
 坂本さんの葬儀のとき、熊谷守一から「南無阿弥陀仏」と書かれた掛け軸が届きました。お使いの人が持参したそうです。一周忌のとき、この書を掲げました。
 坂本さんに師事した画家に曾宮一念という人がいて、随筆集がたくさんあると教えていただきました。
 2月1日も杉山さんと話しました。これで三度目になります。坂本さんの葬儀のとき、弔電が300通ほどありましたが、その中に岡先生の弔電があり、代表して読み上げられました。電報ですからカタカナ書きですが、

 このすぐれた人の
 今は亡きをかなしむ
      岡潔

と書かれていたということです。坂本さんが亡くなったのは昭和44年(1969年)7月14日。18日、葬儀。この日は密葬でしたが、その後、八女市葬が執り行われました。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想21.  長い一日の終わり

 紀見峠の岡家はたいへんな資産家で、岡先生の祖父の文一郎が政界に出てだいぶ使ったものの、まだまだ余裕がありました。そこへ岡先生が広島文理科大学を辞めて帰郷して、無職のまま数学研究に没頭するという成り行きになりました。この時期の岡家の生活を支えたのは岡家の資産だったのですが、具体的には「山を売って」生活費を得たと言われています。この「山を売る」ということの意味がもうひとつ、つかめなかったのですが、草田さんにそんな話をしておうかがいをたてたところ、それは「賦当(ぶとう)」だ、とのお返事が返ってきました。
 賦当とは何かというと、山の管理を生業とする人のことで、草田さんのお宅でも賦当と契約して山を売ることがあったのだそうです。山を売るというのは山の木を売るという意味で、賦当は全国各地を渡り歩いて山を持っている家と契約を交わします。草田家と契約した賦当は草田家の山林を管理して、間伐や皆伐をします。檜(ひのき)は枝が落ちませんから、人を雇って木にのぼって枝を切ってもらいます。「根刻印」といって、木の一本ごとに刻印を入れていく仕事もあります。現金が必要になったら賦当に伝え、適当な分量の木を売却してもらうのだそうです。それなら岡家と契約した賦当がいて、生活費が不足してきたらそのつど賦当に木を売ってもらっていたということでしょうか。昭和30年前後からバブルのころまでは木材がよく売れたそうです。
 契約した賦当が信頼できる人物ならよいが、そうでなかったらたいへんな損害をこうむることになる、という話もうかがいました。
 子守唄やら草田家の来歴やら、ずいぶんいろいろなお話をうかがいましたが、ひと休みすることになり、平野さんの運転する車で「野半の里」に向かいました。ちょうど一年ぶりのことになりますが、ここでまた四方山話をして、それから大谷駅に送ってもらいました。お別れして和歌山線で和歌山に向かい、駅ビルの中でコピーを取ることのできる店を探して、補陀さんにお借りしたアルバムのコピーを作りました。それから補陀さんのお寺に向かい、アルバムをお返ししました。この日はこれで終ったのですが、まったく長い一日でした。
 草田さんは粉河中学の昭和3年度の卒業生ですから、平成10年の年初の時点で87歳ほどだったでしょうか。親切なよい人でした。その後も何度か電話で話をすることがあり、手紙のやりとりもありました。病気で入院して手術を受けたことも聞いていましたが、あるとき気になって、数年後のことですが、大谷のお宅を訪ねたことがあります。そのとき、亡くなったことを知りました。その時点では平野さんは御存命でしたが、ほどなくして訃報が届きました。
 草田さんと岡先生は粉中の同窓生ということが縁になってただ一度だけ、出会いました。岡先生には岡先生の人生があり、草田さんは草田さんの人生を生きました。人はみなその人の人生を生きているという当たり前のことを、草田さんとのわずかな交友を通じて身にしみて思ったことでした。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想20.  根来と高野の子守唄を聴く

 草田さんの語る紀北すなわち紀州の北部地方の方言の話が続きます。かつらぎ町の隣に岩出という町があり、根来寺があることで知られていますが、「根来の子守唄」といって、有名な子守唄が伝えられています。草田さんの話では、なんでも高野山付近にも子守唄があるそうで、根来の子守唄と歌詞は同じだが調子が違うのだということでした。どこがどう違うのか、草田さんは同じ歌詞の子守唄を二通りの調子で歌って聞かせてくれました。当時のノートにそのときの歌詞と思われるメモが記されていますが、「ねんねんねごろの・・・」と始まったように思います。それから、

 うちのおとっさんこうやでだいく
 ながれきましたかんなくず
 (うちのおとっさん、高野で大工。流れ来ました、かんなくず)

というメモも書かれています。草田さんのお父さんは高野山で薬屋をやっていて、ときどき大谷にもどってきて子守唄を歌ってくれたのだそうです。草田さんが4歳のとき、お母さんが亡くなりました。
 お父さんがやっていた高野山の薬屋は「薬屋源兵衛」という看板を出していました。お母さんと草田さんは大谷にいて、お父さんは高野山で単身で薬屋をやっていたのだそうですが、これは高野山が女人禁制だったためのようでした。高野山の女人禁制は大正年代あたりまで生きていて、女性は高野山に登るのはさしつかえないけれども、泊まるのは禁じられていたのだそうです。
 草田さんのお父さんは薬屋源兵衛の四代目ですが、大正8年に廃業しました。薬屋の前は「天満屋徳兵衛」、略して「天徳(てんとく)」という作り酒屋で、これは八代続きました。薬屋を廃業の後は、薬でもうけたお金で山を買い、山林の育成事業を始めました。
 高野山で薬屋をやっていたころは、表向きは薬屋に違いありませんが、裏にもうひとつ、金融業の顔があり、「草田銀行」と呼ばれていたのだそうです。どうしてこんな話になったのかというと、岡家の話をしたのがきっかけだったように思います。紀見峠の岡家は以前は岡家(おかや)という宿屋で、高野山にお参りする人たちを相手にしていましたので、現金収入があります。岡家は高野山の恵光院というお寺と縁が深かったのですが、恵光院というのはつまり宿屋の商売でもうけたお金をあずかって運用する銀行みたいな役割を果たしていたのではないかというのでした。これは興味深い話でした。
 草田さんのお名前の「源兵衛」というのは、草田家の当主が代々継承して名乗ってきた由緒のある名前です。初代の源兵衛さんはもとは中川源兵衛といい、草田家の入り婿になりました。このあたりの事情はだんだん複雑になって、ノートのメモを読み返しても正確に再現することができませんので、詳しいことは省略しますが、初代の源兵衛さんは堺の薬屋に奉公して修行し、それから独立して高野山で開業しました。婿入り先の草田家が作り酒屋の天徳だったのでしょう。薬屋源兵衛が四代続き、草田さんのお父さんの代で廃業したということですから、草田さんは五代目の源兵衛さんになることになります。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想19.  稲本家の後日談

 伊都郡紛擾事件にまつわるあれこれのエピソードは、当然のことながら草田家にも伝えられていて、草田さんはいろいろなことを聞いているようでした。興奮して荒れる群衆を鎮圧するのに警官隊が抜刀したという話は、この地方の歴史を書いた本にも記載されていますが、草田さんの口から、その刀というのは本物の日本刀だったと聞くと、何とも言えない迫力を感じました。
 事件に責任を感じて自決した稲本保之輔は非常に感受性の強い人だったという話もありました。稲本家は大地主で、この地方の田畑の大半を所有していたそうで、稲本太一郎というお子さんがいて、県会議員などをつとめたということでした。このときはこれだけで終ったのですが、つい最近、インターネットで検索してみましたら、稲本太一郎の消息を伝える新聞記事がみつかりました。稲本太一郎は大正時代にすでに農地改革を実行に移していたという主旨の記事でした。

大阪朝日新聞
大正11年6月21日
《大果断な自作農奨励》
《小学の金を納入させて自家の田畑を割譲した稲本氏の新試み》

多年県会に列し嘗て副議長の椅子に在り又名誉村長に就職し現に郡参事会員である和歌山県伊都郡笠田町の富豪稲本太一郎氏は社会現時の状勢に鑑み昨秋以来荒みつつある地主対小作人間の緩和を期し自家所有の田畑宅地数十町歩の一部を割て自作農を奨励すべく最近自ら進んで農業篤志の小作人及び多少の貯金を有して耕地なき人達と会見し左の意味を発表した 
若し諸君にして田畑若くは宅地を購求しようとの希望あらば一人に対し五畝歩乃至二段歩を限度とし時価を以て所有地の一部を売渡すべく貯金があって定期預金となし居る人若くは将来養蚕業に努力し収繭代を以て漸次弁済しようと云う意見を有する人達の為めには定期預金の領収期、繭価を目的とする人々の為めには収繭期毎に入金する事となし目下全価額の十分の二以上の支払を受け、残金の支払に対しては確実な保証人を立て、又は定期預金証書を担保に預り残金に対しては其期間中年六朱の利息を支払わるべく簡易な条件を附するに於ては之れが契約の成立と同時に所有権移転の登記を実行すべし 
と打出したが忽ち十数名の希望者が現れ、双方合意上適当な評価人を選んで価格を協定し最近収入した繭代其他を入金に充当し残金納付の契約已に成立したので稲本氏は其新地主若くは代理人等と共に去る十九日所轄妙寺登記所に出でて権利移転の登記を済せた 
因みに今回売買を行ったは田畑宅地を合して一町三段歩余で価格は一段歩六百円乃至一千円にして数年前物価最高時に比し約七分値に該当し十数名の新地主に多大の好感を与うると同時に小作争議に悩むきょう此ごろとしては最善の試みと云って可かろう(和歌山)

 かつらぎ町のあたりは水がよく、昔から木綿織物が盛んでした。草田家は造り酒屋でしたが、造り酒屋は笠田地区だけで4軒、大谷に2、3軒、妙寺にも3軒ありました。
 高野山の応其上人(おうごしょうにん)は豊臣秀吉が高野山を焼き討ちしようとしたとき、免れるのに力があった人ですが、橋本で塩の市を開いたことでも知られています。橋本、五條、河内のあたりでは、あいずちを打つとき、
  「われ、そうけ」
というそうですが、妙寺地区では言いません。こんな言葉遣いの話もおもしろかったです。妙寺方面では
  「行かれへん」
というところを、橋本方面では
  「行けやん」
というのだそうです。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想18. 草田さんと再会する

 草田さんのお宅は和歌山県伊都郡かつらぎ町大谷にあります。岡先生の郷里は今は橋本市に編入されていますが、もとはかつらぎ町と同じ伊都郡内の紀見村という村でした。和歌山線大谷駅は無人駅です。草田家に着いて草田さんと平野さんのお二人と挨拶を交わし、それから応接間で草田さんのお話に耳を傾けました。この日は草田家のご先祖の話が多かったのですが、かつて草田家は造り酒屋でした。先祖に草田徳兵衛と亦十郎という兄弟がいて、徳兵衛が兄、亦十郎が弟ですが、弟の亦十郎は大谷の隣の妙寺に移って酒屋を始めました。郵便局も経営したということですが、これは「特定郵便局」のことでしょうか。亦十郎は草田さんの奥さんの祖父にあたる人でもあります。
 草田家は土地の旧家で、勢力がありました。紀見村の岡家とよく似ています。
 明治21年9月のことですが、「治安裁判所事件」とも「伊都郡紛擾事件」とも言われる事件がありました。治安裁判所出張所を設置する場所をめぐって起った事件なのですが、当時の伊都郡の中心地は妙寺地区で、郡役所も妙寺にありましたので、治安裁判所出張所もまた当然のように妙寺に誘致されるものと地元の人たちは思っていたところ、郡長は橋本村に設置したい意向のようだといううわさが広がりました。それで群衆が大挙して郡役所に押し掛けて、郡長と談判するという騒ぎになったのですが、興奮のあまり暴徒化し、瓦礫を投げ込んだり竹槍を投げつけたりしました。これを押さえるために警官隊が出動し、抜刀して追い払うというふうで、たいへんな騒ぎになりました。警官隊は日本刀を抜いて威嚇したと伝えられています。
 この事件の群衆側の指導者が草田亦十郎だったのですが、郡役所で談判を受けた郡長というのが、岡先生の祖父の岡文一郎でした。草田さんと岡先生は草田家と岡家の孫の代にあたります。
 結局、岡郡長の意向が通り、治安裁判所出張所は橋本村に設置されました。それから郡役所も橋本村に移ったのですが、これも岡郡長の意向でした。それから後は橋本地区が伊都郡の中心地になりましたから、橋本地区から見ると岡文一郎の功績は非常に大きく、これをたたえて旌徳碑が建てられました。今も橋本市内の丸山公園の花見台にあり、ぼくも見物しました。
 反面、妙寺の側から見るとたいへんな屈辱で、地元の人々の指導者は草田亦十郎ともうひとり、稲本保之輔という人がいたのですが、騒擾事件の後、割腹して自決しました。38歳でした。自決の碑は明治21年11月14日。一年後の明治22年11月14日、有志の手で顕彰碑が建立されました。
 岡文一郎の旌徳碑と稲本保之輔の顕彰碑は今もあります。意味合いを知る人は少ないかもしれませんが、二つの碑はただの石ではなく、見る者の心に確かに何事かが伝わってきます。何事かというのはつまり「歴史」のことで、伝わってくるのは歴史の出来事の実在感ということになるのでしょうか。石の碑というのはおそろしいものです。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想17.  再び和歌山へ

 1月18日の義仲寺の歌会の席で補陀さんにお話をうかがうことができてうれしかったのですが、翌19日、今度は若山でまた補陀さんに会いました。義仲寺で約束したのですが、ぼくもこの数日はめまぐるしい移動が続きました。若山から橋本へ。大阪にもどって義仲寺へ。それからまた和歌山に向ったのですが、再度の和歌山行の目的は補陀さんのお住まいのお寺を訪ねて、補陀さんが所有している龍神温泉の旅の日の写真を見せていただくことでした。一番はじめにお訪ねしたおりにも拝見したのですが、今度はできればコピーを作りたいと望んでいました。
 補陀さんのお宅でアルバムを見せていただきましたが、たいていの写真が台紙に張り付いていてはがせませんでした。それでアルバムごとお借りして、市内のどこかでコピーを作らせてもらうことになりました。
 お借りしたアルバムを手にしてひとまず補陀さんのお宅を離れたのですが、今度は補陀さんの運転する車に乗せていただいて桐蔭高校に向かいました。岡家の人々は桐蔭高校の前身の和歌山中学を卒業して人が多いので、入学年次や卒業年次など、詳しい諸事実を知りたかったのです。前に一度、電話でお尋ねしたことがあり、それだけでも相当のことがわかったのですが、やはり卒業生名簿の実物を見たいと思いました。
 補陀さんに待っていただいて、職員室で名簿を見せていただきました。岡家の人々が出ている頁に注意して、ノートに書き留めました。岡先生の父の寛治さんは三男で、二人の兄は和中に進みましたが、寛治さんは東京に出ました。弟の寛平さんも東京。このあたりを境にして、地方から東京に出るという、新たな気運が生まれたということでしょうか。もっとも、岡先生の兄の憲三さんは和中でした。叔父さんの北村純一郎さんも和中。岡先生本人も粉中で、東京に出ることはありませんでした。
 近くで待っていていただいた補陀さんの車に乗って、和歌山駅に向かいました。この日はかつらぎ町の草田源兵衛さんのお宅を訪問することになっていましたので、つい先日、梅田さんのいっしょに乗ったばかりの和歌山線に再び乗って、橋本方面に向いました。草田家の最寄りの駅は大谷駅です。
 草田家では昨年同様、平野さんも待っていてくれました。ちょうど一年ぶりの再会でした。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想16.  風日の新年歌会に出席する

 補陀さんの話はほかにもいろいろあり、どれも興味が深かったのですが、プライベートな話題も多かったことですし、ここでは割愛したいと思います。龍神温泉のことは胡蘭成のエッセイを読んで知ったのですが、何しろほかに文献上の資料などは見あたりませんし、なんだか夢の物語のような感じだったのですが、はじめ補陀さん、次に尾崎さんにお会いしてお話をうかがっていくうちにだんだんと現実味を帯びてきました。龍神温泉の旅は岡先生の晩年の日々の中で強い印象の伴う出来事だったと思いますし、保田先生、胡蘭成との交流を語るうえでも欠かせません。それで詳しい状況を知りたいと念願していたのですが、実際にその場にいた人の話にはその人ならではの力がありました。
 1月18日は第三日曜で、大津の義仲寺で恒例の「風日」の新年歌会が行われましたので、出席し、同人のみなさまと久しぶりに再会し、新年の御挨拶を交わしました。長電話をしたばかりの補陀さんと保田先生の奥様の典子さんにもお目にかかりました。保田典子さんもまた龍神温泉に同行した人々のお一人でした。栢木先生にお会いしたかどうか、ノートにも記事がなく、記憶もはっきりしないのですが、この日は欠席されたように思います。
 歌が掲示され、感想が語り合われて講評が終わると直会(なおらい)に移り、ここかしこで談笑が始まりますが、おりおりにまた補陀さんに話をもちかけて、龍神温泉の旅の話をうかがいました。あんまりたびたびのことですし、補陀さんも閉口したと見えて、新たな事実を次々とうかがうというふうにはなりませんでした。それに何よりも30年も昔の出来事でもありますから(平成10年は1998年、龍神温泉の旅は昭和43年で、1968年。この間、きっかり30年です)、事細かに何もかも覚えているというわけにもいかなかったのでしょう。それでも、新和歌浦から龍神温泉に向かったときの様子が少しわかりました。車二台とタクシー二台に分乗したのですが、一台の車には岡先生たちが乗り、運転手は小山さん。これは尾崎さんにうかがっていましたので承知していました。もう一台の車は大田垣さんという人が運転しました。自家用車とタクシーを合わせて計4台の車です。
 旅の初日は新和歌浦でしたから、岡先生御夫妻は奈良から和歌山市にやって来たのですが、どのような経路をとったのか、気に掛かり、尋ねたところ、保田さんが和歌山市駅にお迎えに出たとのことでした。和歌山市には「和歌山駅」と「和歌山市駅」があり、よその人の目にはまぎらわしいのですが、和歌山市駅でお出迎えということでしたら、南海電鉄で大阪から和歌山に向ったことになります。奈良から近鉄で難波に出たのでしょう。
 龍神温泉の宴席でのこと、みちさんが海老をむいて岡先生にさしあげたところ、なぜかはねのけたそうです。好物のえびなのにとみちさんが言うと、岡先生は、「時と場合による」と言ったりしました。勢いのおもむくところ、ついはねのけてしまったものの、悪い事をしてしまったようで、なんだかばつが悪かったのでしょう。ちょっとおもしろいエピソードでした。
 龍神温泉の旅が終わり、補陀さんたちは高野山経由で帰途につき、高野山の金剛三昧院で食事をしました。高野山に向かう途中、棹を路に出して踏切みたように通せん坊をしているおばあさんがいました。車をとめ、お金を払うと棹を上げて通してくれたのだとか。いかにものんきな感じのする話でした。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想15.  補陀さんとの長話

 和歌山市役所で北村市長の語る紀見峠の今昔物語にしばらく耳を傾けた後、市長さんと北川さん、それに同席していた市役所のみなさんとお別れして、梅田さんといっしょに橋本駅に向いました。市役所から歩いて数分です。梅田さんは駅前のタクシーにさっと乗り込んで、去っていきました。橋本から和歌山までタクシーで帰るのでは料金もたいへんな額になりそうですが、梅田さんはそんなことは意に介しません。この日は梅田さんの口利きで和歌山と橋本の市長お二人にお会いすることができたのですが、どうしてそんな口利きができるのか、はっきりしたことは当時も今も不明です。御主人が和歌山県の政界で高い地位にあったような話もうかがいましたし、梅田さん御本人も地元に密着したエッセイを書く人で、新聞に連載したり、テレビに出演したりしているようでした。和歌山の有名人なのでしょう。お子さんの話とか、プラーベートなこともいろいろうかがいましたが、ノートに書きませんでしたので、細部が思い出せません。
 梅田さんとお別れした後、橋本駅から南海高野線に乗り、途中、御幸辻、紀見峠などなつかしい駅を通って難波に向いました。この日は大阪で一泊。夜、補陀さんに電話をかけてこの日の出来事をお伝えしました。
 ちょっとうっかりして書き忘れましたが、年末、梅田さんの案内を受けて二人の市長さんを訪問することが決まったとき、補陀さんと電話で話し合ったことがありました。こんなことになったのですけど、ついていってさしつかえないでしょうか、などとおうかがいしたところ、梅田さんがそうすると言っているのだから、素直についていったらよいのでは、とアドバイスしてくれました。それで報告に及んだのですが、話があちこちに広がって、長時間の電話会談になりました。
 尾崎さんと梅田さんにうかがった話でだんだん様子が飲み込めてきたのですが、和歌山市には文芸サークルというか、文学に心を寄せる人たちの集いが成立していて、保田先生の作品をよく読んでいたようでした。和歌山市内の西和中学に田村先生という人がいて、文芸部の顧問だったのですが、西和中学では尾崎さんの先生だったことは和歌山市役所で尾崎さんにうかがいました。ただし、尾崎さんは文芸部ではなくて弁論部に所属していたそうで、これは補陀さんにうかがいました。その田村先生が河西中学に転勤し、やはり文芸部の顧問になったのですが、補陀さんは河西中学の生徒で、文芸部員でした。田村先生は保田先生の愛読者でしたので、尾崎さんも補陀さんもみな保田先生の作品に親しむようになったのでしょう。
 高橋博士の顕彰碑のこともまたまた話題になりました。高橋博士の奥さんの英子さんが保田先生に顕彰碑の建立の件を相談し、保田先生は補陀さんを通じ手尾崎さんに依頼したのだそうで、いよいよ顕彰碑ができたときに刻まれた文字は保田先生の撰文でした。
 龍神温泉にみなで出かけることになったのはどのような成り行きだったのですかとお尋ねしたところ、補陀さんの発案だったというお返事でした。もともと保田さんが保田先生御夫妻を接待するというのが動機だったようで、昭和43年秋の龍神温泉行は実は二回目で、その前にも一度、補陀さんが保田先生御夫妻を案内して龍神温泉にでかけたことがあるそうです。一度目の宿泊先は上御殿という旅館でしたが、二度目もまた上御殿になりました。二度目のときは胡蘭成が同行することになり、岡先生も呼ぼうと保田先生が提案し、それからだんだん増えて大集団になりました。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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