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新しい数学史を求めて(137) 情緒の数学史(77) レビの問題の回想

 「レビの問題」のレビはイタリアの数学者で、ハルトークスを継承して多変数関数論の研究に向い、未解決の課題を遺したまま第一次世界大戦で戦没しました。岡先生が参照したベンケとトゥルレンの著作を見るとレビの研究を紹介する箇所があり、そこにはたしかにレビが提示して、しかもレビ自身は解決することのできなかった問題が記録されています。それでその問題は「レビの問題」と呼ばれているのですが、岡先生御自身もベンケとトゥルレンの著作に出ている三つの未解決問題を解いたと言っていますし、そのうえそのひとつは実際に「レビの問題」なのですから、岡先生は「レビの問題」を解決したと指摘したからといってまちがっているとはとても思えません。多変数関数論のすべてのテキストにそのように書かれていますし、内外の数学者のエッセイや解説などを参照しても「岡先生はレビの問題を解いた」と明記されています。ただひとつ、岡先生の論文集だけが例外でした。
 岡先生はどんなふうにして「レビの問題」を解決したのだろうと思い、興味津々で読み進めていったのですが、実際に眼前にしたのは「ハルトークスの逆問題」という、見たことも聞いたこともない問題でした。どうしてそのように呼ぶのかという説明があるわけではなく、岡先生は
 「擬凸状の領域は正則領域だろうか」
という問題を立てて、これを「ハルトークスの逆問題」と呼んでいるのですが、この問題は岡先生の論文集以外のすべてのテキストで「レビの問題」と呼ばれている問題そのものです。まったく変なことがあるものです。
 考え直してみると「擬凸状の領域」という基本中の基本概念にも不可解なところがありました。「レビの問題」というくらいですから、レビは当然この概念を認識していたと思われるところですし、多変数関数論のテキストにはたしかに擬凸状領域を定義する文言が出ていて、そこにはほとんどいつでも参考文献としてレビの論文が挙げられているのですが、わかったようなわからないような感じで、いどのような領域を指して擬凸状領域と呼んでいるのか、いつまでも判然としませんでした。
 こんな疑問を解消してくれたのも岡先生の論文集でした。擬凸状領域の定義は第4番目と第6番目の論文に出ていますし、第9番目の論文には異なる三通りもの様式で擬凸状領域の定義が記されているのですが、結局のところ、擬凸状領域の概念をはじめて提案したのは岡先生その人であることがありありと諒解されました。
 もっとも何も兆候のないところにいきなりこのような概念を持ち出したのではなく、滑らかな超曲面で囲まれた領域というようは特別の種類の領域については擬凸状の概念はすでに提示されていて、だれが提案したのかというと、それがレビでした。レビはハルトークスの研究の延長線上で多変数関数論を探求した人ですから、出発点は「ハルトークスの連続性定理」です。したがってレビが提案した擬凸状領域の概念にはハルトークスの連続性定理が反映し、「滑らかな超曲面で囲まれた領域」に対してその連続性定理をあてはめると、正則領域であるために満たすべき条件が出てきます。それは必要条件なのですが、そのうえでさらにレビは逆向きの問題を提起しました。ベンケとトゥルレンの著作にはその情景が描かれていて、そこにレビの問題が書き留められました。

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新しい数学史を求めて(136) 情緒の数学史(76) 主問題の創造

 岡先生と小林秀雄との対話『人間の建設』にもどると、「問題を創る」という話に目がとまります。

小林秀雄
すると、岡さんの若いときに発見なさった理論は一貫して続いているわけですね。
岡先生
そうです。フランスへ行きましたのが一九二九年から一九三二年、そのころまでは数学のなかのどの土地を開拓するかということはきまっていなかったのです。フランスに三年おりました間に、その土地をきめた。土地を選んだということは、私に合った数学というものがわかっておったのでしょうね。そこまでいくと、はっきりした形では言えませんが、以後三十年余りその同じ土地の開拓をやっているわけです。
小林秀雄
それはどういうことですか。
岡先生
その当時出てきていた主要な問題をだいたい解決してしまって、次にはどういうことを目標にやってくかという、いまはその時期にさしかかっている。次の主問題となるものをつくっていこうとしているわけです。
小林秀雄
今度は問題を出すほうですね。
岡先生
出すほうです。立場が変るのです。中心になる問題がまだできていないというむつかしさがあるのです。

 岡先生の数学研究が語られるとき、よく「未解決の三つの問題を解いた」と説明されるのですが、これは正しいとも言えますし、的が外れているとも言える評言です。ここに引いた岡先生の言葉を見ると、岡先生は「当時出てきていた主要な問題をだいたい解決した」と自分で語っていますし、別のエッセイでは、当時の主要な問題というのは三つの問題の作る峨々たる山脈であるとも書いています。それで、多変数関数論には未解決の三問題というのが明確に提示されていて、岡先生はそれらを解決したのだと理解されているのですが、もとはといえば岡先生自身がそのように語っているのですから、間違いとは言えません。それに、岡先生が出発点にしたベンケとトゥルレンの著作を見ると、そこにはたしかに岡先生のいう三つの未解決問題が出ています。ただし、フェルマの大定理やリーマンの予想のようにまぎれようのない形で提示されているわけではありません。
 未解決の三問題というのは、「クザンの問題」「近似の問題」、それに「レビの問題」のことを指しています。ぼく自身の体験を回想すると、岡先生の論文集を読む前に多変数関数論のテキストを何冊か集めて読んでいたのですが、その時期には通説を信じていましたので、岡先生のいう未解決の三問題とはどんな問題なのだろうと興味を強くそそられたものでした。ですが、どういうわけか、わかったようなわからないような状況がいつまでも続き、岡先生はいったい何を解明したのだろうという素朴な疑問はいつまでも消えませんでした。この疑問は結局のところ、岡先生の論文集を読むことによりたちまち消失したのですが、岡先生自身の説明の仕方もあまり適切ではなかったのではないかと思います。
 岡先生の論文集を読んだ後で岡先生自身の説明にもう一度、耳を傾けると、今度は別の光景が目に映じるようになりました。岡先生は「三つの問題の作る峨々たる山脈」という言い方をしているのですが、三つの問題は実は無関係ではありません。それどころか中核に位置する問題はただひとつで、それがハルトークスの逆問題なのですが、岡先生はこの問題を解くための道を開こうとして、クザンの問題と近似の問題の解決をめざしたのでした。
 こんなふうにして通説は俗説にすぎないことが諒解されたのですが、岡先生の論文集を読んだために新たな問題が発生しました。それは中心問題の呼称のことなのですが、岡先生は「レビの問題」を解いたということになっていたにもかかわらず、岡先生の論文のどこを見ても「レビの問題」という言葉は見あたらず、目に映じるのはどこまでも「ハルトークスの逆問題」ばかりでした。「レビの問題」を解いたからというので高い評価を受けている当の本人はこの言葉を決して使用せず、それどころか「ハルトークスの逆問題」という、世界でただひとり岡先生だけしか使わない言葉にはじめて出会いました。まったく不思議な光景でした。


新しい数学史を求めて(135) 情緒の数学史(75)リーマンのように

 岡先生は三高の生徒のころ、岩波文庫に入ったポアンカレのエッセイ『科学の価値』を読み、リーマンの数学を語るクラインの言葉に接して感激したことがあります。ポアンカレが語ろうとしたのはリーマン自身というよりもクラインのことで、クラインはリーマンが(一変数の)代数関数論の基礎にした「ディリクレの原理」体感しようとして物理的な説明を工夫したのですが、そこのところに注意を喚起したところにポアンカレの文章の意図がありました。岡先生はクラインの考案にも感心したとは思いますが、いっそう深遠な興味を感じたのはリーマンその人に対してでした。
 京大の学生のころは丸善でクラインの全集を購入し、リーマンの代数関数論を論じた著作を読みふけることもあり、将来はリーマンの続きをやるのだという数学の夢を心に描いたということです。それからの道筋は平坦とはいえず、数学の研究の場でも曲折があり、ハルトークスの逆問題というテーマを創造することができたときには34歳になっていました。
 ハルトークスの逆問題の究明期も大きく変遷し、前期と後期に二分され、後期の研究はとうとう完成にいたらなかったのはこれまでに語ってきた通りですが、後期の研究のそのまた最後の時期になって現れたのは、三高時代にさかのぼる「リーマンの定理」なのでした。岡先生のいう「リーマンの定理」の数学的内容はどうも判然としないのですが、多変数の代数関数論をめざしていることだけは明瞭に伝わってきます。リーマンがディリクレの原理の土台の上に築いたのは一変数の代数関数論。岡先生が企図したのは多変数の代数関数論。後期の内分岐領域研究の意図もこれではっきりとわかります。内分岐領域の理論は多変数の代数関数論の基礎理論です。このような数学的構造もまたリーマンにならっているのですから、ハルトークスの逆問題のから「リーマンの定理」へと続く岡先生の数学的思索の全体が、そのままリーマンの継承になっているのでした。
 こうしてみると岡先生の数学研究の進むべき道は、三高の生徒のときにすでに定まっていたように思います。三高時代というと10代の終りがけのころのことになりますが、それならガウスの場合と同じです。「青春の夢」というか、10代の後半にさしかかりますと、人生の方向を決めてしまう何かしら特別の出来事がさりげなく生起するものかもしれず、数学者のひとりひとりの生涯を回想するとそんな事例があちこちで目につきます。
 岡先生の「リーマンの定理」の研究記録を収録した13個の大型封筒の話にもどりますと、最後の13番目の封筒には31枚の紙片が入っています。これは昭和39年(1964年)8月20日に書き起されて9月22日まで書かれたのですが、これとは別に、同年同月の8月9日の日付で微分方程式の研究記録が書かれています。研究の記録なのですが、第11番目の論文のような体裁になっていて、表紙にフランス語で

Sur les fonctions analytiques
  de plusieurs variables
 Ⅺ- Lemme
sur les e’quations differentielles
aux derive’es partielles
  Par
 Kiyoshi Oka
 1964. 8. 9(日)
  其の一
(多変数解析函数について Ⅺ-偏微分方程式に関する補助的命題 岡潔 1964. 8. 9(日) 其の一)

と記されています。本文は「其の一」と「其の二」に分かれ、「其の一」には12枚の紙片が所属しています。
 『春宵十話』の第10話「自然に従う」を見ると、
 《いま私は十一番目の論文にさしかかっている。》
という言葉が目に留まります。エッセイ集『春宵十話』は昭和38年のはじめに単行本の形で刊行されましたが、毎日新聞紙上に連載されたのは前年の4月でした。それで、岡先生の発言中の「いま」というのはその時期あたりを指すのですが、昭和39年8月9日付の一枚の表紙には岡先生の幻の第11論文の影が射しています。
 「自然に従う」をもう少し先まで読むと、こんな言葉に出会います。

《自分でいま考えている研究目標は、あと十五年あれば一応できると思うが、私ももう数え年で六十二歳だから、あと十年ぐらいはやれるけれどもそれ以上はあやしい。本当はバトンを次の人に渡すところまでやりたいが、渡すことができずにたおれても、それでもいいじゃないかと思う。」
《漱石先生が「明暗」を書きながらたおれたのも、それでいい。「雪の松折れ口みればなお白し」といった気持ちである。芭蕉がこの句を作ったとき、彼の意識には一門の運命が去来していたのではなかったか。そう考えれば「なお」の意味がよくわかるように思われる。数学史を見ても、生きてバトンを渡すことはまずない。数学は時代を隔てて学ぶのだと思う。》

 岡先生が晩年の心情を托した一句「雪の松折れ口みればなお白し」は蕉門の俳諧七部集のひとつ「炭俵」に出ている歌仙の発句です。ただし作者は芭蕉本人ではなく、お弟子の杉風です。

新しい数学史を求めて(134) 情緒の数学史(74) 岡先生の遺稿「リーマンの定理」

 岡先生がこの世にお別れした後、研究記録や日記やエッセイや連句など、大量の書き物が遺されました。大半を占めるのは研究記録で、たいてい日付が記入されていますので、日々の思索の変遷が手に取るように伝わってきます。論文の草稿もあり、しかも何度も書き直されていますので、思索の足跡をたどるうえで貴重な文献です。日記は生活の記録ですが、岡先生の生活というのは「数学研究の中の生活」ですから、毎日の数学研究と切り離すことはできません。エッセイと連句は種類が豊富です。連句稿いってもだれかと連句を巻くというのではなく、「ひとり連句」というか、岡先生は自分で自分に句をつけています。これらの文書群をすべてコピーしたところ、全部でおおよそ1万4千枚ほどに達しました。
 晩年の研究記録はほぼすべて内分岐領域をめぐって書かれていますが、岡先生が60代にはいったころから「リーマンの定理」という題目の記録が出現します。岡先生の遺稿は岡家の離れの建物に保管されていたのですが、「リーマンの定理」を見つけたときは深遠な感動に襲われてしばらく言葉がありませんでした。
「リーマンの定理」は13個の大型封筒に入れて積み重ねられていました。第一の封筒には、封筒の表紙に
   「Riemannの定理 其の一」
と書かれ、中には66枚の研究記録が入っています。日付もあり、昭和36年(1961年)の大晦日12月31日から翌昭和37年1月30日に及んでいます。前期の研究も昭和9年の年末ぎりぎりの時点で構想がスケッチされ、年明け早々から本格的な研究が始まったのですが、こんなところは「リーマンの定理」の場合もよく似ています。

新しい数学史を求めて(133) 情緒の数学史(73)

 岡先生の多変数関数論研究には前期の前に「模索の時期」があり、「ハルトークスの集合」の研究をしていました。この研究をフランスから持ち帰り、学位取得のための論文を執筆する考えで取り組んでいたのですが、だんだん熱意がさめたところにベンケ、トゥルレンの著作を見ることになりました。それで学位論文は完全に放棄して、新たな研究構想を情緒のカンバスに思い描いたのですが、このとき、というのは昭和9年(1934年)の後半期のことですが、岡先生はすでに満33歳でした。
 昭和10年の年初から新構想のもとで研究ノートを書き始め、昭和15年の時点でハルトークスの逆問題の解決の鍵を発見し、解決の全容を伝える第6論文を実際に執筆したのは昭和16年でした。第6論文は東北大学から出ている「東北数学雑誌」に掲載されたのですが、10月25日付で受理されています。それから岡先生は北大で勤務するために札幌に移ったのですが、ハルトークスの逆問題に解決のめどがついたころからすでにその先の研究の姿を思い描いていた模様です。それは「内分岐領域の理論」のことで、具体的には内分岐領域、すなわち分岐点を内点として包含する領域においてハルトークスの逆問題を解くことがめざされていたのですが、本格的な思索は昭和16年の秋から札幌で始まりました。
 昭和16年の秋の岡先生は満40歳。札幌で始まった後期の研究はずいぶん長く続きました。何年何月までときっかり指摘することはできませんが、遺された研究ノートの日付を追うと、一番最後に記入された日付は昭和41年(1966年)の大晦日12月31日です。昭和16年の秋から数えると、この間、25年になります。
 後期の研究は成功せず、ハルトークスの逆問題を内分岐領域において解くことはできなかったのですが、第7番目と第8番目に数えられる2篇の論文ができあがりました。第7論文では「不定域イデアル」の理論が展開され、第8論文では不定域イデアルの理論により内分岐領域において「上空移行の原理」が確立されました。これはハルトークスの逆問題の解決のための手段で、第8論文のタイトルは「基本的な補助的命題」というのですから、次はこの補助的命題を使って「定理」の証明をめざすべきところですが、岡先生の研究はこれよりも先には進みませんでした。
 第9番目と第10番目の論文もありますが、第9論文のテーマは「内分岐点をもたない有限領域におけるハルトークスの逆問題の解決」ですから、内容は第6論文の続きです。ただし、この間に不定域イデアルの理論ができていますので、証明の手法は格段に洗練されました。第10論文では、ハルトークスの逆問題を追求する一連の研究とは別種のテーマが取り上げられています。
 後期の多変数関数論研究に費やされた25年という歳月は、相互法則を追い求めたガウスの37年の連想を誘います。ガウスは4次の相互法則の形を発見するところまで進みましたが、その先は継承者たちの手にゆだねられました。岡先生は上空移行の原理を確立することはできましたが、頂上への登攀にはいたりませんでした。ガウスと岡先生に共通して認められるのは、二人とも「自分ひとりの思索の世界」を構築したという一事です。高次の相互法則が存在して、しかも超越関数の諸性質と関連があることを洞察するとか(ガウス)、内分岐領域においてハルトークスの逆問題の解決をめざすとか(岡先生)、どちらもできるのかできないのかだれもわからないことで、まちがいなく実在したのはただガウスと岡先生の確信のみでした。確信には知的な根拠はありません。
 ガウスの場合には4次相互法則に先だって平方剰余相互法則の証明に成功したという著しい成功があり、しかも8通りもの異なる証明を獲得することもできました。それらの証明の中には二次形式の理論や円周等分論のような異質の原理に支えられているものがあり、そんな証明が成立すること自体、驚嘆に値しますが、これもまたガウスの情緒の現れです。しかもガウスの心情の目はいっそう遠い地点にまで及び、高次の相互法則の世界を見ていたことになります。岡先生の場合には「内分岐領域におけるハルトークスの逆問題」の解決の試みに先立って、「内分岐しない領域におけるハルトークスの逆問題」の成功という出来事がありました。この前期の研究もまた岡先生の情緒の現れですが、岡先生は情緒の世界にさらに奥深く参入し、内分岐領域に及ぼうとしたのでした。
 論理的な根拠を欠く確信が本当に数学を生むという、いかにも神秘的な印象の伴う数学の創造の場にガウスと岡先生は時空を隔てて立ち会いました。すべてが心のままに実現したのではなく、できなかったこともありました。ガウスと岡先生はあらゆる点で酷似しています。

新しい数学史を求めて(132) 情緒の数学史(72)ハルトークスの逆問題の回想

 ガウスの数論と「情緒の数学」がつながるところまで書き進みましたので、この連載もだんだん終わりに近づいてきたような感慨を覚えますが、最後に晩年の岡先生の数学的思索について語っておきたいと思います。岡先生は30代のはじめ、正確に言うと34歳のときのことですが、この年、すなわち昭和9年(1934年)に刊行されたばかりのベンケとトゥルレンの著作『多複素変数函数の理論』を入手し、ここに手がかりを求めて新たな数学研究の構想を描きました。「新たに」というのは、岡先生はそれまで洋行先のフランスで始めた研究を帰国後も継続し、学位論文を執筆する考えで取り組んでいたのですが、それをすっかり放棄してしまったという意味です。来るべき研究の構想のスケッチが書かれた一枚の紙片が遺されていますが、そこには「1934年12月28日」という日付が記入されています。
 翌昭和10年の年初から思索を始め、日付入りのノートを書きながら進んでいきました。この時期の目標は「ハルトークスの逆問題」を解決することで、雄大な構想を描いたのですが、この問題を解決する場所として設定されたのは「内分岐点をもたない領域」でした。ハルトークスの逆問題というのはドイツの数学者ハルトークスが発見した「ハルトークスの連続性定理」の逆が成立するのではないかということを問う問題です。当時も今も数学には流行があり、日本の数学者の大勢はドイツやフランスなど、ヨーロッパ各国の大学で研究されている課題に向っていたのですが、多変数関数論はヨーロッパにも研究する人が非常に少なく、日本には岡先生のほかにはひとりもいませんでした。岡先生にはまったく独自の見識があり、この領域を開拓しなければ数学の将来は開けないというほどの強固な確信をもって取り組む決意を固めたのですが、勢い孤高の研究生活を強いられることになりました。そのうえハルトークスの逆問題というのは岡先生がハルトークスの研究を受けて独自に創造した問題なのですから、岡先生を取り巻く社会的環境のきびしさも、数学的思索を進める途次、いたるところで遭遇する大小さまざまな困難も、みなこぞって岡先生を苦しめました。詳述は避けますが、ハルトークスの逆問題というのは、フェルマの大定理やポアンカレ予想やリーマン予想などのようにすでに知られていた未解決の難問というのではなく、あくまでも岡先生がクリエイトした問題であること、言い換えると、この問題それ自体が岡先生に固有の情緒の表現であったことを、ここでくれぐれも回想しておきたいと思います。
 昭和10年にはじまる研究は昭和15年には決着がつき、有限でしかも単葉な領域という限定のもとでのことですが、岡先生はそのような領域においてハルトークスの逆問題を解決することができました。昭和16年秋には第6番目になる論文を執筆し、解決の具体相を報告しました。ここまでが岡先生の多変数関数論研究の前期です。

新しい数学史を求めて(131) 情緒の数学史(71)

 ガウスの数論ほどの大掛かりな事例を目にすることはめったにありませんが、ひとつでもこのような例がある以上、「情緒の数学史」の構想は十分に成立するのではないかと思います。ガウスの数論の諸論文をはじめて読んだのは、すでに四半世紀より前のことになります。
 ガウスの数論の全体が17歳のときの発見に始まることは、『アリトメチカ研究』の序文を読んで知りました。この著作の第7章の円周等分論は代数の一領域のように見えたのですが、ガウスは序文の末尾でわざわざこの論点に言及して、見かけはそうかもしれないが、根本の原理のところで数論なのだと説明していました。その意味は、平方剰余相互法則のひとつの証明がそこから取り出されるということなのですが、このようなところにも驚嘆するばかりでした。数学に関心を寄せる人の中でガウスの『アリトメチカ研究』を知らない人はいないと思いますが、ガウスがこのようなことを述べているとは、実際に読んでみるまでは思いもよらないことでした。古典はやはり自分の目で読むのがたいせつで、うわさ話などどれほど蒐集しても思索の糧にはならないのです。
 『アリトメチカ研究』の第7章の書き出しのところにはレムニスケート積分が書かれているのですが、これもまたびっくり仰天で、驚愕するばかりでした。そこには高次の合同式の理論への言及も添えられているのですが、たとえばレムニスケート積分の考察の中から4次剰余の相互法則の証明が取り出されることを、ガウスはすでに見通していたことがわかります。少し後にアイゼンシュタインがこれを実際に遂行しました。
 ガウスの情緒が描き出した数論的世界には、
 さまざまな次数の合同式
 相互法則
 代数方程式論
 円関数や楕円関数のような超越関数
のように、一見して無関係のように見えるあれこれの領域が渾然と融合しています。何度でも強調したいのは、この世界はガウスひとりの心に描き出されたのであり、ガウス以外のだれの想像も及ぶところではなかったという一事です。ガウスの継承者たちがガウスの世界を少しずつ具体化し、いろいろな理論を作りました。理論ができてしまえば、それらはつまり「普通の数学」ですから、だれでもたやすく理解することができて、普遍性に似た雰囲気を備えています。たとえガウスがいなかったとしても、何人もの「小さなガウス」がいつか現れて、よってたかってガウスの世界を発見しただろうなどと言われることがありますが、そのような評言は数学の普遍性を信じる立場から発せられています。
 できあがった数学の理論体系には確かに普遍性があり、簡単な論証を積み重ねるだけでだれでも理解できますが、生まれる前の数学、すなわち、いわば「未生の数学」はあくまでも特定の個人の心に芽生えるのであり、そこには知的もしくは論理上の普遍性はありません。
 こんなわけで、はじめてガウスの数論の世界に参入したときは驚いた事は驚いたのですが、「情緒の数学」の大きな事例になっていることを洞察するにはいたりませんでした。岡先生の論文集を通じて学んだ「情緒の数学」とガウスの数論が結びついたのは、実はつい最近のことで、このことに気づいたときのうれしさは格別でした。岡先生のいわゆる「発見の鋭い喜び」に通じるかのような喜びがあり、これで数学史を書けるという確信を抱くこともできました。

新しい数学史を求めて(130) 情緒の数学史(70)

 ガウスは平方剰余相互法則の証明に成功した最初の人物ですが、単に証明して正しさを確認したというだけではなく、長い時間をかけて8通りもの証明を案出しました。数学的帰納法のよる証明もあれば、初等的な証明もありますが、二次形式の種の理論に基づく証明や円周等分論の「ガウスの和」の数値決定に支えられた証明、それに高次合同式の考察から取り出された証明など、どうしてそんなふうに証明することができたのか、神秘的な印象の伴う証明も並んでいます。
 ガウスはどうしていろいろな証明を考案したのか、今では明瞭にわかります。ガウスの真のねらいは4次剰余相互法則の証明にあり、平方剰余相互法則の証明を支える基本原理の中に、4次の場合にも通用するものをみいだしたいと念願していたと見てまちがいありません。ただし、ここもまた繰り返しになりますが、4次の相互法則というものが見つかっていたわけではありません。このあたりの事情は、ほんの少しではありますが、代数方程式の解の公式の探索の経緯に似たところがあります。
 ガウスの全集にはさまざまな遺稿が収録されていますが、数論の領域では3次と4次の相互法則を探索する様子が顕著です。いっそう高次の相互法則の存在も感知していたことと思いますが、次数を3と4に限定して、具体的な姿を明るみに出そうと努力を続けていたのでしょう。ここで、またまた繰り返しになってしまいますが、若い日のガウスが感知したのは「存在の予感」のみであり、はたして本当に存在するのかどうか、存在するとしたらどのような形になるのか、ガウス本人も何もわからないというのが実情でした。ガウスは一方では具体的な姿形の探索を続けるとともに、他方では、まだ見つかっていない法則の証明を模索していたことになります。まったく不思議な話ですが、ガウスの心の中では矛盾せずに同居していたのでしょう。
 ガウスが平方剰余相互法則の第一補充法則を発見したのは1795年、4次剰余に関する第二論文が公表されたのは1832年。この間、実に37年という歳月が流れています。しかも公表されたのは4次相互法則の形だけで、補充法則については証明も遂行されたものの、相互法則の本体の証明は伴っていませんでした。実際にはガウスの証明は相当に進捗していたようで、証明のスケッチを記述した遺稿があるのですが、それを見ると正しく証明されています。平方剰余相互法則の証明のひとつが鍵になっていることも、深い興味を誘われます。もうひとつ、ガウスは3次の相互法則も追求していたのですが、これについては断片的なメモが遺されているだけで、まとまりのある記事はありません。
 証明は欠如していたものの、4次の相互法則が発見されて公表されたという事実は非常に重く、ガウスを継承する人々のための貴重な遺産になりました。ヤコビ、ディリクレ、クロネッカー、クンマー、ヒルベルト等々、19世紀のドイツの数論史を彩る偉大な数学者たちの名前が次々と心に浮かびます。優に100年をこえる雄大な歴史が形成されたのですが、この歴史を開いたのは、ありやなきやをどこまでも追い求めた37年に及ぶガウスの思索でした。ひとりガウスのみが存在することを確信した何物かが、37年の歳月を経て本当に姿を現しました。これを「情緒の数学」の発現と言わずして、どのように評したらよいのでしょうか。
 「無」から「有」が生まれたと言うのも可、ガウスの天才の発露と言うのも可。ではありますが、「無」も「天才」も、それ自体の中には数学は存在せず、ただ「生成する力」が宿っています。ガウスの数論は岡先生のいう「情緒の数学」のあまりにもめざましい事例になっています。

新しい数学史を求めて(129) 情緒の数学史(69)

 津田塾大学で行われた数学史シンポジウムの模様を簡単に報告しようとしたところ、長々とおしゃべりが続いてしまいました。微積分はなにしろヨーロッパの近代数学の端緒を開いた理論ですから、優に300年を超える歴史があり、全容を把握するのは容易ではありません。ずいぶん長い間、嘆息していたのですが、ここにきてコーシーとフーリエを読むことができたおかげで300年の歴史がひとつながりにつながって、何というか、「今日の微積分のテキスト」を書くことができそうな気分になりました。必ず実現したいと思いますが、それはそれとして連載中の「情緒の数学史」がまだ完結していませんので、もう少し続けたいと思います。
 とはいうものの、実際にはすでに結論まで込めて言い尽くしてしまったようでもあります。岡先生の論文集に刺激されて古典研究に向い、数学という学問の本質は「情緒の数学」であることを確認したいと思ったというところまではすでに書きました。そうすると、はたして本当に確認できたのかどうかということを、この先に続けていかなければならないことになります。そのためにはいろいろな具体例を挙げていくほかはありませんが、アーベルの「不可能の証明」や「パリの論文」にまつわる話など、これまでに語ってきた事柄はみなそのような事例ばかりです。あれもこれも、気づいてみると数学の創造はみな「情緒の数学」の事例ばかりのように見えてくるのですが、なかでも特別の位置を占めるのはガウスの数論です。
 ガウスの数論については、だいぶ前に「ガウスの遺産」という題目を立てて連載稿を書いたときに詳述したことがあります。それをここでもう一度、回想したい気持ちに駆られるのは、数論におけるガウスの数学的創造の姿形が、岡先生のいう「情緒の数学」にあまりにもぴったりとあてはまるからです。
 1795年の年初、ガウスはまだ17歳だったのですが、今日のいわゆる「平方剰余相互法則の第一補充法則」を発見して数論の端緒をつかみました。続いて平方剰余相互法則の本体と第二補充法則も発見し、証明にも成功しました。一番はじめの証明は数学的帰納法によるものだったのですが、その後も引き続き努力を重ね、全部で8通りの証明を獲得しました。この間の消息は広く知られている通りですが、ガウスの数論はそれからどのようになったのかというと、「四次剰余の理論」へと向かいました。平方剰余相互法則を「次数2の相互法則」と見て、「次数4の相互法則」を見つけようとする方向に進んだのですが、ガウスはこれをテーマにして「四次剰余の理論」というタイトルをもつ二篇の論文を執筆しました。「第一論文」は1825年、「第二論文」は1832年に公表されました。
 さて、特筆大書したいのはここからなのですが、ガウスは4次剰余相互法則というものの存在をいつ感知したのかというと、おそらく1795年の年初、平方剰余相互法則の第一補充法則を発見した時期にさかのぼります。はっきりと日時を指摘するのはむずかしいのですが、1801年に刊行された著作『アリトメチカ研究』には、すでに4次剰余の理論に関心を寄せている様子がはっきりと現れています。『アリトメチカ研究』の刊行は1801年9月。そのときガウスは24歳でした。
 「感知する」という言い方はなんだか変ですが、ガウスは4次剰余相互法則というものの姿を発見したわけではありませんでしたから、そんなふうに言うしか仕方がないのです。平方剰余相互法則の場合にはまずはじめに法則を発見し,続いてその証明に向かったのですが、これは普通のことで、わかりやすい道筋です。ところが4次剰余相互法則の場合には具体的な姿がなく、ガウスはただ単に、何かしら4次剰余相互法則と呼ぶのに相応しいものが存在するにちがいないと思っただけのことでした。後年の二論文では4次剰余相互法則とその二つの補充法則が記述されていて、補充法則については証明が書かれているものの4次剰余相互法則の本体は証明が欠如しています。
 証明どころか、法則を発見するまでに30年をこえる歳月を要したのですが、実際のところ、そんな法則が本当に存在するのかどうか、だれもわかりません。ガウスは存在を確信し、だからこそ30年以上もの間、探索を続けることができたのですが、存在を保証するものは何もありません。あるともないとも何もわからないものの探索を、ガウスはどうして続けることができたのでしょうか。

津田塾大学の数学史シンポジウムにて(3)

 詳しく話せばきりのないことですし、それにこれまでも同じような話を繰り返してきたように思うのですが、ともあれそんなわけですので、コーシーの無限小解析の枠の中にフーリエ解析の柱を打ち立てるのが、今日の解析概論に望まれる姿ではないかというのが、津田塾大学の数学史シンポジウムでの講演の骨子でした。年のためにもう一度強調しておきますと、この場合のフーリエ解析というのはフーリエとディリクレ、それにリーマンの理論そのものを指しています。
 それともうひとつ、これは数学史シンポジウムの講演では多くを語ることのできなかったことなのですが、フーリエ解析とともに複素解析もまた微積分のテキストに取り入れて、主柱を二本にしたいところです。実解析と複素解析を区分けするのは適切とはいえませんし、発生の事情を顧みても複素解析の契機は微積分のはじまりの当初からすでに芽生えていたのでした。まずはじめに実解析ができあがり、それからおもむろに複素解析へと進んでいったというような凡庸な現象は実際には見られないもので、新しいことがはじまるときにはすべてがいっせいに芽生えるものなのではないかと思います。
 講演ではおおよそこんなふうなことを話し、そのうえで、自分で言い出した理想の微積分のテキストをみずから書いてみたいと宣言しました。欲を言えばさらにもうひとつ、フーリエ解析と複素解析に加えて変分法を添えたいところですが、この方面はまだ勉強が足りませんので、発言することができません。ベルヌーイ兄弟に端を発し、オイラーの手で歩みを始めた変分法の研究が進展すれば、微積分のテキストはますます充実したものになるにちがいありません。
 シンポジウムの会場にはゴローさんと谷川さんの姿も見えました。谷川さんは高校の数学の先生ですが、ゴローさんの大学時代の先輩で、お二人とも山岳部の出身です。シンポジウムの終了後、コーシーとフーリエを翻訳した西村研究員もいっしょに四人で国分寺のおそば屋さんに行き、しばらく話をしました。「ハーケンを打つ」という話はこのときうかがいました。西村さんにはぜひもう一冊、翻訳を手がけてほしいという話も出ましたので、ここはぜひロピタルの『曲線の理解のための無限小解析』の完訳をめざしてほしいと提案したところ、ゴローさんと谷川さんも大賛成でした。はじめはためらっていた西村さんもついに承諾し、これからの方針が定まりました。

 シンポジウムに前後して依頼された原稿が二つあり、ひとつは締め切りが10月20日ですので、講演の準備と平行して少しずつ書き進めていました。テーマは「寺田寅彦の物理学」です。もうひとつの原稿のテーマは岡先生のことで、岡先生の学問を紹介してほしい、具体的には「現代数学における岡理論の意義」について書いてほしいというのが依頼の内容です。岡先生の多変数関数論は今日の数学の根幹を作っていますから、「現代数学における意義」があるのはまちがいありませんが、岡先生本人はこれが不満で、あれは私の理論ではないと言っていました。それで、「現代数学における意義」を書くと岡先生を書いたことにはならず、岡先生の数学研究そのものの意義を書くと現代数学とは離れてしまいます。ここを突き詰めていくとむずかしい問題になるのですが、少し話し合って、岡先生自身に焦点をあてて書くことになりました。
 岡先生の「情緒の数学」にはいわゆる情緒的な雰囲気はまったくなく、秋霜烈日というか、恐るべき厳しさを内に秘めています。それとともにもうひとつ、「情緒の数学」の根底には、今日の数学のすべてを向こうに回して全面的に対峙するというほどの、強靭な意志が充満しています。ヨーロッパにもリーマンやアーベルのような数学者がいたことですし、かつては「情緒の数学」が成立していたと思いますが、20世紀にはいってしばらくして情緒の消失が目立ち始め、岡先生の目には、今日の数学にはすっかり地を払ったように映じていたのではないかと思います。
 岡先生は数学という学問をそんなふうに見ていたのではないかと思いますし、40年前に岡先生を知ったときから心を惹かれていたのですが、これを実証するには大量の古典を読まなければなりませんでした。「情緒の数学」という視点は成立すると、今は思います。それで「情緒の数学史」を書けそうですが、そのうえでなお大きな課題があります。それは、晩年の岡先生が20年ほど取り組んで、ついに放棄した難問のことなのですが、これについてはいずれよい折を見て語りたいと思います。

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