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新しい数学史を求めて(113) 情緒の数学史(53) 岡潔先生の言葉

 アーベルの「不可能の証明」や「パリの論文」に事寄せて、数学を理解しようとする際の「知」と「情」の働きについて所見を述べてみましたが、これは実はぼくの独自の考えというわけではなく、半世紀も前に岡潔先生が繰り返し語り続けた言葉です。昭和40年(1965年)8月16日、この日はちょうど大文字五山送り火の日だったのですが、新潮社が企画を立てて、京都の料亭で岡先生と小林秀雄との対談が行われました。お昼すぎの1時に始まり、深夜12時に及ぶという恐るべき対談になったのですが、このときの記録はまずはじめに新潮社の文芸誌「新潮」の10月号(9月に刊行されました)に掲載され、続いて同じく新潮社から10月20日付で単行本の形になって刊行されました。書名は
 『対話 人間の建設』
というのですが、「新潮」誌に掲載されたときのタイトルも同じでした。この対談はたいへんな評判を呼び、「新潮」10月号はたちまち完売という事態になりました。「新潮」の創刊以来60年ではじめての売り切れということで、新潮社としても単行本にして出版することに決定したのでした。
 単行本『人間の建設』の売れ行きも上々で、手もとにある一冊は第15刷なのですが、刊行日は昭和41年3月10日ですから、初刷が発売されてからまだ五ヶ月にもなっていません。語り合われたテーマは多岐にわたりますが、圧巻はやはり岡先生が小林秀雄に向かって数学という学問の姿を語る部分です。しばらく岡先生の言葉に耳を傾けたいと思います。

《数学は知性の世界だけに存在しうると考えてきたのですが、そうでないということが、ごく近ごろわかったのですけれども、そういう意味にみながとっているかどうか。》

《数学は知性の世界だけに存在しえないということが、四千年以上も数学をしてきて、人ははじめてわかったのです。数学は知性の世界だけに存在しうるものではない。何を入れなければ成り立たぬかというと、感情を入れなければ成り立たぬ。ところが、感情を入れたら、学問の独立はありえませんから、少くとも数学だけは成立するといえたらと思いますが、そうも言えないのです。》

《最近、感情的にはどうしても矛盾するとしか思えない二つの命題をともに仮定しても、それが矛盾しないという証明が出たのです。だからそういう実例をもったわけなんですね。それはどういうことかというと、数学の体系に矛盾がないというためには、まず知的に矛盾がないということを証明し、しかしそれだけでは足りない、銘々の数学者がみなその結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ、数学だとはいえないということがはじめてわかったのです。じっさい考えてみれば、数学に矛盾がないというのは感情の満足ですね。人には知情意と感覚がありますけれども、感覚はしばらく省いておいて、心が納得するためには情が承知しなければなりませんね。だから、その意味で、知とか意とかがどう主張したって、その主張に折れたって、情が同調しなかったら、人はほんとうにそうだとは思えませんね。そういう意味で私は情が中心だといったのです。》

《そのことは、数学のような知性の最も端的なものについてだっていえることで、矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。そうしてその感情に満足をあたえるためには、知性がどんなにこの二つの仮定には矛盾がないのだと説いて聞かしたって無力なんです。》

《矛盾がないかもしれないけれども、そんな数学は,自分はやる気になれないとしか思わない。そういうことははじめからわかっているはずのことなんですが、その実例が出てはじめて、わかった。矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。》

《ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです。説得しましても、その数学が成立するためには、感情の満足がそれと別個にいるのです。人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。》

 こんなふうに幾重にも言葉を重ねて説き続ける岡先生に対し、小林秀雄は「近ごろの数学はそこまできたのですか」と応じました。印象はひたすら神秘的ですし、まったく不思議な対談です。

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新しい数学史を求めて(112) 情緒の数学史(52)

 行方不明になったり、見つかったり、それからまたまた所在場所がわからなくなってしまったり、「パリの論文」は数奇な運命をたどりました。アーベルがヤコビとともにパリの科学アカデミーのグランプリを受けたのは、おそらくルジャンドルの推薦によるものと思われますが、「パリの論文」の真価をルジャンドルに教示したのはヤコビでした。それならどうしてヤコビの言葉がルジャンドルに伝わったのかという疑問が生じますが、これに答えるにはヤコビとルジャンドルの交友を語らなければなりません。
 とり急ぎ簡単な経緯を書き留めておくだけにしたいのですが、ヤコビはドイツのポツダムに生まれた人で、生年は1804年ですからアーベルより二歳年下です。早い時期から楕円積分論もしくは楕円関数論の研究に向かい、ある著しい事実を発見したのですが、それをルジャンドルに伝えたところ、大きな賞賛を受けました。1827年の夏のことで、年末12月10日に生まれたヤコビはこのとき満22歳でした。ヤコビの発見は「変換理論」と呼ばれる理論に所属するのですが、その内容はオイラーに由来する変数分離形の楕円型微分方程式の積分の理論で、ルジャンドルによる寄与もあり、ルジャンドルの著作の中に記されています。ヤコビはその命題を拡大することに成功したのですから、ルジャンドルに伝えたのは当然のことですし、ルジャンドルもまたすぐに価値を認めました。ヤコビもアーベルもルジャンドルの評価を求めたところは同じですが、1827年のヤコビの場合には、1826年のアーベルのときのように「黙殺される」という事態は起らなかったのです。
 「情緒の数学史」という観点からすると、ルジャンドルはヤコビの発見の意義を認めることができたのに、アーベルの大発見はどうして見逃してしまったのだろうという疑問が起ります。楕円積分の場合、オイラーが発見した加法定理は変数分離形の楕円型微分方程式の積分の考察から派生したのですが、ルジャンドルの関心はもっぱら微分方程式の積分に向かったようで、加法定理はひとつのエピソードという程度の認識だったように思います。加法定理そのものに対してはルジャンドルの関心はどうも薄く、アーベルの加法定理に心が動かなかったのはそのためだったのではないかという感じがあります。ヤコビの発見のほうは何しろルジャンドルの関心の向かう先の正面に位置していたのですから、たちまち深い関心を示しました。
 これまでに何度も繰り返して語ってきたことですが、楕円積分の逆関数が楕円関数で、楕円積分の加法定理はそのまま楕円関数の加法定理に通じます。楕円関数の加法定理から倍角の公式が発生し、それを基礎にして等分方程式が書き下されて代数方程式論とつながって、等分方程式の代数的可解性を究明するという課題が発生します。ガウスはこの相関図式を円積分とその逆関数の場合について遂行して、何かしらまったく新しい世界の扉を開いたのですが、アーベルの加法定理の根底には、この新世界の奥地に向けて大きく歩を進めていこうとする強い意志が感じられます。それなら「パリの論文」の真価を認めることができるのはガウスを措いてほかにないことになりますし、ルジャンドルの目に留まらなかったのは無理もないことなのでした。
 数学は論理学ではなく、人がクリエイトする学問なのですから、わかる人にはわかるけれども、わからない人にはわからないという宿命を負っています。「わかる」という働きは「知」の作用であるのと同様に、「情」の働きでもあります。知的に見て問題がないとしても、言い換えると知的に「わかった」としても、情が納得しなければ人は「わかった」と思うことはできません。知的な「わかった」には情を説得する力はありません。実際にはこれはなかなか気づかないことで、アーベルもまた所見を請うべき人を誤ったのですが、「不可能の証明」を書いた6頁の小冊子がガウスに無視された出来事もありましたし、数学のことは別にして、どうもガウスとは相性が合わなかったのですから仕方がありません。この世でのアーベルの不幸はこのあたりに根ざしています。


新しい数学史を求めて(111) 情緒の数学史(51)

 科学アカデミーに提出された「パリの論文」はコーシーとルジャンドルが審査することになったのですが、ルジャンドルはこの仕事をコーシーにおしつけたようで、審査結果をコーシーが報告することになりました。ルジャンドルが実際に読んだ形跡はなく、コーシーもまた放置して、いつのまにか行方不明になってしまいました。アーベルは「パリの論文」の価値を確信し、真価が正しく評価されることを期待してパリ滞在を続けたのですが、何の御沙汰もないまま年末を迎え、12月29日、失意のうちにパリを離れました。
 この当時の数学的状況を回想すると、「パリの論文」を理解することができそうな人は、もしそのような人がいるとすればの話ですが、ルジャンドルのみでした。コーシーは読みさえすれば論証の正しさを判定することはできたと思いますが、楕円関数論や代数関数論には関心がなかったのですからそんなことを想像しても意味はなく、せいぜい論文の標題を見たという程度だったのではないかと思います。オイラーの楕円積分論を祖述したルジャンドルのことですから、楕円積分の加法定理を極限まで押し進めることに成功した「パリの論文」を理解しないはずはないと、アーベルは期待したに違いありませんが、この期待はかなえられませんでした。
 楕円積分も超楕円積分も飛び越していきなり一般のアーベル積分の研究を仕上げるというのはやはり尋常ではなく、アーベルは手持ちの研究成果の中で一番よいものを科学アカデミーに提出したのでした。この意気込みが実を結ばない現実を味わった後、アーベルは楕円積分と楕円関数の研究成果を論文の形にまとめ、「クレルレの数学誌」やシューマッハーの「天文報知」などに掲載するようになりました。1828年の暮れには楕円積分よりも少し一般的なアーベル積分を取り上げて、「ある種の超越関数の二、三の一般的性質に関する諸注意」という論文を書き、「クレルレの数学誌」巻3の第4分冊に載せました。この分冊は12月3日に刊行されました。
 論文「諸注意」のテーマは加法定理で、「パリの論文」の特別の場合が精密に述べられていますが、本質は同じです。アーベルは書き出しのあたりでささやかな脚註を附して、

《私は1826年の終りころ、パリの科学アカデミーに、このような関数に関する論文を提出した。》

と、「パリの論文」の存在を示唆しました。「このような関数」というのは「代数的微分式の積分」、すなわち一般のアーベル積分を指しています。
 痛切な心情のにじむ言葉ですが、これに共鳴したのはアーベルのライバルのヤコビでした。ヤコビは「諸注意」を通じて「パリの論文」の値打ちをも理解したようで、この当時、ルジャンドルと手紙のやりとりをしていたのですが、「パリの論文」のことを伝えました。こんなことがあって、「パリの論文」はようやくパリの数学者たちの知るところとなりました。
 ストゥーブハウグの評伝『アーベルとその時代』によると、アーベルの没後のことですが、1829年6月29日にはアカデミー・フランセーズの机の上にあったということで、翌1830年6月28日にはヤコビとともに科学アカデミーの数学大賞を受けました。ところが、その後、またも行方がわからなくなりました。

9月後半の旅

今月は16日から旅行に出かけました。東京に向かい、麻布の有栖川宮公園内にある都立図書館で古い新聞を調査しました。それから出版社の人との話し合い、共立出版社の「文献を読む会」で講演、帰郷と続き、最後に25日と26日の両日、大阪大学で行われた日本数学会に出席して、昨晩遅く出発点にもどりました。12日間の旅になりました。
 これで長い夏休みがようやく終わり、28日(月)から新学期が始まります。「情緒の数学史」の連載もついつい途切れがちになりましたが、明日から再開したいと思います。

新しい数学史を求めて(110) 情緒の数学史(50)

 アーベルの心情が楕円積分もしくは楕円関数の研究に向かいはじめた時期は非常に早く、しかも具体的なきっかけがありました。それは高次代数方程式の解の公式の存在証明に成功したと信じたときのことで、アーベルが執筆した論文は海をわたってコペンハーゲンのデゲン先生の批評を受けることになりました。デゲン先生はアーベルの論文に欠陥をみいだすことはできず、かといって正しいと明言したわけでもなかったのですが、おもしろい所見をアーベルに贈りました。それは、代数方程式のようなそれほど重要といえないテーマに打ち込むよりも、楕円積分論のような広大な可能性を秘めている領域の探索へと乗り出すべきだ、という主旨の言葉なのですが、このアドバイスがアーベルに影響を及ぼした可能性はたしかにあります。1821年のことで、このときアーベルは19歳でした。
 それならデゲン先生はなぜ楕円積分論の究明に重要性を感じたのだろうかという疑問が生じますが、たぶんデゲン先生はルジャンドルの著作『さまざまな位数の超越関数と面積の算出に関する積分計算演習』(全三巻)を見ていたのでしょう。全三巻のうち巻3は巻3が刊行されたのは1819年ですから、デゲン先生も手に入れて心を動かされることがあったのかもしれません。いずれにしても、この時点でアーベルに楕円積分論の研究をすすめたのはデゲン先生の功績です。ですが、楕円積分論と代数方程式論が連繋して新たな世界が計さえされていくことになろうとは、デゲン先生には思いもよらなかったことでしょう。ルジャンドルのもうひとつの作品『楕円関数とオイラー積分概論』(全三巻)はこの時点ではまだ出版されていませんでした。
 楕円積分もしくは楕円関数の等分理論の根底にあるのは加法定理ですが、加法定理が素朴に認識されるアーベル積分は実は円積分と楕円積分だけで、他のアーベル積分に移ると諸状勢はいきなり見通しが悪くなります。ところがアーベルはいきなり完全に一般的なアーベル積分を取り上げて加法定理を発見し、「パリの論文」を執筆しました。パリのアーベルは25歳です。19歳のときデゲン先生に楕円関数の研究をすすめられ、ガウスの『アリトメチカ研究』を読み、その前からの懸案の代数方程式論の究明も以前として継続する中で、いつのまにか一般のアーベル積分の加法定理に到達するところにまで進みました。「楕円関数研究」よりも先に「パリの論文」を書いたのは、おそらくパリの科学アカデミーに提出するためで、手持ちの研究の中の一番よいものを出そうというほどの強い意志力が伝わってきます。ですが、アカデミーからは何の反応もなく、アーベルの意気込みは空回りに終りました。

新しい数学史を求めて(109) 情緒の数学史(49)

 アーベルはガウスが『アリトメチカ研究』の第7章の冒頭に書き留めたレムニスケート積分ひとつを手がかりにして、楕円関数論の領域でガウスが描いていた構想を洞察することに成功した模様です。手がかりとも言えないほどのかけらにすぎないのですが、ガウスが円周等分方程式を取り扱う仕方をつぶさに観察し、レムニスケート積分を見ただけでガウスの数学的心情を見抜いたというのですから、まったくおそるべき力量です。アーベルがどれほど深くガウスの世界を再現しえたのか、その情景は「楕円関数研究」(1827-28年)という傑作の中に克明に描かれています。
 アーベルはこの段階では第一楕円積分の逆関数に対して特別の呼称を与えているわけではないのですが、アーベル以降、定着した習慣にしたがって「楕円関数」と呼ぶことにしたいと思います。アーベルは楕円関数の二重周期性を明らかにし、加法公式と倍角の公式を配列し、等分方程式を書き下しました。それから等分方程式を「一般等分方程式」と「周期等分方程式」に区分けして、それぞれの代数的可解性の究明を試みました。一般等分方程式の代数的可解性は周期等分方程式の代数的可解性に帰着され、周期等分方程式の代数的可解性は「モジュラー方程式」と呼ばれる方程式(アーベル自身による呼称ではありません)の代数的可解性に還元されます。一般的に言うとモジュラー方程式は代数的に解くことはできないのですが、アーベルはそれを指摘したうえで、モジュラー方程式の代数的可解性を左右する根本的な状勢を解明しようとする問題へと向かっていきました。ここから生まれたのが「虚数乗法論」と言われる理論ですが、ここまで来ると、アーベルの歩みはガウスの視野の及ぶ範囲を越えて、はるかに遠い地点に届いています。
 諸情勢を最後にモジュラー方程式の代数的可解性に帰着するまでには、代数的解ける方程式にもいくつか出会い、アーベルはそれらの代数的可解性を次々と明らかにしていくのですが、それらはどれもみなアーベル方程式です。アーベル方程式というのは巡回方程式よりも少し広い範疇を作る代数方程式なのですが、円周等分方程式は巡回方程式であることを認識し、その認識に基づいて円周等分方程式の代数的可解性を示したのがガウスでした。ここで本質的なのは、円周等分方程式は円関数、すなわち複素指数関数f(x)=e^(ix)の等分方程式であるという一事ですが、これに対し、アーベルは楕円関数の等分方程式の考察を通じてアーベル方程式に出会いました。
 ガウスの円周等分方程式論にはもうひとつ、定規とコンパスのみを用いて円周を等分することに関する発見がありました。N=2^n+1という形の素数のことをフェルマ素数というのですが、Nがフェルマ素数のとき、円周を定規とコンパスだけでN等分すすことができるというのがガウスの発見ですが、アーベルはレムニスケート曲線を対象にして、これとそっくりそのままの類似する命題を見つけました。発見したのはパリに滞在中のことのようで、1826年12月のホロンボエ先生宛の手紙にその様子が語られています。これまでにも引いたことがありますが、該当箇所は次の通りです。

《ぼくは,2^n+1が素数のとき,定規とコンパスを用いてレムニスケートを2^n+1個の等しい部分に分けることができることを発見した.この分割は次数(2^n+1)^2-1の方程式に依存する.ところで,ぼくはその方程式の平方根による完全な解法を見つけたのだ.ぼくはこのことを通じて,同時に,円周の分割に関するガウス氏の理論を覆って働いているあの神秘を見抜いてしまった.彼がどんなふうにしてそこに到達したのか,ぼくの目にははっきりと映じている.》

この事実もまた「楕円関数研究」に記されていますが、ここではこの発見が起った時期と、論文が執筆された順序にくれぐれも着目したいと思います。楕円関数は第一種楕円積分の逆関数でしたが、楕円積分は特殊な代数関数ですから、楕円積分の研究から始めてだんだんと一般化して代数関数に及ぶというのが通常の順序のように思います。ところがアーベル真っ先に執筆した「パリの論文」のテーマは、完全に一般的な代数関数の積分に対する加法定理でした。簡単なものから一般的なものへと進んだのではなく、パリのアーベルは一番一般的な対象の考察から出発しました。なんだか向きが逆ではないかという感じがして、いかにも不思議です。

新しい数学史を求めて(108) 情緒の数学史(48)

 アーベルとはどのような数学者だったのかと問われたなら、「ガウスの一番はじめの継承者」と呼ぶのがもっとも相応しいと思います。代数方程式論についてはこの見方がぴったりあてはまり、間然するところがありません。アーベルの「不可能の証明」がガウスの円周等分方程式論に深遠な影響を受けたことは明白ですし、さらにもうひとつ、「アーベル方程式」の概念の由来もまた円周等分方程式です。
 楕円積分論についてはどうかといいますと、何しろガウスはこの方面では論文や著作を出さなかったのですから、アーベルといえどもガウスの思索に直接追随して学ぶのは至難です。実際のところ、アーベルはオイラーとルジャンドルの著作を通じて楕円積分論を学びました。ルジャンドルはオイラーの忠実な祖述者で、数論の方面では『数の理論のエッセイ』(1798年)という大きな著作によりオイラーの数論を紹介しました。楕円積分論では、

『楕円関数とオイラー積分概論』(全三巻.巻1、1825年。巻2、1826年。巻3、1828年刊行)

という大著作があります。書名の通り、楕円積分とその一般化を祖述する作品です。ルジャンドルのいう楕円関数は今日のいわゆる楕円積分を指しています。「オイラー積分」というのは楕円積分を一般化した形の積分で、オイラーが提案して研究したのですが、ルジャンドルはそれを「オイラー積分」と命名しました。
 楕円積分論はオイラーに始まりますが、理論的に見れば積分の一般理論を背景にしています。そこでルジャンドルは上記の著作に先立って、

『さまざまな位数の超越関数と面積の算出に関する積分計算演習』(巻1、1811年。巻2、1814年。巻3、1819年刊行)

という著作を出しました。これもまた全三巻という大冊です。
 アーベルはこれらのルジャンドルの著作をテキストにして楕円積分を勉強したのですが、基本テーマは何かというと、変数分離型の楕円型微分方程式の積分と加法定理でした。ところが、ガウスは独自の楕円積分論を手中にしていました。それらは公表されなかったのですが、没後の遺稿を参照して全容を眺めると、ガウスがどれほど深くこの方面に沈潜していたか、明晰判明にわかります。まったく驚くべき数学者です。
 公表された書き物はありませんが、24歳のときの作品『アリトメチカ研究』の第7章の冒頭にたったひとつだけ、ガウスの広大な思索の片鱗とも言えないかけらが書き留められました。それはレムニスケート積分
   ∫dx/√(1-x^4)
のことなのですが、ガウスは円周等分方程式論とレムニスケート積分は根底に横たわる共通の諸原理に支えられているというのです。これまでにもあちこちで引用したのですが、ガウスの言葉をここでもう一度引いておきます。

《ところでわれわれが今から説明を始めたいと思う理論の諸原理は,ここで繰り広げられる事柄に比して,それよりもはるかに広々と開かれている.なぜなら,この理論の諸原理は円関数のみならず,そのほかの多くの超越関数,たとえば積分
   ∫dx/√(1-x^4)
に依拠する超越関数に対しても,そうしてまたさまざまな種類の合同式に対しても,同様の研究を伴いつつ,適用することができるからである.》

ガウスの遺稿を見るとわかることですが、ガウスはすでにレムニスケート積分の逆関数、すなわちレムニスケート関数を考えて、二重周期性を認識し、加法定理を書き下しています。オイラーはレムニスケート積分の形のままで加法定理を発見しましたが、逆関数に移れば、そのままレムニスケート関数の加法定理になります。三角関数を想起すればすぐに諒解されることですが、加法定理があれば倍角の公式が手に入り、倍角の公式があれば等分方程式を書き下すことができます。三角関数は円積分の逆関数で、たとえば円積分
   θ=∫dx/√(1-x^2)
の逆関数は正弦関数x=sinθですが、レムニスケート積分に対してもまったく類似の状況が認められるということで、これはこれで実に興味深い発見です。
 ガウスといえどもレムニスケート積分の加法定理そのものはオイラーに学んだのであろうと思いますが、逆関数に移行するあたりはまぎれもなくガウスの創意です。レムニスケート積分は第一種楕円積分の一例で、一般に第一種楕円積分には逆関数が存在します。それを今では楕円関数と呼ぶのですが(これを提案したのはヤコビです)、レムニスケート関数はもちろん楕円関数の一例です。楕円関数は二重周期をもち、加法定理を満たし、したがって倍角の公式が成立しますので、等分方程式を書き下すことができます。
 オイラーの時点では代数方程式論と楕円積分論は別々の理論だったのですが、楕円積分から楕円関数に移ることにより等分方程式が認識されて、二つの流れが合流する場所が現れました。ガウスが開いた新しい数学の沃野です。

新しい数学史を求めて(107) 情緒の数学史(47)解ける問題と解けない問題

 「不可能の証明」をめぐってあれこれの話が続きましたが、話を始めたときはそんなに立ち入って語り続けるつもりはありませんでした。こんなことになったのはどうしてかというと、アーベルが留学の途中で立ち寄ったウィーンで、ルフィニの研究を紹介する論説を目にしたというエピソードに言及したことがきっかけになったのでした。それから思わぬ方向に進展し、ラグランジュがルフィニを無視したのはなぜかとか、数学の証明が成功するかどうかの鍵を握っているのは、証明の対象となる命題が正しいという前提のもとで、成功を確信する強固な心情であることなどという話が続きました。「数学的情緒の数学史」という根本テーマに立ち返るなら、ともあれ「知」の働く場を開示するのは「情」の働きであるという話に落ち着いたのですから、これはこれで不満はありません。
 一般角を定規とコンパスのみを使って三等分するのは不可能とわかっていますから、三等分の可能性を強く確信して生涯をかけて打ち込んだとしても、決して解決することはありません。これは問題の形が、アーベルのいう「解決することが可能な形」になっていないからで、5次方程式の解の公式の探索と同じです。もっとも解決可能な形に問題が設定されれば、だれもが解けるというわけでもありません。実際、ルフィニの場合には、ともあれ「不可能の証明」を確信していたのですから問題の形は解決可能になっていたのですが、解くことができませんでした。
 問題を解決可能な形に提示するというアーベルの言葉の根底には、「情」の作用が「知」の働きを制御するという情景が広がっていますから、「情緒の数学史」の恰好の事例になっていることはこれまでに縷々語り続けてきた通りです。解のある問題を解こうと思い詰めて打ち込めば必ず解けるというほどのことで、それならだれしも、「不可能の証明」のような大掛かりな問題ではないにしても、身近な体験をもっているのではないかと思います。大学の受験問題などでしたら必ず解けるに決まっていて、はじめから「解ける形」になっているのですから、問題をいかに提出するかという苦労は要請されず、当初から解けることを確信して解きにかかることになります。解けるか解けないかの分かれ目は技術上の工夫にかかっていますが、それでしたら、難易の差異はあるとしても、数学の研究で問題を解く作業と本質が同じです。
 そうすると数学と数学史を考えるうえで大問題になるのは、「数学の問題はいかにして提出されるのか」という論点であろうと思います。数学の研究はよく「問題を解く」という形で行われますが、解こうとする諸問題そのものはどこから生まれてくるのでしょうか。これに関連してもうひとつの課題も心にかかります。それは問題の解決が認められたり認められなかったりするという現象に関することなのですが、数学の論証が知的もしくは論理的に行われる以上、正しいかまちがっているかの判定は論理的な視点のみから可能なのではないかと考えられます。というよりもむしろ、数学というのはそのような学問であると見るのはごく普通のことですが、そうすると数学史には理解しがたい出来事がしばしば起ります。
 代数方程式論に例を求めると、アーベルははじめ「解の公式の存在証明」に成功したと信じ、一篇の論文を執筆して諸先生に見てもらいましたが、欠陥を指摘した人はいませんでした。それにもかかわらず、だれも「正しい」と明言しなかったのはいかにも不可解です。その後、アーベルは考えをあらためて「不可能の証明」に向かい、「6頁の論文」を書きました。今度もまたまちがいを見つけることのできた人はいなかったのですが、だからといって「正しい」と言ってくれる人もまたいませんでした。ベルリンのクレルレはアーベルの話に耳を傾けてくれましたので、アーベルは励まされて新たに「不可能の証明」の論文を書き直しました。「クレルレの数学誌」に掲載するつもりでしたのでクレルレの手にわたしたところ、クレルレは掲載にあたってわざわざドイツ語訳を作成してくれたのですが、理解が行き届かなかったため、論文のタイトルからしてまちがってしまいました。ルフィニの「不可能の証明」はラグランジュに無視されてしまいましたが、そのラグランジュはガウスの円周等分方程式論のことは際立って高く評価しました。
 認められたり認められなかったりする現象は単なる論証のレベルで発生するのではなさそうで、数学の根底にあって全体を支えているのは、論理を超越した何物かではないかという印象があります。アーベルの「パリの論文」に例を求めて、この間の消息をもう少し追求してみたいと思います。

新しい数学史を求めて(106) 情緒の数学史(46)「不可能の証明」再考

 代数方程式論の歴史は数学史の流れの中でそれほど大きな位置を占めるわけではありませんが、カルダノやフェラリの時代からオイラー、ラグランジュ、ガウスを経てアーベル、ルフィニによる「不可能の証明」の出現にいたるまでの経緯を観察すると、ここにもまたまぎれもない「数学のドラマ」があります。2次方程式の解の公式などは別にむずかしいものではありませんし、ヨーロッパの近代を待たずとも、世界のあちこちで早くから知られていました。2次方程式が解けたら、さてその次は3次方程式、4次方程式と進んでいくのは自然な流れではありますが、特別に深い数学的思索が必要になるわけではなく、簡単な技術上の工夫により解の公式が見つかりました。
 数学の深遠に直面していくのはその次の段階からで、3次と4次に続いて5次方程式へと歩を向けるととたんに高い壁に直面し、前進することができなくなってしまいました。それで、もしかしたら高次方程式の解の公式は存在しないのではないかという疑いが数学者たちの間に次第に芽生えてきた、と数学史の書物などにはよく書かれているのですが、このあたりは再考の余地があります。問題なのは「数学者たちの間で」というところで、いかにも自然発生的に疑念が生まれて拡散していったかのように考えるのはまちがっているのではないかと思います。数学は特定の「人」を離れて存立することはできず、数学という学問がいつしか自分でかってに成り行きで姿形を変えていくという事態はありえません。それでここのところを特に力を込めて強調したいのですが、「5次方程式の解の公式を見つけるのは実は不可能なのではないか」と一番はじめに疑ったのは、少なくとも文献に現れている限りではガウスとルフィニの二人です。この二人は同じ問題に直面し、それぞれ独立に「不可能であろう」という同じ見解に達しました。
 高次方程式の解の公式は存在するのかしないのか、どちらなのかという問いに対しては答はひとつに決まっていて、「存在しない」と答えるのが正解なのですから、存在すると思って探索しても見つかりません。探索を受け持つのは「知」ですが、「存在すると思う」という「情」に手を引かれなければ「知」は働きようがありませんし、この場合には前提となるアイデアがまちがっていたのですから、どれほど「知」を働かせても「解の公式」は見つかりませんでした。
 ルフィニはラグランジュの影響を受けて「不可能であること」を確信しましたが、ラグランジュ自身は一貫して「存在すること」を信じていました。存在証明をめざすラグランジュに学んで存在を疑うようになったのはよいとしても、存在証明のために案出されたラグランジュのアイデアを基礎にして「存在しないこと」を証明しようとしたところには、やはり技術上の無理がありました。
 ガウスははじめから「不可能であること」を確信したようですが、どうしてそんなふうに思うことができたのか、詳しい消息は不明瞭です。全般的に見てガウスにおける数学の形成は説明できないことが多く、印象はつねに神秘的でさえあります。
 ガウスもまたラグランジュの論文は承知していましたが、影響は受けなかった模様です。というよりもむしろ、ラグランジュのようにしたのでは存在証明はできないことをたちまち洞察し、「不可能であること」を確信する方向に向かったということなのかもしれません。このあたりはガウスとルフィニを分けるところです。ガウスはルフィニのように証明を試みることはしませんでした。「不可能の証明」はガウスにとってはあたりまえのことだったのでしょう。
 アーベルは当初、解の公式の存在を信じていましたが、ガウスの影響を受けて存在を疑う側に移り、やがて「不可能の証明」に成功しました。存在を疑うからこそ、「不可能の証明」に取り組めるのであり、疑いがなければ、存在しないものの探索をいつまでも続けるほかはありません。アーベルは代数方程式をテーマとする遺稿の中で、「問題に対して,それを解決することがつねに可能であるような形状を与えなければならない」という所見を述べました。「5次方程式の解の公式を見つけよ」という問題は解のない問題ですから、「解決すすることが可能な形」にはなっていません。それゆえ、この問題をどれほど追求しても、決して終点には到達せず、実りのない試みがえんえんと続くことになります。これに対し、「一般の5次方程式を代数的に解くのは不可能であることを証明せよ」というふうに問題を提出すれば、これなら解があるのですから、解ける可能性があります。
 「不可能の証明」は、不可能と思えてはじめて解決の道筋が見えてくる問題です。「情」が先導してくれなければ「知」の出る幕はなく、正しく導いてくれれば解けるが、そうでなければ解けないという数学研究の現場の情景を、「不可能の証明」をめぐる物語はありありと物語っています。

新しい数学史を求めて(105) 情緒の数学史(45)代数的可解性の基本原理をめぐって

 「情緒の数学史」の前回(44回目)のところで、ラグランジュがガウスに宛てた2通の手紙がラグランジュの全集に収録されていることを報告し、一通目の手紙に書かれていることの一端を紹介しました。それから東京に出て出版社の人に会って話をしたり、「数学文献を読む会」ではガウスの数論をテーマにして1時間の講演をするなど、二日ほど東京に逗留しました。「文献を読む会」には、よくコメントを寄せてくれるゴローさんも顔を見せ、「情緒の数学史」というものの姿形をめぐってあれこれと語り合う機会がありました。
 それで、「情緒の数学史」について東京で考えたことを少々書き留めておきたいと思うのですが、紹介しようとして中断されたままのラグランジュの手紙の内容も無関係というわけではありません。どうも話が迂遠になりがちなのですが、ラグランジュからガウスへの二通目の手紙に立ち返ると、「あの美しい発見をした人」という言葉が目に留まります。これはガウスその人を指しています。手紙の冒頭で、ラグランジュは代数方程式論をテーマとした著作『方程式の解法についての概論』をガウスのもとに送付したことを伝えているのですが、その際、「あの美しい発見をした人」に自分の著作を謹呈することができるのは栄誉なことであると、40歳以上の年下のガウスに向かって謙虚な挨拶を送ったのでした。
 それならラグランジュのいうガウスの「美しい発見」というのは何かというと、ここでもまた4年前の一通目の手紙で語られたのと同じ円周等分方程式に関することが語られているのですが、ラグランジュの言葉をそのまま写すと、「二項方程式の解法を3次と4次の方程式の解法の原理と同じ原理に帰着させた」という状況を指しています。「二項方程式」というのは円周等分方程式x^n-1=0のことで、この方程式の左辺が二つの項で構成されているところに着目して「二項方程式」という名で呼んでいます。ガウスは円周等分方程式をいくつかの低次数の「純粋方程式」(これはガウスの用語です)、すなわちx^k=aという形の一系の方程式の解法に組織的に帰着させる手順を示したのですが、その道筋は3次方程式と4次方程式の解の公式を導くときの手法とまったく同じです。そこでラグランジュは「(ガウスは)3次方程式と4次方程式を解くのと同じ原理に帰着させた」と言い、これを「美しい発見」と呼んで賞賛したのでした。
 『アリトメチカ研究』のテーマはどこまでも平方剰余相互法則であり、円周等分方程式論の真意もまたそこにあるのですから、ラグランジュの手紙に平方剰余相互法則への言及がまったく見られないのはかえって奇妙でさえあります。低次数の円周等分方程式でしたらラグランジュの論文「省察」にも出ていて、ごく簡単な工夫で代数的に解かれていましたが、その工夫を適用できるのは円周等分方程式に対してのみでした。これに対しガウスが示した手法はどれほど高い次数の円周等分方程式にも適用可能ですし、しかもいっそう根源的に、そもそも方程式が代数的に解けるというのはどのようなことなのかという根本原理が明示されているのですから、ラグランジュが驚嘆したのも無理からぬことでした。
 ルフィニに欠如していたのはこの根本原理で、そのことがそのままルフィニの「不可能の証明」の欠陥になりました。アーベルはといえばガウスに学んでこの原理を理解して自分のものにしていましたので、「不可能の証明」に成功するとともに、ルフィニの失敗の原因もすぐにわかったのでした。「不可能の証明」の正否を分けたのは代数的可解性の根本原理の認識なのであり、これを欠いていたのでは「置換の理論」なども働く余地がありません。ガウスは別格で、アーベルの証明はガウスの目にはあたりまえのことのように映じたことでしょう。では「省察」を書いたラグランジュはどうかと言えば、ラグランジュは「省察」のころから一般方程式の代数的可解性に確信があったようで、しかもその確信はガウスが円周等分方程式を代数的に解く様子を見てますます強固になったのではないかと思います。ラグランジュの二通の手紙を読むと、そんなラグランジュの心情がありありと伝わってきます。
 当初から代数的可解性を確信するラグランジュの心情にはルフィニの「不可能の証明」を受け入れる余地はなく、ルフィニに返信しなかったのもそのためであろうと思います。謹呈された著作もおそらく読まなかったでしょう。ガウスの円周等分方程式論はラグランジュの確信を強めてくれたのですから、ガウスに宛てて賞賛の手紙を書いたのも当然で、ラグランジュの心情は手に取るようにわかります。アーベルがルフィニの証明を批判したのは代数的可解性の基本原理の欠如が見えたためで、これはいわゆる科学的な姿勢です。ただし、ルフィニの証明をともかく検討しようとしたのは「不可能であること」という一点をルフィニと共有していたためで、アーベルはラグランジュと違い、ルフィニを拒絶する心はありませんでした。ガウスはルフィニの著作を見る機会があったのかどうか、これはわかりませんが、根本原理を欠いていることはすぐにわかりますから、見ても問題にしなかったのではないかと思います。アーベルの証明を無視したのは数学的情緒とも科学的な姿勢とも無関係で、ガウスの性格のためと思われますが、ここはガウスにとっても悔やまれるところです。
 興味深いのはアーベルの「不可能の証明」に対するラグランジュの所見ですが、心情に反する以上、ラグランジュはやはり受け入れなかったのではないかと思います。ラグランジュは1813年に亡くなりましたので、アーベルの証明を実際に見ることはありませんでした。

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