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新しい数学史を求めて(68) 情緒の数学史(8)

 ガウスは代数方程式論の領域で真に画期的な一歩を踏み出しました。学位取得論文では高次方程式の解の存在に対して明確に疑問を表明しましたし、『アリトメチカ研究』の最終章では、円周等分方程式の代数的可解性を具体的に示しました。これらの事柄はだれもが知る事実なのですが、アーベルとガロアの代数方程式論への影響を語るという場面においてひんぱんに言及されるのはラグランジュばかりで、ガウスの影響が強調されることは非常に少ないという印象があります。ここではこの趨勢に疑義を表明し、アーベルとガロアの理論に根本的な影響を及ぼしたのはラグランジュではなくてガウスであることを、幾度も繰り返して指摘しておきたいと思います。
 アーベルについてはだいぶ詳しく語りましたので、ガロアの代数方程式論について多少触れておきたいと思います。だいぶ前のことになりますが、ガウスの『アリトメチカ研究』を読み始めて第7章にたどりついたとき、即座に強い印象を受けたのは、ガウスの円周等分方程式論はガロア理論そのものだ、という一事でした。
 今日、ガロア理論は代数を学ぶ際の入り口のような役割を果たしています。今日のいわゆる「ガロア理論」は非常に一般的な枠組みの中で抽象的に構成されていて、もはや代数方程式の解法理論とはいえません。群や体の基礎理論から説き起こされて、「ガロア対応」に及んでひとまず完了し、さてそのうえで簡単な応用例のひとつとしてアーベルのいわゆる「不可能の証明」が語られるという恰好になっています。数学史の流れとは正反対の理論構成になっているわけですが、これとよく似た情景は微積分の形成史でも観察されました。それは「関数」のことなのですが、かつてオイラーは従来の曲線の理論の中から関数の概念を抽出し、抽象的に構成された関数の一般理論を基礎にして曲線の理論を制御するというアイデアを提示しました。この場合、関数の理論それ自体には固有の意味はなく、抽象的で一般的であればあるほど汎用性があり、曲線の理論のみならず、関数の理論によって制御され、解明が進展する数学の領域が次々にみいだされていきました。この情景は代数方程式論とガロア理論の関係に酷似しています。数学をこのように諒解する様式は、今ではごくあたりまえのことのように受け止められているのではないかと思いますが、もとをたどれば無限解析におけるオイラーのアイデアにもどります。オイラーは現在の数学にこんなふうに遍在しています。
 代数方程式論に手をもどしますと、今日のガロア理論を手持ちにして円周等分方程式の解法に向かうなら、ガウスが構成した解法理論がたちまち再現されます。その作業は強力な一般理論の簡単な演習問題にすぎないのですが、理論形成の道筋という観点に立てば、目に映じる情景は一変します。それは、ガロアはどうしてガロア理論を構想することができたのか、という問いを立てるということなのですが、ガロアの眼前にはガウスの理論がありました。ガロアは、円周等分方程式を代数的に解くガウスの手法を深く学び、どうして解けるのかという数学的秘密を洞察し、ガロア理論の発見に到達したのであろうと思います。
 アーベルの場合と同様、ガロアもまたガウスに学んだのです。ラグランジュの影響ということはないわけではないと思いますが、ラグランジュだけを手持ちにして「不可能の証明」に向かうのでは、なにしろ代数的に解けるというのはどのようなことか、という根本認識が欠如しているのですから、完全な証明は望めません。典型的な失敗例として、イタリアの数学者ルフィニの試みを挙げておきたいと思います。
 よく知られているように、ガロアは決闘で亡くなったのですが、決闘の前夜、友人に宛てて3通の手紙を書きました。そのうち、オーギュスト・シュヴァリエに宛てた手紙は「数学書簡」というべきもので、短い生涯において到達した数学研究の骨子が綴られています。「時間がない」と嘆息しながらともあれひtp通り書き終えた後、末尾に、
「ヤコビかガウスに、これらの定理の正しさについてではなくて、重要性について意見を述べてくれるよう、公に依頼してほしい」
と書き添えました。「これらの定理」というのは代数方程式論と楕円関数論の領域でガロアが発見した一連の定理を指すのですが、代数方程式に関する研究については、それまでに何度かパリの科学アカデミーに提出して評価を求めていました。ですが、そのつど無視されたり、冷淡な返答があったりするのみで、ガロアを苦しめました。そんな経緯を踏まえて、生涯の最後になろうかと思える日に(決闘で勝てる見込みはなかったでしょうから)、科学アカデミーのような権威ある組織ではなく、ヤコビやガウスに見てもらいたいと、特定の個人の所見を求めました。このあたりの消息が「情緒の数学史」の機微に触れるところです。
 「人」を理解するのはつねに「人」なのであり、組織ではありません。それに、共感し、理解する「人」というのは非常に特別の人なのであり、理解される人と理解する人は本質的に「同じ人」です。ガロアの場合でしたら、ガロアをもっともよく理解する人はアーベルでした。ガロアが最後の手紙を書いたとき、アーベルはもうこの世を離れていましたから、アーベルの意見を求めることはできなかったのですが、ガロアにとっては最大の痛恨事であったことと思います。それでもまだガウスがいますし、アーベルを深く理解するヤコビも健在でした。ガロアは最後の最後になって、人が人を理解するという出来事の本質を悟ったのでしょう。遺書の最後に書き添えられた数語は、その消息を今に伝えて読む者の心に何事かを語りかけています。まさしく遺書の白眉です。


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新しい数学史を求めて(67) 情緒の数学史(7)

 平方剰余相互法則の証明をめぐってガウスとルジャンドルの話に転じたのは、ガウスがアーベルの論文を無視したという出来事の原因として、他の数学者の研究に関心を払わないというガウスの独特の気質も考えられるのではないか、という仮説を語ってみたかったからでした。実際のところは何とも言えませんが、数学の内実に目を向けてみれば、アーベルの論文はガウスの興味を引かなかったのではないかとも考えられます。
 次数が5を越える代数方程式の場合、解の公式など、存在するはずがないとガウスは確信していました。証明を詳述した形跡はありませんが、学位論文に見られるわずかな言葉はその間の消息を如実に物語っています。それに、円周等分方程式の取り扱い方を見れば、こんな理論を展開することができたガウスその人が、「不可能の証明」の構成に苦しんだとはとても思われません。ガウスは円周等分方程式の代数的可解性を示したのですが、その解き方というのは、純粋方程式(x^k=aという形の方程式のことです)を次々と解きながら解そのものに一歩また一歩と近接していくというもので、その一連の手順には、方程式を代数的に解くというのはこのようなことをいうのだという明快なメッセージが伴っています。はっきりとした証拠があるわけではないのですが、「不可能の証明」は証明など書くまでもないほど、ガウスにとっては自明なことだったのであろうと思われます。
 それでも、これだけではまだアーベルの論文を無視した理由にはなっていません。アーベルはガウスの円周等分方程式論を学び、代数的可解性の本質を理解し、ガウスの思想の圏内において証明を組み立てたのですから、ほんのちょっとだけでも目を通しさえすれば、ガウスはたちまちこれを理解したにちがいありません。それなのになぜ目を通そうとしなかったのかといえば、これは前々からのぼくの考えなのですが、円周等分方程式論の代数的側面の本質を把握した人があろうとは思えなかったためではないでしょうか。それで、アーベルの論文のタイトルを見てすぐに、こんな論文はまちがっているに決まっている、読むまでもないと思い、放置したのであろうというのがぼくの推定です。
 代数方程式論において、アーベルがガウスの円周等分方程式論から学んだのは「不可能の証明」だけではありませんでした。解の公式は存在しないとしても、円周等分方程式は次数にかかわらずつねに代数的に可解ですが、そこには何かしら円周等分方程式に固有の属性が備わっていると考えられます。ガウスの証明法の本質を洞察すれば、「円周等分方程式は巡回方程式である」という性質に目が向かいます。アーベルはこれを正しく見抜いたうえでなお一歩を進め、後に「アーベル方程式」と呼ばれることになる特定の代数方程式の範疇を発見し、「アーベル方程式は代数的に可解である」ことの証明に成功しました。このような次第ですので、アーベルはガウスの継承者たちの中でもまず第一に指を屈するべき数学者です。ラグランジュに学ぶだけではとてもここまでは到達できなかったと思います。


新しい数学史を求めて(66) 情緒の数学史(6)

 ガウスはひとりきりの思索に生涯を打ち込んだ孤高の数学者でした。アーベルの論文が無視されたのは残念ですが、ガウスのもとには論文や著作があちこちから送られてきたことでしょうし、ガウスにしてみればいい迷惑で、いちいち目を通してはいられなかったのでしょうし、ましてアーベルのような無名の数学者が作成した小冊子を読まなかったからといって批判するのも気の毒なことのようにも思えます。
 ガウスはアーベルのような新進を無視したばかりではなく、ルジャンドルのような長老にも必ずしも敬意を払いませんでした。ルジャンドルとガウスの間には平方剰余相互法則とその証明をめぐって優先権争いのような事態が生じたのですが、時系列に沿ってこの間の経緯を回想すると、平方剰余相互法則を一番はじめに発見したのはオイラー(ただし、ルジャンドルもガウスもそれを知りませんでした)、この法則の証明を試みた最初の人物はルジャンドル(失敗に終りました)、はじめて証明に成功したのはガウスです。
 ルジャンドルはオイラーが相互法則を発見していたことは認識していなかったのですが、独自のこの法則を発見し、1785年の論文「不定解析研究」の中で証明のスケッチを公表しました。ルジャンドルの生年は1752年ですから、このとき33です。それから13年後の1798年になって、『数の理論のエッセイ』という著作を刊行し、ここにもまた相互法則の証明を記載しました。基本方針は13年前の証明と同じですが、改良の跡も見えますし、相当に詳しく書かれていることですし、ルジャンドル本人は正しいことを疑わなかったようですが、根柢に大きな欠陥があることをガウスが指摘しました。ガウスは1801年の著作『アリトメチカ研究』において相互法則を正しく証明したばかりか、原理を異にする二通りの証明を与えたのですが、特に一節を割いてルジャンドルの証明を精密に検討して問題点を指摘しました。ルジャンドルは間違っていたのです。
 ルジャンドルはガウスの批判を理解したようで、『数の理論のエッセイ』の改訂版を第二版、第三版と重ねて行く中で証明を改訂する努力を続けました。若いガウスにも敬意を払ったようで、改訂版が出るとガウスに謹呈しましたし、自分の証明とは別に、自著の中でわざわざガウスの証明を紹介することまでしました。ルジャンドルは謙虚な人だったのでしょう。ところがガウスはルジャンドルから送られた著作をていねいに読んだりしませんでした。ゲッチンゲンの図書館にガウスの遺稿や蔵書をすべて収納したアーカイブ(記録保管所)があり、ルジャンドルが謹呈した本もそこに保管されているのですが、実物を見てきた人がいて、ほとんど読んだ形跡がないと教えてくれました。いわゆるフランス式の装幀ですので、読むためにはペーパーナイフで頁を切らなければならないのですが、切られている頁はごくわずかで、しかも相互法則の証明に関する箇所ばかりだったということです。
 ルジャンドルの本はオイラーとラグランジュの数論を祖述した作品ですから、原典に精通しているガウスは読まなくてもわかったのでしょう。相互法則については、なにしろルジャンドルの証明は間違っているという判定を下したのですから、軽く見られても仕方のないところではありますが、ルジャンドルにしてみればおもしろくなかったようで、ヤコビへの手紙の中で、
「1785年に公表された相互法則の発見を、1801年の時点で自分のものにしたいと望んだのは、この人物なのです」
などと書いています。1801年はガウスの著作『アリトメチカ研究』の刊行年です。優先権争いといっても腹を立てて優先権を主張するのはルジャンドルだけで、ガウスの方ではいつもルジャンドルを無視していました。大先輩に対するのにあまり感じのよい態度ではありませんが、ガウスはそういう人でした。敬意を払い、仰ぎ見て深く学んだのはただひとり、オイラーのみであったろうと思います。

新しい数学史を求めて(65) 情緒の数学史(5) アーベルの「不可能の証明」をめぐって

 ガウスはなぜアーベルの「不可能の証明」を喜ばなかったのでしょうか。ベルリンに逗留中のアーベルにこの話を伝えたのはだれなのか、経路はよくわかりませんが、ガウスの没後、アーベルの論文は読んだ形跡のないままの状態で見つかったということですから、ガウスは目を通さずに放置したのでしょう。そうであれば評価するとかしないとかという以前の話になりますから、歓迎しなかったとか、間違っていると判断したという否定的な判断さえなく、単にガウスは何も語っていないといううわさをアーベルの耳に入れた人がいたのかもしれません。
 アーベルは当初、5次方程式はつねに代数的に解けるのではないかと考えて、解の公式を見つけようとしたようですが、まもなくこれを放棄して、そのような一般公式の存在に疑念を抱き始めたと言われています。それで「不可能の証明」に取組み、これは成功したのですが、この研究においてアーベルに決定的な影響を及ぼしたのはラグランジュの論文「方程式の代数的解法に寄せる省察」であると見られていると思います。たいていの数学史の本にそのように記されていますが、この通説には疑問の余地があります。カルダノの時代からこのかた、5次方程式の解の公式の探求は延々と続けられてきたのですが、存在を疑う声は発せられず、ようやくラグランジュにいたって省察の気運が現れました。アーベルはそのラグランジュの省察に影響を受けて、解の公式は存在しないのではないかという着想を得たと考えるのが通説ですが、ラグランジュの省察の対象は3次と4次の代数方程式の解を代数的に表示する数々の既知の公式なのであり、5次以上の次数の方程式については、省察の成果を適用しても解の公式は見つからないという状勢を表明したにすぎませんでした。
 ラグランジュの省察の骨子は「根の有理式」を考察するところにあります。3次と4次の方程式の解法の導き方はいくつも知られていましたが、それらの相違は、どのような有理式を考えるのかということに由来することをラグランジュは示しました。取り挙げた有理式において「根の置換」を行うと有理式の値がさまざまに変化しますが、異なる値が何個あるのかという点にラグランジュは着目しました。アーベルの「不可能の証明」にはこの着眼が使われていますので、ラグランジュに影響を受けたと説明されるのですが、それはそれで正しい指摘です。ですが、そもそも「不可能なのではないか」と思い、「不可能であること」を証明しようとする着想が念頭になければ、せっかくのラグランジュのアイデアも活躍のしようがありません。
 それなら、アーベルに「不可能であること」を示唆したのはだれかという問題が生じますが、アーベルはラグランジュの「省察」を見ただけで、一挙にそこまで飛躍することができたのでしょうか。
 なぜかしらあまり語られることがないのですが、ラグランジュとアーベルの間にもうひとり、5次方程式の解の公式の存在を疑う所見を明瞭に表明した人がいます。それはガウスです。ガウスは一方では「代数学の基本定理」の証明を記述した学位論文において、高次方程式の解の公式は存在しないという見解を明記していますし、他方では、『アリトメチカ研究』の第7章において円周等分方程式は代数的に可解であることを証明しました。アーベルはこれらのすべてを知っていたに違いありませんし、だからこそガウスは「不可能の証明」を理解すると信じてガウスのもとに送付したのでした。
 ラグランジュは1813年4月10日に亡くなっていて、その時点では、1802年8月5日生まれのアーベルは満10歳にすぎませんでしたから、「不可能の証明」に成功したとき、ラグランジュはもうこの世にいませんでした。それで、アーベルの証明を理解できそうな人はガウス以外には見あたらなかったのですから、ガウスに送ったのは正しい判断でした。ですが、たとえラグランジュが健在だったとしても、ラグランジュがアーベルの証明を理解できたのかどうか、この点はわかりません。ガウスは間違いなく理解できたと思いますが、実際には一瞥もくれませんでした。アーベルにとっては不幸なことでしたが、ガウスは他人の研究には興味がなかったのでしょう。

新しい数学史を求めて(64) 情緒の数学史(4) アーベルとガウス

 ニコラウス・フスがガウスをペテルブルクの科学アカデミーに誘ったのは、才能のある新進に声をかけたということですから、それ自体としては当然のようでもあり、特筆するほどのことではないようにも思えます。ではありますが、フスは単なる助手ではなく、オイラーやガウスには及ばないまでも、オイラーに直々に指導を受けた数学者でもありました。オイラーの身近にいてもっともよくオイラーを知るフスは、ガウスの作品の尋常ならざる深遠さを感知することができたのでしょう。
 ガウスの次の世代を代表する数学者というと、アーベルとヤコビの名が即座に念頭に浮かびますが、ヤコビは深くオイラーに傾倒した人で、オイラーの著作矢論文を熱心に探索し、1843年にはハインリッヒ・フスと協力してオイラーの書簡集(全2巻)を出版しました。アーベルとフスの関係はどうかというと、直接の交流はなかったようですが、フスはアーベルの論文を通じてアーベルの名を認識した模様です。それを示しているのは1828年5月28日の日付でクレルレがアーベルに宛てた書簡で、ペテルブルクのフスからクレルレのもとに来信があり、フスはアーベルの論文を読むことを喜んでいるという消息が伝えられました。フスはアーベルの代数方程式論や楕円関数論を読んだのではないかと思いますが、どちらもオイラーと深い関わりのあるテーマです。わけてもアーベルの楕円関数論はオイラーに始まる理論ですし、アーベル自身、長篇「楕円関数研究」(1827,28年)をオイラーの回想から説き起こしているのですから、フスの喜びの大きかったことは容易に推察されます。
 アーベルとガウスの関係はいくぶん微妙です。1825年の秋9月、アーベルは故国のノルウェーを発ってヨーロッパ旅行に出かけました。目的地はパリだったのですが、コペンハーゲン、ハンブルク、ベルリン、ライプチヒ、フライベルク、ドレスデン、プラハ、ウィーン、グラーツ、トリエステ、ヴェネチア、ヴェローナ、ボルツァーノ、インスブルックを経由するという大旅行になりました。パリに到着したのは1826年7月10日ということですから、10ヶ月もかかっています。これだけの旅になるのでしたら、途中でゲッチンゲンに立ち寄ってガウスに会うこともできたのではないかと思いますし、アーベルもまガウス訪問を考えないではなかったようですが、これは実現しませんでした。
 ガウスはアーベルにもっとも深い影響を及ぼした数学者でした。アーベルがクリスチャニア大学の学生のころの図書館の貸し出し記録によると、ガウスの著作『アリトメチカ研究』を借り出したことがわかるそうですが、アーベルの代数方程式論と楕円関数論はこの書物の最終章(第7章)に示唆を受けてできあがりました。『アリトメチカ研究』の第7章のテーマは円周等分方程式論ですが、ここでは円周等分方程式は代数的に解けることが示されています。
 アーベルは早くから代数方程式の代数的可解性の問題に関心を寄せ、「不可能であることの証明」をめざしていたのですが、大旅行に出る前にこの企てに成功したと思い、証明を記述した小冊子を作成して、あちこちの数学者のもとに送付しました。ガウスにも送りました。ヨーロッパ旅行の途次、アーベルはベルリンでクレルレと知り合い、クレルレといっしょにゲッチンゲンにガウスを訪問したいと考えていたところ、ガウスは先に送付したアーベルの小冊子を歓迎していないというニュースが伝わってきました。それでガウスを訪問する気持ちが消失したと言われているのですが、あれこれと考えさせられるところの多い不思議なエピソードです。


新しい数学史を求めて(63) 情緒の数学史(3)オイラーとガウス

 「情緒の数学史」の話は、これもまた長々と続いている序論の一部分なのですが、もう少し続けたいと思います。本論に入る前に語っておきたいのは「人と人とのつながり」ということで、この場合、「人」というのは「数学者」を指していますから、「情緒」というのもただの情緒ではなく「数学者の情緒」、すなわち「数学的情緒」ということになります。数学的情緒というのは、これだけでは意味が通じないのではないかと思いますが、これまでの話の中から関連のありそうなエピソードを抜き出して、思いつくままに例を挙げてみたいと思います。
 オイラーは晩年、視力が衰えて、ほぼ完全に失明しましたので数学研究の助手が必要になり、郷里のバーゼルからニコラウス・フスという少年を呼び寄せました。この当時のオイラーの滞在先はペテルブルクで、フスが到着したのは1773年5月と記録されています。フスは1755年1月30日に生まれた人ですから、このとき18歳です。オイラーが亡くなったのは1783年9月18日ですが、その日、オイラーは孫に数学を教えていたそうですが、フスもまたその場に居合わせました。オイラーは脳出血に襲われたようで、意識を失う前に「死ぬよ」とつぶやいたと言われていますが、そんなエピソードを伝えたのもフスです。オイラーは満76歳でした。
 オイラーの没後、フスはペテルブルクに留まり、晩年は、というのは1800年から1826年までのことですが、科学アカデミーのパーマネントセクレタリー(permanent secretary)になりました。事務方の最高責任者という感じでしょうか。この時期のある日、フスはガウスに手紙を書き、ペテルブルクの科学アカデミーに招聘しました。ガウスはこの誘いに魅力を感じたようですが、結局、一通の手紙を書いて断りました。その手紙の日付は1803年4月4日ですから、すでに『アリトメチカ研究』(1801年)が刊行された後のことですし、新進の数学者として認識されていました。そこでフスはガウスにねらいを定めてペテルブルクに誘いをかけたのですが、そのフスはオイラーをよく知る人であったところに、偶然とは言えない縁(えにし)を感じます。1777年4月30日に生まれたガウスは、オイラーが世を去ったとき、まだ6歳でした。生前の交友はありえませんでしたが、オイラーの晩年の助手のフスが、二人の架け橋になろうとしたのでした。
 フスはオイラーの娘と結婚しましたので、縁戚関係もできました。パウル・ハインリッヒ・フスという子どもがいて、少々まぎらわしいのですが、父ニコラウスは1826年の年初、1月4日に亡くなりました。子どものハインリッヒの生年は1798年です(1855年没)から、オイラーの没後15年目になりますので、オイラーが亡くなった日にいっしょだった孫とは違います。
 今日、オイラーの論文と著作はエネストレームナンバーと呼ばれる番号が附されて整理されていて、これはスウェーデンの数学史家エネストレームの仕事ですが、エネストレームの前には「フスナンバー」と呼ばれる目録がありました。これはハインリッヒ・フスが作成した目録で、オイラーの作品がテーマ別に分類され、番号が打たれています。総計756篇で、866篇をおさめるエネストレームの目録に比べると少な目ですが、オイラーのすべてを集大成しようとする一番はじめの試みで、値打ちがあります。
 エネストレームの目録はフスの目録とは違い、年代順に配列されています。

新しい数学史を求めて(62) 情緒の数学史(2)

 どうも話が堂々めぐりになりがちですが、数学史叙述にあたって中核の位置を占める関心事はひとりひとりの数学者の数学的思索の姿形なのですから、オイラーならオイラー、ガウスならガウスがたどった思索の変遷過程を丹念に観察していくことが、もっとも基本的な作業になります。本来なら現地に出向いてフィールドワークを重ねるのが最善で、実際のところ、そうしなければ本当のところを把握するのは不可能なのではないかと思うのですが、とてもできることではありません。それで、やむなくヨーロッパの数学者や数学史家たちが編纂してくれた全集を主な手がかりとして、欧米で刊行された伝記に目を通したり、古い文献を探索したりすることになります。
 出版されたものでしたら、単行本でも学術雑誌でもかなり古いものでも相当の程度まで蒐集可能ですし、日本国内にも、中には一冊きりというのもありますが、これはないだろうと思われるような文献の所蔵先が見つかることがあります。たとえば、オイラーの『無限解析序説』とガウスの『アリトメチカ研究』の原本は金沢工業大学の「工学の曙文庫」がもっていましたし、フェルマの数論研究に出発点を与えたディオファントスの著者『アリトメチカ』のラテン語訳書、これは二種類あるのですが、双方とも東京大学の数理科学研究科の図書館が所蔵していました。マルキ・ド・ロピタルの無限小解析のテキスト『曲線の理解のための無限小解析』も東大の教養学部の図書館にありました。それに、近年では古文献の一般公開が急速に進み、グーグルのブック検索や、欧米の諸大学や国立図書館で行っているサービスを利用すると、日本では見られない古書や、18世紀のペテルブルクやベルリンの科学アカデミーで発行していた各種の紀要などまでも、pdfファイルの形で容易に閲覧することができるようになりました。
 このような現象が見られるようになったのはごく最近のことで、まったく驚嘆するほかはないのですが、それでもなお越え難い壁は依然として眼前にそびえています。なぜかといいますと、歴史学にいういわゆる一次資料、すなわち書簡や日記や未公刊の研究記録などに直接あたるという調査研究は、部分的にはともあれ、現地に逗留して長い年月にわたって徹底的に遂行するなどということはとうてい不可能だからです。フェルマとか、ライプニッツ、ベルヌーイ兄弟、オイラー、ラグランジュ、それにガウス等々、ヨーロッパの近代数学の根柢を支える偉大な数学者たちの作品の数々を回想すると、さながら日本の歴史の流れに身を置いて記紀万葉の世界を思うときのような感慨を覚えます。
 そんなわけですので、オイラーやガウスの全集の解読に取り組むことが、まずはじめにぼくらに課される一番はじめの作業になりますが、これもまた言うは易く行うは難し。オイラーの全集は80巻を軽々と凌駕し、ラグランジュの全集は14巻、ガウスの全集は全12巻、14冊というふうで、簡単に読破できるものはひとつもありません。それでも、ヨーロッパの近代が生んだ数学という不思議な学問の真実の姿を理解するためにはどうしてもこの峻険な山脈を踏破することが不可欠で、ほかに道はありません。
 これを逆に見ると、江戸期の和算や高木貞治先生や岡潔先生のことでしたら、欧米の数学史家の手に負あまることですし、どうしても日本の数学者、数学史家の尽力を待つほかはありませんし、一次資料に基づいて深く究明して欧米に向けて発信していくことは、日本人の責務でもあろうと思います。
 ヨーロッパの近代数学に話をもどして、数学史叙述の基本方針ということを考えてみますと、たいていの数学史では理論形成の流れの叙述が中心になっているのではないかと思います。たとえば、代数方程式論の歴史とか、微分積分の形成史、代数関数論の形成、代数的整数論の展開、抽象代数の成立などというふうに、各論を立てることもよく行われます。これらは数学の内部の流れを観察しているわけですので、「内的な数学史」と呼ばれることがあります。これに対し、数学の外側に足場を定めて、オイラーとその時代とか、革命期のフランスの科学、ワイマール時代のドイツなどというふうに、数学を囲む社会的状勢との関連のもとで数学の姿を観察するという歴史叙述もあり、内的数学史に対して「外的数学史」と呼ばれることがあります。外的な数学史には数学の理論そのものはあまり登場しません。
 内側から見るにせよ、外側から見るにせよ、従来の数学史で関心が寄せられているのはあくまでも数学そのものであることは変りません。数学者の生い立ちやおもしろいエピソードが語られることもありますが、たいていの場合、なんだか添え物のような印象があります。すなわち、数学史の叙述と数学を創った人々の人生が本質的に乖離していて、だれがどのように創造したのかという、数学が生まれる現場に立ち入って論じられることはめったにありません。
 ですが、オイラーその人を離れてオイラーの数学はなく、ガウスの人生とは無関係にガウスの数学が生まれるはずはありません。岡潔先生の多変数関数論は、あの長い年月にわたる秋霜烈日の人生と決して無縁ではありません。このあたりの消息から目を離さずに、「人」が数学を創る、ということを基本線とする数学史を叙述することはできないものでしょうか。

新しい数学史を求めて(61) 情緒の数学史(1)

 新しい数学史の叙述を求めて、まずはじめに基本的な考え方を表明したいというほどの考えで書き始めたところ、話は次から次へと意外な方向に展開してしまい、序論ばかりがいつまでも続くという状況に立ち至ってしまいました。本来の意図としては、無限解析と数論と代数関数論を中心にしての歴史を語るところにねらいがあり、序論はあくまでも心構えのつもりでした。それで、そろそろ本論に踏み込んでいきたいのですが、その前にこれまでのあれこれを回想したいと思います。
 一般に数学は普遍性の度合いがきわめて高い学問と考えられているのではないかと思いますが、これに対しては大いに異論を唱えたいと思います。数学は論理的に記述しようとすれば、それはそれで相当の程度までそれらしくできますが、数学の創造の現場に立ち会うと、決してそんなふうには言えなくなります。数学の諸概念についても必ずしも普遍性が認められるわけではなく、たとえば「関数」という、解析学の根本概念に着目すると、無限解析が発見された当初は存在しませんでした。関数概念のない無限解析が成立することは、この方面の史上最初のテキストであるマルキ・ド・ロピタルの著作『曲線の理解のための無限小解析』を見れば一目瞭然です。
 オイラーは関数概念を三種類まで提案しましたが、オイラーは実にさまざまな数学的状勢に直面した人で、曲線を理解するためには第一の関数(解析的表示式)、大砲から火薬の力を借りて打ち出される砲弾の軌跡を追うには第二の関数、打ち出される弦が振動する様子を理解するためには第三の関数というふうに、諸状勢の解明のためにそのつど別種の関数を持ち出しました。すなわち、関数概念を基礎に据えるという、そのこと自体がオイラーに固有の数学的アイデアだったのであり、そこにはいかなる普遍性も認められません。オイラー以降、オイラーのアイデアは継承者たちの間で広く受け入れられるようになり、今日ではすっかり定着していますので、普遍性に似た様相を呈していますが、あくまでもオイラー個人の個性的なアイデアであることは忘れられません。
 解析的表示式を指して関数と呼ぶという明確な宣言が出されたのは、『無限解析序説』の冒頭においてでした。この書物が刊行されたのは1748年。それから250年を越える歳月が流れて今日にいたり、オイラーのアイデアはなお生きて働いています。これは今日の数学が依然としてオイラーの大気に包まれていることを示す有力な証左と見るべきであろうと思います。数学は知的もしくは論理的に見れば普遍的ですが、根柢にあって全体を支えているのは、幾人かの特定の個人,言い換えると「数学を創った人々」のそれぞれに固有の主観的アイデアです。
 もっともオイラーは自分でかってに思索にふけったというわけではなく、曲線や振動弦や砲弾の軌跡などは、オイラーの時代の数学者たちの共通の関心事でした。曲線の解明というテーマを例に取ると、無限解析が成立するよりもずっと前から人々の興味をかきたててやまなかったテーマですし、無限解析そのものの泉でもありました。オイラーはこれを継承して参入したのですから、オイラーのアイデアは単なる思いつきではなく、どこまでも主観的でありながら、しかも同時に数学史の流れの中ではじめて現れることができたのでした。そこで、この場合のオイラーの主観を指して「歴史的主観」と呼びたいと思います。
 歴史は主観を限定しますが、主観は歴史に限定されてはじめて思いつきの域を脱却し、みずからもまた歴史の流れに寄与することができるようになります。言い換えると、深く歴史を継承する者のみが、よい継承者に恵まれるということでしょうか。オイラー個人のいかにも個性に満ちた一群のアイデアが、今日もなお数学全体のいしずえになっている様子を見れば、このあたりの消息はよく諒解されるのではないかと思います。

オイラー研究所三周年

 本年もすでに半ばをすぎ、梅雨の時期もとうに去って夏の日々が続く今日このごろですが、オイラー研究所は先月、三周年を迎えました。尾崎管理人の尽力により開設されたのは、平成18年6月17日と記録されています。開設当初の所員は所長と管理人の二人でしたが、まもなく名誉所長が就任し、だんだんと所員も増えてきました。
 名誉所員の鈴木先生は平山諦先生を師匠とする和算史の研究者で、本研究所にもしばしば長文の連載エッセイを投稿されています。フェローの三浦先生はヨーロッパ中世とアラビアの数学史の専門家です。エディターの和泉さんは書籍出版担当で、まもなく和泉さんが担当して、所員の西村さんが翻訳したコーシーの『解析教程』が刊行される見通しです。
 日々の数学的思索をいくぶん公に語る場所として、インターネット上の研究所のブログを活用するのはよい考えと思います。昨年秋には、岩波新書の一冊として
  『岡潔 数学の詩人』
が刊行されましたが、今月にもまた、筑摩書房の学芸文庫のM&Sシリーズの一冊として、
  『無限解析のはじまり わたしのオイラー』
が出版されました。どちらもオイラー研究所に連載した記事が下敷きになっています。
 オイラー研究所は公的資金により支えられた研究所ではありませんが、実体があり、生きています。日本の近代の文芸運動史上に現れた数々の同人結社はみな私的な集まりで、同人たちの発言の場として同人誌が発行されました。永遠に続く文芸同人結社はありませんが、三周年を迎えたオイラー研究所にはなお余裕があります。来月下旬には京都大学附属の共同利用研究施設、数理解析研究所で数学史の研究集会が行われますが、オイラー研究所の所員の参加者も多く、講演総数30件のうち、8件にのぼります。
 オイラー研究所への参加を大いに歓迎したいと思います。

新しい数学史を求めて(60) 微分式の積分の存在証明の考察(5) コーシーの魅力と退屈さ

 事のついでに「原始関数」についてもう少し述べておきたいと思います。関数f(x)は微分可能とし、しかもその導関数f’(x)は連続関数であるとします。このとき、f’(x)積分関数g(x)を作ると、微積分の基本定理により、g(x)の導関数はf’(x)に一致します。それゆえ、関数g(x)は実はf(x)と高々定数の差だけの相違が認められるにすぎません。これで、
   f(b)-f(a)=∫[a→b]f’(x)dx
という公式が成立し、右辺の定積分の計算は左辺の関数値の差の計算に帰着されることになります。これは定積分の数値を算出する周知の計算法です。
 今日では、一般に導関数がf(x)になる関数F(x)、すなわち等式F’(x)=f(x)が成立する関数F(x)を指してf(x)の「原始関数」と読んでいますが、原始関数というのはもとはラグランジュが提案した用語で、ラグランジュはこれを「1階、2階・・・の導関数を生み出していく一番はじめの関数」という意味合いで使いました。それゆえ、原始関数というのは、導関数を考えてはじめて原始関数になるのですから、あらゆる階数の導関数の全体との対比の中で使用するのが本来の語義であり、1階導関数f’(x)のみを指定して、その原始関数を語るというのはやや奇妙な語法と言わなければならないところです。ラグランジュの意図とは無関係に、言葉だけが流用されたのでしょう。それに、関数f(x)の原始関数F(x)を等式F’(x)=f(x)によって規定すると、ただひとつに確定することはなく、定数差を除いて無数の原始関数が存在することになります。このあたりから用語法の混乱が生じます。
 次に、関数f(x)の導関数f’(x)の積分関数、すなわちf’(x)の不定積分は定数差を除いてつねにf(x)と一致しますから、「f(x)の不定積分」と「f(x)の(今日の意味での)原始関数」は全体として合致することになります。不定積分と原始関数は本来、別個の概念です。それが結局のところ、同じものを指し示すことになるのはなぜかといえば、「積分して微分するともとにもどる」という、あの微積分の基本定理があるからです。
 コーシー以後の解析学についてほんの少々だけ観察しておくと、まず関数概念はディリクレにより一般化されました。といっても、ディリクレの関数もまたオイラーの思想圏内にあり、ディリクレはオイラーの第二の関数を採用したのでした。ただし、オイラーのように「曲線を通じて与えられる」という言い方はせず、曲線とは無関係に、数xに対してただひとつの数yが対応するという状勢が認められるとき、yをxの関数と呼ぶ,というきわめて抽象度の高い表現を採りました。このような関数についても連続性と微分可能性を論じることができますが、その際、コーシーの定義では不十分で、今度はどうしても「イプシロン-デルタ論法」を採用して表明しなければなりません。ディリクレの関数y=f(x)では、xとyはもう変化量ではありませんので、定性的な性格の言い回しが要請されるのです。ただし、コーシーの言い回しは事実上、イプシロン-デルタ方式と同じことです。
 ディリクレが採用したオイラーの第二の関数の定積分については、コーシーのように連続性は課さないとしても、「有界」という条件のもとでコーシーと同じ流儀で定義することができます。ディリクレの研究を継承したリーマンがこれを実行しました。こんなふうにして、ディリクレとリーマンの手で今日の実解析の基盤が整備されました。

 コーシーの解析学は、関数概念の拡大という解析学の要請に応え、未開拓の曠野に敢然と踏み出していこうとする気迫に満ちています。コーシーは、コーシー以前に発見された解析学の桃源郷を支えていた基礎的諸概念を抽出し、それらを道しるべにして大胆に歩を進めていきました。極限、連続関数、微分可能性、定積分、それに微積分の基本定理等々、どれもみなコーシーに固有の数学的思索の中に置くときにはじめて真の意味合いを帯びてきます。このコーシーの気迫に共鳴することが、コーシーを理解する唯一の道であろうとぼくは思います。ここを度外視して、コーシーが提示した理論構成の枠組みだけを受け取ろうとするならば、コーシーの解析学はたちまち色あせて、ぼくらの心に何の印象も刻みません。エコール・ポリテクニクでのコーシーの講義は退屈きわまりないものであったと伝えられていますが、今日の大学で行われている微積分の講義もまた、それはコーシーの解析教程の系譜を継ぐものなのですが、あまりにも退屈で、聴講する学生の心に残るものがありません。
 コーシーは偉大な数学者でしたが、その偉大さの真実を理解する方策は、歴史の回想の中にのみ発見されるのではないかと思います。


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