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新しい数学史を求めて(44) ラグランジュの代数方程式論(2)

 代数方程式論の省察に向かうラグランジュの言葉が続きます。提示された代数方程式が虚根をもつ場合、虚根の個数や正負の実根の個数を識別する一般規則は知られていないと、ここまでのところでラグランジュは語りました。ただし、一般規則は未知としても、係数が具体的な数値として与えられているなら話は別で、その場合には虚根と正負の実根の個数がわかります。そのためには各々の根の近似値を望むだけ高い精度で求めることができればよく、ラグランジュはすでにその方法を与えたと述べています。しかし、とラグランジュはまた言葉をあらためて、「ここでは文字方程式を問題にしているのだ」ときっぱりと(そういう印象があります)言い切りました。文字方程式というのは、係数が数値ではなく文字で指定されている方程式のことを意味しています。
 はじめに回想されるのは、3次と4次の代数方程式の代数的解法の経緯です。3次方程式の解を表示する「カルダノの公式」などが思い出されます。

〈文字方程式の解法に関していうと、カルダノの時代まではほとんど進展が見られなかった。カルダノは3次と4次の方程式の解法を公表した一番はじめの人である。このテーマでのイタリアの解析学者たちの最初の成功は、この領域で遂行可能な発見のうちの一番最後のものだったと思われる。少なくとも、代数学のこの領域の限界を押し広げようとして今日までになされたあらゆる試みは、3次と4次の方程式に対する新しい方法を見つけるのに役立っただけにすぎないことは確かである。それらの方法のどれも、一般に、いっそう高い次数の方程式には適用できないのである。〉

続いてラグランジュのねらいが表明されます。

〈わたしはこの論文において、方程式の代数的解法に関して今日までに見いだされたさまざまな方法を調べ、それらを一般原理に帰着させて、なぜこれらの方法は3次と4次の方程式に対しては成功し、もっと高い次数の方程式に対してはうまくいかないのかということを、アプリオリにわかるようにしたいと思う。〉

3次と4次の方程式の解の公式についてはいろいろな導き方が知られていましたが、ラグランジュは「どうして解けたのか」と問い、さまざまな道筋の根柢にあるものを明らかにしようとしたのでした。このような問いが成立するのは、それまでに多くの人々の手で積み重ねられた究明の蓄積があるからです。ラグランジュの真のねらいが5次以上の方程式の解の公式の有無の判定にあったことはまちがいないとしても、このような「省察」がなされるということは、それ自体の最後にすでに、「存在しないであろう」という予感が広がっていたと推定されます。存在を疑うからこそ、省察の気運が現れたのでしょう。
 序言の最後は次のように結ばれています。

〈この研究には二重の利点がある。一方では、3次の4次の方程式の既知の解法に、はるかに多くの光を注ぐのに役立つであろう。他方では、いっそう高い次数の方程式の解法を究明したいと欲する人々にとって、その目的のためにさまざまな展望を与えてくれるし、わけてもはなはだ大量の無益な歩みと試みを免れさせてくれるという理由により、有用であろう。〉

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三度目の熊本行

3月と4月に二度にわたって熊本に出かけましたが、縁あって三たび熊本に行ってきます。今回の目的は、熊本県下全域の高校の数学の諸先生と交流することです。講演会があり、それから懇親会。こちらからもちかけたい話もあれば、うかがいたい話もありますので、とても楽しみです。おもしろいことがありましたら、御報告します。

新しい数学史を求めて(43) ラグランジュの代数方程式論(1)

 代数関数論を語ろうとしている途中で「代数的なもの」に言及し、行き掛かり上、代数方程式の解法理論に話が及んでラグランジュを引き合いに出すという成り行きになりました。それで、この際、ラグランジュの代数方程式論についてもう少し語っておきたいと思います。
 引き合いに出したラグランジュの論文は、
 「方程式の代数的解法に寄せる省察」
というのですが、 1770年と1771年のベルリン王立科学文芸アカデミー新紀要,二回に分けて掲載されました。前半は134頁から215頁までで82頁、後半は138頁から253頁までで116頁。全部で198頁という雄大な作品です。ペテルブルクでもバルリンでもアカデミーの紀要の実際の刊行年は遅れるのが普通で、名目上では1770年と1771年の紀要の刊行もそれぞれ1772年と1773年にずれ込みました。
 冒頭の前書きに少々目を通してみたいと思います。

〈方程式の理論は、その重要性と第一級の創造者たちがこの領域で行った進歩の急速さのゆえに、解析学のあらゆる分野の中でももっとも大きな完成度を獲得するのが当然であると信じられたものであった。だが、その後に現れた幾何学者たちがこの領域に専念し続けたにもかかわらず、彼らの努力は望みうるだけの成功をおさめるというにははるかに遠かった。実を言うと、方程式、方程式の変換、2個もしくはいくつかの根が等しくなるための、あるいはまたそれらの根が相互に与えられた関係式を満たすための必要条件の性質、それらの根をみつける方法等々に関する事柄は、ほとんどすべて汲み尽くされたのである。また、ある方程式の根がことごとくみな実であるか否かを見分けて、すべての根が実の場合には、正負の根がどれだけあるのかを知るための一般規則も発見された。しかし、今日にいたるまで、方程式の虚根の個数を知るためのいかなる一般規則も知られていないし、実根と虚根の個数が知られたときに、正の実根と負の実根がどれだけ存在するのかを知るための一般規則も得られていない。提示された任意の方程式がいくつかの実根をもつか否かを保証する規則さえも、その方程式の次数が奇数でなければ、あるいはその一番最後の項が負でなければ得られていない。〉

ここまでのところでは代数方程式にまつわる諸問題が列挙されています。解の公式を見つけることだけが問題なのではなく、代数方程式にはさまざまな側面があることがわかります。

新しい数学史を求めて(42) 代数方程式の解の公式について

 数学の歴史を回想すると、「代数的なもの」に着目するという思索の様式はここかしこに見られます。一番典型的な例を挙げると、二次の代数方程式の解法の探求などは古くから知られていましたし、コンパスと定規による作図問題とか、立方体の体積の二倍化の工夫などもこの仲間に数えられます。
 近代の整数論の端緒を開いたのはフェルマですが、そのフェルマに深遠な影響を及ぼしたのは、古い時代のギリシアの数学者ディオファントスの『アリトメチカ』という著作でした。そこで取り上げられているのはいろいろな不定方程式の問題で、整数もしくは有理数の範囲で方程式の解の探索が行われています。それだけではまだ代数的というほどのことはなく、この場合にはむしろ「有理的なもの」と「有理的ではないもの」との区分けに関心が寄せられていたという方が適切のように思いますが、フェルマ以後、オイラー、ラグランジュ、ガウスと続く近代の数論史の揺籃になったことは間違いありません。ガウスの系譜をたどると、19世紀のドイツの地に代数的整数論と呼ばれる新たな数論が出現しましたが、ここまで来ると「代数的」ということの意味合いが明確になってきます。
 19世紀の整数論が代数的でありうるためには、もうひとつ、代数方程式の解法理論の本質に向かう洞察が深まっていかなければなりませんでした。5次以上の代数方程式の解の公式を追い求めて、オイラーもまた真剣な取組みを続けたことは既述の通りですが、オイラーの次の世代のラグランジュになると反省の気運が高まったようで、周知の2次、3次、4次の代数方程式の解の公式が存在するのはなぜだろうかと、形而上的な問いを問うまでになりました。5次以上の代数方程式の解の公式を長年にわたって探求しても、さっぱり見つかる気配がありませんので、そもそも解の公式とは何かという省察を繰り広げたのですが、その結果は必ずしも判然としませんでした。2次、3次、4次の代数方程式の解の公式の導出の仕方はいくつも知られていて、ラグランジュはそれらのひとつひとつについて、導出のからくりを説明したのですが、5次以上の方程式を相手にするとどうも茫漠としてしまい、解の公式はあるのやらないのやら、あるとしてもないとしてもどのような理由によるものなのか、ラグランジュの省察は長々と続くのですが、明らかになったことは何もないというありさまでした。
 ラグランジュの省察が空転気味になってしまうのは、そもそも解の公式が存在しないためなのですが、ラグランジュの次のガウスになるとこのあたりの消息はだいぶ浸透していたようで、ガウスははじめから解の公式の存在を疑っていました。アーベルもガロアもこの点は同じです。整数論と代数方程式論と代数関数論の相互関係の緊密なことは尋常ではなく、そのためと思いますが、オイラーもラグランジュもガウスもみなそろって、この三つの領域に深い関心を寄せ続けました。

新しい数学史を求めて(41) 代数関数の表示をめぐって

 関数が代数的であるというときの「代数的」ということの意味合いについてはなお不明な点が残りますが、代数方程式や代数曲線や代数的数のように、「代数的なもの」の全体がひとつのまとまりのある範疇を形成することはひとまず諒解可能と思います。これに対し「代数的ではないもの」すなわち「超越的なもの」の世界には混沌とした印象があります。超越方程式、超越曲線、超越数について何事かを一般的に語ることはできませんが、ひとつひとつの「個物」に強い個性が備わっていて魅力があります。
 代数的なものの作る閉じた世界を基盤にして、外部世界に踏み出していく道筋が開かれることもあります。これはオイラーが語っていることですが、代数関数の積分を作ると超越関数が現れることがあり、しかもその様相はきわめて多彩です。たとえば、1/xの積分を作ると対数関数log xが生成されます。これは、変化量y=log xの微分はdy=dx/xになるという意味です。また、1/√(1-x^2)の積分を作ると、それは逆正弦関数arcsin xにほかなりませんが、その意味は、変化量y=arcsin xの微分を作るとdy=dx/√(1-x^2)になるということです。一般にf(x)は代数関数として積分y=∫f(x)dx(これはオイラーの表記法で、yは微分方程式dy=f(x)dxを満たす変化量であるということを意味しています)を作ると、実にさまざまな超越的な変化量yが現れます。ここで、変化量yが超越的というのは、xとyの間に代数的な関係が存在しないという意味で、yをxの超越関数と呼んでも同じことになります。
 代数関数の表記について少しだけ注意しておくと、代数関数は必ずしもxの解析的表示式ではありませんから、いつでもf(x)という形に明示的に書き表すことができるわけではなく、むしろそのような表示は不可能な場合の方が普通です。代数関数z=f(x)はxと代数的に結ばれているのですから、代数方程式P(z, x)=0という関係が成立します。そこで、もしあらゆる次数の代数方程式が代数的に解けるなら、言い換えると、任意の次数の代数方程式について根の公式が存在するなら、代数関数z=f(x)は加減乗除に「冪根を取る」演算を加えた五演算、すなわち代数的演算を施すことにより、xの解析的表示式の形に表示されます。今日ではアーベルとガロアの理論により、そのようなことは一般に不可能であることが明らかにされていますが、オイラーはまだその可能性を信じていたのではないかと思います。実際には3次と4次の代数方程式の解の公式は以前から知られていましたので、5次以上の次数の代数方程式の解の公式の探索が問題になります。オイラーはこの問題に取り組み、3次と4次の場合の解の公式を再発見したりしていますが、5次方程式の解の公式の発見にはいたりませんでした(存在しないのですからあたりまえです)。
 5次以上の次数の代数方程式には解の公式が存在しないという事実は、一番はじめにこれを証明したアーベルにちなんで「アーベルの定理」と呼ばれていますが、そのアーベルは代数関数の積分を∫ydxと表記して、y=f(x)というような明示的な表示は使いませんでした。「アーベルの定理」の証明に成功したアーベルは、そのような表示は、少なくとも冪根のみを使うのでは不可能であることを知っていたからです。代数方程式論と代数関数論の関係はこんなふうで、決して無縁ではありません。

新しい数学史を求めて(40) 代数的なものと超越的なもの

 オイラーが関数の概念を提示したのは18世紀の中ころですが、それよりもはるか以前から代数曲線は認識され、その諸性質を知ろうとする試みは、微分積分計算の発見の前後を通してさまざまに行われていました。代数曲線は代数方程式P(x, y)=0で定まると見るのが基本ですが、yをxの関数と見たり、逆にxをyの関数と見たりしなくとも、この曲線の弧長や、あるいはこの曲線で囲まれる領域の面積を算出しようとして式を立てれば、おのずと代数関数の積分が現れます。代数曲線でしたら出発点に方程式が立てられていますから、計算の手がかりがはじめから提示されていることになります。
 これに対し、代数的ではない曲線もまた存在します。代表的なものを例示するなら、サイクロイドはその一例ですし、カテナリー(懸垂線)やトラクトリックス(牽引線)、それにアルキメデスの螺旋なども超越曲線の仲間です。身近なところでは正弦曲線や余弦曲線、指数曲線もしくは対数曲線も超越曲線です。こんなふうに相当にいろいろな超越曲線が知られていて、代数曲線の場合のように接線を引く方法や、そのような曲線で囲まれる領域の面積を求める方法が工夫されていました。サイクロイドは最速降下線とも呼ばれ、変分法の形成の契機を与えたことでも知られていますし、フェルマは独自の工夫を編み出して、サイクロイドに接線を引くことに成功しました。
 ところが、このような個別の知識は蓄積されていくものの、超越曲線の世界は全体として茫漠とした感じがあり、何というか、開かれた世界を形成しているように思います。観念的に考えても、超越曲線というのは要するに「代数的ではない曲線」の総称なのですから、個々の知識がどれほど増大しようとも、超越曲線の世界をそれ自体として考察するのは不可能です。この点が代数曲線の場合と大きく異なるところです。代数曲線でしたら、曲線を規定する方程式の次数や、あるいは無限遠の挙動などに着目することにより、「分類する」ということが考えられますし、実際、ニュートンは三次曲線の分類を試みていましたが、超越曲線についてはそのような試みは考えられません。
 方程式の解法ということを考えても、次数を指定して2次の代数方程式や3次、4次の代数方程式の解の公式を求めようとすることは考えられますが、超越方程式、すなわち代数的ではない方程式については、なにしろその全容を把握する規準が存在しないのですから、一般的解法ということは考えようがありません。数の世界のことでしたら、代数的数の全体というのは考えることができて、ある範疇の代数的数に共通の性質とか、その範疇の特性というものを考えることができそうですが、超越数、すなわち代数的ではない数の全体という枠のない世界のことになると考えようがありません。
 「代数的」ということは偶然の属性ではなく、このような枠組みを設定することができるということ自体に、何かしら本質に触れる性質が内在しているのかもしれません。

新しい数学史を求めて(39) 代数関数と超越関数

 代数関数論をロゼッタストーンと見るヴェイユの視点はきわめて魅力的で、ヴェイユが数学者として創造への道を踏み出していく際の基本契機として、強力に作用したであろうと推察されます。ヴェイユはエコール・ノルマルの学生のときにすでにリーマンに深く親しみ、多変数関数論に関心を寄せ、代数幾何学を建設してモーデルの不定解析の世界に踏み込んでいった人ですから、ロゼッタストーンの物語はヴェイユについて語ろうとする場面では不可欠の第一着手であり、大いに精彩を放つに違いありません。ですが、今日、代数関数論という名で呼ばれている理論のはじまりのころの姿がどのようなものであったのかと問うのであれば、ヴェイユの観点は参考になりません。この方面に一番はじめに手を染めた人は間違いなくオイラーですが、オイラー以降、ラグランジュ、ルジャンドル、ガウス、ヤコビ、アーベル、ゲーペル、ローゼンハイン、ヴァイエルシュトラス、そしてリーマン等々、ヨーロッパ近代の数学史を彩る偉大な名前が次々と心に浮かびます。彼らには彼らに固有の契機があり、それぞれの流儀でめざましい貢献を重ねていきました。形成された理論を解釈する前に、理論掲載に携わった人々の心情を回想し、共鳴の場が開かれることを期待して、理論の根柢にあって理論を生み出した何物かの正体に近接したいと念願しています。
 代数関数論はなぜ代数関数論と呼ばれるのかというと、思索の対象が代数関数であるからなのですが、多種多彩な関数のうちで特に代数関数に着目するのはなぜなのでしょうか。素朴な問いの中でももっとも素朴な部類に属する問いですが、根源は深く、微積分のはじまり以前にさかのぼるのではないかと思います。関数の概念が発生する前に曲線を研究する時代があり、デカルトの時代からすでに曲線の世界は大きく代数曲線と超越曲線に分けられていました。接線法も代数的な曲線については一般的方法がみいだされていましたので、それを拡大して超越的曲線にも適用可能な万能の方法を探索するというのが、微積分の創造の動機になりました。
 このような経緯があるのは間違いありませんが、それでもなお、まずはじめに代数曲線に注目が集まったのはなぜかという疑問は消えません。代数曲線が身近にたくさんあったからというだけの即物的な理由にすぎないのかもしれませんし、もっと根源的なわけがあったのかもしれず、本当のところはわかりません。
 関数概念は曲線の解析的源泉を関数と見るというオイラーの基本思想から生まれたのですが、代数曲線と超越曲線の区分けに応じて、関数もまた代数関数と超越関数に分かれます。「代数的」と「超越的」の識別は近代数学のはじまりのころのころにさかのぼり、長い歴史を背負っています。

新しい数学史を求めて(38) 代数関数論とロゼッタストーン

 代数関数論は19世紀の数学史の中核に位置する理論で、リーマンやヴァイエルシュトラスなど、その時代を代表する数学者たちの名とともに早くから心を惹かれていましたが、この理論をテーマとする講義は聴いたことがありませんし、著作もあまりみかけませんでした。なんだか神秘的な印象があり、漠然とあこがれを抱いたものでした。
 文献がとぼしい中にあって、岩沢健吉の著作『代数函数論』は珍しい一冊でしたので、購入してずいぶん長い間、手元に置きました。本文の記述は今の時代の数学の状況に合わせてありましたが、著者はそれを若干の不備と見て補うつもりがあったのでしょう、巻頭に長文の緒言がついていて、代数関数論の歴史的変遷が回想されていました。ガウス、アーベル、ヤコビ、リーマン、ヴァイエルシュトラスなど、魅力的な名がちりばめられていて、目を奪われました。ヤコビの逆問題の説明もありました。ただし、本文は退屈で、読み始めるとすぐに飽きてしまいますので、最後まで通読するのは非常に困難でした。それに、よくよく思い返してみますと、序文が魅力的なのはアーベルやリーマンの名前と業績が語られているからなのですが、内容はどうもよくわかりませんでした。端的に代数関数論のめざすところは何かと問い、解答を得たいと思ったのですが、これはやはり虫のいい願いだったように思います。
 代数関数論ばかりではなく、微積分でもガロア理論でも、数学の諸理論はたいていの場合、何のための理論なのかわからずに途方に暮れてしまいます。数学史の書物を見ても、どうしてこのような理論が発生したのか、あるいはまた、この理論のこの定理は何を意味するのか等々、素朴な疑問に答えてくれることはまずありません。岡潔先生の多変数関数論についても事情は同様で、岡先生は「クザンの問題」「近似の問題」「レビの問題」という未解決の三大問題を解決したという話は聞こえてきても、それは数学にとって何を意味するのだろうかと考えると、さっぱりわかりませんでした。多変数関数論の専門の本には理論の組み立て方や証明の技術上の工夫などがこまごまと記されているだけで、岡先生は何をめざしてこの理論に向かったのだろうということについては、まったく言及がありません。何年か渉猟した後、結局、岡先生の論文集だけが事の真相を教えてくれました。数学を創造した当の本人の作品にはあたりまえのように充満している何物かが、二番手、三番手と推移していくうちに失われてしまうのでしょう。
 19世紀の代数関数論の古典理論には三つの側面があるという話は、アンドレ・ヴェイユのエッセイなどを通じて耳にしたことがあります。三つの側面というのは、関数論的側面、幾何学的側面、それに代数的側面を指しています。関数論的側面は代数関数論の本来の姿であり、リーマンとヴァイエルシュトラスによるヤコビの逆問題の解決という出来事を通じて、相当に高い完成度に達したと見られていました。次に、コンパクトなリーマン面は代数曲線と見ることにすると、代数関数論の解析的理論の果実を翻案することにより、代数曲線論に新たな沃野が開かれる可能性が生まれます。これは実際に遂行されて、代数関数論の幾何学的側面が生成されました。また、コンパクトなリーマン面上の解析関数の全体の作る集合の代数的構造に着目すると、代数関数論の代数的側面が開かれます。
 エジプトのロゼッタで発見された石碑に三種類の言葉で刻まれた碑文のように、代数関数論の三つの側面の実体もまた同一であろうとヴェイユは想定し、読み解こうとしたように思います。これはこれで一筋の数学の道ですが、この解読の試みから代数関数論の本来の姿が見えてくるわけではありません。

新しい数学史を求めて(37) リーマン面上のアーベル積分

 f(x, y)は多項式として、二つの変化量xとyの間にf(x, y)=0という関係が成立しているとき、xとyの変化の状勢が相互に規制されている様子を指して、yをxの代数関数、xをyの代数関数と呼ぶのでした。そこで、アーベル積分というのは、yはxの代数関数として、ω=∫ydxという形の∫を意味することになります。代数関数は一般に多価関数ですから、この積分の意味するところを確定することは代数関数論の基本中の基本です。
 代数関数yはそのリーマン面R(y)上で定まるというのがリーマンの思索の根幹で、そのように見るときyは一価関数になりますし、その積分もまた同じリーマン面R(y)上で作ることになります。この場合の積分は実解析における「リーマン積分」のような定積分ではなく、正確に言えば微分式ydxの積分であり、一般にそれ自身がすでに解析関数になりますから、そのまたリーマン面R(ω)がおのずと生成されます。そのリーマン面は、土台となるリーマン面R(y)を幾重にも覆ってR(y)上に広がり、しかもあちこちに分岐点が分布するのが普通です。すなわち、R(ω)はR(y)上に広がる内分岐領域です。また、積分ωは一般に代数関数の範疇をはみ出てしまい、超越関数になります。
 定積分ではない積分というと、今日の言葉でいうと不定積分が考えられていることになりますが、それは、積分といえば定積分のことに決めてかかるのであればそのように見えるということであり、ここでまた正確を期するなら、アーベル積分ω=∫ydxというのは、「微分を作ると微分式ydxが生成される関数」を指しています。すなわち、等式
   dω=ydx
が成立することが要請されるのですが、これはオイラーの流儀と同じです。
 コーシー以降、積分の理論は定積分の定義から出発して組み立てる流儀がほぼ確立し、「リーマン積分」の定義を考案したリーマン自身、この方向を大きく押し進めた当の本人なのですが、理論構成の糸口をどこに求めるのかということに普遍的な決まりがあるわけではなく、思索の対称の性格に応じてそのつど適切に対処するのは正しい姿勢です。
 リーマンはフーリエ解析ではコーシーを踏襲して定積分から出発しましたが、代数関数論ではオイラー以来の流儀を受け継いで「微分式の積分」という観点を始点に据えました。自在で見識のある態度と思います。
 リーマンがリーマン面のアイデアを提案するまでは、代数関数の積分は複素平面上で行われていましたが、積分の対象になる代数関数そのものが多価関数ですし、積分を作ると非常に複雑な関数が現れます。何かしらきっかけがあって、そのような積分に関心が寄せられるようになったのですが、何分にも長い歴史を背負っていることですし、このあたりの消息を解きほぐすのはたいへんな忍耐を要する作業です。

新しい数学史を求めて(36) リーマンのリーマン面とワイルのリーマン面

 言葉の問題はどうも錯綜としてしまいがちで、整然と整理するのはなかなかむずかしいのですが、そもそも「関数」や「積分」という解析学の基本用語からして複雑に移り変わってきたのですから、やむをえないところもあります。混乱に直面していたずらに嘆息するよりも、用語の変遷を鏡と見て、移り行く歴史の映像を観察する方がよいのではないかと思います。今日の行われている用語法はそれはそれで明確に規定されていますが、同じ言葉であっても昔と今では意味合いが異なることもありますので、注意が肝心です。かつて普通に使われていた言葉でも、今は廃語になったものもあります。
 (一変数の)代数関数とは何かと問われたなら、今日では「コンパクトなリーマン面上の解析関数」と答えるのが正解になると思いますが、いつからそうなったのかといえば1913年からのことです。1913年はヘルマン・ワイルの著作『リーマン面のイデー』が刊行された年で、ワイルのいうリーマン面というのは複素一次元の複素多様体を意味するのですが、実は多様体という概念そのものがワイルのリーマン面とともに出現したのでした。このワイルの作品は今日の数学の源泉のひとつです。ではありますが、1913年以前のリーマン面をワイルのいうリーマン面の観念をもって理解しようとするのはやはり無謀で、かえってワイルの数学的意図の真意が見えなくなってしまいます。
 複素変数の解析関数は解析接続を許しますから、定義域を天下りに規定することはできず、どの関数にも固有の自然存在領域が附随しています。存在領域は複素平面内の領域(単葉領域といいます)にとどまることもあれば、複素平面上に幾重のも積み重なって広がる領域(多葉領域といいます)であることもあります。そこでリーマンはリーマン面という観念を提示したのですが、それは多葉領域の姿形を純粋に幾何学的な観点から描写した図形にほかなりません。きわめて抽象の度合いの高い観念ですが、リーマンのリーマン面はまだしも複素平面に繋留されていたのに対し、ワイルのリーマン面は複素平面から解法されて、まるで空中に浮んでいる楼閣であるかのような印象があります。
 リーマンやヴァイエルシュトラスの時点では何を指して代数関数というのかというと、オイラーに始まる関数概念が依然として生きていましたから、二つの変化量x、yの間の代数的関係に着目することになります。今、xとyは複素変化量とし、f(x, y)=0という形の関係式を通じて互いに他を拘束しているとすると、オイラー以来の流儀によれば、xはyの、の、逆にyはxの関数と見ることができます。ここで問題になるのはf(x, y)ですが、これを一般に複素数を係数にもつxとyの多項式とすると、xとyの関係には「代数的」という呼称がぴったりあてはまります。そこで、この場合、yはxの、xはyの代数関数と呼ぶことになります。代数関数は解析関数ですから固有の存在領域が伴いますが、代数関数の存在領域はリーマンのいうリーマン面で、しかもそのリーマン面はコンパクトです。リーマン面がコンパクトというと、「縁(ふち)がない」という感じです。「境界がない」と言っても同じ意味合いになります。
 今日では、代数関数の積分を指してアーベル積分という用語法が定着しています。

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オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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