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岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(129) 紀見峠の岡家と桜井の保田家のつながり

 補陀さんの話によると、上御殿では岡先生と保田先生と胡蘭成が食事をしながら自由に語り合うのを、みなで拝聴するという恰好になったということでした。同行者は非常に多く、全部で20人とも30人ともいうのですが、後日、お手紙をいただいて全員のお名前を教えていただきました。若い人も多く、中には高校の先生や学習塾の教師もいました。胡蘭成が日本の歴史を論じ、岡先生と胡蘭成の二人で平家を評価するという場面もありました。
 二次会の席で、補陀さんも交えて保田節子さんと話をする機会がありました。節子さんは保田先生の次男の悠紀夫さんの奥さんですが、お父さんは玉井栄一郎さんです。このあたりの縁戚関係について詳しくうかがいました。御所市水泥(みどろ)の西尾家にきみえさん、としえさんという姉妹がいて、きみえさんは玉井家に嫁ぎ、としえさんは天見の相宅家に嫁ぎました。としえさんのご主人は相宅才蔵という人です。
 相宅家のことなら泰子さんにうかがったことがあります。話が細かくなりますが、岡先生と泰子さんの祖父の文一郎は男ばかり四人兄弟で、順に文一郎、源一郎、貫一郎、正一郎というのですが、四男の正一郎が相宅家に養子に入りました。その子どもが相宅才蔵なのですが、何かしら事情があったようで、才蔵さんは幼児、紀見峠の岡家に預けられ、岡先生の祖父母の文一郎とつるのさんの手で育てられたということでした。相宅才蔵は後、相宅家の当主になり、泰子さんは相宅家に寄宿して堺の女学校に通った一時期がありました。そんなわけで相宅家と岡家は親戚筋になります。
 相宅才蔵の奥さんの姉が玉井家に嫁ぎ、そのお子さんが栄一郎さん。そのまたお子さんが節子さんで、節子さんが保田家に嫁ぎました。というわけで、少々遠い関係にはなるものの、紀見峠の岡家と桜井の保田家もまた親戚であることになります。そんなこともあって、保田先生はずいぶん早くから岡先生のお名前を承知していたということでした。

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岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(128) ホテル「グランヴィア」の「かぎろひ忌」に出席する

 数学の学会は例年、3月の末と9月の末に行われますが、この年の秋の学会の会場は東大の駒場キャンパスでした。それで、一応、学会に出席するという構えにして、前後にまたフィールドワークの段取りをつけました。おりしも学会の直前の9月27日に、京都ビルのホテル「グランヴィア」を会場にして「かぎろひ忌」の集りがありましたので、出席しました。例年の通りですと10月の「風日」の歌会を指して特に「かぎろひ忌」と呼んでいるのですが、この年はちょうど保田先生の17回忌にあたっていましたので、ゆかりの人々に幅広く声をかけ、大掛かりな集まりが実現することになりました。何か都合があって、9月の歌会が「かぎろひ忌」にあてられることになったのでしょう。
 久しぶりに栢木先生と補陀さんにお目にかかり、保田先生の奥様に御挨拶しました。同じテーブルでいっしょになった出席者の中に、和歌山から来たという梅田恵以子さんという人がいて、言葉を交わすと、昭和43年の秋に保田先生や岡先生たちといっしょに和歌浦に行ったということでした。龍神温泉の旅に同行したというのですが、この旅は二泊三日で、一日目の宿泊先は和歌浦の東邦荘という旅館でした。梅田さんは東邦荘で一泊しただけで、二日目の龍神温泉行には同行しなかったようですが、ともあれそんなわけでしばらく東邦荘でのあれこれのお話を拝聴するという恰好になりました。
 梅田さんの話によると、東邦荘の集まりに参加した人の中に高専の学生らしい若い人がいて、岡先生に向かって、搾取ということについてどう思いますか、と尋ねるという場面がありました。すると岡先生は、早口で何かを言い、それから、おまえ、死ね、死んでしまえ、と言って、学生を見据えたのだそうです。一同しーんと静まり返り、殺人でも起りかねないようなものすごい雰囲気になったということでした。ちょうど新宿で騒乱事件があったばかりですので、岡先生に影響があったのではないかというのが梅田さんの推定ですが、それからどうなることか思っていると、岡先生は一転して「やまとたける」の話を始めました。
 補陀さんと話をする機会がありましたので、龍神温泉の旅の話をうかがいました。一日目は東邦荘の運転手が運転する車に同乗して、補陀さんが岡先生御夫妻を駅にお迎えに行きました。二日目は一同、車で龍神温泉に向かったのですが、二手に分かれ、保田先生と胡蘭成たちは高野山経由、岡先生たちは田辺経由でした。宿泊先は「上御殿」という旅館で、そこに龍神綾さんというお嬢さんがいて、今は女将さんになっていて健在とのこと。その龍神綾さんが、土地の若い人たちが先生方のお話を拝聴したいと希望してる、ついては廊下で漏れ聞くのはさしつかえないでしょうか、と尋ねてきました。これは実現した模様です。
 こんなふうにお話をうかがっていると、龍神温泉の旅の様子がだんだん具体的に思い浮かべられるようになってきました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(127) 『お伽花籠』を求めて

 8月9日、大阪市福島区の地蔵寺を訪問しました。光明会とゆかりのあるお寺で、岡先生も何度か訪れたことがありますので、ともあれ出かけてみたのですが、応対に出た人は岡先生を知っているようでもあり、知らないようでもあり、なぜかまったく話が通じないという珍妙な事態に陥ってしまい、何も得るところのないままおいとましました。
 それから二週間ほど間があいて、8月も下旬に向かい始めたころ、21日にまず京都大学を訪問し、それから大阪の吹田の国際児童文学館に出向きました。京大では戦前の京都帝大の時代の面影を今に伝える文献群を閲覧したかったのですが、理学部でミニ博物館と銘打たれた小規模な展示を見たことと、附属図書館で『京都帝国大学一覧』『第三高等学校一覧』などを見た程度のことに終りました。本当は教養部の図書館の一室が三高資料室にあてられていて、三高とその時代に関連のある大量の文献が蓄積されているのですが、このときの訪問では気づきませんでした。
 大阪国際児童文学館の訪問の目的は、少年時代の岡先生が愛読したという童話集『お伽花籠』を閲覧することでした。あまり見かけない本なのですが、さすがに児童文学館と名乗るだけのことはあり、事前の調査でここに所蔵されていることがわかりましたので、実物を見に出かけたのです。その実物の『お伽花籠』をいよいよ手に取ってページを繰ると、序文と「はしがき」は紫色の文字、緒言は薄い緑色の文字で書かれているというふうで、きれいな本でした。序文、はしがき、それに緒言と揃っているところは大仰な印象もありましたが、花籠に相応しい豪華な感じでもありました。目次の文字は黒ですが、赤い線で枠が引かれていました。本文は黒字です。
 少年の日の岡先生の心情を深遠な喜びでいっぱいにしたという、「魔法の森」という作品もはじめて見ることができました。岡先生のエッセイでは著者は武田櫻桃となっているのですが、これは岡先生に特有の勘違いであることもわかりました。実際の作者は窪田空々で、杉浦非水が挿絵を添えています。武田櫻桃の作品は「錦太郎(にしきたろう)」というもので、挿絵は宮川春汀という人でした。コピーを入手したいと思い、所定の手続きをして児童文学館を離れました。
 当時のノートを見ると、翌22日にもう一度、京大の図書館を訪問していますが、特に目立った記事はなく、何のためにわざわざ再訪したのか、記憶にありません。8月のフィールドワークはこれで終りました。


岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(126) 藤岡先生と木村先生

 8月に入り、ぼくはまたフィールドワークに出かけました。8月8日、まずはじめに大阪の西天満小学校を訪問しました。前年の2月、一番はじめのフィールドワークのおりに大阪の天満宮の近辺の壺屋町の近辺を散策し、かつて岡先生が通学した菅南尋常小学校を見つけようとしたことがありました。そのおり菅南小学校が見つかりましたので、ここに違いないと思ったのですが、背景に複雑な経緯があったことにまでは思いが及ばず、ぬか喜びに終りました。それでも菅南尋常小学校の面影を今日に伝える基本資料は現在の西天満小学校に保管されていることがわかりましたので、訪問の機会を探っていたという次第です。
 フィールドワークも実際にはじめてみるととめどもなく規模が拡大するばかりで、簡単には収拾のつきそうにない様相を呈してきたのですが、この年の8月、心情が再び菅南尋常小学校へと傾きました。
 あらかじめ電話で訪問の意向をお伝えし、午後、西天満小学校に到着すると、播本校長先生が待っていてくれて、校長室でしばらく懇談しました。具体的に知りたかったのは岡先生のエッセイに出てくる二人の先生のことでした。ひとりは藤岡先生という人、もうひとりは唱歌の女の先生というばかりでお名前はわかりません。播本先生にそのように伝えると、先生は少時席を離れ、戸棚から古びた書類を束ねたものを持ってきてくれました。拝見すると、岡先生が通学した当時の菅南尋常小学校に関する諸事項が記載されていて、その中に諸先生の経歴があり、たちまち消息が判明しました。
 藤岡先生は大阪府出身で、明治21年5月3日生れ。明治43年10月15日、天王寺師範学校卒業して、同年10月18日、菅南尋常小学校に赴任しました。数えて24歳のときのことになります。岡先生のエッセイではフルネームはわからなかったのですが、はじめて藤岡英信先生とわかりました。
 「唱歌の女の先生」については、なにしろお名前がわからないのですから、少々まごつきましたが、何人かの有力な候補者のうち、木村ひで先生に間違いないと判断しました。木村先生は大阪府出身で、明治20年11月生れ。明治42年12月20日、菅南尋常小学校に赴任しました。師範学校出身ではなく、おそらく高等女学校出身と推定されました。
 西天満小学校に出かければ難なくわかることですが、そのような場所は世界中でここだけなのですから、どうしても足を運ばなければなりません。何事かを知ろうとするのであれば、フィールドワークはやはり不可欠な作業です。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(125) 電話によるフィールドワークの続き

 この年の6月と7月にはずいぶんあちこちに電話をかけました。当時のノートを見返してみると、内田仁さんと中央光明教会のほかに、下記のような電話先が記録されています。

広島市の公文書館、
奈良師友会、和歌山師友会、関西師友会
奈良市役所、奈良市教育委員会、
橋本市の北村市長の兄の北村暾(きたむら・とん)さん、
大阪の茨木市の如来光明会、甲子園の田中光さん(光明会の木叉上人のお子さん)、和歌山の池田和夫さん(光明会)、
日本郵船の九州支店、日本郵船横浜歴史博物館、神戸市立図書館、明石の兵庫県立図書館、
広島の牛田の早稲田神社、
伊豆伊東市の伊東市立図書館、
京都産業大学(北大の功力先生の晩年のお勤め先)、
奈良県立奈良図書館、同市立図書館、
旧制高等学校記念館

 それぞれ目当てがあっての調査のつもりだったのですが、次の調査につながるヒントが得られることもあれば、何も情報のないこともありました。和歌山にお住まいの池田和夫さんは早くから光明会の活動に打ち込んできた人ですが、池田さんには「梅ヶ畑の修道院」のことを教えていただきました。戦後間もないころ、梅ヶ畑の修道院ではしばしばお念仏のお別時が行われ、岡先生も何度も足を運んでいますので、どのようなところなのだろうと、前から関心があったのです。神戸の通照院の佐橋上人にお尋ねしたこともありました。
 佐橋上人にうかがった話と重なるところもありますが、池田さんの話では、梅ヶ畑の修道院を作ったのは恒村夏山で、お別時にはいつも200人以上も参集したとのことですが、恒村さんの没後、後継者の意向もあって取り壊されました。今は真宗のお寺が建っているそうです。梅ヶ畑はフィールドワークの対象となってしかるべき重要な土地なのですが、今日にいたるまでとうとう出かけていく機会に恵まれませんでした。修道院は今はないとうかがったことも、原因のひとつではないかと思います。
 恒村家では盛時には朝の3時から京都学生光明会の集まりがありました。聖護院の角の恒村医院は今もあり、内科の恒村麗子さんという医師が経営しているともうかがいました。すぐ近くに熊野神社がありますが、京大の近くでもあり、その恒村医院でしたら京都に出かけたおりに何度も見かけたことがあります。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(124) 内田與八先生の消息をたどる

 岡先生が粉河中学の生徒のころ、粉中には内田與八先生という英語の先生がいました。内田先生は寄宿舎の舎監でもありました。岡先生のエッセイにしばしば内田先生のお名前が現れますので、かねがね注目していたのですが、ここにきて思い立って山梨県の甲府にお住まいの内田仁さんに電話をかけました。内田仁さんは與八先生の四男で、歯医者です。
 6月14日はお留守でした。19日に再度お電話すると、今度はお話をうかがうことができました。與八先生は身延中学の初代の校長で、韮崎中学におつとめの時期もあったということでした。お子さんが7人いて、男の子が4人、女の子が3人ですが、もう亡くなった兄弟姉妹もいる中で、所沢に末娘の橋本さよさんが健在と教えていただきました。
 與八先生は徳島の阿波の出身で、男女4人ずつの兄弟が8人。明治14年のお生まれで、91歳で亡くなりました。その後、内田家は無人になりました。教え子たちが寄贈した久遠荘という茶室が母屋に隣接していて、岡先生の色紙が飾られていますが、そこもまた空き家です。四男の仁さんは同じ敷地に別個に家を建て、歯医者を開業しました。與八先生の見るところ、先生には定年があるが、医者には定年がないというので、医師になるようにとお子さんたちにすすめたのだそうです。
 これでまたフィールドワークの目標ができました。一度はぜひ甲府に出向きたいと思い、ともあれ所沢にお住まいの橋本さよさんにお手紙を書くことにしました。
 7月5日、大阪の大今里の中央光明教会に電話をかけました。岡先生が一時期、熱心に打ち込んでいたお念仏のことを知りたかったのですが、電話口に出た人が親切で、いろいろな話をしてくれました。岡先生が敬意を払っていた光明会の先達に清水恒三郎という人がいて、奈良の岡家には清水先生から岡先生に宛てたはがきや、岡先生が清水先生宛に書いた書簡の下書きが遺されています。清水先生は戦災にあってから各地を転々として、大阪の福島の地蔵寺に住んだこともありますが、後、昭和24 年ころ大今里に移り、中央光明教会を起しました。昭和30年2月、私が亡くなったら観音様になってこの地を守ります、と言って79歳で亡くなりました。そこで、観音様を建てて、今も祭っているということでした。
 岡先生が大今里にやって来たこともあります。清水先生を訪ねてきたのですが、柳行李の弁当をもっていたそうです。大今里にも出かけてみたかったのですが、ついいつい後回しになりがちで、大今里行は今も実現していません。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(123) 白山に岡田泰子さんを再訪する

 平成9年初夏の札幌行の印象は非常に深く、後々まで記憶に残る旅になりました。飛行機ではなく、電車を乗り継いで札幌に向かいました。東北新幹線で東京から盛岡まで。深夜、到着し、盛岡で一泊し、翌日の早朝、盛岡を発ったのですが、札幌に到着したのはお昼すぎの3時をすぎたころでした。駅前に植物園があり、入り口に「北海道大学附属植物園」と刻まれたプレートが目に入りました。よく見ると、「北海道」と「大学」の間に隙間があり、文字が二つ、削除された痕跡が認められました。これは「帝國」の二文字に違いないと思いました。
 植物園を歩き、それから北大構内を一回りしました。札幌市内もずいぶん歩き回りました。古書店では、往年の札幌の喫茶店の数々を紹介する小冊子を見つけました。北海道と札幌のことを知りたいと思い、北海道立文書館にも出かけてみましたが、たまたま古い官報を手に取ると、戦前の各種の学校の入学者の氏名を掲載するページが見つかりました。これは札幌とは関係がないのですが、それなら岡先生が三高に入学したときのすべての同期生が判明するのではないかと思いました。この予想は的中しました。三高や京大の岡先生の同期生を知りたいと、かねがね望んでいたのですが、官報に出ていることは気づきませんでした。
 6月9日、札幌を発ち、東京に向かいました。それから帰省して、11日、再び上京。岡先生の妹の岡田泰子さんを訪ねました。泰子さんはこの年の4月10日、自宅を離れ、白山の特別養護老人ホーム「白山の郷」に移ったという消息を奈良で聞いていましたので、御様子をうかがいたいと思ったのです。
 泰子さんはお元気で、かつて紀見村ですごしたころの思い出を話してくれました。柱本小学校には紀見峠から「馬転がし坂」を降りて通いました。北村赳夫さんと同級生で、いっしょに通学しました。雷が鳴ると、おそろしくて坂を駆け上がり、北村家にかけこんで「かや」に入りました。そんなとき、赳夫さんは待っていてくれればいいのに、どんどん先に行ってしまいました。
 岡先生も泰子さんも始終、北村家に行って、ご飯を食べたり、お風呂に入ったりしました。岡先生は柱本尋常小学校を出た後、紀見高等小学校に通ったのですが、通学路は巡礼坂でした。泰子さんは天見の相宅家から堺の女学校に通ったのですが、祖父の文一郎さんが亡くなると、祖母のつるのさんが、さびしいからもどってくるようにと言ってきました。そこでまた岡家にもどり、紀見峠から天見に降りて通学しました。お父さんの寛治さんと岡先生が送り迎えをしてくれました。
 岡先生と泰子さんは結婚式が同じ日で、大正14年の4月1日だったのですが、日取りが決まったのは別々だったところ、たまたま日が重なりました。そこでお父さんの寛治さんは4月1日には岡先生の結婚式に出て、それから上京して泰子さんの嫁ぎ先の岡田家に挨拶しました。こんな話のあれこれをしばらくうかがいました。泰子さんにとってはもう何十年も昔のことになる思い出の話です。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(122) 札幌散策

 科学基礎論学会のこの時期の会長は、吉田洋一先生のお子さんの吉田夏彦先生でした。前に一度、お勤め先の立正大学にお訪ねして、お話をうかがったことがありますが、そのおり誘われて科学基礎論学会に入会しました。それから久しぶりに札幌で再会し、昔の札幌にまつわるあれこれのお話を伺いました。
 お父上の洋一先生は俳号を魚太(うおた)というのですが、夏彦先生のお話によると、なんでも洋一先生は腎臓に病気があり、牛乳を毎日一升ずつ飲まなければならなくなったとのことで、快復してからも大量の水を飲む生活が続きました。それで、水は英語ではウォーターとなるというので、漢字を宛てて「魚太」と名乗ることにしたのだそうです。洋一先生にそのような病気があったとは初耳でしたし、これにはまったく驚くばかりでした。
 戦前の札幌の簡単な地図を紙片に描いてもらい、岡先生が札幌に滞在中によく通ったという喫茶店「セコンド」「コージーコーナー」、和菓子の「ニシムラ菓子店」などの位置を教えていただきました。セコンドは昭和37,8年ころまで存在したということです。下宿屋「おぎの」の位置も判明しました。
 かつて中谷家が存在したあたりを目当てにして札幌市内を散策しました。道路をはさんで中谷家の向かい側にあったという北星女学校は、赤レンガの塀に囲まれて、校庭は緑のローン。その中にクリーム色の美しい後者が建っていたとのことです。北星女学校は今も同じ場所にあります。山形屋旅館と今井百貨店の位置もわかりました。今井百貨店は丸井今井デパートになって今も存続していますが、つい最近、民事再生法の適用を申請したというニュースを聞きました。
 戦中、岡先生がよく散策したという北大の附属植物園は札幌駅のすぐ近くにありました。駅の反対側に北大があり、構内を歩くと理学部の建物があり、近くに「人工雪誕生の地」の記念碑がありました。雪の結晶の形にデザインされた六角形の白い御影石の石碑です。正面の下部に、英文で

  BIRTHPLACE OF THE FIRST ARTIFICIAL SNOW
  CRYSTAL
   12  MARCH 1936
  (最初の人工雪誕生の地 1936年3月12日)

と記されていました。碑の裏面には長文の説明が刻まれていました。

  人工雪誕生の地
 この地は昭和十年十月 常時低温研究室が建てられた場所である 翌年三月 ここで理学部物理学科 中谷宇吉郎教授が 初めて雪の結晶を人工的に成長させることに成功した 人工雪の実験は同年十月天覧の栄に浴し さらに数年たゆむことなく続けられ ついに雪結晶生成機構が明らかにされた この研究により同教授は昭和十六年五月 日本学士院賞を受けた
 その後もこの三十平方米余の小さな低温室からは凍上 雷 着氷 円板氷結晶などに関する数々の先駆的研究が生み出された これらの研究成果は本学低温科学研究所創立の気運を導きまたわが國雪氷学・雲物理学発展の基盤となったばかりでなく国際的にも高い評価を受けた この研究室は昭和十六年低温科学研究所分室となったが 後同研の拡張移転に際して理学部所管となり 昭和五十三年八月その使命を終えて撤去された
 われわれはこのゆかりの地に碑を建て北海道大学が世界に誇る雪氷研究の原点を永久に記念する
  昭和五十四年七月四日

    人工雪誕生の地記念碑建設期成会

題字の「人工雪誕生の地」を書いたのは、中谷先生のお弟子の関戸弥太郎先生です。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(121) 初夏の札幌行

 この年の5月にはほかにもあちこちに電話をかけたのですが、実りがあることもあればなかったこともあり、的外れというか、大きな勘違いをして見当はずれのところに電話してしまったこともありました。5月26日、富田林にお住まいの北村さつきさんと電話で話をすることができました。さつきさんは北村純一郎さんの孫になる人で、母親は純一郎さんのお子さんの三保子さん。三保子さんの弟が北村駿一です。北村駿一はずいぶん若いころ病気で亡くなったのですが、岡先生のエッセイにしばしば登場しますので、フィールドワークを始めた当初から注目していました。さつきさんと話をして、北村駿一の日記や作文、それにゆかりの人たちが寄せた追悼文を集めた本をお借りすることができました。それは『錦鳥善語』という本で、岡先生と北村俊平さんが序文を書いていますし、岡先生のエッセイも収録されています。それと、北村純一郎さんの句集『わがもの』をいただきました。
 5月31日、ぼくはまた旅行に出ました。6月はじめに札幌で科学基礎論学会があるというので、出席することにして、少し早めに出かけたのですが、まずはじめに広島まで行き、6月1日、法安さんをお訪ねしました。法安さんが長年にわたって蒐集した中谷兄弟の往復書簡を見せてもらうというのが直接の目的で、できればコピーを作りたいと望んでいました。
 法安さんはお父さんの治宇二郎さんを知らないのですが、お母さんの節子さんからいろいろな話を聞いていました。あるとき、節子さんが、これはお父さんからだと言って、ロシアのチョコレートを手渡してくれました。日本のものよりもちょっとにがいな、と思ったそうです。ときおりこのようなお話をうかがいながら、法安家のコピー機を使わせていただいて、すっかり暗くなるまで大量の文書をコピーしました。中谷兄弟が交わした書簡のあちこちに岡先生のお名前が目に入り、細やかな消息が伝わってきました。
 暗くなってから広島を発ち、この日は京都まで。翌6月2日、奈良に行き、松原家訪問。2日も京都に泊まりました。それから札幌に向かったのですが、なぜかずいぶん時間がかかり、ようやく札幌に着いたときは5日になっていました。科学基礎論学会は7日と8日の両日、北大で開催されました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(120) 新潟の北村家

 井ノ上さんにお電話した5月5日には、新潟の考古堂書店にも電話をかけました。岡先生のいとこの北村四郎さんの著作『激動の中に生きて』が考古堂から出版されていましたので、購入したかったのです。北村四郎さんは高知高校を出て新潟医科大学に学んだ医学者で、最後は(新制の)新潟大学の学長にもなりました。戦中は軍医として従軍し、インパール作戦に参加した体験をもっています。北村俊平さんの弟です。
 前年平成8年の2月にはじめて紀見村地区に足を運んだとき、ちょうど橋本市の広報誌「はしもと」に岡先生と北村四郎さんがどこやらの庭先に並んで立ち、何かしら話をしている写真が掲載されていました。岡先生はどてらにゴム靴という珍妙ないでたちでした。北村四郎さんは以前、学習研究者から『岡潔集』(全5巻)が刊行されたとき、各巻についていた月報のひとつにおもしろいエッセイを寄せていましたので、お名前は承知していたのですが、橋本市で写真を見て以来、北村四郎さんのお名前が強く印象に残り、どのような人なのか、詳しく知りたいと思うようになりました。調査の第一歩が考古堂書店に電話をかけることだったのですが、このとき新潟の北村家の電話番号を教えてもらいました。
 それで新潟の北村家にお電話したところ、奥様の信子さんが出ましたので、まずはじめに自己紹介などしてそれからお話をうかがいました。北村四郎さんは新潟大学に赴任する前に福島医科大学にお勤めだったのですが、昭和35年に岡先生が文化勲章を受けたとき、親授式に出席する岡先生御夫妻に北村純一郎さん御夫妻が付き添って、四人で上京しました。それから親授式の後、福島に行き、北村四郎さんを訪ねました。北村家の官舎に泊まったのですが、狭かったため、子どもたちは近所にあずけたと、信子さんが話してくれました。広報「はしもと」に掲載された写真はこのときのもので、場所は福島医科大学の官舎の庭先なのでした。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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