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岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(101) 江口家の三つの墓

 三つのお墓の中央に位置するのは江口さんの両親のお墓です。墓石の右側面に父の名が刻まれています。

 昭和十七年十月十八日
 千葉県之産
 江口熊吉
 行年七十才

左側面に刻まれているのは母の名です。

 昭和五年六月三日没
 栃木安蘇之産
 江口ゆわ
 行年半百一

「半百一」というのはあまり見ない言葉ですが、百の半分を「半百」と表記しているのですから、母のゆわさんの行年は51歳であることになります。
 墓石の裏面には江口さんの歌が刻まれています。

  生まれきて異郷の
    つちの祖となりし母が
      かなしきいのち思ほゆ
             きち

 父は千葉、母は栃木に生れた人ですが、どこかで知り合って群馬県の山村に住み着いて、栃木屋という名の居酒屋というか、大衆食堂を始めました。どんぶり物を売っていたそうです。お店の名前に母の郷里の面影がかすかに宿されています。父の熊吉さんは仕事をせず、ばくち打ちみたような暮らしをしていた人でしたので、栃木屋を切り盛りしていたのは実際に母のゆわさんでした。江口さんと妹のたきさんも手伝いましたが、兄の廣寿は脳膜炎の後遺症で病んでいましたので、仕事はできませんでした。昭和5年に母が亡くなった後は、もっぱら江口さんが栃木屋の仕事を受け継ぎました。妹のたきさんは川場尋常小学校を卒業した後、上京し、美容師のもとで年期奉公を始めました。
 左方と中央の二つのお墓の正面には、埋葬されている人の戒名が刻まれていたのですが、フィールドワークのときに持ち歩いていたノートを見返してみたところ、なぜかしら記録されていませんでした。
 一番右側の墓石は江口さんと廣寿のお墓です。裏面に、

 江口きち廿六才
 昭和十三年十二月二日
 江口廣寿 三十才

と刻まれていて、亡くなった日にちがわかります。墓石の表面に江口さんの戒名が刻まれ、左側面には廣寿の戒名が刻まれていました。右側面には、江口さんの辞世二首のうちのひとつ「大いなる」の歌が刻まれています。江口さんの戒名は「文暁妙珠大姉」というのですが、「暁」の一字には、もうひとつの辞世「睡たらひて夜は明けにけりうつそみに聴きをさめなる雀鳴き初む」が反映しているように思います。
 江口さんが亡くなった後、廣寿とともに桂昌寺に埋葬されたのですが、お墓らしいお墓はなかったのではないかと思います。両親についても事情は同様でしたし、妹のたきさん夫妻については、何しろ江口家は絶えてしまったのですから、お墓はありませんでした。現在の三つのお墓は、昭和37年になって小林はつゑさんが建てたものです。
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岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(100) 江口さんの妹のお墓を見る

 28日、江口さんの消息を知る村の二人のおばさんの案内を受けて、江口さんのお墓のある桂昌寺を訪ねました。連れていっていただいたおばさんのお名前を失念してしまったのですが、お二人とも小林さんだったようにぼんやりと覚えています。
 桂昌寺には江口家の三つのお墓が並んでいました。向かって左側のお墓の裏に刻まれている文字は次の通りです。

 清和童子 昭和二十年十月五日
      長男満洲夫三才
 浄和童子 昭和二十年十一月十日
      次男保夫一才
  昭和三十七年
  秋分の日 小林はつゑ建立
  協賛者
   高山留三郎
   吉野案次郎
   関壽美蔵
   宮田操
   星野タケ

これだけではよくわかりませんが、満洲夫と保夫は江口さんの妹たきさんのお子さんです。お墓の右側面に多少の消息が刻まれています。文面は次の通りです。

 柏崎より入夫
 江口保平
 昭和二十年八月十四日 満洲国浜江省老黒山大平満に於て戦死
三十七才
 妻たき
 昭和二十年八月二十七日
 中華民国哈爾浜
 三十才

これを見れば、このお墓は江口さんの妹夫妻と二人のお子さんのお墓であることがわかります。江口保平とたきさん夫妻は開拓団員として満洲の地にわたったのですが、日本の敗戦に伴って生活の基盤を失いました。江口保平は現地で召集を受け、ソ連軍との戦いの中で戦死。たきさんと二人のお子さんは放浪の途次、生きる力を失って亡くなりました。満洲夫と保夫というお子さんのお名前に、たきさん夫妻の生活の歴史の痕跡が刻まれています。江口家はこれで絶えたのですが、昭和三十七年の秋分の日に小林はつゑさんがお墓を建てたのでした。

 お墓の左側面の刻まれている江口さんの歌一首。

  春に頼む幸あらなくに春来なば
    来なばと待ちし妹なりし

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(99) 江口さんの辞世の歌

 3月27日に川場村に到着したときはもう夕方でした。この日と翌28日の二日間、民宿に泊まり、江口さんにゆかりの人の話を聞き、ゆかりの場所を訪ねました。
 江口さんは川場村の川場尋常小学校を出たのですが、その小学校は廃校になり、郷土資料館として使われています。江口さんに関する基本資料が一室に集められていて、小さな記念館のような形になっているのですが、隣の教室もまたある人物の記念資料室になっていました。その人物というのは血盟団の井上日召なのですが、この人もまた川場村で生れたのでした。これには気づきませんでした。
 資料館には常駐しているおばさんが二人いて、江口さんのことをよく知っていました。歌集『武尊の麓』は長い間、まぼろしの本で、見たことがなかったのですが、資料館には置いてありましたし、ほかにも川場村には持っている人がたくさんいるということでした。このあたりはいかにも地元ならではの消息です。『武尊の麓』を閲覧すると、江口さんの人生の概略が判明しました。江口さんは大正2年に生れた人で、存命なら平成21年の本年中に満96歳になります(ぼくの父と同年です)。長女ですが、四つ上に兄の廣壽がいました。それと、二つ下の妹のたきさんがいました。昭和13年12月2日、歿。翌3日、葬儀。川場村谷地(やち)の桂昌寺に埋葬されました。
 歌集『武尊の麓』は昭和14年4月27日の日付で婦女界社から発行されています。定価1円50銭。紫色の布風味の装幀ですが、紫色は江口さんが好きだったという桐の花の色とのことでした。

 桐の花を歌う江口さんの歌一首
  桐の花さかりとなりて離れ住む
     故里戀ふる人々を思ふ

目次を見ると、構成は次のようになっています。

 序 (河井酔茗が書いています)
 短歌 (昭和7年から昭和13年まで、全部で367首)
 詩及び長歌 
 日記 (昭和13年6月1日から同年11月28日まで)
 後書 (島本久恵が書いています)

 江口さんの死は自殺で、病気の兄、廣寿もいっしょに亡くなりました。辞世の句二つ。

 睡(ね)たらひて夜は明けにけりうつそみに
       聴きをさめなる雀鳴き初む
 大いなるこの寂けさや天地の
       時刻あやまたず夜は明けにけり

岡先生が紹介したのは後の方の歌です。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(98) 『武尊の麓』

 3月も末に向かうころ、またもフィールドワークの日々が始まりました。信州松本で数学の学会がありましたので、それに出席するということを大義名分にして、かねがね訪ねたいと念願していた土地をたどる計画を立てました。この旅行は3月27日から4月10日まで、二週間余にわたって続きました。
 3月27日、まずはじめに上州群馬県の利根郡川場村を訪れました。川場村は江口きちさんという女流歌人の郷里です。昭和14年の初夏、江口さんの遺歌集『武尊の麓』が刊行されたときのことですが、広島の大学を離れて郷里の紀州紀見村で孤高の数学研究の日々を送っていた岡先生は、新聞の公告で江口さんの歌集を知り、千里の道を遠しとせず、大阪に出て一本を買い求めました。岡先生のエッセイにそのように書かれていましたので、ずっと気になっていたのでした。
 岡先生はなぜか江口さんの名前を明記せず、単に「無名女流歌人」としか記されていないのですが、歌集『武尊の麓』の書名が出ていましたので、江口さんのお名前も判明しました。全般に岡先生の書くものにはこのようなことが多く、すべてを詳細に書くことはしない代りに、何ほどかの調査のヒントがちりばめられています。
 以下に引くのは『武尊の麓』との出会いを回想する岡先生の言葉です。エッセイ集『月影』から採りました。

《満州事変が一応終わったのち、日支事変の始まるまでの間、重苦しい平和が続きました。当時の民謡「酒は涙か溜め息か、心の憂さの捨て所」がこの雰囲気をよく表わしています。その時新聞に『武尊(ほたか)の麓』という歌集の広告が出ていました。失恋の結果、カルモチンを多量に飲んで自殺した無名女流歌人の歌集で、その最後の歌というのは、実に、
  大いなるこの寂(しず)けさや天地の
   時[ママ]誤たず夜は明けにけり
というのです。これはカルモチンを多量に飲んでしまってからの心境なのです。新聞の広告には「憂鬱の女ひとり、くちびるを噛んで」と書いて、袂(たもと)を噛んでいる女性の挿し絵まで添えてありました。
 私は郷里から十里の道を遠しとせず大阪に出て、一本を求めて帰りました。紫の布地の綺麗な表紙の本です。ざっと目を通しましたが、感心したのはこれ一首です。その代わりこの一首は素晴らしいのです。疑いもなくきわめて深い捨の境地ですね。》

東京から上越新幹線に乗り、上毛高原駅で下車。タクシーで川場村に向かいましたが、これはやや迂遠で、沼田からバスに乗る方がよいとあとで気づきました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(97) 二度目の由布院行

 2月中はフィールドワークには出かけられなかったのですが、3月に入ってすぐに樋口敬二先生からお電話をいただきました。樋口先生とは年末、名古屋でほんのわずかな時間だけお目にかかったのですが、そのおり、近々フランスに出かけるとうかがっていました。3月にいただいたお電話を受けたところ、樋口先生は、開口一番、「見つかりました」と言われました。岡先生御夫妻と中谷治宇二郎さんがいっしょにすごしたサン・ジェルマン.アン・レの下宿先が見つかったというのです。非議地先生はパリに用事があったのですが、用件がすんだ後、サン・ジェルマン・アン.レに出向き、住所を頼りに下宿先の家にたどりついたのでした。住所表記は「フォッシュ元帥大通り106番地」。「菩提樹」という名前の下宿でした。
 この報告に続いて、ついては3月9日に亀の井別荘でパーティーがあるから参加しませんか、と誘っていただきました。即座に受諾し、喜んで出かけることにしました。前年8月に続いて、これで二度目の由布院行になりました
 由布院では中谷次郎さんに再会したのをはじめ、中谷健太郎さんにもお会いしました。法安さんも中谷芙二子さんも来ていました。同じテーブルでしたので、御挨拶をして、言葉を交わしました。法安さんが1歳半のとき、治宇二郎さんがパリに行ったこと、治宇二郎さんの手紙ははじめ宇吉郎先生がもっていましたが、後に静子さんにわたり、それからさらに法安さんの手に移ったということでした
 パーティの途中で樋口先生のフランス行の話が披露されました。サン・ジェルマン・アン・レの下宿の現在の当主の父親がオーナーになったのは1933年から。通りの片側は偶数番地。もう一方の側は奇数番地とのことでした。樋口先生は絵がお上手で、水彩画を描くのですが、下宿「菩提樹」の全景をスケッチしてきていました。その絵を亀の井別荘に寄贈することになり、みなの拍手の中で健太郎さんに手渡されました。
 法安さんには由布院で生れた末の妹がいて、恭子さんというのですが、岡先生が文化勲章を受けたとき、恭子さんは法連佐保田町の家に岡先生を訪ねたことがあるそうです。そのとき岡先生は恭子さんに向かい、
「これからたいへんなお金を毎年もらえることになった。なんでも困ったことがあったら言ってくれ。」
というようなことを言いました。それを聞いていた奥さんのみちさんが、背後で苦笑いをしていたそうです。この話は恭子さんにうかがいました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(96) 手紙と電話によるフィールドワーク

 草田さんにお別れしてまた少し歳月が流れ、平成9年も2月に入りました。一年前のこの月からフィールドワークを開始したのですが、わずか一年の間に遍歴した土地は非常に多く、お目にかかった人も相当の数にのぼりました。早くフィールドワークを完結させて、評伝の本文の執筆に取り掛かりたいと願っていたのですが、実際に始めてみると一筋縄ではいかない場面に次々に遭遇し、前途の多難さを思わされました。こんなふうではいつ完了するとも予測がつきませんし、十分に満足がいくまでどこまでも進んでいく覚悟を固めるほかはありませんでした。
 2月19日付で岡先生の妹の泰子さんからお手紙が届きました。もっぱら岡先生のことが記されていたのですが、おおよそ下記のような文面でした。

 京都大学を出てからの家賃も生活費もみな父が支払いました。
(岡先生は京都大学を卒業してすぐに結婚したのですが、それからの生活の様子の一面です。)
 打出(うちで)は空気がよく、魚がとれました。絵を描くカバンと三脚と水彩絵の具を買ってもらい、六甲の姿や松原続きの海の姿をずいぶん写生して歩きました。写生して歩くと、美しさがよくわかりました。人の悲しみがわかる心、こちらの言いたいことを早く察する人になれと、(岡先生が泰子さんに)教えました。
(小学生のとき、岡家は兵庫県の打出の浜に転居した一時期がありました。)
 単語帳を作り、それで漢字の書き方を覚えました。英語も同じく単語帳で覚えたのですが、これは兄に教わりました。
(これは泰子さんが女学校を受験したときの回想です。)
 受賞のたびに、私の家にきました。
(これは戦後のことで、岡先生は上京する機会が増えたのですが、そのつど泰子さんの家に逗留しました。)

 島根県の佐々木隆将上人からも2月22日付のお手紙をいただきました。佐々木上人は光明会の大先達で、恒村医院で修行した一時期もあります。お手紙によると、光明修道院は「梅ヶ畑の修道院」と呼ばれ、京都市左京区梅ヶ畑字高鼻にありました。恒村夏山先生は内科医で、恒村先生が三万円の私費を投じて開院しました。恒村先生は一人娘が若く他界したのですが、それを救ったのが弁栄上人でした。親しく弁栄上人に指導を受け,猛勉強し、大宗教家になりました。佐々木上人は昭和6年4月に修道院に入り、8ヶ月間、念仏に打ち込みました。修道院には若い学生もたくさんいました。京大、同志社大、立命館大学、仏教大学などの学生たちでした。恒村先生は頭脳明晰、温情豊かな大宗教家でした。昭和35年1月131日、76歳で大往生しました。
佐々木上人は岡先生と一度だけ会ったことがありました。話を聴いてくれたそうですが、いかにも天才風だったということです。。
 2月23日には橋本の松本さんからお電話をいただきました。岡先生のエッセイに出てくる能富大尉と清宮大尉についてお尋ねしていたのですが、松本さんは独自に調査したようで、その結果を報告してくれたのでした。それによると、能富大尉は戦闘機乗り、清宮大尉は潜水艦で海兵71期。能富大尉は清宮大尉より10期ほど先輩になるということです。71期の首席だった野村穣さんが防衛庁に勤務して戦史の研究をしているので、お尋ねしたが、以上のことだけしかわからなかったということでした。岡先生のエッセイに出てくる「ブーゲンビル特急」という言葉は聞いたことがないとも伝えられ、結局、この方面のことはこの時点ではまだ何もわからないことになりました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(95) 人生の網の目について

 岡先生の粉河中学時代のことについては、詳しく知りたいとかねがね思っていた懸案事項がありました。それは内田與八先生という英語の先生のことで、岡先生はエッセイの中で何度も繰り返して内田先生を回想していました。校長先生にお尋ねすると、粉河中学を去ってからの内田先生の足跡が少々判明しました。内田先生はまず鳥取県倉吉中学に転じ、それから山梨県甲府中学に移り、さらに同じ山梨県内でもう一度、今度は身延中学に転じました。身延中学では校長でした。
 和歌山から鳥取を経て山梨県に移ったというのですから、当時の中学校の教員の人事は全国にわたっていたわけで、現在とは全然違います。ともあれこれで山梨までは判明し、うれしかったのですが、和歌山以前の経歴はわかりませんし、調査はようやく緒についたばかりというところでした。
 粉河高校訪問の後はかつらぎ町近辺の名所旧跡に散策のような恰好になりました。平野さんの運転する車に乗って、華岡青洲のお墓を見たり、粉河寺に出向いたりしました。粉河寺では平野さんには車で待っていていただいて、草田さんと二人で境内を散策したのですが、道すがら和歌と俳句の違いや、句集を出したときの苦心談など、いろいろなお話をうかがいました。粉河寺には「風猛山」という山号がついていて、これが粉中の同窓会や校友会誌にも採用されていることも教えていただきました。
 前後の関係が思い出せないのですが、粉河高校を訪問する前に、たぶん粉河駅前の大衆食堂でごちそうしていただきました。そのとき平野さんはどこにいたのか、どうしたわけか、ここのところが思い出せません。
 ひと通り見物がすんだ後、三人で「野半の里」に出かけて地ビールを飲みました。それから出発点の大谷駅に送っていただいてお別れしたのですが、8年余に及んだフィールドワークを振り返っても、草田さんにお会いしたことは格別印象が深く、何というか、「人生」というものを感じました。岡先生の生涯を知りたいと願い、こうしてゆかりの人々を訪ね歩くことになったのですが、先々で出会う人たちのひとりひとりに、その人だけの人生があります。あたりまえのことではありますが、岡先生の人生は孤立しているのではなく、無数の人々の人生の網の目が複雑に交錯する中に配置してはじめて、岡先生の人生も真に人生でありうるのであろうとしみじみと思いました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(94) 粉河高校で校長先生のお話に耳を傾ける

 草田さんは粉河高校の校長先生に向い、遠くから来たのだから、何でもみんな話してやってくださいと、ぼくのことを紹介してくれました。校長先生は旧制の粉河中学と新制の粉河高校の同窓会名簿を示し、岡先生のお名前が出ている時期のページを開きました。同窓会名簿というのは基本中の基本の資料で、ぼくがもっとも参照したかったものでした。岡先生が粉中に入学したのは大正3年で、この年度の前後の同窓生たちはたいてい亡くなっていたのですが、岡先生の少し後に東京の立川にお住まいの藤枝さんという人が御健在の様子でした。この予測は適中し、住所を記録して、後日、おたよりをさしあげたところ、お返事をいただいて、大正時代の粉中の様子について教えていただきました。
 大正11年3月の卒業生は第17期になりますが、その中に「北村赳夫」という名前がありました。この人は北村俊平さんの弟で、岡先生のいとこです。当時の中学は五年生でしたから、北村赳夫さんの入学年度は大正6年になり、岡先生が三年生のときの新入生ということになります。
 北村赳夫さんのお名前を目にしたのは、実ははじめてではありませんでした。岡先生の自伝的エッセイに『春の草』(日本経済新聞社)というのがあり、岡先生のエッセイ群の中でぼくが一番はじめに読んだのはこの本だったのですが、そこに中学時代の岡先生の写真が掲載されていました。その写真には岡先生を含めて三人の粉中生が写っていて、そのひとりが北村赳夫さんですた。たしか寮で同室だったと覚えています。なんだか懐かしいお名前に巡り会ったように思い、感慨がありました。
 粉河中学には「風猛」という校友会誌があることも、この訪問のときに教えていただいてはじめて知りました。バックナンバーの一冊を見せていただいたのですが、岡先生の在校時代のものは欠号になっているとのことで、この点は少々残念でした。それでもどこかに存在していることは間違いなく、それならいつか閲覧することのできる機会もありそうに思い、そうすれば粉中時代の岡先生の生活の模様が具体的にわかりそうで、胸がはずみました。このときは「風猛」という誌名を記憶しただけに終りましたが、後日、橋本市役所におつとめの北川さんのおかげで、相当の分量の実物を見ることができました。北川さんは独自に入手したようで、岡先生の在学中の「風猛」のコピーを送ってくれたのですが、そこには岡先生の作文などが掲載されていて、深く心を惹かれました。
 岡先生は粉中の入試に一度、失敗し、二度目に合格したのですが、これも岡先生本人がエッセイに書いています。失敗したときのことは、こんな間違いをしたのではうかるはずがないというふうなことを書いていて、合格したときのことは、今度はやすやすと合格したというふうに書いていました。それで合格したときの成績を知りたくて、お尋ねしたところ、このときは、わからない、ということだったのですが、後日、もう少し詳しいデータを教えていただきました。大正3年の入学試験は志願者総数369名。そのうち入学を許可された者は147名ということです。岡先生の個人の席次はわかりませんが、相当にむずかしい入試だったという印象を受けました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(93) 粉河中学散策

 粉河中学は昔も今も同じ名前ですが、中味は全然違います。戦前の粉中は県立中学でした。現在の粉河町の町立中学で、草田さんに案内されてでかけたときもそうだったのですが、4年前の平成17年になって紀の川市が成立して、市立中学になりました。正面の正門附近に数本の楠(くすのき)があり、草田さんの話では昔からの名残りとのことでした。正門も歴史が古く、大正14年6月に校友会が建てたということです。正門をくぐると、右手にかつての粉中の面影を宿す石碑が建てられていました。そこに刻まれている簡単な記事によると、
 明治34年4月 和歌山県立第三中学校設置開校
 明治34年6月 和歌山県粉河中学校と改称
 昭和23年4月 学制改革 閉校
 平成元年 記念碑建立
ということでした。校歌の第三番も刻まれていました。

 見よ紀之川の
   清流は
 混濁の世を
   あざけりて
 青葉若葉の
   涓滴も
 積る知識の
   真の淵

「涓滴」というのはむずかしい言葉ですが、水のしずくとか、したたりという意味のようです。
 岡先生は粉中の生徒のとき、当初は紀見峠から通学するのは困難でしたので、寄宿舎に入りました。その寄宿舎は今はありませんが、草田さんの後をついて校内を歩いていくと、立ち止まった草田さんがある場所を指差して、あのあたりに寄宿舎があった、と教えてくれました。
 平野さんの車に同乗して移動したのですが、粉中散策のときは平野さんはいっしょではありませんでした。車で待機していたのでしょう。
 粉中見学の後、今度は粉河高校に向いました。草田さんがあらかじめ訪問のおもむきを伝えていたようで、校長先生が待っていて、今度は平野さんもごいっしょして校長室でお話をうかがうという恰好になりました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(92) 草田さんの句集『涼梢日録』を見る

 岡先生に叱られて話の顛末がひと通りすむと、「郡役所移転事件」が話題になりました。明治初期のことで、和歌山県北部値域の近代史の一幕ですが、当時の住所表記でいうと妙寺村に伊都郡の郡役所が設置されました。「郡」というのは今では地理上の区分にすぎませんが、明治初期から大正期にかけて、行政上の区画として機能した一時期がありました。郡役所が置かれ、郡長が任命されたのですが、郡役所が設置された地区は大きな発展が予測されるためか、設置場所をめぐってしばしば大きな問題が起りました。
 岡先生の祖父の岡文一郎が伊都郡の郡長になったとき、文一郎さんは地元の紀見村の隣の橋本村に郡役所を移そうとして、これは実現したのですが、政治経済の中心地が移動することを意味するのですから、妙寺村の人々が猛烈に反対して、大挙して郡役所に押し掛けるという騒ぎになりました。当時の新聞に「伊都郡民暴動事件」と報じられた大事件だったのですが、デモ隊の中心人物のひとりに草田亦十郎という人がいて、この人は草田さんの縁戚です。
 橋本地区の人から見れば岡文一郎は地元の発展に大きく寄与し人物ですから、業績をたたえる旌徳碑が建てられて、岡先生のエッセイにも出てきますが、妙寺村の方面から見れば評価は正反対になる道理です。草田家にも伝承があるようで、岡郡長は抜き打ちに郡役所を橋本に引き上げたというので、大勢が郡役所に集って岡郡長を詰問したという話をうかがいました。
 御先祖の代にはそんな事件がありましたが、代が移ると交友もまた変化するようで、草田さんの俳句の先生は岡先生のいとこの北村俊平さんです。草田さんは俊平さんを尊敬し、慕っていて、いつか必ず紀見峠に俊平さんの句碑を建てなければならないと言っていました(これは数年の後に実現しました)。俊平さんは「風太郎」を名乗る俳人で、『麦門山房抄』という句集があります。草田さんには『涼梢日録』という句集があり、見せていただきました。粉中の生徒のころから作句を始めていたそうです。
 風太郎こと北村俊平さんの一句。

  蜘蛛は囲い
   人は孤独の旅に出ず

 句作の方面で大きな影響を受けた俳人として、草田さんは山口誓子の名を挙げました。山口誓子は本名を山口新比古(やまぐち・ちかひこ)といい、大正8年、岡先生と同時に三高に入学しました。
 ひとしきりお話をうかがった後、粉河中学と粉河高校を見に行くことになりました。戦後まもないころの学制改革で粉中の歴史も大きく変遷しました。かつての粉河中学と粉河高等女学校が合併して、新制度の粉河高等学校が成立したのですが、高等女学校の校舎が新制粉河高校の校舎にあてられました。それなら粉河中学の校舎はどうなったのかというと、新しい学制のもとで成立した粉河中学になりましたので、中味は全然違いますが、「粉河中学」という呼称はそのままです。まずはじめにその粉河中学に見学に行きました。

Extra

プロフィール

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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