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岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(78) 胡蘭成の著作と人生

 胡蘭成は昭和25年に日本に亡命したのですが、上海で船に乗り、横浜港に近づくと、小さな漁船が迎えにきたので乗り換えて上陸しましたが、そのとき下着を全部着替え、古い衣類は海中に投じました。海の神様に祈りを捧げるというほどの心情だったのだそうです。漁船が迎えに出たということは、上海のみならず日本国内にも胡蘭成の支援者がいて、内外打ち合わせのうえで日本に向かったことになりますが、どのような勢力が胡蘭成を支えていたのか、詳しいことは今もわかりません。戦前戦中の中国大陸の政情に関わりのあった政治家や、民間の論客たちではないかと想像されますが、調査の手立てをつかめないまま今日に至っています。作家の尾崎士郎なども有力な支援者でした。
 昭和56年の夏に急逝したのですが、小山さんたちが葬儀を執り行い、お墓も建てました。岡野さんという陶工や、森さんなど、数人が集って相談したということです。亡くなる一箇月ほど前に、胡蘭成は、ぼくの一番好きな書だと言って、「幽蘭」という字を書いて小山さんにプレゼントしました。そこでこの字を墓石に彫りました。胡蘭成のお墓は福生市の清岩院というお寺にあります。清岩院の先代の住職が胡蘭成の崇拝者で、胡蘭成もよく清岩院に遊びにでかけたのだそうです。
 こんなふうにして「かつ吉」で小山さんからおもしろい話をたくさんうかがいました。胡蘭成の人生と人物の姿が非常に明瞭になったことは、小山さんにお会いしたことの一番大きな成果でした。胡蘭成は何冊かの著作を遺しましたが、何よりも興味が深いのは胡蘭成の人生それ自体なのではないかという印象があります。岡先生は「数は量のかげ」という言葉をつぶやいて保田先生や胡蘭成に感銘を与えましたが、この流儀でいくなら、「著作は人生のかげ」と言えるのではないかと思います。
 小山さんが現れたころを境にして、胡蘭成は筑波山を離れ、福生の自宅で日々をすごすようになりました。
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岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(77) 岡先生の最後の書簡

 胡蘭成の最後の著作は『天と人との際』といい、和歌山で補陀さんに見せていただいたことがありますが、この本には胡蘭成に宛てて書かれた岡先生の手紙が紹介されています。岡先生が亡くなる直前の昭和52年の年末に書かれた手紙ですが、岡先生の晩年の思想を考えるうえで貴重な基礎文献であり、それが収録されているという一事のゆえに『天と人との際』は重い位置を占めています。
 この手紙の日付は12月23日ですが、投函されたわけではなく、岡先生の書生をしていた竹内さんという人が胡蘭成のもとに持参しました。これを見た胡蘭成は、ちょうど新著の準備中だったのですが、この書簡で語られている岡先生の考えに触れて、この考えをどう思う、と小山さんに尋ねたそうです。小山さんが、ついていけない、と答えると、胡蘭成もまた、ぼくもそうだ、と応じ、そのうえで、でも、それでも今度の本に収録するつもりだと言い添えました。
 小山さんが胡蘭成といっしょに岡先生を訪ねたとき通された部屋には岡先生の等身大の写真が飾られていて、その前に文机があり、その上に漫画の本が置かれていたそうです。この部屋はぼくがはじめて訪問したおりに通された松原家の二階の春雨村塾で、写真は柿沼和夫さんの作品です。岡先生は漫画の本を毎日1頁ずつめくっているのだというのですが、なんだかおもしろい話です。
 歴史小説の海音寺潮五郎は胡蘭成と仲がよかったそうで、小山さんはエピソードをいろいろ話してくれました。小山さんがはじめて保田先生をお訪ねしたときの話もありました。岐阜市内の護国神社の宮司は森磐根さんというのですが、森さんは國學院で小山さんの後輩だった人で、ある時期から胡蘭成のお弟子のようになりました。森さんの護国神社に小山さんと胡蘭成が滞在したおり、あと二人の人物もいっしょでしたが、これからみんなで保田先生のところに行こうではないかということになり、岐阜から京都まで本当にでかけたのだとか。小山さんにとり、これが保田先生との初対面でした。胡蘭成と保田先生は非常に親しかったようで、保田先生とは兄弟のように心が通じ合うと胡蘭成は話していたそうです。
 胡蘭成は書をよくする人で、小山さんの話では、北魏の書法を継承する現代で唯一の人物ということでした。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(76) 胡蘭成の著作『自然学』

 ここまでのところで、胡蘭成と小山さんが知り合ったのは昭和45年の暮であることがわかりました。胡蘭成は福生に自宅があり、奥さんとお子さんがいたのですが、胡蘭成自身は筑波山で生活し、梅田学筵の支援を受けて著作活動を続けていました。昭和43年には保田先生、岡先生、それに胡蘭成の三人が揃って龍神温泉に清遊に出かけましたが、そのときも胡蘭成には梅田さんが同行していました。昭和44年の状況も同様でしたし、昭和45年の秋11月には岡先生とみちさんが梅田学筵を訪問し、胡蘭成と梅田さんの歓迎を受けています。
 胡蘭成の著作ははじめ保田先生が文章を見て、校訂をしていたようですが、胡蘭成はこの仕事を小山さんに依頼しました。昭和47年に胡蘭成の著作『自然学』が刊行されました。出版元はこれまで通り梅田学筵ですが、原稿の校正を担当したのは小山さんでした。刊行の前年の昭和46年には胡蘭成の依頼を受けて岡先生が序文を執筆し、同年12月、胡蘭成は校正稿をもって奈良に岡先生を訪ねましたが、このときの同行したのは小山さんでした。何事かが大きく変化したのでしょう。やがて胡蘭成は筑波山を離れ、福生の自宅で暮らすようになりました。
 昭和46年の暮に胡蘭成とおいっしょに岡先生を訪ねたときのことですが、岡家には青年男女が何十人も集って四角いテーブルを囲んでいたそうです。隣の部屋で胡蘭成と二人で待機していると、まもなく岡先生がやってきて、胡蘭成と二人で話を始めました。それから小山さんに向かって、お仕事、何をやってるの、といきなり尋ねてきました。日本書紀の校合をしていますと答えると、岡先生は、校合?とつぶやいて、それから、そんな死んだ学問をして何になる、とずばっと言いました。小山さんはこれを聞いてしゅんとなってしまいましたが、岡先生は何事もないように胡蘭成と話を続けました。
 それからまもなくみちさんが大きなざるにふかしたじゃがいもをいれて運んできて、テーブルに置きました。岡先生ははって行ってじゃがいもをひとつ取り、手にもつところだけを残して皮をむき、小山さんに手渡して、「お食べ」と言いました。
 訪問を終えて帰る道すがら、胡蘭成が小山さんに、驚いたでしょう、でも岡先生はあれで気を遣っているんだよ、と話したということです。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(75) 胡蘭成を語る

 胡蘭成を語る小山さんの話が続きます。胡蘭成が亡くなったのは昭和56年の夏のことですが、お葬式は小山さんをはじめ、胡蘭成の日本のお弟子さんたちが取り仕切って行いました。何分にも若い人たちばかりでしたので、どのように進めたらよいのか、戸惑いもありましたので、京都の保田先生に相談しました。ちょうどそのころ保田先生は病気で入院していたのですが、葬儀の執り行い方を懇切に教えてくれたそうです。保田先生本人は葬儀には出席できませんでしたが、奥様の典子さんが代って上京し、参列しました。
 以下、とりとめのない話が続きますが、胡蘭成の知り合いに清水董三という人がいて、中国大使館の一等書記官だったそうです。上海に張愛玲というわりと有名な女流作家がいて、胡蘭成の恋人でした。胡蘭成は張愛玲のことを「私が一番影響を受けた人」と語っていたそうです。後、張愛玲はアメリカに亡命し、アメリカで亡くなりました。
 胡蘭成の小説に『今生今世』というのがあり、恋愛遍歴が書かれているそうですが、胡蘭成が中国大陸を放浪しているときに書いたそうですから、日本の敗戦の直後から日本に亡命するまでの数年の間のことと思われました。擬古文的な漢文でつづられているとのことで、台湾で出版されました。胡蘭成は台湾の文化学院大学の永世教授になったともうかがいましたが、これは日本に亡命した後の話です。
 胡蘭成は浙江省の農村の出身でした。汪兆銘の子飼いの弟子ではなく、汪兆銘と分れて新聞社を乗っ取ったというのですが、このあたりからだんだんと話が込み入ってきました。
 胡蘭成ははじめ燕京大学の聴講生になりましたが、途中で学校に行かなくなりました。もって生れたものが日本寄りというか、はじめから日本的な考え方をもって生れたというのですが、これは胡蘭成が小山さんにそんなふうに話したのでしょう。
 小山さんは國學院大学を出た人で、卒業後、國學院の附属の研究所に勤務して日本書紀の校合(きょうごう)の仕事をしていました。胡蘭成の自宅は福生にあり、羽村の近くですが、ある日、胡蘭成は突然、小山さんを訪ねてきたそうです。何でも小山さんが書いたものを読んで、ぜひ手伝ってほしいことがあるというのだそうです。その日は小山さんは留守で、小山さんのお母さんが応対したのですが、二三日後にまたやってきました。今度は小山さんも在宅で、話をしました。これは昭和45年の暮に近いころのことで、三島由紀夫の自決事件の直後です。胡蘭成は三島由紀夫の死を強く批判していたそうです。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(74) 「かつ吉」で小山さんの話を聞く

 東京の羽村市にお住まいの小山奈々子さんにお会いして胡蘭成の話をうかがうことは、フィールドワークの大きなテーマのひとつでした。平成8年12月、いちどおたよりをさしあげたところ、お返事をいただいたのですが、年末年始は何かと忙しいとのことで、日時の約束には至りませんでした。年末、電話をかけて相談したところ、親しく言葉を交わしたもののはっきりしたことは何も決まらず、そのまま年明けを待つ構えになりました。
 新年4日、東京に出て、都内からお電話して御都合をうかがうと、明日はどうでしょう、ということになり、今度はたちまち日時が設定されました。待ち合わせの場所としては、胡蘭成にゆかりがあるという水道橋のとんかつ屋が提案されました。なんでも日露戦役のとき天狗煙草で財をなしたという人がいて、戦後、養豚業に転じてはじめたのだそうで、「かつ吉」というお店です。5日の午後、水道橋の駅で小山さんと待ち合わせて「かつ吉」に向かったのですが、ただのとんかつ屋ではありませんでした。店内には、万里の長城の東端の山海関の扁額「天下第一関」の拓本が掲げられていました。
 知る人の間では非常に有名なお店のようで、調べればたちまち情報が集りそうですが、ひとまず小山さんの話をそのまま再現すると、現在の店主は吉田さんという人で、吉田さんの祖父は日本ではじめて紙巻たばこを売り出した人なのだそうです。吉田さんはなぜか信州松本に行き、松本中学を卒業。卒業後、近衛連隊に入隊したとき二二六事件にまきこまれ、ピストルの弾運びをしたのだとか。それで部隊は中国大陸に追放されるような恰好になり、終戦まで帰国できませんでした。帰国後、宝石屋の娘と結婚したというのですが、銀座でリヤカーを引いてりんごの行商などをしたということで、詳しい事情はわかりません。お子さんが五人いて、女の子が二人、男の子が三人。そのうち長男が胡蘭成に心服しているということでした。そうしますと、吉田さんは中国時代にどこかで胡蘭成と知り合い、胡蘭成の亡命後、交友が復活したということだろうと思います。
 胡蘭成が小山さんに語ったところでは、胡蘭成は昭和12、3年ころ、日本に来たことがあるとのことでした。当時の日本は何もおもしろくなかったが、能だけは印象が心に残り、「日が長いなあ」と感じたそうです。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(73) 三度目の紀見峠行

 樋口先生にお会いして、岡先生の洋行中のサン・ジェルマン・アン・レの下宿先が判明するかもしれないということになったのは大きな収穫で、楽しみができましたが、面会そのものは短時間で終りましたので、なんだか手持ちぶさたのような感じになりました。それで、また紀見峠に行ってみたいと思い始め、名古屋から大阪に向かいました。翌12月28日、紀見峠に行き、岡隆彦さんにお会いしました。紀見峠行は、2月、6月に続いて、これで三度目です。
 前に聞いたことのある話でも、何度もうかがうとだんだん輪郭がはっきりしてきます。紀見峠の道路の拡幅工事のため、岡先生が紀見峠の第二の岡家、すなわち「松の下の家」を引き払って慶賀野に移ったのは昭和14年の夏のことですが、隆彦さんの話によりますと、拡幅工事が実際に始まったのはこの年の暮からで、昭和17年になって完成したということです。道路になってしまった岡家の側の松の木はしばらくは健在だったものの、先年、枯れてしまいました。それで、昨年、すなわち平成7年の11月に、同じ場所に小さな松の木を植えたのだとか。そう言われてあらためて見ると、確かに松の木がありました。教えてもらうまでは気づきませんでした。
 紀見峠から麓に降りる山道はいくつかあるのですが、馬転かし坂のほかに、巡礼坂というのを教えていただきました。
 第二の岡家の倉は道の向い側に引っ張って保管したことは承知していましたが、今度は引っぱり方の話がありました。壁の下半分を露出させ、固定して引っ張ったのだそうです。それと、岡家は取り壊されたのではなく、倉のほかにも、風呂と隠居部屋を道の向い側に引っ張ったのだそうです。これははじめて知りました。現在の倉の隣の家は津田さんという人が住んでいるのですが、その家と風呂はかつての岡家の隠居部屋ということでした。第二の岡家の見取り図もおおまかに描いていただきました。
 隆彦さんは昭和14年に天王寺師範学校に入学し、昭和17年の春、卒業して、小学校の教員になりましたが、同年9月、召集を受けて休職し、終戦まで軍隊にいました。戦後はまた教壇にもどり、40年にわたって小学校、中学校の教員生活を続けました。
 話が前後しますが、三高会館に電話をかけて海堀さんと話をしたのは12月5日のことです。海堀さんは昭和23年の正月にはじめて岡先生を訪問したのですが、そのころ岡先生は慶賀野の第一の家に住んでいました。奥さんのみちさんは実家に行ったとのことで、岡先生はひとりで海堀さんを迎えました。海堀さんの見るところ、岡先生は自分の立場にとらわれず、自分の利害を超越した人でした。高等学校が廃止される趨勢にあることについて、岡先生は、おれたちにも責任はある、と言ったそうです。
 海堀さんは秋月先生の紹介を得て会いに行きました。なんでも秋月先生は海堀さんを岡先生に会わせてお灸をすえてやろうと思ったというのですが、これは意味がよくわかりませんでした。秋月先生とは三高を受験したときからのおつきあいになるのだそうです。海堀さんの実家は南海高野線の紀見峠駅から四つ目です。
 秋月先生は岡先生よりも娑婆っ気があり、戦時中は行政の中枢部にいたそうです。戦後、三高の生徒の間で、戦争中に悪いことをしていたやつらは追い出せ、という動きがあり、一時は秋月先生も糾弾の対象になろうとしたほどでした。それで茫然自失の状態になったのですが、そのとき岡先生が、早く数学にもどれ、と説教しました。秋月先生が、いや、もうだめだ、と言うと、岡先生が、ばかもん、と言って、横つらを張りました。わしはそれで目を覚ました、立ち直った、と秋月先生が海堀さんに語ったというのでした。岡先生が秋月先生を張り飛ばしたとははじめて聞くエピソードで、興味を覚えました。
 海堀さんは、旧制高校廃止の動きに対する反対運動のための署名の話をしましたので、岡先生は、海堀さんはそのためにきたと思ったようですが、これは岡先生の勘違いで、海堀さんにはまた別の事情があったのだそうです。
 12月には谷口治達先生にも電話をかけました。谷口先生は福岡市の造型短期大学の学長ですが、その前は西日本新聞の文化部長でした。昭和41年の秋、西日本新聞の企画で岡先生と九州八女の画家、坂本繁二郎との対談が企画されたのですが、その場に居合わせた谷口先生にその当時のお話をうかがいたいと思いました。この対談は九州柳川の料亭「お花」で実現し、その記録は新年の新聞紙上に連載されたのですが、そのおり、坂本繁二郎の「親子羊」の絵が挿絵に使われました。電話でそんな話を教えていただいてから少しして、12月14日の消印のはがきが届き、「親子羊」の絵は岡家に贈呈されたと教えていただきました。

 平成8年のフィールドワークはここまでで終りましたが、年初の2月からはじめて熱心に取り組んだものの、話を聞くとかえってフィールドワークの領域が拡大するというありさまで、なんだか拾集のつきそうにない状勢になってきました。手掛かりがつかめても聞き取りや文献蒐集が不十分な領域もありますし、全然手のつかない領域もたくさん残されています。こんなふうではいつになったら評伝を書き始めることができるのか、まったく見通しがたちませんでした。構想が確立しなければ評伝は書けませんが、なにしろこうもあろうかと思い描いていた構想が、フィールドワークのたびにいちいち崩れ去ってしまうというありさまでしたので、この時期にはなんだか茫漠としたイメージしか描けませんでした。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(72) 名古屋市科学館訪問

 12月27日の午後、名古屋の科学館に樋口先生をお訪ねしました。約束の通りきっかり4時40分に着いたのですが、先生は忙しそうな様子でした。夜は夜で会合の約束があるとのことで、時間に余裕がなかったのですが、5時をすぎてから近くの喫茶店に移動して少しだけ話をしました。樋口先生は岡先生のことを宇吉郎先生から聞いていたらしく、いろいろなうわさ話をご存知でした。樋口先生の見るところ、人はだれもアダルト(大人)な部分とチャイルド(子ども)の部分をもっていて、アダルトとチャイルドが接触するとまずい。岡先生はアダルトの部分が少ないことを自覚していたが、どうにもならない。宇吉郎先生はどちらの部分も大きかった、ということでした。アダルトとチャイルドが接触するとまずいというのはどういうことなのか、説明があったのですが、思い出せません。樋口先生は司馬遼太郎とおつきあいがあったようで、その方面の話もありました。
 時間が少なくてまとまった話ができなかったのですが、岡先生がパリにいたときの滞在先の住所はわからないだろうか、というお尋ねがありました。年が明けたら出張でパリに出かける予定があるので、時間があれば訪ねてみたいからというのでした。この時点ではまだそこまで調査が及んでいなかったため、即答できなかったのですが、法安さんにお尋ねすればわかるかもしれないとひとまず応じました。この予測は適中し、後日、法安さんにサン・ジェルマン・アン・レの下宿先の住所表記を教えてもらい、それを樋口先生に伝えました。サン・ジェルマン・アン・レはパリの郊外の町ですが、岡先生とみちさんと治宇二郎さんは一時期ここに滞在していたことがありますし、法安さんは治宇二郎さんの手紙をたくさん収集していましたから、サン・ジェルマン・アン・レで書いた手紙もきっとあると考えたのでした。
 年が明けて3月に入ってまもないころ、樋口先生から突然電話をいただきました。電話に出ると、わかりました、と唐突な声が聞えました。パリで用事がすんでゆとりができたので、サン・ジェルマン・アン・レに出向き、住所を頼りに散策したところ、下宿先の建物が見つかったというのです。ついては3月9日の由布院の亀の井別荘でパーティーがあるから、参加しませんかとお誘いを受けました。この話には驚きもし、うれしくもあり、即座に、必ず行きます、と返事をしました。これで二回目の由布院行が急に決まりました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(71) 手紙と電話によるフィールドワーク

 岡隆彦さんからの手紙を受けて、もう少しお話をうかがいたいと思い、手紙を受け取った当日の11月19日に電話をかけました。紀見峠の岡家の所在地や慶賀野への典拠の時期などについて、もうひとつ茫漠として理解の行き届かないところがありましたので、お尋ねしたかったのです。すでにうかがったことのある話と重複するものもあり、これはそのひとつなのですが、紀見峠の岡家の跡地は二ケ所ありますので、岡家の所在地を語るときはどちらを念頭に置いているのか、はっきり区別しないと混乱してしまいます。もともと紀見峠の高野街道の真ん中あたりにあったのが「元家」で、墓地が開かれた斜面の下の位置にありましたから、「墓地下の家」です。この家が長雨のときの崖崩れに襲われましたので、おじいさんの代に(と隆彦さんは言いました)引っ越しました。その新しい岡家の側には大きな松の木がありましたから、「松下の家」と呼ぶとよいと思います。
 隆彦さんの父の憲三さんは分家して、紀見峠の「松下の家」の近くに新居を建てました。健三さんは岡先生の父、寛治さんの長兄の岡寛剛(おか・ひろたけ)のそのまた長男でしたから、本来なら岡家を継いでもよかったのですが、実際には岡先生が家督を継ぐ形になりました。岡先生はこれを気に病んだようで、まちがったことをした、岡家の資産を全部わたすと憲三さんに言ったそうです。憲三さんはこれを受けて、岡先生の生活が困難に陥ったとき、何かとお世話をしたということでした。
 松下の岡家には岡先生の両親のほかに、祖母のつるのさんが健在でした。父の寛治さんは昭和14年4月1日に急逝したのですが、こんとき隆彦さんは中学を卒業して天王寺師範学校に入学することになっていたのですが、その入学の前にお葬式がありました。
 紀見峠から慶賀野に移るときは荷車で荷物を運びました。倉だけ残して、あとは近くの人に売却したということなのですが、倉はともかくとして、近所の人に売ったというのは何を売ったのか、このときの電話ではもうひとつはっきりつかめませんでした。
 12月に入り、手紙を二通、書きました。一通は和歌山のかつらぎ町大谷の草田源兵衛さん、もう一通は東京の郊外の羽村市にお住まいの小山奈々子さんで、どちらも御都合のよいときにお会いしたいという主旨の手紙です。草田さんは粉河中学の出身で、岡先生の後輩になる人ですが、同窓会の会合に岡先生を呼んで講演していただいたおり、なぜか岡先生に叱られたという体験を持っています。そういう人がいると、橋本市役所でお目にかかった北川さんに教えてもらったのですが、ずっと興味があり、一度お会いしたいと念願していました。小山さんは胡蘭成のお弟子のような感じの人で、胡蘭成といっしょに奈良に岡先生を訪ねたこともあります。連絡先はこの10月にさおりさんに教えていただきました。折り返しお二人から返信があり、面会の申し出を快く受けていただきました。
 12月には電話も二ケ所にかけました。岡先生の高校大学時代のことを知りたいと思い、京都の三高会館に電話してみたのですが、電話に出た人がいきなり「海堀です」と名乗りましたので、まったく驚きました。思わず、「海堀さんといいますと、あの海堀さんですか」とお尋ねしたのですが、そうすると即座に「はい、そうです」というお答えがありました。これにはまたびっくりでした。海堀さんというお名前は岡先生のエッセイに一ケ所だけ登場します。戦後まもないころ、三高の後輩の海堀さんという学生が紀見村の岡先生を訪ねてきて、高等学校が廃止されるのを阻止するため、反対の署名を集めにきたという話です。ただそれだけの話ですが、なぜか心に残っていたのですが、御本人の海堀さんが健在で、しかもいきなり電話に出ましたので、驚いたのでした。しばらく話をして、一度はぜひ三高会館をお訪ねしますと言って電話を切りました。
 もう一ケ所、名古屋市の科学館に電話をかけて、館長の樋口先生と話をしました。樋口先生は中谷宇吉郎先生の最後のお弟子です。かくかくしかじかで一度お目にかかりたい旨をお伝えしたところ、即座に諒解していただいて、都合の悪い日はいつといつ、科学館に出向く日はいつといつ、というふうに話が細かくなり、12月27日の午後4時40分という細かい日時が設定されました。これで年末のフィールドワークの方針が定まりました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(70) 往復書簡

 松村さんが会ったころの岡先生はしきりに世相を憂え、悲憤慷慨していたということですが、その様子は刊行された一群のエッセイ集にもよく現れています。松村さんは岡先生の日本主義に違和感を感じたと言っていましたが、これは松村さんだけのことではなく、岡先生のエッセイを喜んで愛読したおおかたの読者に通じる心情と思われます。『春宵十話』に見られる岡先生は、いかにも超俗の数学者という感じがしますし、奇抜な言動もまた数学者らしいということで、受け入れられてきたのではないかと思います。
 岡先生にしてみますと、超俗の数学者から日本主義の憂国の数学者へと途中から変身したわけではなく、岡先生の学問を支えていたのはその真価をまだだれにも知られないころから、一貫して日本主義でした。戦後の日本には岡先生の日本主義を許容する余地は本当はなかったのですが、数学者だからというので、存在しないはずの余地が生じたと言えるのではないかと思います。その流れの中で岡先生の発言が続き、書くものも日本主義や憂国の心情ばかりになってくると、世間の目は次第に冷たくなっていきました。岡先生の本の売れ行きは次第に悪くなりはじめましたし、『流露』の出版が講談社に拒否されたのもそのためでした。初期のエッセイはよかったが、あとはちょっとね、とか、だんだんついていけなくなった、という主旨の感想は、ぼくもしばしば耳にしました。そのような読者は岡先生の著書をはじめから誤読していたのだとぼくは思います。
 11月はフィールドワークには出かけませんでしたが、これまでに出会った方たちに手紙を書きました。御礼を申し上げるとともに、疑問点をお尋ねするという主旨の手紙でした。
 まもなく11月10日付の法安さんのおたよりが届き、中谷兄弟をよく知る人として、愛知県在住の樋口敬二先生と大分県在住の賀川光夫先生のお名前と連絡先を教えていただきました。樋口先生は宇吉郎先生の最後にお弟子で、名古屋大学の名誉教授。退官後は名古屋市の市立科学館の館長とのこと。賀川先生は別府大学の考古学者で、治宇二郎さんの遺稿をまとめて本にするときなど、お世話になったとのことでした。
 数日後、今度は11月17日の消印の岡隆彦さんの手紙が届きました。岡家の歴史がつづられていました。岡先生の祖父は岡文一郎というのですが、男の子ばかり四人の子どもがいて、次男の寛範は橋本の紀ノ川の向こうの清水の谷家に養子にいったとのこと。岡さんの父の寛治さんは三男ですが、昭和14年4月1日に亡くなったこと。それから、岡家の本宅は昭和14年の暮にとりつぶすことになりました。そこで岡先生の父の憲三さんが岡家の一部と風呂と倉を道路の向側に引いて住まいを用意したのですが、岡先生は不便な紀見峠に住むのを嫌って、峠の麓の慶賀野に移りました。憲三さんは和歌山中学を卒業したこと。寛治さんは、百姓をしながら、柱本小学校の学務委員を長く勤めたこと。
 隆彦さんの手紙にはおおよそこのようなことが書かれていました。前にうかがってすでに知っていることもありましたが、はじめて聞く話もありました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(69) 松村さんの回想(続)

 岡先生の話は論理が飛躍してわからなくなりますので、そんなときは質問して説明していただいたのですが、その説明自体もまたよくわからないことがありました。ですが、岡先生の思考の流れを妨げてはならないというので、質問の仕方を工夫して、「・・・ということなのでしょうか」というふうに尋ねるようにしました。
。他の場所で同じ話を別の形で話すこともあり、あちこちの飛び地をつなぐと話が通じたりもしますので、話の順序を入れ換えたりもしました。同じ話を繰り返す習癖があったのですが、岡先生にしてみれば、大事な話であればあるほど、何度でも繰り返したかったのではないかと思いますが、岡先生自身、同じ人が言うんだから同じことを言うのはあたりまえだというほどの考えだったようです。
 口述筆記して作成した原稿を持参して校正をお願いすると、読むのはめんどうだから読み上げてくれと依頼されました。そこで目の前で読むと、それでけっこうですと、あっさりと許可が出ました。松村さんがはじめて会いに出向こうとしたころにはすでに、この先生はちょっと変っているといううわさがあったそうです。
 「春宵十話」が好評でしたので、岡先生のもとに毎日新聞社から続篇を書いてほしいという依頼がありました。松村さんがこれを伝えたのですが、岡先生は、自分で書かなければ真意が伝わらないというので、今度は自分で書くと言って引き受けました。この岡先生の意向を松村さんが毎日の出版局に伝え、やがて実現の運びとなり、毎日新聞社の週刊誌「サンデー毎日」に昭和39年4月から「春風夏雨」の連載が始まりました。これを基礎にして、翌昭和40年に単行本の『春風夏雨』が刊行されたのですが、その際、松村さんが岡先生にインタビューしてできた記事がひとつ、収録されました。それは、「六十年後の日本」というエッセイで、「サンデー毎日」の昭和39年1月12日号に「新春随想」として掲載されました。
 松村さんはずいぶんいろいろな話を聞き出そうとしたようですが、岡先生としてもさんざん話したと思ったようで、もう話すことはないと言ったこともあったそうです。
 岡家ではビールなどをごちそうになることもありました。奥さんのみちさんは気さくでやさしい方で、松村さんが訪ねたときも、いつもくつろげる雰囲気を出してくれました。岡先生のために尽くした人という印象を受けたということでした。
 こんなふうにして岡先生がマスコミに登場したころは、岡先生の言う「日本的情緒」という言葉にフレッシュな感じがありました。このようなことを口にする人は当時はいませんでしたし、しかもこれを発言した人が数学者だったというところに、新鮮な感じがおのずとかもされたのでしょう。
 岡先生が入院した病院の話も出ました。松村さんは岡先生の評伝を書こうとした時期があり、わざわざ東京に出て東大の内村先生に面会したこともありましたが、入院先として松村さんが挙げたのは式場病院でした。中谷芙二子さんに聞いた話が思い出されましたが、松村さんはこれをみちさんにうかがったのだそうです。
 宇吉郎先生が亡くなったとき、岡先生の「中谷宇吉郎さんをしのぶ」という記事が毎日新聞に出ましたが、これは松村さんが談話を取りました。岡先生が亡くなったとき、毎日の夕刊に出た訃報は学芸部の記者が書きましたが、翌日の朝刊に、松村さんが書名入りの記事を書きました。

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プロフィール

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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