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岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(52) 春雨村塾にて

 初対面でいきなり「お待ちしていました」と言われたのにはびっくりしましたが、よくよく聞いてみると、さおりさんはぼくの名前を知っていて、いつか訪ねてくるものと思って待っていたというのでした。どうして知ったのかといえば、それまでにも日本評論社の数学誌「数学セミナー」や、同人誌「カンナ」などに岡先生のことを書いていたからで、一応全国の書店に並ぶ「数学セミナー」はともあれ、「カンナ」などは鹿児島のごく小さな同人誌にすぎませんのに、さおりさんの目に入っていたとうのはまったく不思議なことでした。周辺に「カンナ」の読者がいたのでしょう。
 請じ入れられて二階に案内されました。二部屋続きのまん中の障子が取り払われていますので、広々とした空間が広がっています。隅に小さな机が置かれていて、そこに岡先生の写真が配置されていました。机は岡先生が使っていたもので、写真は埼玉県在住の写真家、柿沼和夫さんの作品で、着物姿でしゃがんでいる岡先生の姿が写されています。この空間が「春雨村塾(しゅんうそんじゅく)」なのでした。心は松下村塾で、大好きな春雨と組み合わせて岡先生が命名しました。塾生は今もいて、定期的に集って岡先生の話をしてひとときをすごしているということで、特に3月末から4月はじめあたりには、適当な一日を選んで、岡先生を偲ぶ「春雨忌」という特別な集まりがもたれます。
 生前の春雨村塾は岡先生の話を聞きたいと願う人たちの集まりだったようですが、その前は「葦牙会(あしかび)」という会がありました。胡蘭成が提案した天下英雄会を受けて、岡先生が命名したというのですが、ほかにも市民大学講座とか、光明会の念仏道場とか、岡先生を囲む会がいろいろあって、当初はなかなか全容をつかむことができませんでした。
 春雨村塾には葦牙会の趣意書が掲げられていました。以下の通りですが、改行も原文のままです。

  日本民族はいよいよ亡びるか興
  るかの瀬戸際に立つことになった。
  日本の現状を病にたとえる
  と横隔膜が生気を失ったので
  ある。病膏肓に入るとはこのこ
  とである。
  私達は民族精神を下
  から盛り上げて、民族を死から救ひ、生氣溌溂たらしめ
  ねばならぬ。葦牙會を結成す
  る所以であって、この名は古事記
  からとったのである。
         岡潔識

 テーブルをはさんでさおりさんと向かい合い、簡単なあいさつをすませるとすぐ、『春雨の曲』をどう思いますか、やっぱり父は頭がおかしいと思いますか、と尋ねられました。「お待ちしていました」に劣らない意表をつくお尋ねでした。
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岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(51) 春雨村塾訪問まで

 奈良市寺山霊苑の岡先生の第二のお墓にお参りして、さてそれからもと来た道を戻り、新薬師寺の近くまで歩きました。田んぼの間を通る細い田舎道ですが、新薬師寺の土塀を前面に見て、向かって右手に建っているのが岡煕哉さんのお宅です。岡先生の評伝を書くためのフィールドワークを開始した以上、もっとも重要な場所が岡先生の三人のお子さんが住むところであるのは明らかで、どうしてもお訪ねしなければなりません。ですが、「知」の当然の要請を「情」が拒絶するのもまた人の世の習いです。
 このあたりに足を運んだのは実ははじめてではなく、二度目です。岡先生が亡くなられたのは昭和53年3月1日。それから間もないころ、昭和56年(1981年)4月5日のことですが、はじめて紀見峠にでかけました。今度のフィールドワークを決意してまずはじめに紀見峠に向かったのですが、それもまた二度目のことでした。初回の紀見峠行は二度目と同じく天見から歩いたのですが、そのときはまだ「生誕の地」の石碑は建てられていませんでした。やみくもに峠を降りると、どこをどう歩いたのか記憶があやふやなのですが、柱本小学校にぶつかりました。紀見ヶ丘に移転する前の校舎ですが、小雨の中に桜花がきれいに咲いていて、ぼくの郷里の山村の小学校にそっくりでした。
 それから紀見村をいたずらに歩いたのですが、御幸辻の駅に出ましたので、そのまま大阪にもどりました。ただそれだけのことだったのですが、なんとはなしに物足りない思いもあり、なお一歩を踏み出して、奈良に出かけることを思い立ちました。
 岡先生のお子さんは三人いるらしいとは承知していたものの、詳しい状況は不明だったのですが、長女のすがねさんは奈良女子大で数学を学び、今は鯨岡さんになっているということは知っていました。そこですがねさんに電話をかけて話をして、お訪ねすることになりました。この訪問はともあれ実現し、話もはずんだのですが、それから一箇月後の5月の連休のおりに不愉快な出来事が起りました。ちょうど岡先生の遺稿が見つかりはじめたころでしたので、ぜひ閲覧したいと申し出たところ、快く承諾していただきました。それで5月の連休中に再度お訪ねし、そのときあらためて拝見し、コピーを作らせていただくという約束ができました。ところが連休に入って訪問すると、見せられないと言われました。事情は判明しませんが、一箇月の間に何事か、心境の変化を誘う出来事があったのでしょう。まったく嫌な思い出になりました。
 そんなわけで、平成8年の10月に新薬師寺の近辺にたどりついたのは、厳密に数えると三度目のことになります。気持ちは重かったのですが、やはりお訪ねすることにしました。ただしすがねさんのところはやめて、岡煕哉さんのお宅も避けて、松原家に次女のさおりさんを訪ねることにしました。
 さおりさんは御在宅でした。庭を通って玄関で案内を乞い、名前を告げると、さおりさんは「お待ちしていました」と応じました。実に不思議な言葉でした。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(50) 岡先生の第二の墓地

 「五人」の合評会のテーマは同人の作品のひとつひとつについて語り合うことだったのですが、時間にゆとりがありましたので、ほかにもいろいろな話題が出て盛り上がりました。とりわけおもしろかったのは台北高校等学校のあれこれの話で、池間さんが熱く語り続けました。旧制の高等学校は理科と文科に分れ、それぞれがさらに選択する第一外国語に応じて甲類、乙類に分れます。甲類は英語、乙類はドイツ語が第一外国語です。高等学校よっては丙類が設置されるところもありました。丙類はフランス語を第一外国語とするクラスで、岡田弘先生が在職していた静岡高等学校には文科丙類がありました。三高にも文科丙類がありましたが、理科の丙類が設置された高等学校は少なかった模様です。
 退学というのはめったにないそうですが、二回続けて落第すると放校になりました。各教科の試験は60点以上なら合格で、50点は-1、40点は-2、30点は-3と数え、合計が-5になったら落第です。在学中は兵役は猶予されましたが、放校になった状態で20歳になると徴兵検査を受けることになります。このあたりの緊張感の有無は、現在と戦前の学校生活を決定的に分けるところです。
 岡先生が在学した京都の三高のことをよく知りたいと思っていましたので、卒業生の人たちの語る台北高等学校の話は実におもしろくうかがいました。
 奥井先生は中勘助先生のことにもう少し触れ、二冊の詩集『飛鳥(ひちょう)』『藁科(わらしな)』の中にすべてがあるという話をしてくれました。
 合評会の後、関西方面に向かい、10月9日、奈良に出かけました。近鉄奈良駅で降り、タクシーで新薬師寺まで。ここまで来れば岡先生のお宅のすぐ近くですが、当面の目標は岡先生のお墓参りでした。岡家の先祖代々の墓地は紀見峠にありますが、それとは別に白毫寺(びゃくごうじ)にもお墓があると、だいぶ前のことになりますが、岡先生のお子さんの鯨岡すがねさんにうかがったことがありました。岡先生のお墓はどこにあるのでしょうとお尋ねしたとき、すがねさんは、遺骨を三つに分けて別々のところにおさめたという話をしてくれました。岡先生のお墓は三つあり、ひとつは紀見峠の墓地、もうひとつは五色椿で有名な白毫寺、それから喉仏のようなたいせつな部分は高野山の恵光院におさめたというのでした。
 岡先生のお子さんは長男の岡煕哉さん、長女の鯨岡すがねさん、それに次女の松原さおりさんの三人ですが、岡家と松原家は隣同士に並んでいますし、鯨岡家は道をはさんで松原家の向かいにあります。新薬師寺の近辺にみないっしょに暮らしているのですが、白毫寺のお墓はお墓参りができるようにというので近くに作ったとうかがいました。恵光院は古くから紀見峠の岡家と縁の深いお寺です。
 そんなわけで新薬師寺から白毫寺まで歩いたのですが、白毫寺にはお墓が見当たりませんので、大いに困惑しました。お寺の人に尋ねてみると、そのお墓の所在地はここではない、すぐ裏手に奈良市が経営している奈良市寺山霊苑があるからそこではないかと教えていただきました。それでまた少し歩き、ようやく岡先生の第二の墓地にたどりつきました。
 霊園にはたくさんのお墓が立ち並んでいました。岡家の墓地に立つ墓石には「岡家先祖代々霊位」と刻まれ、側の「霊標」には岡先生とみちさんの戒名が読み取れました。墓石の右側面に刻まれているのは岡先生の句で、この点は紀見峠のお墓と同じです。

   春なれや
     石の上にも
       春の風
       石風

書は奈良市の市長の鍵田忠三郎。「石風」は岡先生の自作の俳号です。
 後日、高野山の恵光院に電話してうかがったところでは、岡家からあずかった喉仏などは何年か供養した後、奥の院におさめたということでした。高野山に岡先生のお墓があるわけではありません。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(49) 文芸同人誌「五人」の合評会に出席する

 10月5日の午後、補陀さんにお別れして和歌山市駅に向かい、南海本線で大阪に向かいました。難波から新大阪に出て新幹線に乗り、夕刻、東京着。お茶の水の山の上ホテルに出向き、同人誌「五人」の合評会に出席しました。「五人」は台北高等学校の五人の卒業生が創刊した文芸誌です。戦中戦後に台北高等学校を卒業した仲間たちは、各地の帝国大学に進学しましたが、戦地に出た人もいました。戦後、東京帝大に進んだ仲間が復員し、文芸同人誌に結集しました。初期の同人が五人。その後、各地の友人たちがだんだん参加しました。東大の本郷キャンパスでサンデースクールというのを始めて、受験生に数学や英語を教えるというアルバイトを始めたということで、その当時の高校生の中にも同人に加わる人がいて、合評会に出席していました。
 五人の初期同人がみな健在というわけではなく、ぼくがお会いしたのは奥井先生と池間さんのお二人だけでした。奥井先生は東洋大学の英文学者ですが、同時に駿台予備校の名物教師でもあり、長らく「英語の奥井」と呼ばれていました。このあたりにはサンデースクール以来の「学生に英語を語る心」が生きていたのでしょう。
 戦後も20年、30年と歳月が流れ、同人の仲間の高齢化が進みましたので、若返りをはかるという考えが現れて、何年か前に数学の杉浦光夫先生が参加しました。なんでも「五人」の仲間が本郷の居酒屋で気焔をあげているとき、たまたま数学の小野山卓爾先生と知り合い、そのまた友人の杉浦先生ともども同人に加わることになったという話でした。ぼくは杉浦先生に誘われて参加したのですが、直後に刊行された「五人」に一回目の原稿を寄せました。それから最初の合評会の段取りがつき、同人の方々にお目にかかるのはこの日がはじめてでした。
 同人誌「五人」は年に一度とか二年に一度というペースで刊行されていて、ぼくが参加したときにはようやく第30号を越えたばかりでした。ぼくは「玉城先生の肖像(一)」という作品を書いたのですが、その後、第三回目まで書いたところで奥井先生が亡くなり、「五人」も解散することになりました。
 合評会で語り合われたことについてはひとまず措き、一番驚いたのは、奥井先生は中勘助先生の年来の愛読者だったという話でした。戦後のあるとき、中野新井町の中先生のお宅を訪ねたことがあったというのですが、それならぼくの大先輩でもあります。東洋大学の英文学者で登山家でもある田部重治(たべ・じゅうじ)先生の紹介を受けたということでした。田部先生は東京帝大の英文科で中先生と同期だった方で、ぼくもお名前はよく承知していました。
 この日は山の上ホテルに泊まりました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(48) 「かぎろひ忌」へのお誘いを受ける

 補陀さんにうかがった話をもう少し回想しておきたいと思います。龍神温泉では胡蘭成が「天下英雄会」というものを結成しようと提案し、これを受けてみな会員になりました。胡蘭成はみずから「天下英雄会」という字を書きました。保田先生と胡蘭成の交友は非常に親密で、胡蘭成が晩年、『天と人との際』という本を出したとき、保田先生は、あれは本当によい本だ、と賞讃したそうです。補陀さんに見せていただきましたが、この本には岡先生が胡蘭成に宛てた最後の手紙が収録されているのでびっくりしました。もうひとつ意外な感じがしたのは、出版元が梅田学筵ではないことでした。巻末に出版の経緯が摘記されていましたが、協力者の中に小山奈々子さんのお名前がありました。
 本を二冊、いただきました。ひとつはロマノ・ヴルピッタ先生の著作『不敗の条件 保田與重郎と世界の思潮』(中央公論社)で、前年はじめに出版されたばかりでした。ロマノ先生はイタリアの外交官の出身ですが、日本に留学して保田先生に深く親しみました。平成8年当時は京都産業大学の教授で、現在も同じです。もうひとつは和歌山出身の高橋克己博士の伝記『高橋克己伝』です。高橋博士はビタミンAの発見者として知られる農学者ですが、若くして亡くなりました。私家版で、発行元は「高橋克己顕彰会」となっていますが、補陀さんはこの顕彰会のメンバーで、保田先生も出版に協力しました。奥様は高橋英子さんという人ですが、龍神温泉の旅の同行者のひとりです。
 「風日」歌会のことも教えていただきました。毎月第三日曜日に行われますが、10月は保田先生が亡くなった月ですので、特に「かぎろひ忌」と呼ばれています。それで、今月の「かぎろひ忌」に出席しませんかと誘われました。京都の四条大宮から京福電車で「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」駅まで行き、ここで乗り換えて「鳴滝」駅に向かいます。下車して右手に登り、文徳天皇陵に隣り合う山荘が身余堂こと保田先生のお宅です。「帷子ノ辻」駅はJRの太秦駅から歩いても近いです。かぎろひ忌には陶芸の河井寛次郎のお子さんの河井紅葩(かわい・こうは)さんも出席するとうかがいました。
 新年一月の風日歌会は義仲寺の無名庵に場所を移します。無名庵の庵主は前は中谷孝雄、今は伊藤桂一先生です。
 二月の歌会は、天忠組の変に記録方として参加したことで知られる幕末の国学者、伴林光平(ともばやし・みつひら)を偲ぶ会になります。保田先生の歌一首が書かれた布切れを補陀さんに見せていただきました。

   なべてみな
   ものは秋風
   天辻の峠に
   立てばわれは
   旅人
      與重郎

天辻峠は天忠組の本陣が置かれた場所です。この保田先生の歌は着物の切れ端に書かれているのですが、それは保田先生が龍神温泉で着ていた着物ということでした。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(47) 龍神温泉の旅の話

 新和歌浦の一夜が明けて、10月23日、岡先生たちはふた手に分れて龍神温泉に向かいました。総勢何名だったのか、どのようにふた手に分れたのか、岡先生はどなたといっしょだったのか、さまざまな疑問がわきますが、はじめて補陀さんにお会いしてお話をうかがったときは、細かいところまではわかりませんでした。龍神温泉の旅は昭和43年の秋10月の末のことですから、平成8年10月の時点から振り返るとすでに28年の昔の出来事です。この日は時間もゆとりがありませんでしたので、おおまかな話をうかがっただけでしたが、補陀さんとはその後も何度もお会いする機会がありましたし、電話でも話し、お手紙もいただいて、そのつど龍神温泉の旅の情景が細やかになっていきました。
 現在、判明しているところでは、新和歌浦から龍神温泉に向かったのは総勢16名ですが、ひとりは生まれて三箇月の菜摘(なつみ)ちゃんでした。菜摘ちゃんは補陀さんのお子さんで、万葉集の巻頭に置かれた雄略天皇の歌に取材して保田先生が命名しました。和歌山市の尾崎市長も同行しました。
 一番はじめに補陀さんにうかがった話だけを摘記したいと思います。岡先生は「日教組事件」のためか、初日の新和歌浦ではあまり御機嫌がよくなかったようですが、翌日、龍神温泉に到着するといっぺんに上機嫌になったそうです。風景がお気に召したのでしょう。保田先生の顔を見るなり、「保田さん、今が時ですぞ」といきなり話しかけたので、保田先生もきょとんとした感じで聞き流したという話もありましたが、これは新和歌浦でのことかもしれません。岡先生は旅館ではスリッパを履かないものですから、みなが、どうぞ、どうぞ、とすすめたところ、岡先生は、どうしてこんなすべるものをはかなければならないのかねえ、と応じたそうです。これも新和歌浦と龍神温泉のどちらの旅館でのことなのか、わかりません。
 夕食のとき、みちさんが、海老をむいて口に入れればよいだけにして岡先生にさしだしたところ、はらいのけました。それで、「いつもお好きですのに」とみちさんが言うと、「時と場合による」と言いました。これは龍神温泉の上御殿(かみごてん)での話です。
 上御殿ではみなで筆で字を書いて遊びました。胡蘭成に書法の指導を受けて、岡先生も色紙を書きました。補陀さんが行基菩薩の歌
   山鳥のほろほろと鳴く聲きけば
     父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ
を朗詠したのですが、岡先生は「山鳥の」と「ほろほろと鳴く」の順序を入れ替えました。

   ほろほろと
   鳴く山鳥の
   聲きけば父か
   とぞ思ふ母かと
   ぞ思ふ   岡潔冩

 それから岡先生は「数は量のかげ」と発言しました。これにはみな大いに感嘆したというのですが、補陀さんが案ずるに、「山鳥」が「数」に対応し、「父かと思う、母かと思う」というところが「量」に対応するように思われました。この色紙は補陀さんが頂戴して、今もたいせつに手元に置いています。見せていただくと、たちまち30年の昔にひきもどされて、龍神温泉の旅の日の岡先生たちのありさまが突然ありありと心の目に映じました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(46) 浄蓮寺再訪

 10月5日は夕方から東京で用事がありましたので、お昼前に浄蓮寺に出向きました。補陀さんにお会いする一番の目的は、岡先生と保田先生、それに胡蘭成が清遊したという昭和43年秋の龍神温泉の旅の様子をうかがうことでした。というより、この龍神温泉の旅について語ることのできる人は、この時点ではもう補陀さんだけしかいないのではないかと思われたのでした。実際には、この後、当時の和歌山市の尾崎市長のように、龍神温泉に同行した人に会う機会がありました。
 補陀さんにお会いしてすぐに教えていただいたのは、龍神温泉の旅は補陀さんのアイデアによるものだったということでした。補陀さんが保田先生御夫妻を接待するという企画を立て、保田先生に申し出たところ、胡蘭成と梅田さんも招待することに決まり、さらに保田先生が、岡先生も呼ぼうと言われたということでした。二泊三日の旅で、初日は新和歌浦、二日目が龍神温泉でした。新和歌浦の宿泊先は東邦荘でした。当日、岡先生とみちさんは和歌山市駅で補陀さんにお出迎えを受けました。岡先生はなんだか不機嫌な様子でしたが、なんでもこの日は奈良で講演して日教祖の批判をしてきたのだそうですので、余韻がさめやらずに興奮していたのでしょう。この講演は日教組の不興を買い、告訴されるかもしれないという騒ぎに発展しました。補陀さんにお会いしたときは詳しいことはわからなかったのですが、後日、当時の週刊誌で諸事情を伝える記事を読んだことがあります。
 東邦荘に到着しても岡先生のご機嫌は必ずしも好転しなかったものの、やがて夕食になりました。宴席に連なった人の正確な人数はわからないのですが、ずいぶん大勢だった模様です。岡先生と保田先生と胡蘭成が中心になって話をして、みなさんが傾聴するという恰好になりました。その中に高専の生徒がいて、岡先生に向かい、「搾取」という言葉をどう思いますか、と尋ねました。すると岡先生はいきなり怒り出し、その学制をぐっとにらみつけて、「死ね」とか「死んでしまえ」とか、たいへんな剣幕で舌鋒鋭く言い放ちました。学生もひるまずににらみ返したというのですから、何かしら信念のある人だったのでしょう。一堂、水を打ったように黙り込み、補陀さんは、どうなることかとはらはらして事態を見守っていたということでした。学生運動がたけなわだった時期のことでもあり、「搾取」をどう思うかという質問には、この当時の風潮が象徴されているように思います。
 就寝の時間になったとき、岡先生はすっかり神憑かりになったような様子になり、これまでは「たけみかづち」だったが、今から「おかきよし」になって寝る、という言葉を残して宴席を後にしました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(45) 和歌山の浄蓮寺

 栢木先生に教えられて手掛かりをつかむことができましたので、10月4日、和歌山市の郊外に補陀瑞蓮さんを訪ねました。この日は金曜日でした。補陀さんは和歌山市のふるい歴史をもつお寺に生れた人で、今は浄蓮寺というお寺の住職です。「瑞蓮」は法名で、俗名というか、本来のお名前は房子さんです。浄蓮寺は浄土宗の西山派のお寺です。補陀さんはお若いころから文芸に心を寄せ、縁あって保田先生のお弟子になりました。お琴を弾き、エッセイも書きますが、本来の志は歌にあると思います。この点は栢木先生も同じです。栢木先生が「保田門下の助さん、角さん」と呼んだ奥西さんと高鳥さんのうち、奥西さんは歌を作りませんが、高鳥さんは正真正銘の歌人です。
 大阪の難波から南海本線に乗り、和歌山に向かい、終着駅の「和歌山市駅」で降りました。和歌山駅ではなくてわざわざ「市」をつけて和歌山市駅と呼ぶのは不思議ですが、これは、和歌山にはもうひとつ、JR阪和線の「和歌山駅」と区別するためです。和歌山市には和歌山駅がふたつあるというのが、和歌山の第一印象でした。単に和歌山駅といえばJR阪和線の和歌山駅を指し、和歌山市駅の方は「市駅」と略称されています。
 駅からの道筋がよくわかりませんでしたので、10月4日のお昼すぎ、和歌山市駅からタクシーに乗り、浄蓮寺に向かいました。前もって何も連絡せずにいきなりお訪ねしたのですが、運悪くお留守でした。そのうちお帰りだろうと期待してお寺の近辺を散策していると、近所の檀家の人に声をかけられて、御自宅に誘われました。それでおじゃましてしばらく四方山話などして時間をつぶしたのですが、だんだん薄暗くなってきましたので、おいとまして和歌山市内にもどりました。浄蓮寺のあたりも和歌山市なのですが、つまり、にぎやかな町中にもどったのでした。
 この日は和歌山で一泊することにして、夜、お電話すると、何度目かに補陀さんが出ました。午後10時をすぎていたと思います。話はすぐに通じ、しばらくお話をうかがったのですが、10月4日はちょうど保田先生の御命日ですので、京都に出て、保田先生のお宅にうかがっていたということでした。保田家は太秦の映画村の近くにあり、身余堂と呼ばれています。奥様が御健在で身余堂を守り、毎月の「風日」歌会も原則としてここで行われます。ただし、新年の歌会だけは例外で、琵琶湖のほとりの義仲寺に場所を移して催されます。
 この夜の電話は簡単な御挨拶だけで終り、翌日、もう一度、お訪ねすることになりました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(44) 栢木先生からの便り

 栢木先生を追悼するエッセイ「願泉寺の栢木先生」では触れなかったことをもう少し言い添えておくと、まず岡、保田両先生の初対面の対談の場所を月日亭に設定したのは玉井栄一郎という人です。対談にあたり、岡先生といっしょに文化勲章を受けた佐藤春夫に紹介してもらうという形をとったということですが、これを佐藤春夫にお願いしたのは栢木先生です。佐藤春夫は、文化勲章をいっしょにもらっただけで、岡さんのことは知らんで、と言ったそうですが、それでも引き受けて、仲介の労を取りました。
また、岡先生をモデルにした五味康祐先生の作品『紅茶は左手で』は、はじめ毎日新聞社の週刊誌「サンデー毎日」に連載されました。
 栢木先生がはじめて奈良に岡先生をお訪ねしたのは昭和37年の暮のことで、それ以来、足繁く岡先生のもとに通い続けたのですが、この状況を指して、栢木先生は、家族同然だ、と言われました。
 奥西さんにお会いしたことを伝えると、奥西、高鳥の二人は保田門下の助さんと角さんだと、大きな声で元気いっぱいに応じました。
 9月に入ってすぐ、栢木先生から7日付のお手紙が届きました。『紅茶は左手で』は昭和43年に毎日新聞社から刊行されたこと、保田先生の逝去を受けて昭和56年12月26日発行の「風日」誌は「保田與重郎先生追悼号」になりましたが、そのおり栢木先生は「月日亭の一夜」という一文を寄せたこと、月日亭の対談が行われたのは昭和38年7月9日であることを教えていただきました。対談の当日は近鉄奈良駅で栢木先生が保田先生を出迎えて、玉井栄一郎さんもいっしょに、三人で法蓮佐保田町の岡先生のお宅に向かいました。玉井さんは南河内の旧家を介して岡家と親戚になるとも。岡先生のお宅でしばらく話をし、それから午後5時ころ岡家を発ち、月日亭に向かいました。対談が終って月日亭を離れたときは午後10時になっていたということです。
 こんなふうにして、栢木先生のおかげで岡先生と保田先生の初対面のおりの様子がだんだん明らかになっていきました。保田先生と岡先生の交友のことでは龍神温泉での清遊が大きな意味をもっていると思い、かねがね重視していたのですが、栢木先生のアドバイスにより、会うべき人は和歌山市の補陀さんと判明しました。フィールドワークはどこまでも広がっていくばかりで、いつ完結するものなのか、このころは何のあてどもありませんでした。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(43) 願泉寺の栢木先生

 8月31日の午後、栢木先生にお会いするために願泉寺に向かいました。地下鉄の大国町駅で降りて歩いて行ったのですが、到着すると、近畿超空会はもう終っていて、みな揃って境内の墓地にお墓参りに赴こうとしているところでした。折口先生の御命日は9月9日なのですが、例年、この時期はその日に近い適当な日を選んで近畿超空会を開催するという話でした。
 初対面ではありましたが、栢木先生はすぐにわかりました。挨拶すると、君もお参りしてくれるかと、たちまちお墓参りに誘われました。それから折口先生の文学碑を見学するということになり、近くの鴎町公園に向かう道すがら、栢木先生のお話をうかがいました。
 この日を皮切りに栢木先生との交友が続き、おりに触れてお目にかかって数年がすぎましたが、平成17年4月20日、栢木先生は88歳を一期に逝去されました。生前の保田先生が始めた歌会「風日」では、同名の歌誌「風日」の追悼号を出すことになり、ぼくも「願泉寺の栢木先生」という一文を寄せました。初対面の模様を書きましたので、ここに掲載したいと思います。

願泉寺の栢木先生

 大阪大国町の願泉寺で栢木喜一先生にはじめてお会ひしたのは平成八年の夏八月の末日のことであるから、もう九年も昔の出来事である。願泉寺には栢木先生が國学院の学生時代に教へを受けた折口信夫先生の墓所があり、折口先生の御命日の九月三日を間近に控へ、お墓参りを念頭に置いて、八月三十一日の土曜日に願泉寺の葵会館で近畿超空会の第三百十八回例会が催されたのである。このとき栢木先生は数へて八十一歳。近畿超空会の会長であつた。
 この年、ぼくは岡潔先生の評伝を書く決意を固め、年初からフィールドワークを始めたが、この作業に課せられた大きな課題のひとつは、岡先生と保田與重郎先生との晩年の交友の模様を明らかにすることであつた。八月二十七日、新学社に電話をかけて奥西保さんにその旨を申し出て、お尋ねしたところ、奥西さんは「岡先生のことなら栢木さんに聞くといい」とすみやかに明言し、「桜井の山の方」に住んでゐるといふ栢木先生のお名前を挙げた。これが、栢木先生のお名前を耳にしたはじめであつた。
 教へていただいた電話番号を頼りに桜井のお宅に連絡を試みたところ、栢木先生はちやうど三十一日に大阪に出るといふ。これでたちまち願泉寺でお目にかかる約束が成立した。どこのだれとも定かではない若輩のぼくを相手に、栢木先生の話は電話を通しててきぱきと進行した。率直なお人柄がうかがわれ、気持ちのよいひとときであつた。
 三十一日の午後、願泉寺に到着すると、ちやうどみなで折口先生のお墓参りに向かひつつあるところであつた。栢木先生とおぼしい人はすぐにわかり、初対面の御挨拶をすると、「君もお参りしてくれるか」といきなり言はれた。かういふところもさつぱりしていて、感じがよかつた。
 それから近くの鴎町公園内に建つ折口先生の文学碑の見学に向かつたが、その途次、先生はまだ願泉寺の境内を出ないうちからしばしば足をとめ、岡、保田両先生をめぐって饒舌に語り続けた。五味康祐先生の作品『紅茶は左手で』を教へていただいたのもこのときで、「岡先生がモデルやで」と元気よく言はれた。栢木先生が岡先生のお名前に注目したきつかけは、毎日新聞に連載された岡潔先生のエッセイ「春宵十話」であつた。非常に感動したと保田先生に伝へたところ、すでに「春宵十話」を承知してゐた保田先生は、「あんたの直観はあつてゐる」と明快に請け合つた。これに力を得た栢木先生は、昭和三十七年の暮、奈良に岡先生を訪問し、以後岡先生が亡くなるときまで奈良行を繰り返し、そのつど克明な訪問記録を書き綴つた。
 岡先生はよく怒るので有名だつたが、栢木先生に向かつてはいつも御機嫌がよかつたといふ。ただし、一度だけ岡先生に怒られたことがあるといふおもしろいエピソードもあつた。それは栢木先生が平安期の文芸についての話題を持ち出したときのことで、岡先生は「あんなのはだめだ」と一蹴した。すると岡先生の奥様のみちさんが、「そんなこといつても、栢木先生は折口先生の門下で源氏物語を・・・」とたしなめたといふが、こんなことがあつてからかへつて岡先生も次第に平安文学や折口先生に関心を寄せるやうになつた。
 昭和四十三年の秋、岡先生と保田先生は胡蘭成先生も交へて龍神温泉で清遊したことがある。そのときのことをうかがふと、栢木先生は和歌山市在住の補陀瑞蓮さんのお名前を挙げ、補陀さんがよく知つてゐる、保田先生の歌のお弟子だと紹介してくれた。これを糸口にして十月五日、和歌山の浄蓮寺に補陀さんをお訪ねし、同月二十日、補陀さんにお誘ひをいただいてはじめて身余堂の門を敲き、かぎろひ忌に出席し、栢木先生に再会した。この間、わづか二ヶ月足らずにすぎないが、懐かしい感じがあり、うれしかつた。先生も、「今日は君に会へると思つて楽しみだつたんだ」と再会を喜んでくれた。この歌会のおりの栢木先生のお歌。
   よき出会ひかへりみにつつつくづくと
     わが幸せをかみしむる日々
 栢木先生はお心の中でいつも、若き日の折口先生と保田先生との出会ひと、後年の岡先生との出会ひの喜びを回想し、反芻していたのであらう。
年が明けて平成九年になり、一月十九日、大津の義仲寺で開催された「風日」の新年歌会に出席し、また先生にお目にかかつた。このときの約束に基づいて、一月二十六日、桜井の高家に栢木先生のお宅を訪ね、半日ほどゆつたりとお話をうかがふことができた。岡、保田両先生の初対面となつた「月日亭の一夜」のことや、新学社の設立にまつわるエピソードなど、おもしろい話が次々と語られて飽きなかつた。大量の岡先生訪問記録をお借りして辞去したが、これは晩年の岡先生の姿を再現するうえでかけがへのない資料である。岡先生の評伝の原稿ができて先生にお見せすると、そのつど長文のお手紙が届き、励ましていただいた。親切なよい先生であつた。
 岡先生の評伝は二冊まで書き上がり、先生のもとにお届けすることができたのは幸いであつた。三冊目はまだ途上だが、・・・

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西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
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