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岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(22) 慶賀野の第二の家について

 平成8年6月の三回目の紀見村行の話を続けたいと思います。6月6日、下坂さんの奥さんにお別れのあいさつをして、隆彦さんと連れ立って林間田園都市駅まで歩きました。隆彦さんはそこからバスに乗り、紀見峠に戻っていきました。まだお昼を少しすぎたころで、時間に余裕がありましたので、郷土資料館を再訪する考えになり、南海高野線で隣駅の御幸辻に向かいました。瀬崎先生に挨拶し、展示物をもう一度丁寧に閲覧しました。他の展示物も見物し、これが「がらうす」と教えてもらいました。
 あらためて見ると、岡先生の研究記録の断片が一枚だけあり、「1947.5.2」という日付と、「第十二日」という文字が読み取れました。たった一枚ではありますが、岡先生の研究記録の実物を目にしたのはこれがはじめてのことで、心を打たれ、しげしげと眺めたものでした。それと、奈良の岡先生の御自宅には、このような研究ノートが大量に保管されているのだろうと想像されて、奈良行への期待が芽生えました。
 瀬崎先生にお願いして岡先生の「文稿帳」のコピーを作らせていただいて、郷土資料館を後にしました。それから御幸辻駅までもどり、紀見峠駅に向かい、喫茶店でひと休みしました。やや不十分に終った3月の慶賀野散策をもう一度試みたいと考えたのですが、それに先立って入った喫茶店は、ノートにははっきり書いていないのですが、前と同じサフランに間違いありません。ここで、岡先生の慶賀野時代に小学生だったという人に会いました。
 以下、この往時の小学生に聞いた話ですが、岡先生の一家が奈良に引っ越したのは昭和26年の春のことですが、そのとき柱本小学校の児童と先生たちが揃って紀見峠駅に見送りに行ったそうです。また、岡先生は村を放浪し、あちこちにしゃがみ込んで木の枝で地面に何事かを書きつけたりしましたが、そんなとき、村の子どもたちは岡先生を取り囲み、わいわいと囃したてました。おれらは「きちがい博士」と呼んでいたというのですが、この話には何かしら心に響くものがありました。岡先生の慶賀野の第二の家について尋ねると、こんな話をしてくれました。現在さら地になっている角の土地は昔は牛小屋だった。牛小屋を改造して酒屋が使っていた。そこが岡先生の住まいになった。岡先生が奈良に転居した後、柱本小学校の給食のおばさんが娘といっしょに住んだ。その後、柴田さんというダンプカーの運転手をしていた人が住んだ。それからしばらく空き家になった後、農協の出張所になり、それをさらに建て替えてできたのが慶賀野集会所だというのでした。集会所はクラブと呼ばれていたともうかがいました。
 この話は具体的なところもありますが、これを採ると岡先生の住まいはかつての牛小屋そのものであることになり、しかもそれは後に農協の出張所になり、さらに集会所になったことになるのですが、そうすると集会所の位置は現在のさら地と重なることになって、現状と矛盾します。どこかで脈絡が微妙にずれたのでしょう。北村市長の話では「農協の物置小屋」に移ったということでしたし、3月18日の慶賀野散策のおりに、集会所の角に物置小屋があったこと、今年のはじめになって物置小屋と牛小屋が取り壊されたことを聞きました。あれこれをを勘案すると、物置小屋と農協の出張所は同じもので、牛小屋と合わせて現在のさら地の位置にあったと考えるのが正解ではないかと思います。
 農協の物置小屋もしくは出張所というのは農作物を集積して処理する場所のことで、「処理所」と呼ばれていました。
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岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(21) 校訂と補足(二)

2月8日に北村市長にうかがった話についても、少々補足しておきたいと思います。市長さんが岡家と北村家の人々の話をしてくれたことは既述の通りですが、もう少し続けると、愛宕神社の絵馬に「毅然」という字が書いてあるのを見たことがあり、それは岡貫一郎が四つか五つのころの字という話がありました。岡貫一郎というのは岡先生の祖父の文一郎の弟です。岡貫一郎の娘に「ますの」さんという人がいて、この人が北村家に嫁に行き、俊平さんが生れました。この話をうかがったときから愛宕神社の絵馬を見たいと思っていたのですが、これは今も実現していません。
 岡先生の一家が紀見峠から慶賀野に移ったときの転居先を教えてくれたのは、やはり北村市長でした。はじめの転居先は、市長さんの兄の敦さんの奥さんの実家でした。後に農協の物置小屋に移ったとも教えていただいて、これで慶賀野の二つの岡家を訪ねるという目標ができたのでした。
 市長さんの父の北村俊平は七人兄弟の長男ですが、北村四郎という弟がいました。四郎さんは次男です。高知高校を出て新潟医科大学に進み、軍医としてインパ-ル作戦に従軍した体験の持ち主です。戦後、新潟大学の学長になりました。若い頃は演劇に打ち込み、「赤」がかっていたそうですので、勲二等をもらうことになったとき、赤だったのに、そんなものをもらっていいのかと市長さんが冗談を言うと、四郎さんは、なあに、(勲章をもらうのは)芝居だよ、芝居、と言ったとか。こんな話をうかがうにつけ、北村四郎さんという人に興味を覚えました。ちょうど前日、うどん屋のおばさんに橋本市の広報誌「広報はしもと」の最新号を見せていただいたのですが、最終頁に岡先生を紹介する記事とともに一枚の写真が出ていました。どてら姿の岡先生がレインシューズを履いてどなたかと話しながら立っているのですが、その話し相手というのが北村四郎さんでした。場所はどこなのだろうと興味をそそられました。
 岡先生が文化勲章を受けたとき、祝賀会の席で祝辞を求められた俊平さんが、「軍艦の修繕を鋳掛け屋に頼むようなものだ」と言って断ったという話は前に紹介しましたが、祝賀会というのは、正確には岡先生が橋本市の名誉市民になったときのお祝の会でした。岡先生は橋本市の最初の名誉市民です。二番目の名誉市民は「まえはたがんばれ」で有名な水泳の前畑秀子さんです。
 北村市長にお別れした後、橋本駅の裏手(駅をはさんで市役所と反対側)の丸山公園に岡先生の祖父文一郎の旌徳碑を見に行きました。文一郎は熱心に政治活動に打ち込んだ人で、和歌山県の県会議員、伊都郡の郡長、紀見村の村長などを歴任しました。大きな業績として挙げられるのは、郡長時代に和歌山県の治安裁判所出張所を橋本村(この当時は村でした)に設置したことと、妙寺村にあった伊都郡の郡役所を橋本村に移したことで、橋本地区の人々が功績をたたえ、庚申山の西南に旌徳碑を建てました。旌徳碑は丸山公園の花見台の側にありました。撰文は大阪朝日新聞の社員、西村天囚です。
 話が前後しましたが、北村市長さんにお会いする前日の2月7日、紀見峠駅前のうどん屋でお目にかかった松本茂美さんの話(青少年ホ-ル高山の館長)の補足を少々。松本さんは岡隆彦さんと小学校の同級生でした。海軍の軍人で、戦艦大和に乗っていましたが、沖縄作戦の前に舟を降りて海軍兵学校の教官になり、そのまま終戦を迎えたということでした。岡先生は慶賀野時代からゴム長靴を履いていたともうかがいました。ゴム製の長靴や短靴を履いていたのでしょう。岡先生の父の寛治さんは学務委員でした。松本さんが小学生のとき、寛治さんが教室に入ってきて、授業風景を見ていた記憶があるそうです。それから、岡先生が住んでいた農協の「物置小屋」は、今は農協の集会所になっているという話もありました。そうしてみると「農協」と「集会所」が岡先生と結びついたのは、このときの松本さんの話が最初だったように思います。
 うどん屋にいたお客さんの話ですが、その人が柱本小学校の三年生のとき、岡先生が講演にやってきたそうです。児童たちは日の丸の小旗をもって出迎えたのですが、そこへ岡先生がよれよれの上着にゴム長靴という姿で現われましたので、子ども心にびっくりして、強い印象を受けたということでした。これは岡先生が文化勲章を受けた後の出来事です。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(20) 校訂と補足(一)

ここまでの回想はフィールドワークのときのノートのはじめの三冊を見て再現したのですが、ノートの記事そのものは乱雑なメモにすぎません。それでフィールドワークの小旅行からもどると、そのつどメモを見ながらあれこれを思い起こし、ワープロに書き込んでいきました。ところがどうしたわけかそのときのファイルが行方不明になってしまいましたので、元のノートのメモだけが頼りにしてきたのですが、ここにきてファイルが見つかりました。それを読み返すといくつかの補足事項が目につきましたので、ここで補っておきたいと思います。
 2月はじめにはじめて岡隆彦さんにお会いしたときにうかがった話ですが、現役の教員時代に日教組に加入したところ、岡先生は、権利ばかり主張する日教組は岡の家の方針に反する、これからは立ち入りを禁じる、と申し渡したそうです。後年、教頭になって、日教組をやめたところ、禁足令がとけました。また、岡先生は奈良女子大学を定年で退官した後、京都産業大学に招かれましたが、そのころ、4年生の成績は卒業がかかっているから、少しゆるめてやらなければならない、と言っていたのを聞いて、隆彦さんは、案外まともなところもある、と感心したそうです。レインシューズ、すなわちゴムの長靴を履くのは、歩くときに頭に振動が伝わらず、思考の妨げにならないからと岡先生が言っていたという話もありました。
 昔の紀見峠にまつわる話もありました。昔は、役場も郵便局も柱本尋常小学校も峠の上にあり、そのうえ小学校の所在地は現在の隆彦さんの家の庭だったのだそうです。庭はかなり広いです。少し離れたところに平地ができていて、そこが運動場でした。現在は林になっていて、岡家の墓地に行く途中、ここがそうだ、と教えられました。その後、小学校は峠の下に移ったのですが、移転先の土地は岡先生や隆彦さんたちの祖父の岡文一郎の所有地でした。文一朗はこの土地を村に寄贈したと隆彦さんは思っていたのですが、そうではないことが、今年、すなわち平成8年の1月2日に判明しました。小学校はもう一度、現在の紀見ヶ丘地区に移りましたが、名前は変らず、「柱本小学校」は保存されました。
 岡先生は何人も集まっておしゃべりしている中でも平然と思索を続け、話しかけさえしなければ、今日はよく考えられた、と言うのですが、少しでも話しかけるとうるさがりました。
 柱本小学校で岡先生が講演したことがありました。小学三年生までは情操教育がたいせつで、知育偏重はだめだという話だったのですが、これを聴いた子どもたちは、偉い先生が勉強してはならないと言ったからというのでおおっぴらに遊ぶようになり、親を困らせたそうです。こんなおもしろい話をたくさんうかがいました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(19) 下坂さんの話

城野さんの次に訪ねたのは同じく慶賀野地区の下坂さんでした。下坂さんの奥さんが待っていて、さっそく岡先生の話が始まりました。「がらうす」(と聞えました)という米をつく道具があり、いっぺんに三升ほどの米を600回ほどつくのですが、岡先生「がらうす」に縄を結び、子どもといっしょに数へながらついていたそうです。子どもというのは長男の煕哉さん。「がらうす」は郷土資料館にあるかもしれないとも教えていただきました。
 岡先生はいつも着物を着て村を歩き、川に石を投げ、そのままの姿勢で石の行方をじっと見つめていました。石はよく投げていたようです。下坂さんの分家の竹薮を開いて畑にして、さつまいもを作り、風呂敷に包んで背負ったという話もありました。戦中戦後に農作業をしたことは岡先生もエッセイに書いていますが、こんなふうに紀見村の現場でうかがうと、何というか、臨場感がありました。下坂さんの奥さんが女学生のころ、いっぺん岡先生に聞きにいこうかと友だちと語り合い、岡先生を訪ねて数学の質問をしたところ、いろいろな仕方で解いてくれたそうです。
 岡隆彦さんもおりに触れて岡先生の話をしました。隆彦さんのお父さんは岡憲三という人で、明治22年2月15日のお生れです。ちょうど二日前の2月13日に明治憲法が発布されましたので、憲法の「憲」の字を採って「憲三」と命名されました。隆彦さんはそんなエピソードを披露して、2月生れだから本当は「憲二」するところだが、「憲三」になった、と言い添えました。その方が語呂がよかったのでしょう。憲三さんは紀見村の役場に勤めて、「役場の生き字引」と言われていたそうです。
 隆彦さんは昭和14年の4月に天王寺師範学校に入学し、昭和17年3月に卒業して教職につきました。岡先生は無職で、家の資産を切り売りしてしのいでいたのですが、売り食いではなくなるだけだからお勤めをしたらどうかと隆彦さんがすすめたところ、岡先生は、今は売るものがあるが、売るものがない人もいる、だから勤めるのはそういう人たちの後でいいと応じたそうです。戦後になって奈良女子大学に勤務しましたが、そのころになると切り売り生活もいよいよ行き詰まり、就職するほか道がなくなってしまったのでしょう。
 岡先生は紀見村のころは下駄を履き、歌を歌いながら歩いていましたが、奈良に移ってからレインシューズを履くようになりました。郷土資料館にあった靴もレインシューズでした。奈良女子大でははじめ毎週月曜日の三、四限目に講義がありましたが、月曜日は百貨店が休みというので、火曜日に変えてもらったのだとか。切り売り生活のあげく岡家の資産はほとんどなくなってしまいましたが、岡先生は、ぼくは岡潔という名前だけいただいたらけっこうです、と平然としていたそうです。
 岡先生に泰子さんという妹がいることは岡先生のエッセイを読んで承知していましたが、その泰子さんは今も健在で、東京の千駄木でお元気に暮らしていると教えていただいたのも、このときのことでした。明治37年のお生れの泰子さんは平成8年6月の時点で満91歳。9月に入ると満92歳になります。御住所も教えていただいたうえ、これこれの人が近々訪ねていくかもしれないからよろしくと、隆彦さんから伝えておいてもらうことにもなりました。これで次のフィールドワークの目標ができました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(18) 城野さんの話

岡先生の思い出を語る大垣内さんの言葉を、もう少し拾ってみたいと思います。南海高野線で岡先生といっしょになったときのことですが、岡先生は一心に思索にふけり、電車が紀見峠駅に近づいても降りようとする気配が見られませんでした。そこで、もう降りましょう、と声をかけたところ、電車の中で「ばか!」と大声でしかりつけられました。考えごとをしていたのをじゃまされたからなのですが、後に、あのときはすまなかった、とわびて、実は、と弁明したそうです。
 野の花が好きで、きれいな花の前にすわり込んで何時間も眺めることもありました。
 村の人の中には岡先生のことを「おっちゃん」などと気安く呼ぶ人もいたそうですが、年輩の人は「博士(はかせ)」と呼んでいました。この界隈に博士は岡先生ひとりしかいませんでした。
 岡隆彦さんもときおりエピソードを紹介しました。昭和14年の夏に紀見峠から慶賀野に移ったとき、手伝いに出向いた隆彦さんが本を行李に詰めたのですが、詰め込む前にいったん地面に置いたところ、叱られたそうです。
「知る」と「感じる」の違いを教わったこともありました。火ばしを熱くして肌に近づけると「熱い」と感じますが、これが「感じる」です。その火ばしにじかにさわると、「熱い」ことがわかりますが、これが「知る」です。
 こんな話のあれこれをこもごもうかがって大垣内さんとお別れしました。
 次に案内していただいたのは城野さんのお宅でした。城野さんの奥さんが出迎えてくれましたが、大垣内さんのお姉さんということでした。岡先生の字が書かれている扇子を見せていただきましたが、それは「無我」という字で、郷土資料館で見たものと同じものでした。何かの記念のおりに複製をたくさん作ったのでしょう。城野家には色紙もあり、それには
 人間無欲にして
 働くときが最も
 幸せである
と書かれていました。本物を見せていただいたように思っていましたが、これも複製だったのかもしれません。
 以下、城野さんの奥さんの話です。
 当時は風呂のある家は少なく、風呂のない家の人はもらい湯をしたという話は大垣内さんからもうかがいましたが、城野さんの奥さんは岡先生にいつも一番風呂に入ってもらえるようにしていました。それで、先生、風呂がわきました、と呼びに行くのですが、岡先生は他人の都合はおかまいなしで、自分の都合のよいときにやってきました。風呂に入っている岡先生に、おかげんはどうですか、と声をかけると、たいていの人なら、けっこうです、と遠慮して言うところ、岡先生は、そうですね、少しぬるいですか、と率直に応じました。そこで少しあたためました。こんなふうに、思った通り、はっきりと、いつも気持ちよく物を言いました。
 岡先生は万年床に寝ていましたが、まるでトンネルみたいになっていました。
 庭でうさぎを飼っていましたが、うさぎが庭を掘って縁の下に入り込んで寝床にしました。そのうち床の間の下がくさってしまいました。すると岡先生はうさぎを座敷に上げて、放し飼いにしました。
 村の人は岡先生のことを「先生」「おっちゃん」「博士」と呼んでいました。
 昭和21年12月の南海地震のおり、婦人会などで、衣類を供出して支援物資を送ることに決まりました。城野さんは錦紗の羽織を出しましたが、岡先生の奥さんは木綿のかすりをさっと出してきました。戦後すぐのことであり、当時は木綿がとぼしく、貴重でした。これを見た城野さんの奥さんは、みなは不要なものを出すが、岡先生の奥さんはみなが必要とするものを出す、偉い人だと思ったとつくづく感じ入ったということでした。岡先生の奥さんはよく人の世話をして、そのうるそれを少しも鼻にかけない人でしたが、岡先生の方はとっつきにくく、どことなくこわい感じがありました。
 岡先生の手紙は奥さんが郵便局で目を通してから出す、という話もありました。岡先生が自分で郵便局にでかけることも確かにありましたから、いつも奥さんの目が通されていたということはないのではないかと思いますが、何かしらそんなうわさを誘う出来事があったのでしょう。
 このような話が相次いで興味は尽きませんでしたが、おいとまの間際に、こんなものがある、と言って、森本弘先生が書いた交友記「岡潔先生のこと」(昭和36年刊行)のコピーを見せていただきました。森本先生は柱本小学校の校長先生ですが、岡先生を尊敬し、たびたびおじゃましてお話をうかがっていました。お借りしたのですがと申し出ると、どうぞおもちになってくださいとのことでしたので、いただきました。岡先生の郷里ならではのすばらしいお土産でした。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(17) 大垣内さんの話

フィールドワークの合間には手紙を書いたり、電話をかけたり、図書館に調べものにでかけたりしていたのですが、紀見峠の岡隆彦さんとの連絡も続いていました。隆彦さんは、岡先生をよく知る人を三人紹介したいから、こちらに来るときは前もって声をかけてほしいと提案してきました。願ってもないことですし、ぼくも大いに乗り気になったのですが、6月になってこの計画が日の目を見る機会が訪れました。
 平成8年6月5日、ぼくはまた紀見村にでかけました。今度はあらかじめ岡隆彦さんと都合を打ち合わせておき、紹介していただく三人の人に会う段取りも整っていました。待ち合わせの場所は国民宿舎「紀伊見荘」でしたので、5日は紀伊見荘で一泊し、翌6日の朝、ロビーで隆彦さんと落ち合いました。
 はじめに案内していただいたのは、慶賀野の大垣内(おおがいと)清正さんのお宅でした。以下、大垣内さんの話です。当時は内風呂のある家は少なく、数えるほどしかなかったので、風呂のある家が風呂をたくと、隣近所の10件ほどの家々の人がみんなこぞって風呂に入りに行った。岡先生は風呂が好きで、一時間ほどかけてゆっくり入った。長風呂は迷惑になるが、岡先生はそんなことは気にしなかった。エアシップという上等の煙草を吸っていた。学問と関係があるのか、草の根っこをじっと見つめていた。麻雀と囲碁、将棋、どれもとても強かった。早野さんという将棋の強豪がいて、岡先生と一局に半日以上もかけて指していた。麻雀は一局こなすのに4時間はかかったが、途中で数学のアイデアが浮かぶと、タイム、と言って研究に向かう。万年床でメモを書き、論文ができると奥さんがそれをフランス語に直した。
 フランス語の論文はみちさんが書いたというのは実情と異なりますが、隆彦さんも、岡先生のフランス語をみちさんが添削したというふうなことを話していましたから、何かしらそんな印象をかもすエピソードがあったのかもしれません。
 ここで隆彦さんが話を引き取って、雲間から日が射した瞬間をはずしたら、次にいつ大陽が顔を出すかわからん、と岡先生は言っていたという話をしました。奈良女子大で講義をしているときも、ぱっとアイデアが浮かんだら教室を飛び出して研究に没頭したのだそうです。
 大垣内さんの話が続きます。大垣内さんは岡先生にコーヒーを習ったそうで、連れ立って難波に出て、心斎橋の横の喫茶店までコーヒーを飲みに行ったそうです。高校生のときのこと、物理の計算問題を質問すると、岡先生は、自分は計算はようせんと応じ、長女のすがねさんに向かって、教えてやりなさいと言ったとか。めんどうだったのでしょう。
 大垣内さんは岡先生の小学校時代のエピソードも聞いたことがあるようで、岡先生は米の木綿の一斗袋に勉強道具を詰めて通い、けんかのときはその一斗袋を振り回したということでした。級数たちとよくけんかをしたようで、岡先生自身もエッセイにそんなことを書いています。ただし、けんかの仕方は大垣内さんが聞いた話とエッセイの記述ではちょっと違っています。
 岡先生は柱本尋常小学校を卒業して粉河中学を受験したのですが、一度目の入試に失敗してしまい、一年間だけ(柱本尋常小学校には高等科が設置されていませんでしたので)紀見尋常高等小学校の高等科に通いました。岡先生はこの話を後年のエッセイで何度も繰り返して語っていますので、ぼくも知っていましたが、大垣内さんにも、(入試には)算数と理科しか出ないと思っていたので弱ったという話をしていたそうです。この話もまた後年のエッセイの記述とはちょっと違います。
 文化勲章を受けたとき、岡先生は天皇陛下の顔を見たら目がつぶれると思っていたので、よう見らんだ、と大垣内さんに話したそうです。文化功労者にもなって年金がもらえるようになり、奈良女子大での教職にもついていましたので、岡先生の経済状態は大いに好転したのでしょう。文化勲章を受けた後のある日、岡先生を訪問した大垣内さんに、清正君よ、と話しかけ、もうパンの心配はないからゆっくり泊まっていけ、と言ったそうです。これを聞いた大垣内さんはこのときはじめて、ああ、岡先生も食べる心配をしていたのだ、と気づき、学問というのは資産がないとできないとしみじみと思ったということでした。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(16) 慶賀野集会所

昭和23年の春のある日、正確な日時はわかりませんが、慶賀野の最初の家を引き払った岡先生は、同じ慶賀野地区内の別の家に移りました。岡先生の父は紀見峠の家で亡くなり、母と祖母は慶賀野のはじめの家で亡くなりましたので、慶賀野の第二の家に引っ越したときは奥さんのみちさんと三人のお子さんだけの五人家族になっていました。
 そこでその慶賀野の第二の家を見たいと思ったのですが、ここから先はどうしたのか、どうもはっきりと思い出せません。柱本小学校を出た後、一ノ瀬さんのお宅を訪ねようと思い、途中で道を尋ねたことは覚えています。下坂さんの大きな家が目印で、その上の家がそうだと教えてもらいました。この探索は成功し、一ノ瀬さんにお目にかかることができました。ここまでは間違いありません。それから第二の家の所在地については、慶賀野集会所というヒントがあり、その近くと教えてもらったのですが、慶賀野集会所というキーワードを教えてくれたのは北村市長だったように思います。2月に市長さんにお会いしたおり、岡先生のお住まいの変遷が話題になり、一ノ瀬さんのお名前をうかがったのですが、その次の引っ越し先も当然話題に登り、慶賀野集会所の近くと教えられたように思います。
 それで3月18日の散策の際には「一ノ瀬さん」と「慶賀野集会所」の二語はすでに念頭にあり、柱本小学校にお別れした後に一ノ瀬さんのお宅を尋ねたとき、同時に慶賀野集会所の所在地も尋ねたという経緯だったように思います。二冊目のノートに乱雑に書き留められているメモを見ながら当時の情景を回想しようとしているのですが、このノートには集会所の近辺の様子を伝えるメモがあり、国道、国道と平行な小道、交通信号、川上酒店、お堂などという言葉が記されています。集会所の角に物置小屋があったが、今年整地されてなくなったことや、牛小屋の裏手に農協の出張所があり、そこを半分ほど借りて岡先生たちが住んでいたことなども書かれているのですが、どうしてこのようなメモを書いたのか、明確な記憶を欠いています。集会所の近辺を散策したことや、近所の人に話を聞いたことは覚えています。それと、柱本小学校から慶賀野方面に歩き始めると、まずはじめに到達するのは集会所で、一ノ瀬さんのお宅はもう少し先になります。
 あれこれを考え合わせると、実情はこんなふうだったと思います。柱本小学校を出てから途中で道を尋ね、集会所の附近にたどりつきました。川上酒店があり、集会所の看板の出ている建物が見つかり、その道向いにはお堂がありました。岡先生はどこに住んでいたのか、この時点ではまだ正確な場所は把握していなかったのですが、通りかかったおばさんに声をかけて話をうかがいました。農協の出張所のこと、集会所の角の物置き小屋のことなどはそのとき聞いた話です。岡先生たちはいつまでここにいたのですかと尋ねると、そのおばさんは、私が嫁に来たころだから昭和27年あたりと思うと応じました(実際には昭和26年の春、奈良市に転居しました)。
 当時の岡先生の様子を伝えるエピソードもありました。岡先生は棒で地面をたたきながら歩いていたとか、石を投げて、ああ、何メートル飛んだ、と言ったとか、井戸に石を投げてしぶきが何メートルあがったと言って何度も繰り返していたというようなことでした。奥さんのみちさんは眼鏡をかけていて、上品な人だったとも。そこにもうひとり、おばあさんが通りかかりました。岡先生はどんな方でしたかと尋ねると、そのおばあさんは、開口一番、まあ、ハンキチやな、と答えました。いつも着物をぞろびかせて(着こなしがだらしないという意味でしょうか)歩き、襟もとには食べ物のかすがこびりついていたというのです。ハンキチは半分きちがいというほどの意味ですが、そんな岡先生の風貌に何かしら恐るべきものを感じ取っていたようで、「あんたもあのくらいやらなあかんで」と、不思議な言葉でぼくを励ましてくれました。
 岡先生は馬小屋を改造した家に住んでいたというふうな記事を何かで読んだ記憶がありますので、そうなんですかとおばあさんにうかがうと、馬小屋ではなくて牛小屋だというお返事でした。
 それで肝心の岡先生の旧居はどこなのか、まだはっきりしなかったのですが、集会所の隣の空き地がどうもそれらしいという印象をもち、その足で一ノ瀬さんのお宅を訪ねたのでした。平成8年3月のフィールドワークはこれで終りました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(15) 学籍簿

 喫茶店「サフラン」を出てメインロードを下ると、道が二つに分れます。左の道に行くと国民宿舎「紀伊見荘」に出て、紀見峠へと続きます。右の道に進むと住宅街に出ます。「マイハンド」というホームセンターの左側の横に国道に出る信号がありますので、まっすぐ前方にわたっておよそ100メートルほど進むと右にまがる広い道に出て、紀見ヶ丘地区に入ります。そこからひとつ目の信号を左折すると、サフランのおばさんに教えられた通り、柱本小学校がありました。峠の麓ではありますが、それでも山の中と見えて、標高は264メートルもあります。校歌の作詞者のところに北村俊平さんの名前が見られます。俊平さんもまた卒業生のひとりです。
 校長先生に挨拶して訪問の主旨を伝えると、尋常小学校時代のおもかげの残る古い学籍簿を出してくれました。記載されているのは明治39年からということですが、これはこの年に小学校の合併が行われたためで、柱本、矢倉脇、それに慶賀野地区にあった三つの尋常小学校が合併して新たに柱本尋常小学校が設置されました。尋常科のみで、高等科はありません。学籍簿の番号は164番まで欠番で、165番から始まります。従来の記録は失われ、欠番に小さい歴史が宿っているのでしょう。
 岡先生が入学したのは明治40年の4月ですが、入学時の名前は「坂本潔」でした。それから二年生の二学期に大阪の菅南尋常小学校に転校し、六年生のとき帰郷して、また柱本尋常小学校にもどりました。このとき姓が変って「岡潔」になりました。
 卒業時の記録がわずかに残り、大正2年3月25日、尋常科卒業と記載されています。。学籍番号は「321」。同期生は男17人、女10人で、計27人。山村の小さな学校なのでした。
 柱本小学校にお別れした後、慶賀野の一ノ瀬さんのお宅を訪ねました。ここは紀見峠の岡家が取り壊されることに決まったときの岡家の転居先で、昭和14年の夏から昭和23年の春までここに住みました。この家のことは2月の和歌山行のおり、北村市長に教えてもらい、それ以来、念頭にありました。一ノ瀬さんは在宅中でしたので、ちょっとだけお話をうかがいましたが、一ノ瀬さんは岡先生のすぐ後にここに移ったわけではなく、北村暾(きたむら・とん)から買い取りましので、岡先生が住んでいたころのことは知らないということでした。一ノ瀬さんが移ったときの家は東向きで、そのためか、よく空き巣が入り、あまり頻繁すぎるというので家の全体をぐるりと回して南向きにしたのですが、それでもその後一度、空き巣に入られたという話でした。
 北村暾(きたむら・とん)さんは北村市長の兄で、俊平さんの長男ですが、この慶賀野の家はもともと暾さんの奥さんの実家の持ち家でした。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(14) 喫茶店「サフラン」にて

郷土資料館の他の展示物を見ると、岡先生が履いていたゴム靴とオーバーコートがありました。それと、岡先生が受けたいろいろな賞の賞状の写真がありました。文化勲章の勲記をはじめとして、文化功労者顕彰状、日本学士院賞の賞状、朝日賞、毎日出版文化賞、それに橋本市の名誉市民の称号を贈る言葉の書かれた表彰状が並んでいました。文化勲章の勲記などの文面を見るのははじめてのことでした。写真だったと思うのですが、ノートにもメモがなく、実ははっきりした記憶がありません。ゼロックスコピーを作るというのも考えにくいと思うのですが。
 3月17日の資料館訪問はこれで終りました。
 翌3月18日は月曜日でした。ぼくはまた和歌山に向かい、紀見峠駅で降りて駅前の「サフラン」という喫茶店に入りました。この日は特別の目当てがあったわけではなかったのですが、紀見村と紀見峠から離れがたい気持ちがあり、とりとめもなく村を歩いてみようというほどの考えでした。喫茶サフランのおばさんとの四方山の話の中に紀見村の今昔の物語があり、柱本小学校も話題に登りました。柱本小学校は柱本尋常小学校の後身で、おばさんも卒業生のひとりです。前回の紀見村訪問のおりに出会った松本茂美さんのお住まいは紀見峠駅のすぐ前ですが、そのあたりは矢倉脇といい、住民は110軒ほどで、昔からの人ばかりです。ところが、最近になって城山台団地とか三石台(みついしだい)団地など大型の団地の造成が続き、急激に人口が増えました。1000軒以上ということでした。一番はじめにできたのが城山台団地で、(平成8年の時点から振り返って)15年前ということですが、急にこの地区に人が集ったため、南海高野線にも「林間田園都市駅」という新駅が設置されました。新しい住民たちはみなこの駅から大阪方面に通勤するのでしょう。
 ニュータウンができる前は柱本小学校の児童は現象の一途をたどり、18年前には全学年を合わせても120人とか130人程度になり、100人を切ったこともあるそうですが、今では800人以上というのですから驚くほかはありません。柱本小学校の校区は旧紀見村地区の北部ですが、もともと260軒、270軒ほどだったところ、今は紀見ヶ丘団地に900軒、光陽台団地に200軒。団地の中には中学校もあります。
 サフランのおばさんにこんな話のあれこれをうかがった後、道順を教えていただいて柱本小学校に向かいました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(13) 新編水滸伝

 郷土資料館の岡先生のコーナーの陳列物は決して多いとはいえませんし、組織的に配列されているわけでもないのですが、洋行の途次のカイロからの絵葉書といい、中学時代の文稿帳といい、強く心を引かれるものが揃っていました。中でも驚いたのは岡家所蔵の『水滸伝』でした。これは岡先生の叔父の「旭櫻院」こと齋藤寛平の所持品で、分厚くて頑丈そうな立派な書物なのですが、何分にも古い本ですので触れると壊れてしまいそうなたたずまいで鎮座していました。瀬崎先生にお願いして閲覧させていただいて、奥付などをノートに書き写しました。出版年は明治25年です。

 (奥付) 
 明治二廿五年十月十一日 印刷
 同年同月十三日 出版
 著者 曲亭馬琴 高井蘭山
 發行所 一二三堂
 專賣所 大川屋書店
 新編水滸傳全
 
齋藤寛平の生年ははっきりしないのですが、明治33年に24歳で亡くなっているのは間違いなく、戦前の歿年は数え年ですから、逆にたどって明治10年の生れと推定されます。ちょうど西南戦争があった年です。紀見峠に生れ、おそらく柱本尋常小学校を出て、それからどうしたのか、よくわからないのですが、東京に出て早稲田大学の前身の東京専門学校や中央大学の前身の東京法学院に通って法律を勉強していた模様です。
 岡先生の父の坂本寛治は男ばかり四人兄弟の三番目で、齋藤寛平は末の四男でした。上の二人の兄は、長兄が岡寛剛(おか・ひろたけ)、次兄は谷寛範(たに・ひろのり)というのですが、どちらも和歌山中学に進んでいます。ところが、途中から岡家の教育方針が変化したようで、坂本寛治と齋藤寛平は東京に出て、ともに法律を学びました。寛治さんは明治大学の前身の明治法律学校を卒業しています。小学校を出てすぐに上京したわけではないと思うのですが、寛治さんも寛平さんも和歌山中学の卒業生名簿には名前が記載されていませんし、他の中学を出たのかどうかも不明です。あるいは中学は中退したのかもしれません。
 郷土資料館の『新編水滸伝』には、ローマ字で
   K.SAiTO
と記入されていました。これは寛平さんの手書きの文字と思います。刊行年の明治25年には寛平さんは15歳。上京した寛平さんは刊行後まもない水滸伝を見つけ、購入したのであろうという想像に誘われます。もうひとつ、
  齋藤寛平氏
   愛讀之書也
という書き込みも目に入りましたが、これはだれの字と見るべきなのでしょうか。自分の名前に「氏」をつけるのは変ではありますが、文字を眺めていると、寛平さんがたわむれに自分で書いたのであろうと自然に感じられました。
 寛平が亡くなった年の翌年の明治34年に岡先生が生れました。岡先生は柱本尋常小学校を卒業して粉河中学を受験したのですが、一度目は失敗し、紀見尋常高等小学校の高等科に一年間だけ通いました。そのころ書庫で水滸伝を見つけ、倉にこもって読みふけったと岡先生はエッセイに書いています。倉というのは、はじめての和歌山行のおりに見つけたあの倉のことですが、続いて郷土資料館で水滸伝の実物を見ることができたのは感銘の深い出来事でした。非常に立体的なイメージが心に結ばれたのですが、このような味わいはフィールドワークならではのことと思います。

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