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解析概論の系譜45 コーシー『解析教程』の序文より(1)

 高木貞治の著作『近世数学史談』は第1章「正十七角形のセンセーション」以下,全部で23個の章で構成されていますが,第13章は「コーシーの教程及び綱要」と題されて,コーシーの微積分が取り上げられています.「教程」は『解析教程』,「綱要」は,ここまでのところで『要論』と呼んできた著作です.本文を読み進めていくと『解析教程』の序文に出会います.

《・・・ここに代数解析の名の下に知られる[工芸学校に於ける]講義の初めの部分を公にする.予は次々に実又は虚の種々の函数,収斂する又は発散する級数,方程式の解法,有理函数の分解等を論ずる.函数の連続性を論ずるに当っては,無限小なる量の重なる性質を説くことの止むべからざるを感じたそれこそは微積分法の基づく所である・・・》

「工芸学校」というのはパリのエコール・ポリテクニクのことですが,「工芸」を複数にして「諸工芸学校」という訳語を目にすることもあります.「微積分法」の原語は"calcul infinite'simal"で,無限小解析の意で,これに微積分法という訳語をあてるのは意訳の一種ですが,無限小解析はコーシーを俟って微積分法になったと言えるのですから,このように訳出するのはあながち不適切とは言えないように思います.

《方法としては予は数学に於て要求せられたる厳密を期して,器械的計算から引き出される大まかな論法を用いない.そのような論法が往々許容されて,収斂級数から発散級数へ,又は実数から虚数へと推移するのは,予の考うる所に由れば,時として帰納的に真理を予感せしめることはあっても,決して数学の誇りとする正確を期すべき途でない.このような方法は公式の適用範囲を不確定にするものであって,実際はそれらの公式は唯或る条件の下に於てのみ,又その式に含まれる数の特殊なる値に対してのみ成立するのである.それらの条件及びそれらの数値の範囲を決定して,予の用いる記法の意味を精密に限定して,一切の不確実を消滅せしめんとするのである.》

 文中,二箇所に「数学」という言葉が見られますが,一番はじめの「数学」の原語は"ge'ome'trie"で,「幾何学」のことです.二番目の「数学の誇りとする正確を期すべき途」というところの「数学」は,"sciences mathe'matiques"にあてられた訳語ですが,そのまま訳出すると「数学的科学」となります.数学もまたサイエンスの一環として把握されていたかのおような気分をかもす言葉です.「実数」と「虚数」の原語をそのまま訳出すると,それぞれ「実量」「虚式」となります.「実量」はともかく,「虚式」というのは奇妙で,違和感があります.また,「公式」の原語は直訳すると「代数的式」になり,「数値」の直訳は「量の値」です.
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解析概論の系譜44 ラグランジュからコーシーへ

『解析関数の理論』の末尾には「この著作のねらい」が書き留められています.

《この著作のねらいは,関数を原始関数と見たり導出される関数と見たりする視点に立って関数の理論を与え,この理論により解析学,幾何学,それに力学の主だった諸問題を微分計算に従属させて解き,そうすることにより,これらの問題の解に対し古代の人々の証明に見られる完全な厳密さを付与することである.》

 こうして明記されたように,ラグランジュのねらいは微積分に「古代の人々の証明に見られる完全な厳密さ」を与えようとするところにありました.「古代の人々の証明」というあたりは,ユークリッドの『原論』などがラグランジュの念頭にあったのではないかと想像されるところです.
 微積分の基礎に「完全な厳密さ」が欠けているのではないかという思いは,微積分の創始者たちの間で当初から共有されていたようで,オイラーもダランベールも無関心ではありませんでした.ラグランジュもまたこの思索の流れに一石を投じたのですが,ほどなくしてコーシーの批判を受けることになりました.時系列を振り返ると,『解析関数の理論』が出版されたのは1797年,第二版の刊行は1813年でした.この間,1800年に同じラグランジュの著作『関数計算講義』が出ましたが,これは『解析関数の理論』の第一部への註記と補記を企図して執筆された作品です.1806年には新版(増補改訂版)が刊行され,大幅に増補されました.改訂と増補が幾度となく繰り返され,微積分の基礎理論の構築に寄せるラグランジュの熱意が伝わってくるかのようなめざましい情景ですが,そこにコーシーの『解析教程』が出現しました.刊行は1821年ですから,『解析関数の理論』の初版の出版年からちょうど24年目の出来事でした.

解析概論の系譜43 ラグランジュのアイデア

 極限の概念を基礎に据えることにより,微積分ははじめて厳密な学問になったとはよく言われることですが,その場合,厳密化とは無限小の観念を放棄することを意味します.極限のアイデアを微積分に持ち込んだのはダランベールのようですが,オイラーもまた承知していたことは既述の通りです.この流儀は今日の微積分でもそのまま踏襲されていて,微積分を学ぼうとすると真っ先に極限概念に直面し,「イプシロン-デルタ論法」などの理解がむずかしくてだれもが苦しめられたりするのですが,みなもとはコーシーであり,ダランベールやオイラーのアイデアがそのまま今日に及んでいるわけではありません.ダランベール,オイラーとコーシーの間にもうひとり,ラグランジュという有力な人物がいて,いわば橋渡しのような役割を果しています.
 ラグランジュは早くから無限小の観念を微分計算の軛(くびき)と見て脱却を願っていたようですが,1772年の論文においてすでに新しいアイデアを表明したということです.ラグランジュの見るところ,極限の概念などは無限小の言い換えにすぎず,いわば言葉のあやのようなものですから,そのような概念を基礎にしても無限小の観念から自由になれるわけではありません.ラグランジュは,微分計算の根源を無限小の束縛から解放してくれる道を関数の級数展開に求めました.

《1772年のベルリンのアカデミーの諸論文に混じって印刷された一論文において,関数の級数展開の理論には,無限小や極限に関するいっさいの考察から解き放たれた微分計算の真の諸原理が内包されていることを,私はあらかじめ提示しておいた.その論文のテーマは,微分と正の冪,および積分と負の冪の間み見られるアナロジーであった.私はこの理論によりテイラ-の定理を証明した.この定理は級数の方法の基礎であり,この計算を援用してはじめて,言い換えると無限小差の考察を通じてはじめて証明されたのである.》

《その後,アルボガスト(Arbogast)が科学アカデミーに一篇の論文を提出したが,そこでは同じアイデアが,彼自身の手になる進展と応用とともに説明されている.だが,この著者はこのテーマに関して何も刊行しなかったし,私はといえば,特殊な諸事情により解析学の一般原理を展開する責務を負うことになったので,微分計算の諸原理に関する昔日のアイデアを回想し,それらの原理を確実なものにして,一般化することをめざして新たな反省を加えた.それがきっかけになって,解析学のこの重要な領域を研究する人々とって有益でありうることだけを考慮して,この著作(註.『解析関数の理論』を指します)を出版することを決意したのである.》

 無限級数でしたらニュートンは早くから承知していましたし,むしろニュートンは無限級数を自在に駆使しえた一番はじめの人物と見るのが本当です.ラグランジュ自身,「これに加えて,微分計算を考察するこのような流儀が,もっと早くから幾何学者たちに提供されていなかったこと,わけても級数の方法と流率法の創始者であるニュートンに抜け落ちていたことは,意外に思われるかもしれない」と述べているのですが,続いてこんなことも語っています.

《だが,われわれはこの点に関して,実際のところ,ニュートンは当初は『プリンキピア』の巻2の第三番目の問題を解くため,級数の簡単な考察を利用しただけにすぎないことに注意を喚起しておきたいと思う.その問題では,ニュートンは,重さのある物体がある与えられた曲線を自由に描くために必要な抵抗に関する法則を追究している.これはもとより微分計算もしくは流率計算に依存する問題である.ヨハン・ベルヌーイが,この解を微分計算から帰結する解と比較することにより,誤っていることを発見したことはよく知られている.ヨハン・ベルヌーイの甥のニコラウスは,この間違いは,ニュートンが,与えられた曲線の経線を変形してできる収束級数の第三項をこの経線の二階微分として取り上げ,第四項を三階微分として取り上げたことに起因すると主張した.微分計算の諸規則に沿うなら,これらの項は,一方は対応する微分の二分の一であり,もう一方は六分の一にすぎないのである.(科学アカデミーの171年の「メモワール」およびヨハン・ベルヌーイの全集の巻1を参照せよ.)ニュートンは,弁明することなく,自分の当初の方法をすっかり放棄して,『プリンキピア』の第二版では,同じ問題の,まさしく微分計算に事づく異なる解を与えた.それ以来,ニュートンが陥った侮蔑を話題にしたり,ニコラウス・ベルヌーイの注意事項を考慮する必要性を強調したりするほかには,この種の問題に対して級数の方法を適用することについて語られることはなくなった.(百科全書のの記事「微分」「力」を参照せよ.)だが,この侮蔑は級数の方法の根柢から発生するのではなく,単にニュートンが,考慮しなければならないすべての項を考えなかったことに由来するにすぎないことを,われわれは示すであろう.そうしてこんなふうにして,『プリンキピア』の註釈者たちがだれも語らなかったニュートンの一番はじめの解を修正したいと思う.》

 このようなラグランジュの言葉を見ると,ニュートンによる無限級数の取り扱い方はそれほど緻密ではなかったような印象を受けますが,真偽の詮索はむずかしく,判断は留保するほかはありません.ここではただラグランジュの言葉をそのまま紹介するだけにとどめたいと思います.

数学書と将棋の観戦記(2)

 数学書の書き方についてこのごろよく思うのは,数学の本を将棋の観戦記のように書けないだろうかということです.将棋の観戦記というと,昔,金子金五郎先生(将棋九段)にお目にかかったことがあります.金子先生は戦前の花形棋士でしたが,将棋と人生に悩みがあり,戦後,引退して宗教的生活に沈潜しました.同時に,将棋の観戦記作家として新境地を開きました.群馬県の高崎に自坊があり,晩年はお一人で暮していました.ぼくは二度訪ね,お話をうかがいました.
 金子先生の観戦記はある一手の選択にいたるまでの棋士の心の揺れを,心のひだにどこまでも深く分け入って理解しようとするもので,非常に精密な心理描写に特徴がありました.素人の目には指し手の意味が理解できませんから,猫に小判というか,精緻きわまりない心理描写も何のことかわかりません.それでもなお,描写そのものに深みが感じられ,ときたまなるほどと思うことなどもあり,興味は尽きませんでした.
 ひとくちに素人といっても棋力はさまざまですが,5級か6級程度の初心者にも,県を代表するほどの強豪にも,金子先生の観戦記の魅力はそれぞれの棋力の範囲内で十分に伝わったのではないかと思います.このような事情はプロの棋士にとっても同じことで,四段になったばかりの新進も名人級のタイトル保持者たちも,棋力に応じてそれぞれに金子先生の言葉を味わうことができます.これを要するに,将棋に関心のある人ならだれもが楽しめるというところに,金子先生の観戦記の魅力がありました.
 観戦記の執筆にあたり,金子先生は特定の読者層を想定するようなことはしませんでした.読者の棋力を想定してわかりやすく書くというような配慮はなく,御自身の心のおもむくままにどこまでも指し手の真実を究明したのですが,その結果,万人の鑑賞にたえうる観戦記が現れました.プロの高段者の指し手がふんだんに語られながら,しかもだれもが楽しめるのですから,観戦記の理想というほかはありません.
 これを数学の場合に移して考えてみますと,読者層を勝手に想定して数学の話の程度を適当に設定するようなことをするのはかえって効果が薄く,数学の魅力は決して伝わらないのではないでしょうか.数学の諸概念の定義や数式を並べても数学の心は伝わりません.それならむしろ金子先生にならっていっさいの妥協を捨て去って,数学のもっとも深遠な領域を,自分が理解したままの姿で語る方がよいのではないでしょうか.読者はみずからの数学の力に応じて,わかるところはわかるままに味わい,わからないところはわからないままに通り過ぎるというふうにして,全体として何かしら数学の心に触れることができるのではないでしょうか.
 一例を挙げますと,高木貞治先生の著作『近世数学史談』はそのような数学書になっているのではないかと思います.岩波新書の『岡潔 数学の詩人』ははたしてどうかと案じられます.
 高木先生の『近世数学史談』はだいぶ前に岩波文庫に入り,それから長い間,品切れ状態になっていましたが,近々,復刊される模様です.

数学書と将棋の観戦記(1)

 数学の専門書は想定される読者層がはじめから明確で,著者はみな数学者もしくは数学を学びつつある人を念頭において執筆していることと思いますので,主導権は基本的に著者にあり,あまり難解なことを書いたら読者が離れるだろうというたぐいの悩みはありません.これに対し,新書や文庫の形で数学の本を書くということになりますと,著者も出版社も読者層を思い描かなければならず,専門書の場合とは異なる苦心が要請されるのではないかと思います.数学や数学者に関心を寄せてはいるものの,数学それ自体の知識はさほど深くないという一般的な読者に向けて,いわゆる啓蒙書を書くという構えになります.
 この流儀で取り掛かると,たいていの場合,大きな矛盾に逢着します.数学そのものの姿を描写しなければ数学書を書いたことにはなりませんし,数学者の評伝の場合でしたら,その数学者が取り組んだ数学研究の中味に踏み込んでいかなければ,数学者を書いたことにはなりません.すなわち,「数学のない数学書」というのは根本的にありえないことになります.ところが,他方,数学の記述が増えれば増えるほどますます敷居が高くなり,反比例するかのように読者の足は遠ざかります.この矛盾を解消しようとすると,勢い記述される数学の中味は薄くなり,ピタゴラスの定理のような初等幾何や,二次方程式の解法,あるいは,せいぜい三次と四次の代数方程式の解法や,素数や完全数や友愛数のような数論の話題など,簡単な数学に限定されてしまいます.簡単な数学にも歴史がありますから,物語を叙述することはできますし,携わった数学者たちにまつわるエピソードにも興味を引かれるものがいろいろあります.ではありますが,この程度の数が玖しか登場しないのでは依然として「数学のない数学書」の域に留まってしまい,数学書になりません.
 数学がなければ数学書とは言えず,そうかといって数学を全面に押し出すと読者は減少します.この矛盾を解消するにはどうしたらよいのでしょうか.

解析概論の系譜42 ラグランジュの所見

 ラグランジュの言葉は続き,ニュートンの流率法に見られる神秘的な一語,「消失しつつある量の最後の比」に及びます.

《ニュートン自身もまた,その著作『プリンキピア』において,より手短に,消失しつつある量の最後の比の方法を好んだ.近年の解析学において,流率の方法に関する論証が帰着されていく先は,この方法の諸原理なのである.しかしこの方法は,適切に言えば前述した極限の方法の代数的翻案にすぎないのだが,極限の方法と同じく,言わば,量であることをやめている状態において量を考察するという,大きな不都合をもっている.というのは,二つの量の比は,それらの量が有限に留まる限りつねに実際に考えられるとはいうものの,この比を作る二つの項が双方ともに同時に0になるとたちまち,もはや明瞭かつ精密は観念を心に結ばないのである.》

「最後の比」は流率法の根柢にあってこれを支える基礎概念ですが,ラグランジュの見るところ,極限の方法の代数的翻案にすぎないというのです.極限の方法も「最後の比」の方法も「量であることをやめている状態において量を考察している」とラグランジュは指摘しました.いずれにしても大きな不都合があるのですが,二つの有限な量の比を考えるのに問題はないとしても,大きさのない二つの比というものを考えるところにいたって,とたんに現実を遊離してしまうのです.ライプニッツ流の微分計算もニュートンの流率法も,計算の実体は同等で,根柢に横たわる基本思想はともに不可解であるというのがラグランジュの所見です.偉大な数学者ラグランジュならではの明晰判明,単刀直入な指摘です.
 無限小や消失する量を回避しようとする試みもいろいろ現れたようですが,根柢の形而上的思索を合理化すると,かえって微分計算の利点がうすなわれてしまうとも,ラグランジュは言っています.

《ある熟達したイギリスの幾何学者が,この人物は解析学において重要な発見をした人なのだが,近年,それまではイギリスのあらゆる幾何学者が細心の注意を払って追随していた流率法に代って,ある純粋に解析的な別の方法を使うことを提案したのは,このような困難を予告するためなのである.その方法は微分計算によく似ているが,変化量の無限小の差,言い換えると0だけしか使わないことにするのではなく,まずはじめに変化量のさまざまな値を使い,次にそれらを等値するのだが,それに先立ってこの等式が0になる原因となる因子を割り算を行って消しておくのである.このようにすることにより,無限小や消失する量が実際に回避される.だが,この計算の手順や適用はめんどうだし,それにあまり自然ではない.微分計算を基本原理の場においていっそう厳密なものにしてくれるこのような手立ては,微分計算の主な利点,方法の簡明さと演算の簡易さを失わせてしまうことを認めないわけにはいかない.》

「ある熟達したイギリスの幾何学者」というのはジョン・ランデンという人で,『剰余解析 代数的技法の新しい一分野』(1764年)という本の著者です.
 次に挙げる所見には,微分計算に寄せるラグランジュの感慨がよく現れています.

《微分計算の諸原理を確立し,提示しようとする様式と,この計算の呼称にこのようなヴァリエーションが見られるということは,演算のメカニズムの面で一番単純で一番便利な諸規則がまずはじめに見つけられたとはいうものの,真実の理論がまだ把握されていなかったということを示している.そんなふうに私には思われる.》

 そこで,微分計算を支える「真実の理論」を発見することが,ラグランジュの目的になりました.

岩波新書「岡潔 数学の詩人」

岩波新書の新赤版の一冊として「岡潔 数学の詩人」が刊行されました.岡先生がこの世にお別れしたのは昭和53年(1978年)3月1日の明け方でした.その日,当時,ぼくは大学院の学生でしたが,数学の世界が唐突に色褪せたかのようでした.当日の情景は今もありありと思い出されます.週刊誌や新聞に多くの回想記事が現れましたので,収集してスクラップブックに貼りました.翌年,昭和54年(1979年)の初夏,岡先生の父祖の地の紀州和歌山県の紀見峠にはじめて足を運びました.
 今年は岡先生の歿後30年にあたります.世紀は移り,数学の世界の様相も大きく変容しましたが,岡先生がぼくら後進に明示した数学研究の姿勢はかけがえのない遺産です.岡先生がこの世に遺した大量の研究記録を整理して,「岡潔数学論文集」を編みたいと決意を新たにしています.

解析概論の系譜41 ニュートンの流率法

 ニュートンがそうしたように,無限小の観念を放棄して運動の観念を採用すれば,たとえば曲線は「運動する点の軌跡」として認識されることになります.上空に向かって石を投げれば放物線を描いて飛んでいきますし,飛行機の飛翔の軌跡は飛行機雲の描く曲線を辻手ありありと目に映じます.そんな日常の経験に訴えるなら,曲線を「運動する点の軌跡」として把握するというアイデアはいかにも卑近ですし,困難はありません.これに比べると,「無限小の辺がつながって形成される無限多角形」という曲線の認識はいたずれに形而上的でありすぎるように感じられます.
 ではありますが,運動の観念を微積分に持ち込むと別の種類の困難が生じます.点の運動の途次,速度の変化にあたり,「瞬間における速度」という不思議な概念を設定しなければならなくなるからです.

《しかし,一方では,代数的な量だけしか目的としない計算に運動を持ち込むということは,素性の知れない観念を持ち込むということであり,これらの量を「動く物」の動きにより描かれる線とみなすことを強いられてしまう.他方では,速度が変化するとき,ある点の各々の瞬間における速度というものについて,透明な観念を持ち合わせていないことを告白しなければならない.そうしてマクローリンの『流率概論』により,流率の方法を厳密に説明するのはどれほどむずかしいか,また,この方法のさまざまな構成部分を説明するためにどれほど多くの特殊な技巧を使わなければならないのかということが理解されるのである.》

 マクローリン(1698-1746)はニュートンの承者と見られるイギリスの数学者で,著作『流率概論』(全二巻)は1742年に刊行されました.

解析概論の系譜40 無限小の仮説と運動の仮説

 微積分の根柢に無限小の世界が広がっていることは動かすことのできない事実であり,ライプニッツとニュートンが微積分を創始したと言われることの実体は,無限小の世界の発見という,まさしくその一事に集約されています.無限小の世界というものがはたして存在するのか否か,観念的に考えるとだれも是非は言えませんが,微積分の草創期のごく少数の数学者たちの間で,無限小の世界に寄せる強固な実在感が共有されていたこともまた疑問の余地はありません.実在感が真に数学になりうるためには,有限の世界と無限小の世界を結ぶ簡明な往還路が発見されなければなりませんが,ライプニッツはこれを二つの計算式
  d(x+y)==dx+dy
  d(xy)=ydx+xdy
により明示しました.これは数学的発見ですから,証明の対象ではなく,正しいと思う心もまた,共有された感受性の現れにほかなりません.この式の支援を受けると,接線を引くことや面積の算出が自由にできるようになるのですから,無限小の世界と上記の往還路の実在感はますます強まるばかりであったに違いありません.
 ライプニッツやベルヌーイ兄弟やオイラーは無限小の世界に寄せる信頼感を隠そうとしませんでしたが,ニュートンは不安を感じたようで,微積分,すなわちニュートンのいう流率法の記述にあたり,無限小の世界があらわにならないように苦心した模様です.ニュートンは無限小の仮説を回避しようとした,とラグランジュは言っています.

《ニュートンは無限小の仮説を回避するために,数学的諸量は運動により生成されると見て,これらの量の生成を伴う速度,あるいはむしろ可変速度の比を直接決定するための方法を探究した.これが,ニュートンにならって,「流率の方法」もしくは「流率計算」と呼ばれるものである.というのは,ニュートンは速度のことを量の「流率」と名づけたのであるから.この方法は,もしくはこの計算は,根本のところで,また演算に関して言えば,微分計算と一致していて,異なるところといえばメタフィジックのみにすぎないし,そのメタフィジックは,実際のところ,いっそう明晰に見える.というのは,だれもがみな速さの観念をもっているか,あるいはもっていると思っているからである.》

 ニュートンの流率法には無限小の観念は現われず,運動の観念が基礎になっていることはしばしば指摘される事実ですが,ラグランジュの見るところ,流率法の計算はライプニッツの流儀の微分計算と異なるところはありません.無限小の世界を放棄して運動の観念を採用したところは大きく様相を異にしますが,この点ではニュートンの方が明晰に見えるというのですが,そのわけはといえば,人はみな速さの観念をもっている,あるいは,もっていると思っているからというのです.これだけの理由にすぎないのであれば,運動の観念のかもす明晰さはいわば気のせいにすぎず,ラグランジュの目には,無限小の世界と同程度のあやうさが映じたに違いありません.

解析概論の系譜39 不易と流行

 曲線というものを,無限小の長さの辺が無限につながって形成される線として把握するのは「間違った仮説」であるとラグランジュは明快に指摘しましたが,このような把握の仕方は「無限小の世界」を想定することと不可分に結ばれています.ラグランジュは「無限小の世界」に実在感を感じることができず,そんな世界を考えることもまた間違っていると強く思い,無限解析の土台の安定性に対して大きな不安を抱いたのでしょう.実在感が失われれば数学の対象物は消滅してしまいますから,新たな対象が生成されなくてはなりませんし,その変遷のプロセスこそ,数学史というものの基幹線を形成するのではないかと思います.っただし,一番はじめにライプニッツが(それに,ニュートンも)発見した新しい計算法の実体が失われることはなく,ただ担い手の数学者たちの移り変わりに連れて,同一の実体がさまざまな衣裳をまとって姿を現します.「不易と流行」という言葉が回想される場面です.
 関数概念も微分も積分もみなそんな道筋をたどりました.オイラーのいう「解析的式」から今日の「集合間の一価対応」まで,関数の概念は大きな変化を受け入れてきましたが,概念規定の文言を見る限り,みな同一とはとうてい思えません.変化量の微分の相互関係を算出するのが微分計算のはじまりだったのですが,シュヴァルツの『解析教程』には,関数を線型写像によって近似するのが微分法というものであると書かれています.また,当初の積分計算は微分計算の逆演算として認識されたのですが,やがてコーシーの定積分が現れ,リーマン積分へと拡大され,それから間もなくルベーグ積分が出現しました.有理数に対して値0を取り,無理数に対して値1を取るという,いわゆる「ディリクレの関数」を取り上げて,たとえば有界閉区間[0, 1]上で積分することを考えると,リーマン積分の意味では積分不可能ですが,ルベーグ積分の意味では積分可能で,積分値は1になります.この例はルベ-グ積分のテキストに書かれていますが,積分の理論がさまざまにありうるというのでしたら,「関数を積分する」という場合には,どの積分によって計算するのか,そのつど明記しなければならないことになります.なんだか奇妙な感じがあり,この素朴な疑問にはずいぶん長い間,悩まされました.さまざまな衣裳の流行に惑わされて,数学と数学史における「不易」ということの深い意味合いをなかなか理解することができませんでした.

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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