Entries

(数学者の群像3)オイラー(3)

1727年,オイラーはもう一篇の論文[E003]「代数的なreciprocal trajectoriesを見つける方法」を執筆し,学術年報(1727年)に掲載しました.これも5ページの短篇です.タイトルに見られるreciprocal trajectoriesというのは何を指すのか,よくわかりませんが,[E001]と同じく,ヨハン・ベルヌーイ先生の影響のもとで,変分法にテーマを求めた論文のように思います.エネストレームナンバーが「1」の論文と「3」の論文の間にもう一篇の論文がありますが,それについては後述します.オイラーをこの論文[E003]をパリの科学アカデミーの1727年のグランプリにエントリーしましたが, この年のグランプリはBouguerという佛蘭西の数学者がとりました.この人は船に関する数学の専門家で,船のマストの最良の配列をテーマにして論文を書いたということです.オイラーは第二席になりました.
 1726年7月,ニコラウス・ベルヌーイ(II)がペテルブルグで死去し,ペテルブルグ科学アカデミーに空席ができました.そこでオイラーにペテルブルグにやってくるようにと申し出がありました.仕事は数学の応用とmechanics to physiologyを教えることというのですが,後者のmechanics to physiologyというのはどのような学問なのか,よくわかりませ(physiologyといえば生理学のことですが,オイラーとは無関係のように思います).この年の11月になり,オイラーはこれを受けましたが,実際にロシアに行くのは翌1727年の春まで延期したいと申し出ました.理由は二つありました.ひとつは,教えるようにと要請された学問について,勉強する時間がほしかったためで,これはもっともです.もうひとつは,バーゼル大学で物理の教授がひとり亡くなりましたので,空席ができました.オイラーはこのポストにつきたかったのです.そのために音響学に関する論文[E002]を書いてアッピールしたのですが,何分19歳ですから,若すぎるという理由もあり,最終選考に残れませんでした.これでペテルブルグ行くが決まりました.
 1727年4月5日,オイラーはひとりバーゼルを発ち,ペテルブルグに向かいました.ライン川を船で下り,ドイツを郵便馬車で横断し,最後にリューベックから船に乗り,1727年5月17日,ペテルブルグに到着しました.フェルマンの評伝『オイラー』には,このペテルブルグ行の模様がこんなふうに記述されています.

【オイラーのペテルブルグ行】
オイラーはペテルブルグ科学アカデミーの招聘を受け,ペテルブルグに向かった.1727年4月5日,バーゼルを離れ,マインツ行きの船に乗った.マインツから陸路ギーセン,カッセルを経てマールブルクへ.マールブルクから陸路ハンノーファーとハンブルクを経由してリューベックへ.そこから海路ヴィスマールとロストックをかすめてレーヴァル(今のカリン)へ.レーヴァルまで4週間かかった.レーヴァルで船を乗り換えてクロンシュタットへ.クロンシュタットに到着した日に女帝エカテリーナ1世歿.そこからボートで大陸にわたり,徒歩でペテルブルグに到着した.クロンシュタットからペテルブルグまで一週間ほどかかった.

 1731年,ゲオルク・ベルンハルト・ビュルフィンガーの後任として物理学教授になり,同時に科学アカデミーの正会員になりました.1733年には,バーゼルにもどったダニエル・ベルヌーイの数学教授職を引き継きました.
スポンサーサイト

(数学者の群像2)オイラー(2)

 1723年,オイラーはデカルトとニュートンの哲学思想を比較する研究により,哲学修士の学位を取得しました.哲学修士というのは,英語のMaster's degree in philosophyを試みにそう訳してみたのですが,実体はどのような学位なのか,よくわかりません.今日の大学制度での学士,修士,博士とは別物であることは間違いないとして,オイラーの時代の大学制度を研究してみないことには何とも言えないところですが,卒業はさらに三年後の1726年ですので,哲学修士の取得は卒業にいたる一里塚という感じでしょうか.
 ともあれ哲学修士を取得した後,1723年の秋から神学の勉強を始めました.牧師になってほしいという父の願いに応えようとする心情もあったのです.ところがこの方面の勉強もなかなかたいへんで,旧約聖書はヘブライ後,新薬聖書はギリシア語で書かれていますから語学の勉強も必要になります.オイラーはこれらの科目の勉強に数学に対するほどの熱意がもてず,そのために父の同意を得て専攻を数学に変更しました.オイラーの数学の力を見抜いたヨハン・ベルヌーイが父を説得したのですが,数学なら父の愛好する学問でもありましたし,当代を代表する数学者で,しかも若い日の友でもあったヨハン・ベルヌーイに数学の能力を請け合われたとあれば,父にしても拒絶を貫き通す理由はなかったのではないでしょうか.ただし,大きな決断であったこともまた間違いありません.
 1726年,オイラーはバーゼル大学を卒業しました.在学中,熱心に数学を学び,ヴァリニョン,デカルト,ニュートン,ガリレオ,ヴァン・スクーテン,ヤコブ・ベルヌーイ,エルマン,テーラー,ウォリスなどの著作を読みました.これらの著作家たちの作品を網羅すれば,当時の数学のほぼすべてを,しかも原典に沿って学んだことになりますし,師匠はヨハン.ベルヌーイですし,最高の環境でした.在学中なのか卒業後なのか,細かい日時ははっきりしませんが,卒業の年の1726年にオイラーは一篇の論文[E001] 「抵抗のある媒体内の等時曲線の作図」を執筆しました.この論文は学術誌Acta Eruditorum (学術報告),1726年, に掲載されました.たった3ページのノートですが,生涯で優に800篇を越えるオイラーの諸論文の劈頭に位置する論文です.このときオイラーは19歳でした.
 Acta eruditorum(学術報告)は,1682年にドイツのライプチヒでオットー・メンケが創刊したドイツの最初の学術誌です.オイラーの最初の論文もそうですが,掲載論文はみなラテン語で書かれています.1682年から1731年まで,全部で50巻まで刊行されました.

(数学者の群像1)オイラー(1)

連載「ガウスの遺産」は四次剰余の第二論文の紹介にさしかかったところですが、この論文はガウスの数論の到達点を示す傑作ですから、思索の跡をていねいに追っていきたいと思います。ガウスの数論の最後の作品で、この論文に表明された数論の思想を延長していくと、担い手はもはやガウス本人を離れ、一群の継承者たちにゆだねられていきます。試みに回想すると、アーベル、ヤコビ、ガロア、ディリクレ、アイゼンシュタイン、クンマー、クロネッカー、それにヒルベルトなどの名前が次々と念頭に浮かびます。それで、数学そのものの展開を追っていくのは当然として、それとは別に登場人物のひとりひとりの人物像を簡潔に紹介することもまた必要なのではないかと思い当たりました。そんなふうに思ってガウス以前を振り返りますと、オイラーやラグランジュやルジャンドルなどについても、これまで人間像を紹介したことがないことに気がつきました。そこで、数論史と平行して、オイラーからはじめて数学者の群像を語ってみたいと思います。

オイラーは1707年4月15日、スイスのバーゼルで生れました。昨年(2007年)がちょうど生誕300年の記念の年でしたので、欧米と、それに日本のあちこちで各種の催し事がありました。当研究所の開設もその一環でした。オイラーが亡くなったのは1783年 9月18日ですから、満76歳でした。亡くなった場所はロシアのペテルブルグです。
 レオンハルト・オイラーの父はパウル・オイラーといい、バーゼル大学で神学を学んだ人でした。卒業して牧師になったのですが、数学が好きだったようで、大学時代にはヤコブ・ベルヌーイの講義にも出席していたそうです。ヤコブの12歳下の弟がヨハン・ベルヌーイですが、パウル・オイラーとヨハンは学生時代、ヤコブ・ベルヌーイの家に同居していたこともあるそうです。卒業してプロテスタントの牧師になったパウルは、やはり牧師の娘であるマルガレーテ・ブルックナーと結婚しまし、レオンハルトが生れました。生地はバーゼルですが、1歳のとき、一家はバーゼルから遠くないリーヘン(Riehen)という町に引っ越しました。オイラーはここで成長しました。父パウロは多少数学に通じていましたから、少年オイラーに初歩的な数学を教えることができました。
 以下、レオンハルト・オイラーのことを単にオイラーと呼ぶことにします。1720年、13歳のオイラーは父と同じバーゼル大学に入学し、バーゼルに移り、母方の祖母といっしょに暮しました。聖職者になって父の教会を継いでほしいと期待されていましたので、神学を学んだのですが、父の教育により数学への関心をかきたてられていたため、自分で勝手に数学の本を読みました。大学で数学の講義を聴いたわけではなかったのですが、ヨハン・ベルヌーイからプライベートなレッスンを受けました。オイラーは独学で数学を学び、週末あたりにヨハン・ベルヌーイを訪ねて疑問を正すというふうでにして、レッスンが進行していきました。ヨハン・ベルヌーイはオイラーに秘められた大きな数学の力にすぐに気づきました。
 オイラーが遺した未完成の自伝には、次に挙げるような記事が出ています。

《私はすぐに、著名なヨハン・ベルヌーイ教授に紹介してもらう機会を得た。ベルヌーイは非常に忙しかったので、個人授業をすることをにべもなく断った。だが、ベルヌーイはずっと値打ちのあるアドバイスをしてくれた。それは、もっとむずかしい数学の本を自分で読み始め、可能な限り一生懸命勉強するように。障碍や困難に出くわしたら、毎週日曜日の午後、訪ねてきてもよろしい、というのであった。ベルヌーイは、私の理解できなかったことを何でもみな親切に説明してくれた。》

すぐれた数学者の個人授業にまさるレッスンはありません。ヨハン・ベルヌーイが父の友人だったことも有利に作用したことと思われます。

(ガウス101)四次剰余の第二論文(2)

これまでのところで数-1, +2, -2に関する調査が終り、与えられた法pに対し、これらの数が所属するクラスを決定する法則が見つかりました。同様にして、ガウスは他の数を取り上げて帰納的に法則をみいだそうと試みています。+3についてはうまききませんが、-3に対しては成功し、次のように分類されることがわかります。

 A bが3で割り切れるとき.言い換えるとb≡0(mod.3)のとき.
 B a+bが3で割り切れるとき.言い換えるとb≡2a(mod.3)のとき.
 C aが3で割り切れるとき.言い換えるとa≡0(mod.3)のとき.
 D a-bが3で割り切れるとき.言い換えるとb≡a(mod.3)のとき.

ガウスはこの配分法則を大量の計算を通じて見つけました。次に、+5については、配分法則は次のようになります。

 A b≡0(mod.5)のとき.
 B b≡aのとき.
 C a≡0のとき.
 D b≡4aのとき.

これもまた大量の計算を通じて大きな表を作り、その表を観察したところ見つかりました。ガウスは以下も同様にして計算と帰納的考察を進め、 -7, -11, +13, +17, -19, -23までの配分法則を列挙しました。さらに+3や+6, -6などについても、工夫を凝らして配分法則を見つけています。ですが、この種の計算はどこまでも進めてもきりがありません。
 あらためて四次剰余の理論の基本定理、すなわち四次剰余相互法則というもののあるべき姿を思案してみると、こんなふうであってほしいという理想があります。平方剰余相互法則の場合のように、異なる二つの奇素数p, qを取り、まずpに関し、pでわりきれないすべての整数を四つのクラスA(p), B(p), C(p), D(p)に分けます。qはこれらのいずれかのクラスに所属します。同様に、qに関して四つのクラスA(q), B(q), C(q), D(q)を設定すると、pは必ずこれらのクラスのいずれかに所属します。そこで、もしpが配属されるクラスとqが配属されるクラスとの間に何かしら一定の規則がみいだされたとするなら、その規則こそ、四次剰余相互法則の名に相応しいのではないかと思います。ガウスもそのように考えたようで、そんな仮想上の規則を見つけようとして大量の計算を実行したのですが、結局、断念しました。有理整数の範囲にとどまってい限り、四次剰余相互法則は決して見つからず、見つけるためには数の範囲を拡大して複素数の領域に進出していかなければならないのですが、ガウスはこの方面の研究をはじめてすぐに気づいていたと書いています。思索を始めたのは1805年ですが、ガウスはたちまち「一般理論の自然な泉はアリトメチカの領域を拡大して,その中に探し求めなければならないという確信に到達した」というのです。

(ガウス100)四次剰余の第二論文(1)

四次剰余の第一論文ではともあれ数-1と数2を対象にして二つの補充法則が提示され,証明も与えられましたが,これはあくまでも仮の姿であり,補充法則の真実の姿を認識するにはどうしても複素数の力を借りなければなりません.このことは数2については前回示唆した通りです.数-1についてはつい書き忘れてしまいましたが,-1は実は素数(複素数の素数については後述します)ではなく,虚数i=√-1を使うと,
  -1=(i)^2
と分解するのですから,第一補充法則は本当は虚数i=√-1に対して確立しなければなりません.ガウスは第二論文でこれを遂行していますが,いきなりそうするのではなく,一歩ずつ歩を進めています.
 第二補充法則について復習すると,p=a^2+b^2と置き,aは奇数,bは偶数として,a, bの符合はa≡1(mod.4), b≡af(mod.p)となるように定めます.ここで,fは合同式x^2≡-1(mod.p)の根のひとつで,あらかじめ定めておくのでした.このとき数+2は,b/2がそれぞれ4n, 4n+1, 4n+2, 4n+3という形であるのに応じて,集りA, B, C, Dに所属するのでした.これをaとbの関係に翻案して言い換えると,次の表のようになります.

+2が所属する集り bは法8に関して
    A       0 と合同
    B       2aと合同
    C       4aと合同
    D       6aと合同

 この表と-1の所属先とを合わせて考えると,数-2の分類の規則もまた明らかになります.-1は偶数のb/2に対してはクラスAに所属し,奇数のb/2に対してはクラスCに所属します.そうして四クラスA, B, C, Dの数の掛け算をあらかじめ考えておくと,
 A^2=A, BD=C^2=A, AB=CD=B, AC=B^2=D^2=C, AD=BC=D...
となります.これはどういう意味かといいますと,たとえばAの数とDの数を乗じると,その結果は必ずDの数になりますが,これを簡単にAD=Dと書いています.他も同様で,どれも簡単に確かめられます.さて,b≡6a(mod.8)のとき,+2はDに入ります.この場合,b/2は奇数ですから,-1はCに入ります.よって-2はDC=Bに入ることがわかります.こんなふうに確かめていくと,-2はb/2がそれぞれ4n, 4n+3, 4n+2, 4n+1という形であるのに応じて,クラスA, B, C, Dに所属することがわかり,これを書き直して次に挙げる表が確定します.

-2が所属する集り bは法8に関して
     A        0 と合同
     B        6aと合同
    C        4aと合同
    D        2aと合同

このように表現すると,もう条件a≡1(mod.4)を課す必要はなく,a≡3(mod.4)のときも,もうひとつの条件af≡b(mod.p)がある限り,やはり成立することがわかります.これで,第二補充法則はいっそう洗練された形に言い換えられました.

(ガウス99)四次剰余の第一論文(9)

法pをp=a^2+b^2と表示して、aは奇数、bは偶数とします。まずaの符合を、
  a≡1(mod,4)
となるように定めます。次に、合同式x^2≡-1(mod.p)の解のひとつfを定めます。fが解なら-fも解ですから、fには符合の分だけの任意性がありますが、正負のどちらでもよいとして、とにかくひとつのfを取ります。これで四つのクラスA, B, C, Dが確定します。同時に、合同式b≡af(mod.p)によりbの符合は自動的に確定します。このような状勢のもとで、数2が所属するクラスを、数bの形状を見て判定しようというのが、四次剰余相互法則の第二補充法則です。ガウスが第一論文で得た結論は次の通りです。

《数2は,数b/2が4m, 4m+2, 4m+2 もしくは 4m+3という形であるのに応じて,集りA, B, C もしくはDに所属する.》

ここで、平方剰余相互法則の二つの補充法則について、若干の注意事項を回想しておきたいと思います。第一補充法則で数-1が問題になるのはなぜかというと、-1は「単数」、すなわち方程式x^2=1を満たす整数だからです。この方程式を満たす整数はもうひとつあり、それはx=1なのですが、数1についてはすべては自明になってしまいますので、問題になりえません。次に、第二補充法則では数2が取り上げられますが、数2 は平方剰余の理論では特別の意味を帯びています。平方剰余は2次剰余と同じですが、数2は「2次剰余」の「2」にほかならないのです。
 それでは四次剰余ではどうかというと、第一補充法則で方程式x^4=1の根が問題になります。ところが、そのような根は1, -1, √-1, -√-1ですから、全部で四個あり、しかもそのうちの二つは虚数です。そこで、四次剰余の理論の対象は通常の有理整数の範囲をはみだしてしまい、複素数の世界へと広がっていくような感じがあります。第二補充法則はどうかといえば、今度は「四次剰余」の「4」が問題になりますが、数4は約数2をもち、しかも数2は複素数の範囲では、
  2=(1+√-1)(1-√-1)
と因数分解が進行します。複素数への契機がここにも顔を出しています。

(ガウス98)四次剰余の第一論文(8)

与えられた法pに関して、pで割り切れない数の全体を四つのクラスA, B, C, Dに区分けしましたが、その際、「pの平方非剰余である数e」をひとつ選びました。正確な表記ではありませんが、標語風に書けば
  A, B=eA, C=(e^2)A, D=(e^3)A
となります(eAは、Aの数とeとの積の全体。それらの数の法pに関する最小剰余の全体がBです。(e^2)Aと(e^3)Aについても同様です)。このままではeの選び方が茫漠としすぎているような感じがありますが、法pに関する原始根gを用いると、四つのクラスのそれぞれの構造はだいぶ見通しがよくなりました。その原始根gの冪指数(p-1)/4の冪を作り、それをfで表すと、原始根というものの性質により、
 f^2≡g^((p-1)/2)≡-1 (mod.p)
となりますから、fは法p の平方非剰余です。そこでこのfを先ほどのeとして採用すると、四つのクラスA, B, C, Dは、標語風に、
   A, B=fA, -A, -fA
と表記されます。fには符合に任意性があり、fの代りに-fを採ることもできるのですが、その場合にはクラスBとクラスDが入れ代わります。
 さて、目下の究明の目標は四次剰余相互法則の第二補充法則ですが、pが8n+1型のときはもう片付きました。この場合には数2はクラスAかクラスCのいずれかに所属しますし、AとCはpの如何によらず安定していますので、問題は生じません。pが8n+5型のときは数2の所属先はBかDで、BとDはfの選定の仕方に依存しますから、やや微妙な問題が生じます。この点の解明はガウスも苦労したようで、この部分の叙述は第一論文の過半を占めています。
 任意性ということでしたらfの符合ばかりではなく、p=a^2+b^2と表記するとき、aとbの符合にもまた任意性があります。ここで、aは奇数、bは偶数としますが、二つの平方数の和の形の表記に関する限り、a, bの代りに-a, -bを取ってもさしつかえません。奇数のaについては、もしa≡1(mod.4)なら-a≡3(mod.4)となりますから、aと-1では形が異なります。逆に、aの形をどちらかに決めれば、それに応じてaの正負はおのずと定まります。そこで、今、a≡1(mod.4)となるようなaを選定することにします。たとえば、p=73はp=9+64=3^2+8^2と表示されますので、a=3またはa=-3のいずれかを採用することになるが、上記の規約によりa=-3の方を選びます。
 このようにaを定めたうえで、次はbの符合を決めなければなりませんが、a, b, fは密接な関係で結ばれていることをガウスは示しました。それは、
  b≡af (mod.p)
という合同式です。bとfのそれぞれの符合の曖昧さの間には関係があることが、これでわかります。まずはじめにfの符合を決めておけば、上記の合同式に応じてbの符合もまたおのずと確定してしまいます。この合同式の証明のために、非常に繊細な論証が長々と続きます。

(ガウス97)四次剰余の第一論文(7)

8n+1型の素数は当然のことながら4n+1型でもありますから、直角三角形の基本定理により、二つの平方数の和としてa^2+b^2という形にも表されます。pが8n+1型の数である以上、aとbはともに偶数ではありえませんし、ともに奇数でもありえないのは明らかです。そこでaは奇数とし、bは偶数とします。するとa^2は奇数の平方ですから、必然的に8n+1型になります。偶数であるbの形としては、ある奇数の2倍の場合とある偶数の2倍の場合とが考えられますが、前者の場合にはb^2は8n+4という形になりますから、p=a^2+b^2は8n+5という形になります。ところが、これは当面の考察から除外されている場合です。したがってbはある偶数の2倍になるほかはありません。
 このように状勢を整えたうえで、ガウスは数2の所属先をbの形に応じて決定する法則を見つけました。すなわち、

《bが8nという形なら数2はクラスAに所属し、bが8n+4という形なら、数2はクラスCに所属する。》

というのです。bはある偶数の2倍ですが、数4を基準にして考えると、あらゆる偶数は4n型もしくは4n+2型のいずれかです。それゆえ、bは必ず8n型または8n+4型のどちらかになります。

(ガウス96)四次剰余の第一論文(6)

第一補充法則に続いて,今度は第二補充法則の番ですが,四次剰余の理論において第二補充法則を考えるのはなかなかむずかしい仕事です.問題は,与えられた素数pに対し,数2が所属する集まりはA, B, C, Dのうちのどれなのかを確定することで,2の所属先に何らかの法則が見つかれば,まさしくそれが第二補充法則です.ただし,数2を取り上げたのは平方剰余の場合の第二補充法則との類比を尊重してひとまずそうしただけで,本当は数2を
  2=(1+i)(1-i) (i=-√-1は虚数単位)
と「ガウス整数」の範囲で分解し,1+iまたは1-iを対象にして第二補充法則を立てなければならないのですが,詳細については第二論文を俟たなければなりません.
 ガウスの歩みに沿って考えることにして,まず平方剰余相互法則の第二補充法則により,数2は8n+1型の素数の平方剰余であること,また8n+5型の素数の平方非剰余であることはすでに知っています.したがって,前者の場合,すなわち法pが8n++1型の素数の場合には,2の所属先はAまたはCであり,後者の場合,すなわちpが8n+5型の場合には,2はBまたはDに所属することになります.BとDの区別は本質的とは言えませんので,まずはじめにpが8n+1という形の場合を考えます.
 8n+1型の素数は「ある平方数」と「ある平方数の2倍」の和,すなわちa^2+2b^2という形にただひと通りの仕方で表されます.これはフェルマが発見し,オイラーが証明した定理で,D.A.でも証明されています.a, bは正に取ることにします.aは必然的に奇数であるほかはありませんが,ガウスが着目したのはaの形状で,いろいろな例を見て次に挙げる命題を帰納的に得て,やや複雑な考察の後に証明も与えました.

《aが8m+1もしくは8m+7という形なら,数2は集りAに入っている.それに対し,aが8m+3もしくは8m+5という形なら,数2は集りCの中に見つかる.》

ガウスはこれを「美しい定理」と呼んでいます.

(ガウス95)四次剰余の第一論文(5)

法pの原始根g を用いると、四つのクラスA, B, C, Dをずっと明瞭に把握することができます。gは法pの原始根ですから、gの冪の系列
   g, g^2, g^3, ...
を作ると,冪g^(p-1)に先行するいかなる冪も,法pに関して1と合同になることはありません。そこで,p-2個の数1, g, g^2, g^3, ..., g^(p-2)の最小正剰余を作ると,順序はくずれますが,それらの剰余は全体として数1, 2, 3, ..., p-1と一致して,次のように四つのクラスに区分けされます.

 A  1, g^4, g^8, g^12, ... , g^(p-5) の最小剰余
 B  g, g^5, g^9, g^13, ... .g^(p-4)の最小剰余
 C  g^2, g^6, g^10, g^14, ... . g-(p-3)の最小剰余
 D  g^3, g^7, g^11, g^15 ,... , g^(p-2)の最小剰余

 こんなふうにして数1, 2, 3, ... , p-1は四つのクラスに区分けされました。そのほかの任意の整数については,pで割り切れないものに限ってのことですが、最小剰余を作れば数1, 2, 3, ... , p-1のどれかしらと法pに関して合同になりますから、その最小剰余と同じクラスに加えていくことにします。これで、pで割り切れないすべての整数が四つのクラスに区分けされました。
 さて、四次剰余の理論において第一補充法則に相当する法則はどのようなものになるのかといえば、それは「数-1が所属するクラスを定める規則」にほかなりません。pは4n+1型ですから、平方剰余の理論の第一補充法則により、-1はつねにpの平方剰余です。したがって-1はクラスAかクラスCのどちらかに所属します。これを踏まえてガウスはなお一歩を進め、

《pが8n+1という形であれば-1はつねにクラスAに所属し,p が8n+5という形であれば,-1はクラスCに所属する》

という事実を明らかにしました。-1の所属先はpの形によって決まるということで、非常に簡明な規則です。

Extra

プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
FC2ブログへようこそ!
オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

最近の記事

FC2カウンター

月別アーカイブ

最近のトラックバック

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる