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(ガウス10)D.A.と数学日記

 D.A.の緒言を読みかけのところで「数学日記」に話を転じてしまいましたが、どうしてこんなことになったのかというと、ガウスの数論の端緒を開いた発見、すなわち平方剰余相互法則の第一補充法則の発見が起ったのは1795年の年初のある日のことであると、ガウス自身が語っているからでした。ガウスは1795年にどのような数学的経験をしたのか、もう少し詳しく知りたいと思い、「数学日記」を連想した次第です。
 第一補充法則の発見を語った後に、この発見は「なおいっそうすばらしい他の数々の真理とも関連があるように思われた」とガウスの言葉は続きます。それで、「いっそうすばらしい他の数々の真理」とは何かという問題が生じますが、ガウスが開いた新しい数論的世界の中核に位置するのは、相互法則という、ただひとつの法則です。冪剰余相互法則と言えばもう少し正確になりますが、冪剰余の冪の冪指数は任意なのですから(ただし、1次の相互法則というのは存在しませんから、冪指数は2より大きくないと意味をもちません)、無数の相互法則が考えられていることになります。これに加えて、各々の相互法則には、つねに二つの補充法則が伴っています。1795年の時点でガウスがまずはじめに発見したのは、次数2の相互法則の本体ではなく、附随する二つの補充法則のうちのひとつなのでした。これを皮切りに、ガウスは数論の領域で次々と発見を重ねたというのですが、D.A.の内容に沿って観察するならば、第一補充法則以後、ガウスの発見は、

 平方剰余相互法則の第二補充法則(D.A.の第4章)
 平方剰余相互法則の本体(D.A.の第4章)

と続きます。すなわち、ガウスは平方剰余相互法則とその二つの補充法則を、帰納的な思索をたどって発見したのです。
 そのうえでガウスは証明の探索に全力を傾けて、首尾よく成功したのですが、D.A.には、基本原理を異にする二種類の証明が記述されています。ひとつは数学的帰納法による証明で、D.A.の第4章に出ています。もうひとつは二次形式の種の理論に依拠する証明で、これを記述するために、D.A.の過半を占める長大な第5章のほぼ全体が費やされています。D.A.の第6章は落ち穂拾いのような短篇ですが、第7章では円周等分方程式の解法理論へとテーマが移ります。一見すると平方剰余相互法則とは無関係のように見えるものの、ガウスがこの理論を通じて真にねらっていたのは平方剰余相互法則の第三番目の証明なのでした。
 D.A.を概観するとこのような状勢は見て取れるのですが、数学日記などを参照することにより、D.A.の成立過程をもっと精密にたどることはできないものでしょうか。こんなことを願いつつ、しばらく数学日記を参照しながらD.A.を読み進めていきたいと思います。
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(ガウス9)ガウスの数学日記

 ガウスの数学研究の歩みを今日に伝える第一次資料は、ガウス自身が遺した「数学日記」です。「数学日記」という呼称は今ここで仮にそのように呼んでみただけのことで、実体はガウスのプライベートなメモの集まりなのですが、記入されたメモのひとつひとつに日付が添えられていますので、日記のような体裁になっています。何かしら正式な名称があるわけではありませんし、公表する考えがあって書き継がれたわけでもありません。個々の記事も断片的で、意味のつかみにくいものも多いのですが、それでも丹念に読んでいくと、ガウスの数学研究の生い立っていく様子が彷佛するような感慨に襲われます。全部で146個の項目が並び、1796年3月30日の第1項目から1814年7月9日の最終項目まで、断続的に続きます。ガウスは1777年4月30日、ドイツのブラウンシュヴァイク(ブラウンシュヴァイク公国の同名の首都)で生れた人ですから、満年齢で数えると、ガウス日記の記事は18歳から37歳にわたっていますが、もう少し詳しく内訳を観察すると、毎年の項目数の分布状況は次の表のようになります。

1796年 49項目(1~49) 33.6パーセント
1797年 33項目(50~82) 22.6パーセント(ここまでで56パーセントに達します)
1798年 12項目(83~95) 8.2パーセント
1799年 7項目(96~102) 4.8パーセント(ここまでで70パーセントです)
1800年 3項目(103~105) 2.1パーセント
1801年 6項目(116~121) 4.1パーセント
1802~4年 1項目(122) 0.7パーセント
1805年 2項目(123~124) 1.4パーセント
1806年 4項目(125~128) 2.7パーセント
1807年 6項目(129~134) 4.1パーセント
1808年 3項目(135~137) 2.1パーセント
1809年 3項目(138~140) 2.1パーセント
1810年 0 
1811年 0 
1812年 3項目(141~143) 2.1パーセント
1813年 2項目(144~145) 1.4パーセント
1814年 1項目(146) 0.7パーセント

 ガウスは1855年2月23日、ゲッチンゲンで亡くなりました。数学日記が発見されたのは1898年の夏のことですから、実に43年後の出来事です。保管していたのはガウスの孫のカール・ガウス(1849-1927)で、パウル・シュテッケルという数学者が発見しました。最初に公表されたのは,ゲッチンゲン王立科学協会設立150周年祝典記念論文集(ゲッチンゲン学術報告,ゲッチンゲン,1901年)のようで,クラインが長い序文を寄せました。その序文はガウス全集X1、485-487頁に再録されています。次いで、ドイツの数学誌「数学年報」(巻53、1903年、1-34頁)にも掲載された.これにはクラインの註記がついています。146個の項目に分けて整理したのもクラインです。
 今日ではガウス全集にすべての日記が収録されています。また、オストワルトクラシカー(オストワルト古典叢書)巻256も数学日記に当てられていて、それにはドイツ語訳もついています。1796年に初版が出て以来、1979年に2版、1981年に3版、1985年に4版というふうに版を重ねました。一番新しい版は2003年11月に刊行された第5版で、容易に入手可能です。

(ガウス8)合同式の世界

 ガウスのいう「あるすばらしいアリトメチカの真理」の姿を求め、ガウス自身の指示にしたがってD.A.の第108条を参照すると、4n+1型の素数に固有の(というのは、4n+3型の素数には見られないという意味ですが)属性が記述されています。それは、

《pは素数とすると、次数2の合同式
  x^2≡-1 (mod. p)
は、pが4n+1型なら解をもつが、pが4n+3型の場合には解をもたない。》

という命題です。ここで、合同式について説明が必要になりますが、一般に二つの数(ガウスが緒言の冒頭で述べているように、単に「数」と言えば、ほとんどいつでも「整数」のことです)a、bと、もうひとつの数p(第108条の命題の意味を理解しようとして、ひとまず一般的な説明を試みているところですので、このpは素数とは限りません)に対し、aとbの差a-bがpで割り切れるとき、「aとbはpを法として合同である」といい、この状勢を、
  a≡b (mod. p)
という記号を用いて表します。合同を表す記号「≡」はガウスがはじめて数学に導入したもので、D.A.の第1章「数の合同に関する一般的な事柄」の冒頭に登場し、ガウスの数論の舞台が「合同式の世界」であることが明示されています。続いて第2章では一次不定方程式の解法が論じられ、第3章では「冪剰余」の概念が導入されます。この概念を次数2の場合に限定して記述すると、二つの数a、pに対し、もし合同式
  x^2≡a (mod. p)
を満たす数xが存在するなら、そのとき「aはpの平方剰余である」というのですが、「平方剰余」の代りに「2次剰余」ということもあります(これは二通りの訳語が行われているというだけのことで、原語はひとつです)。
 D.A.の第108条の命題の意味する事柄は、これでひとまず明らかになりました。ガウスはこれを1795年ころ、別の数学的思索に没頭していたとき、たまたま発見したというのですが、そのころガウスは何を研究していたのか、そこまでのことを伝えてくれる資料は見あたりません。

(ガウス7)アリトメチカの一真理の発見

 ガウスの緒言には、オイラーの著作『代数学』と「最近出版されたばかりのルジャンドルの著作」への言及が見られます。前者のオイラーの『代数学』というのは、タイトルを正確に再現すると、
 『代数学への完璧な入門』
という作品で、1770年に刊行されました。全二巻で、エネストレームナンバーはそれぞれ[E387](巻1。1767年執筆)と[E388](巻2。1767年執筆)です。この作品については、だいぶ前のことになりますが、「オイラーを語る」の連載をはじめて間もないころ紹介したことがあります。簡単に回想すると、オイラーの著作には珍しくドイツ語で書かれていますが、オリジナルの刊行に先立って、1768-69年にかけて、なぜかロシア語への翻訳書が出版されたため、この本の刊行年を指示しようとするときに多少の混乱が生じがちになります。原則としては1770年でよいと思いますが、正確を期すならばロシア語訳にも触れておくのがよいのではないかと思います。さてそれから1774年になって、ヨハン・ベルヌーイ(ベルヌーイ一族の名のある数学者たちの中で、三番目に数えられるヨハンです)の手でフランス語に翻訳され、出版されました。その際、仏訳書もオリジナルと同じく二巻本になったのですが、内容の構成が少し変り、仏訳書の巻1には代数方程式の解法に関する部分が集積されて「定解析」と名づけられ、巻2は不定方程式の解法に関する記述にあてられて「不定解析」と名づけられました。そうしてラグランジュは巻2の巻末に長大な「不定解析への附記」を添えたのですが、ガウス以前の数論の歴史的経緯、すなわちだれが何をしたのかという事実関係を知るには、この「附記」の緒言を読めばよいとガウスは言うのです。
 「最近出版されたばかりのルジャンドルの著作」というのはルジャンドルの著作『数の理論のエッセイ』のことですが、これについても、オイラーの数論を論じたおりに詳しく語ったことがあります。D.A.の刊行に先立つ3年前の1798年に刊行されました。この作品にも長い序文がついていて、歴史的経緯の記述も見られます。
 D.A.の緒言はさらに続きます。

(緒言3)
 このすでに5年前に確約した書物のねらいとするところは、私が--一部分は5年前の時点よりも前に、一部分はそれ以降に--手がけた高等的アリトメチカの研究を公表することであった。ところで私はここでこの学問をほとんど第一歩から繰り返して説明し、すでに他の人々が熱心な取り組みを続けてきた多くの研究をここに再び取り上げた。そのような方針を採用したことに驚いたりする人のないように、事の次第を告げておかなければならないのではないかと思う。1795年のはじめのころ、私がはじめてこの種の研究に向けて歩を進める決意を固めたときには、私はこの領域において近時代の人々の手で成し遂げられた事柄については何も知るところがなかったし、それさえあればそれらの事柄の多少なりとも定めし学び取ることができたであろう種々の補助手段もまた、手元にはひとつもなかった。もう少し詳しく言うと、私はそのころ、ある別の研究に没頭していた。ところが、そのような日々の中で、私はゆくりなくありすばらしいアリトメチカの真理(もし私が思い違いをしているのでなければ、それは第108条の定理であった)に出会ったのである。私はその真理自体にもこのうえもない美しさを感じたが、そればかりではなく、それはなおいっそうすばらしい他の数々の真理とも関連があるように思われた。そこで私は全力を傾けて、その真理が依拠している諸原理を洞察し、厳密な証明を獲得するべく考察を重ねた。やがて私はついに望み通りの成功を収めたが、そのころにはこのような研究の魅力にすっかり取り付かれてしまい、もう立ち去ることはできなかった。こうしてひとつの真理はいつももうひとつの真理への道を開くというふうで、この書物のはじめの四つの章で報告されている事柄の大部分は、他の幾何学者たちの類似の研究成果を多少とも目にする前に仕上げられたのである。後に私はこれらの偉大な天才たちの数々の書きものに目を通す機会を得たが、そのときになってはじめて、私の考察の多くの部分はとっくに解決済みの事柄に費やされていたことに気がついた。

 すでに5年前にD.A.の出版を確約したとガウスは言っていますが、1801年の5年前なら1796年にさかのぼることになり、ガウスは18歳もしくは19歳にすぎませんし、しかも出版を確約したという以上、少なくとも全体の骨格はできあがっていたと見なければなりません。ガウスは徒手空拳で数論へと向かったというのですが、ガウスの言葉に具体的に沿うならば、ガウスがこの方面への第一着手を手にしたのは1795年ののことで、この年のある日、アリトメチカの一真理を発見したことがきっかけになりました。ガウスの指示にしたがってD.A.の第108条に出ている定理を見ると、それは今日のいわゆる「平方剰余相互法則の第一補充法則」にほかなりません。それから一年ほどの間に、D.A.の全容がたちまち現れていったことになります。

(ガウス6)ガウス以前の数論の回顧

 ガウスのいう数論というのは、およそ整数を対象とする限り、あらゆる理論を包摂するというのですから、その守備範囲は、概念規定としてはもはや意味をなさないほどに広大です。ユークリッドの『原論』には自然数、奇数、偶数、素数、合成数の概念が出ていますし、正方数、立方数などという概念も現われています。わけても注目に値するのは完全数の概念です。完全数というのは、「自分以外の約数の総和が自分自身に等しくなる数」のことで、たとえば
 
 6=1+2+3
 28=1+2+4+7+14

となりますから、6や28は完全数の仲間です。このような「数の個性」への着目はきわめて特異ですし、不定解析の範疇にはおさまりません。そこでガウスは、ユークリッドの『原論』において高等的アリトメチカの萌芽を認めたのですが、そればかりではなく、ガウス自身をもまたユークリッド以来の系譜に連なって数の理論に携わろうという、強い自覚が感じ取れるように思います。ただしユークリッドの数論は、高等的は高等的でも初歩的段階の域を出るものではないともガウスは言っています。
 続いて、ガウスの言葉はディオファントスに及びます。ガウスはディオファントスの著作にあまり高い評価を与えていないようで、高等的アリトメチカを豊かにしたというよりも、代数学の痕跡を留めているという点に、値打ちを認めているかのような口ぶりです。
 ディオファントスの著作が契機になって、フェルマ、オイラー、ラグランジュ、ルジャンドルと続く数論の系譜が生れましたが、これについても、ガウスは恩恵をこうむxってるとはいいながら、心から賛嘆するというふうでもなく、どこかしら冷ややかな態度が感じられます。『整数論』の序文の先を読むと次第に明らかになっていきますが、ガウスはフェルマ以降4人の人々がの発見のほとんどを、ひとりきりで独自に見つけたというのです。どこかしらよそよそしい感じの伴うガウスの言葉の根柢には、若いガウスの昂然の気に満ちた自負があるように思います。

(ガウス5)ユークリッドの『原論』の数論

 D.A.の緒言をもう少し先まで読み進めたいと思います。

緒言(2)
《ユークリッドが『原論』、第7巻以下において、遠い時代の人々に通例の高貴な美しさと厳密さをもって語りつたえている事柄は、高等的アリトメチカに所属する。だが、れらはなお、この学問の初歩的段階に限定されている。不定問題に一筋に捧げられたディオファントスの有名な著作には多くの研究テーマが含まれている。それらはその難解さと技巧の繊細さの故に、この著者の生来の才能と明敏な知性に対して少なからぬ尊敬の念をわれわれの心に呼び起こすのである。就中、この著者が意のままに使用することのできた補助手段はごくわずかであったことに思いを馳せれば、敬意はますます高まっていくばかりである。しかしそれらの不定問題に当って要請されるのは、深い原理というよりも、むしろある種の器用さと巧妙な取扱いである。そのうえそれらはあまりにも特殊すぎるし、いっそう高いレベルの一般性を備えている結論への道案内をしてくれることもまたまれである。それ故、このディオファントスの書物は、高等的アリトメチカの内容を数々の新しい発見をもって豊かなものにしてくれたためというよりも、むしろ幾多の特色ある技巧や代数学の最初の痕跡がそこに留められているという理由によって、数学史上に一時期を画すると考えるのが至当なのではあるまいか。もっと現代に近い時代の人々にははるかに多くの恩恵をこうむっている。中でもフェルマ、オイラー、ラグランジュ、ルジャンドルという、ごく小数ではあるが不滅の栄光の輝きに包まれている人々(および他の幾人かの人々)は、この神聖な学問の内陣への通路を開き、そこには計り知れないほどに豊潤な財宝が満ちあふれていることぉ明らかにした。しかし私は、これらの幾何学者のひとりひとりについて、各々の幾何学者にはどのような発見が由来しているのかという事実関係をここで詳述するのはさしひかえたいと思う。なぜなら、そのようなことは、ラグランジュがオイラーの『代数学』に書き添えてこの書物の内容を豊かなものにする働きを示した附記の緒言、および、まもなく言及される予定の、最近出版されたばかりのルジャンドルの著作の序文から知ることができるからである。また、他の理由として、これらのさまざまな発見の大部分については、この『整数論』のしかるべき箇所で称賛の言葉を贈りたいと考えているからでもある。》

 数論にまつわる多くの事柄に触れられていて、註釈をつけずには先に進めない記述が続きます。ユークリッドの著作と伝えられる『原論』の第7巻以下のことが、まずはじめに語られているのも驚嘆に値します。『原論』は普通、今日のいわゆる初等幾何に相当する記述で知られていますし、それでよく『幾何学原論』と呼ばれるののですが、実際には初等幾何ばかりではなく、数論も登場します。全13巻のうち、第7、8、9巻は数論、第10巻は無理量の理論にあてられています。「素数は無限に多く存在する(言い換えると、素数の個数は有限ではない)」という有名な命題も、証明とともに『原論』に出ています。ガウスはそのユークリッドの『原論』の数論を、高等的アリトメチカの仲間に加えようというのです。

(ガウス4)数論の二つの世界

 前々回、D.A.の緒言の冒頭を紹介しましたが、もう少し立ち入って検討を加えてみたいと思います。ガウスは近代数論の礎石を気づいた人ではありますが、近代の数論のすべてがガウスから始まるというわけではなく、ガウス以前にもすでにフェルマ、オイラー、ラグランジュ、ルジャンドルと続く数論の流れがありました。そうしてこの系譜の一番はじめに位置するフェルマを数論へと誘ったのは、古いギリシアの数学者ディオファントスの著作なのでした。当然のことながら、そのあたりの消息にはガウスもまたよく通じていて、緒言の書き出しのところで早くも「ディオファントス解析」の一語が登場しています。ディオファントス解析は不定解析というのと同じ意味ですが、不定解析をなぜディオファントス解析と呼ぶのかといえば、ディオファントスの著作『アリトメチカ』のテーマが不定解析であったからにほかなりません。そこで、ディオファントスの影響下に発生したフェルマ以下ルジャンドルにいたる数論のテーマもまた、不定解析になりました。
 不定解析はガウス以前に存在した巨大な数論です。ところがガウスは、数論とは「整数を考察の対象とする、数学のあの特定の領域」のことであると茫洋として明言するのみであり、不定解析といえども数論の全体を覆うわけではなく、それどころかむしろ「その非常に特殊な一部分である」というのです。二十歳そこそこの若者の言葉とは思えない、実に堂々とした宣言と言わなければならず、今日のぼくらの目にも驚嘆を禁じえないところです。
 ガウスは数論と不定解析の関係を解析学の場合に移して語っています。ガウスのいう解析学というのは、「およそ量の一般的性質をめぐって企図しうる限りのあらゆる研究」を指すというのですから、広大さは果てしがありません。その中に代数という名で呼ばれる技術があり、方程式の解く技術のことというのですが、これはつまり種々の代数方程式を解くために案出された技巧の体系を指していると見てよいと思います。それなら代数は、解析学の全世界の中ではごく特殊な一区域を占めるにすぎないことは明白ですが、数論と不定解析の解析もまたそんなふうであるとガウスはいうのです。
 代数以外の解析学というと、ライプニッツやニュートンに始まる無限解析などがすぐに念頭に浮かびますが、無限解析を基礎の上に構築される変分法や、曲線論や曲面論なども解析学の一部です。それなら、不定解析以外の数論というとき、ぼくらはどのようなものを心に描いたらよいのでしょうか。D.A.の緒言の先を読むと、ガウスは多少の具体例を挙げていることは挙げていますが、ぼくらはむしろガウスの意図するところをこんなふうに理解するべきなのではないでしょうか。すなわち、これからD.A.の本文を通じて展開される数論こそ、不定解析とは異質のもうひとつの数論なのである、というふうに。
 D.A.およびD.A.に続く諸論文を通じて繰り広げられた数論というのは、ひとことで言えば「相互法則の理論」のことにほかなりません。オイラーの強力な影響下にありながら、ガウスは決して押しつぶされることなく、かといって継承者でも祖述者でもなく、まったく新しい領域を発見し、開拓することに成功したのでした。

(ガウス3)オイラーとガウス

 近代数学史上で微分積分の創始者として知られているのはニュートンとライプニッツですが、優先権をめぐる論争などもあり、しばしば比較対照され、長い期間にわたって数学史の恰好の研究テーマになっています。ですが、ぼくの見るところ、この二人とは別に、オイラーとガウスの関係もまた非常に親密で、しかも近代数学の根幹を作ったのは、ニュートンとライプニッツというよりも、オイラーとガウスの名を挙げるべきなのではないかと思います。ライプニッツの無限解析やニュートンの力学は近代数学の礎石ではありますが、それらが礎石でありえたのはオイラーがいたからで、ライプニッツの無限解析を咀嚼し、それを武器としてニュートンの力学を理解しようとするオイラーの努力がなかったなら、豊饒な可能性を秘めた素材という段階にいつまでも留まっていたかもしれません。数論の領域でも、近代数論の端緒を開いたのはフェルマと見てまちがいありませんが、なお一歩を進めてフェルマが近代数論の礎石でありえたのはオイラーがいたからで、数論におけるフェルマの言葉の数々に次々と証明を与えようとしたオイラーの努力は忘れられません。
 オイラーの継承者ということを考えますと、真っ先に指を折らなければならないのはラグランジュです。ラグランジュははじめベルリンのアカデミーでオイラーの後継者として数学部門の長になったりしましたが、晩年はパリに移り、ラプラス、ルジャンドル、フーリエなど、フランス革命の前後に生れたフランスの数理科学の始祖になりました。ところがもうひとり、ラグランジュとは別に、オイラーの圧倒的な影響のもとで数学研究に新生面を開いた人物がいました。それがガウスです。
 オイラーとの関係でいうと、ラグランジュはオイラーが歩んだ道をそのまま大きく延長していったのですから、オイラーの学問上の継承者という呼称がぴったりあてはまりますが、ガウスの場合には少々事情が異なります。ガウスの数学研究がオイラーの影響下にあり、オイラーの影響を考えずにガウスを理解することができないのは間違いありませんが、数論でも楕円関数論でも、ガウスはオイラーがめざしたものとはまったく異なる領域を開いたのですから、オイラーの影響ということの姿形はきわめて特異というほかはありません。ガウスはオイラーの継承者ではなく、「オイラーとガウス」というふうに、オイラーと並び称されるべき数学者です。
 試みに生年を挙げると、オイラーは1701年、ラグランジュは1736年、ガウスは1777年です。
 数論の領域でも、ガウスはD.A.の中でひんぱんにオイラーの名を挙げていますが、実はそれは最初の四つの章(D.A,は七つの章で構成されています)までに見られる現象で、ガウスに独自の思索の記述が始まる第5章に入ると、最後の第7章にいたるまで、オイラーの名は消えてしまいます。ガウスはルジャンドルのような祖述者ではなく、ラグランジュのような忠実で偉大な継承者でもなく、オイラーの世界から出てオイラーとは別の場所に大きな世界を創ることのできた稀有の人物です。オイラーとガウスが開いた二つの世界は近代数学の基盤を形成し、そのまま今日に及んでいます。

(ガウス2)D.A.の書名の邦訳について

 ガウスの著作『整数論』の書名のラテン語表記は、
 "Disquisitiones arithmeticae"
 (ディスクイジチオネス アリトメチカエ)
というのですが、たった二つの単語しか出ていないにもかかわらず、日本語に訳出しようとすると困惑してしまいます。"Disquisitiones"は研究とか考究というほどの意味の言葉ですが、"arithmeticae"には「算術」という訳語が割り当てられるのが普通です。厳密にいうと、この"arithmeticae"は名詞のように見えて実は形容詞なのですから、「算術的」という感じです。すると書名は「算術的研究」「算術に関する研究」というふうになりますが、これではどうも落ち着きません。その理由のひとつは「算術」という言葉にあります。今日の英語にもarithmeticという言葉がありますが、これは小学校で教えられているような「算数」を指しています。ところがガウスのいうアリトメチカ(arithmetica)というのは、算数という言葉のかもすイメージや、数学的な中味の実体のどちらともまったくかけ離れていて、いうなれば「非常に程度の高い算数」を意味しているのですから、ガウスの著作の書名の邦訳に「算数」や「算術」という言葉を使うのは不適切です。
 もうひとつ、アリトメチカに「整数論」もしくは「数論」という訳語をあてはめて、「整数論研究」「数論研究」という邦訳を採用する試みもしばしば見られるます。アリトメチカの実体を数の理論と見てのことですが、数論という言葉が数学史上にはじめて現われたのは、ルジャンドルの著作『数の理論の試み』の書名においてのことでした。ルジャンドルは従来のアリトメチカという言葉を退けて、あえて「数の理論」という新しい、即物的な用語を提案したのですが、そうするとアリトメチカを「数論」を訳出するのでは、「数論」という言葉に込められたルジャンドルの心情が消失してしまいます。
 他の外国語への翻訳書を参照すると、フランス語訳では
 “Recherches arithme'tique”
となっていて、これはラテン語の原書名の逐語訳です。ドイツ語訳は
 “Untersuchungen u"ber ho"here Arithmetik”
というのですが、これは「高等的アリトメチカ研究」という意味ですから、初等的な算数とは違うのだというところを強調しようとして「高等的」という形容詞を冠したことになります。英語訳はどうなっているのかというと、書名はもとのラテン語の表記のままで、訳されていません。
 このようなあれこれを勘案して思うのは、日常の会話の中でこのガウスの著作に言及するときは、頭文字をとって「D.A.(ディーエー)」と呼ぶことにして、邦訳書の書名としては、アリトメチカの一語を温存して、
 「アリトメチカ研究」
とするのがよいのではないかということです。
 ガウスは長文の緒言を寄せていますが、冒頭の第一節は次に挙げる通りです。

緒言(1)
《この書物の内容をなすさまざまな研究は、整数を考察の対象とする、数学のあの特定の領域--そこでは一般に分数は除外され、無理数はつねに排除されている--に属している。いわゆる不定解析、すなわちディオファントス解析とは、不定問題を満足する無限に多くの解の中から、整数解、あるいは少なくとも有理数解を(たいていの場合、正という附加条件のもとで)選び出す方法を教える学問である。だが、不定解析は数学における上記の特定の領域そのものというわけではなく、むしろその非常に特殊な一部分である。そうしてその特定の領域に対して、方程式の還元を行なってこれを解く技術(代数学)が全解析学に対するのと、ほとんど同様の振舞いを示すのである。解析学の守備範囲のもとには、およそ量の一般的性質をめぐって企図しうる限りのあらゆる研究が所属する。まさしくそのように、整数(および整数を通じて定められる限りでの分数)というものはなるほど確かに“アリトメチカ”の固有の対象を形作っている。だが、普通、アリトメチカの名をもって教えられている事柄は、記数法と計算の技術(すなわち、数を適当な表記法、たとえば十進法で書き表すこと、また、アリトメチカに関連するさまざまな演算を遂行すること)をほとんど越えることがない。そこにはなお若干の事柄が付け加えられる。それらのあるものは(対数の理論のように)アリトメチカとは全く関係のない事柄であり、またあるものは、少なくとも整数に固有というわけではなく、あらゆる量に対して開かれている事柄であったりする。このような次第であるから、アリトメチカの二つの領域を区別して、上記のアリトメチカは初等的アリトメチカの枠内に入れ、整数に固有の諸性質に関する一般的研究はことごとくみな高等的アリトメチカの手にゆだねることにするのがよいのではないかと思われる。ここでは高等的アリトメチカのみが語られるであろう。》

「初等的なアリトメチカ」と「高等的なアリトメチカ」の区別が明確になされているところが、ぼくらの心をそばだたせます。アリトメチカを算術、算数と訳出するのは不適切であることは、ガウス自身が真っ先に指摘して注意を喚起したことなのでした。

(ガウス1)ガウスの「整数論」をはじめて読んだころ

 ガウスの著作『整数論研究』を読み始めたのは昭和57年(1982年)の春、たしか4月に入ってからのことでしたから、もう26年も昔の遠い日々の出来事です。この書物が刊行されたのは1801年ですが、正確な発行日を調べると、ダニングトンが書いた評伝『ガウスの生涯』(東京図書から翻訳書が出ています)の巻末に附された年譜に「9月29日」と記されていました。ガウスの生誕日は1777年4月30日ですから、24歳のときに作品です。言語はラテン語が使われていますが、当時はラテン語を理解する力が貧しかったため、英語の翻訳書をテキストに選びました。ドイツ語訳とフランス語訳は早い時期に出ていましたが、英語訳が現われたのは非常に遅く、初版が刊行されたのは1966年(昭和41年)のことでした。
 この英訳書は相当に大きな苦心が払われて成立したような印象がありますが、読み進めていくと、意味の通らない記述に随所で出会います。ラテン語から英語への翻訳が間違っているためと、数学の中味を正しく理解していないために生じた誤訳なのですが、当初はただ変な文章だなあと思っただけでした。後年、だんだんとラテン語がわかるようになってから、明白な誤訳と判断できるようになったのですが、その時点で振り返りますと、この英語訳でガウスの「整数論」を正しく理解するのは不可能と思います。
 この10年ほどの傾向と思いますが、ヨーロッパの数学の古典がたいへんな勢いで英語に翻訳され、刊行されるようになっています。オイラーの著作「無限解析序説」などもそうで、ぼくもはじめ英語訳を手掛かりにしてオイラーを読み始めたのですが、ガウスのときと同じで、英語の翻訳書では誤解せずにオイラーを読み通すことはできません。その後も同じようなことにしばしば遭遇し、英語訳への不審はつのるばかりです。
 ガウスに話をもどすと、ドイツ語とフランス語への翻訳書はよくできていて、わけてもドイツ語訳は、語学の面でも数学の中味を理解するという面でも非常に精密な翻訳書でした。ラテン語の原文に取り組んだとき、むずかしい文章の構造を解析するうえで一番頼りになったのは、いつもドイツ語訳でした。
 とはいえ、英語訳にもよいところがひとつありました。それは文献指示が具体的なことです。ガウスはひんぱんに文献を指示して、参照するようにというのですが、ほとんどいつでも著者と、古い学術誌の発行年と、巻数が記されているのみで、どのような文献が指示されているのか、標題をつかむことさえ容易にはできません。ところが、英訳書ではそのつど脚註が附され、論文名や書名が明記されているので、大いに助かりました(もっともときどき間違いが混じっていました)。ガウスが挙げている文献はオイラーの論文が圧倒的に多く、次いでラグランジュ、次いでルジャンドルと続きます。オイラーの数論の世界に目が向くようになったのはガウスの「整数論」のおかげなのですが、英訳書の脚註がなかったなら、文献を見つけだすのにたいへんな手間ひまを要したに違いありません。
 仏訳書にもそれなりの利点がありました。それは、数学の中味に寄せる註釈がわりと多いことです。翻訳者も、創意のみが充満してできているガウスの作品を理解するためにたいへんな苦労を重ねた様子が察せられ、まるで時空を超えて語り合いながらいっしょにガウスを読んでいるかのようで、親しみを感じました。

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