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(岡潔先生を語る92)天衆の挨拶を受ける

『春雨の曲』は非常に複雑な構造をもった作品で、根幹を作るテーマをつかむのも一筋縄ではいきませんが、理解のむずかしい思索が重ねられていく部分とは別に、岡先生の生涯に起った具体的な体験を紹介している箇所が散りばめられていることに気づきます。語られている事柄それ自体は実際の体験と思われますが、どのエピソードもみな神秘的な印象の伴う隠喩です。次に挙げるのは昭和11年の出来事で、描かれているのは、入院先の広島脳病院を退院するときの情景です。

《夜太田川の一つの分流(註。二股川)を、まだ広島市内ではあるがもう人家のまばらになっているあたりを、上流に向かって歩いていた。家に帰ろうとしているのであって、一九三六年の七月下旬(註。7月19日)のことである。
 道に面した一軒家にさしかかると、のりとを上げている声がしていたが、それがやんだかと思うと一人の老人がいきなり窓の障子を開けて首を出してわたしの方を見て、「ににぎの尊さまや」と云った。わたしはこんなことを云われたのは始めてのことなので、何だか気味がわるかった。
 それで少し元気を付けようと思って人気のない所へ来ると大声で、「響きを上げよ」と云った。そうすると川縁の草叢に眠ていた大きな犬が急に起き上がって川の中に飛びこんでバシャバシャと大きな水音を立てながら向こう岸へ渡って夜の闇に消えた。》

 岡先生の語るもうひとつの体験は昭和13年6月15日のお昼前の出来事で、静岡脳病院を退院して帰宅する途中、安倍川の川辺を歩く岡先生の目に映じた光景です。

《・・・わたしは吹き降りの中を阿部川(註。安倍川の誤記)の川縁を歩いていた。これは昼のことである。空には鴎かと思われる白い鳥と烏だろうと思う黒い鳥とが入り乱れて飛んでいた。わたしは白い鳥に科学一辺倒の人を連想し、黒い鳥に宗教一辺倒の人を連想した。今こんな風では到底日本はもたない。それで思わず鳥達に静まれと命令した。しかし仲々聞かない。私の開いた傘(蛇の目)は強い風を孕んでわたしのからだを安定させない。わたしは自分がこれだからいけないのだと思って、傘をすぼめてそれを逆に持って指揮刀のように左上から右下に強く振り下しながら、「静まれ」とも一度底力のある声で命令した。
  そうすると鳥達は河原に降りて、白い鳥は白い鳥、黒い鳥は黒い鳥と二列に整列した。
  わたしはこの世界のことは、自分はまだ何も知らないのだと云うことが次第にわかって来た。》

『春雨の曲』の終りがけで、岡先生はもうひとつの不思議なエピソードを語っています。岡先生の家は新薬師寺の近くにあり、帰宅するときは新薬師寺の土塀に沿う田舎の道を歩くのですが、ある日、帰途につく岡先生の側を「天衆」が次々と通り抜け、岡先生に挨拶したというのです。「天衆」の正体は不明ですし、はたして実際の体験と呼べるのかどうかも定かではありません。ただの幻影にすぎないようでもありますが、岡先生の心の目に強い実在感を伴って映じたであろうこともまた否定できません。この簡単なエピソードをはじめて読んだとき、岡先生の紀見村の日々のころ、地べたにしゃがみ込んで木の切れ端で数式や図を描きながら思索に打ち込む岡先生を取り囲み、わいわいとはやし立てる村の子どもたちの姿がありありと脳裡に浮かびました。この時期の村の子どもたちは、孤独な数学研究の日々を送る岡先生と向かい合う、唯一の友でした。その子どもたちが天衆に変容し、晩年の岡先生に挨拶しようと、新薬師寺の近辺で待ち構えていたかのような印象を受けました。『春雨の曲』の全体を通じて刻印される最も神秘的な印象です。

 岡先生は『春雨の曲』の中に「私の旅路」という一節を設定し、数学の研究過程を詳しく回想していますが、それは第9番目の論文あたりまでにとどまっています。きあれほど苦しめられた境界問題についての言及は見あたりませんし、代数関数論が語られる場面もありません。この沈黙はどうしたことなのか、今も最大の不審であり続けています。この論点についてはなお思索を続け、日をあらためて書き継ぎたいと思います。
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(岡潔先生を語る91)『春雨の曲』がこの世に遺されるまで

 昭和51年(1976年)の年初、「生長の家」の機関誌「聖使命」(1月15日)に、岡先生の発言を紹介する記事
 「人類救済と日本歴史 此の世は造化放映の映像」
が掲載されました。「聖使命」の記者が岡先生の談話を記録した記事のようですが、末尾に、「本論を詳述した「春雨の曲」が今年の夏出版されます」と附言されているのが目に留まります。この『春雨の曲』は第4稿を指すと思われます。夏までに出版したいという岡先生の望みがうかがわれるメモですが、これは実現せず、改稿の試みが続けられました。
 この年の2月までに「春雨の曲」第5稿が完成しました。第5稿は第4稿とほぼ同一の原稿ですが、新たに書きおろされました。コピーが遺されています。また、年内に第6稿が書かれたと推定されますが、この稿についてはオリジナルもコピーも見あたりません。
「LIFE SCIENCEライフ・サイエンス」第3巻(4月20日発行)に、
 「人間への遥かなる旅路」
というインタビューが掲載されました。聞き手は社団法人生命科学振興会会長の松岡英宗。「現代の人間観」というシリーズの第38回目の記事ですが、岡先生の発言の中に近著への言及があり、一巻目は『春雨の曲』、第二巻は『旅路』と言われています。5月11日の京産大の講義でも、『春雨の曲』を書いたので、今、二冊目の本『旅路』を書こうとしているという言葉が見られます。著作全体の構成をめぐって、さまざまに思索を重ねていた様子がうかがわれます。
 昭和52年(1977年)、『春雨の曲』第7稿、巻の一「旅路」が完成しました。脱稿の日付は3月23日と記録されています。この日、原稿の二度目の読み直しが行われ、校正が完了しました。第7稿の原稿は第8稿に流用されたため、第7稿のオリジナルの原稿は存在しないのですが、完成した時点で作成されたコピーが遺されています。
 第7稿が完成した日の翌日の3月24日のことですが、この日、岡先生は『春雨の曲』巻の二「人の世」を書き始めたと記録されています。これも興味深い事実です。今日、第7稿として遺されている作品の構成を見ると、第一章「序曲」に続いて、第二章「旅路の原型」、第三章「私の旅路」、第四章「日本民族の旅路」と、「旅路の原型」が「私」から「日本民族」へと展開していく道筋がくっきりと目に映じます。
 4月13日、『春雨の曲』第7稿、巻の一「旅路」の清書稿が完成しました。毎日新聞社に渡して出版を依頼するためで、清書を担当したのは二人の書生(竹内壽康さんと三上昭洋さん)でした。翌4月14日(木)、竹内さんが毎日新聞社に濱田琉司を訪ね、岡先生の親書とともに『春雨の曲』第7稿、巻の一「旅路」を渡しましたが、だいぶ日時がすぎてから「出版できない」という返答がありました。非常に正式な手順を踏んだ出版依頼でしたから、今度は毎日新聞社としても正式に返答しないわけにはいかなかったのでしょう。竹内さんが毎日新聞社に原稿を受け取りに行きました。
 4月19日、京産大の講義で、

《7年かかってとうとう最近こういう本を書いた。「春雨の曲 巻の一 旅路」。引き続いて今、「巻の二 人の世」。こういう本を書いているんです。》

という話をしました。4月27日、市民大学講座奈良校の開校式に招かれて講演そ、『春雨の曲』序曲のIとIIの原稿を読みました。質問にも応じました。この時点ではまだ出版依頼中で、返答を待っているところなのでした。それから岡先生は「私の生い立ち」というエッセイを書きました。起筆の日付は不明ですが、遺されている原稿には
 「一九七七、一二、二六(月)、午前七時十分」
 (1977年12月26日(月)、午前7時10分)
という日付が記入されています。400字詰原稿用紙で43枚の作品です。このころにはすでに毎日新聞社の返答は届いていたことと思われます。第7稿の改稿へと向かう岡先生の心情がしのばれます。
 昭和53年(1978年)は岡先生がこの世にお別れした年になりました。1月2日の
昼、岡潔宅で恒例の新年会が開かれました。奈良女子大学の数学教室などの面々が岡家に集まり、岡先生も碁を楽しみました。出席者の中に碁の強い人がいて、岡先生は今年こそぜひ勝つのだとはりきり、朝からナポレオンを飲んだりしたということです。夜、風呂場で軽い心不全を起こし、意識不明の状態に陥りました。このとき意識を失った時間は15分ほどとも1時間ほどとも言われています。
 1月10日、京産大において1977年度の最終講義を行いました。1月13日、『春雨の曲』第8稿の筆を起しました。1月19日、起きあがることができなくなりました。ペンを執ることができず、口述と第7稿の補正という形で稿を進めました。書生の三上さんと竹内さんが筆記しました。2月28日、夜、気分がよく、『春雨の曲』の口述筆記を進めました。翌3月1日未明(午前3時33分と記録されています)、死去。行年78歳。満年齢は76歳と10箇月でした。書きかけの遺稿
 『春雨の曲』第8稿、巻の一 人類の自覚
が絶筆になりました。
 7月31日、『春雨の曲 第8稿』が私家版の形で刊行されました。校正者は三上昭洋。9月30日、旧稿『春雨の曲 第7稿』がやはり私家版の形で刊行されました。校正者として記されているのは藤田収、竹内壽康、三上昭洋の三人です。

医は仁術か

 入院患者の家族と担当医の間には、患者という、共通因子が存在しますが、家族が患者の健康の回復を願うのに対し、医者は病気の原因の排除を考えるように思います。すなわち、出発点においてすでに、家族と医師の間には微妙なずれが介在していることになります。病気の種類によっては、このずれはまったく問題にならないこともあります。細菌やウィルスが原因になって起る病気がそうで、細菌やウィルスを死滅させる方法が発見されたなら、それは病気の原因の排除であるのと同時に、患者の健康回復でもあることになります。細菌学は近代医学の黎明を告げる学問であり、しかも、医師と家族の間に齟齬が見られないという一点において、きわめて幸せな学問でした。
 ではありますが、ぼくの母の場合のように、高齢者が治癒の見込みのない重い肺炎に襲われたというような場合には、医師と家族の間の微妙なずれはいきなり大きく広がって、しばしば修復不能になります。根源の肺炎の治癒に見込みが立たなければ医者は関心をもちませんが、家族にすれば、肺炎そのものは治らなくとも、命のある時間を引き延ばしたいという心情に駆られます。これが延命治療、終末治療と謂われるものですが、医者にとっては無意味なことが、家族にとっては重い意味をもつことになります。
 病気を抱えた患者から「病気」そのもののみを抽出して考察しようとするのは、非常に抽象的な姿勢ですが、このようなところに近代科学の根本精神が認められるように思います。具体性のみで構成されているこの世の現実から乖離した抽象こそ、近代の精神の産物で、細菌学の場合のように、医学の領域でも大きな成果がありました。ですが、この近代医学は病気そのものには関心を寄せますが、「病気を抱えた患者」には無関心です。すなわち、近代医学は根本的に「仁術」ではありえないのです。

(岡潔先生を語る90)『春雨の曲』第4稿まで

 破棄された初稿に続き、翌昭和47年、岡先生は「春雨の曲」の第2稿を書き上げました。初稿のときもそうでしたが、岡先生は今度もまた毎日新聞社に出版を依頼しました。京産大での講義の記録を参照すると、この年の10月6日の時点で毎日新聞社からの返答を待って待機中であることがわかります。ただし、反応はにぶく、はかばかしく話が進まないまま推移して、後にみずから依頼を取り下げることになりました。毎日新聞社は出すとも出さないとも態度を明確にしなかったのですが、あからさまに拒絶はしないものの、出版したいという考えがなかったことは明らかです。作品の内容がどうこうというよりも、おそらく売れ行きを考えてのことで、かつて岡先生のエッセイ集に寄せられたブームはすでに去ったという判断がなされたためと思います。講談社現代新書の編集部が『『流露』の刊行に難色を示したのと同じです。この第2稿も破棄されました。
 第2稿の後、「春雨の曲」は丸一年ほど放置されましたが、岡先生は昭和48年の暮れ、12月に入って第3稿へと向かう契機をつかみ、新たな取り組みを開始しました。昭和49年5月28日(この日は火曜日でした)、京産大での講義のおろ、岡先生は「春雨の曲」の第二篇「人」の原稿を読み上げました。この項目は第7稿には見あたりません。6月4日の講義では「春雨の曲」第一篇「日本民族」を読みました。第7稿の該当箇所を探すと、第一章「序曲」の「II」が「日本民族」と題されていることに気づきます。また、第四章の「日本民族の旅路」も目に留まります。それから夏休みをはさみ、9月24日のことですが、講義の途中で「春雨の曲」に言及し、

《今年中には出るだろう》
《それで書名が決まった。決まったのがだいたい1971年6月の末です。それから書き始めた、四年越し書いてる》
《三月いっぱいくらいには毎日新聞社から出す》

という話をしました。出版元としては一貫して毎日新聞社を望み、引き受けてくれそうな他の出版社を考慮した形跡はありません。岡先生の心の中では、おそらく毎日新聞に「春宵十話」を連載した当初の情景が回想されていたのであろうと思います。11月12日の講義では第一篇、第三章「造化の二神」を読みました。第7稿で見ると、第一章「序曲」の「IV」の「造化の二神」が該当します。こんなふうにいろいいろな原稿を書き、講義もして、「春雨の曲」の全容が次第に現われていくという経過をたどりました。
 昭和50年4月10日、「春雨の曲」第3稿が完成しました。末尾に、
 「一九七五年四月十日、木曜日」
という日付が記入されています。400字詰原稿用紙で606枚という大きな作品で、直筆の原稿は失われましたが、コピーが保存されています。昭和50年4月3日、奈良に岡先生を訪問した二人の愛読者(長谷川幸雄さんと大隈博行さん)に向かって、岡先生は、

《ともかく7月15日に(原稿を)毎日新聞社に渡します。そして、向こうで調べて、お出ししましょう、と言って印刷する。どれだけ、調べるのに、かかるか知りませんけどね。こういう本、出してもよいかどうか、新聞社の恥になりゃせんかと・・・。だいぶ、みんなと言うこと変わってますから、調べるのに時間かかるでしょ。三箇月くらい、かかるんじゃないかな。そしたら、7月15日に(原稿を)渡して、(本が出るのは)年内ということになるんでしょうね。後、印刷があるから。》

と語りました。実際に7月15日に毎日新聞社に原稿が渡されたのかどうか、第3稿の運命を伝える資料はありません。破棄されて、引き続き第4稿が試みられた可能性もあります。それと、毎日新聞社に原稿を渡す日として、4月3日の時点で早々と7月15日という日時が設定されていますが、これもまたいかにも不思議です。昭和11年(1936年)の6月、広島で起った事件の背後に、この点を考えるヒントがひそんでいるのではないかと思います。
 昭和11年6月23日の夜、太田川の分流の二股川の土手で事件が起り、その夜、岡先生は行方不明になりました。翌朝、発見されたのですが、『春雨の曲』ではその一夜が回想されて、こんなふうに語られています。

《一九三六年の七月にわたしは一晩中、わたしの家はその頃広島の牛田と云う、八幡神宮を祭ってある小高い丘の麓にあったのであるが、その丘の、家と反対の側、と云うと北西の方になるのだが、その丘の北西の斜面の笹原に寝て、星の一群を率いる宵の明星と話をした。》

 これは『春雨の曲』第3稿に見られる記述です。八幡神宮というのは早稲田神社のことで、岡先生の家は早稲田神社にのぼる石段の登り口のあたりにありました。「七月」は「六月」のまちがいなのですが、この時期の岡先生の数学研究の状況を回想すると、ちょうど第2論文の成立に確信を抱いたころに相当します。『春雨の曲』第7稿を参照すると、第2論文のあらすじを一応書き上げたのは7月10日ころと明記されていますが、7月10日前後には岡先生は広島で入院中でしたから、実際に原稿を書くことはできませんでした。岡先生は心情のカンバスに第2論文の全容を鮮明に描いたことになりますが、後年、その時期を回想して「7月10日ころ」と記述したことになります。この日時をもっと精密に詰めていくと7月15日という日付が浮上して、その日を期して、『春雨の曲』を毎日新聞社に渡したいと願ったのではないかと思います。岡先生の数学研究を支える力の根源はこの世にはなく、星の一群を率いる宵の明星だけが、岡先生の心情の唯一の寄る辺なのでした。
 昭和50年9月23日、75歳の岡先生は京産大の講義の中で、『春雨の曲』の第4稿を書いているという話をしました。第4稿第一篇の構成は、
 「第一章 自然とこころ」
 「第二章 日本民族」。
というのですが、第7稿の対応する箇所を見ると、「第一章 序曲」の「I」が「自然とこころ」と題されています。『春雨の曲』第4稿は12月になって完成しました。自筆の原稿は失われましたが、コピーが保存されています。「まえがき」の日付は「一九七五、一二、三」(1975年12月3日)です。

学生による教員評価

近年の大学では、学生による授業評価がごくあたりまえに行われるようになりました。授業評価というのはすなわち教員の評価のことで、具体的には、学生にアンケート用紙を配付して記入させるのですが、その際のポイントは、授業内容と担当教員に対する積極評価と要望評価の対比です。どちらも20項目程度に細分されていますが、統計的に処理されて数値化されます。積極評価の点数が高い教員は「人気のある教員」で、要望評価の高い教員は「嫌われている教員」です。要望評価の項目の中には、「学生を軽蔑しないでほしい」などというのがあったりします。それと、自由に感想を書くコーナーも設定されています。
全教員の結果を記載した冊子が作成されて配付されますが、書かれているのはクラスと講義名だけで、教員の名前はありませんので、自分の担当する講義の「人気」はわかりますが、他の教員のことはわかりません。ところが、今年から状況が変り、全教員の実名が記載されるようになり、教員の「人気度」の比較が可能になりました。中には、「学生を軽蔑しないでほしい」という要望項目が突出して高い数値を示す教員もいます。この傾向がさらに進めば、全教員の五段階評価や、給与格差へとつながる可能性があります。無記名、すなわち匿名のアンケートです。
最近の大学はこんなことをやっていると姉に話したところ、なぜか非常に嫌がって、反発してきました。熱心に勉強する学生が評価するのならよいが、ろくろく勉強しない学生が先生を評価したりするのでは先生たちもたまらないし、先生の方も学生に迎合するようになる。そんなことでは教育はなりたたないではないかというのです。もっともな考えですが、まじめな学生もふまじめな学生も区別しないアンケートにより、少なくともひとつの状勢が間違いなく浮上します。それは、ひとりひとりの教員について、
「学生に何事かを伝えよう思う熱意の有無」
です。このあたりの状況は、患者による医師の人気投票の話とよく似ています。

(岡潔先生を語る89)春雨の曲

 昭和39年3月18日、岡先生は満63歳の誕生日(戸籍上の誕生日。実際の誕生日は4月19日です)を翌日に控え、この日、奈良女子大学を定年退官しました。引き続き、4年間、奈良女子大学の非常勤講師を勤めましたが、昭和43年3月でそれも終りました。それから一年後の昭和44年4月、京都産業大学の荒木俊馬総長の要請を受け、理学部教授に就任しました。所属先は理学部ですが、数学は教えず、もっぱら教養課目「日本民族」を担当しました。毎週一回。一回一時間半の講義です。(昭和46年度以降の講義については録音テープが残されていて、「毎週一回」でまちがいありませんが、昭和44年に刊行された『神々の花園』には「月に二回」と記されています。もしかすると初年度は隔週の講義だったのかもしれません。)
 京産大の講義「日本民族」が始まって三年目の昭和46年のことですが、岡先生は「春雨の曲」という不思議な標題を立てて、エッセイとも自伝ともつかない新たな作品を書き始めました。昭和46年のうちに初稿を書き上げた模様ですが、気に入らず、それから絶え間なく書き直しを続けました。昭和52年はこの世にお別れした年の前年にあたります。この年、第7稿が完成し、出版に向けて努力もしたのですが、それでもまだ意に染まなかったようで、第8稿の筆を起し、亡くなる日(昭和53年3月1日)の前日まで口述筆記の形で継続しました。試みに第7稿の目次を挙げると、次の通りです。

 第一章 序曲
  I 自然とこころ
  II 日本民族
  III 始の生い立ちの記
  IV 造化の二神
 第二章 旅路の原型
 第三章 私の旅路
  I 幼年時代、小学時代
  II 中学時代
  III 高等学校時代、大学時代及び其の後
  IV 第九識の確認
  V 第十識の確認
  VI 第十一識の確認
  VII 私の其の後の旅路
 第四章 日本民族の旅路
  I 神代
  II 上代
  III 中世
  IV 近世及び現代
 第五章 無明、生死、染色体
  I 無明
  II 生死
  III 染色体

「春雨の曲」の初稿が執筆されたのは昭和46年7月のことでした。昭和46年9月28日、京産大での昭和46年度第12回目の講義の中で、岡先生はこんなふうに語っています。

《わたし七月に本を書いたの言いましたね。その前、本二冊(註。講談社現代新書の『曙』と『神々の花園』を指します)ほど書いた。それから二年間ほど何もしなかった。しなかったというのは、新しいことがわかってやせんので・・・。ところが六月の末ころからにわかに、何て言うか、わかってきたというよりも書きたくなった。それでだいたい七月いっぱいくらいかかって書いた。
・・・・・
そうして毎日新聞へ、もし出していいと思うなら出してよいと言ってやった。そうすると、やはりすぐじゃなかったですが、ちょっと時間あいてですが、出すことにするから、それからディテールを打ち合わせに近くうかがうと言ってきた。それからもう二十日には十分なるのに来ない。》

 同じ講義の中で、「異常な精神の高揚状態において書いた」とも岡先生は語っています。毎日新聞社に出版の話をもちかけたとのことですが、出すとも出さないとも返答がないうちに、岡先生の方から依頼を取り下げた模様です。この初稿は破棄されました。

病気を治したいと願う心

医療に従事する側と治療を受ける側の間にはしばしば対立が起るようですが、実際の医療の現場で医者の行為に口をはさむことはまずできません。なんだか嫌な治療と思つても、意見を述べることはできませんし、どうしてそのようなことをするのかと恐る恐る尋ねても、懇切な説明がいつも返ってくるとは限りません。インフォームドコンセントを確保するのはいつも難事です。患者の側は治療の結果を見るほかはなく、期待通りに治癒すれば感謝するし、事故が起れば訴訟になります。説明をめんどうがって、投げやりな態度に出て、これはもう治らないよといきなり明言して、終末の延命措置はやるのかやらないのか決めるようにと迫られたら、患者の家族はどうしたらいいのでしょうか。
現代の情報化社会を構成するのは本質的に匿名者で、この世の肩書きも学歴も社会的地位も職業も、年齢さえもまったく無関係に、すべての構成員が完全に平等です。彩りのないフラットな世界で、民主主義というものの極北でもあり、とうてい人の住める社会ではありません。この社会を特徴づけるもののひとつに、「世論調査」があります。「人気投票」といっても同じですが、これを医療の現場にあてはめると、「患者とその家族による医者の人気投票」が考えられます。あるいは、すでにインターネットの世界で実現しているかもしれません。
姉の結婚相手は医者(小児科)なのですが、姉に医者の人気投票の話をしたところ、猛然と反発してきました。患者だってりっぱな人ばかりではないし、専門知識のない変な患者に人気投票なんかされたら医者もたまらないというのです。そうかもしれませんが、この人気投票にはおそらくひとつの大きな利点があります。それは、ひとりひとりの医者について、
「病気を治してやりたいと思いやる心」
を持ち合わせているかどうかが、くっきりと浮かび上がるという事実です。

(岡潔先生を語る88)著作活動の終焉

 昭和38年の『春宵十話』から昭和43年の『日本民族』まで、岡先生のエッセイ集は10冊を数えましたが、昭和44年にはさらに二冊のエッセイ集がラインナップに加わりました。二冊とも講談社現代新書です。

『曙』(講談社現代新書) 昭和44年6月1日発行
 九つの章から成り、各章の表紙に熊谷守一の絵
 「朝のはじまり」
 「地蔵菩薩」
 「宵月」
 「唯我独尊」
 「蝸牛」
 「普賢菩薩」
 「蒲公英に蝦」
 「河童」
 「猫」
が掲げられています。昭和42年10月18日の毎日新聞で熊谷守一の絵「アリ」を見て以来、この画家は岡先生の最高のお気に入りになりました。『曙』の最終章(第9章)の標題は「熊谷さんの画は何故見ていると楽しくなって来るか」というのです。岡先生が見た新聞記事は『熊谷守一画集』(一柿木版社刊行)の紹介記事でした。「まえがき」の日付は「一九六九年四月二十五日」です。
 第2章の標題は「造化頑小児」というのですが、これは「造化といういたずら童(わらべ)」の意です。ここで岡先生は「新社会党」「新民主党」という二つの名前をもつ新政党のアイデアと、「都市大学」の構想を表明しました。昭和44年といえば大学紛争が非常に盛り上がった時期で、大学では講義が行われなかったり、教官の研究室がめちゃくちゃに荒らされたり、入学試験が中止に追い込まれたりした大学もあるというふうで、日本の諸大学は従来の機能を喪失して荒廃のただ中にありました。岡先生はそんな現状を眼前に見て現実の大学の姿に深い幻滅を感じ、都市大学という名前のまったく新しい大学を夢見たのでした。実際には都市大学は日の目を見ませんでした。その代わり前年の秋にはすでに、岡先生の提唱を受ける形をとって「市民大学講座」というものが発足し、学生が募集され、講師陣も整い、昭和44年には日本の各地で盛んに講義が行われていました。
 昭和14年秋のことですが、郷里の紀見村で思索の日々を送る岡先生は、札幌の岡先生中谷宇吉郎に宛ててしばしば「一日一文」を書き送りました。これについてはだいぶ前に紹介したことがありますが、9月28日の書簡に出ている「一日一文」は「零モ數字ノ中」と題されていて、 岡先生は名のみあって実体のない大学を二つ作つたらどうだろうと提案していました。

《名ノミアツテ實體ノナイ大學ヲ二ツ造ツタラドウダラウ。經費ハ一錢モカカラナイ。一ツハ正ニツカフタメニ。他ノ一ツハ負ニツカフタメニ。之ハ将棋デ云ヘバ駒臺モ亦盤ノ内ト看做スノト同一種類ノ考ヘ方ダカラ勿論正統派デス。-0ノ大學ニツイテモ何モ好ンデ上野カ下野カノ何トカ云フ寺マデ聯想スルニ當ラナイデセウ。》

続いて岡先生は「書イテ見テ一寸奇僑ナ氣ガシナイデモナイガ、ドウセコンナノハ子供ガ波打ギワデ家ノ設計圖デモ書ク樣ナモノ。明日ニナレバマタモトノ平坦サニ還リマセウ」などと言い添えました。まるで空をつかむような正体不明の大学のアイデアですが、それから30年という歳月を経て、都市大学もしくは市民大学という衣裳をまとい、岡先生の心情の世界に描かれた夢の大学が実現したかのような情景です。
『曙』の第6章には「日本の国を守り抜こう」という標題が附されています。岡先生はここで「葦牙(あしかび)会」の構想を表明し、入会申込先として、
  茨城県筑波町筑波山梅田開拓筵
  梅田美保
が指定されました。岡先生の手になる「葦牙会趣意書」が残されています。

葦牙会趣意書
日本民族はいよいよ亡びるか興るかの瀬戸際に立つことになった。
日本の現状を病にたとえると横隔膜が生氣を失ったのである。病膏肓に入るとはこのことである。
私達は民族精神を下から盛り上げて、民族を死から救ひ、生氣溌溂たらしめねばならぬ。葦牙會を結成する所以であって、この名は古事記からとったのである。
  岡潔識

 この趣意書を見れば、葦牙会のアイデアもまた日本の現状に寄せる深刻な危機感に根ざしていることがわかります。そういうところは都市大学や市民大学のアイデアと同じです。筑波山の梅田開拓筵は神道系の宗教団体ですが、岡先生と晩年、親しく交友した胡蘭成(こらんせい)とゆかりが深く、岡先生は胡蘭成を通じて梅田開拓筵の梅田美保さんと知り合いました。胡蘭成は汪兆銘の国民政府の発足にあたり、参画した経験をもつ中国人で、戦後、日本に亡命し、奥多摩の自宅で亡くなりました。

『神々の花園』(講談社現代新書) 昭和44年10月16日発行
 このエッセイ集は第一編「神々の花園」と第二編「地上の新秩序」で構成されています。各篇の表紙には、またしても熊谷守一の絵「馬子」と「蟻」が掲げられています。「まえがき」の日付は「一九六九年六月二十四日」です。

 岡先生のエッセイ集はこれで12冊になりました。ほかの著作を見ると、二冊の講演集
『葦牙よ萌えあがれ』(心情圏) 昭和44年5月1日
『岡潔講演集』(市民大学講座出版局) 昭和53年10月7日
と、二冊の対談集

『人間の建設』(新潮社) 昭和40年10月20日
小林秀雄との対談
『心の対話』(日本ソノサービスセンター) 昭和43年3月29日
林房雄との対談

が目に留まりますが、刊行されたのはどれもみな昭和44年以前です。岡先生の作品はこの後も刊行されることがありましたが、それらはアンソロジーや再刊ですから、著作活動は実質的に昭和44年までで終焉したことになります。昭和38年から数えて7年になります。岡先生にしてみれば書きたいことは尽きませんでしたから、さらに書き継ぎたいという希望はあり、実際、新たな作品を書き上げて講談社の現代新書の編集部に送付されました。それは『流露』という作品です。
 昭和45年1月20日、岡先生は『流露』の「まえがき」を書きました。この作品は『曙』『神々の花園』の続篇のつもりで執筆されたのですが、講談社現代新書の編集部に送付したものの、刊行されないまま放置されてしまいました。現代新書に入ったエッセイ集は『風蘭』から『神々の花園』まで5冊を数えましたが、どうしたわけか、売れ行きが伸び悩んでいきました。編集部が『流露』の刊行をためらったのもそのためなのでした。
 岡先生の初期のエッセイは、超俗の数学者の描く飄々とした雰囲気をかもすというところに特徴があり、世の人々の意表を衝く奇抜な印象を伴う発言と行動とも相俟って人気が高まりました。数学というのは情緒、すなわち心の表現なのだと語つたり、文化勲章のおり、天皇陛下の御下問に答えて「数学は生命の燃焼によって作るのです」と答えたりしましたが、こういうところには幅広い支持があり、エッセイ集も歓迎されてよく売れました。ところが『一葉舟』では光明主義という、あまり知られるところのない宗教思想が説かれ、『昭和への遺書』『日本民族』『曙』『神々の花園』と進展すると、日本の現状を憂うる愛国の数学者という様相を呈してきました。どれほど異質のように見えようとも、超俗の数学者も宗教思想家も愛国の数学者も、どれもみな岡先生その人の姿なのですが、『春宵十話』や『風蘭』の読者は何かしら異様なものを感じ取り、距離を置くようになっていったということであろうと思います。
 保田與重郎は岡先生を評して、「間違つた者からは理解されまいと私は考へた」と語ったことがありましたが、事態はこの言葉の通りに推移して、講談社による『流露』の刊行拒絶という事態が現われました。
 岡先生の没後、担当の講談社の社員、藤井和子さんが『流露』の原稿を郵便で岡家に返送しました。「まえがき」の日付は「昭和四十五年、一月二十日」。400字詰原稿用紙で240枚の原稿です。四部構成で、(「春の巻」ではなくて)「冬の巻」に始まり、以下、「春の巻」「夏の巻」「秋の巻」と続きます。「まえがき」の末尾を見ると、
 《書名の流露とは、心の流露と云う意味である。》
という言葉が目に留まります。岡先生の公の場での活動はこの後も続き、雑誌や新聞にエッセイを寄稿し、あちこちで講演を繰り返しました。市民大学講座の講義も続きました。ですが、新しい著作はもう刊行されませんでした。『春宵十話』から『神々の花園』までの12冊のエッセイ集は、数学研究の場でいうと、さながら公表された連作「多変数解析関数について」を構成する10篇の論文のようなおもむきもあります。数学研究は第10番目の論文の後もなお続き、境界問題や内分岐領域の理論や代数関数論が未完成のままに遺されました。この事情は著作活動でも同様で、岡先生は『流露』以降も、出版の見通しのない独自の作品を書き続けました。それは『春雨の曲』という作品でした。

終末医療

母の病気がきっかけになり、突然、終末医療について考えさせられる場面に直面しました。母は肺炎で高熱が出たことが直接のきっかけになって入院したのですが、入院した当日、担当の医師が、延命治療をするのかしないのか、家族で決めるようにと、いきなり指示されました。家族の決定に従うというのですが、医者が言うには、
「高齢だから延命は無意味」
「結局、治らないのだから、むだ」
「肺に悪性の腫瘍があるような気がするが、治療はできない」
「延命治療は本人も苦しいし、見ている側も苦しい」
「ただ呼吸をしているだけの状態になり、身体が汚くなる」
等々。これは、まだ聴診器で診察した程度の段階での発言です。さてそのうえで、
「たいていの家族は、何もしない方を選ぶ」
とのお達しでした。これには本当に驚きました。
担当医は群馬大学医学部出身の内科医です。そこで、知り合いの医者3人に所見をうかがってみました。
九州大学医学部出身の九州地区の国立病院の院長さん(専門は循環器内科)
日大医学部出身の横浜の開業医(胃腸科)
佐賀医科大学出身の長崎の勤務医(精神科)
そうしましたら、みなさん口を揃えて、今は医者の世界ではそういう考えになっていると言うのでした。経歴も年齢も専門もまちまちなのに同じことをいうのですから、定番の意見が確立しているのはまちがいないという印象を強く受けました。姉と妹と三人で鳩首協議になり、大もめにもめました。

(岡潔先生を語る87)超俗の数学者から憂国の数学者へ

『春宵十話』を第一エッセイ集と見て、昭和42年までに刊行された岡先生のエッセイ集は7冊を数えましたが、昭和43年には一気に三冊のエッセイ集が刊行されました。

『一葉舟(ひとはぶね)』(読売新聞社) 昭和43年3月30日発行
昭和41年(1966年)3月20日から、読売新聞の宗教欄で連載「仏教と科学」が始まりました。月に一度の連載で、翌昭和42年1月まで書き継がれて計11回に達しました。毎回の標題は下記の通りですが、これらは岡先生が御自分でつけたのではなく、読売新聞の記者がエッセイの本文から鍵になりそうな言葉を拾ったのであろうと思われます。

 「数学を解く英知 古来、東洋人は知っていた」
 (3月20日)
 「大数学者にも限界 ヨーロッパ人に教えたい思想」
 (4月10日)
 「数学に?不死の信念? 重要な仏教からの知識」
 (5月15日)
 「万物は心のすがた 「大円鏡智」の世界観」
 (6月12日)
 「宇宙に満ちる如来の光 一切の現象は心にある」
 (7月24日)
 「平等智について 宇宙の一大理性 人間の巧妙な身体も支配」
 (8月14日)
 「遠い“人類の悟り” 小さな自我の浄化に30億年」
 (9月11日)
 「万物に「察知」の性 熟せば神の心を悟る」
 (10月9日)
 「一切を結ぶ察知 弁栄上人のとく真理の道」
 (11月13日)
 「千里を見通す天眼 鋭い察智は自然界と感応する」
 (12月11日)
 「「仏眼」開けば自在 貴重な遺産を見直そう」
 (昭和42年1月15日)

 エッセイ集『一葉舟』は連載「仏教と科学」を巻頭に配置し、ほかにもいくつかのエッセイを集めて編成されました。『春宵十話』から『春の雲』あたりまでのエッセイでは、どことなく俗世間を超越した数学者という雰囲気がかもされていましたが、『一葉舟』になると筆致が一変し、宗教的な視点から数学研究の姿を観察しているかのような印象があります。「大円鏡智」「平等智」「弁栄上人」などの言葉から察せられるように、岡先生のいう宗教は弁栄上人の光明主義を意味しています。読売新聞の昭和38年9月22日の「宗教」欄に、
「私の生活に現われた宗教-心の中に自然がある-」
という岡先生のエッセイが出ていますが、これも『一葉舟』に収録されました。光明主義との出会いと別れの物語は、岡先生の生涯を支える太柱のひとつです。
『一葉舟』の「あとがき」の日付は「昭和四十三年二月」。書名は『春の雲』と同じく土井晩翠の詩「星落秋風五丈原」から採られました。

  閑雲野鶴空濶く
  風に嘯く身はひとり、
  月を湖上に碎きては
  ゆくへ波間の舟ひと葉、
  ゆふべ暮鐘に誘はれて
  訪ふは山寺の松の影。
  (第二歌、第二節)

  江陵去りて行先は
  武昌夏口の秋の陣、
  一葉輕く棹さして
  三寸の舌呉に説けば
  見よ大江の風狂ひ
  焔亂れて姦雄の
  雄圖碎けぬ波あらく。
  (第三歌、第二節)

『昭和への遺書 敗るるもまたよき国へ』(月刊ペン社) 昭和43年6月20日発行
「まえがき」の日付は「昭和四十三年三月」。

『日本民族』(月刊ペン社) 昭和43年12月10日発行
「はしがき」の日付は「明治百年九月九日」。翌年1月15日、再版。

『昭和への遺書』と『日本民族』の二冊には、超俗の数学者でも仏教思想家でもない、岡先生のもうひとつの側面が現われています。それは、日本と日本民族を愛する憂国の数学者の姿です。

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