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(岡潔先生を語る72)戦時下の紀見村の日々

 札幌と東京で「史上一片の哀史」を時代をすごした岡先生は、遅くとも昭和17年の年末までには紀見村にもどったのではないかと思われます。ひどい興奮状態に見えてもたいていは一時的なことで、入院したからといってただ休んでいるだけで、格別の治療があるというわけでもありませんでした。昭和17年11月5日、みちさんは札幌の中谷静子さんに宛ててはがきを書きました。文面は、下宿屋「荻野」に放置されたままの岡先生の荷物を整理してもらったことへの御礼ですが、「もうこの頃は私生きて行く勇氣が無くなりました」と、苦しい心情も吐露されました。岡先生は「壇の浦の平氏一門」に通う心を語りましたが、みちさんにはみちさんの悩みがあり、岡先生の身の上を案じ、世間の目からかばい、将来をあやぶみ、絶え間のない悩みを悩み続けていたのでした。

《昨日は奥樣よりお葉書有難う存じました。本當に主人が札幌に居ります間は何かと御世話樣になりまして誠に有難う存じました。又この度は荷物大變御厄介おかけ致しました。重ね重ね御禮申し上げます。手のつけられない書斎でございましたでせう。いくら申しましても昨冬からの汚れ物ちつとも送つて参りませず困つて居りました折柄とて嬉しく存じます。暫く無事な日が續いたかと思ふと又今日のやうな日が参りましてホトホト致します。もうこの頃は私生きて行く勇氣が無くなりました。生きる事がおくくふで世間がうるさくてうるさくて仕方なくなりました。次第にお寒さに向ひますから皆樣呉々も御自愛遊ばします樣祈り上げます。御主人樣によろしく。》

 昭和26年の春、岡先生は紀見村を離れ、一家をあげて奈良市に転居しましたが、それまでの間、(昭和17年の暮から数えて)足掛け10年の歳月にわたり、岡先生の所在地は一貫して父祖の地の紀見村でした。不定域イデアルの理論が大きく結実したのはこの時代です。
 昭和18年3月13日、みちさんは中谷宇吉郎と静子さんに宛てて手紙を書き、岡先生の近況を伝えました。

《先日はお手紙と小切手有難う存じました。御元氣に御夛忙の御樣子何よりと存じます。早速御禮をと思ひながら私何年か振りに風邪氣と疲勞の・・・熱を出しまして一寸ね込みましたので延引致しましてお許し下さいませ。子供も軽い熱を出して一廻り済ませました。主人は大元氣で私の病中も赤ん坊をおんぶして勉強したり私達に御飯を運んだりしてくれました。》

 手紙の末尾には、「いよいよ玄米食に致しました」と、戦時下をしのばせるひとことも添えられています。ハワイ海戦の年から数えて大戦も三年目に入り、昭和18年は食量増産の掛け声が高まっていく年でもありました。次の手紙もみちさんの近況報告ですが、岡先生も芋や豆の増産に向けて一生懸命だったことがわかります。8月17日付の中谷宇吉郎宛の手紙からの引用です。

《お蔭樣で當方一同無事に過ごして居ります主人はとても元氣で順調に研究をつづけて居ります。そのかたはら時々食料増産の鍬を握る事もございます。子供達も元氣で居ります。》
《當地もこの二月からお米の配給量が全國的のものになり、配給量の少ない小さい子供を二人持つ私等は本當に、實際口に入る分量は一日一合八分位ひしかございませんでした。それに田舎は毎年の事ながらえんどうや新じやがいもの出る迄は殆んどどんなお野菜もございません。六月頃私の痩せ方があまりひどく(主人と私と大きい子供とは玄米)お腹ばかりがふくれて何か病氣の樣に誰の目にもうつりましたので上坂して診て頂きましたところ、別にどこにも故障なくやはり主食物の足りないためらしかつたのでございました。八九日大阪と里で滞在致しましたが、四日目頃から目に見えて肉づきました。丁度その前後にえんどうをドンドン買ひ込んで乾かせましてそれを御飯に混ぜて頂き、その中にじやがいも玉ねぎと順々にお野菜が豊富になりますにつけ體がしつかり致しまして、もうその後痩せる樣な事はございません。今かぼちやをドンドン頂いて居ります。ジヤガイモは自由賣買が禁じられて居るのでございますが、背に腹は代へられずアチコチで集めて貰つたりしてだいぶん手に入れましたので、毎日御飯に入れて頂いて居ります。主人は平素から痩せて居りますからさう目立ちは致しませんでしたが、何やら氣力がなく物うい樣でございましたが最近はすつかり恢復致しました。》
《家の空地と畠は今さつまいもと大豆でうづまつて居ります。主人はとてもやかましく朝ヌツト起きると夜ねるまで「芋と豆」の増産と、手に入れる話でもう私それをきく根氣がなくなつて、しまひにはこちらが神經衰弱になり相でいやでしたが、そのお蔭でお腹の空いた氣もせず痩せる事もなく過ごして居ります。》

 後年、岡先生もまたこの時代を回顧しました。

《何しろ食糧不足で餓じくて仕方がない。それで薮を畑にする積りで竹だけは切ったのだが手が廻らなくて其の儘にしたのがあったから、それを借して貰って朝鮮人の日雇い労働者に竹の株を掘り起こして貰って畑にし、其処に主として薩摩藷、里芋、かぼちゃ等の主食代用品を作った。
 薩摩藷を作ると云う話を聞いて、子供はこの頃は二人(註。実際には三人)で、下の煕哉は遅生まれの数え年七つだったのだが、その煕哉などはわたしが畑を借りる交渉に行く時ついて来た程だった。》
《畑仕事は大体わたし一人でした。わたしは畑の土の上や、家の庭の土の上に木の枝でシェーマや記号を描いて思索に耽ったのであって、後にさおりが生まれてからは、さおりを帯で背中に縛りつけて、踞って、家の庭の土の上で木の枝で色々描きながら思索を楽しんでいる、当時のわたしの姿が目に浮かぶ。》
(『春雨の曲』第7稿より)

 昭和17年の年末ころからのことと思いますが、岡先生は岩波書店の風樹会の奨学金を受け始めました。風樹会というのは岩波書店の店主の岩波茂雄の発意により設立された財団法人で、哲学、数学、物理学など、基礎的学問の研究者を対象にして奨学金を支給することを目的にしていました。発足は昭和15年11月2日と記録されています。創立当初の理事は高木貞治、小泉信三、田辺元、和辻哲郎、和達清夫で、数学方面の担当は高木貞治でした。
 風樹会の奨学金を受けられるようになった経緯は定かではありませんが、おそらく岩波茂雄と親しかった中谷宇吉郎の斡旋によるものと見てよいと思います。北大を辞めてまた無職になった岡先生を案じたのでした。風樹会の奨学金は昭和24年まで続きます。この間、岡先生は高木貞治のもとに研究報告を送り続けました。
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(岡潔先生を語る71)ひとりきりの世界

 10月10日付で仙台の藤原松三郎に宛てて一枚のはがきを書いた岡先生は、その直後に紀見村を発ち、東京に向かいました。10月16日から18日にかけて東京帝大で開催される日本数学物理学会に出席し、講演するためで、そのまま札幌に足をのばして下宿の荷物を整理するというのが、岡先生の立てた計画でした。その途中、仙台で藤原松三郎に会う考えがあり、札幌には一箇月から一箇月半ほど滞在する見積もりもあったようですが、東京で心身の調子をくずしたため、どちらも実現にいたりませんでした。当初の予定では13日に静岡の岡田家に泊まり、14日朝、東京に行くことになっていたところ、実際には一日延びて、1静岡の岡田家に泊まったのは14日になりました。東京では東京の岡田家(岡田弘の生家)に頼んで、靖国神社の近くに宿を手配してもらいました。
 それから上京し、17日には学会で「多変数解析函数論について」という演題で講演しました。第二日目の午前の講演で、第一日目から通算して第23番目の講演でした。「日本数学物理学会誌第十六巻第九号」に収録されている「昭和十七年度年会講演アブストラクト」には、
《多変数解析函数論について研究した結果の一節をのべる.》
と記されているのみで、講演の中味は不明ですが、札幌で書き始め、この時期にもなお改訂を続けていた二論文、「第一報告」と「第二報告」の内容が語られたであろうことは想像に難くありません。それは、ハルトークスの逆問題の解決を、有限で不分岐な無限多葉領域にまで及ぼそうとする雄大な試みですが、この講演に対して何も反応がなかったこともまたいつもと同じです。
 岡先生の所在地は21日になってもまだ東京でした。この日、岡先生は突然興奮状態になり、宿の内外で大声で話したり、買ってきた花籠を往来に投げつけたりしたため、宿の主人が東京の岡田家に連絡したのでした。岡田弘の母が静岡に打電し、それを受けて、岡田弘が急遽上京しました。上京に先立って、静岡から紀見村のみちさんに宛てて「兄病・・・と東京母から電報来たからこれから上京する」という電報が打たれました。岡先生は21日の夜は興奮して眠らず、22日の朝方になってやっと少しおさまりました。岡田弘には医者をしている弟がいて、その弟の知人の紹介で東大の精神科の先生(名前は不明)に相談し、その先生の紹介により瀧野川区瀧野川町西ヶ原の小峰病院に入院することになりました。これまでもいつもそうだったように、今度もまた原因は不明瞭で、どうしてこんなことになったのか、だれもわかりませんでした。背景に数学研究の苦心があったこともこれまでと同様で、今度の出来事の根柢には、みずから彫心鏤骨というほどの苦心を重ねた二篇の論文がありました。この後、退院して帰郷したのですが、その時期は年内だったのか、あるいは年を越したのか、仔細を知る人はこの世にはもういません。
 後年、昭和24年のエッセイ「春の回想」を見ると、この時期のことがわずかに語られて、

《1941-42年の札幌時代及びそれにつづく短い東京時代は、今から思へば、壇の浦の平氏一門を思はせるものがある。史上一片の哀史たるを失はないでありませう》

と回想されています。「壇の浦の平氏一門」を思わせる「史上一片の哀史」というのですが、それなら岡先生の心の世界を舞台にして、何事か、大きな物語が崩れ落ちたかのような印象があります。だれにも理解されることのないひとりきりの思索の世界の出来事です。

(岡潔先生を語る70)第三報告

 第一報告と第二報告の成立とその後の経緯については、これまでのところで語つた通りですが、岡先生はもう一篇、「第三報告」を企画していました。表紙に、
 「第三報告(草案)
  2.9.16
  朝」
と書かれている草稿の断片が、表紙のほかに2枚だけ遺されています。不定域イデアルの理論の始まりのころの情景を伝える貴重な文献のひとつです。
 1枚の紙片には、
 「2.9.16(朝)」
という日付が記され、1940年のカルタンの論文「n個の複素変数の正則母式について」に取材したカルタンの定理が書き写されています。もう1枚の紙片には、
 「2.9.16
 (晝食後)
  Sur les ide'aux holomorphes」
と、カルタンの論文のタイトルが記され、それから三つの問題が書き留められている。

《Prob 1(H.Cartan)Basisノ広域存在
 Prob 2 表現ノ広域存在
 Prob 3 表現ノ一意性(Prolongementノ問題)
Prob 2ハ代数函数ノトキト非常ニ似テ居ル。言葉ニツイテハWaerden(Hilbert, Noether, Artin)-証明法ハ矢張リ(問題ガfns.analytiquesト制定セラレテ居ル場合ダカラ)Osgood(ツマリWeierstrass)ノ方ガ速クハナイカト考ヘル-言葉ニツイテモゴク一部分ダケ借リルノダカラ-ムシロソノママツカワナイ方ハマギラワシククナイダラウ
 Prob 3ニツイテモ同様-方法トシテハムシロ此ノEindeutigkeitガ先デアラウ》
(問題1(アンリ・カルタン)基底の広域存在
 問題2 表現の広域存在
 問題3 表現の一意性(接続の問題)
問題2は代数関数のときと非常に似ている。言葉についてはヴェルデン(ヒルベルト、ネーター、アルチン)。証明法はやはり(問題が解析関数と制定せられている場合だから)オスグッド(つまりヴァイエルシュトラス)の方が速くはないかと考える-言葉についてもごく一部分だけ借りるのだから-むしろそのまま使わない方がまぎらわしくないだろう。問題3についても同様-方法としてはむしろこの一意性が先であろう)

 岡先生がベンケ、トゥルレンの著作『多複素変数関数の理論』に想を得て構想を立て、新たな研究に向かったとき、具体的に思索を進めていくうえで大きな力になったのは、「正則凸性」という、カルタンに由来するアイデアでした。今また内分岐領域の研究に向けて第一歩を踏み出していこうとするとき、有力で具体的な思索の手掛かりを与えてくれたのは、またしてもカルタンでした。後年、「数学セミナー」のインタビューを受けたとき、カルタンだけは懐かしいという気がすると語ったものですが、カルタンは岡先生にとってかけがえのない「数学の友」なのでした。
 カルタンの1940年の論文については、晩年のエッセイ『春雨の曲』でも触れられています。

《数論を解析函数の分野に移し植えようとする試みは当時既になされていたのであるが、多項式を解析函数に変えると、何しろ函数は全空間で存在するとは限らなくなるから、其処から数論には全く見られなかった困難が次々に出て来て、まだ殆んど何もわかっていなかった。》
《わたしはカルタンの論文を読んで近況を知ると、わたしには彼等は唯漫然と結果さえ新しければよいと云うのでやっているように見えた。前に述べたカルタンの論文などは例外であるが。不動の目標を持っている者とそうでないものとの違いがどうしても研究振りに現われてしもうのである。それで間もなく、こんなやり方では到底駄目だから、そもそもの始まりから自分でやり直そうと思って、中心は「イデアル」であるからそれについての記憶を現在に呼びもどした。》
(『春雨の曲』第7稿)

 そこで岡先生は友人の秋月康夫の著作『輓近代数学の展望』によりイデアルを勉強を始めました。この本を指して「初心者のための小冊子」と岡先生は言っていますが、どうしてそのような本を選んだのかといえば、「数学で一番使えるのは芽生えただけの頃の研究だと云うことを、そしてこれが自分に合った研究だと云うことを、度重なる体験によってよく知っていたから」というのでした。

(岡潔先生を語る69)第一報告と第二報告

「第一報告」の執筆が開始された時期を伝える最初の日付は8月4日と記録されていますが、その一週間後、8月11日付で岡先生は一枚の「終了報告書」を書きました。記事は次の通りです。

《実施方法
多変数解析函数ノ研究
説明
数学解析ニ対シ重要ナ意義ヲ有スベキシカモ進歩ノ遅レテ居ル左記分科ヲ研究スルモノデアル
費用 合計1200円
研究ノ今日迄ノ経過
總合的ナ然シ勢ヒ粗雜トナラザルヲ得ナイ様ナ研究ヲ一応打切リ目下各要点ヲ切リ離シテ精査シ之ヲ断片的ニ報告シヨウトシテ其野方法ヲ探シテ居ル
結果
断片的報告ヲ一ツダケ書キ上ゲタ。今後暫ク此ノ方法ヲ續ケタイト思フ。然シ之ハ反ツテ難シイ場合モアルカラ一概ニハ云ヘナイ》

 この報告書も、提出先は谷口工業奨励会と思います。前年8月から月々100円ずつ支給され、この7月で丸一年になりますから、総額はちょうど1200円に達します。岡先生はこの「終了報告書」に二篇の論文を添えて提出し、これをもって札幌滞在に区切りをつけようという心づもりだったのではないかと思います。
 札幌で執筆したもう一篇の論文「多変数解析函数ノ研究 第二報告」は、一枚きりの断片も数えて全部で9種類の草稿が遺されています。昭和17年の年初から「新春偶感、初秋雑記」という標題で書き継がれた日記風の書き物があり、表紙と本文を合わせて計54枚になりますが、8月19日と20日の日付のある紙片に、
 《断片的報告其ノ二トスルノガ穏健デアラウ》
と記され、翌21日には、

《この第二報告をなるだけ四五日で書き上げて夫から学校へ出る。ともかくこの二つだけを佛蘭西語になおす。長短二組をこしらへて一つは学士院記事へ一つは北大紀要へ同時に出す》

と、執筆方針が述べられています。
 9月1日の朝は植物園に行き、それから「終リノ草稿(報告二)ヲトモカク大急ギデ書キ上ゲル」という仕事に打ち込みました。これを受けて、翌2日の記事が続きます。

《多変数函数ニ関スル研究報告其ノ二ノ草稿ヲ植物園ニ行ツテ六頁ノホトンド終リマデ(始メカラ)訂正スル。訂正ハ二度ニ分ケ、初メ大体ヲ始メカラ終リマデ見、次ニクワシクヲ上記六頁マデスマス(時間ハ大体一時間餘リ。二ツノ異ナツタ操作ノ途中デ氣ヲ変ヘルタメニ少シヤスム。スンデミルト少シコシガダルクテカナリノドガカワイテ居タ。》

 こんなふうにして、「第二報告」の最初の草稿ができました。表紙に、

 「多変数函数ニ関スル報告
  其ノ二
  2.9.4
  (稿)」

と記され、本文は22頁。表紙には、

 「草稿(同時ニ記録其ノ五)
  (2.9.1)
  大体6頁ノ終リマデハ
  主トシテ2.9.2日植物園ニテ訂正
  残リ大体2.9.3
  植物園」

とも書かれていて、「新春偶感、初秋雑記」の記述と合致しますが、なぜか線が引かれ、削除の意志が示されています。他の草稿の日付を拾うと、「9月5日」「9月10日」(ここまでの稿は札幌で執筆されました)「10月5日」「10月8日」(この日付の草稿は二つあります)「11月23日」(断片1枚の欄外の日付)。他にもう一枚、頁番号「9」が記入された紙片があります。
 10月10日、紀見村の岡先生は仙台の藤原松三郎に宛てて手紙を書きました。下書きが遺されていて、「(二年)十月十日 藤原先生(葉書横書き)」と記されていますから、封書ではなく、はがきに横書きにしたことがわかります。

《謹啓、札幌カラ御送付致シマシタ小生論文(表題ハ少シ変ヘマシタガ)「多変数解析函数ニ関スル研究 第一及ビ第二報告」、第二ノ方ニハ大分「ケヤレスミステイク」ガアリマシテ一寸「ヤヽ数学ニ近イモノ」ト云フ氣ガシマシタカラ二ツトモ書キ直シテ改メテ別封致シマシタ(第一ノ方ハ殆ド変ヘテアリマセン)。内容形式(作成過程)共ニ第一報告ハ「觀察ト(分析ト)実驗」ヲ主トシタモノ、第二報告ハ「洞察ト描写」ヲ主トシタモノデアリマシテ共ニ小生彫心鏤骨ノ作デアリマス。
イズレ佛文ニ直ス積リデスガ今外国文デ急イデ書イテモ殆ンド意味ガ無イト思ヒマスシ、ソレニ小生トシテハ母国(語)デ論文ヲ書イタノハ之ガ最初デスカラ此ノ際「数物」ヘ掲載シテ欲シイト思フノデスガ、内容形式共ニ本質的ナ誤リハ無イト信ジマス。「ケヤレスミステイク」ニ対シテモ充分注意ハシタ積リデスガ、之ハ小生ニハツキモノノ様デスカラ此ノ方ハ何トモ云ヘマセン。御面倒デスガ御願ヒ致シマス。今ハ外国文発表ハ急ガナイト考ヘマスシ、母国語デ「数物」ヘ掲載シテ頂キタク存ジマスガ。
尚「数物」ヲ撰ンダノハ他日物理モ深ク関係シテ来ル様ニ思ハレルカラデス。 敬具
(二年)十月十日 藤原先生宛(葉書 横書キ)》

「数物」というのは日本数学物理学会の機関誌「日本数学物理学会誌」のことで、岡先生は二篇の報告の掲載を望み、藤原松三郎に依頼したのでした。まずはじめに札幌から送付し、紀見村にもどってから書き直した改訂稿をもう一度、送りました。岡先生の希望はかなえられず、二篇の論文は未発表に終りましたが、それはそれとして、遺された草稿群を見ると、改訂の試みはその後もなお継続した様子が見られます。

(岡潔先生を語る68)みちさんの手紙

 昭和17年9月の突然の帰郷について、岡先生が語つたという二つの理由は、帝塚山の北村純一郎とみよしさん、それに紀見村のみちさんが聞いたと伝えられている話です。これに対し、ずっと後年(30年以上の後)のことになりますが、岡先生は当時の心情を回想してこんなふうに書いています。

《わたしの家は和歌山県の紀見村にあるのだが、この家を守っているのは今は家内と小さな子供二人とだけである。大東亜戦争は益々熾烈さを加えて行く。如何にも心細そうな様子がその手紙をよむとよくわかった。研究に没頭してしまって郷里に残して来た家族のいることなど全く忘れてしまっていたわたしは、人の夫、人の親としてこれではいけないと気が付いた。どうせ最早赤手空拳でやっているのだから、研究は別に数学の図書室のある所にいなくても郷里の家にいても充分出来る。それで北大の嘱託をやめて郷里に帰った。》
(『春雨の曲』第7稿より)

 みちさんたちが伝えている話とは全然違いますが、実際の言動とは別に岡先生自身の考えはこの通りだったのかもしれませんし、それなら岡先生の心情は周囲の人たちにまったく伝わらなかったことになります。広島事件(昭和11年)のときも出奔して上京したときも(昭和13年)そうで、心が通い合うことがなく、いつも齟齬をきたしました。数学研究でも、フランスから持ち帰った研究テーマを放棄して、だれも手掛ける人のない独特の問題群を造型したりことも異例中の異例ですし、関数論は一変数だけやればよく、多変数関数論なんか値打ちがないと批評する人もいました。生活の場でも研究の場でも、岡先生の心は絶え間なく孤独でしたが、閉ざされていたわけではなかったのです。
『春雨の曲』の記述では、紀見村の岡家にはみちさんと二人の子どもしかいないと書かれていますが、この時点では母の八重さんも健在でしたし、それに、前年の昭和16年8月13日に次女のさおりさんが誕生していますから、郷里の岡家を守っていたのは五人です。
 札幌の岡先生のもとにみちさんから手紙が届いたというのは本当で、昭和17年8月16日付の手紙です。みちさんは「百五十円頂いて大變助かります」と書き始め、それから、先月は170円かかったこと、岡憲三(岡先生の兄)に二人の子ども(長女のすがねさんと長男の煕哉)がお伊勢参りに連れて入ってもらったので15円かかったことなど、家計の近況をこまごまと報告しました。広島の牛田の家は、昭和13年の帰郷にあたり、みちさんがでかけて引き払ったのですが、荷物はどこかにあずかってもらっていた模様です。秋ころに引き取りに行きたいが、その費用が3円。それに、引き取っても置き場所がありません。すがねさんは女学校に進む年にさしかかりましたが(この手紙の時点で満10歳になったばかりです)、行くのか行かないのか決められないし、行くとしてもどこにしたものか判断がつきかねました。清水谷(みちさんが出た清水谷高女)は四年制でたいへん不便の由、堺(岡先生の妹の泰子さんが出た堺高女)は最近学区制になったのでだめ。それで、ぜひ紀見村で暮らさなければならないというわけでもないし、すがねさんの女学校本位に転居するのも一案でした。みちさんはこんなふうに考えを述べた後、「とにかく御熟考願ひ上げます」と言い添えました。
 みちさんの報告はほかにもありますが、岡先生はこんなふうな手紙を受け取って「如何にも心細そうな様子」と思い、帰郷を決意したというのが晩年の述懐なのでした。みちさんにしてみれば、心細いことは心細かったかもしれませんが、岡先生からの仕送りを生活の頼りにしていたのもまちがいなく、せっかく北大に就職できたのに辞職するというのはまったく思いもよらないことでした。だれもがみな唖然として、病気が再発したのではないかと危ぶみました。
 寝耳に水だったのは北大にとっても同様ですが、本人が立ち去った以上、どうにもならず、11月2日付で依願退職という形をとりました。札幌の逗留先の下宿屋「荻野」には荷物一式すべて置き去りでした。岡先生はもう一度札幌に出向く考えだったようですが、これは果たせず、代って中谷宇吉郎の奥さんの静子さんが荷物整理の仕事を引き受けて、紀見村に送り返しました。

(岡潔先生を語る67)大戦下を生きる心

 理学部の研究補助員として北大に就職したとはいうものの、具体的にどのような仕事をしていたのか、その間の消息を伝える記録は何もありません。晩年のエッセイ『春雨の曲』第7稿には、夏になって「研究の場所を北大の数学教室から札幌市の植物園に移した」と記されていますから、夏休みに入る前は北大に通っていたと思われるのですが、おそらく特に課せられた仕事は何もなく、豊富な時間を自由に使い、数学研究に専念できたのではないかと思われます。
 昭和17年の日本は大戦下にありました。岡先生は後年のエッセイで往時を回想し、昭和13年1月の出奔と上京は、支那事変をやめさせるよう、天皇陛下に直訴するためだったとか、ハワイ海戦のニュースを聴いて「しまった、日本は滅びた」と思ったというふうに当時の心情を語りましたが、札幌で書き継がれた研究記録を参照する限り、ハワイ海戦のニュースに接したときの心情を語る記事はなく、戦況の推移に向けて深い関心が寄せられた様子も見られません。その代わり、研究記録の端々に日常の生活の様子を物語るメモがときおり記され、大戦下の札幌の日々をすごす岡先生の心情がにじんでいます。全般に重苦しい雰囲気に包まれていて、国運を賭した大戦を戦う国の姿に自身を重ね、運命をともにする決意を心の底に秘めているような緊迫感さえ伝わってきます。ハワイ海戦の報を耳にした瞬間に日本は滅びたと直感したという後年の回想は、少なくとも心情の場において心身を置いて聴く限り、本当のことのようでもありますし、岡先生は横井栄子さんの歌に現れている通りの情緒の世界を生きたのではないかと思います。それは、滅び行くものの運命の美を歌う「平家物語」の世界です。
 それでもなお素朴な疑問が起ります。日本という国が滅びてしまうのであれば、岡先生の数学研究はどのような運命をたどることになるのでしょうか。大戦下の岡先生の心を直截に伝える言葉は語られていませんが、戦争が過酷さの度を増していくにつれ、数学研究に打ち込む岡先生の意志と情熱は、ますます強固になっていくかのようでした。戦時下に書かれた大量の研究記録や未刊の論文の草稿群が、語られなかった岡先生の心情をありのままに語っています。
 札幌では不定域イデアルの研究ノートとは別に、論文の執筆に力を入れました。何度も書き直しを行って、格別念入りに仕上げようと試みたのは、
 「多変数解析函数ノ研究 第一報告」
 「多変数解析函数ノ研究 第二報告」
という二篇の論文でした。「報告」とされているのはいくぶん奇妙な感じを受けますが、おそらく前年夏以来、研究資金を提供してくれた谷口工業奨励会に対し、研究成果を報告するというほどの心情だったのではないかと思います。
「第一報告」は細かく数えると全部で9種類もの草稿が遺されています。たいていは断片ですが、完結しているものもあります。そのひとつ、

 「多変数解析函数ニ関スル研究ノ断片的報告 其の一」

という原稿を見ると、第1頁に「2.8.4」、第4頁に「8.5」という日付が記入されています。「2:8.4」の「2」は日本独自の神武天皇即位紀元の第2602年を指し、昭和17年に該当します。レポート用紙15枚の原稿です。それから、

「多変数解析函数ニ関スル研究ノ断片的報告
 1-分岐点ヲ持タナイ無限葉有限擬凸状域ノ地勢」

という草稿もあります。本文は10頁で、末尾に「2.8.7」と同じ日付が記入されています。ここで取り上げられた擬凸状領域は、分岐点をもたないことと有限であることは第6論文と同じですが、「単葉」という仮定が「無限葉」に変りました。内分岐しない無限葉有限擬凸状領域を対象にしてハルトークスの逆問題の解決をめざそうとするもので、後年の第9論文と同じテーマが、すでにこの時点で試みられていたことになります。また、

 「多変数函数ニ関スル研究ノ断片的報告 其ノ一(稿)
 (2.8.27)」

という草稿は、断片が3枚だけ遺されていますが、2枚目に「(此ノ稿終リ 2.8.28)」「2.8.29 訂正」という日付が出ています。こんなふうに何度も繰り替えして推敲を重ねた様子がうかがわれ、見る者の感慨を誘います。
 一番最後の草稿「多変数解析函数ノ研究 第一報告」に附されている日付は「2.10.20」すなわち皇紀2602年(昭和17年)10月20日ですが、これについてはやや立ち入った説明を要します。なぜなら、岡先生はこの日付の時点にはすでに札幌を離れていたからです。
 大きな期待をかけた三度目の札幌行でしたが、なぜか岡先生は札幌に逗留する気持ちを失ったようで、夏休みの終りとともに帰郷してしまいました。北大の研究補助員の任期が切れたわけではありませんし、理由は不明です。札幌を離れたのは9月19日のことで、札幌駅で中谷宇吉郎の見送りを受けて発っていきました。9月21日、帝塚山の北村家に到着。数日、帝塚山に逗留して、25日の夜、紀見村にもどりました。札幌を引き揚げる理由として、岡先生は「札幌の冬はしのぎがたい」ことと、「論文はもう出してしまったから」というふたつの事情を語りました。論文というのは「第一報告」と「第二報告」のことで、提出した先は谷口工業奨励会であろうと思います。

(岡潔先生を語る66)三度目の札幌

 ベンケとカルタンは遠いヨーロッパの「数学の友」でしたが、数学研究に心身を打ち込んでやまない岡先生の心情を理解する人は、わずかではありますが国内にもいました。三高以来の親しい交友のある数学の秋月康夫、パリで知り合った実験物理の中谷宇吉郎、三高の大先輩にあたる数学の藤原松三郎など、みな岡先生に対してなにくれとなく親切でした。昭和15年6月、広島文理大の辞職が確定すると、岡先生の収入の道は完全に途絶えました。岡家には相当の資産があったとはいうものの、食いつぶすような恰好になってしまうと生活はやはり苦しくなってきたのでしょう、同年8月ころから秋月康夫の仲介により、谷口豐三郎から経済援助を受けることになりました。谷口豐三郎は岡先生や秋月康夫と三高で同期だった人で、昭和15年当時は東洋紡績の取締役でした。亡父、谷口房蔵の遺志を継いで創設した財団法人「谷口工業奨励会」からの援助という形をとって、毎月百円ほど支給されました。
 岡先生の生活のことは札幌の中谷宇吉郎も気にかけて、北大理学部の二人の数学者、功力金二郎(くぬぎ・きんじろう)と吉田洋一とも話し合い、何らかの形で岡先生が北大に就職できるようにと尽力しました。この話には岡先生も乗り気になり、北村純一郎も秋月康夫もみちさんもみな喜んで話が決まり、「理学部研究補助を嘱託す」という辞令を受けて、10月31日付で研究補助員に嘱託されました。功力金二郎教授の研究室に所属し、「純粋解析学に関する研究」の研究補助を行うという趣旨でした。功力金二郎も吉田洋一もパリで知り合った岡先生の友人です。少数の親切な人たちの支援を受けて、岡先生は自分ひとりだけの数学的思索を楽しみました。
 札幌に移ってまもなく、岡先生は逗留先の下宿「荻野」でハワイ海戦のニュースに接しました。次に引用するのは後年の回想です。

《・・・私はこんどの戦争がはじまったとき、びっくりして、日本はこれで滅びると思ったが、以後戦争中は学問の中に閉じこもり、その間まさしく学を楽しんだ。論文など書けても書けなくても少しも気にならなかった。》
(『春宵十話』第8話「学を楽しむ」)

《大東亜戦争が始まったとき、私は北海道大学の嘱託をしていて、下宿のストーブのよく燃えている一室で寝ていた。すると昼前だったと思うが、下宿のおかみさんがきて「たいへんだから起きてラジオを聞きなさい」といった。それが真珠湾攻撃だったのである。これは私には全く寝耳に水だった。しろうとの私でさえ、いま戦争をしたら徹底的に負けるぐらいはわかりきっているのだから、まさか専門家である陸軍の人が首相になった今日、口でどんなに強いことをいっても、ほんとうに戦争をするなどということはあるまいと思っていた。ともかく私は真珠湾攻撃を聞いて「しまった、日本はこれで滅びる」と思った。》
(「私の履歴書」。「下宿のおかみさん」は荻野さん。「首相」は陸軍大将東条英機。】

《大東亜戦争が勃発した時わたしは札幌にいた。その少し前から北大に勤めていたからである。十二月八日(一九四二年)の朝、部屋の石炭ストーブをカンカン焚いてねていると、おかみがケタタマしく呼び起こした。それで台所へ行ってラジオを聞くと真珠湾攻撃が始まっていたのだった。わたしは「失敗(しま)った、日本は亡びた」と思った。矢張りあの日、この日のことは前にのべたが、陛下にも世人にもかような戦争を長く続けるべきではないことを訴えて置くべきだったと悔いられたのである。これからのわたしの心境は次の歌がよく云い表わしている。
  窓の灯に映りて淡く降る雪を
   思いとだえて 我は見ており
   (無名女流作家)
然し、年が変ると、次第に高まって来た「八千万同胞死なば諸共」の声に励まされて、それならばとまた、多変数解析函数研究の壺中の別天地に閉じ籠ったのである。》
(『春雨の曲』第7稿より)

「一九四二年」は「一九四一年」の誤り。「あの日」というのは昭和13年1月16日のことで、この日、岡先生は広島を発って上京し、行方不明と見られて大騒ぎになりました。『春雨の曲』の記述によれば、即刻支那事変をやめるよう、天皇陛下に直訴するための上京だったというのです。また、昭和23年12月12日のメモによれば、「無名女流作家」は横井栄子という歌人であり、引用歌は歌集「青垣」から採られたということですが、横井さんの消息は今も不明で、歌集もまた未発見です。
「多変数解析函数研究の壺中の別天地」に、不定域イデアルの理論が芽生えました。

《この頃はもう夏休みになっていた。札幌の夏は本当に美しい。わたしは研究の場所を北大の数学教室から札幌市の植物園に移した。ここには開拓時代以前からの大樹が沢山残っていて、札幌の夏の中でも特に夏は美しい所である。わたしは毎日植物園へ行って、土へ木の枝でシェーマ(象徴図)や記号を書きながら思索を楽しんだ。わたしの不定域イデアルの端緒は此の頃なのである。》
(『春雨の曲』第7稿)

 岡先生の札幌行は、昭和10年の夏休み、昭和12年の学会出席に続いて、これで三度目でした。ちょうど死んだ児が生き返ったような感慨に襲われて、斬新な研究の構想を心のカンバスに大きく描き、第一歩を踏み出そうとしつつあるときでもありました。上空移行の原理を発見した最初の札幌滞在も懐かしく回想され、この三度目の札幌行に大きな期待をかけて、早々と紀見村を発とうとするほどの意気込みでした。

(岡潔先生を語る65)友情の便り

 日本の国内には一変数関数論の研究者はいましたが、多変数関数論を研究する人はといえばほとんど岡先生ひとりきりという状態で、上空移行の原理も岡の原理もまったく反響を呼びませんでした。この時期の多変数関数論は研究の歴史が若く、ヨーロッパ全体を見渡してもにも専門家はごく少数だったのですが、ドイツのミュンスタ-大学のベンケや、フランスのアンリ・カルタンなど、岡先生と同じ方面に志をもつ「数学の仲間」は確かに存在していました。彼らは極東の小さな学術誌に掲載された岡先生の論文にも着目し、研究の中味を理解して、岡先生の独自の数学的思索に向けて大きな関心を示しました。昭和14年9月、岡先生は広島文理大の研究室で「16-5-38」すなわち1938年(昭和13年)5月16日の日付をもつアンリ・カルタン、ベンケ、ペシュル、スタインの四人連名のはがきを発見しましたが、そこに書かれていたのは岡先生の第1論文と第2論文に対する賞賛の言葉でした。
 この広島行の少し前のことになりますが、ストラスブールのアンリ・カルタンから昭和14年6月18日付の手紙が届きました。第3論文を送付してもらったことへの礼状で、だれか広島から紀見村に転送してくれた人がいたらしく、7月に入って岡先生の手にわたりました。これを受けて、岡先生は8月18日付でアンリ・カルタンに宛てて手紙を書き、研究の状況を伝えましたが、届かずにもどってきてしまいました。理由は定かではありませんが、ノモンハン事件の影響があったのではないかと思います。
 岡先生はベンケにも第3論文を送付したようで、1939年(昭和14年)5月27日付のベンケの手紙が届きました。この手紙も広島文理大から紀見村に転送されたのですが、欄外に岡先生の手書きの仏文で"Re講 24, 7, 1940"(1940年7月24日受理)と記入されていて、一年二ヶ月後になってようやく紀見村に届いたことがわかります。岡先生は昭和14 年9月に広島に行き、研究室を見たのですが、そこで見つかったのは、あの四人連名のはがきのみでした。その時点ではまだ1939年5月27日付ベンケの手紙は届いていなかったことになります。6月18日付のカルタンの手紙は届いたことを考えるといくぶん不可解な事態ですが、原因はもうわかりません。その後、広島に手紙が届き、研究室に放り込まれたまま月日が流れ、昭和15年6月に岡先生の辞職が確定した後に研究室に人が入り、ベンケの手紙を見つけて転送の手続きをしたという成り行きだったろうと思われます。ベンケは第3論文への御礼を述べ、一度ミュンスターに来ていただけたらたいへんうれしいのだが、と書き添えました。こんなふうに、ベンケとカルタンから友情に満ちた便りがときおり届くようになりました。

(岡潔先生を語る64)親しい人々との別れ

 ハルトークスの逆問題の解決に続き、なお一歩を進めて大きく踏み出そうとした時期は、ちょうど岡先生の人生のお別れの季節でもありました。昭和14 年4月1日に父、岡寛治が亡くなったのは既述の通りです。享年68歳。翌昭和15年には、5月19日に祖母つるのさんが亡くなりました。享年92歳(戸籍上は96歳でした)。同年12月25日、紀見峠の北村家の当主の北村長治歿。岡先生の母、八重さんと北村純一郎の長兄で、いとこの北村俊平の父でもある人物です。享年72歳。それからまた年があらたまり、昭和16年4月7日、北村俊平の母ますのさんが亡くなりました。享年68歳。ますのさんは、岡先生の祖父の岡文一郎の弟の貫一郎の次女です。母の八重さんはこの時点ではなお健在でしたが、昭和19年7月12日に世を去りました。数えて81歳でした。
 岡先生の幼年時代には祖父母と両親、それに兄の憲三と妹の泰子さんがいて、岡家は七人家族でにぎやかでした。同じ紀見峠には親戚の北村家があり、ここも大人数で、いとこがたくさんいました。それが、一時にみなが相次いで世を去り、気がついてみると、岡家に残されたのは岡先生とみちさん、それに三人のお子さんだけの暮らしになっていました(昭和16年になって次女のさおりさんが生れました)。晩年の未完のエッセイ「春雨の曲」第7稿を見ると、

  ふる里は家なくて唯秋の風

という自作の句が書き留められています。この句は昭和41年秋、当時、奈良市に住んでいた岡先生が週刊朝日の企画で故里の紀見峠を訪問したときの作品で、昭和41年11月25日号の、「連載ルポふるさとを行く47和歌山(橋本) 峠のわが家にまつわる追憶」という記事に出ているのが初出です。紀見峠の岡家は、昭和14年の秋に道路の拡幅工事に敷地の半分が削られることになったため、売却し、岡先生は峠の麓の同じ紀見村内の慶賀野地区に転居しました。故郷の家はもう存在せず、現在、かつての岡家の敷地は半分は道路になり、半分はがけになっていて、そのがけの途中に一本の柿の木があります。そのあたりは岡家の庭だったところで、その柿の木は往時の名残りの渋柿なのだと土地の人に教えてもらったことがあります。そんなわけで岡先生は「ふる里は家なくて」と詠んだのですが、岡先生は「春雨の曲」でこの句を再び取り上げて、それから

《然し、家の門の所に立ってわたしを見送ってくれている、祖母や父や母や妹の顔は、今でもマザマザと思い出すことが出来る。時の彼方に行けば、この人達は何時もわたしと一緒に住んでいるのである。》

と言い添えました。孤高の数学者、岡先生の心の世界は時空を超越し、大勢の岡家の人々がいつもいっしょに暮らしていました。

 内分岐領域の理論に踏み込んでいく岡先生の道しるべとなったのは、不定域イデアルの理論でした。イデアルの概念の発祥の地は整数論で、19世紀のドイツの数学者クンマーのアイデアによるものですが、これを多変数の解析関数の世界に持ち込もうとするところに岡先生の創意がありました。昭和16年3月の研究ノートにドイツの数学者ファン・デア.ヴェルデンの著作『現代代数学』の書名が書き留められていて、実際に読みにかかっている様子が見られます。クンマーの整数論のイデアルは20世紀に入って抽象代数学の根幹を作る概念になりました。岡先生はこれを初歩から学び、その力をもって多変数関数論研究に新生面を切り開こうというのでした。
 岡先生の研究室には、1940年のアンリ・カルタンの論文
“Sur les matrices holomorphes de n variables complexes”
(n個の複素変数の正則行列)
の筆写稿の断片も遺されていて、「6.26(木)」(6月26日、木曜日)という日付が記入されています。年は明記されていませんが、昭和15年6月26日は水曜日であることでもありますし、岡先生はこれを昭和16年に書き写したと見てよいと思います。このカルタンの論文はイデアルの概念を多変数関数論研究に生かそうとする試みの嚆矢と見るべき重要な作品で、岡先生の思索に大きな影響を及ぼしました。このあたりは、かつてカルタンの正則凸状の概念が岡先生の研究の基礎になったこととよく似ています。ただし、カルタンのイデアルがいわば「定域のイデアル」であるのに対し、岡先生のイデアルは「不定域のイデアル」です。「不定域イデアル」という用語は岡先生が独自に案出しました。

(岡潔先生を語る63)内分岐領域の理論のはじまり

 連作「多変数解析関数について」の第6番目の論文「擬凸状領域」は、昭和16年10月25日付で東北帝大の学術誌「東北數學雑誌」に受理され、翌昭和17年5月刊行の第49巻、第一分冊に掲載されました。第15頁から第52頁まで、38頁を占める作品でした。標題の下に岡先生の署名があり、続いて「紀州紀見村において」と記されていますが、この一語は後に岩波書店から刊行された論文集(昭和36年。増補版は昭和58年刊行)では削除されました。「東北數學雑誌」に掲載されるよう仲介の労をとったのは、今度もまた藤原松三郎と見てさしつかえないと思います。
 第6論文の成立に至る経緯はこんなふうですが、昭和16年6月2日付の藤原松三郎への手紙には、もうひとつ、見過ごすことのできない一事が書き留められていました。それは、数学ノート

"Une remarque sur les fonctions analytiques de plusieurs variables"
「多変数解析関数に関する一注意」

のことで、岡先生はこの覚書を帝国学士院記事に掲載してもらえるよう、依頼したのでした。この覚書の数学的内容は定かではありませんが、第6論文の先を見通した新たな研究に向けた最初の一歩なのではないかという印象があります。戦後、岡先生はハルトークスの逆問題が解けたと思った瞬間を回想し、高木貞治に宛てて、「洞然トシテ秋ヲ感ジマシタ」という感慨を書き送ったことがありました。ところが、その延長の重要部分がまだ未解決のままで、しかも容易には解けないことがわかってくると、「何ダカ死ンダ児ガ生キ反ツテ呉レタ様ナ気ガシテ参リマシタ」というのでした。洞然として秋を感じたのは、関数の第二種融合法の発見を経験した直後とすると昭和15年6月の蛍狩りのころのことになります。それからの岡先生は第6論文を書き上げることに心身を打ち込みましたが、それと同時に新たな未開の土地に目を向け始めていました。それは内分岐領域の理論でした。
 第6論文では「単葉で有限な領域」に対してハルトークスの逆問題が解決されましたが、「単葉」という制限を取り払い、しかも一挙に内分岐点をも受け入れて、内分岐領域に対してハルトークスの逆問題を解こうというのが岡先生の企図でした。人跡未踏の荒れ野原で、解けるとも解けないともつかない難問ですが、岡先生は理想を追い求める心の指し示す方向を信頼し、意志と情熱の力をもって、長い歳月にわたって関心を寄せ続けていきました。
 昭和16年5月9日、岡先生は高木貞治に宛てて手紙を書きました。遺されている下書きを見ると、「ノート」を同封し、学士院記事への掲載を依頼した様子が見られます。このノートの内容は明らかではありませんが、6月2日付で藤原松三郎に送付した覚書「多変数解析函数に関する一注意」と同じもののようでもあり、別のノートのようでもあります。7月5日、岡先生はまた高木貞治にはがきを書き、5月9日付で送付したノートは誤っているとして、取り消しを申し入れました。何かしらまったく新しい物語の端緒を開くかのような出来事でした。

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オイラー研究所の所長です

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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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