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(岡潔先生を語る43)病前の旧作

 フランスの数学者アンドレ・ヴェイユは代数幾何学の方面の研究で知られていますが、アンリ・カルタンとともに数学者の集りブルバキの音頭取りでもあった人でもあり、数学者として出発した当初には多変数関数論の論文を一篇だけ書きました。それは「コーシーの積分と多変数関数」(数学年報)という1935年の論文ですが、この論文についてはすでに何度か言及する機会がありました。第1論文の序文を顧みると、

《上記の原理の支援を受けることにより、ヴェイユの手で表明された標題の領域でのルンゲの定理が再びみいだされる。》

と記されていたことが思い出されます。「上記の原理」というのは「上空移行の原理」のこと、「標題の領域」というのは第1論文のタイトルに出ている「有理関数に関して凸状の領域」のことですし、「ルンゲの定理」といえば、岡先生の論文にいう「展開と積分」の「展開」すなわち「関数の展開」の可能性を明示する定理です。正則関数をコーシーの積分を用いて表示して、その表示を梃子にして展開するというのがおおよその図式ですが、フランスの数学者コーシーの一変数関数論以来の系譜を継ぐ伝統的手法です。
 上に引いた岡先生の言葉には「脚注2」が附されていて、そこにはヴェイユの二篇の論文が明記されています。それは、
 「2個の複素変数の多項式級数について」
  コントランヂュ(1932年)

 「コーシーの積分と多変数関数」
  数学年報(1935年)
ですが、前者は後者の結果のみを記した速報ですから、実際には一篇の論文です。岡先生の言葉に沿えば、ヴェイユはコーシーの積分を基礎にして「有理関数に関して凸状の領域」においてルンゲの定理を確立したこと、岡先生はそれを「上空移行の原理」に基づいて再び証明したことがわかります。
 ヴェイユは多変数関数論を理解する人で、この分野の研究にカルタンを強く誘ったのもヴェイユでした。後年、岡先生の多変数関数論研究の真価を理解したのは決して偶然ではなく、それどころかむしろ岡先生を理解する力をもつ世界でも稀有な人物なのでした。
 岡先生の第9論文の序文にもヴェイユの名前が出てきました。

《1935年、ヴェイユは逆の方向、すなわち諸問題を解決する方向に向けて最初の一歩を踏み出した。そのおかげで、上述した諸問題のうち、後の三つの問題は有理関数に関して凸状の領域に対して解決されたのである。》

 岡先生の多変数関数論研究の現場において、ヴェイユの一篇の論文がいかに大きな影響を及ぼしたことか、ありありと見て取ることのできる記述です。
 さて、草稿「展開と積分」に立ち返ると、この論文の契機になったのは昭和12年4月2日の発見ですが、その直前の研究記録を見ると、

《1937.3.30
A.Weil-Math.Annalenの假説は証明出來る》
(1937年3月30日
A.ヴェイユ 数学年報の仮説は証明できる)
《1937.3.31(快晴)
圖書室へ行つてA.Weil(Math.Annalen 1935 )を借りて來る(プリンスで喫茶)》
(1937年3月31日(快晴)
図書室へ行ってA.ヴェイユ(数学年報 1935)を借りてくる(プリンスで喫茶))

と書かれています。これに続いて「積分表示は可能(新発見)」という4月2 日の記事が現れるのですから、岡先生は何かしら新しいアイデアを得て、ヴェイユの論文を再読して確認し、確信を抱いたという経緯であろうと思われます。4月8日の記事には、《A.Weilを呑み込むこと》などという昂然とした感じのする言葉も見られます。

 論文「展開と積分」のフランス語訳も試みられたようで、仏文原稿の断片が遺されていますが、このままの形で公表されることはありませんでした。昭和12年12月19日付の手紙には、「こんなに面倒相に出して了ふのが急に惜しくなつて其のまま寢かせてあります」と書かれていますが、寝かせているうちに諸事情が大きく変化したことも、未発表に終った一因です。ただし、内容は二分され、洗練されて、第5番目と第6番目の二篇の論文に結実しました。
 もうひとつ、同じ手紙の中で、「云はば大體病前の舊作を學期始めに書き上げたのです」と言われていることが気にかかります。「病前」の「病」とはいつの病気のことを指すのか判然としませんが、諸状勢から判断すると、「病前」というのは北村駿一が亡くなる前という意味のように思えます。北村駿一の歿後、岡先生は心身の調子が悪く、みちさんもそれで広島にもどるのを拒絶したのではないかと推察されます。

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(岡潔先生を語る42)伊豆国伊東町への手紙

 大阪帝塚山で北村駿一の最後を見守った岡先生は、二学期の講義が始まるため、単身広島にもどりました。この時期の岡先生の生活は、年末の12月19日付で中谷宇吉郎に宛てて書かれた一通の書簡(封書)と、わずかに遺されている研究記録の断片を通じてかすかに推察されます。
 昭和12年12月19日付の手紙の入った封筒の裏側には、「広島市牛田町八八二」と、この時期の岡先生の住所が記されています。近くの小高い丘上に早稲田神社があり、裏手は牛田山でした。昭和10年6月ころのことですが、岡先生は早稲田神社に登る石段のふもとのあたりに貸家を見つけ、気に入って転居しました。昭和10年といえば、新たな構想に基づく大掛かりな研究がいよいよ開始された年ですが、後年、岡先生はこの当時の心情を回想し、こんなふうに語っています。

《情意だけはやはりよく働いているのだが、知的には全くすることがない。私は仕方がないから転宅でもしようと思った。それまで学校の近くの、ごたごたした町の中に住んでいたのだが、町を北に出はなれたところに、やはり市内にはなっているが、牛田というところがある。ここは海から大分遠く、西は大田川で境せられ、他の三方は松山で囲まれた一区画である。大体、田であって家は山ぞいにしか建っていない。その真東の一番高くなったところに一軒、家があいていた。それで早速そこへ移った。ここは実に眺めがよく牛田全体が一目に見渡せる。それに実に静かである。
 私はここならばやれると思った。私はここから学校の部屋へ通いつづけた。だから何かしていたのだろうが、一体何をしていたのだろう。どうしても思い出せない。》 
(「紫の火花」第3話「独創とは何か」より)

 昭和10年6月21日付で書かれた中谷宇吉郎宛の書簡を見ると、《二週間前、市ノ北東隅ノ山ニゴク近イ景色ノヨイ閑寂ナ土地》に転居したと伝えられています。これで見ると、転居は6月7日ころのことになります。遺された研究記録を参照すると、この年の3月30日まではほぼ連日にわたって数枚ずつの日付入りのノートが書き続けられていますが、4月から7月下旬まで、すなわち札幌に移動するまでの四ヶ月弱の研究記録は一枚も見あたりません。岡先生の回想の通り、情意だけが働いて、知的にはまったくすることがない毎日が続き、転居を決行したのもそのためだったのだろうと推察されます。昭和10年夏の札幌行のときも、昭和11年3月、中谷治宇二郎の病没の報を受けて由布院におもむいたときも、同年秋、病気の療養のため伊豆伊東温泉に出向いたときも、岡先生はいつもこの牛田の家から出かけて行きました。
 昭和12年12月19日付の手紙は封書ですが、封筒の表側には、
 《伊豆國伊東町廣野芹田 江口別荘》
と、おもしろい住所が記されています。「昭和十二年十月一日付の御便り本日再讀」と書き始められていますから、おおよそ二ヶ月半ぶりの返信になります。文面を拾うと、「僕は此の學期中一人で暮しました」という言葉が目に留まります。続いて生活の様子が簡単に報告されました。大学の研究室に電気ストーブひとつを頼りにして深夜までいわば立て籠り、思索にふけり、牛田の家には眠るためにもどるだけという毎日でした。

《家内は今子供達を連れて帝塚山に居ます。つまり怒らせて了つたのです。解決方法は夫はつまり怒らせて了つたのだからそんなのは放つて置くに限ると考へて居ます。少くとも之が一番僕らしい善後策かと思ひますが》
《夫で僕ですが近頃は寒くて困るものだから牛田の家へは泊るためにだけ歸つて、後はずつと學校の室に居ます。・・・ではありませんが電氣ストーブの使へるのが理由だつたのです。然し慣れて見ると事務は之に限ると思ひます》

 それから研究の成果も報告されました。二学期の間に二篇の論文を書いたというのです。

《此の學期中に論文を二つ書きました。一つは夏の數物で話しした所を、云はば大體病前の舊作を學期始めに書き上げたのですが、これはこんなに面倒相に出して了ふのが急に惜しくなつて其のまま寢かせてあります。今一つは此の十一月に入つてからやつた仕事で之は非常に巧く出來上りました》

 二篇の論文のうち、ひとつはこの夏の日本数学物理学会での講演の内容を叙述したもので、4月2日の発見が基礎になっています。研究室文書の中に、日本文の論文
《III  De'veloppement et l'inte'grale》
(III 展開と積分)
がありますが、岡先生の言葉にぴったり該当するのはこの論文です。標題のみフランス語で書かれています。本文は8月24日に書き始められ、9月12日に書き終っています。本文合計33枚。そのうち29枚だけ現存します。9月25日に二枚の序文が書かれて論文が完成しました。第1頁の欄外に、
 《A-De'veloppement(pour le domaine d'holomorphie)》
 (A (正則領域における)展開)
という書き込みがあり、それから第24頁より
 《B-L'inte'grale de Cauchy》
 (B コーシーの積分)
が始まります。論文の最後に出ているのは「ヴェイユの定理」です。

《我々はか様にA.Weilの定理を完成した。
The'ore`me de M.Weil Dをn複素変数の空間に於ける任意の單葉有界なるdomaine d'holomorphieとせよ。 Dの内部に任意[に]re'gionをあたへるとき常に之を含む様なあるre'gionΔを適当に見出し之に対してCauchyの積分を考へることが出來るet cela{de la}forme ci-dessus.》
(われわれはかようにヴェイユの定理を完成した。
ヴェイユの定理。Dをn複素変数の空間における任意の単葉有界なる正則領域とせよ。Dの内部に任意に地域をあたえるとき、つねにこれを含むようなある地域Δを適当に見出し、これに対してコーシーの積分を考えることができる。その形は上記の通り)

 標題の冒頭に「III」と記されていることからわかるように、論文「展開と積分」は、当初は第3番目の論文として企画されました。

(岡潔先生を語る41)生活の破綻の中で

 大阪帝塚山の北村家は岡先生との縁が非常に深く、緊密な縁戚関係で結ばれていました。北村家の当主は北村純一郎という人で、紀見峠の北村家に生れ、和歌山中学から第七高等学校造士館を経て京都帝大医科大学を出て眼科医になり、大阪市内で北村眼科を開業しました。岡潔の母の八重さんも北村家の人で、純一郎は八重さんの弟ですから、純一郎は岡先生の叔父さんであることになります。奥さんはみよしさんといい、河内柏原の小山家の人です。みよしさんは四姉妹の三番目で、すぐ下の妹のみちさんが岡先生の奥さんですから、帝塚山の北村家は岡先生にとっては叔父さんの家であり、みちさんにとっては姉の嫁ぎ先でもありました。この北村家に一人息子(があり、それが北村駿一でした(正確には次男ですが、長男が早世したため、事実上の長男でした)。岡先生はこの甥を愛し、洋行からもどった年、すなわち昭和7年の夏に九州の由布院で療養中の中谷治宇二郎を見舞ったときも連れていきましたし、昭和10年の夏の札幌行のおりもいっしょでした。今宮中学に進み、慶應大学をめざして勉強を続けていましたが、昭和11年、今宮中学の第5学年に在学中の第一学期のはじめ、肺尖カタルの診断を受けてため退学を余儀なくされました。それから病床生活が続き、回復しないまま、昭和12年8月2日、亡くなりました。
 亡くなる直前、10分ほど前のことと言われていますが、

《ぼく死ぬのか、死ぬなら死ぬでよいから、本当のこと聞かしてくれ、よその人と違う。潔様どうや》

と、特に岡先生を指名して尋ねたところ、岡先生は駿一の目の前に座り、

《おまえがだいぶわるいから心配して皆寄って来てはいるが、死ぬとか生きるとかはだれも知らぬ。神様だけしか知らぬ》

と答えました。次に挙げるのは、岡先生の後年のエッセイに出ている回想です。

《もう大分前のことであるが、私に可愛がっていた一人の甥がいた。駿一といった。それが中学四年のとき肺結核で死んだ。その死の五分前のことである。駿一は突然枕元の私の目をじっと見つめて「潔さん、本当のことを言うて呉れ、僕は死ぬのか」私は答えようがなくて、黙って駿一の目をじっと見ていた。此の目の印象は今になっても少しも色褪せていない》
(『昭和への遺書/敗るるもまたよき国へ』より。「中学四年のとき」は「中学五年のとき」の誤記)

 帝塚山でこのような悲しい出来事があった後、みちさんは子どもたちとともにこのまま帝塚山に滞在することに決めたため、岡先生はやむなく単身広島に向かいました。前年6月の事件からこのかた、周囲の目には岡先生は完全に回復したとは必ずしも見えず、みちさんはともに暮らすのがつらくなったため、別居を望みました。この時期のみちさんの心情を伝える手紙が遺っていますが、それによると、岡先生は前年の事件以来、なんでも自分が世界一のような顔をして、どんな忠告にも耳をかさないというふうで、あまつさえなぜかみちさんに非常につらくあたるため、みちさんとしても側にいるのがあまりにも苦痛になったというのでした。
 こんなわけで岡先生は昭和12 年の二学期の間、一人暮らしを続けるはめになりましたが、数学研究は非常に活発に進行しました。この時期に多くの研究記録が書かれ、論文の草稿が執筆され、生活の破綻と数学研究はまるで無関係であるかのようなありさまでした。岡先生の名を関する名高い「岡の原理」が発見されたのもこの時期のことでした。

(岡潔先生を語る40)打ち続く数学的発見

 岡先生の連作「多変数解析関数について」の冒頭の二篇、すなわち第1論文と第2論文は、昭和10年夏の上空移行の原理の発見を受けて成立した作品で、内容のつながりを見れば、合わせてひとつの論文と見るのが妥当です。岡先生が上空移行の原理の発見を体験してどれほど深い喜びを味わったことか、その喜びの大きなことは後年のエッセイで幾度も繰り返して語られた通りですが、だれの目にも不可解な広島の事件もまた、「発見の鋭い喜び」がこの世に顕現する姿形のひとつだったのではないかと思います。
 数学的発見の独創の度合いが深ければ深いほど、発見の喜びはその分だけ深く、しかも岡先生はその分だけ孤独でした。世界でただひとり、岡先生だけが味わうことのできた喜びは決して共有されることがなかったのですから、独創の運命というほかはありません。岡先生の晩年の友人の保田與重郎はしばしば「偉大な敗北」ということを語っていましたが、「偉大な敗北」とは何かといえば、「理想が俗世間に破れることである」というのです。理想を追い求める心のおもむくところ、数学上の偉大な発見のいわば代償として、岡先生は必然的に事件に遭遇したと言えるのではないかと思います。新聞沙汰になったことも、入院を余儀なくされたことも、どれもみな「偉大な敗北」という悲劇の具体相なのでした。
 広島事件の翌年の昭和12年もまた数学上の発見と人生の悲惨が交錯し、平穏とは言い難い日々が続きました。4月2日の研究記録を見ると、

《積分表示は可能(新発見) 1937.4.2》
《轉換!!》
《之でIIIが論文の体裁を具備する 1937.4.2》

という言葉が目に留まります。「III」というのは連作「多変数解析関数について」の第3番目の論文を指していますが、4月2日の発見により第3論文に見通しがたったというのです。翌4月3日にはいっそう具体的な目次が書き留められました。

《1937.4.3
III Domaines dユholomorphie(suite)
 A 展開 Deveユloppement des fonctions
 B 積分表示》
(III 正則領域(続)
 A 展開 関数の展開
 B 積分表示)

 これを見ると、この時点では第3論文は第2論文「正則領域」の続篇として構想されていたこと、「A 展開」と「B 積分表示」の二章に分けられていたことがわかります。
 6月14日にはアメリカの数学者グロンウォールの論文
「多複素変数一価関数の、二個の整函数の商としての表示の可能性について」
(アメリカ数学会報告18、1917年)
を読み、よほど強い印象を受けたのでしょう、
《完全な例が出て居る!》
と感嘆の声をあげました。グロンウォールの論文に出ている「完全な例」というのは「クザンの第二問題は正則領域においても必ずしも解けないことを示す例」を指しますが、岡先生の見るところ、グロンウォールの例は複雑すぎるというので、もっと簡明な例を自分で作ろうとして、秋11月ころ成功しました。これで第3論文「クザンの第二問題」ができました。
 7月、岡先生は北海道大学で開催された日本数学物理学会に出席するため、秋月康夫といっしょに札幌に行き、19日、「多変数解析函数の表現について」という題目で講演しました。札幌行はこれで二度目になります。「日本数学物理学会誌第十一巻第二号」に、「雑録」として「昭和十二年度年会講演アブストラクト」が収録されていますが、そこに、

《有界単葉な正則域に於ける展開及び積分表現について述べる.(之は私の此の方面の研究の第三報告である.之に先立つ二つは本学紀要で発表した-1936, 1937)》

と記されています。展開と積分の話ですから、4月2日の発見を基礎にした講演です。
 札幌からの帰途、昭和11年の秋以来、伊豆伊東に逗留を続けている中谷宇吉郎を訪ねた後、大阪帝塚山の北村家に向かいました。広島から大阪に移り、やはり北村家に逗留していたみちさんと二人の子どもともここで落ち合いましたが、ほどなくして甥の北村駿一の死に遭遇しました。

(岡潔先生を語る39)伊豆伊東温泉

 広島で事件が起ったのは昭和11年6月23日のことでした。この日の夜、岡先生は京都大学の数学者で学生時代の恩師でもある園正造の歓迎会に出席したのですが、途中で心身の調子が悪くなって帰宅し、それから一時、行方不明になりました。翌朝、判明したことによりますと、岡先生は自宅の近くの二股土手を通行中の修道中学の夜学生たちを襲い、ひとりの中学生の帽子、書籍、靴などを取りあげ、もうひとりの中学生からは帽子、自転車などを没収するなどして、それから牛田山の笹原に寝そべって一夜を明かしたというのですが、詳しい経緯は今も不明です。被害者の中学生の家族が強盗にあったと警察に訴えたため、新聞沙汰になり、全国各地の地方新聞に、広島文理科大学の助教授が起した不可解な事件を報じる記事が掲載されました。札幌の中谷宇吉郎は北海タイムスを見て事件を知り、急遽、岡先生の同僚の平岩馨邦に電報を打って消息を訪ねました。ともあれ病気ということになって入院することになり、刑事事件になるのは免れたのですが、奥さんのみちさんも秋月康夫などの友人や大学の同僚たちもみな狼狽し、郷里から父の岡寛治が幾度も広島にやってくるという事態にもなり、だれも狼狽してたいへんな騒ぎになりました。途中で一時退院したものの、また入院し、結局、最後の退院は9月13日になりました。
 退院後はどうするか、関係者の鳩首協議が繰り返されましたが、本人の意向も汲み、伊豆伊東の中谷宇吉郎のもとでしばらく静養するのがよいのではないかということになりました。中谷家も病人が多く、何よりも宇吉郎本人が原因不明の病気にかかって調子が悪かったため、思い切って一家を挙げて転地し、秋から伊東で静養することになっていたのですが、岡先生の心情を汲む中谷宇吉郎は進んで岡先生に声をかけてくれました。岡先生はそこに合流しようというのです。この計画は岡先生も気に入って、非常に乗り気を見せました。 11月2日に熱海に着いてから12月6日に伊東を離れるまで、おおよそ一箇月ほどの長期にわたる逗留になりました。岡先生が第2論文をフランス語で書き上げたのは、この伊東滞在のときなのでした。
 6月23日の広島の事件の原因は何だったのか、何かしら岡先生の心に起った事柄を理解する人はひとりもいませんでしたが、数学研究の推移に照らして考え合わせてみますと、事件の前と退院の後に第2論文の日本文による草稿が試みられていたことが目に留まります。この第2論文は前年夏の上空移行の原理の発見を受けて成立した論文で、第1論文では有理凸状領域においてクザンの第一問題が解けることが示されたことを踏まえ、さらに思索を延長して、第2論文では任意の正則領域においてクザンの第一問題が解けることが証明されました。ベンケ、トゥルレンの著作に出ていた予想をはるかに越える、完全に一般的で、しかも簡明な定理でした。岡先生の興奮ぶりも容易に想像されるところであり、中谷治宇二郎の死をはじめとする人生の苦も相俟って、事件の背景が形成されたように思います。ただし、第1論文のときとは違い、第2論文の成立については、「発見の鋭い喜び」を語る岡先生の言葉は遺されていません。
 岡先生は12月8日の夜9時前に広島にもどり、12月10日、第2論文「多変数解析函数について II 正則領域」が広島大学理科紀要に受理されました。翌昭和12年の広島大学理科紀要は二分冊から成りますが、岡先生の第2論文は、「1937年3月」という日付をもつ第2分冊に掲載されました。

ニュートン研究会

 本日25日と明日26日の両日、早稲田大学で開催される「ニュートン研究会」に出席してきます。午前中、基調講演が行われ、午後は数名のパネラーによるパネルディスカッションがあります。出席者はおおむね東京在住の数学史家と科学史家で、ニュートン著作集の邦訳を作る計画が進行中と聞いています。おもしろいことがありましたら報告します。

(岡潔先生を語る38)「人生」の中に

 昭和9年から昭和10年にかけ、岡先生は世界の数学者のだれも夢想さえしたことのない難問を提出し、みずから解決の道を探って第一歩を踏み出していきました。手がかりはなかなか見つからず、途方に暮れた状況の中で夏休みを迎えた岡先生は、家族(奥さんのみちさんと長女のすがねさん)とともに北海道にわたり、パリ以来の親友の中谷宇吉郎の家族とともに札幌の夏をすごしました。甥の北村駿一もいっしょでした。この生活がよい方向に作用して、8月末日、「上空移行の原理」の発見へと結実し、岡先生は第一着手をつかむことに成功しました。この大きな発見を基礎にして第1番目の論文「有理関数に関して凸状の領域」ができあがり、同時に第2論文「正則領域」のめどもつきました。
 それからまた四年の歳月が流れたころ、郷里の和歌山県紀見村で日々を送る岡先生は札幌の中谷宇吉郎に宛てた手紙の中で往時を回想し、あれがなかったなら第1論文はできなかったろうと、懐かしさに満ちた心情を打ち明けました。

《数年前一夏を札幌で過したことを思ひ出します。僕の今のRecherches(註。研究)のIはあれがなかつたら出來て居なかつたでせう。あのときは僕いろいろ困りぬいてくたびれ切つて居たのです。夫故あのとき何くれとなく親切にして下さつた方々が忘れられません。折があつたら僕の謝意をお傳へ下さい。》

 この手紙の日付は昭和14年7月21日です。札幌で親切にしてくれた人といえば、中谷宇吉郎のほかに、吉田洋一や功刀金二郎など、北大の数学者たちの名を挙げなければならないところです。みなパリで知り合った人たちでした。同じくパリ以来の親友の「治宇さん」こと中谷治宇二郎は、病身ではありましたが、なお健在で、九州の由布院で療養の日々を送っていました。有形無形の友情に囲まれ、安定した心情に住まい、心置きなく数学的思索に沈潜する日々の中から偉大な発見が生まれたのでした。岡先生は数学者として真に幸福なスタートを切ったと言わなければなりませんが、この幸福は長くは続きませんでした。
 昭和10年秋、広島にもどった岡先生は第1論文の執筆に取り掛かりました。研究室文書の中に、10月9日の日付で書かれた草稿「多複素変数関数について」が遺されています。標題のみフランス語で、本文は日本文。全部で22枚の原稿です。それからフランス文の論文が完成し、翌年、すなわち昭和11年5月1日の日付で勤務先の広島文理科大学の学術誌「広島大学理科紀要」に受理されて、巻6の第3分冊に掲載されました。245頁から255頁まで、11頁の論文で、第3分冊の発行日は7月30日と記録されています。岡先生は病気のため自分の手で校正をすることができず、代って同僚で京大の先輩の森新治郎が校正をしました。
 昭和11年の岡先生は多事多端でした。2月21日、長男誕生。「書経」の「百工煕哉(ひろまらんかな)」という一語から取って煕哉(ひろや)さんと命名しました。直後の2月26日に二二六事件が起り、一箇月がすぎて3月22日には中谷治宇二郎が亡くなりました。満34歳と2箇月でした。岡先生は単身、由布院に向かい、25日のお骨拾いに加わりました。5月1日、第1論文が受理されました。それからまた一ヶ月後のことになりますが、「1936.6.2(火)」すなわち昭和11年6月2日の日付が記入された断片が一枚だけ遺されています。頁番号「1」が記入されているところから推して、論文の草稿と思われますが、

 《II.Domaine d'holomorphie
  A.Preliminaires》
 (II. 正則領域
  A. 準備)

と記されていますので、第2論文の断片と見て間違いありません。
 第2論文の草稿なら、この年の秋10月に書かれた日本文草稿の断片も遺されています。10月7日の日付のある第1枚目に、

 《Sur les fonctions analytiques de plusieurs variables
  II Domaines d'holomorphie(其ノ一)
  B The'ore`me fondamental ・・・》
 (多変数解析関数について
  II 正則領域(その一)
  B 基本定理)

と、標題(標題のみフランス語)が記されています。二種類の草稿の間がずいぶん開いていますが、この間、6月23日に広島で事件が起り、岡先生は広島で長期にわたり入院していたのでした。

(岡潔先生を語る37)上空移行の原理

 岡先生は多変数関数論の研究においていくつものめざましい問題を解決し、今日の数学の根幹の形成に大きく寄与しましたが、岡先生は既成の未解決問題を拾い集めて解決を試みたのではないという一事にくれぐれも留意したいと思います。岡先生の心には若い日にリーマンに触発された数学の理想がありました。当初のイテレーション研究から、値分布論、多変数有理型関数の正規族、ハルトークスの集合とたどり、長い年月に及ぶ遍歴を経て「三つの中心的問題」に到達しましたが、岡先生はこれらの問題の解決を通じて、心のカンバスに描かれた数学の理想が実現されることを確信したのであろうと思います。物語の全容の根柢に理想があり、理想に相応しい衣裳をまとう問題群が造型されるのであり、だれかしら未知の人が提出した未解決の難問に挑戦するというのではありません。岡先生の数学研究の真価は問題群の造型という一事に生き生きと現れていますし、数学の詩人「岡潔」の面目もそこにあります。
 帰国後の岡先生は広島に移り住み、広島文理科大学に勤務していましたが、昭和10年(1935年)夏、中谷宇吉郎の招待に応じ、一家をあげて札幌に移動して夏休みの日々を送りました。7月末から9月はじめにかけてのことでしたが、ここで「上空移行の原理」の発見を経験しました。年初以来の懸案を乗り越える道筋を指し示す大きな発見でした。岡先生はこの発見を非常に喜んで、寺田寅彦のエッセイに「発見の鋭い喜び」という言葉を借り、幾度も繰り替えしてこのときの喜びを言い表わしました。次に挙げるのは後年の回想です。

《ところが、九月にはいってそろそろ帰らねばと思っていたとき、中谷さんの家で朝食をよばれたあと、隣の応接室に座って考えるともなく考えているうちに、だんだん考えが一つの方向に向いて内容がはっきりしてきた。二時間半ほどこうして座っているうちに、どこをどうやればよいかがすっかりわかった。二時間半といっても呼びさますのに時間がかかっただけで、対象がほうふつとなってからはごくわずかな時間だった。このときはただうれしでいっぱいで、発見の正しさには全く疑いを持たず、帰りの汽車の中でも数学のことなど何も考えずに、喜びにあふれた心で車窓の外に移り行く風景をながめているばかりだった。》
(『春宵十話』第6話「発見の鋭い喜び」)

 発見が訪れた日時は9月にはいってからと言われていますが、当時の研究記録を参照すると、8月29日の日付で、

 《Dimensionsヲ拡ゲル事
  及ビ此ノ方法ヲ更ニ拡張スル事 Probl塾e IIニapplyスル》
 (次元を拡げること
  及びこの方法をさらに拡張すること。問題IIに適用する)

と記されています。翌30日の記事にも、

 《Dimensionヲフヤス事》
 (次元をふやすこと)
 《Dimensionヲ拡ゲル事ニツイテ》
 (次元を拡げることについて)

という語句が見えますから、上空移行の原理のアイデアが最初に訪れたのは8月29日と見て間違いないのではないかと思います。8月29日の記事に出ている「問題II」というのは「クザンの第一問題」のことで、上空移行の原理の発見を受けて執筆された第1論文「有理関数に関して凸状の領域」にも、そのまま「問題II」として登場します。その第1論文には「問題I」というのもありますが、それは「上空移行の原理」を確立すること、そのものを指しています。「上空移行の原理」と「クザンの第一問題」を並列し、同時に解決するというのが第1論文の道筋ですが、8月29日の時点ですでに「問題II」と言われているのですから、岡先生の心には、やがて執筆されるであろう論文の全容がすでに描かれていた様子がうかがわれます。研究に構想があり、大きな見通しに沿って思索を進めていくのが岡先生の思索の姿でした。
 第i論文の序文は下記の通りです。

 《多複素変数の解析関数の理論の近年の著しい進展にもかかわらず、いくつもの重要な事柄、わけてもルンゲの定理やクザンの諸定理が成立する領域の型、ハルトークスの凸性(註。擬凸性)とカルタン、トゥルレンの凸性(註。正則凸性)との関連は多かれ少なかれ曖昧なままになっている。これらの間には密接な関係が認められる。これらの問題を取り扱うことが、この論文と後に続く諸論文の企図するところである。
 ところで私は、取り扱う空間を適当な次元に引き上げることにより、これらの問題の困難がしばしば緩和されることに気づいている。この論文では、この一般的なイデーをある特別の場合を対象にして実際に現出させることにより、標題の領域をより次元の高い柱状領域へと、言うなれば変形する原理を私は示す。
 ひとたびこの原理が確立されたなら、与えられた極に関するクザンの定理(註。「定理」は単数形。定冠詞つき。第一問題の可解性に関する定理を指しています)は標題の領域でもやはり成立することを、その原理から導き出すことができる。この逆もまた正しい。現に、帰納的な道筋をたどることにより、私はこれらの定理を同時に証明する。これに加えて、上記の原理の支援を受けることにより、ヴェイユの手で表明された標題の領域でのルンゲの定理が再びみいだされる。
 こんなふうにして、この論文では、有理関数に関して凸状の領域の内部を私は究明する。それは同時に、私にとって不可欠ないろいろな補助的命題を、限定条件を少なくした状態で研究できるようにするためでもある。》

 はじめのあたりに「取り扱う空間を適当な次元に引き上げることにより、これらの問題の困難がしばしば緩和される」と記されていますが、これが「上空移行の原理」です。

(岡潔先生を語る36)問題群の造型

 岡先生の第9 番目の論文の序文にベンケ-トゥルレンの作品『多複素変数関数の理論』に言及するところがあり、この書物の主要問題として、ハルトークスの逆問題、クザンの第一、第二問題、展開の問題を挙げるところがありましたが、岡先生はそこに脚註を附して、

《この本の54頁、68頁、79頁を見よ》
《われわれが研究を始めることができたのは、ひとえにこの本のおかげである》

と附言しました。これらの頁を参照すると、54頁にはあの「未解決の主問題」が出ていますが、レビの問題と呼ばれているわけでもなく、いわんや岡先生の言うハルトークスの逆問題でもありません。68頁の前後には確かにクザンの二問題が語られていますが、クザン自身が得た結果など、あれこれが話題にされているだけで、「クザンの問題」という明確な問題が明記されているわけではありません。79頁を見ると、一変数関数論のルンゲの定理が語られ、「ルンゲの領域」の概念が規定されています。ルンゲの領域というのは、大雑把に言うと、「正則関数の多項式による近似がそこで可能であるような領域」のことですが、この領域にまつわるいくつかの結果や、未解決の問題が出ているものの、ここでもまた「リンゲの問題」という確固とした一問題が見られるわけではありません。
 岡先生はベンケとトゥルレンの本に三つの中心問題が出ていると御自身で語っていますが、それにもかかわらず、実際の様相はだいぶ違います。岡先生はこの小さな文献目録に出ているだれにも周知の未解決問題を取り上げて、挑戦したのではなく、この本を手掛かりとして、まったく新しい問題群を造型したのです。ハルトークスの逆問題という、岡先生のほかにだれも使ったことのない問題の名前が使われているところにも、この間の深淵無比の消息の一端が垣間見えているように思います。神韻縹渺という言葉がぴったりの、深々とした感慨に襲われます。

(岡潔先生を語る35)連作「多変数解析関数について」の誕生

 昭和10年の年明けとともに始まる岡先生の多変数関数論研究は、この年の夏、「上空移行の原理」という、めざましい発見を経て、次々と具体的な衣裳をまとってこの世に現れるようになりました。岡先生は論文のタイトルを「多変数解析関数について」と決め、その1、その2というふうに連作の形にして公表していきました。岡先生の研究には理想があり、「ハルトークスの逆問題」の解決という大きな目標をかかげて一歩また一歩と歩みを進めていこうとしたのですが、そのような明確な姿勢は論文のスタイルにもすでに反映していたのでした。
 第6論文「擬凸状領域」の序文には、岡先生が問題群の造型に腐心した様子が鮮明に現れています。

《序  1906年、ハルトークスは正則領域に課されるきわめて奇妙な制約を発見した。まさしくこの発見により、多変数解析関数の理論の近年の発展が始まったのだと私は思う。
 この理論のさまざまな分野の根柢において、レビ、ジュリア、ザクセル、それに本論文の著者の手により、同じ制限が次々と見つけられた。このような性格の制限を受けるすべての領域を指して、擬凸状と呼ぶことにしよう。
 このような姿形の凸性は局所的な様式による判定を受け入れる。ところで、1932年、カルタンとトゥルレンは、正則領域はある意味において大域的に凸状でもあることをみいだした。そうしてこの性質のおかげで、われわれは正則領域に関していくつもの大域的定理を確立してきたのである。
 われわれの手にはこんなふうに数種類の擬凸状領域があるが、それらの領域について、正則領域については別にして、ほとんど何も知るところがない。かくしてわれわれはハルトークスに立ち返り、逆に、すべての擬凸状領域は正則領域であろうかと問うのである。そうして、もしこれらの二通りのタイプの領域が合致するなら、正則領域に対する局所的な判定基準をわれわれは手にすることになる。ところで、さまざまな種類の擬凸状領域のうち、ジュリアの擬凸状領域は、有限であれば正則領域であることがカルタン、トゥルレン、ベンケ、シュタインにより確かめられた。しかし、この場合のほかには、この問題は今日までほとんど放置されたままにとどまっている。
 この論文において、われわれはこの問題を論じる。表記を簡潔にするため、ここでは二個の複素変数の空間に限定するが、結論は任意個数の複素変数の空間に対してもあてはまると私は思う。単葉な有限領域に対し、擬凸状領域は正則領域であることをわれわれは目の当たりにするであろう。
 ここで説明した問題は、現在の研究のテーマを作っていた諸問題のうち、一番最後の問題である。》

 第6論文では、二個の複素数の空間内の有限単葉な領域においてハルトークスの逆問題が解決されました。高木貞治に宛てて、「何だか自分の一部分が死んでしまったような気がして、洞然として秋を感じました」という、あの「第二の数学的発見」に基礎を置く論文です。
 第9論文「内分岐点をもたない有限領域」の序文でも、多変数関数論の形成過程が回想されています。第6論文の序文と主旨は同じですが、構えが大きく、悠然とした情感に包まれています。

《序  1. この論文は、一系列を作る諸論文の第9番目の論文である。第一論文は1936年に公表された。まずはじめに、われわれの住む土地を一瞥しよう。
 変数がただひとつの場合の解析接続の一般理論は平地に似ている。この土地では、多大な努力にもかかわらず、形式論理の見通しからはみ出るいかなる事実も見つけることができなかった。これとは反対に、多変数の場合はさながらきわめて峻険な山岳地帯のように、われわれの目に映じるのである。
 1902年、ファブリは、二重級数の収束半径は任意ではないことを注意した。ここからわれわれは、1906年、ハルトークスの手により、正則領域はどれもみな擬凸状であるという、きわめて基本的で、しかも本当に奇妙な事実へと導かれた。
 その後、1932年にいたるまで、この土地では、ひとつの問題が発見されると、そこから新たにもうひとつの問題が生まれるという状勢が続いた。そのようなさまざまな困難が集積されている形勢は、イデーの流れとして、次に挙げる書物の中に非常に際立った様式でくっきりと描かれている。
 ベンケ-トゥルレン『多複素変数関数の理論』1934年。この書物の主要問題は次の通り。ハルトークスの逆問題、クザンの第一、第二問題、展開の問題。
 1935年、ヴェイユは逆の方向、すなわち諸問題を解決する方向に向けて最初の一歩を踏み出した。そのおかげで、上述した諸問題のうち、後の三つの問題は有理関数に関して凸状の領域に対して解決されたのである。
 われわれが研究を開始したのは、まさしくこのとき、これらの問題を対象にしてである。1934年以来の諸問題の移り変わりに生き生きとしたイメージを得るには、ベンケ-シュタインの次に挙げる諸論文がある。「与えられた零面と極面をもつ多変数解析関数」1937年;「多複素変数関数論における凸性」1940年;「多変数解析関数の特異点」1952年。》

 序文は「1」と「2」に分かれていますが、ここまでが「1」です。ベンケ-トゥルレンの著作『多複素変数関数の理論』に見られる三つの主問題として、ハルトークスの逆問題、クザンの問題(第一問題と第二問題)、展開の問題(関数の近似の問題といっても同じです)が挙げられているところは注目に値します。多変数関数論の未解決の三大問題という、その三大問題を指摘したのは、ほかならぬ岡先生本人だったことがわかります。第9論文では、任意個数の複素数の空間上に内分岐点をもたずに広がる有限領域において、ハルトークスの逆問題が解決されました。
 序文の第2節では今後の見通しが簡潔に語られています。

《2. この論文において、われわれは先ほど指摘された諸問題を、第7論文で導入されたアリトメチカ的諸問題とともに、内分岐点をもたない有限擬凸状領域に対して論じる。その本質的部分は1943年に日本語で叙述したものと異なるところはない。
 次の論文では、内分岐点を許容するとき、私の目には極端にむずかしく映じる一問題に出会う様子を目の当たりにすることになる(第23節を見よ)。われわれがこの論文を切り離して公表することを決意したのは、いろいろな方法を用意して、この困難の形状を明らかにするためなのである。》

 岡先生の指示にしたがって第23節に目を移すと、岡先生を20年余りにわたって悩まし続けたあの境界問題の姿が顔を出しています。

《(適当な意味合いにおいて)無限遠点や、あるいは非超越的分岐点を領域の内点として受け入れるとき、境界問題の将来の性質を急いで点検しておこう。
 第一の場合に対しては、補助的関数μ(x)=Σ| xi|^2(i=1,2,…,n)はその特性を失ってしまう。そこから正体不明の一問題が生れる。
 第二の場合に対しては、ハルトークス半径はその役割を果さなくなってしまう。そこからひとつの困難が提示されるが、その困難は途方もなく大きいと私には思われる。》

「正体不明の一問題」という一語が、岡先生の数学研究の運命を知るぼくらの胸に痛切に響きます。

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オイラー研究所の所長です

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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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