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(岡潔先生を語る15)一枚の数学メモ

 ぼくが見つけた一枚のメモには、「1934.12.28」、すなわち1934年(昭和9年)12月28日という日付が記入され、そのすぐ後の丸括弧の中に「於 学校」という文字が読み取れました。時間は不明ですが、昭和9年の歳末、岡先生は勤務先の広島文理科大学の研究室でこのノートを書いていたのであろうと思われます。冒頭に仏文で、
   《Introduction et notions fondamentales》
   (序論および基本的諸概念)
という標題が附されていることから推すと、何かしら企画された論文のためのメモのようにも見えます。本文に移ると、まずはじめに、

《此ノ論文ニ於テハ多変数(complex)ノ函数論カラ釈放セラレタ(se de'gageant de)1ツノl'ide'e ヲ対象トスル 故ニ著者ガ此ノthe'orieヲ如何ニ見テ居ルカト云フコトヲノベルノハ[読者ニトツテ]ムダデハアルマイカト考ヘル 障害自身ヲ直視スル事》
(この論文においては(複素)多変数の函数論から釈放せられたひとつのイデーを対象とする。故に著者がこの理論をいかに見ているかということを述べるのは、読者にとってむだではあるまいかと考える。障害自身を直視する事)

という言葉が目にとまります。「むだではあるまいか」と言われているところは、むだと考えているようでもあり、むだではないと考えているようでもあり、ややあいまいな印象がありますが、岡先生は叙述の細部に踏み込むのに先立って、多変数関数論に寄せる心情を語りたかったのであろうと思います。実際に執筆され、公表された9篇の論文で見ても、いつもそうするのが岡先生の流儀でした。
「多複素変数の解析関数論から取り出されたひとつのイデー」というのは、後述する「ハルトークスの集合」もしくは「擬凸状領域」の概念を指す言葉と見てよいと思います。「l'ide'e」の箇所には欄外に引用線が引かれて、
  《アル一ツノ対象》
  (あるひとつの対象)
という言葉が書き添えられている。
 続いて「1」「2」と番号が打たれて、全体が二分されています。第1節は三項目に分かれます。

  《1. Space》
  《2. epock 1926 Julia
    1927 Carathe'odory》

「epock」(「epoch」の誤記)の一語が丸線で囲まれ、引用線が引かれて、欄外に、

  《困難ヲ如何ニシテサケルカト云フ事》
  (困難をいかにしてさけるかという事)

と記されています。エポックといえば、「重大な事件の起こった時期」というほどの意味合いの言葉と思います。「1.空間」という言葉の指すものはよくわからりませんが、多変数解析関数論の舞台となる場所を設定しようとする意識が感じ取れるようにも思います。「Julia」は「ジュリア」で、岡先生が留学中に師事したフランスの数学者ガストン・ジュリアです。「1926年」とあるのは、この年に公表されたジュリアの論文
  「多変数解析関数の族について」
  (数学輯報47。「数学輯報」はスウェーデンの数学誌)
を指しています。「Carathe'odory」はドイツの数学者コンスタンチン・カラテオドリーのこと、「1927年」は、この年のカラテオドリーの論文
  「二複素変数の解析関数におけるシュヴァルツの補助的命題について」
  (数学年報97。「数学年報」はドイツの数学誌)
のことですが、これについては学位取得論文の中に書き留められた数語が参考になります。
 岡先生の学位(理学)取得論文

  「多変数解析函数ノ研究」
  (昭和14年から15年にかけて執筆され、京都帝国大学に提出されました。
学位取得は昭和15年10月10日付)

の第V章「領域ノ分類」に附された脚註の言葉を見ると、上記のジュリアの論文を挙げた後、

《多変数解析函数論ニ関スル文献ハ此の論文及ビ此ニ引キ續クC.Carathe'odory ノ擬等角寫像ニ 関スル論文(1927,Math. Annalen)ヲ境トシテ急ニ其ノ数ヲ増シテ居ル様ニ見受ケラレル》
「多変数解析関数論に関する文献はこの論文およびこれに引き続くカラテオドリーの擬等角写像に関する論文(1927年。数学年報)を境として急にその数を増しているように見受けられる」

と明記されています。多変数関数論の研究は1927年のカラテオドリーの論文を境にして急激に盛んになり、論文が増えてきたというのですが、この言葉の正しさはベンケとトゥルレンの著作『多複素変数関数の理論』の巻末の文献表(ほぼすべて論文ですが、著作も混じっています)を見れば確かめられます。文献総数151で、そのうち1927年までの文献は53篇。それ以降、すなわち1928年からベンケ、トゥルレンの本が執筆された1933年にいたる6年間の文献は98篇に及んでいます。ベンケ、トゥルレンの著作は詳細な文献目録ついているところに特色がありますが、そのような書物が企図されたのも、当時の研究状況の大幅な変化を受け、現状を概観することに意義を認めてのことでした。
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(岡潔先生を語る14)奈良市高畑町

 岡潔先生は昭和53年(1978年)3月1日の明け方、この世にお別れしましたが、終焉の地となったのは、新薬師寺にごく近い奈良市高畑町の家でした。高畑町に移る前は同じ奈良市内の法蓮佐保田町の貸家に住んでいましたが、昭和41年(1966年)8月末、高畑町に新居ができあがり、引っ越しが実現しました。転居通知の日付を見ると8月27日になっています。そのおり庭先に12畳ほどの広さの離れを建てて、お念仏のための道場にしました。岡先生は光明会のお念仏の徒でもあり、戦後まもないころからしばらくの間、熱心にお念仏に打ち込んだ一時期がありました。光明会というのは、明治期に浄土宗門内に現れた山崎弁栄(やまさき・べんねい)上人が唱えた「光明主義」を慕う人たちの集まりです。岡先生が光明主義のお念仏に最初に取り組んだのは昭和14年(1939年)ころのことですが、このときは長続きせず、いつのまにかやめてしまいました。ところが先の大戦の際の敗戦の衝撃をよほど深刻に受け止めたようで、戦後、新たな気構えで心身を傾けていくようになりまた。光明会は各地にありましたが、奈良では松倉道場や安田道場で定期的に光明会の例会が開かれていて、岡先生も出席していましたが、引っ越しを機に念願の岡道場が成立したのでした。原則として毎月第三日曜日に「青年学生光明会」の例会が行われました。岡道場は数学研究室も兼ねていましたから、「数学念仏道場」などと呼ばれることもありました。
 岡先生の没後、岡道場はもうお念仏の道場ではありませんが、岡先生がこの世に遺した大量の書きものや文書の保存庫として機能して、岡先生の遺風を今日に伝えるかけがえのない場所であり続けていました。(平成11年6月初め、岡先生の研究記録が奈良女子大学附属図書館に寄贈されるなど、新たな諸事情が発生し、資料が分散しました)。この第一次資料の宝庫に入って心ゆくまで調査を重ねない限り、岡先生の評伝は決して完成することはありません。
 平成10年秋、ぼくの長年の念願がようやくかなえられる日が訪れました。10月2日のお昼ころ、ぼくは大阪から奈良に向かい、岡家の人々に資料のコピーの許可をお願いし、そこはかとない諒承を得ました。それからようやくかつて岡道場と呼ばれた建物に入り、資料の観察に取りかかりました。壁際の一面に大きな書棚があり、古い書物が立ち並び、封筒に入った数学の研究記録や日仏の言葉で書かれた論文の草稿などが山積みにされていました。風呂敷に包まれた幾冊ものノートもあり、書簡の束もありました。真に驚嘆に値するすばらしい文書群でした。この日は一晩中かけてノートに記録をとり、近所のコンビニエンスストア(ローソン)で明け方までコピーを取り続けました。幸せな一夜でした。
 それから月があらたまり、11月中旬、15日から16日にかけて再びコピーをとる機会に恵まれました。ぼくはまたしても徹夜で作業を続け、こうして相当の量のコピーを蓄積することに成功しましたが、その中に、ひときわ際立った印象を与える一枚の紙片がまじっていました。それは、岡先生の多変数関数論研究が大きな転機を迎えようとするまさにその時期の消息を伝えるメモであり、しかも同時に岡理論の全容のスケッチでもありました。どの一行にも感興があり、いつまでも眺めて飽きませんでした。

(岡潔先生を語る13)理想を追い求める心

 現代数学のみならず、ヨーロッパ文化の危機を語る岡先生の言葉が続きます。ヨーロッパの絵画は抽象化の道を歩み、音楽はジャズになったと岡先生は指摘して、明らかに凋落したと慨嘆しました。

《文化のうちで、絵画とか音楽、これでヨーロッパでかつて栄えたものですが、もはやその最盛期はすぎて、絵画の方は抽象絵画、音楽の方はジャズ音楽という、これはどうしても凋落したとしか思えないのですが、それと似た傾向が、数学に見受けられるように思うのです》
《数学は人の生み出す力の産物でなければ行き詰まってしまいますね。ケースを尽くして調べるというやり方では行き詰まってしまう。クリエイトするという力は大脳前頭葉の働きであり、細かく調べるというやり方は大脳側頭葉の働きなのです》
《文化がヨーロッパからアメリカへ移ったといえないこともない今日の情勢ですが、それとともに、前頭葉の働きから側頭葉の働きへ移って行っているように思えるのです。これはたいへん心しなければならないことです。つまり予測できる結果しか出ないというふうなことになりますと、いくら複雑化してみたところで、あまり繁雑にすると、すぐに人力の限界がきますし、所詮は行き詰まる》
《時期的にいうと、第一次世界大戦、第一次世界大戦後、第二次世界大戦後と段階的にクリエイトするという働きから離れていっているという気がしまして、歴史でいいますと、ギリシア時代からローマ時代へ移ったとき、こんなふうだったのではあるまいか。あの頃は、ローマ時代へ入りますと、もはや真善美ということは言わなくなって、軍事とか、政治とか、土木とかと関係したものを重く見るようになって、それと今日の傾向は非常に似ていると思います》
《この頃の数学はだんだん言葉の数学になっている》
《ローマと比べたギリシア時代の数学、第二次大戦後と比べた第二次大戦前、第一次大戦前の数学は、言葉よりもはるかに高いものだった。言葉ではわからなかった。ポアンカレは数学上の発見というものは、実に意外なものだといって、いろいろ書いていますが、ああいう数学上の発見を論文に書いたというようなものは、最近の論文を調べていますとほとんど出会わない》

 第二次大戦後より第二次大戦前、第二次大戦前よりも第一次大戦前と、以前の数学は「言葉よりもはるかに高いものだった」と岡先生は言っています。数学は時代の進展とともに進歩しているのではなく、かえって堕落したというのが岡先生の所見ですが、このような言葉に続いて、「私はやはり数学といえば、創造といわれている働きの現れだと思います」と語られているところを見れば、岡先生のいう数学の凋落とは、創造する精神の消失を意味していることがわかります。数学の技術的な側面が低落することはないと思いますが、創造する心の方は必ずしも時間とともに成熟するとは限りませんから、岡先生のいう数学の凋落はありえないことではありえません。数学が「はるかに高かった時代」と岡先生がいうのは、19世紀を指しています。
「数学セミナー」のもうひとつのインタビュー記事「数学の歴史を語る」でも同じ論旨が繰り返されています。

《それから数学史に入って、数学が実際に数学らしい形をもったのはギリシアに入ってからで、だからだいたい数学らしい学的体系が得られたのは平面幾何だけです。平面幾何というものによって学問的な体系をもつことができた》
《これはギリシア人が知性に自主性というものを与えたからです。まったくそのためにできた。最初、知性に自主性を与えた国はギリシアがあるだけです。だから数学が数学という具体的な形をもったのはギリシアにおいてだけで、他を通ってるのはそういう形をもたなかったですね》

 文芸復興期以来、数学はヨーロッパの手にわたりました。岡先生が学んだのもこのヨーロッパの数学です。

《西洋人の手にわたってから、数学はどう変ったかといいますと、その一番の特徴はひどく意欲的になった。これはあの人種の特徴だろうと思う》
《これから西洋の数学になるわけですが・・・私たちだいたいそれやったんですが、この西洋の文化で注目すべき時期は17世紀だと思う。17世紀が自覚の世紀です》
《この17世紀に数学はデカルトが代数と幾何を融合させて解析幾何というものを作った。これが近世数学のはじまりだと思うんです。数学だけについていうならば、解析幾何ができれば微分積分は早晩できるはずのものです。物理学として見ますと、ニュートンが非常に大きい。これは運動の三原則が大きいんですが、しかし数学史的に見ますと、ニュートンはとりたてていうほどの存在じゃない。とにかく、この自覚の世紀17世紀に近世数学が始まった》

 19世紀に入ると、数学は「理想の世紀」に入りました。「理想を追い求める精神」がこの時代の数学の根源で、それを体現しているのがリーマンです。岡先生は三高で出会った数学者リーマンをそのように語りました。

《それから200年ほどたって19世紀になってやっと西洋の文化は理想の世紀に入ることができた。ここで19世紀は理想というものを追い求めるという世紀だった。理想とはこんなものとつかみ出したんじゃなく、また、まして、つかみ出したものを実現しようとするのじゃなく、理想を追い求めるという精神だった。その理想を追い求めると言う精神の代表者がリーマンだと思う》
《秋月─秋月康夫は親友だから秋月先生といわずに秋月という─が、私もいたんですが、ヴェイユに二人で日本料理をごちそうしていた。そして学生を指導するにはどうすればよいというふうなことを聞くようなところに会話がいった。そうするとヴェイユは「リーマンのエスプリを教えなさい」と言った。エスプリというのは、その人を代表するような精神という意味ですね。リーマンのエスプリは理想を追い求めてやまない心です。ともかく、この19世紀に現代数学といわれているようなものができ始めた》

《それから、次、20世紀でしょう。20世紀はそうすると、いよいよ追い求めた理想をはっきりつかまえて、これを実現しようとする世紀であるべきでしょう。ところが実際はどうかというと、20世紀へ入るやいなや、20年もたたんうちに第一次大戦という世界的な大戦を始めてしまって、その後その緊張が今なお続いている。いつ解けるかはわからないありさまですね》
《だからこのせわしないさ中に、ともかく一応理想を描いてみせたのが、いわゆる現代数学といわれてるものです。だから、この中には取るべきものもあるでしょうが、捨てるべきものもある。おおいに取るべきものは取り、捨てるべきものは捨てて、本当の理想を実現させてゆくということこそ、日本人のしなければならないことではないでしょうか。ずいぶん現代数学からは捨てるべきものも多い》
《だいたい、現代数学がはっきりでき上がっていったのは、現代数学に一番関係してるのはたぶんブルバキですよ。あれが、だいたい主としてあったのは第二次大戦中ですよ。ヴェイユなんてやつふとどきに実際戦争のことちっともやらずにあんなことやってたんですね。まあヴェイユは代数幾何やってたでしょうけど、それでもやっぱりブルバキの音頭取りはヴェイユですからね。だからして、それをだいたい元にしてやってるのが現代数学でしょう。だから全面的に受け入れるというのは危険なんです。批判的に取るべきものは取ってね。そうでないとおもしろい方へ行けばいいんだけど、めんどうな方へだいぶ行ってますよ》

凋落し、堕落した現代数学に一番関係があるのはブルバキで、そのブルバキの音頭取りはヴェイユと、それからもうひとり、ヴェイユの友人のアンリ・カルタンですが、岡先生の孤高の多変数関数論研究を早くから高く評価した人のもまたヴェイユとカルタンなのでした。

(岡潔先生を語る12)数学は調和の精神

 数学に向かう岡先生の強靱な意志力は生涯を通じて微塵も変りませんでしたが、数学という学問には確かに、人の心を強く惹きつけてしまう神秘的な魅力が伴っています。その神秘感とおそらく表裏をなしていると思いますが、数学には根源的な謎があり、この学問に心を寄せる人たちにひとつの問いを問い掛け続けているように思います。それは、数学は何を研究する学問なのだろうか、という問いです。
 岡先生は多変数関数論のハルトークスの逆問題の解決を生涯の課題と決めましたが、ここにいたるまでには非常に長い期間にわたって曲折があり、いよいよこの方向で研究を始めたのは昭和10年の年初ですから、すでに35歳になっていました。近代数学史を顧みても類例をみいだしがたい稀有の事例です。迷いもあり、ためらいもあり、試行錯誤もあり、特異な体験もあったことと想像されますが、すべては研究テーマの確立のための長い助走ですし、それまでの岡先生の思索の中核を占めていたのは「数学は何を研究する学問なのか」という、素朴で、しかも学問の本質をつく問いであり、岡先生は何かしら納得のいく解答を手にしたのではないかとぼくは思います。いったん方向が定まった以上、どんなに行き詰まっても微動だにしなかったことは、「数学セミナー」のインタビューに応えて岡先生がみずから語っている通りです。
「数学セミナー」の一度目のインタビュー記事「数学に危機がきた」を見ると、岡先生はしきりに現代数学を批判しています。昭和42年のインタビューですから、現代数学といえば20世紀中葉の数学を指しています。
「数学とは何ですか」という質問に応え、岡先生の話が長々と続きます。どの一語もおもしろく、40年後の今も興味が尽きません。
 はじめに数学の二つの側面が語られます。数学には、科学であるという一面と、それから人のクリエイトしたもの、知的創造物であるという他の一面とがあるようだというのが岡先生の見方です。

《そのどちらに重点をおくかでたいへん違ったものになるのですが、人のクリエイトしたものであるという方に重点をおくと、芸術なんかとそう違わないものになりますし、科学であるという方に重点をおくと、要りそうなことは細かく調べておくというふうなものになります》

 数学の科学としての側面というのはわかりやすく、数学という学問に対する常識的な観念ともよく合致していますが、数学もまた人の手で創造されるのだという指摘は独特で、理解されにくいのではないかと思います。
 このような観察を踏まえ、「世界的な傾向として、この芸術的な面がだんだん減って、論文なんかに現れた数から見まして、科学としての面、数学も科学のひとつであるという面がだんだん多く出てきていると思われます」という指摘が続きます。それから岡先生はポアンカレとアンドレ・ヴェイユの名前を挙げました。

《数学の内容は調和の精神であるということをポアンカレがしきりに言ったんです。ポアンカレののちにはアンドレ・ヴェイユ、これはかつて働きざかりには、日本の数学者たちが神のように敬っていた人ですが、そのアンドレ・ヴェイユあたりの数学の内容は調和の精神であるということをしきりに言ったんです》

 ポアンカレは19世紀の後半から20世紀のはじめにかけて活躍したフランスの大数学者で、岡先生は三高の学生のころ、ポアンカレのエッセイの愛読者でした。ヴェイユは同じフランスのポアンカレの次の世代の数学者です。日本の数学者たちが神のように尊敬していたというのも岡先生の言葉の通りですが、そのヴェイユは岡先生の学問をよく理解した人で、来日したおり、岡先生に会うため二度も奈良に足を運んでいます。二人とも岡先生とゆかりのある人物ですし、数学の内容を調和の精神と見る見方には、岡先生もまた異存はないように思います。ところが、岡先生の目には、ヴェイユのあとは数学の内容を指して調和の精神と言う人はあまりないように見えました。そのことを指して、岡先生は「だんだん芸術的な面が減っていったわけですね」と言うのですが、この指摘もその通りと思います。

(岡潔先生を語る11)数学の発見を語る

 昭和42年(1967年)7月4日、日本評論社の数学誌「数学セミナー」の二人の編集部員(初代編集長の野田幸子さんと東弘幸さん)が奈良に岡先生を訪問し、インタビューを行うという出来事がありました。岡先生はこれに応じ、30分ほど話をしましたが、このときの記録は「数学に危機がきた」という標題で、この年の「数学セミナー」9月号に掲載されました。翌昭和43年(1968年)5月15日、岡先生はまた「数学セミナー」のインタビューを受けました。訪問したのは今度も二人で、野田編集長に日野保子さんがお供をしていました。このインタビューの記録は「数学の歴史を語る」という標題がつけられて、この年の「数学セミナー」9月号に掲載されました。「数学セミナー」に掲載された記事そのものは結構が整っていますが、それは編集上の苦心のたまもので、野田編集長も他の二人の編集部員も岡先生の話は理解するのがむずかしく、二回目のときなど、野田編集長と日野さんは「ああ、びっくりした」「全然わからなかった」と口々に言い合いながら帰途についたということでした。
 テープを起し、意味が通じそうな箇所を抜き取って編集したことと思われますが、「数学に危機がきた」といい、「数学の歴史を語る」といい、タイトルを一瞥しただけでもどこか異様な雰囲気を感じます。「数学セミナー」には多くの記事が出ていて、著者はたいていみな数学者ですが、岡先生の話の内容は格別で、他のどの記事にも似ていません。二回目のインタビュー記事「数学の歴史を語る」で見ると、岡先生の語る数学史は一風変っていて、歴史は歴史でも、現代数学(20世紀の数学というほどの意味です)の根柢を批判しようとする数学史です。この点は一回目のインタビュー記事「数学に危機がきた」でも同じです。
「数学の歴史を語る」の末尾のあたりで、岡先生は数学の発見について語っています。しばらく岡先生の言葉に追随したいと思います。

《本来、創造というのは自由な心の働きです。自由な心というものは絶対無規定です》

 何をどう考えてもよいという完全に自由な心をもって臨まなければ、数学の発見はありえないということですが、発見の芽はどんなところに萌しているのかわからないのですから、岡先生の言葉の通りと思います。岡先生は研究を通じて体験した現実をそのまま口にしたのでしょう。

《何か数学上の発見というふうなことを言うためには、一度行き詰まらなければなりません。どれくらい行き詰まってるかといったら、たいてい6~7年は行き詰まる。それは自由な精神が勝手に行き詰まってるんであって、そこに行き詰まってるべく強いられてるんじゃありません。だからこそ6~7年行き詰まってられる》
《その時は行き詰まりを感じるも何もない。全然やることがない。やりたいことは決まってるんだけど、そっち向きには何にもやることがない。だからやるのは情意がやってるんであって、知は働きようがない》

 これもおもしろい話で、数学の発見をこんなふうに語った数学者は岡先生のほかに一人もいません。語られているのはやはり岡先生自身の体験ですが、岡先生の行く手をさえぎった出口の見えない壁面は、岡先生が自分で心に描いた数学上の構想から生れたという一次に留意したいと思います。岡先生は数学の現状を考えて多変数関数論研究の重要さを思い、多変数関数論の領域でリーマンに範を求めて多変数代数関数論を構想し、そのための基盤を作ろうとしてハルトークスの逆問題の解決を志しました。そのハルトークスの逆問題を解決する道をまた構想し、その道筋に沿って進もうとして行き詰まったのですから、岡先生にしてみれば進路の変更は考えられず、いつまでも行き詰まっているほかに仕方のない事態なのでした。実際に発見が生起したということは、岡先生が立案した解決の構想が正鵠を射ていたことの証左です。

《私3度程完全に行きづまりました。だから3度大きな意味で数学上の発見やったわけですが、みんな7年くらいはかかってます。行きづまった間は、意志と情熱ですよ。情熱が持続しなけりゃだめですね。知の方は、これは当然いるんだから、いるって言わなくたって使いますよね。使おうにも使えなくなるから困るんでね・・・》
《本当に行き詰まるためにはね、そっちをいったん指さしたら微動もしないという意志がいるんで、今の人たちにははたしてそれだけの意志力もってる人がどれだけいるかと思う。それだと、行き詰まりということはありえないわけなんだ。直進しようとするから行き詰まるんで、行きやすい所を選って行ったら、行き詰まるということはありえない。それだったら数学上の発見という言葉はむなしき言葉です》

 岡先生は三度行き詰まり、そのつど発見をして切り抜けたと語られています。三度の発見というのは「上空移行の原理の発見」「関数の第二種融合法の発見」「不定域イデアルの理論での発見(具体的なことは後述します)」を指しますが、岡先生はもうひとつ、境界問題の壁にもさえぎられ、行き詰まっていました。20年行き詰まってとうとう突破することができませんでしたが、実に恐るべき意志の力です。

(岡潔先生を語る10)数学を構想する力

 昭和16年ころ、内分岐領域においてハルトークスの逆問題を解こうとして、リーマンの論文を読み返しながら岡先生が立てた研究の構想は、不定域イデアルの理論の根柢を作るいくつかの基本的な問題を解決すること、内分岐領域において上空移行の原理を確立すること、それに境界問題を解決することという三本の柱に支えられて構築されていました。これらの問題がみな理想的に、というのは岡先生の心に描かれた通りの姿でという意味ですが、首尾良くそのように解決されたなら、三つの力を糾合することによりハルトークスの逆問題もまた解けるであろうというのでした。岡先生はこれらを別々に考えたり、順番にひとつひとつ考えたりしたわけではなく、当初から同時に思索していたようで、現に昭和30年10月7日の研究記録には、境界問題を北海道でずいぶん考えた記憶があると書かれていました。それは昭和16年秋から一年ほど、札幌に逗留した時期の回想ですが、この時期の岡先生は同時に不定域イデアルの理論にも沈潜し、多くの研究記録を書き続けていたのでした。上空移行の原理の方は不定域イデアルの理論を基礎にしてできるのですから、両者の関係は不可分です。実際に遺されている当時の研究記録はほとんどすべて不定域イデアルに終始して、境界問題を語る言葉は見当たりません。ずいぶん考えたという回想に照らすといくぶん不可解な事態ですが、境界問題が具体的に進展しなかったのはその後もずっとそうでしたし、境界問題が語られるようになってからも、岡先生はただむずかしい、むずかしいといつまでも繰り返すばかりでした。岡先生が札幌時代にも境界問題を考え込んでいたというのは岡先生の言葉の通りで間違いないとして、どんなに真剣に考えても手掛かりさえつかめないので、何も書くことができなかったということであろうと思います。
 岡先生が直面した難問は岡先生がみずから提示したものであり、フェルマの大定理やリーマンの予想のように、だれもが知っている未解決問題に挑戦したというのではありませんでした。問題の出所は何かといえば、岡先生が自分自身で心に描いた構想です。数学の構想というのは、数学的自然のこのあたりの光景はこのようになっているのではないかと、だれも見たことのない景色を想像することで、その想像を確かめようとして、いくつかの問題が必然的に要請されることになります。もし構想そのものに間違いがあったり、ゆがんでいたりしたなら、設定された問題に解がないという事態も考えられます。20年も考えて解けなかった境界問題のことですから、もともと解くことのできない問題だったのかもしれませんし、それならハルトークスの逆問題もまた内分岐領域では解けない可能性も現実味を帯びてくるところです。その恐れは十分にありますが、そのことはひとまず措くとして、数学の問題は個々人の数学的構想の中から生れるのだという重大事を、境界問題の事例は生き生きと教えているように思います。構想がなければ問題はなく、問題がなければ考えようがありませんし、「問題を解くこと」は構想を確証する作業にほかなりません。数学の沃野はどこかしら個人の思惑を越えた場所に開かれていると思いますが、他方、構想を立てるのは純粋に個人的な営みです。
 岡先生は数学の構想力に自信があったようで、昭和19年といえばまだ戦争中のことになりますが、この年の11月8日に書かれた日記を参照すると、
「自分ノ数学ノ特長ハ矢張リ此ノ構想ニアル」
という言葉に出会い胸をつかれます。御自身の数学者としての力の根源を正しく自覚していたというほかはありません。

(岡潔先生を語る9)リーマンの定理

 岡先生が遺した研究記録の中に「境界問題」という言葉が最後に現れるのは昭和36年(1961年)3月9日の記事ですが、そこにはまた「代数函数論の問題」という神秘の一語が併記されていたのでした。「代数函数論」が登場したのはこれがはじめてというわけではなく、三日前の3月6日の記録にも冒頭に「代数函数論」と記されていますし、もっとさかのぼると、五年前の昭和31年4月3日の日付で書かれたメモに、
  《代数函数論は多変数函数論の骨格》
と明記されています。岡先生の多変数関数論研究の本質を、これほど明快に言い表わした言葉はほかにありません。それでも、代数関数論に深く分け入っていくためには内分岐領域においてハルトークスの逆問題を解決しておくことが不可欠でしたから、代数関数論を心に抱きつつ、境界問題の究明に専念していたのでした。それだけに昭和36年3月9日の記事に「境界問題」と「代数函数論の問題」が並んでいるのは象徴的で、岡先生の研究記録を一枚また一枚と見ていったとき、はじめてこの光景に出会ったときの衝撃は忘れられません。昭和16年の春、第6論文を書きながら仏訳版リーマン全集をノートに書き写していた岡先生は、きっかり20年の後、今度は長年の境界問題を放棄して代数関数論へと向かおうというのですが、何分にも境界問題が解けず、したがってハルトークスの逆問題が解けないままなのですから、この研究の行く末に明るい展望を描くことはできなかったであろうと思います。それでも押し切って新たな領域に踏み込んでいったのは、ともかく研究構想の全体像を描いておきたいと願ったからに相違なく、還暦を迎えた岡先生の激しい気迫がひしひしと伝わってくるような思いです。はたしてこの年の大晦日、12月31日の日付で岡先生は6枚のメモを書きましたが、そこには「リーマンの定理」という魅惑的な標題が附されていました。それからしばらくの間、昭和39年の夏あたりまで、この標題のもとで記述が続きます。
 岡先生の晩年の未完の研究「リーマンの定理」の様相を概観する前に、リーマンと代数関数論に関心を寄せる岡先生の姿を拾うと、表紙に
  「研究ノ記録
   其ノ六」
と記された丸善のノート1冊が目に入ります。昭和20年12月14日の「立案」から12月29日まで、合計193頁に及ぶ記録ですが、冒頭の第3頁目から第37頁にかけて(1頁目と2頁目は空白です)、リーマンの学位論文「一個の複素変化量の関数の理論の基礎」が目次と本文の第6節まで書き写されています。また、晩年、亡くなる直前まで書き継いだエッセイ『春雨の曲』を見ると、岡先生は昭和16 年当時を回想し、

《これまでは領域は絶えず単葉に限定して研究して来たが、この制限を取り去る積りならば ・・・が代数的分岐点を持ってもよいとしなければ徹底しない。そうでなければ、たとえばこれからの研究の成果を多変数代数函数の分野に適用することさえできない。これで腹が決った。この拡張に全力を挙げよう》

と述べています。ここで語られているのははっきりと「多変数代数函数」です。
 第7論文には二つのテキストがあり、ひとつはフランスの学術誌に掲載された初出テキスト、もうひとつはそのもとになった言わば「原テキスト」です。原テキストは岡先生の数学論文集に収録されています。どちらのテキストにも序文に代数関数が登場しますが、両者を読み比べるとまったく同じというわけではありません。初出テキストではこうなっています。

《すでに第一報の定理II(基本的な補助的命題)、第二報の定理Iおよび第五報の条件 (β)(アンドレ・ヴェイユの条件)において、いくつかのアリトメティカ的概念に出会っている。後に、我々は分岐点の研究においてもうひとつのアリトメティカ的概念に出会うであろう。それがなければ、代数函数を取り扱うことができなくなってしまう》

 第7論文の標題は
  「いくつかのアリトメチカ的概念について」
というのですが、アリトメチカといえば算術とか整数論という意味合いの言葉です。岡先生は多変数関数論に算術的、整数論的な概念が見られることを指摘し、この方面の研究を内分岐領域の研究の基礎にしようというのですが、その内分岐領域の研究は代数関数論のために不可欠であるというのが、岡先生の考えです。第7論文の原テキストではこの点がより強調され、浮き彫りにされています。

《第一報の定理II(基本的な補助的命題)、第二報の定理I、それに第五報の条件(β)(アンドレ・ヴェイユの条件)において、ある種のアリトメティカ的概念が目に留まるでであろう。そうしてもし分岐点を受け入れるなら、もうひとつのアリトメティカ的概念に出会うであろう。分岐点を許容しなければ、代数函数さえ取り扱うことができなくなってしまう。我々はこのような事情に促されて、この種の概念の研究を始めたのである》

 こんなふうに岡先生の言葉の切れ切れを拾い集めると、多変数関数論において岡先生の登場を待って起った事柄の深い意味合いが、次第に眼前に現れてくるように思います。岡先生の内分岐領域研究の究極の目的が多変数の代数関数論の建設にあったことに、疑いをはさむ余地はありません。

(岡潔先生を語る8)リーマンのように

 代数関数論は岡先生が心に描いた数学的世界の中核に位置する理論ですが、岡先生が「代数函数論の問題」というときの「代数函数論」というのは、(一変数ではなく)多変数の代数関数の理論のことで、いったいどのような理論なのか、その姿を見た人はだれもいません。岡先生の心情の世界には芽生えていたことと推定されますし、実際にこの方面の研究記録も大量に遺されていますが、その岡先生といえども具体的に全容をスケッチしたわけではなく、際立っているのはただ、理論構築をめざそうとする強固な意志の力のみにすぎません。
 多変数ではなく、一変数の代数関数論のことでしたら、若い日の岡先生の想い出と懐かしく結ばれている理論です。岡先生は三高の三年生のとき、フランスの数学者ポアンカレのエッセイ『科学の価値』(田辺元訳、岩波書店)を読み、クラインによるディリクレの原理の証明が語られている箇所に触れて深く感動した経験の持ち主で、晩年のエッセイのあちこちで幾度も繰り返し語っています。岡先生を数学研究へと誘った深刻な体験のひとつですが、岡先生はこれを「第三の数学の種」が心に播かれたと言い表わしました。ディリクレの原理のディリクレは、19世紀のドイツのゲッチンゲン大学の数学者で、ガウスの後継者になった人ですが、そのディリクレの名を冠する原理を土台にして一変数代数関数論を建設したのは、同じドイツの数学者リーマンでした。これが岡先生とリーマンとの出会いの情景ですが、印象はよほど神秘的だったようで、数学の世界に入る決定的な契機になったばかりではなく、リーマンのような数学をすると決意したということです。
 岡先生は三高から京大に進み、卒業してすぐに京大の講師になりましたが、京大時代の恩師の河合十太郎先生のアドバイスを受け、フランスの数学者ガストン・ジュリアのイテレーションの論文を読んで数学研究に踏み込んでいきました。イテレーションの研究はリーマンの代数関数論と同じ一変数の複素関数論に所属しますが、代数関数論とは関係がありませんし、それに、もともと河合先生のお薦めを受けて手掛けたというだけのことにすぎません。リーマンのような数学をすると心に決めてはいたものの、はじめから具体的な道筋が見えていたわけではなく、この時期は言わば試みの時代でした。それでもやってみると印象の深い発見が相次いで、この研究はおもしろく展開していきました。やがて洋行が決まったとき、ジュリア先生のいるフランスを洋行先に選ぶことにしたのも、このイテレーション研究の体験があったからでした。
 イテレーション研究はフランスでも継続しましたが、そのうち興味を失って離れていきました。暗中の模索が深まり、曲折の末、ジュリア先生が生涯にたった一篇だけ書いた多変数関数論の論文に手掛かりを得て多変数関数論に向かうようになったものの、今度は中心テーマを探しあぐねてずいぶん長く苦しみました。帰国して昭和9年になり、ベンケとトゥルレンの著作に示唆を受け、ようやくハルトークスの逆問題という中心問題を手にしましたが、このとき岡先生はすでに満34歳になっていました。
 ハルトークスの逆問題の究明を決意したとき、その先には必ず多変数の代数関数論の世界が開かれていくことを、岡先生は当初から深く確信していたことと思います。昭和16年3月28日から4月20日までの日付が記入された一冊のノートが遺されていて、本の書き抜きなどがありますが、『芭蕉遺語集』などと並んでフランス語訳の『リーマン全集』が出ています。前年の昭和15年の初夏、岡先生は有限単葉な領域におけるハルトークスの逆問題の解決の鍵をつかみ、第6番目の論文の執筆に取り掛かりましたが、昭和16年の3月、4月のころはまだ執筆中で、一語一語に深い意味を込め乍らの苦心の日々が続きました。その渦中にあってリーマン全集に目を通していたのは決して手慰みなどではなく、遠く多変数関数論の行く手を展望しつつ、出発点を回想しようとした心の現れだったのであろうと思います。
 リーマンは一変数の複素関数論の基礎を確立し、その土台の上に一変数の代数関数論を構築することに成功した人でした。岡先生はハルトークスの逆問題の解決を通じて多変数関数論の基礎を確立し、その基盤の上に多変数の代数関数論の地平を開こうとする構想を描きました。昭和16年の岡先生の心情は三高生の日々に立ち返り、リーマンのように進もうと、決意を新たにしつつあったのでした。

(岡潔先生を語る7)最後の関頭

 ルロンに宛てて手紙を書いたのと同じころ、岡先生はベンケに手紙を書きました。ベンケはドイツのミュンスター大学の数学者で、多変数関数論の草創期からこの分野の開拓に携わってきた人です。1934年、弟子筋の数学者トゥルレンとともに『多複素変数関数の理論』という著作を書き、岡先生の多変数関数論研究に大きな影響を及ぼしました。岡先生がいよいよ論文を書き始めると、遠くドイツからしばしば手紙を寄せて、岡先生の孤独な研究を励ましてくれることもありました。
 フランス語で書かれたベンケへの手紙の下書きが遺されています。日付は1953年6月1日。文面はルロン宛の手紙と同様で、書き上げつつある第9論文と、執筆を企画中の第10論文への言及が見られます。当初は「有限領域」という標題の一篇の論文を書く予定だったところ、途中で考えが変って二分することにしたこと、明らかになっている事柄を提示することにより、困難の形状を明らかにすることがその理由であること、それと、第10論文では内分岐する擬凸状領域において境界問題を取り扱う予定であることが伝えられました。ルロンとベンケのほかに、ジーゲルとヴェイユにも同主旨の手紙が送付されました。日付はみな同じで6月1日です。ジーゲルはドイツの数学者、ヴェイユはフランスの数学者ですが、この時期の所在地は二人ともアメリカで、ジーゲルはプリンストン大学、ヴェイユはシカゴ大学にそれぞれ所属していました。ともに20世紀を代表する数学者であり、岡先生のよい理解者でもありました。
 第9論文の日本語草稿を書き上げた岡先生は、わずかに余裕を得てルロンとベンケとジーゲルとヴェイユに手紙で消息を知らせ、それから第9論文を日本語からフランス語に移す作業に取り掛かりました。遺されている仏文草稿を見ると、ひんぱんに日付が記入されていて、刻々と第9論文が仕上げられていく様子が手にとるようにわかります。初日は6月1日で、9月8日に69頁まで進みました。この間、三ヶ月ですが、途中で大きく手をもどすこともしばしばで、実に緻密な仕事です。日本文の草稿にしても何度も書き直されたようで、まとまった草稿は失われた模様ですが、細かな字で精密に記述されたいくつもの断片が遺されていて、一語また一語と心血を注いで書き進めていく岡先生の苦心のほどがしのばれます。
 仏文原稿は9月8日までで完成しましたが、翌9日、岡先生はあらためて頁番号「1」を記入して、

  Sur les fonctions analytiques de plusieurs variables
  IX-Domaines finis sans point critique inte'rieur
   Par Kiyoshi Oka

と、タイトルを書きました。

  多変数解析関数について
  IX-内分岐点をもたない有限領域
    岡潔

 これで第9論文の標題が確定しました。当初の案の「分岐点をもたない有限領域」と比べると、「分岐点」が「内分岐点」となっていて、わずかな変更が認められます。この後、岡先生は第9論文の仏文の清書稿を作成し、学術誌「日本數學集報」に送付しました。日本數學集報はもともと学術研究会議の数学部門の機関誌でしたが、昭和24年、学術研究会議は廃止され、新たに日本学術会議が発足するという経緯があり、この時期の日本數學集報は日本学術会議の機関誌のひとつでした。論文の末尾に論文の末尾に附された日付は「1953年10月12日」と日付が記されています。受理されたのは10月20日と記録されました。間もなく東京大学の数学者、彌永昌吉から校正稿が返送されてきましたので、校正に取り掛かりました。彌永昌吉は学士院の会員でしたから、日本數學集報の編集を担当していたのであろうと思われます。年末12月30日、校了。第9論文は日本數學集報、巻23に掲載されました。
 昭和28年はこうして暮れました。年があらたまり、昭和29年に入るとすぐに、朝日賞の受賞といううれしい出来事がありました。朝日賞は朝日新聞社が主催する賞で、文化賞と体育賞の二本立てになっていましたが、岡先生は「多変数解析凾数に関する研究」により、「日本仏教史の研究」の辻善之助、「慶陵の研究」の田村実造と小林行雄、それに「色の感覚に関する研究」の本川弘一とともに文化賞を受けました。日本学士院賞に続き、これで二度目になる大きな賞でした。岡先生は日本では無名でしたが、フランスのアンリ・カルタン、ドイツのベンケ、アメリカ在住のジーゲルとヴェイユなど、欧米には岡先生の数学研究の真価を認識する数学者たちが幾人もいましたし、欧米での高い評価が日本国内での評価に反映し、相次ぐ受賞が実現した次第です。
 学士院賞のときは受賞式に出席できませんでしたが、今度は岡先生も元気で、1月16日に朝日新聞社東京本社で行われる贈呈式に出席するため、みちさんといっしょに上京しました。ちなみに、このときの体育賞の受賞者はマラソンの山田敬蔵で、「一九五三年四月二十日ボストン・マラソンに2時間18分51秒の世界最高記録を樹てて優勝」したことが受賞の理由です。
 春4月からは京都大学で非常勤講師として、大学院の学生を相手に週に一度のゼミナールを行うことになりました。そのための打ち合わせのため京都に出かけることなどもあり、この時期の岡先生は何かと多忙な日々を送っていましたが、そんな中で決して心を離れなかったのは、あの「境界問題」でした。表紙に
  「境界問題の記録
   1954.4.17-1954.6.29」
と記された研究記録が遺されていて、日付の入った日録が続きます。この記録はレポート用紙に書かれていますが、最後まで埋められると次のレポート用紙に移り、6月30日から9月1日まで、記録が継続されています。6月30日の第1頁目の冒頭には、
「境界値問題」という見出しが出ています。この日は大雨でした。翌7月31日の記事にも、「境界問題」の一語が見られますし、その後も境界問題をめぐる記述が繰り返されています。
 境界問題の究明は昭和30年も続きました。表紙に、
  「回想
  (境界問題が解けるまで)」
と記された一冊のノートが遺されています。本文には1頁だけ記述があり、末尾に「1955.10.7」という日付がついています。

《擬凸状域の境界問題は分岐点を許すと大変面倒になる。今それが解けたと思つている。それでどうして解けたかを主としてReporting papers(註。レポーティングペーパー)によつてしらべてみようと思ふ。
 此の問題は、分岐点を許容しようとするとすぐに目につく二つの大きな問題の一つであつて、北海道で随分これを考へた記憶があるからもう15年も前から持ち越している問題である。
 近頃はいつ頃からだらうか、Me'moireVIII(註。第8論文)を見るにRecieved March 15,1951(註。1951年3月15日、受理)とあるからその頃からであらう。奈良へ居を移したのが1951年の4月である。
 尚 Me'moireIX(註。第9論文)は(Recu le 20 octobre, 1953)(註。1953年10月20日、受理)、だから最近の研究は去年の夏または秋からであつて、それまで出来ていると思つていたのが、それではいけないと分つてからである。
 この最近の所を特にくわしく見ようと思ふ。先づそれから始める。Reporting papers を揃へることから始めよう》

 岡先生は昭和16年の秋から一年弱ほどのことですが、北海道大学理学部に勤務したことがあります。内分岐域の研究をはじめたのと同じ時期ですから、境界問題は当初から懸案の難問だったのです。1955年10月7日付で「回想」を書いたときは境界問題の解決に明るい見通しを抱いていたようですが、これはまたも間違いで、依然として未解決のまま月日がすぎていきました。岡先生の研究記録に「境界問題」の一語が次に現れるのは昭和36年になってからで、1961年3月8日と同月9日の記事に出ています。9日のメモには、「境界問題」と並んで、
  「代数函数論の問題」
という、それまでに見られなかった言葉もあり、ぼくらの目を奪います。昭和36年3月9日、満60歳の誕生日を間近に控えた岡先生は、解くことのできない境界問題はそのままに、代数関数論という最後の関頭に向けて意識を集中しつつありました。

(岡潔先生を語る6)実った思索と実らない思索

 岡先生のことを語ろうとして、まずはじめに故郷の紀見村で孤高の思索の日々を送る岡先生の姿を回想したところ、お日さまを見つめて紀見峠に立ちつくす岡先生に出会いました。戦後もまだ間もないころのことですが、遺された記録に沿ってこの時期の岡先生の数学研究の様相を観察すると、目につくのは「境界問題」ばかりというありさまでした。岡先生の数学者としての姿を語る場合、よく言われるのは、多変数関数論の未解決の三つの難問をひとりで解決したという一事ですが、近代数学史に刻まれた偉大な発見の物語に魅力があるのは当然のことですし、ぼくもまたこの間の消息についていずれ詳しく描写したいと考えています。ではありますが、大きな成功とは別に、岡先生が心に描いた巨大な研究構想は具体的な衣裳をまとうことなく終焉したこともまた事実です。有限で単葉な領域でのハルトークスの逆問題の解決を受けて、さらに進んで内分岐領域に及ぼうとする雄大な構想をたてて数学研究に取り組み始めたのは、昭和17年(1942年)ころと推定される出来事です。岡先生はこの研究の土台を構築しようとして不定域イデアルの理論を創造し(第7論文)、内分岐領域において「上空移行の原理」を確立することにも成功しましたが(第8論文)、境界問題に行く手をはばまれて難渋し、進むも退くもならない状況に陥りました。前回までに昭和26年の夏あたりまでの状勢を観察したところですが、この苦難はやむ気配がなく、昭和36年(1961年)ころまで続きます。昭和17年をこの一連の思索の第一年と見ると、昭和36年はちょうど20年目にあたりますが、この年、岡先生は満60歳。すでに還暦を迎える年齢になっていました。その前年の昭和35年には、文化勲章を授与されるという慶事もありました。
 岡先生の数学研究は岡先生だけの思索の世界から生れたのですから、結実した果実の見事なこともさることながら、実らなかった思索もまた深々とした魅力をたたえています。優劣はないと思いますが、未完成に終った思索は底が見えないだけにかえって深遠で、神秘的な印象をぼくらの心に刻みます。
 さて、岡先生は昭和26年の秋口からしばらくは境界問題から離れ、「展開の問題」の研究に打ち込んでいましたが、翌昭和27年(1952年)の夏あたりから、岡先生の心はまたも境界問題へと引き寄せられていきました。9月25日は勤務先の奈良女子大学で試験がある日でした。前期の学期末試験と思われますが、この日、岡先生は学校に出て、
 《Proble`me (F) むつかしい問題である!》
とメモを書きました。このようなところに境界問題の思索の再開が感じ取れます。この年の暮に向かうころ、第9番目の論文の執筆に向かうという、新たな動きがありました。表紙に、
  「1952.12.18─
  1953年度其の一」
と記されたノートが遺されていますが、これは昭和27年12月18日から翌年5月30日までの数学日誌です。初日の12月18日に、
  《Me´moire IXを書き始めようと思ふ》
と書かれていることからわかるように、第9論文「内分岐点をもたない有限領域」の執筆を進めながら書き留めたメモの集まりで、ていねいに追っていくと第9論文の成立の過程が手に取るように目に映じ、さながら「創造の小径」のような感慨を覚えます。
 年が明けて昭和28年になりました。2月2日、岡先生はみちさんと連れ立って京都に出かけ、友人の秋月康夫に会いました。この日のメモに、「河田君のお母さんがなくなられたことを聞く」と書かれています。「河田君」というのは物理学者の河田末吉のことで、秋月康夫と同じ三高以来の親しい友人です。執筆中の論文のことで秋月康夫と語り合ったようで、第9論文のタイトルは自分で決めて、
   IX-Domaines finis sans point de ramification
   (分岐点をもたない有限領域)
とすることにしたのですが、次の第10番目の論文のタイトルは秋月康夫の案を採用して、
   X-Domaines finis ge´ne´rals
   (一般の有限領域)」
と決まりました。岡先生は秋月康夫の話がうれしかったようで、「秋月に教へて貰つた」「流石にうまい」と書き留めました。第9論文の対象は「分岐点をもたない有限領域」ですが、単葉という前提は除去されていますから、非常に一般的な多葉領域、すなわち単葉な複素数空間の上に自在に広がる領域が想定されていることがわかります。これに対し、第10論文のタイトルに見られる「一般の有限領域」ではさらに一般性が追い求められ、内分岐点をもつ多葉領域が考えられています。岡先生ははじめからそのような領域でハルトークスの逆問題を解決するつもりだったのですが、境界問題がいつまでも解けないため少々方針を転じ、一篇の論文を二分して「IX」と「X」にすることにしたという次第です。
 まもなく本文の執筆が完了し、次いで序文にも取り掛かりました。序文が後回しになっているところもおもしろいと思います。

1953年3月19日
《本文を書き上げる》
1953年5月2日
《Introduction(註。序文)をかき始める》

 5月26日、岡先生はフランスの数学者ルロンに宛てて手紙を書きました。ルロンは岡先生と同じ多変数関数論の専門家ですが、4月15日付の手紙が届きましたので、返事を書くつもりだったのです。日本文の下書きは次の通りですが、第9論文を書くことに決めた理由がはっきりと述べられています。来し方を回想するとともに、直面する困難の姿形を浮き彫りにするためというのが、その理由です。「Domaines finis」は「有限領域」、「lemme」は「補助的命題」、「Me´moire」は「論文」を意味します。

《私が何故《Domaines finis》をIX、Xの二つに分けたかと申しますと、それはlemmeII(Me´moireVIで云へばp.51のφ(x,y)=-log d(x,y)の役割りをする函数の存在が、内分岐した擬凸状域に対しては極めて困難な問題になるのでして、それで私は其の前にIXをおいて、充分それまでの所を整へることによつて、一つにはlemmesを準備し、二つには、困難の姿を出来るだけくつきり浮き出ささうとしたのです)》
《私はここ数年来(Me´moireVII以来)殆んどこの困難の克服に力を注いで来ました。そして今はそれが出来たと考へています。然し慥かにそうであるかどうかは、私の主觀(ide´es)を展示して、檢討した後でなければ云へません》
《IXについては、私は既に日本文に書き上げて、これから佛文に釈そうとしている所ですから間もなく御目にかけることが出来ませう》

 この手紙のフランス文の下書き2枚も遺されています。第8論文を航空便で送付することが伝えられるとともに、第8論文は第9論文のために有用であること、第10論文にとって不可欠であることが述べられています。内分岐領域において、第6論文で使われた関数φ(x,y)=-log d(x,y)と同じ役割を果たす関数を見つけることができれば、境界問題は解決されますが、この時期の岡先生はこれは肯定的に解けるという考えに傾いていたようでした。第8論文の標題は「基本的な補助的命題」。ルロン宛の手紙には1953年5月27日という日付が記入されました。

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オイラー研究所の所長です

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オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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