対数というものを考えるためには、そもそものはじめに、何らかの数aをあらかじめ指定して、固定しておかなければなりません。それは「対数の底」と呼ばれることになる実数ですが、何かある数xが与えられたとき、xの対数とは何かと問われたなら、「aの冪a^yがxに等しくなるような冪指数y」のことと答えるのがオイラーの流儀です。このようなyのことを「底aに関するxの対数」と言いますが、特にa=10と取るときの対数のことを常用対数と呼び、a=eと取るときの対数のことを自然対数と呼ぶのが通例になっています。自然対数は双曲線対数と呼ばれることもあります。これから先は、特に断らない限りつねに自然対数を考えることにして、これまでもそうしてきたように、xの対数yを
y=log x
と表示することにします。さて、xの対数yはただひとつしかないように見えますが、これを否定して、「各々の数xに対し、その対数は無数に存在する」と主張したのがオイラーの新機軸です。オイラーはこう言っています。
《ある提示された数の対数は、ある任意に取り上げられた数の、提示された数に等しくなる冪の冪指数であると言うとき、この観念の正しさには欠けているものは何もないように見える。もとよりこれは完全に正しい。だが、この観念には一般に、この観念に適合しない状勢が伴っている。それは、ほとんど気づくことはないが、各々の数に対応する対数はただひとつしかないと、通常は想定されているという事実である。そうして、そのことをほんのわずかでも考えてみれば、対数の理論が困惑させているように見える困難や矛盾が成立するのは、各々の数に対しただひとつの対数しか対応しないと想定する限りにおいてであることがわかる。そこで私は、これらの困難と矛盾のすべてを消失させるために、与えられた定義そのものに基づいて、各々の数に対して無限に多くの対数が対応すると主張する。》
ライプニッツとベルヌーイの論争を検討する中で、不可解な矛盾にしばしば逢着しましたが、すべての矛盾は対数がただひとつしか存在しないと思うことに由来するのであり、「対数の無限多価性」を承認すればいっさいの矛盾は解消するというのですから、非常に斬新で、しかも高度の観念性を備えた数学的発見と見なければなりません。オイラーが計算の名人だったとはよく語られますが、その反面、無限級数の収束性などには頓着しなかったなどと言われることもあり、全般にあまり思索的ではないような印象がつきまといます。ですが、対数の本性を粘り強く究明して無限多価性の発見に到達し、大胆に宣言するあたりなど、通説に大きく反し、偉大な数学者に特有の深遠な思索が遍在しているように思います。、