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二つの補充法則

今日の数論で平方剰余相互法則と呼ばれている法則には、既述の定理、すなわち等式
   (q/p) (p/q)=(-1)^((p-1)/2)((q-1)/2)
により表示される命題を本体として、さらに二つの補充法則が伴っています。今、pは奇素数として、ルジャンドル記号の意味を今日の流儀の通りに理解することにすると、まず等式
   (-1/p)=(-1)^((p-1)/2)
が成立します。これが「平方剰余相互法則の第一補充法則」です。この等式の右辺に着目すると、-1の冪指数(p-1)/2は、pが4n+1型なら偶数になり、pが4n+3型であれば奇数になりますから、ルジャンドル記号(-1/p)の値は、

   pが4n+1型なら、(-1/p)=+1
   pが4n+3型なら、(-1/p)=-1

というふうになります。これを平方剰余の言葉で言い換えると、

   pが4n+1型なら、合同式x^2≡-1 (mod p)は解をもち、
   pが4n+3型なら、合同式x^2≡-1 (mod p)は解をもたない

となりますから、第一補充法則は合同式x^2≡-1 (mod p)の可解条件を教えていることになります。
 ガウスが『アリトメチカ研究』に寄せている長い序文によると、ガウスはあるとき合同式x^2≡-1 (mod p)の可解条件、すなわち「素数pが4n+1という形であること」という条件をたまたま発見し、深い感動に襲われたということで、この出来事がその後のガウスの息の長い数論研究の決定的な契機になりました。ガウスの関心を強く惹いたのは第一補充法則それ自体にとどまるのではなく、ガウスの慧眼はこの小さな数学的事実の背景に控えている数論の広大な新領域を洞察したと見るべきであろうと思います。ガウスはこの未開拓の土地にひとりで踏み込んでいく決意を固め、平方剰余相互法則の第二補充法則と平方剰余相互法則の本体を発見し、これらすべての証明にも成功しました。
 第二補充法則というのは、等式

  (2/p)=(-1)^((p^2-1)/2)

で表される命題ですが、これは合同式

  合同式x^2≡2 (mod p)

の可解条件を与えています。平方剰余の理論の枠内で相互法則を既述しようとすると、二つの数、すなわち-1と2を別個に取り扱わなければなり、それらが二つの補充法則の内容を構成しています。ところが、ルジャンドルの相互法則、すなわち「二つの奇素数の間に存在する相互法則」には補充法則がありません。ルジャンドルの数学的企図は、素数の形状理論において、4n+1型の素数と4n+3型の素数の役割を入れ替えるところにあったのですから、ルジャンドルの立場に立ち返る限り、補充法則の欠如はルジャンドルの欠点とは言えません。
 ルジャンドルの相互法則とガウスの相互法則は、本体のみに着目して論理的視点から比較すると完全に同等ですが、ルジャンドルには補充法則ははじめから必要がなかったのに対し、ガウスの場合には、第一補充法則がかえって相互法則全体の発見への道を開く糸口になりました。客観的形式を離れて主観的内容に視点を移すと、同一に見えた法則が乖離して、まったく別の命題のように見えてきます。
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平方剰余の理論と相互法則

 ルジャンドルが提案した「ルジャンドルの記号」は今日の数論のテキストにも現れますが、現在普通に行われている定義は、ルジャンドル自身の定義とは異なっています。今日の定義は平方剰余の概念規定から出発します。今、pは奇素数として、pを法とする次数2の合同式
(*)   x^2≡a (mod p)
を考えます。ある数xに対し、x^2とaの差x^2-aがpで割り切れるなら、そのようなxを指してこの合同式の解と呼びます。この合同式に解が存在するとき、「aはpの平方剰余である」と言い、解が存在しないなら、「aはpの平方非剰余である」というふうに言い表わします。合同式(*)には解が存在することもあれば、存在しないこともあります。言い換えると、aはpの平方剰余になることもあれば、ならないこともあります。そこでルジャンドル記号(a/p)を、

  aがpの平方剰余のときは(a/p)=+1、
  aがpの平方非剰余のときは(a/p)=-1

と規定するのが、今日の通常の流儀です。フェルマの小定理に依拠したルジャンドルとはまったく様相を異にしていますが、論理的に見る限り、両者は同等です。言い換えると、aがpの平方剰余なら、aの冪a^((p-1)/2)はpを法として+1と合同になり、aがpの平方非剰余なら、aの冪a^((p-1)/2)はpを法として-1と合同になるのですが、この事実を最初に認識して表明したのはオイラーですので、今日では「オイラーの基準」と呼ばれています。もちろんルジャンドル自身も承知していました。ただしオイラーには「平方剰余」という言葉はありません。また、ガウスの数論には合同を表す記号「≡」はありますが、ルジャンドル記号(a/p)はありません。
 ガウスにはルジャンドル記号はありませんが、ルジャンドル記号を上記のように規定して使用してガウスの発見を書き表すと、ルジャンドルの相互法則と同じ形の命題になります。ガウスはこれを

 「平方剰余の理論における基本定理」

と呼びました。証明にも成功し、しかも当初から何種類もの証明を考えていた模様です。
pとqは異なる二つの奇素数として、二つの合同式

(**)    x^2≡q (mod p)
(***)   x^2≡p (mod q)

を同時に考えてみます。平方剰余の言葉によるルジャンドル記号の定義によれば、合同式(**)が解けるか否かは(q/p)の値によって判定され、合同式(***)の方の可解性を左右するのは(p/q)の値です。そうしてガウスのいう「平方剰余の基本定理」によれば、等式

 (q/p) (p/q)=(-1)^((p-1)/2)((q-1)/2)

が成立するのですから、二つのルジャンドル記号(q/p)と(p/q)の値の間には相互依存関係が認められることになります。具体的に言うと、pとqのうち少なくとも一方が4n+1型であれば、(p-1)/2)と(q-1)/2のどちらかは偶数になり、その結果、積(q/p) (p/q)の値は+1になります。よって、(q/p)と (p/q)は同時に+1になるか、あるいは同時に-1になるかのいずれかです。これを言い換えると、二つの合同式(**)と(***)は同時に解をもつか、あるいは同時に解をもたないかのいずれかであると言えることになります。pとqがいずれも4n+3型の場合にも同様に考えていくと、二つの合同式(**)と(***)は、一方が解けて他方は解けない、という言明が可能になります。これが、ガウスが発見して証明した「平方剰余の理論における基本定理」です。
 ガウスの第一番目の証明は数学的帰納法による複雑な証明で、第二番目の証明は「二次形式の種の理論」に基礎を置く難解な証明です。第三番目の証明は円周等分の理論から取り出される不思議な証明ですが、これはむずかしく、1801年の時点ではガウスもまだ解決にいたりませんでした。ここまでの情景を精密に描写した作品が『アリトメチカ研究』なのですが、留意しなければならない点がいくつかあります。
 はじめの三つは繰り返しになりますが、

1. ルジャンドルには合同の記号「≡」はありません。(これはガウスの創案で、『アリトメチカ研究』が初出です。)
2. ガウスにはルジャンドル記号がありません。
3. ルジャンドル自身によるルジャンドル記号はフェルマの小定理から帰結する簡単な事実に基づくもので、概念上、平方剰余の理論とは無関係です。ただし、「オイラーの基準」はルジャンドルも知っていました。
4. ルジャンドルには「相互法則」という言葉がありますが、「平方剰余」という言葉はありません。
5. ガウスには「平方剰余」という言葉はありますが、「相互法則」という言葉はありません。
6. ルジャンドルは素数の形状理論を完成させたいという数学的意図をもって相互法則を提案しましたが、ガウスには素数の形状理論への関心はありません。

 万事がこんなふうで、ガウスはルジャンドルとは別個に、平方剰余の理論に身を置いてまったく独自に相互法則を発見したのですから、何かしらルジャンドルとはまったく異なる数学的意図を抱いていたと見なければなりません。それはどのようなものだったのかと問うていくと、おのずとガウスの数論の世界に踏み込んでいくことになりますが、その前に命題の呼称について再考しておきたいと思います。
 ルジャンドルが発見したのは「異なる二つの奇素数の間に存在する相互法則」で、ガウスが発見したのは「平方剰余の理論における基本定理」でした。両者のキーワードは「相互法則」と「平方剰余」ですが、これらを組み合わせると、

「平方剰余の相互法則」

という今日の呼称ができあがります。この名称の背景には異なる二つの数学的思索が控えているのですから、「名は体を表す」とは言えず、かえって大きな混乱をひきおこします。
 ルジャンドルとガウスがそれぞれ発見した数論の法則は、オイラーの基準が教える通り、論理的に見る限り完全に同等です。そこで両者を同一視し、呼称もまた折衷して組み立てたのが今日の数論の流儀なのですが、「平方剰余の理論における基本定理」と「平方剰余の相互法則」とは「客観的形式」は同一ではあっても、「主観的内容」はまったく異なっています。深く考えなければならないのはこの点で、つきつめていくと数学の領域からはみだしてしまいます。

 「主観的内容」の差異を無視して、「客観的形式」が同じであれば平然と同一視する姿勢には「近代」の匂いがあります。他方、数学の創造はつねに、ひとりひとりの数学者の思索に独自の「主観的内容」に根ざしているように思います。

数学の理論形成について

ここまでの観察を簡単に回想すると、ルジャンドルの相互法則の根源はフェルマの小定理にあること、ルジャンドルが数論に相互法則を持ち込んだのは、この法則を仲介にして素数の形状理論を完成の域に高めようとするためだったこと、素数の形状理論の出発点は直角三角形の基本定理であったことにあらためて思い当たります。フェルマの小定理も直角三角形の基本定理も、元をたどるとみなフェルマの発見に行き当たりますが、これらの間に内的な関連が認められるとは、フェルマ本人には思いもよらなかったろうと思います。数論の領域でのフェルマの発見はほかにもいろいろありますが、当初はばらばらに発見されたあれこれの数学的事実がそれぞれに生い立っていく中で、種々の相互関連が次第に明るみに出されて有機的につながっていき、ひとつのまとまりのある理論が形成されました。ルジャンドルはその理論を「数論」と名づけ、一冊の大きな作品『数の理論のエッセイ』を著しました。数学における理論形成のプロセスは万事こんなふうで、無限解析の場合にはライプニッツ、ベルヌーイ兄弟、オイラーと続きましたが、数論の場合にはフェルマ、オイラー、ラグランジュ、ルジャンドルと、バトンがわたされていきました。フェルマの「欄外ノート」からルジャンドルの『数の理論のエッセイ』まで、この間、170年ほどの歳月を要し、担い手はわずかに四人を数えるのみにすぎませんでした。
 「数論」という言葉が数学史上に現れたのは、ルジャンドルの著作の書名が初出です。それ以前には「数論」という言葉は存在せず、ディオファントスの著作の書名に見られるように、「アリトメチカ」という言葉が使われていました。1801年のガウスの著作の書名

"Disquisitiones arithmeticae"(アリトメチカ研究)

にもアリトメチカの一語が残っています。
 こんなわけですから、ルジャンドルの著作はフェルマ、オイラー、ラグランジュという三人の数学者の数に関する数学的思索(アリトメチカ)の集大成なのであり、さらに言えば、実体は「オイラーの数論」と見てさしつかえなく、相互法則のようにルジャンドル自身の創意もまた認められるとはいうものの、ルジャンドル個人の独創を叙述した書物ではありません。したがって、ルジャンドルとガウスによる数論の二冊の本を対比する場合には、オイラーの数論とガウスの数論の特質を比較するべきなのであり、相互法則の証明の正否に焦点をあてて、急な坂の峠と麓になぞらえて優劣を語るのは適切とは言えないのではないかと思います。

急坂の麓と峠

素数の形状理論におけるラグランジュの一般理論は、4n+3型の素数を対象にするときには大成功をおさめましたが、4n+1型の素数を相手にすると無力でした。そこで相互法則を援用し、4n+1型の素数を対象とするときに出会う困難を4n+3型の素数に転化することにより回避しようというところに、数論におけるルジャンドルのアイデアの根幹がありました。この斬新な試みは成功し、これで素数の形状理論は完成したのですが、まさしくこの場面においてひとつの問題が新たに発生しました。ルジャンドルのアイデアが生きるためには、素数の形状理論とは無関係にあらかじめ相互法則を確立しておかなければなりませんが、ルジャンドルは相互法則を正しく証明することができなかったのです。もう少し正確に言うと、ルジャンドルは1785年の論文「不定解析研究」の段階で試みた証明にさらに工夫を重ね、1798年の著作『数の理論のエッセイ』では大幅に改良された証明を記述しましたが、そこにはなお欠陥がありました。そうしてルジャンドルの証明の不備を見つけて指摘したのは、ルジャンドルより25歳の年少のドイツの数学者ガウスでした。
 1801年、24歳のガウスは、ラグランジュの論文と同名の著作『アリトメチカ研究』(邦訳書名は『ガウス整数論』1995年、朝倉書店)を出版しましたが、この著作のテーマは相互法則そのものであり、全く異なる原理に基礎を置く二種類の証明が与えられたいますが、それと同時にガウスはルジャンドルの証明に精密な検討を加え、問題点の所在地を明示しました。
 高木貞治は著作『近世数学史談』(共立出版。岩波文庫にも入っています)の中でルジャンドルとガウスの二つの著作を比較して、「急坂の麓と峠」にたとえました。「峠」に位置するのはもちろんガウスで、ルジャンドルは「麓」です。

高木貞治の言葉
『近世数学史談』より
《ルジャンドルの整数論(Essai sur la the'orie des nombres、 整数の理論の試作)は1798年に発行された。それは十八世紀の終りに於ける整数論の展観である。整数論はフェルマー(Fermat、1601-1665)以来徐々に生育しつつあったのであるが、十八世紀に入って巨匠オイラーの手に由って著しく発展し、ラグランジュ、ルジャンドルがその後を承けて十八世紀の終りには優に数学の一分科を構成するに足る程度に達したのである。その成果を集成して系統的に『整数の理論』の組立てを試みたのがルジャンドルである。ルジャンドルの整数論が世に出でた1798年にはガウスの整数論(Disq.Arith.)の印刷が始まっている。それは1801年に至ってようやく発行されたのであるが、それをルジャンドルの整数論と並べて見るときに、それらが同時代の著作であることは殆ど想像されないのである。そこに数学史上の不連続点の最も著しい実例が提供されている。急坂の麓と峠とは全く別世界の観がある。ルジャンドルの整数論は史料としてのみ意味を有するが、ガウスの整数論を我々は百年後に至って漸く消化し終らんとしつつあるのである。》

ルジャンドルに向けられた辛辣をきわめた批評ですが、この高木貞治の言葉は日本の数学の世界では今も生きていて、ルジャンドルはなんとなく軽んじられているような印象があります。ルジャンドルとガウスの評価がここまで極端に分れたのはなぜかと言えば、相互法則の証明の成功(ガウス)と失敗(ルジャンドル)に根拠があると見て間違いないと思います。

二つの奇素数の間の相互法則

pとqは異なる二つの奇素数とすると、二つのルジャンドル記号(q/p)と(p/q)が同時に考えられますが、これらは、

  (q/p) (p/q)=(-1)^((p-1)/2)((q-1)/2)

という関係により相互に結ばれています。ルジャンドルはこの関係を発見し、1785年の論文「不定解析研究」において公表して、「異なる二つの奇素数の間に存在する相互法則」と名づけました。右辺の形はやや見にくいですが、-1の冪指数は(p-1)/2と(q-1)/2の積ですから、右辺の数値は、pとqのどちらか一方が4n+1という形なら、(p-1)/2と(q-1)/2のどちらかが偶数ですから、これらの積は+1になります。これに対し、pとqが双方ともに4n+3型であれば、(p-1)/2と(q-1)/2はともに奇数となりますから、それらの積は-1です。
 1785年の論文「不定解析研究」が掲載されたパリの科学アカデミーの紀要が実際に刊行されたのは1788年のことでしたが、この時点ではまだルジャンドル記号は見られませんでした。ルジャンドル記号の初出は1798年の著作『数の理論のエッセイ』です。

 パリ王立科学アカデミーの紀要の原名は

"Histoire de l'Acade'mie Royale des Sciences. Avec les Me'moires de Mathe'matique et de Physique, .pour la me^me Anne'e, tire'z des Registres de cette Acade'mie.

といい、創刊は1699年にさかのぼります。「王立科学アカデミーのHistoire(イストワール)に、同年の数学と物理のMe'moires(メモワール)も添えられている」というほどの意味ですが、Histoire(イストワール)とMeユmoires(メモワール)"は別の種類の学術誌で、イストワールには,既知の科学上のテーマを論じた作品や,アカデミーの議事録などが掲載され、メモワールは新たな研究成果を公表する場とされていました。形を見ると一冊の学術誌ですが、中味は二分されていて、頁番号も別々になっています。総称は「イストワール」。ときには「メモワール」と呼ばれることもありました。ルジャンドルの論文「不定解析研究」は1785年の「メモワール」の465-559頁に掲載されたのですが、95頁という大きな作品でした。

パリ王立科学アカデミーと学術誌「イストワール」は、後のペテルブルグやベルリンのアカデミーの範例になりました。

ルジャンドルの記号

 素数の形状理論におけるルジャンドルの工夫を説明する前に、ラグランジュの一般理論の行く手をはばんだ壁を語るルジャンドルの言葉を回想したいと思います。以下の引用文の冒頭に、「この著しく生産性の高い方法」という言葉が見られますが、これはルジャンドルが構築した一般理論を指しています。

『数の理論のエッセイ』の初版の序文より(7)
《この著しく生産性の高い方法は、式t^2+au^2の約数に適合する平方的形状と線型的形状の考察に基づいている。ここでtとuは二つの不定数であり、aは与えられた数である。しかし、遂行しなければならない事柄はまだ残されていた。すなわち、素数に当てはまる線型的形状と平方的形状の間に存在するべき関係を、一般的な仕方で確立しなければならなかったのである。なぜなら、この関係を支える原理が欠如しているために、4n+3という形の素数に対しては無数の定理を与えるラグランジュの理論は、4n+1という形の素数に関してはごくわずかの事柄をもたらすにすぎないからである。
 私が1785年度の科学アカデミー(訳註。ここではパリ王立科学アカデミーを指す)の紀要で公にした論文(註。著作『数の理論のエッセイ』の礎石になった論文「不定解析研究」を指す)は、懸案の原理を証明する手段を与えている。それに加えて、その論文には、数の学問を前進させるのに寄与すると思われるいくつかの命題が含まれている。私はその論文において、
1 ax^2+by^2=cz^2という形に帰着されたすべての二次不定方程式が解けるか否かを判定するための一定理の証明
2 二つの任意の素数の間に存在し、相互法則という名が相応しいある一般法則の証明
3 この法則の、さまざまな命題への応用。および、ラグランジュの理論を完成の域に高めて、他の同種の諸困難を克服するための、その法則の用法
を与えた。》

 ルジャンドルが論文「不定解析研究」の中で与えた三つの事柄のうち、第二番目に「相互法則」というものが挙げられていますが、これがルジャンドルのいう「懸案の原理を証明する手段」です。「相互法則という名が相応しいある一般法則」を確立し、これを梃子としてラグランジュの理論の壁を乗り越えようと企図するところに、ルジャンドルの創意がありました。

 ルジャンドルの相互法則は、フェルマが言明してオイラーがはじめて正しく証明した、あの「フェルマの小定理」に手がかりを求めて出発します。今、aは任意の整数とし、pはaを割り切ることのない奇素数とするとき、a^(p-1)をpで割ると剰余はいつでも1になります。数の合同を表すのに使われるガウスの記号を用いると、合同式
    a^(p-1)≡1 (mod p)
が成立します。これがフェルマの小定理でした。そこでa^(p-1)-1を因数分解すると、
  a^(p-1)-1= [a^((p-1)/2)-1][a^((p-1)/2)+1]
となり、これがpで割り切れるのですから、二つの因子
   a^((p-1)/2)-1 と a^((p-1)/2)+1
のうち、どちらか一方は必ずpで割り切れなければなりません。すなわち冪a^((p-1)/2)をpで割ると、剰余は+1か-1のいずれかであることになります。ここまでのところはフェルマの小定理を書き直しただけのことで、何ほどのこともありませんが、ルジャンドルはこのようにして認識された事実に着目して、aとpに依拠する記号(a/p)を、
 冪a^((p-1)/2)をpで割るときの剰余が+1のときは
    (a/p)=+1
 冪a^((p-1)/2)をpで割るときの剰余が-1のときは
    (a/p)=-1
と定めました。これが「ルジャンドルの記号」です。

素数の形状理論の続き

数学史京都会議の三日目の「オイラーの日」は、波乱含みの中、無事に終了しました。質疑応答も活発で、大いに盛り上がりました。今年はオイラーの生誕300年。来年は和算の関孝和の没後300年ですので、来年は「関孝和の日」が設定される模様です。

 オイラーの数論の話の途中で数学史会議が始まって、おもわず四方山話になってしまいましたが、素数の形状理論に立ち返り、ラグランジュの数論の話を続けたいと思います。素数の形状理論の話をはじめたばかりのころ、オイラーの論文

[E256]
「純粋数学における観察の利用の範例」

に言及し、ここに書き留められているいくつかの命題を紹介しました。再現すると次の通りです。

1. 4n+1型のあらゆる素数はa^2+b^2という形に表示される。(直角三角形の基本定理)
2. 8n+1型および8n+3型のあらゆる素数は2a^2+b^2という形に表示される。(フェルマの発見)
3. 12n+1型もしくは12n+7型の素数,言い換えると6n+1型のあらゆる素数は3a^2+b^2という形に表示される。(オイラーの発見)
4. 16n+1、5、9、13型の素数,言い換えると4n+1型のあらゆる素数は4a^2+b^2という形に表示される。(本質的に直角三角形の基本定理と同じ)
5. 20n+1、9型のあらゆる素数は5a^2+b^2という形に表示される。(オイラーの発見)
6. 24n+1、7型のあらゆる素数は6a^2+b^2という形に表示される。(オイラーの発見)
7. 28n+1、9、11、15、23、25型の素数,言い換えると14n+1、9、11型のあらゆる素数は7a^2+b^2という形に表示される。(オイラーの発見)
8. 24n+5、11型のあらゆる素数は3a^2+2b^2という形に表示される。(オイラーの発見)

 これらの命題のうち、オイラーが成功したのは一番はじめの直角三角形の基本定理の証明だけでしたが、オイラーを継承したラグランジュは他のすべての命題を証明することができました。注目に値するのはラグランジュの証明の方法です。ラグランジュは個々の命題を個別に工夫して証明したのではなく、論文「アリトメチカ研究」において非常に一般性の高い理論を作り、多くの命題を組織的に一挙に証明することを企図し、実際に成功したのですが、実に飛躍的な進展というほかはありません。ただし、ひとつだけ大きな問題が残されました。すなわち、ラグランジュの一般理論は4n+3型の素数に対しては威力を発揮するものの、4n+1型の素数を相手にするとまったく無力になってしまうのです。オイラーが挙げている諸命題のうち、4n+3型の素数に関するものは、ラグランジュの一般理論を適用するとたちまち証明されてしまいますが、4n+3型の素数に関する命題についてはそうはいきませんので、ラグランジュはひとつひとつ工夫を凝らして証明していくほかはありませんでした。
 何かしら新たな手法を編み出して一般理論の適用範囲を拡大し、4n+1型の素数に関する命題をも統一的な視点から一挙に確立したいところですが、そのような状勢をめざしたところにルジャンドルの苦心があります。この高い壁を越えるためにルジャンドルが提起したのは、「平方剰余相互法則」というアイデアでした。

津田塾大学の数学史シンポジウム

現代数学史研究会のほかにもうひとつ、(ヨーロッパの)数学史の研究会があります。それは津田塾大学の数学計算機科学研究所が、研究所の事業の一環として例年企画している「数学史シンポジウム」です。きっかけを作つたのは、現代数学史研究会と同じ杉浦先生でした。杉浦先生は東大を定年で退官された後、津田塾大学に移りましたが、これを機に、笠原乾吉先生の協力を得て、数学史シンポジウムの発足の運びとなりました。第一回目のシンポジウムが開催されたのは平成2年(1990年)の秋10月のことで、それから毎年一回、10月中に開催されました。当初は講演者が5人とか6人ということもありましたが、おいおい参加者が増え、盛況です。本年の日程は10月 27日、28日(土曜と日曜)ですが、第18回目になります。杉浦先生が満80歳、いわゆる傘寿を迎えますので、参加者一同のお祝の気持ちを込めて、杉浦先生の傘寿記念と銘打つシンポジウムになることになりました。

 現代数学史研究会はなくなりましたので、現在、活動中の数学史研究会は京都数学史研究会と津田塾大学のシンポジウムの二つだけです。おとといから始まった京都の研究会は昨日22日で二日目が終りました。和算の講演が続きましたが、デカルトやアラビア、ギリシアの数学の話もありました。今日23日は「オイラーの日」です。

現代数学史研究会

数学史を研究する場所は大学の数学科にはありませんが、数学史に関心をもつ人は数学者の中にも案外多いこともだんだん知られてくるようになりました。もう30年ほど前のことになりますが、東京大学の杉浦光夫先生が音頭取りになって、「現代数学史研究会」という会を始めました。日本数学会の学会が春と秋にあり、全国の数学関係者が集りますが、会場となる大学の一室を借りて現代数学史研究会が開催されるようになりました。杉浦先生が中心になり、毎回二人か三人程度、歴史に関心をもっているように見える数学者に講演が依頼されました。
 現代数学史と銘打たれたのは、おおむね19世紀から20世紀前半あたりを守備範囲にするというほどの意味合いでしたが、これはどうしてかというと、この時期の数学の歴史的研究が、いわゆる専門の数学史家の考察の対象からもれる傾向が見られたからです。近代のはじまりのころから、おおむね17世紀まで、せいぜい18世紀を少々というのが従来の数学史家の研究対象で、19世紀、20世紀の数学になると、わずかに基礎論が取り上げられるのみという状勢でした。ガウスに始まる整数論の流れや、アーベルやリーマンの代数関数論や、イタリア学派の代数幾何学等々、数学の実質を作る領域が歴史的研究になることはめったにありませんでした。この巨大な空白を埋めようとするところに、杉浦先生の現代数学史研究会のねらいがありました。この研究会はコンスタントに継続し、初期のころの講演記録は「現代数学のひとこま」と題されて、日本表論社の数学誌「数学セミナー」に掲載されました。毎回、多くの出席者があり、人気を博しましたが、きっかり20年続いたところで終了しました。

日本の数学史研究事情

 素数の形状理論について説明する考えで、ラグランジュの理論を語る場面にさしかかったところですが、京都数学史会議も始まりつつあることですし、このあたりで日本における数学史研究の状況を回顧するのもよいのではないかと思います。真っ先に注目しておかなければならないのは、日本の大学の数学科には数学史を専門に研究する講座がひとつもなかったという事実です。これは明治時代に帝国大学の創設が始まった当初からのことで、このために、日本の数学史家は言わば完全な個人プレーでこれまでやってきました。
 和算研究の方面はひとまず措き、西洋数学史の方面を見ると、中村幸四郎先生とか、村田全先生とか、数学史の研究者はいることはいましたが、大学や大学院で数学史を教授して、後継者を育てるという構えにはなっていませんでした。東京大学の教養学部には科学史科学哲学という大学院のコースがあり、そこには数学史もあり、数学史家もいましたが、この「科哲」(科学史科学哲学の略称)は数学の研究科ではなく、なんとなく文科系の学問の一種のような感じでした。数学者であって、しかも数学史家でもあるという人は一人もなく、数学者と数学史家が交流するということもありませんでした。
 これは日本の数学研究にとっては不幸な事態で、致命的な欠如というほかはありません。カントの全集やドストエフスキーの作品などは、新たな翻訳者が次々に現れて各種の翻訳が行われていますが、数学の古典の翻訳はきわめてまれで、ガウスの『整数論』やオイラーの『無限解析序説』のような古典中の古典でさえ、完訳がなされたのは、ようやくここ数年の出来事にすぎませんでした。このような古典はほかにも非常に多く、蛮勇をふるう勇気のある翻訳者の出現を待ち続けています。

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プロフィール

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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