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近代数論のかなめ石

 ギリシア時代の数論はユークリッドの『原論』とディオファントスの『アリトメチカ』(それと、多角数をテーマにしたもう一冊の著作)に片鱗が留められていますが、大きな流れを見れば、近代の数論は、それらのわずかな断片の回想の中から誕生しました。これをもっと具体的に見れば、フェルマの「欄外ノート」に書き留められた48個の命題こそ、近代数論の出発点だったのであり、しかもただ一個きりの礎石なのでした。フェルマには学問上の親しい友人が何人かいて、しばしば書簡を取り交わし、数学を語り合いました。ライプニッツの無限解析が誕生する前夜のことでしたから、その方面の話題ももちろんありましたが、数論もひんぱんに語られました。といっても実際には「語り合う」というのではなく、語るのはたいていフェルマの方のみでした。ディオファントスに触発されてからこのかた、数というものの性質に深遠な関心を寄せ始めたフェルマは、「欄外ノート」以降も熱心な究明を続け、おもしろい事実を発見すると、あれこれの友人に宛ててそのつど報告しました。今日、手に入るフェルマの全集は全5巻(もともと全4巻だったところに、補足の巻が1巻加わりました)で構成されていますが、おびただしい数にのぼる書簡群は全集の相当に大きな部分を占めていて、あの「欄外ノート」とともに、近代数論の黎明期の情景をありありと今に伝えています。
 現在の全5巻のフェルマ全集の編纂が完成したのは20世紀になってからのことで、1891年から1912年にかけて第一巻から第四巻までができました。それから第一次世界大戦の後、1922年になって補足の1巻が作られました。フェルマの歿年は1665年ですから、完全な全集が編纂された数学者フェルマの全貌が明るみにでるまでにおよそ250年もの歳月を要したことになります。
 ただし、この全集ほどの完成度はありませんが、フェルマの著作集はずっと早い時期に一度、編纂されたことがあります。それはフェルマの子どものサミュエルが遺した作品で、フェルマの没後15年目の1679年に刊行されました。「サミュエルのディオファントス」と合わせて、これでようやく数論のかなめ石が公になりました。ここで再びルジャンドルの言葉に耳を傾けたいと思います。

『数の理論のエッセイ』の初版の序文より(3)

《フェルマは諸々の研究を通じて新しいカルキュラス(註。 les nouveaux calculs。"calcul"は「計算」の意で、「新しい計算」といえば無限解析に出てくる計算を指します)の発見を促進させることに貢献した幾何学者たちの一人だが、数の学問の研究にも手を染めて、この学問の領域に数々の新しい道を切り開いた。フェルマのおかげで膨大な数にのぼる興味深い定理が得られたが、彼はそれらをほとんどすべて、証明を附与しないままに書き遺したのである。お互いに問題を提出しあうのが当時の時代精神というものであった。人はたいていの場合、自分の方法を隠蔽したが、そのようにしたのは、自分のためにも、所属する国家のためにも、新たな勝利を確保しておくためであった。その理由はといえば、何よりも、フランスとイギリスの幾何学者たちの間で競争が行われていたからである。そのような事情により、フェルマの証明の大部分は失われるはめになった、われわれに遺されているのはごくわずかな証明のみにすぎないが、それだけにいっそう、欠如している多くの証明が惜しまれてならないのである。》

 フェルマは数に関する多くの命題を発見し、書き留めましたが、ほとんどいつでも証明を欠いていました。まさしくそこに、数論がオイラーの登場を待ち続けた理由がありました。
 
 ルジャンドルはフェルマのことを「幾何学者」と呼んでいますが、この言葉は「数学者」と同義です。数学を学ぶ者はだれしもユークリッドの『原論』を学んだ時代でしたし、『原論』の主要なテーマは幾何学でした。それで、この古いギリシアの書物に敬意を表し、数学者を指して幾何学者と呼び掛けたという次第です。

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ディオファントス解析

 紀元前二世紀とか三世紀とか、紀元後でもせいぜい三世紀あたりまでの古いギリシアには、数学が大いに発展しましたが、ユークリッド(アレクサンドリアのユークリッド、325 BC からおよそ265 BC)、アルキメデス(シラクサのアルキメデス、紀元前287 から紀元前212まで)、アポロニウス(ペルガのアポロニウス、おおよそ紀元前262年からからおおよそ紀元前190まで)、ディオファントス(アレクサンドリアのディオファントス、およそ西暦200年からおよそ284年まで)などという人物が遺した著作は、近代のヨーロッパ世界に断片が伝わって、近代数学の礎(いしずえ)となりました。ユークリッドは幾何学を主テーマにする『原論』の著者と伝えられる、半ば伝説上の人物ですが、一辺の長さが1の正方形の対角線の長さは√2という無理数になるという認識は、ユークリッドの時代にはすでに得られていました。無理数の発見は、しばしばピタゴラス(サモスのピタゴラス、おおよそ 紀元前569年からおおよそ紀元前475まで)に帰せられます。一般に直角三角形を考えるとピタゴラスの定理が成立しますが、直角をはさむ二辺の長さがたとえ整数比を持つとしても、斜辺はそのようにはならないのが普通です。数論との関連に限っていうと、この事実認識の発見が深刻な契機となって、ディオファントスの数論が生れました。
 ディオファントスの数論というのは不定解析と呼ばれるものですが、たとえば三辺の長さが整数比をもつような直角三角形はどのようなものか、と問うのが不定解析の問題で、無理数の発見がなければ決して発生することのなかった種類の問題です。ピタゴラスの定理を踏まえると、この問題は、三つの未知量x、y、zの間の方程式
      x^2+y^2=z^2
の解を整数の範囲で求めようとする問題と同じことで、一般にこのようなタイプの問題のことを不定問題といい、不定問題を解くことを不定解析と呼びますが、そのわけはというと、ディオファントスの著作『アリトメチカ』に、この種の問題がたくさん集められていることに由来します。それで、不定解析は「ディオファントス解析」ともよく呼ばれます。こんなふうにして、はじまりのころの近代数論の実体は不定解析だったのです。

不思議な頁番号

 サミュエルのディオファントスはバシェのディオファントスと同じ大きさの大型本で、おおよそ縦が35センチ、横が20 センチです。フェルマの註釈が加わったところが数学にとって大きな意味をもつことになりましたが、そのほかにも相違点が目立ちます。冒頭の9頁には頁番号がなく、ここにはフェルマに宛てたデカルトの書簡などが出ています。続いて頁番号のある記事が第1頁から第64頁まで。その次がバシェのディオファントスの再現ですが、頁番号が独自に振られているのはバシェの本と同様で、ディオファントスの『アリトメチカ』の対訳が第1頁から第341頁まで、多角数に関する著作の対訳が第1頁から第48頁まで続きます。バシェのディオファントスの欄外に書き込まれたフェルマの註釈は、今度は活字になって該当箇所に配置され、本文の一部になりました。
 このような番号の付け方を目にしたのははじめてでしたので、びっくりしましたが、同時に非常に新鮮でもありました。ルジャンドルの著作『数論のエッセイ』にはときおりフェルマの註釈がそのまま(フェルマはラテン語で註釈を記入しましたので、ラテン語のまま)引用されていますが、参照箇所が「ディオファントスの180頁」と指示されている場合、この「ディオファントス」が「サミュエルのディオファントス」を意味しているのは明白としても、冒頭から数えて第180頁目を指しているわけではなく、ディオファントスの『アリトメチカ』の対訳の部分の第180頁のことと諒解しなければなりません。この判断が可能なのは、多角数に関する著作の対訳は48頁までしかないからですが、実際にあたってみると、第180頁の最下部から次の第181頁の上部にまで及んでいました。
もうひとつ、ルジャンドルの著作に、「ディオファントスの第16頁」に出ているフェルマの註釈を参照するようにと指示されている箇所がありますが、『アリトメチカ』の対訳部分なのか、多角数の著作の対訳部分なのか、二つの可能性があって、これだけでは判断がつきません。サミュエルのディオファントスの実物を見たところ、多角数の著作の対訳部分の第16頁であることが、即座に判明しました。文献調査はやはり実物を見るのが大事だと、あらためて肝に銘じました。

サミュエルのディオファントス

 5月8日の午後、東京大学の数理科学研究科の図書室で閲覧したのは「バシェのディオファントス」だけではなく、実はもう一冊ありました。それは「サミュエルのディオファントス」です。
 バシェのディオファントスが刊行されたのは1621年のことですが、それからしばらくの後、1630年代の後半のころのことですが(はっきり特定することはできません)、フランスの数学者ピエール・ド・フェルマがバシェのディオファントスを読み、欄外の余白の部分に数学のメモを記入するという出来事がありました。フェルマは本文に書かれている数学の記事に触発され、それならこんなことも成り立つのではないかという命題をたてて、全部で48個の数学的命題を書き留めたのです。ディオファントスの書物のテーマは数論ですから、フェルマの48個の命題もまたすべて数論に関するものでした。これをここではフェルマの「欄外ノート」と呼ぶことにしたいと思います。書き留められたのは命題の言明のみで証明はついていませんが、いくつかの命題についてはフェルマは独自の証明ももっていたようで、そんなふうに読むことのできる書き方になっています。一番有名なのは「フェルマの大定理」とか「フェルマの最後の定理」などと呼ばれる命題で、不定方程式

    x^n+y^n=z^n

は、自明な解、すなわち、たとえばx=0、y=0、z=0とかx=1、y=0、z=1とかx=0、y=1、z=1のように、見ただけですぐに見つかる当たり前の解は別にすると、もしnが(3自身も含めて)3よりも大きいなら、整数または分数の範囲では解をもたない、というのです。フェルマは1601年に生れた人ですから、「欄外ノート」を実際に書いたのは30代の後半の一時期のことでした。バシェのディオファントスは非常に大型の本で、縦が35センチ、横幅が20センチほどもあり、本文の余白も広くとられていますので、メモを書き込む余裕は十分にあります。この事実を強く実感することができるようになったのは、やはり実物を閲覧したことのおかげです。ただし精密な証明を書いたりするのは少々無理です。そこでフェルマは「フェルマの大定理」を書き込んだとき、「すばらしい証明を見つけたが、余白がせますぎるのでここには書けない」と、わざわざ書き添えました。
 フェルマの「欄外ノート」は今日では「フェルマの大定理」の名とともに広く知られていますが、フェルマ自身の手書きの書き込みの痕跡をとどめた「バシェのディオファントス」の実物は実は存在しないのですから、はたして本当に書き込みをしたのかどうか、書き込んだとして、その時期はいつころなのか、すべては憶測にすぎません。それならなぜそんな憶測が可能なのかといえば、「サミュエルのディオファントス」があるからです。
 サミュエルというのはフェルマの子どものことで、サミュエル・ド・フェルマというのがフルネームです。父フェルマの没後5年目、バシェのディオファントスの刊行後49年目の1670年、サミュエルはバシェのディオファントスを再刊したのですが、その際、そっくりそのままの複製を作ったのではなく、父フェルマの「欄外ノート」を本文中の該当箇所に挿入しました。というよりもむしろ、サミュエルは父フェルマの「欄外ノート」を後世に伝えたいと願って、バシェのディオファントスの復刊を企図したと見て間違いありません。この復刊本が「サミュエルのディオファントス」です。
 サミュエルのディオファントスはバシェのディオファントスに劣らず貴重な書物で、日本には二冊しかありません。そのうちの一冊が東大にありますので、5月8日には二種類のディオファントスを机上に並べて閲覧したという次第です。長年の念願がかない、幸せなひとときでした。東大の「サミュエルのディオファントス」に捺されている蔵書印を見ると、「大正七年三月十二日」という日付が読み取れました。

 もう一冊の「サミュエルのディオファントス」は大阪大学の数学教室の「中村文庫」がもっています。貴重書の扱いで、ゼロックスコピーは許可されませんが、出向いていけば自由に閲覧できるそうです。中村文庫というのは、中村幸四郎先生が寄贈した蔵書のコレクションで、ヨーロッパの数学の古典の実物が揃っています。中村先生は故人ですが、日本の西洋数学史研究の草分けのおひとりだった人で、貴重な書物をたくさん収集しました。その一部分は阪大ばかりではなく東大にも寄贈されましたので、東大にも「中村文庫」があります。

古書の魅力

 バシェのディオファントスは何分古い書物ですので、日本国内にはほとんど存在せず、ぼくが確認できた範囲では東京大学の大学院、数理科学研究科の図書室がもっているだけです。
 今年の連休が明けてすぐの5月8日、東京の駒場の東京大学に出かけ、数理科学研究科の図書室を訪ねました。二階の一室に、ごく少数の貴重書のみを並べた書棚があり、そこにバシェのディオファントスがありました。一階にもってきてもらい、片隅の大きな机に置いて閲覧しましたが、どの頁も古色を帯びていて、遠く古いヨーロッパ世界から、この一冊が切り取られてここまで運ばれてきたのだという感慨がありました。表紙は元のままではなく、補修されて、新しい頑丈な表紙になっていました。頁を繰るとすぐに蔵書印が目に入り、

   「東京帝國大學附屬圖書館」
   「大正八年五月十五日」

という文字が読み取れました。大正8年は西暦1919年。当時の東京大学の先生のどなたかが、どこかしら洋行先の国の古書店で見つけて購入し、持ち帰ったのだろうなどと推測されました。
 実物を実際に眺めてみると、単純な対訳書ではなく、なかなか複雑な構成をもった書物でした。冒頭に、表紙と白紙も込めて頁番号のついていない頁が13頁にわたって続き、それから頁番号が振られた記事が出て、32頁まで続きます。それから次にようやくディオファントスの『アリトメチカ』の対訳が登場し、さすがにこの書物の骨格だけあって、451頁に及びますが、この部分の頁番号は新たに第1頁からはじまります。さてそれからさらに続きがあり、ディオファントスのもうひとつの著作と伝えられる多角数に関する作品の対訳が58 頁を占めています。この部分の頁番号も独自です。フランスのウェブサイト「ガリカ」にもpdfファイルになって掲載されていて、ダウンロードして印刷もできますが、A4版の用紙に印刷すると、極端に小さな字になってしまい、大型でがっちりした感じの原書のおもむきはもうありません。実物には実物の迫力あると、強く感じ入りました。
 バシェ以降、ディオファントスの『アリトメチカ』には新たなラテン語訳があり、英語訳もフランス語訳も出ていますが、バシェの作品の味わいはまた格別で、このような書物を精読し、すみずみまで理解するというようなことは、言うは易くして行うのは非常に難い作業です。何かしら「遠いもの」を見たという感慨がありました。
 携帯カメラで写真を何枚か撮り、マイクロフィルムを作ってもらえるようお願いし、引き伸ばしたものを手に入れる道筋をつけてお別れしました。

バシェのディオファントス

 ディオファントスの著作『アリトメチカ』は元来、全13巻で構成されていたようですが、ギリシア語の原典がラテン語に翻訳されてヨーロッパ圏に伝えられたとき、現存していたのは6巻のみでした。ルジャンドルは近代数学史の流れの中で数論のはじまりのころの状勢を回顧して、こんなふうに語っています。

『数の理論のエッセイ』の初版の序文より(2)

《ディオファントスのころからヴィエトやバシェの時代にいたるまでの間、数学者たち([訳註] les math士aticiens)は数の研究を継続したとはいうものの、さほどの成功が得られたわけではないし、この学問が著しい進展を見たということもなかった。
 ヴィエトは新たに代数学の完成度を高めて、数に関するいくつもの困難な問題を解決した。バシェは『数の織り成すおもしろくて楽しいいろいろな問題』と題する著作の中で、一次不定方程式を一般的で、しかも非常に巧妙な方法を用いて解いた。ディオファントスに寄せるひとつのすぐれた註解は、この深い学識をもつ人物のたまものである。その後、このバシェの註解はフェルマの「欄外ノート」により、いっそう豊かなものになった。》


 ヴィエトはフルネームをフランソワ・ヴィエトといい、近代の代数学の形成に大きな寄与を遺した16世紀のフランスの数学者です。バシェはクロード・ガスパール・バシェ・ド・メジリアックというのがフルネームで、ヴィエトに続く世代の数学者です。数論に関心を示した人で、バシェの著作『数の織り成すおもしろくて楽しいいろいろな問題』には一次不定方程式の解法が出ています。この本は1612年に刊行されました。それから9年後の1621年になって、バシェがラテン語に翻訳したディオファントスの『アリトメチカ』が刊行されました。バシェの名を今日に伝える翻訳書ですが、ルジャンドルはこれを「ディオファントスに寄せるひとつのすぐれた註解」と呼んで言及しています。ここでは「バシェのディオファントス」と呼ぶことにしたいと思いますが、正式なタイトルは非常に長く、そのまま訳出すると、

「いまはじめてギリシア語とラテン語で刊行され,そのうえ完璧な注釈をもって解明されたアレクサンドリアのディオファントスのアリトメティカ6巻,および多角数に関する1巻」

というのです。同じ頁が左右に二分され、右側にギリシア語の原文、左側にそのラテン語訳が配置されていて、ときおりバシェ自身により註釈が附されています。バシェのディオファントスは註釈付の対訳書なのでした。

オイラーの数論

 ここまでのところで関数概念の発生の由来をめぐる物語が一段落しましたが、途中で不思議な曲線の方程式に出会いました。それは
       y=(-1)^x
という方程式で、一応「曲線」の方程式と呼んではみたものの、実際にはこの方程式で規定される「曲線」の概形を描くことはできないのですから、はたして曲線とは何なのだろうかという素朴な疑問が心に浮かび、これまでのいっさいの議論は再び振り出しにもどってしまうかのような感慨に襲われます。
 この曲線について語ろうとすると、ぼくらの歩みはおのずと複素解析のはじまりへと向かっていきますが、まだ少々準備が足りませんので後回しにして、しばらくオイラーの数論について物語ることにしたいと思います。オイラーは無限解析のおおきな建物の実質的な建設者と見るべき人物ですが、同時に数論の建設にはかりしれないほどに大きく貢献した人物でもありました。

 オイラーの次の時代のフランスの数学者ルジャンドル(1752-1833)の著作『数の理論のエッセイ』に手がかりを求めて、数論の歴史を振り返ってみたいと思います。この作品の企図はルジャンドル以前の数論を集大成し、補うべき部分を補って、数というものに関するまとまりのある理論を叙述しようとするところにありますが、必ずしも完成品とは言えず、初版、第二版、第三版と版を重ねるつど、大きな改訂が施されました。初版が刊行されたのは1798年。長い序文がついていて、数学史における数論の流れが悠然と語られています。

『数の理論のエッセイ』の初版の序文より(1)

《われわれの手元に遺されているさまざまな断片─それらの断片の若干はユークリッドに収録されている一から判断すると、古い時代の思索者たちは数の諸性質をめぐって相当に広範囲にわたる研究を行っていたように思われる。しかし彼らにはこの学問を深く研究するのに必要な二つの手立て、すなわち、記数法と代数学が欠けていた。記数法は数の表示を著しく簡易化するうえで有効に用いられる。また、代数学は諸結果を一般化する働きを示すし、しかも既知数にも未知数にも同等に適用することができるのである。それゆえ、これらの技術の発明はいずれも、数の学問の進歩に大きな影響を及ぼしたにちがいない。そうしてさらに、代数学の最古の創始者として知られるアレクサンドリアのディオファントスの作品は一筋に数に捧げられていること、および、その著作には、きわめて巧妙かつ明敏な仕方で解決されている数々の難問がおさめられていることもよく知られているところである。》

 冒頭で語られているユークリッドというのは「ユークリッドの幾何学」で知られる古代のギリシアの人ユークリッドのことですが、そのユークリッドの著作と伝えられる書物『原論』は大半が今日のいわゆる初等幾何学にあてられていますので、『幾何学原論』と呼ばれることもあります。実際にはすみずみまで初等的な幾何で占められているわけではなく、わずかではありますが、数のもつ特殊な性質が語られる場所があります。有名なところでは、「素数は無限に多く存在する」という命題が提示され、非常に簡明な証明さえ、添えられています。
 「アレクサンドリアのディオファントス」という人もギリシア人で、紀元三世紀ころの人と言われていますが、『アリトメチカ』という書物の著者という伝承があるだけで、生涯の事蹟など、具体的な事柄は何もわかりません。ルジャンドルの言う「ディオファントスの作品」は『アリトメチカ』を指し、この書物のおかげで、ディオファントスは「代数学の最古の創始者」と称されることになりました。「代数学の父」と言われることもあります。

数学の出発点

 関数の概念が数学に導入されるにいたった直接の動機は「曲線の解析的源泉」を認識することにありますが、この認識自体はオイラーの発見で、オイラーは先生のヨハン・ベルヌーイとの数学的交友を通じてこの発見に到達しました。ではありますが、実際に現れた関数の概念規定の姿はいろいろで、オイラー自身、三通りの観察を試みました。そのうちのひとつ(オイラーの第二の関数)が今日まで生き残り、他の二つは顧みられることもなくなってしまいましたが、このような歴史的経緯を振り返るとき、ぼくらがくれぐれも留意しなければならないのは、動かしえない数学的発見は「曲線には解析的源泉が存在する」という認識そのものなのであるという一事です。「解析的源泉」の表示の仕方は状勢に応じてさまざまに変りますし、提示された曲線を理解するために都合のよい関数概念をそのつど採ればよいのですから、関数概念をひとつに固定してしまうのは無意味です。解析的表示式で十分に間に合うこともありますし、方程式を通じて認識される第三の関数が便利なこともあります。「第二の関数とその導関数」の範疇に留まって変数分離型の微分方程式を解こうとすると、無用の混乱に陥ってしまうことは既述の通りです。

 以下、補足ですが、正弦、余弦、正接のような「円に由来する超越量」、それに指数と対数はいかなる意味において関数と呼ばれるのでしょうか。これらは解析的表示式を作るときの素材になる変化量ですが、それら自体が解析的表示式というわけではありません。第二、第三の関数概念の意味でなら関数と呼んでさしつかえありません。

 それと、関数概念の契機が「曲線の解析的源泉」であったことは間違いありませんが、ひとたび関数概念が抽出されてみると、「曲線の理解」を越えて、広大な適用領域が出現しました。もっともめざましい事例としてまずはじめに指を折らなければならないのは、ニュートンの力学です。オイラーはライプニッツの創始した無限解析を武器にしてニュートンの力学の解明をめざしましたが、オイラーの無限解析はライプニッツの段階の無限解析に比して格段に洗練されたものになっていました。その洗練の度合いを高める決めてになったのが関数の概念で、オイラーは十分に広く展開された関数の解析学の土台の上にニュートン力学を構築したのです。この路線はラグランジュに継承されて、解析力学という大きな果実が実りました。
 関数概念を基礎に据えて面目を一新した領域は非常に多く、数学全体を覆う勢いを示しました。しかし、そんな状勢を概観してもなお、「曲線の解析的源泉」を関数に見たオイラーの発見がすべての出発点であったことを絶えず振り返り、決して忘れてはならないと思います。

変数分離型の微分方程式

 第二の関数概念を根柢に据えると、微分方程式というのは導関数を含む何らかの方程式の意味になり、微分方程式を「解く」と言えば、その微分方程式を満たす未知の関数を求めることになります。第三の関数概念を基礎にする場合、微分方程式の解は「微分を含まない方程式」になりますが、関数とその導関数の概念から出発する以上、今度は解は必ず「関数」になるほかはないという点にくれぐれも注意しなければなりません。これは今日ではごく普通の考え方ですが、この観点を採用して微分方程式を解こうとすると、しばしば困惑せざるをえない事態に逢着します。それは、変数分離法によって微分方程式を解く場合に見られる現象です。
 一例として、
     y (dy/dx)+x=0
という微分方程式を取り上げて、これを変数分離法で解いてみましょう。この方程式では、(dy/dx)という記号は変数xの関数y=f(x)の導関数を表しているのであり、決して「dyをdxで割った商」ではありません。ところが、これをあたかも「dyをdxで割った商」であるかのように思いなすのが、変数分離法と呼ばれる解法です。dxをさながらそれ自体において意味をもつ量であるかのように見なし、方程式 y (dy/dx)+x=0にdxを乗じると、
       x dx+y dy=0
という方程式が生じます。これを積分すると、aは任意の定量として、
      ∫x dx+∫y dy=a
となり、さらに計算を進めて、
       x^2+y^2=2a
という円の方程式が得られます。
 第三の関数の範疇で微分方程式を考えるのでしたら、出発点はy (dy/dx)+x=0ではなく、当初からx dx+y dy=0なのであり、方程式x^2+y^2=2aがすなわち解なのでした。ところが、今度は解は関数なのですから、なお計算を進めてこの円の方程式を解き、
      y=√(2a-x^2)
もしくは
      y=-√(2a-x^2)
としなければなりません。こんなふうにして二つの解が見つかりますが、同じひとつの円の方程式の中から、異なる二つの関数を取り出すというのはいかにも面妖です。それと、円の場合にはy=√(2a-x^2)、y=-√(2a-x^2)と、二つの関数がxの解析的表示式になりましたが、提示された微分方程式がもっと複雑な場合、積分して生じる方程式もまたずっと複雑になって、yはxの解析的表示式にはなりえない方がむしろ普通です。そのようなときには、xの数値に対応してyの数値が確定していく様子を観念的に想像するほかはなく、いくつかの(というのは、有限個のこともあれば、無限に多いこともありますが)関数がきれぎれに認識されることになります。
 さて、本来、切り離してはならないはずのdxとdyを、変数分離法により微分方程式を解く場合には、どうして切り離してもよいのでしょうか。これが、今日の微積分につきまとう素朴で悩ましい疑問です。合理的に見える説明を与えようと苦心が払われることもありますし、合理的な根拠を欠いていることを指摘したうえで、単なる便利な解法として紹介されることもあります。

 いかにも解き難い不思議な疑問に見えますが、オイラーの三つの関数に立ち返り、第二の関数と第三の関数の相違点に着目すれば、この問題はたちまち氷解します。第三の関数はあくまでも「変化量とその微分」の世界に棲息する関数なのであり、この世界で微分方程式といえば「dxとdyの間の関係式」を意味しますし、その解は「xとyの間の関係式」になります。特に、Xはxのみの関数、Yはyのみの関数として、
       X dx+Y dy=0
という形の微分方程式を指して変数分離型といい、これを積分して方程式
     ∫X dx+∫Y dy=a (aは定量)
を作れば、解が見つかります。微分を作ることのできない変化量というのは考えませんから、微分可能性を論じる必要はなく、第三の関数はその分だけ第二の関数より狭い概念ですが、dxとdyははじめから切り離されていることと、微分方程式の解は一般に方程式になることは注目に値します。変数分離法という解法は「変化量とその微分」の範疇でごくあたりまえに適用される方法です。「第二の関数とその導関数」の世界は、「変化量とその微分」の世界に比して抽象度が高く、関数概念もはるかに広くなっていますが、一価性が要請されている分だけ、関数を考えることのできる変数xの変域はかえって狭くなってしまいます。
 この二つの世界は接触していますから、「第二の関数とその導関数」の世界で設定された微分方程式を、「変化量とその微分」の世界の微分方程式と見ることができることがあり、その場合には変数分離法が使えます。それが、「第二の関数とその導関数」の世界で変数分離法が有効になる理由です。

第二の関数の微分可能性

 関数概念の淵源を求めて数学の歴史をさかのぼっていくと、ディリクレを経て、オイラーの第二の関数に出会います。この関数概念を基準にしてオイラーの他の二つの関数概念を見ると、相違点に目が向かい、批判的な考えに誘われるのが通例なのではないかと思います。解析的表示式という第一の関数概念では、解析的表示式というものそれ自体の概念が明確ではないと、しばしば指摘されてきました。第三の関数概念では、変化量xの取る各々の値に対して、他の変化量yの(ひとつ、もしくは、いくつかの)値が対応することになりますが、この関数は第二の関数の前段階の概念のように見えますし、集合から集合への一価対応という、非常に抽象の度合いの高い今日の関数概念に比べるといかにも古色を帯びているような感じがあります。古色というのは、たとえば「変化量」というキーワードを見ると、「量」という言葉にも、「変化」という言葉にも、合せて「変化量」という言葉を作ってみても、どの一語にも何かしら特定の意味が伴っているように思われるのですが、突き詰めて考えていくとなんとなくあいまいになってしまいます。
 オイラーは変化量の概念を規定してみせましたが、だれもが明瞭に受け入れることができるとは言えませんし、オイラーの概念規定を見たそれぞれの人がそれぞれにイメージを描いていくというのが実情であろうと思います。言い換えると、万人に共通なのは「動くもの」からの連想のみにすぎず、そこに普遍性はありません。これに対し、今日の関数概念にはあいまいさはまったくなく、めいめいが自由にイメージを描く余地はありません。万人に共通の普遍性があるかのような概念規定になっていますが、それは、「意味を消す」という操作を極端に押し進めた結果として現れた情景です。具体には必ず「意味」が伴いますが、普遍もしくは抽象には「意味」がありません。「集合から集合への一価対応」という関数概念では、出発点の集合の要素はしばしば「変数」と呼ばれますが、実際には単に集合のメンバーであるというだけのことで、何かしら「変化するもの」を表しているというわけではありません。それなのに「変数」という用語が使われるのは、かつて常用されていた「変化量」という言葉の名残りです。今日の「変数」は実際には変化しないのです。
 今日の関数概念にまつわる話をもう少し続けると、ともあれ集合Aから集合Bへの一価対応
       f : A→B
から出発して、続いて集合Aと集合Bとして、実数全体の作る集合Rを採用することにすれば、一個の実変数x∈A=Rの実数値関数y=f(x)∈B=Rが現れます。この関数の微分可能性を考えるために、極限の考えを基礎にして、商
       (f(x)-f(a))/(x-a)
を作り、xがaに近づくとき(上記の通り、xは変化するわけではありませんから、「近づく」という言い方は言葉の流用にすぎず、本当は不適切です。正確には、エプシロンデルタ論法と言われる方法に依拠して、論理記号を使って記述しなければなりません)、この商の極限値が存在するならば、関数fはaにおいて微分可能であると言い、この極限値を「関数fのaにおける微分係数」と呼び、
       f'(a)
と書いたり
       (dy/dx)(a)
と書いたりします。関数fがすべてのaにおいて微分可能であれば、極限値(dy/dx)(a)がつねに確定しますから、新たな関数が得られます。それをfの導関数と呼び、
       f'(x)
とか、
       dy/dx
と表記します。このような微分可能性の定義を創案したのはコーシーですが、この定義では、dy/dxという記号はこれ自体でひとつのまとまった意味を表すのですから、かつてオイラーの時代にそうであったように、「dyをdxで割った商」を表すのではありません。
 抽象的な一価対応というだけにすぎない関数y=f(x)の微分を考えるというのいかにも革新的な試みですが、上述のようなコーシーによる微分可能性の定義の源泉はオイラーです。オイラーは無限小量を考えることに対する批判を受けて弁明し、微分dxと微分dyの比dy/dxは有限値になることがあると言い、その有限比こそが、無限解析の対象なのだと主張しましたが、コーシーはこのオイラーの弁明をいわば逆手に取り、有限比そのものを直接把握しようとしたことになります。この試みは成功し、今日でもそのまま採用されています。

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