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無限のいろいろ

 オイラーのいう「無限解析」とは「無限の世界の解析」というほどの意味の言葉であり、オイラーの目には「無限の世界(無限小と無限大の世界)」の風光がありありと映じていたにちがいありません。「有限の世界」に身を置いて「無限の世界」を眺めれば、無限小は大きさをもたない量、すなわち0でしかなく、無限大はといえば、「限りなく大きい」という、ある種の気分を示唆する言葉にすぎません。しかしオイラーの目がとらえた「無限の世界」の実相はそうではなく、無限小にも無限大にも等しく実体があり、しかもさまざまな種類の無限小と、さまざまな種類の無限大がありえます。そのありさまは、単に「数」といっても、「数」の一語にはさまざまな数(自然数、整数、有理数、無理数、虚数。それに、大きい数と小さい数)が内包されているのとよく似ています。
 今日の微積分では「無限の世界」に直接足を踏み入れることはせず、あくまでも「有限の世界」に留まりながら、間接的に「無限の世界」に近接しようとする態度を保持します。その際、近接を可能にしてくれる道筋として採用されるのは、「極限」の概念です。極限の考え方は、「限りなく大きくなる」とか、「限りなく小さくなる」とか、「(ある固定された数に向かって)限りなく近づいていく」という言い方でよく語られますが、これに厳密性の欠如を感じる場合には、ε-δ(エプシロン・デルタ)論法と呼ばれる定性的な表記法を採用します。「限りなく近づく」という動的な言い回しに非厳密性の原因を見て、形式的な論理記号のみで記述される、言わば静的な表記を採用して、あいまいな感じを極力避けようとするアイデア、今日では広く採用されていますが、淵源をたどって数学史を遡行すればおそらくコーシーあたりにたどりつくことと思われます。コーシー以後、ヴァイエルシュトラス、デデキント、カント-ルなどの手で論理上の精密化が推進されましたが、それはそれで近代数学史の興味深いひとこまです。
 関数の言葉を援用して簡単な例を挙げると、等しく「限りなく大きくなる」といっても、対数関数f(x)=log xと多項式関数g(x)=x^2と指数関数h(x)=e^x では「大きくなるなり方」に程度の違いがあり、変数xがどこまでも限りなく増大し続けるとき、これらの三つの関数が「限りなく大きくなる」度合いを比べると、この順序で序列がつきます。ということは、オイラーのように本当に「無限の世界」に移動したならば、ここに挙げた三つの関数は「無限の世界」に実在する三種類の異なる無限大数に向かって接近してくるかのような印象を受けるのではないかと思います。その印象には、今日行き渡っているような厳密さが欠如しているかのように見えますが、肝心なのはさまざまな無限大数を識別する認識の目をもつことで、数学を記述するうえで要請される論理的厳密性へのこだわりは、数学それ自体にとってはあずかり知らないことなのであり、芭蕉の俳諧の世界で「不易と流行」という場合の「流行」に相当する事柄にすぎません。

 オイラーは厳密性を欠くとはひんぱんに聞かれる評言で、「計算の達人で、厳密さはないが、天才の直観でおおむね正しい結論に到達した」などとよく言われますが、精密な事象が見えない目の持ち主の心には直観は働きません。そうかといって、オイラーはオイラーなりに厳密だったと主張するのも違うように思いますし、むしろこんなふうに諒解するべきなのではないでしょうか。すなわち、オイラーは「無限の世界」を正しく見ていたからこそ、無限解析において計算を間違わなかったのであり、オイラーの目に映じていた「無限の世界」の相を理解しようとする長い試みの中から生れたのが、今日のいわゆる「厳密な微積分」なのだった、と。

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無限の世界

 オイラーは「変化量と定量の世界」に身を置いて、今日の三角関数に相当する何物かを「円から生じる超越量」として把握しましたが、そのまた前身は何かといえば、直角三角形の観察から取り出される三角比にほかなりません。対数の概念を創案したのはジョン・ネイピア(1550- 1617)というイギリスの数学者でした。もともと簡便な計算術というだけのことにすぎなかったところ、オイラーはこれを対数量として把握し、今日では対数関数と呼ばれる超越関数と認識されています。ある同じ実体が、それを観察する視点の変換に応じてさまざまに相を変え、量になったり関数になったりするわけですから、数学という学問の対象は決して固定されているわけではありません。現に、微積分の対象は今日では「関数」ですが、オイラーの無限解析の世界では「変化量」です(定量は特別の変化量と見られています)。
 オイラーは変化量xを微分して、変化量xの微分と呼ばれる無限小変化量dxを作ります。無限小もしくは無限小の数というのは、有限の大きさをもつどのような数よりも小さい数のことで、無限小変化量といえば、絶えず無限小の値を取りながら変化する量を意味します。オイラーの言葉をそのまま写せば、「あらゆる定無限小値をその中に包摂している不確定量」が無限小変化量というものであることになります。どのような数よりも小さい無限小数といえば、固有の大きさがないのですから、必然的に0になってしまうほかはありませんが、0とは見ずに、あくまでも無限小数と呼び続けます。無限小数が0に見えるのは、視点が「有限の世界」に置かれているからで、無限小数を見るオイラーの目は、「無限小の世界」という、どこかに独自に存在する別世界にすでに移動していると考えるべきなのではないかと思います。無限小数には実在感が感じられないという批判は当然ありえますし、現に、微積分の草創期には、そのような観点からの強い批判が現れました。ですが、それなら分数や負数や虚数はどうなのでしょうか。これらの数に実在感を感じたり感じなかったりするのは個々人の素朴な感情ですが、それとは別に、数学には数学に固有の事情があって、さまざまな新奇な数を認識し、取り入れていきました。固有の事情というのは、「分数や負数や虚数を想定してはじめて十分な認識が可能になる数学的現象」が存在するというほどの意味で、そのような新しい数学的事象の発見それ自体が、数学という学問の広がりの指標です。無限小数もまたそうした新たな数の仲間と見るべきで、無限小数の認識を通じてはじめて「万能の接線法」が発見されました。
 無限小数に対して無限大数というものも考えられますが、こちらは「どのような数よりも大きい数」を指す言葉です。そのような数は「有限の世界」には存在しませんが、無限小数と同じことで、オイラーとともに「無限大の世界」の発見を承認する立場を採用したいと思います。「無限小の世界」と「無限大の世界」を合せて「無限の世界」ということにすれば、微積分は「無限の世界」の認識に支えられて成立することが諒解されて、オイラーのいう「無限解析」の一語に心から共鳴したい心情に襲われます。

 さて、変化量xの微分dx を作るには、基礎となる規則が二つあります。ひとつは変化量の和の微分を作る際に適用される規則で、
       d(x+y)=dx+dy
と表記されます。もうひとつは、変化量の積の微分の作り方を指定する規則で、
       d(xy)=y dx+x dy
と表記されます。この規則を発見したのはライプニッツですので、「ライプニッツの法則」と呼ばれています。この二つの規則に乗って、有限変化量の世界から無限小変化量の世界へと移るのが微分法の計算です。計算の規則ですから「微分法」というよりも「微分計算」と呼ぶのが真に相応しく、実際にオイラーはそうしています。

解析的表示式

 オイラーのいう変化量と定量の概念は必ずしも明快に理解されるとは言えませんが、このような概念規定へとオイラーを誘うにいたったもっとも根本的な要因は、おそらくニュートンの力学であったろうと思います。変化量と定量というのは、惑星(動く星)と恒星(動かない星)に典型例が見られるように、「動くもの」と「動かないもの」という物理的自然に見られる力学的現象から抽出された数学的概念です。ライプニッツが提示した「万能の接線法」には変化量も定量も見られないことも、注目に値する事実です。
 変化量と定量の概念規定に続いて、オイラーは関数の概念を導入します。

《ある変化量の関数というのは,その変化量といくつかの数,すなわち定量を用いて何らかの仕方で組み立てられた解析的表示式のことをいう.》

 これが、近代数学史上一番はじめに記述された関数の概念です。ここで当然のことながら問題になるのは、「解析的表示式」の一語の指し示すものは何か、ということですが、この問いに対するオイラーの答はなく、ただいくつかの具体例のみが示されています。

《それ故,もしある解析的表示式において,その表示式を構成する量は,変化量zは別にするとすべて定量であるとするなら,そのような解析的表示式はどれもzの関数である.たとえば,
     a+3 z , a z-4 z z , a z+b √(a a-z z) , c^z
などはzの関数であることになる.》

オイラーはこのように語った後にすぐ、

《それ故,ある変化量の関数はそれ自身,変化量である.》

と続けます。解析的表示式の実体の外縁が不明瞭で、明確さを欠くきらいは確かにあるとしても、不都合が起らない限り目一杯広く受け取ればいいのですから、問題になることは実際には何もなく、厳密ではないという主旨の批評はあたりません。肝心なのはむしろ関数概念の所在地を理解することで、「ある変化量の関数はそれ自身,変化量である」というオイラーの言葉にそのまま追随すれば諒解されるように、この一番はじめの関数概念は「変化量と定量の作る世界」において現れたのです。既知の変化量と定量を元手にして、次々と新たな変化量を作り出すシステムこそが、解析的表示式としての関数概念の真髄です。指数量、対数量、それに円から生じる超越量などは、既知の変化量の具体例として受けとめるべきであり、解析的表示式の概念が打ち出されてもなお依然として変化量のままなのであり、この段階ではまだ指数関数、対数関数、三角関数にはなっていないと見なければなりません。

量と関数

 今日の初等超越関数ははじめから「関数」だったのではなく、関数概念の導入とともに「関数」と呼ばれるようになったのですが、その実体は以前からすでに存在したこともまた間違いありません。オイラーの『無限解析序説』巻1の目次を見ると、

  第7章  指数量と対数量の級数表示
  第8章  円から生じる超越量

という見出しが目に留まります。初等超越関数との対応で言うと、「指数量」「対数量」は、関数概念の導入に伴ってそれぞれ指数関数、対数関数という名を与えられることになった何物かであり、いずれも超越的な量です。「円から生じる超越量」といえば、関数概念に視点を定めれば三角関数と呼ばれることになる量のことで、正弦関数(サイン)、余弦関数(コサイン)、正接関数(タンジェント)などが即座に思い浮かびます。超越量というのは「代数的ではない量」という意味の言葉ですから、これを理解するには代数的な量というものを諒解することから始めなければならないところですが、その論点はひとまず措いて上記の対比に立ち返ると、「量」から「関数」への推移が際立っています。「関数」の概念が生れる前にすでに存在し、「関数」概念が導入されて関数と呼ばれるようになったもの。それは「量」の概念です。
 『無限解析序説』の第1章「関数に関する一般的な事柄」は量の概念の導入から始まります。量に二つの種類があり、ひとつは「定量」、もうひとつは「変化量」です。オイラーは「定量」をこんなふうに規定しています。

《定量とは,一貫して同一の値を保持し続けるという性質をもつ,明確に定められた量のことをいう.》

 この概念規定を敷衍して、「定量というのは,任意の種類の数のことにほかならない」とオイラーの言葉が続きます。

《このような定量というのは,任意の種類の数のことにほかならない.なぜなら,数というものは,ひとたびある定値を獲得したなら,その同じ値を一貫して保持し続けることになるからである.定量を記号を用いて明示するほうがよいと判断される場合には,アルファベットの初めのほうの文字a, b, cなどが利用される.明確に定められた量だけしか考察されることのない通常の解析学では,アルファベットの先頭に位置するこれらの文字は既知量を表わし,末尾の文字は未知量を表わすという習わしになっている.》

 「通常の解析学」といえば、おおよそ代数学を指すと見てよいと思われますが、方程式を解く場面などを想起すれば諒解されるように、代数では未知量と既知量(という言葉をオイラーは使っていますが、今日では「量」という言葉はほぼ完全に放棄され、代って「数」という言葉が前面に出て、未知数と既知数という言葉が使用されるようになりました)の区別が重要です。しかし微積分ではこの区別に重要性はありません。本質的なのは定量と変化量の区別なのだとオイラーは続けます。

《しかし高等的な解析学(註.微積分のこと)では,この区別はそれほど重要ではない.なぜなら,通常の解析学の場合に比して,高等解析学において特に意を用いられる事柄は,[既知量と未知量の区別ではなくて]定量と考えられる量と変化量と考えられる量とを識別することだからである.》

 では「変化量」とは何かというと、オイラーによる概念規定と、それに追随する説明は次に挙げる通りです。

《変化量とは,一般にあらゆる定値をその中に包摂している不確定量,言い換えると,普遍的な性格を備えている量のことをいう.》

《あらゆる定値は数として表わされるから,あるひとつの変化量の中には,任意の種類の数がことごとくみな包摂されていることになる.すなわち「個」の概念から「種」や「属」の概念が形成されるのと同様に,変化量というのは「属」なのであり,そこにはあらゆる定量が内包されているのである.このような変化量はアルファベットの末尾の文字を使って表記される習慣になっている.》

《変化量は,それに対してある定値が割り当てられるとき,確定する.》

《それ故,変化量は無限に多くの仕方で確定可能である.なぜなら,変化量には,一般にあらゆる数を代入することが許されるからである.そうしてまた変化量という言葉の守備範囲は,あらゆる定値が変化量のところに代入されるまでは,汲み尽くされることがない.それ故,変化量というものは,正の数も負の数も,整数も分数も,有理数も非有理数も超越数も,ありとあらゆる数をその中に包摂している.そればかりか,0と虚数さえ,変化量という言葉の及ぶ範囲から除外されていないのである.》

これで数学の場に定量の概念と変化量の概念が導入されました。続いてオイラーはいよいよ「関数」の概念規定へと歩を進めます。

関数のある微積分と関数のない微積分

 微積分は現在の日本の数学教育のカリキュラムでは、通常、高校2年生ころから学びはじめるのではないかと思いますが、その場合、微積分では何を微分し、何を積分するのかと素朴に問うと、「関数」と答えます。関数の概念は微積分の根幹を作るもっとも基本的な概念とされていて、微積分を学ぶ際には、簡単な多項式(多項式が定める関数のことと諒解される関数で、多項式関数と呼ばれることもあります)から出発して、三角関数、対数関数、指数関数と進み、大学の初年級では逆三角関数へと話が及びます。多項式関数の微積分ができるようになれば、楕円、双曲線、放物線のような、古くから円錐曲線と呼ばれていた一群の曲線(円錐曲線は二次曲線とも呼ばれます)を、新たな視点(解析的な視点)から取り扱う道が開けます。「デカルトの葉」と呼ばれる三次曲線も守備範囲におさまります。ほかにもアステロイド、レムニスケート、それにカーディオイド等々。これらはみな代数曲線の仲間です。三角関数の微積分が確立されれば、サイクロイドのような超越曲線の取扱いが可能になります。指数関数の微積分が自由にできるようになれば、たとえば対数螺旋(らせん)のような、別種の超越曲線の取扱いが自在に行えるようになります。万事がこんなふうで、微積分の基本的対象はどこまでも関数なのであり、微積分の進歩というのは、関数の種類を徐々に増やしていくという方向に向かうことになります。
 三角関数、逆三角関数、指数関数、対数関数は今日では「初等超越関数」と総称されています。
 ところがロピタルの著作には関数の概念は出ていません。ということは、ライプニッツにもベルヌーイにも関数はなかったということになりますし、実際、近代数学史上、関数の概念規定の初出は、1748年に刊行されたオイラーの『無限解析序説』ということになっています。けれどもロピタルの本には「初等超越関数」は出ています。すなわち、今日の初等超越関数は当初は関数とは別の何物かだったのであり、何らかの特異な事情により、途中から衣替えをして関数になったのではないかと推定されます。
 ライプニッツの微分法の第一論文が現れたのが1684年。それから1748年まで64年。この間、無限小解析あるいは無限解析と呼ばれた当時の微積分は、何を微分して、何を積分していたのでしょうか。これは、微積分の形成史を思索するうえで、もっとも素朴で、しかももっとも根源的な問い掛けです。
 日本語の「関数」という言葉は、ラテン語のfunctio(フンクチオ)、英語ならfunction(ファンクション)に当てられた訳語で、ラテン語のfunctioならすでにライプニッ
ツに使用例がありますが、その関数にはオイラーの関数概念に通じるものは何もなく、ただ言葉のみが流用されたというのにすぎません。

「無限小解析」と「無限解析」

オイラーの膨大な作品群の中でも『無限解析序説』はとりわけ有名で、オイラーの名とともに、今日でもひんぱんに言及されています。ロピタルの『無限小解析』と合せて、ライプニッツの微積分の姿を記述するテキストは、これで二冊になりました。両者を比較してまずはじめに気がつくのは、書名に微妙な差異が認められることで、ロピタルの著作で語られているのが「無限小解析」であるのに対し、オイラーの著作では、対応する言葉が「無限解析」となっています。ライプニッツが創始した新しい解析学は、今日ではあけすけに微分積分学、略して微積分などと呼ばれるのが普通ですが、当初は少なくとも二通りの呼称があったことがわかります。どちらかというと無限小解析の方が優勢で、そのためか、日本で書かれた数学史の書物では、オイラーの著作もまた『無限小解析入門』という名で紹介されることがありました。オイラーの著作はラテン語で書かれていて、原書名は、

   Introductio in analysin infinitorum

というのです。これをそのまま訳出すると「無限の解析学への入門」となるのですから、「無限小解析」とするのは変で、どうしても「無限解析」でなければならないところです。では、「無限小」と「無限」とはどこが違うのかという問いが生れますが、オイラーの言う「無限」の一語には、「無限小」と「無限大」が二つながら統合されているのであろうと思います。実際、『無限解析序説』では「無限小」と「無限大」が同じ重要性をもって、等しく主役の位置を占めています。

 ロピタルとオイラーの二つの作品の内容に立ち入ると、両者を分かつ根本的な差異に即座に気づきます。それは「関数」の概念の有無で、ロピタルの著作には関数は現われないのに対し、オイラーの著作は関数概念の導入から説き起こされています。第一巻の目次は次の通りですが、第1章の標題は「関数に関する一般的な事柄」となっていて、冒頭にいきなり「関数」が登場していることがわかります。

   オイラー『無限解析序説』巻1の目次

   第1章  関数に関する一般的な事柄
   第2章  関数の変換
   第3章  変化量の置き換えによる関数の変換
   第4章  関数の無限級数展開
   第5章  二個またはそれ以上の個数の変化量の関数
   第6章  指数量と対数量
   第7章  指数量と対数量の級数表示
   第8章  円から生じる超越量
   第9章  三項因子の探索
   第10章 みいだされた因子を利用して無限級数の総和を確定すること
   第11章 弧と正弦の他の無限表示式
   第12章 分数関数の実展開
   第13章 回帰級数
   第14章 角の倍化と分割
   第15章 諸因子の積の展開を遂行して生じる級数
   第16章 数の分割
   第17章 回帰級数を利用して方程式の根を見つけること
   第18章 連分数

ロピタルの『無限小解析』の変遷

 ロピタル自身は特別に創意のある数学者というわけではなく、時間とお金にゆとりのある数学愛好者というほどの人物でしたが、前述の通りの経緯があり、世界最初の微積分のテキストの執筆者として、それに「ロピタルの定理」のロピタルとして、ヨーロッパの近代数学史上に不朽の名を刻むという成り行きになりました。1684年のライプニッツの第一論文からロピタルのテキストが世に出た1696年まで、この間、わずか12年。しかも実際に微積分の建設に携わったのは、ライプニッツとベルヌーイ兄弟(ヤコブとヨハン)のたった三人にすぎませんでした。この、たった三人、という事実は、数学という学問の普遍性と特殊性を思索するうえで、解き難い謎を提示しているように思います。微積分の普遍性に疑いを挟む余地はなく、現に今、300年余の後のぼくらもまた平然と微積分を学ぶことができますし、だれがどのように学ぼうとも、微積分の内容に差異が生じることはありえません。しかし、その微積分の創始者は、天分に恵まれたわずかに三人なのであり、創造の現場ではこれら三人にのみ許された特殊な数学的思索が繰り広げられたに違いありません。きわめて特殊な個人的思索の中から、時空を超越した普遍性がどうして生れてくるのでしょうか。数学の創造の現場の散策を重ねていくと、いたるところでこのような奇妙な事態に出会います。

 ロピタルのテキストの実物は日本には一冊しかなく、東京大学の教養学部の図書館が所蔵しています。そう思って複写を依頼したところ、オイラーの『代数学』と前後して入手することができました。ところが、届いた複写を観察すると、それは1696年刊行の初版ではなく、1716年に刊行された二版でもなく、刊行年は第二版の出版から半世紀後の1768年と記されていました。註釈と解説付の、まったく新しく作られた書物です。このような本があるとは、これまで知りませんでした。第二版の実物はやはり東大の教養学部の図書館がもっています。初版は日本には存在しないと思いますが、フランスのウェブサイト「ガリカ」

     http://gallica.bnf.fr/

に、全頁がpdfファイルの形で掲載されています。それと、第二版の刊行直後の1725年にヴァリニョンの解説書『無限小解析の解明』が出ていますが、ガリカにはこれも掲載されていて、自由にダウンロードすることができます。第二版の複写の入手は今後の課題です。

 ロピタルの著作を機にフランスの地に微分積分学が移植され、定着していくのとは別に、1748年、もうひとつのテキストが現れました。それはオイラーの作品で、

      『無限解析序説』

という全2巻の作品です。このときオイラーは41歳。所在地はベルリンでした。

ヨハン・ベルヌーイの講義録「微分計算」の発見

 ヨハン・ベルヌーイはある年、パリを訪れて、学問を愛好する人たちの集うパリのサロンに顔を出し、そこでロピタルと知り合いました。ヨハンの語るライプニッツ流の無限小解析に深い関心を寄せたロピタルは、ヨハンを別荘に招き、しばらく逗留してもらう構えをとり、ヨハンをいわばお抱えの家庭教師にして無限小解析を学びました。この勉強の成果をまとめて成ったのが『曲線の理解のための無限小解析』という著作で、フランス語で書かれています。わりと大きな注目を集めたようで、1696年の初版に続き、1716年には第二版が出ていますし、1725年にはヴァリニョンという人が、

『無限小解析の解明』

という解説書を出しています。それから1768年になると、新しい版が出版されましたが、それには解説と註釈が附せられています。こんなふうにロピタルの著作がきっかけになって、ライプニッツの無限小解析はフランスの地に移植され、ラグランジュ、ラプラス、ルジャンドル、フーリエ等々と続くフランスの数理科学(数学的物理学)の揺りかごになりました。この新しい学問をパリに運んだ人物が、ヨハン・ベルヌーイという、ある特定の個人であったことは忘れてはならない事実で、学問は人から人へと具体的に継承されていくことがよくわかります。
 ヨハン・ベルヌーイの方ではロピタルの著作が評判をよんでいる状勢がおもしろくなかったようですが、ロピタルに無限小解析を伝授したのがヨハンであるという事実は当時は秘匿されていて、ヨハン自身、この事実を公に語ることはせず、ただ友人たち宛の手紙の中で不平不満をもらすだけに留めました。ヨハンはロピタルからたいへんな額の、いわば口止め料を受け取っていたのです。
 バーゼル大学にヨハンの積分法の講義録が遺されていて、それを見ると微分法の講義録もあったことがうかがわれますが、その実物は長らく見つからず、ヨハンの全集にも収録されませんでした。ところが1922年になってからのこと、バーゼル大学の書庫でヨハンの講義録「微分計算」の手書きの原稿が発見されました。1691年から92年にかけて行われた微分法の講義の記録で、ラテン語で書かれています。この歴史的文書を発見したのはパウル・シャフハイトリンという人で、シャフハイトリンはこの講義録をドイツ語に翻訳し、緒言と註釈をつけ、オストワルト・クラシカーという叢書の一冊として刊行しました。第211巻。1924年刊行。33個の図もついています。この小さな書物に寄せられたパウル・シャフハイトリンによる緒言を一読すると、ヨハン・ベルヌーイとロピタルの間で起った事件のあらましがわかりますので、ここで目を通してみたいと思います。

オストワルト・クラシカー211、1924年
ヨハン・ベルヌーイ
「微分計算」
パウル・シャフハイトリンの緒言

 ヨハン・ベルヌーイは1667年から1748年まで生きた人物だが、死の数年前、「積分法に関する数学講義」という標題の論文を出版した。この論文が世に出た年はずっと後年(1742年)のことではあるが、この論文で取り上げられている話題は、1691年に出現したベルヌーイの最初の数学研究の一つである。ドイツ語に翻訳すると、この論文は、

「われわれはこれに先立つ箇所で、量の微分を作るにはどうしたらよいか、ということを見た」

という言葉とともに始まっている。先行するものが何も存在しない研究に寄せる不思議な書き出しの言葉である!この言葉に対する脚註の一つは、解明を与えようと試みている。

「著者は、先行する微分計算講義を差し止めにしなければならないと考えた。なぜなら、それはマルキ・ド・ロピタルの広く普及した本『無限小解析』に完全に包含されているからである。」

 そうこうするうちに1696年に刊行された『解析学』はマルキ・ド・ロピタルの知的所有物なのかどうか、あるいはむしろヨハン・ベルヌーイのものなのかどうかという論点をめぐって、活気のある論争が発生した。モンチュクラはベルヌーイの側に立ったが、ボスは自分の同国人のために非常にエネルギッシュに論陣を張り、カントールもまたロピタルに味方している。エネストレームはいくつかのノートにおいて、ストックホルムに保管されているベルヌーイとロピタルの往復書簡を調べて、この問題をはっきりさせようと試みた。エネストレームは一番最初のノートにおいて、ベルヌーイは『解析学』を刊行するというロピタルの意図を知っていて、それに同意していたこと、それに1697年の始めにこの著作を受け取った後にロピタルにお礼を述べていること、その際、何かしら自分に関わりのある異論を唱えているわけではないことを確認している。ロピタルの死(1704年)の後になってようやく、ベルヌーイは、『解析学』のさまざまな発見はベルヌーイの知的所有物なのだという主張を携えて、公の場に出てきた。より明確に、ベルヌーイはテイラーに宛てた公開書簡の中で、引用箇所の申し立てをしながら、『解析学』の基礎と素材は大部分、彼に由来することを説明している。結局のところ、上記の脚註はここに根拠をもつわけである。これらの公にされたあらゆる文書のどこを見ても、ロピタル自身が中傷されているところはない。その代わりベルヌーイは個人的な書簡の中で、ロピタルへの不満を成り行きのままにゆだねている。しかもロピタルの死後はじめてそうしたのではなく、エネストレームが言っているように、『解析学』の一本を受け取った直後のことなのである。1698年2月8日付のライプニッツ宛の手紙において、有名な数学者オザナムが前に一度、他の鳥の羽で身を飾ったことについて苦情を申し立てた後で、こんなふうに続けている。

 「ところでこれはおおかたのフランス人の称賛に値する習慣なのです。私にもまた(ここだけの話なのですが)マルキ・ド。ロピタルのところで似たことがありました。数年前、ロピタルはホイヘンスのところで私の研究からまんまと空虚な名声を手に入れました。私は少し後になってそれを知りました。私は喜んでそれを許しました。それも、まるで初めから知っていたかのように装ってそうしたのです。ロピタルはホイヘンスへの手紙でそう[ベルヌーイは知っていたと]書いています。ロピタルは、近ごろ『解析学』を出版したとき、私に対してそれほど誠実には振る舞いませんでした。ロピタルが序文で私に多くを負っていると告白していることは認めますが、この告白はあまりにもあいまいですし、パリの"Journal des Scavans"でこの作品を批評じた人物が、この告白をおおらかな謙虚さから生まれたものと見ているからといって、この告白がよりよいものになるわけでもありません。たとえ彼が本当に控えめな人物であるとしても、彼はエラスムス・バルトリヌスを見習うべきです。エラスムスは、彼の著作の中のすべての事柄はスクーテンの数学に学んだのだと率直に語りました。ロピタルを彼の著作の著者と見るだけの正当性はありません。なぜと申しますと、彼はほんの数頁を除いて(それらの頁については、私はあなたのお耳には入れていますが、ほかにはだれにも話していません)すべての事柄を、一部分は私に書いてもらい、一部分は私の話を口述筆記し、他の一部分は私がパリを離れた後に手紙を通じて手に入れたからのです。書簡については私のところに証拠がたくさん保管されていますが、適切な時期を見て公にできるかもしれないと考えています。あの著作の出版の前にもいろいろな友人が手紙に目を通して、相当の箇所を書き写しました。それと、わけても私は、ロピタルが私にどれほど言葉をかけたのかを示す私宛の手紙をもっています。彼の主な功績は、私が彼に一部分はラテン語で、また一部分はフランス語で乱雑に説明した事柄を整頓して、きちんとフランス語で執筆したことです。すでに申しましたように、自分自身で付け加えた部分は3頁もしくは4頁を越えません。ではありますが、私があなたの口の堅さを信頼してお伝えしたことのうちのいくらかを、あなたが彼に知らせることは望みません。さもないと、彼の私に対する友好的な態度はまちがいなく反対側にな傾いてしまうでしょうから。」

 このようなさまざまな批判を伴うベルヌーイの礼状における異議をどのように解釈したらよいのか、というエネストレームの問いに対し、私は次の事柄を持ち出したいと思う。『解析学』の緒言で、ロピタルはこう言っている。

「ところで私は、ベルヌーイ家の方々、とりわけ今ではブロニンゲンの教授である若いベルヌーイ氏の啓発に多くを負っていることを承認する。私はこれらの人たちとライプニッツ氏が発見したさまざまな事柄を無造作に使用した。それゆえ私は、彼らが彼らの意のままにすべてを自分で利用することに同意する。私としては彼らが私に対して非常に親切にしてくれることで満足したいと思う。」

 このようにほめそやして語ることにより、さしあたりベルヌーイは満足し、それから上記のような礼状を書いた。そうこうするうちに"Journal des Scavans"に『解析学』の熱狂的な賛美が出た。その記事には最後にこんなふうに書かれている。

「結局のところ、この著者は、多くの要求をしない少しばかりの年老いた人を除いてだれをも引用しようとせず、ただ単に読者に対して意図を覆い隠そうとする類いの著作家たちから遠く離れている。彼に関して言うと、彼はその緒言において、論じられたテーマについて発見を行ったすべての人々を公正に扱っている。しかもそれは、彼の書物全体のうち、それらの人々自身が彼に容認するつもりの事柄のみを自分自身に帰着させるという誠実さと節度とをもって、そうしているのである。」

 この論評の結語をロピタルの緒言に見られる対応するコメントと比較すると、ベルヌーイの名が故意に避けられた点が特に際立っている。他方、ホイヘンスの業績の論評の中で、ライプニッツや他の人々は名前を挙げて言及されているが、ベルヌーイの名は完全に欠けている。これは、自分の値打ちを確信しているヨハンを激しく傷つけたにちがいなく、そのすぐあとにライプニッツ宛の憤慨した手紙が現れたのである。ところでなぜ、秘密にしたいとか、ロピタルの反目に対する心配などという、たっての願いになるのであろうか。この時期にはヨハンとヨハンの年上の兄ヤコブとの間で、活気に満ちた学問上の論争が荒れ狂っていた。この論争は、残念ながら二人の兄弟の家族関係をも大きくそこねた。この論争はまず初めにライプチヒ学報に、それから主として"Journal des Scavans"に掲載されたが、後者の雑誌はロピタルおよび彼の交友範囲と親密な関係にあった。この論争におけるヨハンの位置は、彼の自慢話と気性の激しさによりいくぶんか信頼性がゆるがされたから、彼に責任があるにちがいなかった。

万能の接線法

ライプニッツの微分法のねらいは1684年の第一論文のタイトルに明記されている通りで、ライプニッツはいわば「万能の接線法」というべき方法を発見したことになります。この方法によれば、どのような曲線が与えられようとも、その曲線上の任意の点において自由自在に接線を引くことができます。ただし、この方法の適用にあたって根本的に重要な事柄が二つあります。ひとつは、曲線は、いわば解析的に与えられていること。言い換えると、曲線の「方程式」が明確に記述されていることです。もうひとつは、これは当たり前のことではありますが、接線が本当に存在すること、です。曲線が方程式によって与えられ、しかも接線の存在が前提にされているなら、その実在の接線を間違いなく見つけてくれるのがライプニッツの接線法です。そんな「万能の接線法」の発見の前には、個々の特殊な形状の曲線に対し、さまざまに個別の工夫を凝らして接線を引く方法が考案されていました。ただし、関与した数学者は非常に少なく、細かく状勢を観察すればいろいろな見方ができるとは思いますが、デカルトとフェルマの名を挙げればほぼ尽くされてしまいます。
 ライプニッツの発見を受けてライプニッツとベルヌーイ兄弟の間で文通が始まり、この文通を通じて今日の微分積分学の根幹が形成されました。関与した人物がわずか三人にすぎなかったという事実は、注目に値すると思います。三人で語り合う時期は10年ほど続き、ライプニッツの第一論文の発表から数えてきっかり12年後の1696年には、近代数学史上、はじめての微分法のテキストが現れました。著者は数学を愛好するフランスの貴族で、マルキ・ド・ロピタルという人です。生年は1661年ですから、 1696年には35歳。著作のタイトルは、

『曲線の理解のための無限小解析』

というもので、微分積分ではなく、「無限小解析」の一語が使われている点に注目したいところです。今日の微積分には「ロピタルの定理」という定理がありますが、この定理の初出は上記のテキストです。ではありますが、この定理はロピタルの創意に出るものではなく、実際の発見者はヨハン・ベルヌーイなのですから、「ベルヌーイの定理」と呼ぶのが本当です。ロピタルに無限小解析を教えたのはヨハン・ベルヌーイその人で、ロピタルのテキストはいわばヨハン・ベルヌーイの講義録の忠実な複写と見るべき書物なのでした。

オイラーの変分法

「オイラーの代数」のフランス語版の巻2の複写が届いた日の翌日、6月19日(火)のことになりますが、今度は変分法をテーマにしたオイラーの著作

『極大または極小の性質をもつ曲線を見つける方法』

のオリジナル版の複写が手に入りました。非常に貴重な書物ですが、東京大学の数理科学研究科の図書室が所蔵していました。日本には現物はその一冊しか存在しないのではないかと思います。1744年に刊行された作品で、オイラーの生年は1707年(今年が生誕300年になります)ですから、このときオイラーは37歳でした。等周問題や最短降下線の問題を受けて、変分法という学問の確立を企図して叙述された記念碑的な傑作です。オイラーには『力学』(全2巻、1736年刊行)という作品もあり、これは29歳のときの作品です。これらの作品の周辺に膨大な数の論文が群れ集い、やがてラグランジュに継承されて『解析力学』という作品に結実します。

オイラーの変分法や力学の基礎をなすのは、今日の微分積分学、オイラーの当時は無限解析とか無限小解析などと呼ばれた学問で、淵源をたどるとライプニッツに出会います。微分法の発見を告げるライプニッツの第一論文が世に出たのは1684年のことで、その2年前の1682年にドイツのライプチヒで創刊されたばかりの学術誌"Acta eruditorum"(学術報告)に掲載されました。その論文のタイトルは、

「分数量にも無理量にも適用される,極大と極小および接線に対する新しい方法.ならびにそれらのための特殊な計算法」

というもので、これだけでは意味を取りにくく、不思議な印象を受けますが、「接線法」の一語に着目すれば、この論文のテーマは微分法であることがわかります。続いて1686年には、同じく「学術報告」誌上に、ライプニッツの論文

「深い場所に秘められた幾何学,および不可分量と無限の解析について」

が掲載されました。これもまた不思議な響きの伴うタイトルですが、テーマは積分法で、2年前の論文と合せて、これで近代数学史の流れの中に微分積分学という学問が現れたことになります。スイスのバーゼルでライプニッツの二論文を見たベルヌーイ兄弟(兄のヤコブと弟のヨハン。ヨハンはオイラーの師匠です)は、協力してライプニッツの論文の研究を始めました。ライプニッツにも手紙を書き、ライプニッツもまた返事を書きました。この往復書簡こそ、微分積分学という学問の揺籃でした。わずかに三人の手で創造されたという点に、ヨーロッパの学問形成の性格を思索するうえで、深刻に注目するべき事柄が秘められているように思います。

ライプニッツの第一論文が公表されたとき、兄のベルヌーイは30歳、大きく年の離れた弟のベルヌーイはまだ17歳にすぎませんでした。


(追記)7月9日
その後の調査により、オイラーの作品『極大または極小の性質をもつ曲線を見つける方法』は、北陸先端科学技術大学院大学附属図書館も所蔵していることがわかりました。

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