Entries

年末の旅の予定 落ち穂拾い

 岡潔先生の評伝のためのフィールドワークの日々の回想を書き続けている途中だったのですが、年末になって急遽、高木貞治先生の故郷の岐阜県本巣市を訪ねることになったためしばらく中断し、「年末の旅の予定」という表題を掲げて本巣市訪問記を試みて13回まで進みました。訪問記といっても今回の訪問は実に単純で、タクシーと徒歩で本巣市をひとめぐりしたというだけのことだったのですが、この訪問にかこつけて高木先生のエッセイについて何事かを語るというおもむきの連載になりました。高木先生について語るべきことは非常に多く、もし可能なら評伝を書くのが望ましいのですが、一挙にそこまで進むのは無理としても、たとえば
 「『解析概論』を語る」
 「『近世数学史談』を語る」
という趣旨の評論を試みる値打ちは十分にあります。今後の課題として心に留めておきたいと思います。
 年末の旅はまだ終了せず、今も旅の途中です。年末の旅が終わって新年の日々が流れ始めましたら、「岡潔先生をめぐる人々(続)」に手をもどし、「フィールドワークの日々の回想」をもう少し書き続けることにしたいです。
スポンサーサイト

年末の旅の予定 高木先生の故郷訪問(13)一数学者の回想

 高木先生の回想記「一数学者の回想」は文藝春秋社の総合誌「文藝春秋」の1955年11月号に掲載されました。亡くなる5年前のことで、このとき高木先生は満80歳でした。このエッセイには「世界的な頭脳が語る科学の進歩と研究の自由」という副題がついていますが、これは編集部が書き添えたのでしょう。高木先生の回想録としては「回顧と展望」(昭和15年12月7日、東京帝国大学数学談話会での講演記録)と「ヒルベルト訪問記」(昭和7年)がよく知られていますが、これらはともに戦前の作品です。洋行の思い出でしたら「一数学者の回想」でも同じ話が繰り返されていますが、間に開戦と終戦がはさまっていることに起因して、根本的に異質の回想記になりました。
 終戦の年の昭和20年(1945年)4月12日の夜のことですが、東京は何度目かの大空襲を受け、東京都本郷区駒込曙町二十四番地(現在、東京都文京区本駒込)にあった高木先生の家も焼失しました。それで山梨県南都留郡谷村町(やむらまち。現在、都留市)に疎開したのですが、終戦後の9月27日、郷里の生家に移動しました。この時期の生家の所在地の住所表記は、岐阜県本巣郡一色村数屋です。昭和21年(1946年)10月1日、高木先生は再び上京し、東京都淀橋区諏訪町182(現在、東京都新宿区高田馬場一丁目)に住所を定めました。
 本郷区も淀橋区も今は存在しません。学制の変遷も複雑でしたが、地名表記の変遷を追うのもまた非常に複雑な作業です。
 焼夷弾の直撃を受けて自宅が焼け落ちたとき、高木先生は助かることは助かったのですが、身体中に火の粉をあびました。地面に転がって火の粉を消し止めたものの、眉毛と髪の毛がすっかり焦げました。書物もみな焼けてしまいました。夜が明けて避難先から焼跡にもどってみると、書物がずらりと並んだまま白い灰になっていました。あまりにきれいに焼けている様子にただ目を見張り、焦げ残った髭をなでながら立ち尽くして眺めたと高木先生は回想しています。高木先生が長い生涯を通じて書き残した大量の著作とエッセイを通じて、読む者の心情にもっとも深遠な感慨を誘う情景です。
 高木先生は数屋村の小学校から岐阜市の中学、京都の高等中学、東京の帝大を経て洋行し、ヒルベルトに学び、帰朝後は東大で教鞭を取りながら多くの本を書きました。日本の近代と歩みをともにした人生でしたが、この間に集積された大量の蔵書が一夜にして灰燼に帰してしまい、しかもそれは国運を賭した戦争のさなかに米軍の空襲を受けたためなのでした。ずらりと並んだまま白い灰になった書物の山は、そのまま日本の近代の歩みの帰結を象徴しています。
 「一数学者の回想」を読んで感銘が深いのは、満80歳の高木先生が日本への感謝を表明する場面です。「技術にせよ、学問にせよ、その必要な部分だけがあればよい、という掣肘を加えられては、絶対に進展ということはあり得ない」と高木先生は所見を述べました。「必要」という考え方はありうるかもしれないが、必要な一部分もまた他の多くの部分がなければ成り立たないし、それを理解しようとしなければまったく危険である。なぜなら「世の要求如何に関せず、研究は自由でなければならぬし、それは大きな体系を進める上にも、欠くことの出来ぬ根底なのである」から、というのです。高木先生の人生と学問を理解するうえで重要な論点と思いますので、日本に感謝する高木先生の言葉をここでそのまま引いておきたいと思います。
「その点に於て、私は日本に感謝している。自分の仕事と、世の中とのつながりは前述したところからいっても、それは緊密とは言えないし、寧ろ大多数の人々に、全然無関係である。だからといって、ある年限を劃り、その主題を課せられ、拘束されるという制度が、若し日本にあったとしたら、私は到底今日まで生き長らえなかったと思う。」
「無関係の好きなことに終始し、しかも怠惰な生活を世の片隅に営むことを、許してくれた寛容な社会に、皮肉でなしに感謝せずにはおれないのである。そしてこれからの社会制度がどう変るか、また科学がどう発展してゆくか、そんな大問題に答える能力が、いまの私にはないが、ただ、如何なる時代であれ、研究の自由ということなくて、科学というものがあり得ぬということだけは、私にも確言することが出来るのである。」
 高木先生が人生の歩みをともにした日本の近代は寛容な社会を形成したと語られていますが、終戦後10年にしてわざわざこのようなことを書き留めておこうとする心情はやはり尋常とは言えません。高木先生は「効率と必要」を過度に要請する戦後の社会の成り行きを案じ、不安を禁じえなかったのでしょう。
 今年(平成22年)は高木先生の書物が白灰に帰してから65年目になりますが、高木先生の学問を育んだ戦前の寛容さは影をひそめ、近年の日本の学問研究の姿は「ある年限を劃り、その主題を課せられ、拘束されるという制度」へと大きく傾斜しつつあるように思います。それなら「研究の自由」ということはどのように理解すればよいのでしょうか。これは難問ですが、高木先生の時代を超えてそのまま今日に通じる問いでもあります。まさしくこのような問いを提示したところにこそ、高木先生のエッセイが今日を生きる意義が認められるのではないかと思います。

続きを読む

年末の旅の予定 高木先生の故郷訪問(12)過渡期の数学

 高木先生のエッセイはさまざまな方面からテーマが採取されていますが、ぼくらの目にひときわ鮮明な印象をもって映じるのは、数学の抽象化をめぐって発言される言葉の数々です。『過渡期の数学』に収録された四つの講演のうち、冒頭の講演は「過渡期の数学」と題されていて、この表題がそのまま単行本の書名に転用されたのですが、大阪大学でこの講演が行われたのは昭和9年(1934年)11月5日。高木先生はこの時期を数学史の流れにおける過渡期と見て、
「急激に変りつつある時代を過渡期と云うならば現代も過渡期のうちでしょう」
という認識を表明しました。ここには数学を史的に観照しようとする数学史家の目が光っています。
 「現代も過渡期」と高木先生が言うときの「現代」というのは、高木先生が講演を行った当時のことで、ちょうど二つの世界大戦にはさまれた一時期を指しています。高木先生の言葉をそのまま写すと、「世界大戦の終り頃即ち1920年頃から今日まで約10年の間」のことなのですが、その現代を高木先生がどうして数学の過渡期と認識したのかというと、抽象化への傾斜が極度に際立っている趨勢に着目したからです。高木先生は「とにかく現在急激に変りつつあることは確かで、その一番主な現象は抽象化です」と言っています。
 高木先生が大学生のころ、ヨーロッパでは数の理論が盛んに試みられていましたが、高木先生はそんな趨勢を敏感に感知して、独自の理論構築を試みました。その時期の思索の痕跡は二冊の作品『新撰算術』『新式算術講義』に刻まれています。それからまた歳月が流れ、今度は抽象化の傾向が目立ってきたのですが、高木先生は数学の潮目の変化を鋭敏に察知して見逃さず、的確に指摘したのでした。しかも単に指摘するだけにとどまらず、将来を展望する次のような言葉も書き留められました。
「抽象の過程が時期に投じたのである。それが何処まで行くか分らないが兎に角それが始まりつつある。現在は変化が始まったばかり故それだけで済んでしまうものか何うか分らない。或はもっと先に進んで行くかも知れない。これに新しい動機が加って来るかも知れない。」
 数学の抽象化は次の二篇のエッセイでも考察されています。
「数学・世界・像(副題:エミー・ネーターの三回忌に)」(「科学」1937年、7巻5号、岩波書店)
「現代数学の抽象的性格について」(「科学」1950年、20巻12号、岩波書店)
 前者のエッセイ「数学・世界・像」を読み進めていくと、「過渡期は遠からず終るであろう。大掃除の最中には塵も芥も乱舞するであろうが、次に来るべき鎮静期には、清新明朗なる数学が現出することは確実であろう」という言葉に出会います。それから70年余の歳月が流れました。現在はとっくに過渡期ではなく、抽象化は数学の世界のほぼ全域を覆い尽くし、抽象的性格は今日の数学の基本的属性になっています。高木先生の言葉を借りるなら、かつての過渡期の変化は途絶えることなく先へ先へと進んでいったのですが、はたして「清新明朗なる数学」が現出したと確信をもって言うことができるのでしょうか。
 数学史の観点から見て、ここにはひとつの大きな問いが提示されているのですが、高木先生が「過渡期の数学」を指摘してからこのかた、数学者と数学史家の間でこの問いが真剣に論じられた徴候はありません。これを言い換えると、数学の過渡期をその渦中にあって指摘した高木先生のエッセイは、今日もなお生きているということでもあります。

年末の旅の予定 高木先生の故郷訪問(11) 「数学の自由性」と「わたしの好きな数学史」

 エッセイ集『数学の自由性』の成り立ちの経緯は上記の通りです。『近世数学史談』ほどの知名度はありませんが、興味深いエッセイが並び、実におもしろい本です。刊行後、今年(平成22年)で61年目になります。また、今年は高木先生の没後50年の節目の年でもあります。
 高木先生のエッセイは軽妙洒脱な味わいがあり、自由闊達な雰囲気に満たされていますが、数学という学問の姿形の本質に向けられて洞察がここかしこに現れていて、しばしばはっとさせられます。二、三の例を挙げてみますと、第1章の「数学の自由性」というタイトルは無限集合論の創始者として名高いカントールの言葉「数学の本質はその自由性にあり」から採られたのですが、高木先生は「無限とはいったい何か」という素朴な問いを立てるところから話を始めます。
 ひとくちに無限といっても、実際問題としてわれわれは有限の世界に住んでいるのですから、無限を体験することはできません。夜空に輝く星の数は無数と言いますが、肉眼で見える星の数はせいぜいのところ3000程度とのことですから、無限でも何でもない。万事がこんなふうで、われわれが感覚的に経験できるのはいつでも有限の世界だけなのですから、「無限」といっても、それは「いくらでも大きくなる」「限りなく大きくなる」というひとつの状態を想定していたのでした。高木先生はこんなふうに従来の無限の観念の姿を説明し、そのうえで言葉をあらためて、「しかし真の無限は人間の精神の中にあります」と明確に宣言しました。実に印象的な言葉であり、カントールの無限集合論の本質が簡明直裁に指摘されています。
 高木先生の言葉が続きます。自然数の全体というものを考えると、これは「本当の無限」です。カントールは無限を状態として考えるのではなく、できあがったものとして考えました。何でもないことのようですが、実は非常に型破りの考え方であり、とてもおそろしいことなのです。高木先生はこんなふうにカントールのアイデアを語りました。
 カントールの無限集合論では偶数の全体の「個数」と自然数の全体の「個数」が同じであるとか、直線上の点の「個数」と正方形内の点の「個数」が同じであるなどという不思議な現象が観察されますが、このようなことを断言するのはよほどの勇気が必要です。数学の本質はその自由性にあるのはまちがいないとして、自由とはいえ論理の束縛は受けるのですが、論理に忠実でありさえすれば、習慣や伝統など、他のあれこれを顧慮する必要はありません。そこで「自由というものの根柢には確固とした信念がいります」と、高木先生は事の本質を明快に指摘するのです。類体論の建設に腐心した経験をもつ高木先生は、集合論を創造したカントールの心情に共鳴することができたのでしょう。このような説明が随所に見られるところが、高木先生のエッセイの魅力です。
 第3章「わたしの好きな数学史」は、「私は数学史なんか知りません。それは乾燥無味なものだと思っております」という衝撃的な言葉から始まっています。高木先生が何かのおりにこのような話をしたところ、二、三の友人から、数学史を軽蔑するような発言はよくない、しかも頭ごなしに無味乾燥などと言うのは失礼だという忠告を受けたというのです。たしかに奇抜な印象があり、真意を汲みにくい発言ですが、本文を読み進んで行きますと、高木先生は数学史と数学史論を区分けしていることがわかります。高木先生の言う数学史とは「実在の数学史」であり、「理想的というか、抽象的というか、つまり架空の数学史」ではないということです。「わたしの好きな数学史は正確なる事実の記録である」という明快な言葉が書き留められていますが、これを見ると「実在の数学史」というのは著者の主観が介在しない無味乾燥なほどの事実の記録を意味しているようで、高木先生は例として「モオリツ・カントルの数学史」を挙げています。この「カントル」は集合論のカントールではなく、全4巻の大著作『数学史講義』の著者として名高い数学史家のカントールです。
 カントールの数学史には史論がないからよいというのが高木先生の考えなのですが、それなら「理想的というか、抽象的というか、つまり架空の数学史」というのは何のことかといえば、高木先生はこれを数学史論と呼んでいるのではないかと思います。高木先生の好きな数学史は無味乾燥で正確な事実の記録ですが、数学史論にも好き嫌いがあり、「わたしの好きな数学史論は面白い史論である」と述べています。
 それでしたら何をもっておもしろい数学史論というのかという疑問が生じますが、これ以上の消息はわかりません。高木先生の念頭にはおもしろい数学史論とおもしろくない数学史論の実例があったことと思われるところですが、具体的な発言はありません。歴史家のシュペングラーの著作『西洋の没落』を見ると、冒頭に数学史論が展開されていて意表をつかれるのですが、高木先生はどんなふうに思われるのか、うかがってみたいと思ったことでした。
 高木先生のいう数学史と数学史論を組み合わせると、もし「正確に蒐集された諸事実に基づいて縦横に展開された数学史論」が実現したなら、まさしくそれこそが、だれの目にもおもしろくて有益な数学史であることになりそうです。はたしてそんな数学史がありうるものか、思わず思案したものですが、ふと気がつくと高木先生の『近世数学史談』こそ、稀有な実例になっているのではないかと思い当たりました。単行本の形で昭和8年(1933年)に出版された作品で、それから77年になりますが、何度読み返しても心を惹かれる魅力があって今も読み継がれています。その秘密はどこにあるのか、高木先生本人のエッセイ「わたしの好きな数学史」に魅力の所在地を教えられたと思ったことでした。

年末の旅の予定 高木先生の故郷訪問(10)藤森良蔵と「考へ方研究社」

 高木先生が自由に書いたエッセイを一冊にまとめた書物もあります。それは
 『数学の自由性』
という本で、昭和24年(1949年)に「考へ方研究社」から刊行されました。巻頭に高木先生の手になる「序」、巻末には藤森良夫の「高木貞治先生への感激」が配置され、全部で13篇のエッセイが収録されています。
 この作品が刊行されたのは戦後間もない昭和24年のことで、冒頭の「序」にも「1949年2月28日」という日付が添えられていますが、収録されたエッセイの大部分は戦前戦中に執筆されました。どれも「考へ方研究社」から出ていた二冊の数学誌「考へ方」「高数研究」に掲載されました。「高数研究」の「高数」は「高度なレベルの数学」というほどの意味の言葉ですが、具体的には大学で教えられている程度の数学を指しているようで、実際、第一巻、第一号の表紙を見ると、誌名の真上に「高等数学入門」「大学数学解放」という文言が小さく書き添えられています。
 「考へ方研究社」というのは信州長野県出身の藤森良蔵という人が創設した出版社で、「考へ方」と「高数研究」は「考へ方研究社」が発行した雑誌です。「考へ方」は数学を中心とする総合的な受験雑誌で、読者として想定されたのは、高等学校や高等工業学校、広島と東京の高等師範学校など、上級学校への進学をめざす全国の中学生たちでした。大正6年(1917年)9月創刊と記録されています。「高数研究」のほうは数学の専門誌ですが、受験勉強の専門雑誌というわけではなく、「高等数学入門」「大学数学解放」という意欲的な印象を与える言葉に象徴されているように、大学レベルの高等数学を広く一般国民に普及することをめざしていました。創刊号は昭和11年(1936年)10月に刊行されました。
 雑誌ばかりではなく、藤森良蔵は高等数学の普及という「高数研究」と同じ考えを基礎にして、「日土大学」というものを創設しました。「日土大学」の「日土」は「日曜と土曜」の略語で、文字通り、日曜日と土曜日に開講される数学講習会です。講師として大学教授を招聘し、大学に進めない人たちを対象にして大学と同レベルの数学を講じるという公開講座ですが、発足にあたり、藤森良蔵は気象学の藤原咲平、和算研究の小倉金之助,それに高木先生たちに相談をもちかけました。高木先生はこんなふうにして藤森良蔵と出会いました。
 日土大学の第一回講習会が行われたのは昭和4年(1929年)12月21日。講師は林鶴一でした。
 『数学の自由性』の目次は次の通りです。各章の末尾には日付が添えられているものもありますが、それらもそのまま再現しておきます。

 序 
 1 数学の自由性 (日付なし)
 2 考え方のいろいろ 昭和23年(1948年)3月
 3 わたしの好きな数学史 1936/7/31
 4 彼理憤慨 1936/7/31
 5 微積の体系といったようなこと (日付なし)
 6 Newton.Euclid.幾何読本 1938/11/30
 7 日本語で数学を書く、等々 (日付なし)
 8 応用と実用 1940/8/31
 9 或る試験問題の話 1941/9/5
 10 昔と今(円周率をめぐって) 1942/8/30
 11 数学の辻説法 1943/3/23
 12 数学の実用性 1943/6/26
 13 虫干し 1944/9
 藤森良夫 高木貞治先生への感激 昭和24年(1949年)4月29日

 高木先生の「序」によると、これらの13篇のエッセイのうち、一番はじめの一篇と次の一篇は別にして、すべて昭和11年(1936年)からおよそ10年間に「高数研究」に掲載したものということです。昭和11年(1936年)といえば「高数研究」が創刊された年ですから、高木先生と「高数研究」との関わりは当初から緊密だった様子がうかがえます。
 冒頭の二篇「数学の自由性」と「考え方のいろいろ」は「考へ方」に掲載されたのですが、この二篇については多少の註釈が必要です。戦中、受験雑誌「考へ方」は「数学錬成」と改題したり、日土講習会は「日本数学錬成所」になるなど、大きな変化がありましたが、戦局の激化に伴って困難が増大し、終戦の年の昭和20年(1945年)1月には「数学錬成」も「高数研究」も発行を続けることができなくなり、日本数学錬成所も機能しなくなりました。それから終戦を待ってガリ版の「考へ方」が復活したのですが、昭和23年(1948年)4月、再び活版印刷の「考へ方」が日の目を見ました。この復活第1号の「考へ方」に高木先生が寄せたエッセイが、『数学の自由性』の第二番目のエッセイ「考え方のいろいろ」でした。
 日土大学のほうはどのようになったのかというと、単位制大学数学講座として新たに発足したのですが、高木先生は昭和23年(1948年)8月14日の講座にはじめて出講し、講演を行いました。その講演こそ、まさしく『数学の自由性』の冒頭に配置された「数学の自由性」なのでした。この記念すべきエッセイのタイトルはそのままエッセイ集の書名になりました。このあたりの消息は藤森良蔵の子どもの藤森良夫が「高木貞治先生への感激」において伝えている通りです。

年末の旅の予定 高木先生の故郷訪問(9)『数学雑談』―実数論と数学基礎論―

 ここまでのところで書名を挙げた諸著作はみな数学の専門書ですが、自由に数学を語るという体裁の作品もあります。名高いのは、
 『近世数学史談』(昭和8年(1933年)、共立社書店)
という作品ですが、これはもともと共立社書店(今日の共立出版の前身です)の「続輓近高等数学講座」(1929-1931年、全16巻)という数学講座の中で執筆されたものです。
 「続輓近高等数学講座」があるなら、その前の「輓近高等数学講座」もあってしかるべきですが、これは実際に存在し、1928年から1931年にかけて全18巻の講座が刊行されました。この講座の中で高木先生は「数学雑談」を執筆しました。講座の続きの「続輓近高等数学講座」に移ると「数学雑談」もまた続篇に移行して、高木先生は「続数学雑談」を書きました。
 「輓近高等数学講座」「続輓近高等数学講座」と二つの大きな講座が出揃いましたが、これをもとにして新修版の数学講座「新修輓近高等數學講座」(1933-1936年)が出版されました。全35巻で、第1巻は『数学雑談』(1935年)、第2巻は『近世数学史談』(1933年)にあてられました。これがこの二つの作品の初出です。「数学雑談」の続篇の「続数学雑談」は単独で刊行されたことはありませんでしたが、後年、「数学雑談」と合わせて一本にする形で出版されました。
 『数学雑談』は6個の章で構成されています。各章のタイトルは次の通りです。

 1 格子の幾何学
 2 平行線の話
 3 複素数(附.超複素数)
 4 無理数
 5 数理が躓く(?)
 6 自然数論

 第2章の「平行線の話」のテーマは非ユークリッド幾何学です。第4章「無理数」ではデデキントやカントールの実数論の話題が取り上げられていますが、『過渡期の数学』のうち「p-進数と無理数論」もそうですが、このようなエッセイを見ると、若い日の著作『新撰算術』や『新式算術講義』の執筆に傾けた情熱が、晩年にいたるまで変らずに保持されていることがわかります。
 第5章「数理が躓く(?)」は次のような7個の節で構成されています。
 1) クレタ人は「うそつき」
 2) ラッセルの謎(限定語数)
 3) リシャールの謎(有限語数)
 4) 「無限」の謎。「すべて」の謎。
 5) ラッセルの謎(その二)
 6) ブラリー-フォルチの謎
 7) 整列可能の謎
 ここで取り上げられているのは数学基礎論の諸相です。『過渡期の数学』のうち、「数学基礎論と集合論」に通じるテーマでもあります。
 第6章の「自然数論」が「続輓近高等数学講座」に掲載されたのは1931年(昭和6年)のことですが、その後、高木貞治は
 「自然数論について」(「科学」1933年,3巻9号,岩波書店)
というエッセイを書いています。末尾に昭和8年8月8日という日付が記入されています。
 実数論と基礎論は数学という構築物の根幹に触れる重要なテーマですが、高木先生は数学遊戯にもおもしろさを感じていたようで、数学遊戯に関する問題を集めて、
 『数学小景』(昭和18年(1943年)、岩波書店)
という著作を出しています。「ケーニヒスベルクの橋渡り」「ハミルトンの世界周遊戯」「地図の塗り分け」「十五の駒遊び」「魔法陣」「仕官36人の問題」などが並び、最後に出ているのが「オイラー方陣」ですが、少々間違っているところがありました。これを訂正したのが、
 「オイレル方陣について」(「科学」1944年、14巻2号、岩波書店)
というエッセイです。
 数学の勉強法を語るエッセイもあります。明治時代に東京の冨山房という書店から出ていた「学生」という月刊誌がありますが、明治43年6月1日発行の第1巻、第2号に「研究問題」という項目があり、「何うすれば数学の力を養うことが出来る乎」という副題がついています。このテーマのもとに高木先生は「問題の急所を衝け」というエッセイを寄せ、ほかにあと二人、学習院教授の吉田好九郎の「一番効力のある勉強の仕方」、東京高等師範学校教授の林鶴一の「急がずに考えて遣れ」というエッセイが掲載されています。吉田好九郎はどのような人なのかわかりませんが、林鶴一は高木先生と同じ京都の第三高等中学から帝国大学に進んだ人で、高木先生の一年先輩になる数学者です。
 「訓練上数学の価値 付数学的論理学」というエッセイは、
 『一般的教養としての數學について』(吉江琢兒, 高木貞治, 田邊元述、昭和11年、岩波書店)
という本に収録された三つの講義録のひとつです。昭和10年の末、12月26日から28日までの三日間にわたり、高等学校の数学、特に文科の数学の教授改善の目的のもと高等学校と大学予科で数学を担当する教員を文部省に集めて数学講習会が開かれました。講師は高木先生を含めて三人で、高木先生は「訓練上数学の価値 附 数学的論理学」、吉江琢兒は「高等学校文科数学教材の取扱方に就いて」、それから哲学の田邊元は「思想史的に見たる数学の発達」という題目を立てて講義を行いました。吉江琢兒は第三高等中学と帝国大学を通じて同期だった数学者で、東大の同僚でもありました。
 「数学教育偶感」というエッセイもあります。『師範大学講座数学教育、第二期、第12巻』(昭和11年、建文館)に収録された短篇で、ほかに林鶴一の「忠臣蔵の数学者」、湯川征吉の「經濟思想と數學教育」もいっしょに収録されています。
 高木先生のエッセイの世界はまことに多彩です。

年末の旅の予定 高木先生の故郷訪問(8)岩波講座「数学」と『解析概論』

 高木先生の数学の著作をもう少し挙げると、55歳のときの著作
 『代数学講義』(昭和5年(1930年)、共立社書店)
は『新撰代数学』を継承する作品です。高木先生の専門の整数論の方面では、
 『初等整数論講義』(昭和6年(1931年)、共立社書店)
 『代数的整数論』(昭和23年(1948年)、岩波書店)
という二冊の著作があります。前者は今も読み継がれている整数論の入門書ですが、これを土台として、後者の著作ではいわゆる「高木類体論」が、創始者の高木先生本人の手で概説されています。
 昭和初期のことですが、岩波書店の店主、岩波茂雄の発案で岩波講座「数学」というものが企画されたことがあります。岩波茂雄が高木先生に相談をもちかけたところ、高木先生はこれを快諾し、門下の諸先生の協力を得て実現をはかりました。第一回目の配本は昭和7年(1932年)、最終回の第30回配本は昭和10年(1935年)。『代数的整数論』はこの講座に分載した原稿を基礎にして成立した著作ですが、同じ道筋で成立したもうひとつの著作があります。それは、
 『解析概論 : 微分積分法及初等函数論』
という作品で、昭和13年(1938年)に刊行されました。高木先生の数多くの著作の中でも抜群の知名度があり、日本の大学の初年時に行われる微積分のテキストの範例になりました。
 岩波講座「数学」の分冊30冊を概観すると、「解析概論」は第5回、第7回、第9回、第11回、第13回(ここまでは昭和8年刊行)、第15回、第17回(昭和9年刊行)と続き、昭和10年刊行の第30回配本に収録された「解析概論8」をもって完結しました。『過渡期の数学』を構成する四つの講演記録のうち、第2講は「解析概論」と題されていますが、この講演が行われたのは昭和9年11月6日ですから、まさしく岩波講座「数学」の企画が進行しつつある最中(さなか)のことでした。
 高木貞治先生生誕百年記念会が編纂した『追想 高木貞治先生』(昭和61年(1986年))という本があり、高木先生のお弟子筋の方々のエッセイが集められているのですが、森繁雄の「書物は手許に」というエッセイに興味深いエピソードが書き留められています。森繁雄は編集事務のお手伝いをしていたのですが、ちょうどそのころフランスの数学者グルサの著作『解析教程』を全訳したといって、翻訳稿を岩波書店に持ち込んだ人がいたというのです。それで岩波書店では、どの程度の翻訳なのか、出版の是非を判断するため諸先生の意見をうかがってほしいと森繁雄に依頼しました。森繁雄が講座の打ち合わせの席でこの話を披露したところ、高木先生が「最早,我々の手で適切な解析の書物を作り上げる時に来ているのではないか」という趣旨の発言をしました。岩波茂雄がこれを受けて、「先生が,この気概をお持ちなのに,お若い方が学ばなければ」と言い添えたというのが、森繁雄のエッセイが伝えるエピソードです。
 おりしも岩波講座「数学」の企画が動き始めた時期にこのような出来事があったのですが、実際には高木先生本人が「我々の手で作り上げた解析の書物」を執筆するという成り行きになり、当の岩波講座に「解析概論」を連載することになりました。高木先生は、独自の解析概論を書くのだという考えを前々から持っていたことと思いますが、岩波書店に持ち込まれたグルサの著作の翻訳稿は、この決意をいよいよ実践に写すうえで何がしか背中を押すような働きを示したのではないかと思います。

年末の旅の予定 高木先生の故郷訪問(7)著作の数々

 本巣市訪問はこれで終ってしまいましたので、ブログのタイトルの「旅の予定」というのは状況に合わなくなってしまったのですが、事の成り行き上、ここはこのままにしておいて、晩年の高木先生のエッセイの話を続けたいと思います。
 高木先生は明治30年(1897年)に大学を卒業し、大学院に進み、翌明治31年(1898年)には洋行の途につきました。このとき満23歳です。それから38年という長い歳月が流れ、昭和11年(1936年)の春、満60歳で東大を退官したのですが、亡くなったのは昭和35年(1960年)ですから、退官後の人生もまた非常に長く、四半世紀に及びました。
 東大の退官については、高木先生が「明治の先生がた」というエッセイの中でおもしろいエピソードを伝えています。なんでも東大も当初は定年退職という制度は存在しなかったのだそうですが、小石川の植物園で帝大関係の会合があったとき、地球物理の田中館愛橘がテーブルスピーチを試みて、今日は満60歳の誕生日なので(ということは、田中館愛橘は1856年10月16日に生まれた人ですから、この会合が開かれたのは1916年10月16日のことになります)事務に辞表を提出したと語ったというのです。ひとつには後進に道を開くため、またひとつには老境にさしかかるにつけても学問の急激な進歩についていけなくなったからという理由が述べられたのですが、これを受けて一堂水を打ったように静まり、それからぼつぼつと反応が現れました。ある人は辞表の撤回をすすめ、またある人は辞表の却下を要請しました。そんな中で杉浦重剛が、男がいったん言い出したことをむざむざと引っ込めるものではない、本人の志を成就させてやるべきだという趣旨のことを発言しました。そのためかどうか、これ以上の消息はわかりませんが、ともあれ田中館愛橘は辞職して大学を離れました。これがきっかけになって、数年後、定年退職の内規が確定したということです。
 「明治の先生がた」は『赤門教授らくがき帖:東京大学80年』(鈴木信太郎編、昭和30年、鱒書房)という本に収録されています。
 高木先生には専門の数学の論文のほかにも多くの著作があります。エッセイもたくさん書きました。一番早い時期の作品は明治31年(1898年)に刊行された『新撰算術』(博聞館)と『新撰代数学』(同)ですが、明治31年(1898年)といえば高木先生はまだ東大の大学院に在学中で、洋行の途についたのもこの年でした。それからドイツに行き、帰国後、『新式算術講義』(明治37年(1904年)、同 )を刊行しました。これは前作『新撰算術』の改訂版と見るべき作品です。この二冊のテーマは「数とは何か」という問いに答えようとすることでしたが、デデキントやカントールやヴァイエルシュトラスなど、同時代のヨーロッパの数学者たちが盛んに論じ始めたテーマでもありました。高木先生はヨーロッパの数学の動きを敏感に察知して、しかも単に祖述するばかりではなく、独自の思索をもって応えようとしたのでした。二冊とも長く絶版でしたが、後者の『新式算術講義』は平成20年(2008年)、ちくま学芸文庫のM&Sシリーズの一冊に入り、復刊されました。
 『新撰算術』と『新式算術講義』では数学の基礎概念に寄せる強い関心が表明されましたが、この問題意識は後年まで継続し、晩年の著作
 『数学雑談』(昭和10年(1935年)、共立社書店)
や、エッセイ
自然数論について(「科学」昭和8年(1933年)、3巻9号、岩波書店)
にも継承されています。
 『数学雑談』が刊行された昭和10年(1935年)は東大在職中の最後の年にあたりますが、この年、
 『過渡期の数学』(岩波書店)
という著作が刊行されました。表紙の書名の前に「大阪帝国大学数学講演集 I」と銘打たれ、書名の下に「高木貞治述」と記され、奥付には編者が大阪帝国大学数学談話会であることが明らかにされていることからわかるように、この書物は大阪帝国大学理学部数学教室における高木先生の講演記録です。高木先生は昭和9年(1934年)11月5日(月)から8日(木)にかけて、四つの連続講義を行いました。題目は下記の通りです。
  「過渡期の数学」
  「解析概論」
  「数学基礎論と集合論」
  「p-進数と無理数論」
これらのうち、後半の二つの講演では数の概念と数学基礎論が取り上げられています。明治31年(1898年)の『新撰算術』から昭和10年(1935年)の『過渡期の数学』にいたるまで、この間、実に37年の歳月を通じ、高木先生は一貫して数学の基礎に寄せる関心を失いませんでした。

年末の旅の予定 高木先生の故郷訪問(6)数屋地区散策

 本巣駅前からどのように動いたらよいのか途方に暮れたのですが、タクシーがあるというのでひと安心。喫茶店のおばさんに呼んでもらい(どこから来たのかわかりません)、目的地として糸貫中学校を指定しました。それと、数屋地区を見物したいとも伝えました。「資料・遺品目録」によると、昭和54年(1979年)に糸貫中学の校庭に高木先生の胸像が設置されたとのことで、除幕式のすので、関係者のみなさんが像を囲んでいる写真が掲載されていたのですが、かなり年輩の運転手さんは高木先生のことは承知していたものの、胸像は知らないと言い、そんなものが糸貫中学にあったかなあとしきりに繰り返しました。
 ともあれ糸貫中学に向かうことになったのですが、途中で一色小学校の近くを通りました。ここは高木先生の母校ですから、胸像の設置場所として一番相応しいのではないかと思うのですが、なぜかそのようにはなりませんでした。
 糸貫中学の糸貫というのはかつてこの地域に存在した地名です。高木先生の生地の住所表記の変遷をたどると、一番はじめは岐阜県大野郡数屋村557番地ですが、その後,本巣郡一色村数屋,本巣郡糸貫村(いとぬきむら)数屋,本巣郡糸貫町(いとぬきちょう)数屋と推移して、最後に平成16年(2004年)のことですが、現在の本巣市が成立したとき、「一色」も「糸貫」も地名表記から消えてしまいました。わずかに小学校と中学校の校名に名残を留めているわけですが、何か事情があったのか、胸像の設置場所として選ばれたのは中学校のほうでした。
 糸貫中学に着く前に、運転手さんと語り合う中で、先に数屋の高木家を見たらどうかということになりました。運転手さんも所在地を知りませんでしたので、ところどころで車を止めて土地の人に案内を請うなどして、ようやく見つかりました。高木先生の生家そのものが保存されているわけではありませんが、同じ場所に今は高木先生の弟の御子孫が住んでいます。数屋地区の畑一面は背の低い柿の木で、聞くと富有柿ということでした。
 生地の場所を見て、それから糸貫中学校に向かいました。校門をくぐるとすぐ右手に高木先生の胸像がありました。あまりすぐに見つかりましたので、そんな像はないと言い続けていた運転手さんもあきれるほどでした。今日は塀がないが、前は塀で隠されていて見えなかったと言っていました。
 他にもうひとつ、「資料・遺品目録」に出ている資料と遺品が展示されている場所があるのですが、本巣市のホームページを閲覧すると、それは「富有柿センター」というところの二階のようでした。年末の28日のことでもありますし,今日のところはこの辺でという気分もありましたので、富有柿センター訪問は次回のお楽しみにすることにしました。それでタクシーでモレラ岐阜駅に連れていってもらい、再び樽見鉄道に乗って大垣方面に向かいました。モレラ岐阜駅には中学生が何人もいましたので、話を聞くと、大垣からモレラに遊びに来たということでした。

追記(平成22年1月13日)
本巣市のホームページを見ると、高木先生の遺品などは糸貫老人福祉センター内の「高木貞治博士記念室」に展示されている模様です。それと、同じホームページによると、本巣市には「富有柿センター」というのがあって、そこにも高木先生の業績を紹介するコーナーがあるということです。これだけでは両者の関係は不明瞭ですが、いずれ双方に足を運び、見学してきたいと思います。

年末の旅の予定 高木先生の故郷訪問(5)本巣市まで

 中学の次は高校、その次は大学ですが、このあたりの消息は第一回目に書き留めた通りです。簡単に回想すると、高木先生は明治24年(1891年)に京都の第三高等中学に入学したのですが、第三高等中学が設置されたのは明治19年(1886年)4月ですから、中学校令の公布を受けて即座に開設されたことがわかります。いくぶん興味を引かれるのは所在地のことですが、創設当初の第三高等中学校の所在地は京都ではなくて大阪で、京都に移転したのは三年後の明治22年(1889年)でした。京都に移ってから二年後に高木先生が入学したのでした。卒業は明治27年(1894年)ですが、ちょうどこの年に高校の名称が変わり、「第三高等学校」になりました。
 第三高等中学を卒業した高木先生は、同年、帝国大学に入学しました。正確に書くと、「帝国大学理科大学数学科」に入学したのですが、「帝国大学」の下にもうひとつ、「理科大学」という名前の大学が続くところにはやや奇妙な印象があります。細かく書いていくときりがないのですが、これは「理科大学」という名前の「分科大学」で、後年の「学部」です。まったくややこしい限りですが、教育制度を整える側も試行錯誤の繰り返しだったのですから、仕方がありません。
 高木先生が数屋に生まれた明治8年には故郷に小学校があり、小学校を卒えると、少々遠方になりますが、岐阜市に出れば中学校がありました。中学校から先に進もうとすると、5年前まででしたら上京して大学予備門に入るほかはなく、子規や熊楠さんのように高木先生もおそらくそうしたであろうと思われますが、実にたいへんなことであることはまちがいありません。つまり、おそるべき金額のお金がかかります。ところが高木先生の中学卒業時には京都に高等中学が設置されていましたので、進学先にそちらを選ぶことになりました。各地の高等中学はみな同格で、今日の高校のように偏差値で格差がつけられているわけではありませんでした。もっとも東京の第一高等学校だけは、大学予備門の伝統を継承しているだけに、独特のプライドがあったとも伝えられています。
 高等教育の網の目を細かく編んで全国各地の秀才を掬い取り、彼らの力を国力発展の基礎にしようとするところに、学制の整備と拡大のねらいがありました。これを高木先生たち国民ひとりひとりの側から見ると、どれほど卓抜な能力の持ち主も岐阜の農村では使い道がありませんが、東京に出れば持てる力を存分に発揮する場所が与えられるのでした。幕末の長州藩や薩摩藩などは藩内の秀才を選りすぐって欧米に派遣したものですが、明治維新後は国内の学制の整備に伴って各種の才能がこぞって東京に集まるようになりました。高木先生は数学の方面でこの役割を担っていたのでした。

 平成21年の年末12月28日、名古屋から大垣を経由して本巣市を訪ねました。大垣から樽見鉄道に乗ったのですが、どの駅で降りたらよいのかよくわからないまま漫然と切符を買いました。大垣駅を出て、途中、瑞穂市を通って本巣市に入ると「モレラ岐阜駅」という不思議な名前の駅がありました。次が糸貫駅、その次が本巣駅です。それで市の名前と同じ本巣駅で降りてみました。それまで無人駅が続きましたが、本巣駅には駅員がいました。
 駅舎の周辺を眺めると駅前商店街のようなものは何もなく、一面に広がる畑の中に家々が散在しているという感じでした。タクシーが待っているわけでもなく、バスの停留所なども目に入りませんでした。それでもなぜか喫茶店がありましたので、一杯のコーヒーを注文し、経営するおばさんに話をうかがいました。本巣市の商店街はどこにあるのですかと尋ねると、昔は会ったが今はないとのこと。それでは買い物はどうするのですかと重ねて問うと、モレラに行くということでした。モレラというのはショッピングモールの「モール」と「時代」の意の「エラ」を合成して作った言葉で、畑の真ん中に忽然と出現した巨大なショッピングセンターの名前なのでした。モレラにお客さんを集めるために作った最寄りの駅が「モレラ岐阜駅」。モレラに近づくと大きなMAleraという字が目につくのですが、モレラ岐阜駅の読み方を表示するローマ字のモレラの部分は、発音通りMORERAとなっていました。

Extra

プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
FC2ブログへようこそ!
オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

最近の記事

FC2カウンター

月別アーカイブ

最近のトラックバック

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる