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岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想105. 回想の力を借りる

 丸4年間に及ぶフィールドワークの間に22冊のノートが蓄積されました。フィールドワークはまだ完結したとは言えず、肝心の評伝もなお具体的な姿形を見せていなかったのですが、ノートはここまでで終っています。どのような形の評伝になるのか、そのそも岡先生の評伝は本当に成立するのか、この時点では確信をもって言えることは何もありませんでした。それでもノートの記述が途絶えたのはなぜかといえば、全体として何かがまとまっていく方向に向かいつつあることが自覚されていたためであろうと思います。
 蓄積された基礎文献は山をなしていました。試みに重要なものを挙げていくと、まず
  「中谷書簡集」
があります。これは総括的な名前を仮につけたのですが、内容は多岐にわたっています。ひとつの柱は、宇吉郎先生と治宇二郎さんの間で取り交わされた大量の書簡です。もうひとつの柱は岡先生と宇吉郎先生との往復書簡です。それと、岡先生にゆかりの人たちが宇吉郎先生に宛てて書き続けた書簡も重い意味をもっています。このほかにさまざまな手紙があります。
 次に、これも仮に命名しただけなのですが、
 「岡潔書簡集」
というものもあります。大きな部分を占めるのは岡先生が書いた封書やはがきの集積ですが、みちさんの手紙もありますし、岡先生と胡蘭成との間の一連の往復書簡もあります。治宇二郎さんが岡先生に宛てて書いた手紙も、少数ではありますが、何通か存在します。ただし、治宇二郎さんの手紙はむしろ「中谷書簡集」に入れるほうがよいのかもしれません。
 「中谷書簡集」と「岡潔書簡集」をひとまとめにして単に「書簡集」と呼ぶことにして、さて、すべての書簡のデジタル化という、大掛かりな作業が課せられることになります。2年か3年か、ずいぶん時間がかかりましたが、これは完了しました。
 大掛かりな作業といえば、「研究室文書」の目録を作成することも、岡先生の数学研究の様相を理解するうえで不可欠です。何度も繰り返して奈良に行き、そのつどコピーの作成に打ち込みましたので、「研究室文書」の完全なコピーを入手することができました。すべてを合わせると、ざっと1万4千枚ほどになります。このコピーの山を時系列と内容に即して配列し、目録を作ろうというのですが、一枚一枚に目を通し、ノートに記入していくと、表紙に「研究室文書目録」と記入されたノートが全部で19冊できました。そのうえで、書簡集の場合と同様に、デジタル化の作業を重ねていきました。
 「岡潔年譜」の作成はフィールドワークの当初から手がけていましたが、旅に出るとそのつど記述が細かくなり、分量が増えていきました。年譜作成に終りはなく、今も続いています。最新の年譜は第6稿で、A4半で400頁ほどになります。
 「書簡集」と「目録」と「年譜」が三大文書で、これを基礎にして評伝を書いていくという構えになりました。三大文書の作成作業が始まると旅に出る余裕は失われましたが、これもまたフィールドワークの一環です。ほかに栢木先生にいただいた大量の訪問記録があります。
それと、調査旅行がまったく途絶えたというわけではなく、たとえば平成12年の夏8月には久々に紀見村に行き、紀見峠の岡家の墓地にお参りしています。ではありますが、前半の4年間におけるように旅に出るたびに新たな発見があるというようなことにはもうならず、不確実なことを確かめたり、お世話になった人をもう一度訪ねて謝意を伝えたり、落ち穂拾いというか、補足作業という性格を帯びていました。
 評伝の本文の執筆にもいよいよ本格的に取り掛かり、平成15年(2003年)7月30日付で
  『評伝岡潔 星の章』(海鳴社)
が刊行されました。この年は岡先生の没後25年にあたります。次いで翌平成16年(2004年)には4月30日で
  『評伝岡潔 花の章』(海鳴社)
を刊行することができました。フィールドワークが始まった平成8年から数えると、平成15年までで8年、平成16年は9年目になります。それでこれを一口に称して「フィールドワーク8年」と呼ぶことにしています。
 二冊の評伝ができて一段落した恰好になりましたが、これだけではまだ完結とは言えず、もう一冊、「岡先生の晩年の交友録」を書かなければなりません。それが、平成22年が3月半ばにさしかかった今、いよいよさしせまって直面している課題です。フィールドワークの回想を試みたのもそのためで、回想の力を借りて土台を構築したいと思ったのです。
 「晩年の交友録」は本年中に書き上げて、出版したいと考えています。
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岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想104. 最後のノート

 雪の科学館で珍しい文書や資料を目にした後、もう夕方になっていましたが、京都方面に向かいました。山科で津名さんに会い、話し合い。この日は京都で一泊しました。翌17日は第三日曜日。洛西鳴滝の身余堂に行き、第19回目の「かぎろひ忌」に出席しました。文芸評論の桶谷秀昭先生に御挨拶。「日本及日本人」に書いたエッセイをほめていただきました。翌18日、帰宅しました。
 「かぎろひ忌」の次の週の週末、土曜と日曜の二日間にわたっては津田塾大学で数学史の研究会の開催が予定されていました。この研究会もこの年で10回目になります。講演もすることになっていましたし、何よりもこれで最終回とのことでしたので、10月22日の金曜日に東京方面に向かいました。途中、夕刻6時半に奈良に到着。近鉄奈良駅で岡田さんと待ち合わせて、2時間ほど話し合いました。岡田さんは奈良女子大学附属図書館の職員で、「研究室文書」を土台にして奈良女子大で設営を企画中の「岡潔文庫」の実務担当者です。津名さんの後輩でもありました。この日の会談は実りがなく、四方山話になってしまいました。その後、大阪に出て、寝台夜行列車で東京に向かいました。この碑の移動はちょっとくたびれました。
 23日の朝6時半ころ、東京着。国分寺に向かい、津田塾大学で数学史研究会に出席しました。翌24日には講演もしました。これで最後と思っていたところ、状況が好転したようで、来年も続行との報告がありました。その後もときおり「これで最後」といううわさが流れることがありましたが、昨年秋も例年通り開催されましたし、本年も順調に開催される見通しです。
 24日の夜、津田の研究会の後、荻窪でゴローさんに会いました。25日は中家訪問。中家の庭の柿の木の枝を切るなどして、それから郷里に向かいました。
 27日、郷里を発ち、東京に向かいました。この日は大阪まで。翌28日、大阪市立中央図書館に行き、明治初期中期の小学校などを調べました。10月の旅はこれで終りました。
 11月を経て年末になり、12月27日の夕方、年末年始を郷里ですごすため、またも旅行にでました。この日は大阪まで。29日、奈良行。春雨村塾で文献調査。30日、東京まで。ゴローさんに会い、ゴローさんの友人の蛭田さんを訪ねて遅くまで語り合いました。大晦日の31日、中野訪問。中先生の手書きの原稿を見せていただいて、それから夜も更けてから郷里に到着しました。
 平成12年の新年を郷里で迎え、1月6日まで逗留。6日の夕刻、郷里を発ち、埼玉県の北本まで。石水塾に小石沢さんを訪ねて新年の御挨拶を交わしました。大宮で一泊。7日は大阪まで。8日、山科行。津名さんと話し合いました。帰宅は9日の深夜になりました。
 1月15日の土曜日の午後、「風日」の新年歌会に出席するため、大阪方面に向かいました。16日、大津の義仲寺行。午後1時から義仲忌。次いで法要が営まれ、それから歌会になりました。すっかり遅くなってしまい、この日は大阪で一泊。翌17日、帰宅しました。

 フィールドワークのときに持ち歩いたノートは全部で22冊になりますが、最後の第22冊目のノートに記入されている日付を見ると、一番最後の日付は「平成12年1月8日」です。大学ノート「岡潔 フィールドワーク」はこれで終りました。平成8年の2月はじめに立ち返ると、この間、ほぼぴったり4年間の歳月が流れています。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想103.  パリの日本館

 パリの国際大学都市の日本館は岡先生と中谷兄弟が出会った場所として、岡先生の学問と人生を考えるうえで聖なる場所のひとつとなりました。雪の科学館の中谷兄弟展には、その日本館の開館時の様子を伝える基本的な資料が展示されていました。
大学都市の開設の気運が高まったのは第一次世界大戦の終結の直後からのようで、1921年にはフランス政府から28ヘクタールの土地が無償で譲渡されています。1925年7月、ドゥイッチ・ド・ラ・モルトの寄付金を得て、フランス館が建設されました。1928年、ジョン・ロックフェラーが200万ドルを寄付。このお金は中央機関管制費用として使われました。それから世界の各国が自国の会館を作りました。初期の国名を挙げると次の通りです。

フランス/カナダ/ベルギー/アルゼンチン/アメリカ/イギリス/オランダ/スウェーデン/デンマーク/スペイン/チェコスロバキア/印度支那/アルメニア/キューバ/コロンビア/ベネズエラ/ルーマニア/ブラジル/トルコ/日本

日本館の建設費用を出したのはバロン薩摩こと、薩摩治郎八という人物でした。それで、日本館は「薩摩会館」と呼ばれたりすることがありました。日本館の正式な呼称を当時の表記の通りにそのまま書くと、

 仏国立巴里大学都市第日本学生館

となります。開館日は1929年(昭和4年)5月1日。これに先立って、昭和2年10月13日に定礎式が行われました。宿泊料は朝食付で一ヶ月100フラン。15日ごとに前金で払います。昼食と夕食は大学都市内の中央食堂を利用しますが、料金は一食4フラン50サンチームもしくは5フラン。それで一ヶ月合算して700フランというのですが、これは宿泊料と食費の総額を越えています。ほかにも費用がかかったのでしょう。700フランは当時の邦貨にして約58円に相当するのだそうです。
 日本館内の学生室は総計60。各室に寝台、器具、化粧室、暖房などの設備があり、各階に浴室とシャワーがありました。ほかに大講堂、図書館、貴賓室などもありました。日本館は七階建てです。
 中谷兄弟展には「学生館開館祝賀会招待状」の実物も展示され、なかなか見ごたえのある催しでした。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想102.   雪の科学館を訪ねて

 10月に入り、16日の土曜日の朝、石川県の加賀市に出かけました。加賀市の片山津温泉郷は中谷宇吉郎、治宇二郎兄弟の故郷で、柴山潟のほとりに「中谷宇吉郎 雪の科学館」があります。フィールドワークを始めてから一度、訪問したことがありますが、今度はおりから開催中の「中谷兄弟展」を見ようというのでした。京都を経て午後、加賀温泉駅着。タクシーで「雪の科学館」に向かいました。10分程度で着きます。JRの一番近い駅は加賀温泉駅の手前の「動橋(いぶりはし)駅」なのですが、そこには普通列車しか停まりません。
 宇吉郎先生のお子さんの芙二子さんと治宇二郎さんのお子さんの法安さんの協力と、科学館独自の努力が相俟って、非常に豊富な資料が蒐集されていました。治宇二郎さんが1930年にパリで執筆した仏文の論文の別刷があり、そこに
「謹呈 兄上」
と記されていました。治宇二郎さんは洋行の前は東大理学部の人類学教室に所属していましたが、初期の東大理学部会誌が何冊も展示されていて、見ると、そこには中谷兄弟のエッセイが掲載されていました。中谷兄弟の青春の記録です。

1号 中谷宇吉郎「九谷焼」
2号 中谷治宇二郎「或る石器から」/中谷宇吉郎「赤倉」(これは詩稿です)
3号 中谷治宇二郎「石器時代の話」
6号 中谷宇吉郎「御殿の生活」
7号 中谷治宇二郎「海鳴り」

 中谷兄弟とは関係がありませんが、第1号には、中村幸四郎先生のエッセイ「旧数学教室の事」も掲載されていました。
 治宇二郎さんの一番はじめの論文は「注口土器の分類と其の地理的分布」というのですが、この論文の別刷もありました。表紙の文字を拾うと、次の通りです。

  東京帝国大学理学部
  人類学教室研究報告
   第四篇
  注口土器ノ分類ト其ノ地理的分布
   中谷治宇二郎
   昭和二年
   東京帝国大学

「跫音(あしおと)」という文芸誌の第3号もありました。これは治宇二郎さんが参加していた同人誌で、治宇二郎さんは第3号に「三人」という作品を寄せています。「中谷杜美」というペンネームが使われていました。同じく治宇二郎さんの作品「蘭学事始異聞」というのもありました。「白い家(メイゾン・ブランシュ)」という作品もあり、ここで使われているペンネームは「丘常樹」です。これは「おかつねき」と読むのだと思いますが、「丘」は岡先生の「岡」に通じます。
 片山津温泉の宣伝のためのパンフレットもあり、表紙に

  片山津温泉
  中谷杜美案
  大正九年七月
  丸中屋発行

と記されていました。丸中屋というのは中屋兄弟の母親が経営していた呉服屋です。
 パリの国際大学都市の日本館が保管している「芳名帳」の実物が展示されていて、これにはびっくりしました。神田館長のお話によると、相当のお金をかけて日本館から借りたのだとか。借りるのに30万円かかったというのですが、これは保険料とうかがったように覚えています(あいまいな記憶です)。ここに宇吉郎先生がメモを書いています。

〈1958年9月26日
1925年5月倫敦から巴里へ来た時に初めてこのCite’ Universitaireに日本学生会館が建ち、その時の第一回学生として六ヶ月を過した。当時の会館は工事中の荒野原の中の一軒家であった。最初の学生はたしか五人くらいでこの日本学生会館は極めて閑散なものであった。三十年後の今日の姿を見て感慨深いものがある。
  中谷宇吉郎〉

 宇吉郎先生が日本館に入ったのが昭和4年5月ですから、これは33年後の回想です。このフランス再訪のおり、シャモニーで購入したという紺色のベレー帽が展示されていました。シャモニーはスイスとイタリアの国境近くの町です。
 昭和4年5月末、岡先生が巴里に着いて日本館に入り、宇吉郎先生と出会いました。それから7月になって治宇二郎さんがパリに来て、やはり日本館に入りました。そのときの宇吉郎先生の日記が、雪の科学館のガラスに書き写されていました。

〈昭和4年7月17日(水) 晴
1929年
パリ
岡君(午前)五時迄起きて居て、起こしてくれる。治宇二郎来。六時四十七分、ノルド駅着也。元気にして来たので安心する。〉

「ノルド駅」というのはつまり「北駅」のことで、7月17日、宇吉郎先生は徹夜した岡先生に起こしてもらい、北駅で治宇二郎さんを出迎えたというのです。今から81年の昔の消息をわずかに伝える懐かしい記録です。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想101.  牛田地区散策

 奈良ではまたも春雨村塾に一泊し、春雨村塾が主催して行われたフランス旅行の話などをうかがいました。この旅行には広島の法安さんも同行しました。法安さんが高畑の岡家の人たちと交流したのが6月1日。それから交際が始まったのですが、春雨村塾の人たちも法安さんも一度はぜひフランスに行きたいとかねがね望んでいました。春雨村塾の人たちは岡先生の、法安さんは中谷治宇二郎さんのパリにおける足跡をそれぞれたどりたいいうのですが、この二つの足跡はおおむね一致していることでもありますし、それならいっしょに意向ということになったということでした。これを第一回目として、法安さんを含めてほぼ同じメンバーで、翌年もまたフランス行が実施されました。
 22日の夜から翌日にかけてそんな四方山話に耳を傾け、それから一日おいて24日になって帰宅しました。
 この年の秋の学会は広島大学で開催されましたので、9月26日、広島に向かいました。翌27日、岡先生が広島時代に住んでいた牛田地区を歩いてみようと思い、早稲田神社を目標にして出かけました。早稲田神社はすぐに見つかりました。それと、太田川の分流に二股川というのがあるということでしたので、探してみたのですが、暗渠になっていて、川の流れを見ることはできませんでした。牛田神社の裏手の山は牛田山の斜面の一部になっていますが、文献上の情報によればそのあたり一帯は笹原になっているということでした。それで少時、散策したところ、たしかに笹原らしい面影は遺されていました。岡先生がこのあたりに住んでいたのは昭和10年から昭和13年にかけてのことでしたから、平成11年の時点ですでに、ざっと60年の昔のことになります。少しくらい風景が変容しても当然のことかもしれません。
 牛田地区散策の後、広島駅前の法安さんを訪ねました。しばらく歓談。夜、「数学セミナー」の編集部の西川さんに会い、本の出版について話し合いました。
 28日、広島大学の数学界の会場に向かい、最後の現代数学史研究会に出席しました。午前中の講演は倉田令二朗先生。午後は永田先生の「1950年代の京都の数学教室の思い出」という講演がありました。名前の出た諸先生を挙げると、松本敏三、蟹谷乗養、秋月康夫、小堀憲、伊藤清などなど、何とはなしに岡先生とゆかりのありそうな人ばかりでした(伊藤先生は岡先生とは御縁がなかったかもしれません)。最後に創設者で代表でもある杉浦先生の挨拶があり、現代数学史研究会はこれで終焉しました。
 この日、広島から呉に向かいました。呉で一泊。
 29日、呉からフェリーで江田島に向かい、旧海軍兵学校を見学しました。帰途、直接、広島に向かい、それから帰路につきました。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想100. たび重なる奈良行

 岡先生の痕跡を尋ねていろいろな文書を見ていく中で、山田組の跡地の場所まで判明したのは意外な収穫でした。しかもその山田組はつい前年まで存在したというのですから、感慨もひとしおでした。山田組の関係者、すなわち山田又吉さんの縁続きの人も必ずいるに違いありませんし、いつかお会いしたいと強く思ったことでした。このような大小の感慨を積み重ねていって、いつか中先生の評伝を書きたいと念願しているのですが、この道は遠く、到達地点は依然として見えません。
 山田組の跡地の知覚に徳成寺というお寺がありました。あまり近いので、あるいはここが山田家の菩提寺かと思ったのですが、後日、判明したところによると、これは勘違いでした。それでも当初は勘違いとは思いませんでしたので、徳成寺を訪ね、山田さんの親戚筋を教えていただけないでしょうかと、来意を伝えました。
 岡先生のことにもどりますと、これはどのような文献を見たのか、ノートにも明記されていないのですが東区島町二丁目の「地番=20」に生駒藤一郎という人の名前が出ていました。確か、明治30年代の住所録か何かを見たのだと思います。岡先生の父祖の地は紀見峠ですが、父の寛治さんの仕事の都合もあって生地は大阪で、当時の住所表記は「島町二丁目二十番屋敷」です。その場所に生駒さんの名前があったのですが、しかもその生駒さんの住所はどうもここではなく、「石町二丁目」となっていました。そうしますと、個々から先は憶測にすぎないのですが、岡先生の御両親は生駒さんの持ち家を借りていたということなのでしょうか。
 山田組の跡地を訪ねた後、奈良に向かいました。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想99.  大阪市立中央図書館での新発見

 8月21日に郷里を発ち、この日のうちに大阪まで行きました。翌22日、大阪市立中央図書館で調査。古い新聞などを閲覧したのですが、たまたま中勘助先生の詩一篇が見つかりました。昭和16年12月26日の朝日新聞に掲載されていたのですが、「大東亜戦争」という作品です。「見よ/世界は擾亂(じょうらん)し/世界は震動す」と歌い出され、「天皇陛下万歳/大日本帝国万歳」と歌い治められるのですが、この詩は中先生の全集にも収録されていません。この発見には少々びっくりて、まだほかにも全集からもれている作品があるかもしれないと思ったことでした。昭和16年の12月末ですから、ハワイ海戦の直後のことでもあり、中先生のほかにも何人もの詩人やか歌人、俳人が作品を寄せていました。三好達治の詩「九つの真珠のみ名」も新聞に出ていました。美しい作品ですが、戦後、三好達治は戦中の作品をことごとくみな隠蔽したことで知られています。
 明治35年12月20日の発行日をもつ古い地図がありました。「大阪市街全図」というのですが、参照すると、東区壺屋町二丁目に「仏照寺」というお寺がありました。壺屋町というのは岡先生が幼年の一時期をすごした場所なのですが、後年、岡先生はこの時期を回想して、近くに「聖天寺」というお寺があったと書いています。実際に壺屋町の界隈を歩いてもお寺は見あたりませんので、長らく研究課題になっていたのですが、この古地図を見て、どうやら聖天寺というのは何かの間違いで、正しくは「仏照寺」だろうという考えに傾きました。
 大正15年6月1日現在の「大阪電話番号簿」というのもありましたので、試みにページを繰ると、「東、内久宝寺、三ノ一」すなわち「東区内久宝寺町三丁目一番地」に「山田又兵衛」という人の名前がありました。職業は「建築請負業」。この人は中先生の親友の山田又吉さんの父親で、家業は宮大工です。同じ内久宝寺町三丁目には「山田組」がありました。
 この発見に心を動かされ、内久宝寺町三丁目の界隈を歩いてみました。山田組があったと思われる場所に到達したものの、山田組らしいものは見あたりません。近所の人にそれとなく尋ねると、山田組は昨年4月に自己破産したとのこと。跡地は更地になったというのでした。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想98. 二回目の石井式漢字教室講習会

 奈良からもどって6月がすぎ、7月も末に向かうころ、昨年に続いて漢字教育の石井勳先生の講習会に出席する機会がありました。正確には「漢字教育指導者講習会」といい、昨年は初級コース、今度は上級コースです。どうしたわけか正確な日にちの記録が見あたらないのですが、ノート「岡潔フィールドワーク」の第20冊目を見ると7月23日の講習会の記録が書き留められています。二日間に渡って行われたのは間違いなく、初日の夕刻、懇親会の席で石井先生と親しく言葉を交わしたことはよく覚えていますから、講習会は7月23日と24日に開催されたのでしょう。
 初日の懇親会の席で、所用があって翌日の二日目の講習会には出席できないことを伝え、上級コースの履修証書をいただけないのが残念ですと申し上げたところ、先生は、肝心なことは今日話したから問題ありません、履修証書を出します、と承認してくれました。その言葉の通り、後日、履修証書が届きました。初日の講習会では、戦後まもないころの漢字制限の経緯に触れて、当用漢字、教育漢字、教育漢字別表の制定課程が解説されました。石井式の漢字教育については、漢字を使ってみせれば子どもは自然に覚えるということ、漢字を教えるのではなく、漢字で教えるのだということが指摘され、石井式は漢字を教える教育ではないことが強調されました。
 7月27日は大分行の日でした。春先に続いて大分大学で集中講義を行うためで、28日から31日まで四日間の日程でした。
 集中講義が終ると、翌8月1日には国文研の夏期合宿が始まりますので、昨年に続いて参加しました。8月1日が初日で、午後3時から開会式。それでお昼ころにはみな会場に集ってくるのですが、この年の会場は静岡の御殿場の青年の家(国立中央青少年交流の家)でした。遠いので弱りましたが、大分からもどってすぐに深夜の特急寝台車に乗りました。午前9時半ころ、新大阪着。それから新幹線「ひかり」で名古屋まで。名古屋から「こだま」に乗り換えて三島まで。三島から沼津を経て御殿場に行き、タクシーで青年の家に向かったのですが、到着したのは午後4時の少し前で、開会式の終了直後でした。
 8月5日、四泊五日の合宿終了。最終日の5日の夜の事後合宿にも参加して、翌6日、帰路に着きましたが、少々思うところがあって、御殿場、沼津を経て静岡に向かいました。静岡市の郊外の服織の中勘助記念文学館を見るための静岡行で、館長の前田さんと話をしました。近辺を少し歩いているうちに次第に天候がくずれ、まもなく雨になりました。
 静岡駅にもどった後、時間にあまり余裕がなかったのと、それに地理に不安内だったこともあり、タクシーで移動して「こころの医療センター」を見ました。名称から受ける印象は温和ですが、県立の精神病院です。このごろは名称が必ずしも実体を表さないような工夫が凝らされる傾向が目立ちますが、これもそんな事例のひとつで、日本のあちこちに同名の「こころの医療センター」があります。
 昭和13年に岡先生が静岡で入院した病院は「静岡脳病院」でした。その後身が「静岡県立こころの医療センター」と思ったのですが、これは間違いでした。最近、教えていただいたのですが、かつて存在した静岡脳病院は私立病院だったようでした。
 静岡から名古屋を経て帰路につきましたが、12日、休む間もなく郷里に向かいました。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想97. 法安さんの奈良訪問

 5月12日に三高資料室を訪ねた後、すっかり遅くなりましたがともあれその日のうちに帰路につき、月末31日になってまたも奈良に向かいました。こうして回想するとひとつの旅の直後にすぐまた旅が接続し、まったく切れ目のないありさまです。旅に出れば必ず発見があり、評伝の構想も大きく変遷します。全体をどのように組み立てたらよいのか、連日案じていたのですが、ひとつの事実が明らかになれば構想も変容し、次にまた新発見があれば、構想もまた代ります。こんなふうではいつになったら評伝ができあがるのか、この時期にはまったく見通しがたちませんでした。発見には感動が伴いますし、旅の興味は尽きないのですが、他方、平成8年に始まったフィールドワークも四年目に入っています。当初の予測をはるかに越えてなかなか収拾のつきそうにない状況に鑑みて、何と言うか、そろそろ大団円の情景を心に描かなければならないのではないかとも思い始めました。
 5月31日は大阪まで。翌6月1日、奈良に向かい、お昼前の11時半ころ、猿沢池のほとりのホテルで法安さんと待ち合わせました。法安さんは岡先生の親友の中谷治宇二郎さんのお子さんです。広島にお住まいで、平成8年の夏、広島ではじめてお目にかかり、その後もおつきあいが続きました。岡先生のお子さんたちとは交友がないのですが、ぜひ一度、御挨拶にうかがいたいとの御意向を受けて段取りをつけ、この日、岡先生の三人のお子さんを訪問することになりました。
 午後1時をめどに春雨村塾こと松原家に向かうと、三人のお子さんが待っていました。松原家の二階でしばらく歓談し、写真を撮ったりした後、一階に降りて夕食。岡先生と中谷治宇二郎さんのそれぞれのお子さんたちがこうして一堂に会し、親しく語り合う情景を目の当たりにして、感銘がありました。
 法安さんは夜9時すぎにホテルにもどり、ぼくは春雨村塾でコピーに取り掛かりました。それから岡先生の自筆資料の寄贈問題についての話をうかがいました。寄贈先は奈良女子大学で、平成11年に開学90年の節目の年を迎えるというので記念事業の企画が進められていたのですが、有力な企画のひとつがインターネット上の資料館「岡潔文庫」の創設でした。そのための基礎となるのは「研究室文書」ですので、大学から岡家に寄贈の申し入れがあり、岡家ではこれを受けることになりました。「研究室文書」は長年にわたって研究室に保管されてきたのですが、いつまでもそのままにしておくわけにもいきませんし、そうかといって処分することもできませんから、岡家でも困っていたのでした。この寄贈の件は前年の秋ころに話がまとまり、いよいよ6月3日に大学で寄贈式が行われ、それからほどなくして、正確には6月30日のことになりますが、「研究室文書」は大学に運ばれていきました。
 6月2日、起床してコピーを続けようとしたところ、気分が悪くなり、中断を余儀なくされました。お昼ころ、河野さん来訪。続いてすがねさん来訪。3日の寄贈式の件でお話をうかがいました。「研究室文書」を中心とする「資料目録」を作成する決意を固め、夕刻、奈良を離れました。

岡潔先生をめぐる人々(続) フィールドワークの日々の回想96. 三高資料室再訪

 細山さんにお会いしたのは平成11年の5月のことで、岡先生が広島に移ったのが昭和7年ですから、この間、ざっと67年になります。これだけの歳月をはさみながら、広島の岡先生の生活を知る人のお話をうかがう機会に恵まれたのはまったく夢のような出来事で、僥倖というほかはありません。お目にかかってから11年になりますが、細山さんは今もお元気で、何年か前には
 『糸ぐるまは回る 』(星湖舎)
という著作を出しました橿原の八木ですごして幼年期をなつかしく回想した作品です。
 お昼前に天王寺で細山さんのお話をうかがった後、京都に出て再び三高資料室を訪ねました。前日に続いての訪問ですが、この日は大きな収穫がありました。なにしろ大量の文書が蓄積されていますので、全容を見るのは一日や二日ではとても無理で、こうして足を運ぶとそのつど新たな発見があります。この日は大正8年の「第三高等学校入学志願者名票」というのが見つかりました。大正8年は岡先生が三高に入学した年で、この年度の合格者、すなわち「入学生許可人員」は文科と理科を合わせて287名。見つかったのはこれらの合格者の受験票の束でした。一枚一枚見ていくと、岡先生の受験票があり、自筆の書名が記入されていました。第一志望は「甲」、第二志望は「乙」。十代の終りがけ、満18歳の岡先生に出会ったような気がしてうれしかったです。秋月康夫先生の受験票もありました。第一志望は岡先生と同じく「甲」ですが、第二志望の記入欄は空白でした。「甲」にしか行かない、「甲」でなければ入学しないぞ、というほどの青年の気概の一端に、そこはかとなく触れたような気持ちになりました。
 おもしろいのは受験票に入試の得点が記入されていたことでした。順位はついていませんが、眺めるほどにおのずと判明します。志願者総数は文科1030名、理科822名。合計1852名。合格者287名の内訳は文科148名、理科139名。入試問題は文科理科共通で、700点満点のうち、岡先生は556点。合格者全体の中で14番、理科では4番という好成績でした。

Extra

プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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