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岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(142) ひと休みのお知らせと新連載の予告

 夜久先生と小田村先生に相次いでお目にかかることができて、岡先生と国文研との関係について理解できるようになったことは、この年の10月のフィールドワークの大きな収穫でした。月が変って11月になり、1日、文京区の特別擁護老人ホーム「白山の郷」に岡田泰子さんをお訪ねしました。明治37年9月のお生まれの泰子さんは,この時点で満93歳という御高齢でしたが、お元気でした。日曜日にはホームの人に付き添ってもらい、教会に通うのを楽しみにしているということでした。

 フィールドワークの日々の回想を書き始めて今回で142回になりますが、ここまでたどってもまだようやく二年目の終りかけにすぎません。この連載のねらいは岡先生の評伝の続篇を書くことですが、その続篇の中味は岡先生の晩年の交友録になる予定で、小林秀雄、保田與重郎、坂本繁二郎、石井勲という諸先生とのおつきあいの様相を再現したいという考えです。
 フィールドワークは8年ほど続きましたから、前途はなお遼遠ですが、それとは別に、一冊の数学史を書きたいという考えがあります。だいぶ前から心に描いていた企画であり、執筆のきっかけを探っていたのですが、こんなふうに書きたいというおおよその構想が念頭にありますので、少しずつ書き留めておきたいと考え始めました。それで、フィールドワークの回想録はこのあたりでひと休みして、しばらく新しい数学史の叙述を試みたいと思います。高木貞治先生の「近世数学史談」に範を求めて、「平成の近世数学史談」をめざしたいと念願しています。

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岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(141) 国文研の事務所で小田村先生のお話をうかがう

 亜細亜大学に夜久先生をお訪ねした日の翌日、10月30日のことですが、この日は銀座の国文研の事務所を訪問しました。事務局長の山口さんが待っていて、会長の小田村先生を紹介していただきました。小田村先生は吉田松陰につながる家系の人で、曾祖父は小田村伊之助といい、松下村塾の塾生ではなかったようですが、松蔭と親しい交友があった人です。明治維新後は楫取素彦(かとりもとひこ)と改めて、群馬県令、宮中顧問官などの顕職につきました。小田村先生の曾祖母、すなわち小田村伊之助の奥さんは壽(ひさ)さんといい、松蔭の妹です。
 小田村先生は小田村家の系譜と、国文研の前身と見られる戦前の日本主義の学生運動の流れについて話してくれました。一度うかがったけではなかなか全容がつかめないのですが、後日いろいろな文献を見て、だんだん様子がわかってきました。小田村家の系譜については省略して、戦前の学生運動についてうかがったことを回想すると、一高昭信会、東大精神科学研究所、東大文化科学研究会、日本学生協会、日本学研究所、精神科学研究所などの名前が次々と語られました。小田村先生はつねにこの一連の運動の中心にいたのですが、昭和18年の年初の2月、東京憲兵隊により精神科学研究所のメンバーが一斉に検挙されるという出来事があり、終焉しました。戦後、同士が再び結集してできたので国文研です。
 小田村先生が東京帝大の法学部の学生だったとき、法学部で行われている講義の内容を批判するエッセイを「生長の家」が発行している月刊総合雑誌「いのち」に発表し、そのために郷学部当局の逆鱗に触れて退学処分を受けたという経歴の持ち主です。「小田村事件」として知られる有名な事件ですが、知る人ぞ知るというか、戦前の日本主義の学生運動については戦後はほとんど語られませんので、必ずしも広く知られているとは言えません。ぼくも知らなかったところ、当事者の小田村先生から直接教えていただくという巡り合わせになりました。
 小田村先生が退学処分になったときの法学部長は田中耕太郎という人ですが、この人は岡先生と同じ昭和35年度の文化勲章の受賞者です。宮廷での親授式のおり、天皇陛下の前で岡先生に叱りつけられたというエピソードを遺しました。
 日本主義の学生運動の全容については研究もとぼしく、今も十分に解明されていないと思いますが、中心にいた小田村先生たちは岡先生の発言に大いに共鳴し、二度にわたって合宿教室に招聘しました。かつての小田村先生たちの学生運動は、岡先生のいう日本的情緒に通じるものがあったのでしょう。もしそうなら、日本的情緒には歴史的な経緯が内在しているのではないかとも考えられるところです。岡先生が合宿教室で行った二つの講義について検討することも新たな課題ですし、国文研との出会いを通じて、思想上の一問題が大きな宿題として課されることになりました。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(140) 合宿教室での講義「日本的情緒について」

 岡先生が国文研の合宿教室に招聘されてはじめて講義をしたのは昭和40年の8月の末のことで、ちょうど小林秀雄との対話が行われた直後のことでした。その年の2月、夜久先生と小田村先生は連れ立って奈良に岡先生を訪ね、出講をお願いしました。二人で庭先に顔を出したところ、そこに岡先生がいました。縁側から上がりました。みちさんがお茶を出してくれましたが、ものすごくおいしかった、と夜久先生は語気を強めたものでした。お料理もいただいたのですが、これもまたすばらしく、小田村先生は克明に料理をメモしたというとです。夜久先生が聖徳太子の「神情」という言葉を紹介したのも、このときのことでした。また、国文研の機関誌は「国民同胞」というのですが、小田村先生が紹介したところ、岡先生は、国民同胞とは思い切ったことを言ったなあ、といたく感心した様子を示しました。
 岡先生はこの夏の合宿教室での講義を引き受けて、「日本的情緒について」という題目で講義を行いました。夜久先生の言うところによると、夜久先生たちにとっては、この講演題目はそれ自体がすでにたいへんなショックだったということです。2月の訪問のとき、岡家の庭に盆栽の梅とフランス風のシクラメンがありました。岡先生は両者を比べて、西洋の花と日本の花は違う、梅の方が日本的情緒にかなう、と言いました。西洋にはよいものがほとんどない、という話もあったそうです。
 岡先生はしきりに芥川龍之介の話をしたそうで、あんまり芥川、芥川というので、夜久先生もあてられて、「侏儒の言葉」を引用して、こんなのなんか、どこがいいのでしょうと食い下がる場面もあったそうです。岡先生は、まあまあ、と受けて、芥川にもいいものもあるんだ、などと言ったそうです。
 8月の合宿教室のときのことですが、講演の後、班に別れて話し合うのですが、講師の岡先生が班を回り、若い者の顔がだめになった、という話をしたところ、ある学生がぬっと顔を出し、それじゃあ、私の顔はどうですか、私の顔が悪いというんですか、と岡先生に向かって憤然として言いました。すると岡先生は決然と、悪い、と言って、そんな顔ではだめだ、と言い放ちました。その後、しばらくの間、正大寮では、「ぼくの顔はどうですか」と言い合うのが流行したそうです。このときの学生は医師になって、今は四国の宇和島にいるということでした。
 学生が、日本的情緒を学ぶにはどうすればよいのですか、と質問すると、岡先生は、私は「学ぶ」などとは言っていない、と応じました。岡先生は最初に出講した合宿教室で、このようなエピソードをたくさん残しました。印象はよほど強烈だったようで、今も記憶に留めている人がたくさんいます。後日、いろいろな人から当時の思い出をうかがったものでした。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(139) 一枚のはがきの行方

 岡先生と小林秀雄との対談のきっかけを作ったのが夜久先生だったとは実に思いがけないことで、8年におよぶフィールドワークの中でも屈指の発見と言わなければなりません。おそらく小林秀雄が新潮社にもちかけて実現したのだろうと、夜久先生は推測するのですが、これでまちがいないとぼくも思います。小林秀雄にとってもはじめての対談でした。夜久先生は、小林秀雄からいただいたはがきは紛失したと言われたのですが、後日、国文研の学生寮「正大寮」の書棚で見つかりました。その書棚というのが、実は夜久先生が寄贈した本を並べた棚で、そのうちの一冊にはさんであったのでした。
 岡先生と小林秀雄の対談は京都で行われたのですが、ちょうど大文字焼きの日のことで、対談の場所に設定された料亭から山焼きの様子がよく見えました。対談のはじまりはこの山焼きで、岡先生は、山を焼くとは何だ、と小林秀雄にくってかかったなどどうわさされちますが、小林秀雄が頭をさげて同意して、この件はおさまりました。小林秀雄が、私は辰野ゆたかの弟子です、と言うと、岡先生は、それならよろしい、と応じ、それから対談が進み始めました。岡先生の妹の泰子さんのご主人の岡田先生も東大の仏文科の出身で、やはり辰野先生のお弟子です。
 小林秀雄は国文研の合宿教室に何度も出かけて講義をしましたので、岡先生との対談の後にも夜久先生と出会う機会が何度もありました。岡先生が亡くなった年の夏も小林秀雄が講義を担当したのですが、夜久先生に向かって岡先生のことばかり話し、君は岡さんの何なのだ、などと尋ねたりしたそうです。親戚と思っていたみたいでした。あの人は天才だ、と言い、岡先生のことが好きで好きでたまらない様子でした。
 やはり合宿教室の場でのことですが、小林秀雄が岡先生の「春宵十話」をほめたところ、木内信胤(きうち・のぶたね)が、あれは人が書いたものだ、そう言っている人がいる、と口をはさみました。毎日新聞の松村記者による口述筆記であることを指して、そんなことを言ったのでしょう。すると小林秀雄は大いに怒り、木内なんか、見るのも嫌だ、だれが書いたのか知らないが、元がたいせつだ、と言って大いに木内さんにからんだということです。まったくおもしろい話です。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(138) 対話篇「人間の建設」のきっかけ

 今日では母親が子どもに間違ったことを教えなければならなくなった、と夜久先生が嘆息すると、岡先生は、「なおさなければならない」と言下に言い放ちました。これを受けて夜久先生は、「しかし、そうするとまた同じことになってしまう。それはどうかなと思うことがあるので、このごろは新仮名遣を使うこともある」と応じました。また同じことになってしまう、というところは意味がつかみにくいのですが、不本意ではあっても現状は現状として認知しなければならないというほどの、いくぶん妥協気味の姿勢を示したということでしょうか。家庭では正しい仮名遣と正しい字体を教え、学校ではまちがった仮名遣と間違った字体を教えるというのでは、あまりにも現実と乖離してしまうというのでしょう。岡先生はそんな配慮はしない人ですから、それはいかん、正しいことは正しい、と大喝しました。これで夜久先生の気持ちがかたまり、新仮名遣に抵抗していく決意を新たにした、と話してくれました。
 続いて夜久先生は小林秀雄の話をしました。小林秀雄は「春宵十話」を読んでいて、朝日新聞に感想を寄せていました。それは「季」というタイトルのエッセイなのですが、夜久先生が岡先生にそのことを話したところ、岡先生は、
「それではすぐに小林さんに会おう。君、電話をかけてくれ。」
と言いました。電話をかけて、これからすぐに小林さんのところに行こうではないかというのですが、これには夜久先生も仰天し、小林さんとそんなに親しいというわけでもないし、そんなことを今すぐに頼めるわけがないと常識的に応じたところ、岡先生は非常に不満そうな表情を隠しませんでした。
 周囲の人たちが、というのは岡田先生や泰子さんや鯨岡先生たちということになりますが、初対面の夜久先生にそんなことを頼むのは非常識だと、みんなして岡先生をなだめたりたしなめたりするという騒ぎになりました。それで夜久先生が、小林さんに手紙を書いて岡先生の意向を伝えますと発言し、ようやくこの場がおさまりました。
 後日、夜久先生はこのときの約束を実行し、小林さんに手紙を書いたところ、小林さんから返信のはがきがあり、岡さんには自分も会いたいと思っている、いずれその機会があるでしょう、というほどのことが記されていました。これが、岡先生と小林秀雄の名高い対話篇「人間の建設」のきっかけです。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(137) 亜細亜大学に夜久先生を訪ねる

 10月29日、国民文化研究会すなわち国文研の事務局長の山口秀範さんに連れられて、亜細亜大学に夜久正雄先生を訪問しました。国文研は小田村寅二郎先生を会長とする思想団体で、毎夏、全国の大学生を集めて合宿教室を開催していますが、岡先生は二度、小田村先生の招聘を受けて合宿教室で講義を行ったことがあります。昭和40年の夏は大分県別府市の城島高原で第10回目の合宿教室があり、岡先生は「日本的情緒について」という題目を立てて講義をしました。次に、昭和44年の夏には、熊本県の阿蘇内牧温泉で第14回目の合宿教室があり、岡先生は今度は「欧米は間違っている」という題目で講義を行いました。岡先生の足跡調査を重ねている中でこのようなことがわかりましたので、もっと詳しい諸事情を知りたいと思い、銀座の国文研の事務所に出かけました。その時期はノートには記されていないのですが、この年、すなわち平成9年の春の大旅行の末に東京にたどりついたときのことでした。毎年の合宿教室の記録や、国文研で発行している書籍を購入したいと思ったのですが、事務局の山口さんとしばらく話をして、親しくなりました。
 それから国文研に所属する人たちとの交流が始まったのですが、その延長線上で、山口さんの仲介を得て、夜久先生を訪問してお話をうかがうという成り行きになりました。夜久先生は国文学者ですが、小田村先生の古い友人で、もとより国文研の会員です。
 夜久先生は岡先生とはじめて会ったときのことを話してくれました。亜細亜大学に鯨岡喬先生という柔道9段の体育の先生がいて、夜久先生と親しくおつきあいしていました。鯨岡先生のお子さんが岡先生の長女のすがねさんと結婚しましたので、鯨岡先生は岡先生の親戚になるのですが、その鯨岡先生があるとき、岡先生を紹介するからいっしょに来ないか、と夜久先生を誘いました。岡先生が上京して千駄木の岡田先生のところに逗留しているから、というのでした。夜久先生はこのお誘いに乗り、岡先生との出会いが実現しました。それがいつのことだったのか、夜久先生は、わからない、と言い、ある日、あるとき、というのでしたが、諸事を勘案して推定すると、恐らく昭和39年の4月、中谷宇吉郎先生の三回忌の法要があったときのことであろうと思います。
 岡田家で岡先生に会った夜久先生は、国語国字問題について所見を述べました。戦後の国語改革の結果、学校では漢字は新字体を教わることになりました。従来の略字がそのまま新字体として採用された例も多いのですが、そうすると学校では略字を書かなければならないことになり、家庭で母親が漢字の正字を教えることができなくなってしまいました。仮名遣についても同様で、母親が歴史的仮名遣を教えると、学校ではまちがいとされてしまいますので、教えることができません。これが、戦後の親子の断絶の始まりだというのが夜久先生の所見でした。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(136) 上御殿に残る三枚の色紙を見る

 内田先生のお宅を訪ねる甲府行を最後に、このときのフィールドワークは一段落しました。収穫は多かったのですが、内田家を訪ねてもっとも強く心を打たれたのは、実は空家になったままの内田家の家屋のたたずまいそのものでした。内田先生は四国から東京に出て中学校の教師になり、各地を転々とした後に甲府に居を構え、甲府で亡くなりました。そのお宅がそのまま残されていて、平成9年の秋10月のある日、ぼくの眼前に現れました。もうだれも住んでいない家ですが、足を踏み入れればここかしこに生活の歴史が色濃くにじんでいます。内田先生が使っていた「英語記憶箱」もあれば、甲府の中学生たちの作文の束もありましたし、粉河中学時代の卒業写真さえ、見つかりました。そんな中に内田先生本人だけがいないのですが、何というか、「歴史」というものの真実の姿をありありと感じたものでした。言葉になりにくい感慨ですが、岡先生の評伝もまたこのときの感慨を基礎にして書いていけばいいのだと思ったことでした。
 10月の何日のことか、はっきりした記録がないのですが、龍神温泉の旅館「上御殿」に電話をかけました。昭和43年の岡先生たちの龍神温泉行の調査の続きのつもりだったのですが、おりよく龍神綾さんが電話に出て言葉を交わすことができました。平成9年の時点からさかのぼると29年の昔の出来事なのですが、綾さんは、よく覚えています、と言って、栗ご飯と松茸ご飯を炊いてお出ししたことなど、当時のことを話してくれました。綾さんは久保田万太郎が主催する俳句の雑誌「春燈」の愛読者だったとのことで、その「春燈」誌におりしも與謝蕪村の詩「北壽老仙をいたむ」の鑑賞が載っていました。それを岡先生にお見せしたところ、岡先生は手にとって部屋の真ん中に立ち、朗々と朗読を始めたということでした。
 数日後、綾さんから大きな郵便物が送られてきました。あけてみると、その與謝蕪村の詩の鑑賞が載っている「春燈」誌の実物と、それに、岡先生、保田先生、胡蘭成の三人が龍神温泉で書いた三枚の色紙が入っていました。これにはまったく感激しました。
 それからしばらく上御殿に出かける機会をうかがっていたのですが、今だに果たせません。伊豆の伊東温泉なども重要な場所なのですが、やはり出かけられませんでした。フィールドワークも万全とは言えず、温泉地などはもっとも苦手な部類に属します。
 10月末、25日と26日の両日、津田塾大学で数学史の研究会が開かれましたので、24日の夜、上京しました。研究会の後、28日に原宿グリーンランドに中谷芙二子さんを訪ねました。この日はもっぱら中谷先生とその門下生たちの話に終始しました。中谷先生の評伝を書くうえで重要な話が続きました。中谷先生と、それに寺田寅彦先生については本格的な評伝の出現が期待されますが、今も現れる気配が見られないのは残念なところです。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(135) 内田先生の日記より

 内田先生は和歌山の粉河中学の後、鳥取の倉吉中学に移り、それから甲府に移動したのですが、甲府では甲府中学の教頭になり、それから身延中学で校長を10年、次に韮崎中学で校長を10年勤めました。赴任するとプールを必ず作り、生徒に手伝わせて校庭の回りに桜を植えたということです。
 四国の郷里を離れて上京したのが19歳のときのことで、中学の教師になってから甲府に落ち着くまで、福島、和歌山、鳥取と移動を重ねました。昭和47年8月末、91歳で亡くなりました。武田神社の近くにお墓があり、甲府を離れる際、橋本さん御夫妻といっしょにぼくもお参りしました。
 久遠荘には岡先生の色紙がありました。

   めぐり来て
    梅懐しき
     匂ひかな
      岡潔

句がひとつ書かれたうちわもありました。句の作者は岡みちさんです。

   相逢はで
    つひの別れか
     月見そふ
      みち

 内田先生の日記帳もありました。岡先生が内田先生を訪ねたころの日付を目安にして閲覧すると、昭和35年11月8日の記事が目に留まりました。

 35年(火)11月8日
 岡潔兄来
 晴
 本日以外(ママ)にも文化賞岡潔岩・・一良来宅。驚いた。
 一日中話して午后五時帰京した。

これは岡先生が文化勲章をを受けた時期の記事です。「岩・・一良」のところは、字がひとつ読み取れなかったのですが、人の名前のようですし、おそらく東京近辺に在住の粉河中学の同窓生ではないかと思います。三日目の11月5日には同窓会主催の祝賀会が開かれました。その席で内田先生の消息を聴いたのでしょう。
 昭和38年4月23日(火)の記事を見ると、
 「箕田貫一に筍の礼状」
と記され、次いで歌が一首、書き留められています。

  麒麟児を教へ育てし紀の川の
   丘の上なる学舎恋しき

 この歌に詠まれている「麒麟児」は箕田貫一ひとりというわけではなく、内田先生の念頭には岡先生や、ほかに何人もの粉中の教え子たちが浮んでいたことと思います。
 箕田貫一は粉中時代の内田先生の教え子で、岡先生の少し先輩になります。粉中時代の教え子が甲府に移った恩師のもとに筍を送ってきたので礼状を書いたというのが日記の記事の内容ですが、金丸信たちは久遠荘をプレゼントしていますし、岡先生もまたわざわざ甲府まで足を運んでいることですし、「先生は辞めても先生」ということで、内田先生はいつまでも生徒に親しまれるよい先生でした。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(134) 甲府行

 恒村医院を訪問した後、その日のうちにそのまま上京しました。夜も遅くなって東京着。翌日は月が移って10月になりました。1日は東大の駒場キャンパスで数学の学会に顔を出し、翌2日、橋本正臣さんとさよさん御夫妻の案内を得て甲府に向かいました。岡先生の粉河中学時代の内田與八先生のお宅を訪ねようというのです。橋本さよさんは内田先生のお子さんで、所沢にお住まいです。前日、電話で話をして、西部池袋線の小手指駅で待ち合わせることになりました。初対面でしたが、小手指駅を出ると車が止っていて、すぐに橋本さんとわかりました。同乗して中央自動車道で甲府に向かいました。途中、談合坂サービスエリアでひと休みして、それから甲府に入り、快川和尚の「心頭滅却すれば火もまた涼し」で知られる武田信玄の菩提寺、恵林寺を見学しました。甲府というと武田信玄ばかりで、何かというと信玄を持ち出すのだと、橋本さんの註釈がありました。
 内田家は残されていましたが、住む人はなく、鍵をあけて中に入ると、ついこの間までどなたかが住んでいたかのような状態で、そのまま塵やほこりにまみれていました。橋本さんが持参したスリッパをはいて奥に向かうと、「英語記憶箱」と書かれた紙片を貼った木の小箱がありました。内田先生は英語の先生なのですが、英語に関係のあるあれこれのことをメモして、メモした紙片を箱に入れて保管したのだそうです。教え子の中学生たちの作文の束もありました。さらに奥に進むと「久遠荘」という茶室がありました。これは身延中学の教え子たちが寄贈したのですが、中心になったのは自民党の政治家の金丸信です。金丸信は内田先生を尊敬していたようで、内田先生が亡くなったときの葬儀委員長も金丸信でした。
 久遠荘にもほこりが積っていましたが、岡先生のエッセイ集が置いてありました。『春宵十話』『昭和への遺書』『曙』『神々の花園』などですが、岡先生が謹呈したようでした。岡先生が粉中時代の思い出を書いたエッセイが掲載されている新聞の切り抜きがあり、内田先生が出てくる箇所に赤線が引かれていました。戸棚の中にいろいろなものが収納されていましたので、橋本さんに協力してもらって探索すると、数枚と大型の写真が出てきました。内田先生の粉中時代の写真で、毎年の卒業写真と思われましたが、当時の中学生たちにまじって内田先生の姿もありました。岡先生も見つかりました。
 内田先生は明治14年8月20日、徳島県三好郡辻町西井川というところに生れた人で、徳島県師範学校を経て、東京高等師範学校に進みました。当時の東京高師の校長は柔道の嘉納治五郎です。英語選科を卒業し、中学の教師になり、最初に赴任したのは福島県安積中学で、ここで久米正雄を教えました。安積中学の次の赴任先が粉河中学です。

岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(133) 恒村医院訪問

 岡先生の没後、伊與田先生が岡家をお訪ねしたときのことですが、岡先生が書いた色紙が何枚かありました。その一枚に書かれていたのは、

   さめたる人を神といい
    ねむれる神を人という

という言葉でした。伊與田先生はこの色紙を頂戴したのかどうか、うかがったように思うのですが、はっきりした記憶がなく、ノートにも明記されていません。
 成人教学研修所を訪問してから二日後の9月30日、京都の熊野神社の交叉点の近くの恒村医院を訪問しました。今は恒村家のお嫁さんの麗子さんが医師になって、恒村医院を継承しています。恒村医院の訪問の前に京大の図書館に出向いたのですが、この日は休館でした。
 以下、恒村麗子さんにうかがった話です。恒村夏山先生にはゆきえさんという長女と、もうひとり、次女がいたのですが、次女は3歳のときはしかで亡くなりました(後日の調査によると、次女はすみえさんという名で、6歳のとき亡くなりました)。これがきっかけになって恒村先生は光明主義のお念仏をするようになったのですが、恒村先生本人より先に奥さんが弁栄上人に会い、入信しました。恒村医院では毎朝5時から二時間ほどお念仏をして、それから朝食になりました。お念仏に参加する人はあちこちから集ってきました。毎週、水曜日は学生光明会の集まりがありました。梅ヶ畑の光明修道院では、5月の連休のころ、一週間のお別時がありました。朝3時に起きてお念仏をしました。
 岡先生が恒村医院にやってきたときのことですが、岡先生は、念仏はなんでするのですか、と恒村先生に尋ねたそうです。
 恒村先生は昭和35年1月13日に亡くなりました。
 梅ヶ畑の修道院は昭和46年までそのままになっていましたが、湿気が多く、庫裡がぼろぼろになりました。それで本堂は右京区の妙心寺に移築されて、大仏次郎の持仏堂になったとか。修道院の跡地はさら地になったのですが、京都市内のお寺からゆずってほしいとの申し出がありました。それで夏山先生の弟に相談したところ、お許しが出ましたのでゆずることになりました。今は浄土真宗の「ちょうこう寺」が建っています。
 このようなお話をひとしきりうかがいました。それから光明会関係の書物を何冊かいただいてお別れしました。このときいただいたのは、あるところにはあるが、あるところにいかなければ決して手に入らないという種類の冊子ばかりです。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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