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(数学者の群像8)ラグランジュ(3)

1754年7月23日、最初の論文を書いた18歳のラグランジュがファニャノに手紙を書き、研究の成果を伝えたことは既述の通りですが、ファニャノは1682年12月6日にイタリア中部の町シニガリアに生れた人ですから、ラグランジュの論文を受け取ったとき、満72歳でした。その4年前の1750年、ファニャノは『数学論文集』(全2巻)を刊行し、翌1751年、ベルリンのオイラーのもとに届けました。この時期のオイラーは積分する方法のわからないある種の微分方程式に直面していたのですが、ファニャノの論文集にヒントを得て道を開くことができました。楕円積分論の研究史において重要な意味をもつことになる出来事ですが、同時にファニャノが近代数学史上でもっとも輝いた瞬間でもありました。オイラーはファニャノに触発されて二篇の論文[E251] [E252]を書きました。どちらもペテルブルグ帝国科学アカデミー新紀要の巻6に掲載されたのですが、この巻が実際に刊行されたのは1761年ですから、ラグランジュがファニャノに論文を送付した1754年の時点では、ファニャノの論文集がオイラーにどれほど大きな衝撃を及ぼしたのか、ラグランジュは知る由もありませんでした。このエピソードを別にすると、ファニャノは数学者としてどの程度の評価を得ていたのか、よくわからないのですが、それでもラグランジュが最初の論文の送付先にファニャノを選んだということは、イタリアでは相当に名の知られた数学者であったということなのかもしれません。
 1786年、フレデリック二世が亡くなると、ラグランジュの心情はベルリンから離れがちになっていきました。おりしもイタリアの各地から誘いがあり、パリからも誘われました。ラグランジュはパリを選び、1787年5月18日、ベルリンを離れてパリに向かいました。パリでは科学アカデミーのメンバーになりました。このときラグランジュは満51歳です。これから先はずっとフランスに滞在し、1813年4月10日、パリで亡くなりましたが、この間にはフランス革命が起りましたし、ラグランジュの人生も大きな影響を受けました。フランス革命が起ったのは1789年。1790年、ラグランジュは科学アカデミーの度量衡委員会のメンバーになりました。1793年には恐怖政治が始まり、ルイ16世が処刑されました。これを見てイギリス、スペイン、サルディニア王国などは反革命側に立ちましたが、フランスの側でも対抗し、1793年9月、敵国に生れたすべての外国人を逮捕し、財産を没収するという法律が制定されました。サルディニア王国は反革命の敵国ですから、ラグランジュは該当したのですが、化学者のラヴォアジュの弁明が効を奏したようで、ラグランジュは例外の扱いになりました。ところがそのラヴォアジュはといえば、ギロチンにかけられて処刑されるという過酷な運命に見舞われました。
 パリ時代のラグランジュのことは、20年に及ぶベルリン時代とは別の観点から考えるべきであろうと思います。この時期のフランスには、ルジャンドル、ラプラス、フーリエなど、一群の数理解析学者が現れて活況を呈していましたが、ラグランジュは彼らみなの師匠格でした。いずれ稿をあらためて語りたいと思います。
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(数学者の群像7)ラグランジュ(2)

ラグランジュの父はサルディニア王国でそれなりに重要な地位を占めていたようですが、投機に失敗して大金を失うという出来事があり、ラグランジュ家は裕福とは言えませんでした。父はラグランジュを法律家にしようとし、ラグランジュもまたこれを喜んで受け入れようとした模様です。トリノ大学に学びましたが、お気に入りの科目はラテン語でした。数学に熱中した様子もなく、ギリシア時代の幾何学などはむしろ退屈に思っていたほどでした。ところがイギリスの数学者ハーレイが1693年に著した、著作を読んだのがきっかけになって、突然、数学に関心を寄せ始めました。ハーレイの著作というのは光学への代数学の応用に関する作品というのですが、見たことがなく、どこがどのようにラグランジュの関心を引いたのか、詳しいことはわかりません。ともあれラグランジュはこうして数学に進む決意を固めたのですが、「もし裕福だったら、たぶん数学に打ち込むことはなかったろう」と言っているということです。裕福だったなら父の願いの通り法律の方面に進んだろうという意味になるのかもしれませんが、意味のよくわからない言葉です。
 ラグランジュには特に師匠という人はなく、おおむね独学で数学を学びました。1754年7月23日、18歳のラグランジュは数学の論文を書き、イタリアの数学者ファニャノに宛ててイタリア語で手紙を書き、研究の結果を報告しました。この手紙には、
  Luigi De la Grange Tournier
という、イタリア語ともフランス語ともつかない不思議な署名が記されました。論文の内容は、二項定理と二つの関数の積の逐次微分との間に見られる形式上の類似性を指摘したもので、格別の創意が見られるわけではありません。ラグランジュはこの論文を発表する考えでファニャノに送付したのですが、それとは別にベルリンのオイラーに手紙を書いて、得られた諸結果を報告しました。その手紙はラテン語で書かれています。一箇月後、ラグランジュの論文は出版されましたが、その後になって、この論文に記された諸結果はヨハン・ベルヌーイとライプニッツの間で交わされた手紙に出ていることに気がつきました。ラグランジュは大いに狼狽しましたが、それとともに、盗作者の烙印を押されるのではないかと非常に恐れました。実際には何事も起りませんでしたが、ラグランジュ自身はこの出来事を契機に心に期すものがあったようで、学問的に見て真に値打ちのある成果を手にするべく、ますます努力を重ねるようになりました。こういうところは、ジュリア先生の雷霆の叱責を受けた岡潔先生が、これからはだれにもまねのできない本当に値打ちのある研究しかしないと心に誓ったという話とよく似ています。
 ラグランジュははじめ等時曲線を研究し、1754年の終りころには等時曲線に関していくつかの重要な発見をしました。これは変分法の領域における研究テーマです。ラグランジュは得られた結果をまたもオイラーに送付しましたが、その際の手紙の日付は1755年8月12日ですから、このときラグランジュは19歳でした。オイラーは9月6日付で返事を書き、ラグランジュが提示した変分法の新しいアイデアに感銘を受けたことを伝えました。それからまもなく1755年9月28日付で、ラグランジュはトリノの王立砲学校の数学教授に任命されました。
 オイラーはラグランジュを高く評価し、ベルリンの科学アカデミーの総裁のモーペルチュイと相談し、ラグランジュをベルリンに招聘しようとしましたが、ラグランジュには名誉欲がなかったようで、丁重に断りました。ラグランジュをベルリンに招こうとする試みはその後も繰り返されました。オイラーはラグランジュをベルリンのアカデミーの会員に推薦し、1756年9月2日付で正式に選出されました。ベルリンからの熱心な申し出は続き、1766年、オイラーがベルリンを離れることになったときはラグランジュももう拒否することはできず、1766年11月6日、オイラーの後を受けてベルリンのアカデミーの数学部長に就任しました。

(数学者の群像6)ラグランジュ(1)

ジョゼフ・ルイ・ラグランジュは1736年1月25日、北部イタリアのピエモンテ地方を統治していたサルディニア王国の首都トリノに生れました。サルディニアはSardiniaの英語表記です。イタリア語ではSardegnaと書き、サルデーニャと発音することになります。ラグランジュの名のジョゼフはJosephの音を写したのですが、これはトーマスマンの作品「ヨセフとその兄弟」のヨセフと同じです。それで、ヨセフと表記するのが普通のような感じが何となくありますが、Josephはフランス語ですからフランス語のように読むとジョゼフとなり、英語と同じです。人名も地名も読み方はなかなかむずかしいものです。
 この機会にもう少し附言すると、ヨセフというのは元来はヘブライ語で、ヘブライ語の音をそのまま写したというのですが、ヨゼフと表記されることもあり、相互の関係はよくわかりません(ヘブライ語の知識がありませんので、判断できません)。イスラム教の聖典コーラン(正確に音を写すとクルアーンとなるそうです)ではユースフとなり、これはアラビア語です。ギリシア語ではヨーセーフ。ラテン語ではヨセフまたはヨセフス。ドイツ語ではヨーゼフ、ロシア語ではヨシフというふうに、さまざまに変化します。ラグランジュの洗礼名はGiuseppe Lodovico Lagrangiaというのですが、これはイタリア語の表記です。ジュゼッペ・ロドヴィコ・ラグランジアというところでしょうか。JosephとGiuseppeは同じです。
 こんな事情を踏まえたうえで、さてラグランジュの名前は日本語ではどのように表記するのがよいのでしょうか。ラグランジュはイタリアに生れ、ベルリンの科学アカデミーでオイラーの後任としてしばらくすごし、それからフランスに移ってパリで亡くなったのですが、フランスの数学者と見られることが多く、名前も普通、Joseph-Louis Lagrangeとフランス語で表記されます。そこでこれをそのまま日本語に写してジョゼフ・ルイ・ラグランジュと読めばよいことになりますが、聖書の邦訳などの状況を見るとジョセフよりもヨセフの方が親しみが深く、現にトーマスマンの作品の邦訳でも、ドイツ語読みのヨーゼフではなくヨセフが採られています。それでつい、ヨセフ・ルイ・ラグランジュと書いたりすることがあります。
 さて、ラグランジュの家族は父方をたどるとフランス系で、曾祖父はフランスの騎兵隊の隊長でしたが、サボイ公国で働くためにフランスを離れました。サボイ公国というのはサルディニア王国の前身です。ラグランジュの心情は絶えずフランスの方角に傾いていたようで、青年期にはファミリーネームのフランス語の形を使ってLodovico LaGrangeとかLuigi Lagrangeなどと署名していました。

(数学者の群像5)オイラー(5)

京都数学史会議が終了しましたので、「数学者の群像」にもどりたいと思います。オイラーを語って4回まで進み、ペテルブルグを離れてベルリンに到着したところで中断したままになっていますが、オイラーがベルリンに移ったのは、フリードリヒ二世のアイデアによりベルリンに新たに科学アカデミーが設立されることになりましたので、創立を支援するためでした。新科学アカデミーの創立が最終的に確定したのは1743年ころと言われています。アカデミーの名称も
 Acade´mie Royale des Sciences et Belles Lettres
 (王立科学文芸アカデミー)
と決まり,1744年1月,新アカデミーの第一回目の会議が開催されました。そこで、一般に1744年をもってベルリン科学文芸アカデミーの創立年とすることになっています。ただし、オイラーとペテルブルグのアカデミーとの関係はベルリンに移ってからも完全に切れたわけではなく、ペテルブルグから報酬をもらい続けていて、ペテルブルク科学アカデミーの学術誌への寄稿も継続されました。
 1746年1月、ベルリンの科学アカデミーがいよいよ正式に開設されました。総裁はモーペルチュイで、5月12日付で正式に任命されました。オイラーは数学部門の長、すなわち数学部長です。ベルリンでの生活は四半世紀、25年に及びました。この間に執筆した論文は約380篇。また、名高い変分法のテキストや、「三部作」のひとつである微分法のテキストを執筆しました。ほかにも多くの著作がこの直に成立しました。
 1759年、総裁のモーペルチュイが亡くなり、オイラーがアカデミーのリーダーシップをとる役回りになりました。ただし、総裁に就任したわけではありません。1763年、フレデリック王はダランベールを総裁にしようとして、申し入れたものの、拒絶されるという出来事もありました。そうこうするうちにオイラーとフレデリック王との関係はだんだん悪くなり、1766年の夏、オイラーはベルリンを離れる決意を固め、ペテルブルグにもどりました。ベルリン科学アカデミーでのオイラーの後任はラグランジュで、この年の11月6日付で数学部長に任命されました。ラグランジュはオイラーを継承する18世紀の偉大な数学者ですが、後に稿をあらためて語りたいと思います。
 ロシアにもどってまもなく、1772年のことですが、オイラーは目の手術を受けたものの効を奏せず、ほぼ完全に失明しました。それにもかかわらず、この第二期のペテルブルグ時代にオイラーが書き上げた作品は全著作のほぼ半分に達するというのですから、驚くほかはありません。オイラーにとって、数学を思索するのに視力は必ずしも必要ではなかったのでしょう。それでも論文を執筆するという面ではやはり不便だったようで、故郷のバーゼル在住のダニエル・ベルヌーイに助手を見つけてほしいと依頼しました。ダニエルはこれに応え、ニコラウス・フスを推薦しました。フスがペテルブルグに到着したのは1773年5月。1755年1月30日に生れた人ですから、このとき満18歳の少年でした。
 1783年9月18日、オイラーはいつものように半日をすごしましたが、午後5時ころ、脳出血を起し、「死ぬよ」と言いながら意識を失いました。そのまま回復せず、夜11時ころ、亡くなりました。オイラーの歿後もペテルブルグ科学アカデミーはオイラーの論文の出版を続け、半世紀以上に及びました。

(数学者の群像4)オイラー(4)

ペテルブルグの科学アカデミーは、オイラーが到着する2年前の1725年、女帝エカテリーナ1世により創設されました。当初の申し出では生理学部門に配属されることになっていたのですが、実際に到着してみると、所属先は数学物理部門でした。ダニエル・ベルヌーイはヨハン・ベルヌーイの子どもですが、個人的に親しくなり、同居したくらいです。学問歩方面では応用数学への関心を共有していました。1700年2月9日、ヨハン・ベルヌーイがオランダのブローニンゲン大学に在職中に生れ、流体力学の「ベルヌーイの定理」で知られています。1725年以来、ペテルブルグ科学アカデミーの数学教授でしたが、1733年、辞任してバーゼル大学に移り、その際、後任にオイラーを推薦しました。
 ペテルブルグにはクリスチアン・ゴールドバッハがいて、解析学と数論など、いろいろな問題を議論しました。特に、オイラーが数論に関心を寄せるようになったのは、ゴールドバッハの影響が大きいと言われています。
 1735年、高熱が出て、あやうく命を落すところでした。オイラー自身の語るところによると、1738年ころから目をわずらい始めたということで、その原因はというと地図の作成の仕事に熱中しすぎたための疲れ目というのです。1940年までに片方の目の視力を失い、もう一方の目もだんだん見えなくなっていきました。ですが、一説によるとオイラーの目の問題は1735年の高熱のときにすでに始まっていたとも言われています。1753年のオイラーの肖像画を見ると、この時期にはまだ左目は見えていたようでもありますし、右目は悪そうではあるものの、完全に見えないわけでもないようでもあると考える人もいて、左目が見えなくなったのは、疲れ目のためというよりも後年の白内障のためではないかというのですが、本当のところはわかりません。
 学問の方面では1738年と1740年に二度にわたってパリの科学アカデミーのグランプリを受け、名声が高まりました。ドイツのプロシアのフリードリヒ二世の招聘を受けたのもそのころで、ちょうどロシアの政情が悪くなったこともあり、オイラーはプロシア行を決意しました。ペテルブルグを離れたのは1741年6月19日。7月25日、ベルリンに着きました。

(数学者の群像3)オイラー(3)

1727年,オイラーはもう一篇の論文[E003]「代数的なreciprocal trajectoriesを見つける方法」を執筆し,学術年報(1727年)に掲載しました.これも5ページの短篇です.タイトルに見られるreciprocal trajectoriesというのは何を指すのか,よくわかりませんが,[E001]と同じく,ヨハン・ベルヌーイ先生の影響のもとで,変分法にテーマを求めた論文のように思います.エネストレームナンバーが「1」の論文と「3」の論文の間にもう一篇の論文がありますが,それについては後述します.オイラーをこの論文[E003]をパリの科学アカデミーの1727年のグランプリにエントリーしましたが, この年のグランプリはBouguerという佛蘭西の数学者がとりました.この人は船に関する数学の専門家で,船のマストの最良の配列をテーマにして論文を書いたということです.オイラーは第二席になりました.
 1726年7月,ニコラウス・ベルヌーイ(II)がペテルブルグで死去し,ペテルブルグ科学アカデミーに空席ができました.そこでオイラーにペテルブルグにやってくるようにと申し出がありました.仕事は数学の応用とmechanics to physiologyを教えることというのですが,後者のmechanics to physiologyというのはどのような学問なのか,よくわかりませ(physiologyといえば生理学のことですが,オイラーとは無関係のように思います).この年の11月になり,オイラーはこれを受けましたが,実際にロシアに行くのは翌1727年の春まで延期したいと申し出ました.理由は二つありました.ひとつは,教えるようにと要請された学問について,勉強する時間がほしかったためで,これはもっともです.もうひとつは,バーゼル大学で物理の教授がひとり亡くなりましたので,空席ができました.オイラーはこのポストにつきたかったのです.そのために音響学に関する論文[E002]を書いてアッピールしたのですが,何分19歳ですから,若すぎるという理由もあり,最終選考に残れませんでした.これでペテルブルグ行くが決まりました.
 1727年4月5日,オイラーはひとりバーゼルを発ち,ペテルブルグに向かいました.ライン川を船で下り,ドイツを郵便馬車で横断し,最後にリューベックから船に乗り,1727年5月17日,ペテルブルグに到着しました.フェルマンの評伝『オイラー』には,このペテルブルグ行の模様がこんなふうに記述されています.

【オイラーのペテルブルグ行】
オイラーはペテルブルグ科学アカデミーの招聘を受け,ペテルブルグに向かった.1727年4月5日,バーゼルを離れ,マインツ行きの船に乗った.マインツから陸路ギーセン,カッセルを経てマールブルクへ.マールブルクから陸路ハンノーファーとハンブルクを経由してリューベックへ.そこから海路ヴィスマールとロストックをかすめてレーヴァル(今のカリン)へ.レーヴァルまで4週間かかった.レーヴァルで船を乗り換えてクロンシュタットへ.クロンシュタットに到着した日に女帝エカテリーナ1世歿.そこからボートで大陸にわたり,徒歩でペテルブルグに到着した.クロンシュタットからペテルブルグまで一週間ほどかかった.

 1731年,ゲオルク・ベルンハルト・ビュルフィンガーの後任として物理学教授になり,同時に科学アカデミーの正会員になりました.1733年には,バーゼルにもどったダニエル・ベルヌーイの数学教授職を引き継きました.

(数学者の群像2)オイラー(2)

 1723年,オイラーはデカルトとニュートンの哲学思想を比較する研究により,哲学修士の学位を取得しました.哲学修士というのは,英語のMaster's degree in philosophyを試みにそう訳してみたのですが,実体はどのような学位なのか,よくわかりません.今日の大学制度での学士,修士,博士とは別物であることは間違いないとして,オイラーの時代の大学制度を研究してみないことには何とも言えないところですが,卒業はさらに三年後の1726年ですので,哲学修士の取得は卒業にいたる一里塚という感じでしょうか.
 ともあれ哲学修士を取得した後,1723年の秋から神学の勉強を始めました.牧師になってほしいという父の願いに応えようとする心情もあったのです.ところがこの方面の勉強もなかなかたいへんで,旧約聖書はヘブライ後,新薬聖書はギリシア語で書かれていますから語学の勉強も必要になります.オイラーはこれらの科目の勉強に数学に対するほどの熱意がもてず,そのために父の同意を得て専攻を数学に変更しました.オイラーの数学の力を見抜いたヨハン・ベルヌーイが父を説得したのですが,数学なら父の愛好する学問でもありましたし,当代を代表する数学者で,しかも若い日の友でもあったヨハン・ベルヌーイに数学の能力を請け合われたとあれば,父にしても拒絶を貫き通す理由はなかったのではないでしょうか.ただし,大きな決断であったこともまた間違いありません.
 1726年,オイラーはバーゼル大学を卒業しました.在学中,熱心に数学を学び,ヴァリニョン,デカルト,ニュートン,ガリレオ,ヴァン・スクーテン,ヤコブ・ベルヌーイ,エルマン,テーラー,ウォリスなどの著作を読みました.これらの著作家たちの作品を網羅すれば,当時の数学のほぼすべてを,しかも原典に沿って学んだことになりますし,師匠はヨハン.ベルヌーイですし,最高の環境でした.在学中なのか卒業後なのか,細かい日時ははっきりしませんが,卒業の年の1726年にオイラーは一篇の論文[E001] 「抵抗のある媒体内の等時曲線の作図」を執筆しました.この論文は学術誌Acta Eruditorum (学術報告),1726年, に掲載されました.たった3ページのノートですが,生涯で優に800篇を越えるオイラーの諸論文の劈頭に位置する論文です.このときオイラーは19歳でした.
 Acta eruditorum(学術報告)は,1682年にドイツのライプチヒでオットー・メンケが創刊したドイツの最初の学術誌です.オイラーの最初の論文もそうですが,掲載論文はみなラテン語で書かれています.1682年から1731年まで,全部で50巻まで刊行されました.

(数学者の群像1)オイラー(1)

連載「ガウスの遺産」は四次剰余の第二論文の紹介にさしかかったところですが、この論文はガウスの数論の到達点を示す傑作ですから、思索の跡をていねいに追っていきたいと思います。ガウスの数論の最後の作品で、この論文に表明された数論の思想を延長していくと、担い手はもはやガウス本人を離れ、一群の継承者たちにゆだねられていきます。試みに回想すると、アーベル、ヤコビ、ガロア、ディリクレ、アイゼンシュタイン、クンマー、クロネッカー、それにヒルベルトなどの名前が次々と念頭に浮かびます。それで、数学そのものの展開を追っていくのは当然として、それとは別に登場人物のひとりひとりの人物像を簡潔に紹介することもまた必要なのではないかと思い当たりました。そんなふうに思ってガウス以前を振り返りますと、オイラーやラグランジュやルジャンドルなどについても、これまで人間像を紹介したことがないことに気がつきました。そこで、数論史と平行して、オイラーからはじめて数学者の群像を語ってみたいと思います。

オイラーは1707年4月15日、スイスのバーゼルで生れました。昨年(2007年)がちょうど生誕300年の記念の年でしたので、欧米と、それに日本のあちこちで各種の催し事がありました。当研究所の開設もその一環でした。オイラーが亡くなったのは1783年 9月18日ですから、満76歳でした。亡くなった場所はロシアのペテルブルグです。
 レオンハルト・オイラーの父はパウル・オイラーといい、バーゼル大学で神学を学んだ人でした。卒業して牧師になったのですが、数学が好きだったようで、大学時代にはヤコブ・ベルヌーイの講義にも出席していたそうです。ヤコブの12歳下の弟がヨハン・ベルヌーイですが、パウル・オイラーとヨハンは学生時代、ヤコブ・ベルヌーイの家に同居していたこともあるそうです。卒業してプロテスタントの牧師になったパウルは、やはり牧師の娘であるマルガレーテ・ブルックナーと結婚しまし、レオンハルトが生れました。生地はバーゼルですが、1歳のとき、一家はバーゼルから遠くないリーヘン(Riehen)という町に引っ越しました。オイラーはここで成長しました。父パウロは多少数学に通じていましたから、少年オイラーに初歩的な数学を教えることができました。
 以下、レオンハルト・オイラーのことを単にオイラーと呼ぶことにします。1720年、13歳のオイラーは父と同じバーゼル大学に入学し、バーゼルに移り、母方の祖母といっしょに暮しました。聖職者になって父の教会を継いでほしいと期待されていましたので、神学を学んだのですが、父の教育により数学への関心をかきたてられていたため、自分で勝手に数学の本を読みました。大学で数学の講義を聴いたわけではなかったのですが、ヨハン・ベルヌーイからプライベートなレッスンを受けました。オイラーは独学で数学を学び、週末あたりにヨハン・ベルヌーイを訪ねて疑問を正すというふうでにして、レッスンが進行していきました。ヨハン・ベルヌーイはオイラーに秘められた大きな数学の力にすぐに気づきました。
 オイラーが遺した未完成の自伝には、次に挙げるような記事が出ています。

《私はすぐに、著名なヨハン・ベルヌーイ教授に紹介してもらう機会を得た。ベルヌーイは非常に忙しかったので、個人授業をすることをにべもなく断った。だが、ベルヌーイはずっと値打ちのあるアドバイスをしてくれた。それは、もっとむずかしい数学の本を自分で読み始め、可能な限り一生懸命勉強するように。障碍や困難に出くわしたら、毎週日曜日の午後、訪ねてきてもよろしい、というのであった。ベルヌーイは、私の理解できなかったことを何でもみな親切に説明してくれた。》

すぐれた数学者の個人授業にまさるレッスンはありません。ヨハン・ベルヌーイが父の友人だったことも有利に作用したことと思われます。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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