1723年,オイラーはデカルトとニュートンの哲学思想を比較する研究により,哲学修士の学位を取得しました.哲学修士というのは,英語のMaster's degree in philosophyを試みにそう訳してみたのですが,実体はどのような学位なのか,よくわかりません.今日の大学制度での学士,修士,博士とは別物であることは間違いないとして,オイラーの時代の大学制度を研究してみないことには何とも言えないところですが,卒業はさらに三年後の1726年ですので,哲学修士の取得は卒業にいたる一里塚という感じでしょうか.
ともあれ哲学修士を取得した後,1723年の秋から神学の勉強を始めました.牧師になってほしいという父の願いに応えようとする心情もあったのです.ところがこの方面の勉強もなかなかたいへんで,旧約聖書はヘブライ後,新薬聖書はギリシア語で書かれていますから語学の勉強も必要になります.オイラーはこれらの科目の勉強に数学に対するほどの熱意がもてず,そのために父の同意を得て専攻を数学に変更しました.オイラーの数学の力を見抜いたヨハン・ベルヌーイが父を説得したのですが,数学なら父の愛好する学問でもありましたし,当代を代表する数学者で,しかも若い日の友でもあったヨハン・ベルヌーイに数学の能力を請け合われたとあれば,父にしても拒絶を貫き通す理由はなかったのではないでしょうか.ただし,大きな決断であったこともまた間違いありません.
1726年,オイラーはバーゼル大学を卒業しました.在学中,熱心に数学を学び,ヴァリニョン,デカルト,ニュートン,ガリレオ,ヴァン・スクーテン,ヤコブ・ベルヌーイ,エルマン,テーラー,ウォリスなどの著作を読みました.これらの著作家たちの作品を網羅すれば,当時の数学のほぼすべてを,しかも原典に沿って学んだことになりますし,師匠はヨハン.ベルヌーイですし,最高の環境でした.在学中なのか卒業後なのか,細かい日時ははっきりしませんが,卒業の年の1726年にオイラーは一篇の論文[E001] 「抵抗のある媒体内の等時曲線の作図」を執筆しました.この論文は学術誌Acta Eruditorum (学術報告),1726年, に掲載されました.たった3ページのノートですが,生涯で優に800篇を越えるオイラーの諸論文の劈頭に位置する論文です.このときオイラーは19歳でした.
Acta eruditorum(学術報告)は,1682年にドイツのライプチヒでオットー・メンケが創刊したドイツの最初の学術誌です.オイラーの最初の論文もそうですが,掲載論文はみなラテン語で書かれています.1682年から1731年まで,全部で50巻まで刊行されました.