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山田又吉の手紙114 学校に通う道

第82書簡の続き
〈友達さへなければ学校よしても大ていこまらないがな。今によくなつて早く行ける様によく養生をしよう。而して中にも会ひ、安倍を喜ばし、たよりなく居る北島に会ひ、北川と遊び、其他石神井や方々見たいな。君の家へ行く道を見てみたい様だ。君は大学へは何の道を通つて行くか。筆記帳と弁当との黒の風呂敷にインキをさげて居るのか。学校で遊び時間は何をして居る。昨夕は床に入つて君と話さない前の教室での有様を思つた。中をちつとも知らなかつたな。細長い人位に思つてたらしい。今ふと思ひ出した。中々口の達者な傍へもよれない東京人だわいと思つたのがあるらしいわい。而して僕がさう思つたグルッペがある様だ。中が其中に居る時は知つて居るかも知れないな。〉

ここまでが2月4日夜の文面です。

〈今見れば今日の雪空がすつかり晴れて澄んだ星と月と白雲とが見える。風もおさまつて冷たい空気が窓から流通して居る。昼間は雪だからねて居た。姉君、君の事を思つて居た。こんな事を思つた。僕が最も初め小学校で哲学的(?)な問題にふれたのは警察や巡査でもなかつたら悪い事でもするかつて小学の先生がきいた時に、何故悪い事をしてはわるいのか僕には分らなかつた。といふよりさうなればわるい事をする方が好いのかしない方が好いのか分らなかつた様だ。又も一つは或子供が不孝なので親が叱つたら、子供がこんな子供にあなたが生みつけたのだと返事した。それは好い事かわるい事かつてきいた。僕は子供の言葉は成程尤もだ。併しどつちが好いのか分らなかつた。其時子供が悪いと思ふ人は手を上げてと先生がいつたら大抵の生徒が手を挙げたので僕も分らぬながら挙げた。併し何故さうだかは分らなかつた。
 人のを見て手を挙げた性質は今でも持つて居る性質だ・・・〉

山田さんの病気はなかなか快方に向かう気配を見せず、療養の日々がすぎていきました。学校をやめてもたいして困らないけれども、友だちのことは念頭を離れないようで、まるで友だちがそのまま学校であるかのようです。山田さんが一高に通ったのは実際には二年ほどのことにすぎないのですが、多くの友人に出会い、学校に通えなくなってからも友を思う心情はそのまま生きています。山田さんの生活にとって、「友情」はいかにも重い意味を担っています。
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山田又吉の手紙113 君の手紙はいつもうれしい

第81書簡の続き
〈全体に此頃は君の手紙いつもうれし。僕はどうしてかう幸だらうと思ふ事がある。九州の所を教へて呉れ。母に此間君が大阪への手紙を読んで聞かせた。見たさうだつたから読みませうかといつたら読めといつた。親しいのがうれしかつたらうと思ふ。宇野が中に宇野へ手紙を書けといつて見ろといつた。中の事をよく話した此頃、大阪への中の手紙も宇野は見た。宇野は宇野に友達がもつとあつても好いなといつた。中は面白さうだとも曰つた。山田も宜いけれ共深刻でないので物足りないといつた。中を物足ると思つて話相手にしたいのかも知れない。
 僕の病気は異つた事なし。どしどしよくなれだの読書でもしろだのいうて呉れるのは非常にうれしく勇む気が出る。二階へ君がいつたのは寂しげだ。〉

最後の一文、「二階へ君がいつたのは寂しげだ」というのはどのような意味なのでしょうか。

〈当分御無沙汰するつてよろしい。事務をよく片つけてしまへ。僕は手紙はかく。一寸筆をやすめると今日は筆が氷る。室は外界と空気の流通を保たしてあるからだらう、寒い。ねやうねやうと思ひながら書いて居る。
 北川さんへも久しく行かない。あした風がやむだら行かう。岡本さんは随分久しくなる。泰さんにも御無沙汰。此頃手紙は君にばかりになつてしまつた。
 君が自分勝手にして殆ど自由で居られるのがうれしい・・・
 僕はもう学校なぞ殆ど何うでも宜いな。学校へ出なくとも是れからは一人でやれさうだ。
 暁、夕、雨の日は此頃いかゞ・・・〉

このごろは中さんにばかり手紙を書いていると、山田さんは言っています。こんごろというばかりではなく、第一書簡から数えても、81通の手紙のうち65通が中さん宛の手紙です。

山田さんの手紙
第82書簡
明治39年2月4日夜、5日
播州須磨より東京へ
中勘助へ
〈・・・昨日の手紙は言いひのこした様で物足りなかった。といつても書く事があるのでもないが中の孤独をきつく感ずるのだ。
 今日は嵐。一日たれこめて暮した。日曜だが中は何うしたか。北川は楽しく暮したらうか。此間の手紙で安倍が日曜か土曜に訪ねる位なものだとあつたので淋しく思つた。妹とはよく話さないが、今日は北川が尋ねたかも知れぬなぞ思ふ。〉

山田又吉の手紙112 一陣ずつの風

次の手紙の日付は1月17日ですが、山田さんの所在地はまだ大阪です。

山田さんの手紙
第80書簡
明治39年1月17日
大阪より東京へ
中勘助へ
〈昨日帰る積りだつたのが明日にかへられた。
 人間の嫌なところは大てい社会組織から起つて居る。一人一人で住んで居れば面白い性質の多い少ないはあらうが嫌な性質は持たないだらうなぞと思つた。これも嫌な事を見聞したからこんな事を考へたのだ。
 寺へ行つて坊主と碁を打つたら十三目おいてもすぐまけた。宇野にも会つた。
 自分の性質の面白いところも嫌なところも教はるまでは少しも分らないのだな。又須磨から書かう。
 須磨には写真手紙が来て居るだらうなぞと思ふ。〉

山田さんは1月18日に須磨の病院にもどりました。

山田さんの手紙
第81書簡
明治39年1月20日
播州須磨より東京へ
中勘助へ
〈僕の室は非常に乱雑だ。机の上にも砂糖瓶焼酎瓶ナイフ二つはがき状袋半紙中の手紙三つ安倍のはがき一つ硯に墨と之れ丈け乗つて居る。此辺一面にちらかつて居る。手拭痰はき炭とり火鉢紙屑習字手本時計検温器風琴はしばこたばこきせる書物が二三冊。後にはふとんがしいてある。椅子が一脚ある。そこいらの釘には一面に着物がかけてある。僕はシヤツを二枚きて綿入を二枚に羽織をきて襟巻をして時々右の手を火鉢にかざしながらこれを書いて居る。
 後ろの柱にはインバネスがかゝつて居たのが今落ちたので後の棚に乗せた。此頃は風の吹く日もあまり風がないが時々に後ろの山から一陣づゝの風が吹き下ろす。今日はあらし。めしの時も随分混雑だよ。汁をば鉢にのせたり茶碗にバタをしき玉子をやいたり砂糖をつけたり焼酎をさしたり色々にして食事をする。
 此春は多分上京する。それから房州にでも一時行くかも知れない。楽にして居る。君の此頃の手紙あまり略しすぎてわずらふ事が時々ある。分る事は分る。〉

山田又吉の手紙111 豊楽亭記

山田さんの手紙の続き
〈子供の時分から妙な木版画の本を拡げて居たので知つて居た古い本屋できいたら、小僧が「ソトバの手本だつか」なんていつて居たがとうとう傍に居た爺さんがツンボ耳に聞きつけて(其本屋は中村勘助といふ名だつた)沢山書帖を出して来た。舶来かつてきいたら唐本が五十銭やそこらであるものか、十円からしますつて笑はれた。誰れでもこんな下手な字なんか書かないのだが、石工がいゝ具合になほしてしまふのだなぞいつて居た。東坡のには草書で何とか論が非常に面白い出来だといつて居た。気をのまれてまけてしまつて快く三冊東坡のを買つて来た。豊楽亭記(前の通りの品)画説(行書)も一つは草書の読めない手本だ。酔筆なんて山陽なぞも酔うて書きよんねな、酔筆やつてに二十銭にまけておきませうなんていつて居た。すました驚く事はめつたになささゝな爺だつた。〉

「東坡」は「蘇東坡」で北宋の詩人。名高い書家でもあり、「豊楽亭記」は蘇東坡の書のひとつです。「画説」というのはよくわかりません。試みに国会図書館の近代デジタルライブラリーを閲覧してみましたら所蔵本がありましたので、しばらく眺めました。明治十三年の出版で、出版社は小林久兵衛という人です。

〈帰つて来たら君の手紙、うれしく読んだ。読書よりももつと落付かうなぞと考へた。併しうれしかつた。姉君に会つた話をしたら父は喜んで居た。ヒゲをそつてから行つたかなぞ聞いて居た。僕の友達は皆親切な人だと父は思つて居る・・・君の状袋の字を見てアリトメチカには「甘い事書きよんな」といつた。
 君の手紙に山田は気楽ぢやないが中は気楽だとあつたのでそれならばよいと思つてうれしかつた。然し気楽ぢやないのだから矢張り不安だな。今は其不安はなくなるだらうといふ気がして居る。
 三人別に手紙をだすと一つ事を三つに別けて書かなければならぬ様な気がする。さうでないと皆中に書いてしまふ。是れから宇野方へ行く。〉

山田又吉の手紙110 冬の休み場

山田さんの手紙
第79書簡
明治39年1月15日
大阪より東京へ
中勘助へ
〈大阪の家の炬燵にあたつて之を書く。昨日は家に帰つて非常に楽しかつた。先づ僕がよくなつて居た事、君の大阪へ呉れた手紙があつた事、赤坊が大将の如くに居る事、他所へ子に行つて居る妹が(七歳)其母と来て居た事、習字帖を書いた事なぞが事柄である。君と姉君と北川とに手紙を書かうと思つて居たが、話して居て遂に遅くなつてねてしまつた。昨日便所で弟や妹の騒を聞き、又君や姉君やの事を思ひふけつて居たので母があまり遅いと気にしてききにきた。前の小三郎は便所で倒れて居た事もあつた。〉

「よそへ子に行っている妹」というのはよくわかりませんが、養子に出たのでしょうか。その子は7歳で、母といっしょに山田さんの家に来ていたというあたりも不明瞭です。その母親と山田さんとはどのような関係になるのでしょうか。

〈此炬燵は僕の家の冬のやすみ場だ。このせまい場所にねてしまつて居た事なぞを思ひ出した。僕の向ひ側に赤坊がもたれ掛かつて居る。中々力の入つた顔をする。巻ぶとんの中で大活動をやつて居る。シッカリした目をして居るのでたのもしい様だ。小さな弟にきいたら自分の孫だといつた。姉がすつかり御母さんになつて居る。母も父も皆機嫌がよい。
 都会は中々僕に取つてあはれふかゝつた(昨日は)。若い男のハイカラが最も憫に感ずる。大阪では出会す書生は嫌な奴ばかりだ。これはいふまでもなからうが。東京ではさうでない。
 東京の友達への贈物に何か好いものはなからうかと最賑な所を通つて来たけれ共何も見出せない。随分注意したけれ共面白いと思つた物もなかつた。姉君の此間の神戸行きを思ひ出てうらやましく思つた。習字帖を買ひたいと気がついて和本のある家ではきいて見たが、小僧め等知りもしないで習字手本をきくと「オマヘン」とはねつけてしまふ。
 今めしを食つて来た。〉

山田又吉の手紙109 中という人は恋からできている

山田さんの手紙の続き
<中といふ人格は恋から大部が出来たのだと思つた。
 中、安倍、藤原に何しろ僕はすくなくとも知りさうにもない事を多く教はった。其他魚住にも宇野にもさういふ事がありさうだ。
 十一日夜嵐になつて来た。もうねる。
 今日京都から葉書が来て午後電報が来て僕は神戸に行つて一所に須磨まで来た。十分程を御話した。何をして居たか分らぬ間に驚いて降車した。笑顔、目をうるまして居られた笑顔が心に残つて居る。
 君が姉君の有様を何んな風だらうと思つて僕の便りを待つて居るだらう等とも御話があつた。僕はぼんやりして二人の間に腰かけて平気で居た。だが僕が元気さうなので喜んで下さつた。神戸では後から驚かしたら大分驚いて居られた。行つておしまひなさつたので悲しい・・・
 いろんなとぎれとぎれな御話をした。ほんとに久し振であつたといふ気がした。君の兄さんはニコニコ笑つて居られた。鳥の話や花壇の話や訳分らずにきいて居た。君がやせた事やカンシヤク許り起して居る事もきいた。此の手紙直ぐ出して中のカンシヤクも受けたい。人込みの中だで小さく見えた。
 初めどうも人込の中でさがしまはつても知れないだらう。会へないかと思つた。女の顔を夜だからのぞきまはる様にしてさがしまはつた。最一度と列車をさがして行つたら向うふ側にこちら向いて居られたので分つた。併し違はないかとよく見た。小さく見えたから。やはりさうだつたから上つて後ろから中さんと呼んだ。大分驚いた顔をなさつた。兄さんとも話し姉君とも話した。其前に乗つて居た同行の方の夫人はコレは違ふと後ろから顔をのぞきこんで覚えて居た人だつた。
 さよなら。>

 山田さんは1月12日に末子さんに会いました。まず京都から葉書が届き、それから午後になって電報が届きました。金一さんと末子さんは京都で一泊したのでしょう。山田さんは神戸に出て末子さんを見つけ、同じ汽車に乗って須磨まで同行しました。
 金一さん、末子さんといっしょの人がいたとも記されていますが、その人はたぶん稲田龍吉(いなだ・りょうきち)という人と思います。稲田龍吉の経歴は金一さんとまったく同じで、第一高等中学校から帝国大学医科大学に進み、帝大では青山胤通(あおやま・たねみち)教授が主宰する内科教室に学びました。留学も同じで、新設の京都帝大福岡医科大学教授に就任したところも同じです。稲田龍吉は第一内科、金一さんは第二内科の教授になりました。

山田又吉の手紙108 藤色の手紙

第78書簡は三日にわたって書き継がれました。

山田さんの手紙
第78書簡
明治39年1月10日夜、11日夜、12日夜
播州須磨より東京へ
中勘助へ
<僕も思ひをひそめて落ちる丈落ちて落ち付きたいものだ。>

10日夜に書かれたのはこれだけです。

<今北川と北島と君と三通手紙を一所に書きかけてあるのだ・・・
 三人連名の経済法は北川が嫌さうだつたのでやめるが併し大抵の事は北川に書きたい事が多い。一寸飴をなめたりひるねをしたりなんでも北川には書く気になる。
 中には何にも書けないので物足りない。此間から古手紙を全部読み返した・・・中には今手紙を書いてもよく読まないだらうなぞと想像する。今九時もすぎた。もし東京に居たら中の所にでも行つてあの室で帰り仕度をして居る時分だな。餅を食つたかも知れない。いつも中の所からは満足してあの道を帰つた。寒い時分も暑い時分もよく通つたな。よく寝る時はあした学校だと思つていつも惜しかつた。初の間は夕方になるといつも行きたくなつて、併し行伝手も中を困らせる許りだ。又僕も困つて来るばかりだなぞ思ひながらよく迷つたが、さうなると大抵は行つたな。
 豊国へ誘はれた時も嬉しかつた。栗原の家で何とか言つたといふので後で藤色の手紙を呉れた時もうれしかつた。京都の山寺の玄関で君が呉れたはじめての長い手紙を腰を掛けながら読んだ時も嬉かつた。君が好きなので君がえらくなければならぬと思つて色々に説明してみてた様だ。グラウンドで藤原に、中は単純だけれ共・・・何とかつて忘れたが言つた事もまだ頭にある。中と一所になつて酒許り呑むで居ると言つて安倍と藤原とが忠告して呉れた時もあつた様だ・・・中が嫌になつてしまへば楽だらうと思つた事もあつた・・・かう書いて見ると苦しみと言つても僕のは大分理屈ッポクて面白からぬ種類だつたな・・・いつかけんくわした時分からは僕も大分変つて居る。あの当時は勿論がつかりして居たが其後も余程身の程を知る様になつて居る。今思ひ出したが初めの内は矢張り嫌だから考へない様にして居たらしかつたが僕程君が僕を思つて居ないのじやなからうかという懼があつた。それが大なる苦みだつたといふよりは不条理だつた。君も僕と同じでなければならぬと初めからきめて居た様だ。此頃はそんなじやない。大胆だ。此間安倍を感情の烈しからぬと書いたがそれは考へて見ると不確だ。かう思つたか思はなかつたかといふ事も不確な位だから取消す。それから此の方が確だと思ふ。
 感情が天真でない。主としてまけじだましひ。儒教でまげられてある感情だと思ふ。子規と似て居るといつた事だよ。勿論僕の事は別の話だよ。飴が机にこぼれてニチヤニチヤする。北川の遊びの材料になるな。>

ここまでが11日の夜の手紙です。

山田又吉の手紙107 空想の世界に遊ぶ

山田さんの手紙の続き
<中に対する批評(中は何んな人だと思ふ事)は初めは定まつた物があつた様だけれ共安倍やら江木やらと一所になつてからゴタゴタになつて分らなくなつてしまつた。もう僕には分らないものときめて居たのだつた。そんな風だつたから中に対する批評も消えてしまつたのだつた。僕の分らぬといふ範囲はあまり大きく思ひすぎたあやまりだつたと思はれる。
 安倍は恥しいといふけれ共恥かしがらいでもよい事だと思ふ。さうではないか。
 今安倍は善い道を進むで居るかの様に思はれる。人に累されたくないといふのなら大胆に思ふ通りにやり給へ。中に就ては僕は君の代りをも勤めておいて上げるといふ気があるんだが、こんな事は殆ど空想にすぎないらしい。
 唯君は大胆にやり給へ。自然は自然の儘発展して行くのだから。又中の事に就て何か出来る事で中の喜びさうな、中の助けになりさうな事ならば屹度僕がしないではおかないだらうと思はれる。気の付いた事は安倍も中も僕に話せ。或は命ずる事は命ぜ。
 安倍の好奇心を一寸みたしてやらう。名は三好披扶美。子規に似て居る云々は漠として居たのだからよくは云へない。儒教的気風をおびて居る事、強い事、まけぎらひ、えらくならうといふ気、感情が烈しくない事、理性のあらい事、こんな事位だらう。きゝ返されたら返事に困るかと思ふのもあるが、思つたらしいから書いておく。>

三好披扶美というのはどのような人なのか、まったくわかりません。

<此頃は簿記はそんなに分らぬでもないと大分思ふ様だ。今此手紙を書いてる中にも僕は矢張り分らぬ屋だから其つもりで居れなぞと思つた。
 中はしばらく手紙を呉れない。
 中が弱つて居るだらうと思つて居るのだが、何か書かうとしては弱つては居ないと言つて来るであらうなぞと思ふ。我儘でも何でもいつて呉れないか。
 中は思ふ存分己れに命令を下したら何んな事共を望むかきゝたい。したくもある。
此間僕の戒名や遺書やを空想した。遺書は僕の有様を弟共に年頃になつたら読めとて委しく書いてやる事なぞだつた。葬ひは家の人丈けでする事。父母には其前から心底あきらめ喜んであきらめて貰ふ事。悲しくはあらうけれ共謂はゞ宗教的に安心して貰ひたい事なぞであつた・・・
 僕は身体は大事にしてをる。今夜は中安倍はどうして居るかと思ふ。>

 当事者同士でなければわからない微妙な話が続いています。

山田又吉の手紙106 中は詩人だと思っている

山田さんの手紙の続き
<これから安倍への返事を書かう。安倍は思ひ切り大胆にやるのが好いと思ふ。中がゲーテで僕がフォッスの様になるのをあの本を読むだ自分によく思つた事があつた。>

ゲーテとフォッスということでしたら、『ゲーテ言行録』が念頭に浮かびます。訳者は荻原藤吉、出版社は政教社。発行日は明治四十三年七月四日です。荻原藤吉は俳句の荻原井泉水のことで、山田さんや中さんの一高の同期生です。山田さんが話題にしている本としてはこれがぴったりなのですが、手紙の日付と本の刊行日が合いません。あるいは山田さんや中さんや安倍さんたちの間でこの本の原書が読まれていたのかもしれず、安倍さんには翻訳書を出す考えがあったのかもしれません。そんな空気が、少し後に荻原藤吉の手になる訳書の刊行という形で現れたのではないかとも思います。

<さうなりたいといふ希望と又それを打消す考とがあつた様だ。中は詩人だと思つて居る。併しそれは内容の事で筆紙の上でも詩人であるか否かは僕は知らない。僕も始めは中をあはれみ同情するのが好きだつたけれ共変つてしまつた。中は思ふ通りに物事をやつて居る。もう中は成り立つた人間といふよりは方針(人生観)の定まつた人間なのだ。併し其きまつた人生観は好い味も中々あるが、嫌な所もあると思ふ。
 嫌な所とは何かといふ事は気が着くに従つて書く事にしよう。中が懐疑をおびて来たのが此の嫌な所(欠点)のあつた結果だらう。>

山田又吉の手紙105 大きな事件

山田さんの手紙の続き
<山田が羊で中が酉、北川が申。うまくあつて居るな。安倍は変種の羊だ。
 今めづらしく栗原一郎から年始状が来た。安倍からも葉書が来た。うれし。安倍のはがきには中は最も愛す可き友ならずとするも大に敬す可き友なりと思ふ(併し間違つて居るかも知らず)。
と書いてあるが、僕もさう思ふ事がよくある。併しそんな感じの起る時は一寸よそよそしくなつてちと心細い様な時だ。まだ其時にはその尊敬の念をも疑ふ気がよく起る。今停車場まで行つて来た所だ。姉君は何時御通りになるのやら。多分会ひさうにもなし。海は静かに加田の岬とまが島なぞ水にうつつて浮きたる島の様に見ゆ。
 停車場には学生を沢山見かける。写真が此処にある。中の身体がまづく写つて居るな。中の口があざわらひさうによく見える。(以上中、安倍両氏へ)>

山田さんはここまでを8日正午に書きました。金一さんと末子さんの福岡行はまだ実現していない模様です。「加田の岬」「まが島」等々、知らない地名がまた登場しました。
 ここまで書いた後、二通のはがきが届きました。一通は安倍さんから、もう一通は末子さんからです。末子さんのはがきには京都着の日時が記されていました。
<落付いてゐない。昼手紙を書いた後へ姉君からのと安倍のと二つ手紙が来た。十日に京都に御出でになつといふ事が大きな事件だ。それからまだ北川が汽車の中から書いた葉書が其後へ来て居る。それには近江春照といふやさしい消印があつた。皆くりかへし読むだ。
姉君の用事許り書いた葉書は最もよく読むだ。それから散髪についてゆつくり順序を考へて居た。あしたは汽車の時間を見て来よう。
 安倍の手紙を読むで安倍に書きたいと思つた事は沢山ある。北川には二三日は北川に御無沙汰になるといふ葉書を出さう。
 此の写真の中も落ち付いて居ない体付きだな。何うかして中に喜んでほしいと思ふ。姉君に京都で御目に掛らうとも思ふが朝余り早く京都へ御着きになるのでは行く事が出来ない。あしたきめるのだ。>

懸案の金一さんと末子さんの福岡行はいよいよ10日と決まりました。。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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