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紀見村時代の岡潔先生8 岡先生の話をもう少し

今月の半ばになって急に応用数学とは何かというテーマで短い文章を書くことになりましたので、そのために下書きのつもりで短期連載を試みました。それが終わるといよいよ市民講演会が近づいてきましたので、少々不安でもあり、話の組み立てを考えてみるつもりで、またも短期連載となりました。講演のテーマは「紀見村時代の岡先生」というのですが、連載を始めてみたところ、なぜか紀見村以前の話に終始してしまい、それも「治宇さん」こと中谷治宇二郎と岡先生の交友の紹介が中心になりました。紀見村時代の岡先生については、岡先生本人による後年の回想もありますし、以前、現地を訪ねておもしろいエピソードのあれこれをいくつも採集しましたので、相当に詳しく再現できそうに思います。ではありますが、肝心なことは、広島の大学に勤務していた岡先生が、昭和13年6月の時点でどうして帰郷したのかという、その理由を明らかにすることです。それで、紀見村時代を語るためには紀見村時代以前を語ることがどうしても必要で、しかも紀見村時代以前の最大の出来事は治宇さんとの出会いと別れです。
紀見村時代の岡先生の日々を一貫して支え続けたのは治宇さんとの友情です。フランスで出会い、まるで音叉が共鳴するように学問の理想を語り合った治宇さんは亡くなりましたが、紀見村時代の岡先生の心には、かつて治宇さんと語り合った学問の理想がそのまま生き続けていたように思います。人を相手にして学者になるのはやさしいが、学問を相手にして学者になるのはたいへんなことですと、病気で床を離れることのできない治宇さんはしみじみと述懐しました。そうして日本に帰ったら10年くらい文句を言わずに勉強すると固く決意したのですが、病気は重く、この願いはとうとうかなえられませんでした。ではありますが、ひとり残された岡先生の数学研究の姿を顧みれば、治宇さんの述懐と決意は岡先生とともに生き続けていたとぼくは思います。
紀見村の岡先生には人の理解を得られない変わった行動が目立ちましたが、岡先生は学問を相手に学問をしているのですから、だれにどう見られようとも気にかかりません。偉大な発見を経験して論文を出しても、注目してくれる人はなかなか現れず、岡先生は孤高でした。ですが、岡先生は学問を相手に学問をしているのですから、人に認められなくても気になりません。岡先生の心には治宇さんとの友情が生きて働いているからそんなふうになるのですが、ここにおいてあらためて思うのは、友情の力の強さです。岡先生はこのあたりの消息を指して、数学の本質は情緒であると言い表したのであろうと思いますが、この場合の情緒の実体はきわめて具体的で、治宇さんとの友情こそ、岡先生のいう情緒そのものでした。
昭和13年6月末日から戦中戦後をはさんで昭和26年4月はじめまで、13年ほどに及ぶ紀見村時代の岡先生は、治宇さんとの友情とともに日々をすごしました。治宇さんが遺した大量の書簡を読み続けるうちに、おのずとこんなふうに考えるようになりました。これを講演のテーマにしたいと思います。
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紀見村時代の岡先生7 紀見村時代を生きる

紀見村時代の岡先生を語ると言いながら、紀見村時代が始まるまでの話ばかりになってしまいましたが、ここまで準備しておけば、岡先生の人生にとって紀見村時代がどのような意味をもっていたのか、十分によく諒解されるように思います。もはやわざわざ強調するまでもないことと思いますが、昭和13年6月の岡先生の帰郷は治宇さんとの別れに誘われた出来事であり、他の人たちの目にたとえどれほど奇矯に見えようとも、岡先生にとってはそうするほかに仕方のないことでした。治宇さんの死のもたらした影響の、はかりしれないほどの大きさが思われます。ひとくちに友情といっても深浅さまざまな姿がありうると思いますが、岡先生と治宇さんの間に見られるような友情になると、どこかしら神秘の影がくっきりと射しています。友情にはたしかに、人の心のもっとも深いところに働きかけて、人を動かす力があります。
 帰国した岡先生はフランスから持ち帰った研究テーマを放棄して、新たに大きな困難の伴うテーマを設定しました。昭和9年の暮れあたりに研究の見取り図ができたようで、年明けの昭和10年早々から日付入りの研究ノートを書き始めました。同年夏には札幌で「上空移行の原理」というめざましい発見が起こり、最初の関門が乗り越えられました。後年、岡先生はこのときの心境を回想して、「発見の鋭い喜び」ということを語っています。よほどうれしかったことと思いますが、この時点ではまだ治宇さんはこの世に生きていたことは決して忘れられません。
 数学的発見は紀見村時代にも見られ、第二、第三と発見が続きました。ところが岡先生はもう発見の喜びを語りませんでしたし、それどころか、これも後年の回想ですが、高木貞治先生に宛てた手紙の中で、

「其ノ本質的ナ部分ハ解イテ了ツタト思ツタ(今デモソウ信ジテ居マスガ)其ノ瞬間ニ、正確ニハ翌朝目ガ覺メマシタ時、何ダカ自分ノ一部分ガ死ンデ了ツタヤウナ気ガシテ、洞然トシテ秋ヲ感ジマシタ」

などと書いているほどです。昭和15年6月に経験した第二の発見の回想ですが、「洞然として秋を感じました」というのですから、「発見の鋭い喜び」はもうありません。どんな発見をしても、喜びを共にする友がいなければ喜びはありません。この発見の時点では治宇さんがこの世にいなかったことが、岡先生の心に秋風を感知させたのでしょう。
 紀見村時代の岡先生のふるまいについては、村の人たちにうかがったエピソードがいくつもありますし、岡先生がどのような思いを抱いて数学研究に打ち込んでいたか、それらのひとつひとつに岡先生の心模様がありありと現れています。ここまで書いてきて、そんなふうに語ればよいのだとあらためて思い、講演ができそうに思えてきました。資料も揃いましたし、200枚ほどの写真をお見せする準備も整いました。講演の前にはいつも「今度はがんばるぞ」と思うのですが、終わるといつも「今日は失敗した」と思ってしまいます。今度は「失敗だった」と思ったりしないように、がんばってみたいと思います。

紀見村時代の岡先生6 治宇さんの手紙

 ここまで書いてきてようやく紀見村時代の岡先生を語ることができそうな段階に到達しましたが、紀見村時代の前段階をどうして詳しく綴ってきたのかというと、岡先生の人生において治宇さんとの友情と別れという出来事を重く見たからでした。治宇さんとの交友の姿が明瞭になってくるのにつれて、パリで治宇さんと知り合ったことが岡先生の人生と学問に神秘的な影響を及ぼして、まるで治宇さんの死に誘われるかのように帰郷したかのような印象さえ受けたものでした。帰郷までに起こった具体的なあれこれのことはともあれ、治宇さんを失ったことが、もっとも根源的な帰郷の誘因になったとぼくは思います。たとえ治宇さんの病気は治らないとしても、生きていてくれさえいれば、大学を辞めて帰郷するような事態にはならなかったに違いありません。治宇さんは岡先生にとってそれほど特別の人だったのですが、このあたりの消息は他人の理解をことごとくはねのけてしまいますので、岡先生の行動はただ異様な印象を与えただけにとどまりました。岡先生の奇抜な発言や行動はよく知られていますが、そんなあれこれの根底にあるものは、それは岡先生が生きていた岡先生ひとりきりの世界を支えている何物かなのですが、「治宇さんとの友情」でした。
 それで岡先生と治宇さんの交友はどのようであったのかということが気に掛りますが、詳しく再現するのもたいへんですので、ここでは治宇さんの手紙の一節を紹介して、この二人の若い日の友情をしのびたいと思います。
岡先生と治宇さんは単に仲のよい友だちというだけではなく、学問の友でもありました。岡先生は数学、治宇さんは考古学と、携わる領域は異なりましたが、学問に理想を追うところは同じで、そのあたりに深く共鳴し合うところがありました。治宇さんは単身でパリにやって来たのですが、故国、すなわち日本の盛岡に奥さんの節子さんと小さなお子さんを残してきました。パリの治宇さんは到着した当初は講演したり論文を書いたりと大活躍だったのですが、病気になってしまいましたので、講演や論文のような通常の学者風の活動は頓挫しました。他方、治宇さんは大変な分量の手紙を書きました。なかでも際立っているのは節子さんへの手紙で、毎日のようにと言っても言い過ぎではないほど、実にひんぱんに書いています。ぼくはそのすべてに目を通しましたが、大量の文書の中でとりわけ心を惹かれた箇所を引きたいと思います。
次に引くのは岡先生と出会って間もないころ、1929年12月に書かれた手紙です。出会ってすぐに、たちまち仲よくなった様子がよく伝わってきます。

治宇さんから節子さんへ
パリから盛岡へ
《こちらで出来た親友の岡さんと云う人――京都帝大助教授。帰ると広島文理大学の教授に行く。私とは一つ年上。数学者――は、今でも他へ料理を食いに行く時や、旅行やむだな一切の私の小遣を自分で出して呉れている。私になる可くこちらに居させようとの心遣だ。》

次に挙げるのは1931年に書かれた手紙の一節ですが、治宇さんはローザンヌのサナトリウムで療養中でした。

1931年8月20日
治宇さんから節子さんへ
ローザンヌから盛岡へ
《私は生れて三十年して初めて真の友情と云うものを見た。岡さんは私がこちらで知合っただけの友人だが、限なく私を愛し、私の学問を愛して呉れている。私は学問上でも一つ年上の数学者に多くのものを得た。そうして物質的にも多くの援助を得た。昨年夏丁度私は金が途切れた。その間二月私を田舎に伴ひ自由に考古学上の調査をさせて呉れた。今度も亦自ら進んで私の二ヶ月間の転地の費用を負担する事を申出られた。私はこうしてスイスの療養所へ発った。》

「私は生れて三十年して初めて真の友情と云うものを見た」という治宇さんの言葉は感慨が深く、ぼくらの胸にしみじみと迫ります。岡先生の紀見村時代の数学研究の姿の実体は、治宇さんとの間に芽生えた「真の友情」の中に宿っているというのが、この手紙を読んでからこのかたのぼくの確信です。
岡先生は治宇さんの生活費と療養費のすべてを引き受けていました。留学が三年目にはいって文部省からの給費が途絶えましたので、郷里の父からの送金で暮らしていたのですが、何分にも病気の治宇さんの生活を全面的に支えるのですから、全然足りませんでした。それで岡先生とみちさんはパリの安い宿泊施設に移り、細民階層の人たちと同じ生活を続けました。
 それでもサナトリウムはあまりにもお金がかかりすぎますので、トノンという温泉町に貸別荘を借りて、三人で暮らすことにしました。次に挙げる治宇さんの手紙はトノンの貸別荘からのものです。

1931年10月12日
治宇さんから節子さんへ
トノンから盛岡へ
《私もここ二三ヶ月寝て学問の遠い事を知りました。》
《人を相手にして学者になるのは易いが学問を相手に学者になるのは大変な事です。》
《帰って身体をなおして後、十年位文句言はずに勉強して見ます。》
《それで或る点まで到達出来なければ私の性の拙い為ですから仕方ありません。》

人を相手にして学者になるというのは、いわゆる「人に認められる」ということと思いますが、治宇さんはパリでやすやすとこれを実現しました。治宇さんにとって、なんでもないことだったのでしょう。ところが「人を相手にする学問」などはまだ本当の学問ではなく、真に学問の名に値するのは「学問を相手にする学問」であると、病に倒れた慈雨さんは言うのです。人に認められたり認められなかったりするのはこの世の出来事ですから、学問そのものとは関係がありません。学問には学問の理想があり、その理想をどこまでも追い求めるのが本当の学問なのだと、治宇さんは言いたかったのではないかと思います。
 トノンの貸別荘で、岡先生と治宇さんは毎日毎日そんな話を交わしていたのでしょう。それから帰国して昭和11年3月に治宇さんが亡くなり、二年後の昭和13年6月から岡先生の紀見村時代が始まりました。この時代の岡先生についてはさまざまな奇抜な行動が語り伝えられていますが、岡先生が相手にしていたのは「人」ではなく、学問そのものでした。「学問を相手にして学者になる」という、治宇さんが望んでいた学問の理想を、紀見村の岡先生は治宇さんとともに追い求めていたように思います。

紀見村時代の岡潔先生5 紀見村時代がはじまるまで

治宇さんが入院したため、1931年の年末の帰国は中止されましたが、パリの生活も無際限に延長するわけにもいきませんし、翌1932年の春にはいよいよ帰国することになりました。4月1日にマルセーユで日本郵船の筥崎丸に乗り、岡先生とみちさんは病気の治宇さんをいたわりながら三人で帰国の途につきました。5月3日の午後、神戸港着。岡先生はいったん紀見村にもどったのち、広島に移りました。この時点で広島文理科大学の助教授です。治宇さんは妹の芳子さんに付き添われて、伯父さん0の中谷巳次郎が経営する大分県由布院温泉の亀の井別荘に向かいました。治宇さんの病気は肋膜炎、肺結核、脊椎カリエスと診断されました。
 中谷兄弟の出身地は北陸の片山津温泉郷なのですが、零落して、伯父の中谷巳次郎は別府温泉に流れてきました。別府で油屋熊八というおもしろい人物と出会って仲よくなり、奥地の由布院の旅館の経営を任されました。それで中谷家の人々は由布院に集まるようになりましたので、治宇さんの療養先もまた由布院しかありませんでした。
 治宇さんは由布院で療養を続けたのですが、恢復にいたらず、昭和11年3月22日の夜、
午後8時30分と記録されていますが、とうとう亡くなりました。満34歳と2箇月でした。二日後の3月24日に葬儀があり、翌25日はお骨拾いでした。広島の岡先生のもとに電報が打たれ、岡先生は急いで由布院に向かいました。ひとりで出向いたのはどうしてかというと、一か月前の2月21日長男の煕哉(ひろや)さんが生まれたばかりで、みちさんは広島にいなかったのです。岡先生は葬儀には間に合いませんでしたが、25日の朝、到着しましたのでお骨拾いに加わりました。
 これまで岡先生と治宇さんの交友の概略を書き綴ってきましたが、講演のテーマの「岡先生の紀見村時代」はまだもう少し先のことになります。もともと講演の準備のつもりで書き始めたのですが、こんなことでははたして間に合うのかどうか、危ぶまれます。ではありますが、岡先生の紀見村時代は治宇さんとの友情と切り離して語ることはできませんので、冗長になっても仕方のないところです。
岡先生の紀見村時代が始まるのは昭和13年6月の終わりころのことでした。正確に言うと治宇さんの死から二年あまり後の昭和13年6月18日ですが、もっと正確にはこの日の夜7時ころ、岡先生は奥さんのみちさんと二人のお子さん、それに父の寛治さんと連れ立って紀見峠の岡家に到着しました。治宇さんが亡くなった時点で広島大学の助教授だった岡先生は、二年ほど後には大学を辞めて帰郷したのですが、この間に何があったのでしょうか。
 この帰郷のときの様子をもう少し。岡先生はどこにいたのかというと、帰郷の時の所在地は静岡市でした。静岡には岡先生の妹の泰子さんの家族がいて、その縁で岡先生は静岡に滞在していたのですが、大学を休職して(このときは休職で、二年後に辞職になりました)いよいよ帰郷することに決まりましたので、郷里の父が迎えにきたのでした。それならみちさんはどこにいたのかというと、二人の子供といっしょに大阪の帝塚山の親戚の家に逗留していました。北大教授の中谷宇吉郎先生は家族とともに伊豆伊東温泉に長期滞在を続けていましたが、6月17日の朝、岡先生は父とともに伊東に行き、中谷先生を訪ねて挨拶しました。それから翌18日の朝、伊東を発ち、熱海、静岡を経て大阪に向かいました。午後5時、大阪着。大阪で南海高野線に乗り換え、住吉東駅でみちさんと合流して紀見峠に向かいました。こうして岡先生の紀見村時代が始まりました。
岡先生は幼少時にも紀見村に滞在しましたし、粉河中学にも紀見峠から通いましたが、いずれもほんの数年のことでした。それが、昭和13年6月末からの紀見村時代は非常に長く、手話26年の春まで13年ほども続きました。この13年があるがゆえに、紀見峠と紀見村は岡先生の真の故郷になったと言えるのではないかと思います。

紀見村時代の岡潔先生4 治宇さんとの出会い

中谷宇吉郎先生は岡先生がパリで出会った親友ですが、親友中の親友というか、さらに輪をかけた大親友は実は中谷先生ご本人ではなく、弟の中谷治宇二郎さんでした。「じうじろう」と読みますが、呼びにくかったためか、岡先生は「治宇さん」と呼んでいました。それで、この流儀を踏襲してここでも「治宇さん」と呼ぶことにしました。ちなみに治宇さんのほうでは岡先生のことを「岡さん」と呼んでいましたが、岡先生宛の手紙でたわむれに「閣下」などと呼びかけているのを見たことがあります。それと、「ドヤス」という、なんだか不思議な呼び名で呼んでいたこともあります。
 治宇さんは考古学者でした。日本で考古学という学問が始まった当初のことで、いわば草分けのひとりでした。東京で活躍していたのですが、兄の宇吉郎先生がイギリスに留学し、帰国の途中でパリに立ち寄って日本館に滞在しましたので、兄を頼って洋行の決意を固め、シベリア鉄道でパリにやって来ました。パリの北駅に到着したのは1929年7月17日の朝。あらかじめ電報を打って知らせてありましたので、宇吉郎先生が出迎えに行ったのですが、遅れないようにと宇吉郎先生を起こしたのは、徹夜して起きていた岡先生でした。無事に北駅で合流し、車で日本館へ。岡先生と出会い、たちまち親友になりました。よほど馬が合ったのでしょう。
 治宇さんは語学に独自の能力があった人でした。フランス語の読み書きに不自由がなかったらしく、パリの人類学会の人たちと交流し、講演したり、論文を書いたり、パリの学界で着々と頭角を現しました。バノエスト社という美術書の出版社と契約して、日本の縄文文化の状況を報告する著作を出すことも決まりました。治宇さんには奥さんも小さなお子さんもいたのですが、思い切って単身ではるばるパリにやって来たのは大正解で、順風万般の日々が続きました。ところがその矢先に病気になりました。パリに着いて二年目に入ったときのことですが、1931年6月末のある日、レントゲンを撮ったところ肋膜炎が発見されました。すでに相当に悪かったようで、スイスのローザンヌのサナトリウムで療養生活に入ることになりました。
 岡先生の洋行は二年間ということになっていましたので、本当は1931年の春あたりには帰国の途につかなければならなかったのですが、留学期間を半年ほど延長することに決めました。その時期ははっきりしないのですが、二年間の留学期限が切れる前のことですから、3月末までには決断したのでしょう。治宇さんの病気が発覚したのはその後のことになりますが、治宇さんの健康はその時期にはすでに相当に不安定になっていて、帰国の船旅に自信がもてなかったのではないかと思います。留学を半年ほど延長して、その間に治宇さんの健康が回復するのを待とうという考えだったことと推察されます。
 留学の延長は可能なことは可能でしたが、その代わり文部省からの給費が途絶えましたので、それからは郷里の父からの仕送りで暮らしました。治宇さんの健康は回復せず、サナトリウムに入ることになりましたのでお金がかかりますが、岡先生はすべての資金を提供しました。サナトリウムは費用がかかりすぎるというので、まもなくトノンという町に貸別荘をかりて、岡先生と奥さんのみちさんと病気の治宇さんの三人で暮らしました。
奥さんのみちさんは1930年の年初にパリに到着しました。
 治宇さんの病気はなかなか好転せず、半年がすぎても帰国できる状態ではありませんでした。それで岡先生はまた留学を延長しました。岡先生たちは秋になってトノンを離れてパリに移り、治宇さんも帰国の決意を固めて準備に取り掛かったのですが、年末、治宇さんはまた入院を余儀なくされました。

紀見村時代の岡潔先生3 中谷宇吉郎と出会う

紀見村時代の岡先生のことを話そうとしているのですが、その「紀見村時代」というのは、広島文理科大学を辞職して帰郷してから奈良に転居するまでの時期を指しています。岡先生が帰郷したのは昭和13年6月のことで、奈良に転居したのは昭和26年の春のことですから、この間、おおよそ13年ほどの歳月が流れています。岡先生は数学研究の場で三つの大掛かりな発見をしたと言っていますが、三つのうちの二つまでが、この紀見村時代に起こりました。
 この時期には紀見村のここかしこに伝説めいたエピソードが遺されました。岡先生の生涯の中でも非常に重い意味をもつ時期ですので、講演には時間の制限もあることですし、この時期の岡先生の日々の消息をなるべく詳しく語りたいのですが、そんな紀見村時代がどうして出現したのかという諸事情を語らなければならないとも思います。紀見村時代だけを切り取るわけにもいかないのです。
 それでもう少しかいつまんで話を続けますと、柱本尋常小学校に二年生の二学期まで通った岡先生は、小学校6年生の春、再び柱本尋常小学校にもどりました。ここから第二の紀見村時代が始まります。小学校を卒業して紀見尋常高等小学校の高等科に一年間だけ通い、それから粉河町の粉河中学に進みましたが、紀見峠から粉河まで通学するのは不可能でしたので粉中のキャンパス内にある寄宿舎に入りました。ところが粉中入学して一年がすぎたころ、鉄道事情が改善されましたので、寄宿舎を出て紀見峠から通学するようになりました。この汽車通学は粉中を卒業するまで続きました
 こんな細々とした話をどうして続けているのかというと、岡先生が実際に紀見村で暮らした時期は案外短かったということを伝えたいと思ったからです。粉中を卒業すると京都の第三高等学校に進み、それから京都帝大に入学しました。この間、休暇のおりには帰省することもありましたが、上の学校に進むにつれて故郷が遠ざかるのは今も昔も同じです。 
 京大を卒業すると講師になりました。そのうち広島の高等師範学校の一部が大学に昇格して広島文理科大学になることに決まりました。岡先生は教官要員に選ばれて、赴任に先立って文部省の在外研究員の資格で洋行することになり、フランスに向かいました。それが昭和4年の春のことで、岡先生は数えて29歳でした(岡先生の誕生日は4月19日です。誕生日の前にマルセーユ行の船に乗り、船中で29歳の誕生日を迎えました)。
 マルセーユからパリに向かい、国際大学都市の日本館に入り、ここで中谷宇吉郎先生に出会い、たちまち親しくなりました。岡先生の学問と人生にとって重い意味をもつ出会いでした。

紀見村時代の岡潔先生2 幼年期の紀見村時代

短い文書を立て続けに書かなければならない事態になって一週間ほどすぎましたが、幸いにも応用数学に関する一文がともかくできて、あと二つの短文も書きました。それでいくぶん気が楽になりましたので、市民講演会の準備をはじめなければならないのですが、配布する資料なども必要です。どうしようかと少し悩み、さてそれから、岡先生の言葉を集めて「岡先生自身の語る岡先生」という形になるように編集すればよいのではないかと思い当たりました。岡先生は毎日のように研究ノートを書き続け、しかもそこには日付が記入されています。数学の思索の足跡がそのまま記されているのですが、数学研究の中に日常の生活描写も見られ、渾然一体となって、さながら「数学日記」のような書き物になっています。これをそのまま紹介すれば、それだけですでに岡先生の生涯と学問の姿が伝わってくるように思います。それと、書簡もだいぶ遺されていますから、岡先生の言葉をもって岡先生の学問と生涯を再現するというアイデアを実行に移すのは十分に可能です。
それで試みに紀見村時代を中心にして実際に作業を進めてみたところ、25ページほどの小冊子ができました。これで配布資料の件は見通しが立ちました。
 次の懸案は、これが本来の講演のテーマなのですが、「紀見村時代の岡先生」のことをどのように語ったらよいのだろうということです。やはり生い立ちから話し始めるのが順当かもしれませんが、幼少時代のことばかりになってしまっても困りますし、話を組み立てるうえで悩みはあります。
岡先生の父祖の地は紀見村の紀見峠ですが、生地は大阪市内でした。岡先生の父は岡寛治といい、紀見村で生まれた人ですが、岡先生が生まれた当時は大阪に移って保険の仕事をしていました。四人兄弟の三番目です。次兄は他家に養子に出て、末の弟は早世しました。岡家は長兄が継ぎましたので、寛治さんは大阪に出たのですが、この間にはやや複雑な事情がありました。そのあたりの消息を詳しく語っていくとなかなか本題に入れませんので省略しますが、そんなわけで岡先生の生地は大阪です。もっとも岡先生の母は紀見峠の北村家の人ですから、お産のときは紀見峠にもどっていたのかもしれませんし、それなら正真正銘の生地は紀見峠と言ってさしつかえなさそうです。大阪はあくまでも戸籍上の届け先ということになります。たぶんそうだったのでしょう。このことは先日、橋本市に出向いたおりに、「岡潔数学wave」の会長さんに指摘されたのですが、それまでは全然思いつきませんでした。
 当時、父の寛治さんは「坂本」を名乗っていましたので、岡先生も生まれたときは岡潔ではなく、「坂本潔」でした。岡家を継いだ長兄が事故にあって早く亡くなるという出来事があり、岡先生の祖父の文一郎が岡家を切り盛りしていたのですが、祖父が亡くなったあとを受けて寛治さんが帰郷して岡家を継ぎました。姓も変わって岡にもどり、これで岡先生は「岡潔」になりました。明治45年(大正元年)の春のことで、この年の春から岡先生は柱本尋常小学校の6年生になりました。
 岡先生が4歳のとき、日露戦争が始まりました。寛治さんは後備役の陸軍少尉でしたので出征することになり、岡先生は母と妹の三人で帰郷しました。それで幼少時代を紀見峠ですごし、入学した小学校も柱本尋常小学校だったのですが、寛治さんが戦地からもどり、また大阪に出て仕事をするというので二年生の二学期から大阪に移り、転校しました。
 こんなわけですので、岡先生の幼年期の紀見村時代は明治37年の春から明治40年の夏までの3年ほどで終わりました。

紀見村時代の岡潔先生1  市民講演会に向けて

 このところ短い文章をいくつも書かなければならない事態になり、気忙しい日々が続いています。
「西田幾多郎と高木貞治」を書き始めて4回まで進んだところで新たに書き物が発生しましたので、「純粋と応用は交錯する」というタイトルをつけて急遽、ノートを書きました。5回まで進んだところで結論めいた所見が得られましたので、ひとまずここまでで切り上げて、このノートを元手にして論説を書くことにしたいと思います。それでまた「西田幾多郎と高木貞治」にもどりたいのですが、二週間後に市民講演会があり、岡潔先生のことを話すことになっています。たいせつな講演会ですので、講演に備えて基礎的な資料を準備しているのですが、それとは別に草稿のつもりで講演の概要を書いておくのがよいと思い当たりました。
岡先生のことはこれまでに何度も書き綴ってきましたし、講演の草稿といっても同じ話題の繰り返しになりそうですが、それでも焦点を定めてまとまった話をすると新たに気づくこともありそうですし、意義はあると思います。講演のテーマは「紀見村時代の岡潔先生」です。

Extra

プロフィール

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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