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西田幾多郎と高木貞治9 新たな高木貞治伝の構想

 岩波新書の一冊として『高木貞治 日本近代数学の父』を出したのはちょうど2年前の今ころでした。それに先立って(400字詰の原稿用紙で)700枚ほどの草稿を準備したのですが、新書は枚数に制限がありますので、半分程度、削らなければならず、そのためになんだか窮屈な感じになりました。それで、よい機会があれば、600枚程度を目安にして長編の「高木貞治伝」を書きたいと念願しているのですが、その際、叙述の対象を高木先生ひとりに限定するのではなく、時代的背景を広く取り、高木先生を関口先生や西田先生などといっしょに歴史の流れの中に配置したいと考えています。関口先生の事績を調べなおしたり、西田先生と高木先生を比較してみたいと思うのもそのためです。
 そんなことを思いながら下村先生のエッセイを読み返してみたのですが、あらためて気づくことがいくつもありました。日本の近代数学史には金沢の関口先生と東京の大学に拠った菊池、藤澤両先生という二つの源泉があり、双方の泉から流れ出る二筋の川が高木先生において合流することを、下村先生は正確に指摘しています。しかも関口先生と高木先生は河合先生を通じて結ばれていること、その河合先生もまた関口門下であって、しかも同時に菊菊池大麓のもとで学んだ人であることも認識されています。西田先生についての観察も非常に精密で、西田先生は青年時代に数学と哲学のどちらを採るか迷いがあったこと、師匠の北條先生は河合先生と同じ関口先生の門下生であり、しかも大学で菊池大麓に学んだことが記されています。河合先生に影響を受けて数学に向かった高木先生のように、北條先生に学んだ西田先生もまた、もしかしたら数学を選んだ可能性もありました。数学と哲学に道は分かれましたが、こんなところは非常によく似ています。
 こんなふうですので、下村先生のエッセイは実におもしろかったのですが、書き添えて補うべきこともあります。ひとつは二つの源泉の評価に関することですが、関口先生に寄せる評価と菊池、藤澤両先生に対する評価が別々で連繋が語られていません。高木先生の三高の同期生に吉江先生、一年先輩に林鶴一先生がいて、三人とも河合先生に触発されて数学に向かうようになったのですが、三人とも出身地は加賀ではありません。加賀出身で関口先生の門下の河合先生の影響を受けたところに加賀とのつながりが認められるというのが下村先生の論旨ですが、初期の東大数学科の出身地を見ると、加賀出身で、しかも関口先生の薫陶を受けた人が圧倒的な多数を占めています。しかもこれらの人たちは大学卒業後、各地に新たに創設される学校の数学科に赴任していくのですから、関口先生の影響は広くまた深く、草創期の近代数学のうえにきわめて直接的に及んでいます。
 二つの源泉を考えていくうえで、もうひとつの重要な論点は数学の中味に関することです。関口先生が和算から洋算に転じて独学で修得したのに対し、菊池、藤澤の両先生が洋行先からもたらしたのは、ヨーロッパの大学で学んだ純粋な洋算でした。数学のレベルという面を見ると、関口先生が苦心して訳出したのはトドハンターの教科書などでしたが、これに比べると藤澤先生が持ち帰った19世紀後期のドイツの数学はきわめて高度でした。あまりにも突出していますし、高木先生が類対論の高みに到達することができたのも、藤澤先生という土台があったからこそであろうと思います。それで、日本の近代数学の成立史を語る際にはおのずと藤澤先生を特別に重視するようになり、関口先生の影は薄くなりがちです。
ではありますが、関口先生の影響の及ぶところはまた別のところにあります。それは、関口先生の洋算には「日本の匂い」「和算の香り」がするという事実で、この香りは高木先生にも(それに、岡潔先生にも)感じられます。西田先生の思索にもまた同じ香りがします。このあたりの消息を具体的に解明することができれば、高木先生と西田先生をつなぐ糸の所在が明確になりそうです。次の著作の大きな目標にしたいと思います。
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西田幾多郎と高木貞治8 下村先生のエッセイの印象

 岩波新書の一冊として『高木貞治 日本近代数学の父』を出したのはちょうど2年前の今ころでした。それに先立って(400字詰の原稿用紙で)700枚ほどの草稿を準備したのですが、新書は枚数に制限がありますので、半分程度、削らなければならず、そのためになんだか窮屈な感じになりました。それで、よい機会があれば、600枚程度を目安にして長編の「高木貞治伝」を書きたいと念願しているのですが、その際、叙述の対象を高木先生ひとりに限定するのではなく、時代的背景を広く取り、高木先生を関口先生や西田先生などといっしょに歴史の流れの中に配置したいと考えています。関口先生の事績を調べなおしたり、西田先生と高木先生を比較してみたいと思うのもそのためです。
 そんなことを思いながら下村先生のエッセイを読み返してみたのですが、あらためて気づくことがいくつもありました。日本の近代数学史には金沢の関口先生と東京の大学に拠った菊池、藤澤両先生という二つの源泉があり、双方の泉から流れ出る二筋の川が高木先生において合流することを、下村先生は正確に指摘しています。しかも関口先生と高木先生は河合先生を通じて結ばれていること、その河合先生もまた関口門下であって、しかも同時に菊菊池大麓のもとで学んだ人であることも認識されています。西田先生についての観察も非常に精密で、西田先生は青年時代に数学と哲学のどちらを採るか迷いがあったこと、師匠の北條先生は河合先生と同じ関口先生の門下生であり、しかも大学で菊池大麓に学んだことが記されています。河合先生に影響を受けて数学に向かった高木先生のように、北條先生に学んだ西田先生もまた、もしかしたら数学を選んだ可能性もありました。数学と哲学に道は分かれましたが、こんなところは非常によく似ています。

西田幾多郎と高木貞治7 

西田幾多郎と高木貞治7 高木先生の三人の恩師
久しぶりに西田先生と高木先生の話題にもどりますので、前に書いたことの繰り返しが目立つのではないかと案じられますが、日本の近代数学の学統は金沢から始まるという西田先生の所見をめぐって、はたしてお国自慢のたぐいのほほえましいものであったのかどうかという点は考察に値するのではないかと思います。西田先生自身はどう思っていたのかどうか、そこはわからないといえばわからないのですが、西田先生は金沢時代に北條先生の書生のようなことをしていて、直々に教えを受けたこと、北條先生は関口先生の門下生で、東大の数学科の卒業生でもあること、西田先生自身も数学に深い関心を寄せていて、と哲学のどちらに進むか迷った時期があったこと、北條先生の関口門下の同門に河合十太郎先生がいたこと、河合先生もまた東大の数学科の出身で、三高で高木先生を教えたこと等々が次々に回想されて感慨を誘われます。哲学者の西田先生は理系の学問に生涯を通じて関心を寄せ続けていましたし、その影響を受けたのかどうか、お子さん(次男です)の西田外彦は京大の理学部で化学を専攻しています。ちなみに西田外彦は三高で岡先生と同期でした。
西田先生が高木先生の類対論の業績を高く評価していたのは間違いなく、その高木先生の学問に河合先生を通じて関口先生の影響が及んでいるのですし、その事実を重く見るのは正鵠を射ているのではないかと思います。それにもかかわらず、下村先生はどうして「ほほえましい意見である」などというのかといえば、やはり藤澤先生が日本に持ち帰ったヨーロッパ近代の数学があまりにもレベルが高かったためであろうと思います。実際、下村先生の2篇のエッセイのうち、続編では藤澤先生が取り上げられて、詳しく語られています。下村先生の見るところ、高木先生には二人の数学の恩師がいて、ひとりは三高の河合先生ですが、もうひとりは東大の藤澤先生です。二人の師匠の役割はどうかといえば、河合先生は「高木先生の数学的天才を触発して数学専攻を志す動機」を与えました。「未だ各自の裡に潜在している数学的天分を見出し、これを自覚せしめた」ところに河合先生の重要な功績が認められるという認識ですが、これに対し、藤澤先生の役割は数学専攻を決心した若者を専門の数学者に仕上げることでした。
 このような下村先生の所見にはもっともなところは確かにあります。高木先生を数学の道に誘ったのは河合先生だったにしても、実際に数学を教えたのは藤澤先生だったという点を重くみたのであろうと思いますが、この流儀でいくと、高木先生にはもうひとり、ヒルベルトという恩師がいることにもなりそうです。
 関口先生は和算から洋算に転じた人ですが、洋算、すなわちヨーロッパの近代数学の勉強は、多少の手ほどきをした人がいたことはいたものの、ほぼ完全に独学でした。洋算を学ぶにはヨーロッパの言葉が読めなければなりませんが、関口先生はまたしてもほとんど完全な独学で英語を学びました。英語の辞書もあることはありましたがごく簡単なものしかなく、関口先生が使っている辞書には、たとえばsetという言葉には「置く」という意味しかでていませんでした。ところがこれは数学書ではしばしば「集まり」とか「一揃い」という意味でつかわれます。そこで関口先生は数学上の意味を考え合わせて、苦心惨憺して訳語を決めていきました。
 このエピソードは下村先生が紹介しているのですが、下村先生は西田先生のエッセイから引いたのでしょう。あるいは同じ話を西田先生との談話の中で直接うかがう機会があったのかもしれません。

 下村先生は『京都大学七十年史』を参照して河合十太郎先生のエピソードを紹介しています。エピソードといっても本当にわずかなことで、洋行してベルリン大学でヴァイエルシュトラスに学んだこと、帰国して京都帝大理科大学数学科で数学第一講座を担任し、複素関数論を講義したこと、その講義は当時のヨーロッパの水準を上回るほどで、新鮮味のあふれるものであったらしいこと、しばしば「ヴァイエルシュトラース先生」という言葉がほとばしり出たと伝えられていることなどです。

西田幾多郎と高木貞治6 下村先生のエッセイの続き

市民講演会の準備が一段落しましたので、「西田幾多郎と高木貞治」にもどりたいと思います。もともと短期連載のつもりで始めたところ、次々と別の書き物が出現したため、5回まで進んだところで立ち止まったままになっていました。短期の「集中連載」のつもりだったのですが、まったく意外な成り行きになりました。
 下村先生の2篇のエッセイ「高木貞治の生涯 落穂拾い、その他」「高木貞治伝 落穂拾い(II)」を手掛かりに求めて西田先生と高木先生のことを語り始めようという目論見だったのですが、ここまでのところではまだエッセイの中味にも入らずに、周辺のあれこれに終始していました。それで、しばらく下村先生のエッセイに追随してみたいと思います。
 下村先生は高木先生と直接話をしたことはないようですが、高木先生の講演を聴いたことはあります。京大を卒業して東京文理科大学に勤務していたころのことですが、この大学の同僚に数学の菅原正夫先生がいて、親しくつきあっていました。菅原先生は整数論が専門でもありますし、高木先生の門下もありましたから、下村先生はかねてから高木先生のうわさなど、かねがねうかがっていたのでしょう。そんなご縁があったせいか、高木先生が東京文理科大学に講義にやって来たときに。下村先生も招かれて聴講しました。講演の題目は「数学基礎論、数学教育、その他」というのですが、数学基礎論、数学教育と語って、さてその次に「その他」と続くのであろうとだれしも思うところ、高木先生は立ち上がってすぐに口を切り、「その他・・・から始めます」と宣言したのだとか。これには下村先生も強い印象を受けたようで、「たちどころに先生の機鋒の一閃を感じた」と書いています。講演の内容はかえって記憶にないとも言われていますが、案外そんなものかもしれません。
 西田先生は談話の中で高木先生に言及したことがあるという話は前に紹介したことがあります。それは、日本の近代数学の伝統は金沢の関口開に始まるという話のことですが、このようなエピソードが持ち出されるのは門下生ならではのことで、西田先生が自分で書いて公表したエッセイの中には関口先生の名前が登場するものもありますが、下村先生が伝えている談話のような主張を明記したものはありません。下村先生は西田先生の所見を「いささかお国自慢めくほほえましい意見である」と評していますが、西田先生は案外、本当にそのように思っていたのかもしれません。

西田幾多郎と高木貞治5 藤沢利喜太郎の帰朝

下村先生のことを「下村寅太郎」「下村」と敬称抜きで呼ぶことに決めて、そのようにしてきましたが、お名前が頻出することでもありますし、どうも気持ちが落ち着きません。それで、ここはやはりすなおに「下村先生」とお呼びすることにしたいと思います。
西欧近代の数学が日本に移植される経緯について報告する著作はときおりみかけますが、たいていは菊地大麓と藤沢利喜太郎の事績から話が始まります。菊地大麓は明治維新後に日本にできた大学の一番はじめの数学教授、藤沢利喜太郎は二番目で、この二人の努力で土台ができました。その次の三番目の数学教授になったのが高木先生で、三代目の高木先生の類体論が出現するに及んで日本の数学のレベルは西欧に追いついたかもしくは凌駕したというのが、通説のようになっています。関口開の話題も出てくることは出てきますが、多くの数学関係者の中のひとりというほどの扱いにすぎず、菊地、藤澤と方を並べるほどの功績があったという評は寡聞にして知りません。そんな評価はまずお目に掛かることはありませんが、ただひとつ、西田先生の言葉だけが唯一の例外で、それを伝えてくれたのが下村先生のエッセイなのでした。
 西田先生の指摘は実に興味が深く、だからこそ強い印象を受けていつまでも記憶に留められていたのですが、まさか「日本の近代数学は金沢から始まる」というほどではあるまいと思いました。どの本にもそんなことは書かれていませんし、小松醇郎『幕末・明治初期数学者群像』(上下2巻)という本などでは意図的に関口開を取り上げていないほどです。それやこれやで西田先生の言葉の通りに信じている人は見あたりませんし、現に西田先生門下の下村先生からして、西田先生のお国自慢だろうという程度の認識でした。
 それともうひとつ、こちらのほうが決定的と思いますが、日本の近代数学に寄せる藤沢利喜太郎の影響があまりにも強大であったという事実が挙げられると思います。
 明治10年は西南戦争が起って終結した年ですが、この年の5月、東京に東京数学会社が設立されました。大部分は和算家でしたが、その中に菊地大麓のような洋行帰りの純粋の洋算家が混じっていました。少し後に東京数学物理学会と名前が変わり、ドイツ留学を終えて帰国した藤沢利喜太郎が会員になりました。和算家たちはそれぞれに工夫して洋算を学びましたが、藤沢利喜太郎の帰国以前に日本に入ってきたヨーロッパの数学書のレベルは概して低く、和算家たちの目には、洋算恐るべからずと映じていたのではないかと思います。もっともなところはたしかにあります。
 ところが藤沢利喜太郎がドイツで学んで持ち帰った数学は、従来、日本に移入された洋算とは大きく一線を画し、格段にレベルの高いものでした。藤沢利はドイツでヴァイエルシュトラスやクロネッカーに学び、複素関数論や楕円関数論を修得し、フーリエ解析をテーマにして論文を執筆して学位を取得するというふうで、どれもみな同時代のヨーロッパの数学の最高のレベルに達していました。藤沢利喜太郎の前では和算家たちが苦心して学びつつあった洋算はいかにも影が薄くなってしまい、しかもその藤沢利喜太郎の門下から類体論の高木先生が出現したのですから、日本の近代数学は藤沢にはじまると見るのはいかにも実情にかなっています。

西田幾多郎と高木貞治4 日本の近代数学は金沢にはじまる

下村寅太郎は西田先生の門下の哲学者ですが、田辺元に影響を受けて数理哲学の方面に進みました。といっても学問の幅は非常に広く、著作の数々を見てもブルクハルトを論じ、レオナルド・ダ・ヴィンチを語り、ライプニッツを研究するというふうで、数理哲学に留まりません。明治35年に京都に生れ、大正9年に第三高等学校に入学していますから、岡潔先生の一年後輩になります。科類は文科乙類で、同期生に英文学の中野好夫(文科甲類)中国文学の吉川幸次郎(文科甲類)、仏文学の河盛好蔵(文科丙類)などがいます。三高から京都帝大の文学部哲学科に進み、ここで西田先生と田辺元に学びました。
 本当は田辺元も下村寅太郎も「田辺先生」「下村先生」と呼びたい気持ちがあるのですが、まだそこまではとも思いますので、しばらく敬称抜きで表記することにします。
 下村が「数学セミナー」に2篇のエッセイを書いたのは1976年、すなわち昭和51年のことでした。ぼくは大学院の学生でしたが、「数学セミナー」は毎月読んでいました。といっても、読んでもわからない記事も多いですし、執筆者の名前もたいていは忘れてしまうのですが、下村のエッセイはなぜかいつまでも印象に残りました。つい先日も、36年も前の記事にもかかわらずたしかに見たはずと思って探索したところ、すぐに見つかりました。
 下村は、西田先生が高木先生に言及した談話の記憶があるとのことで、それを紹介しているのですが、それはつまり「高木先生において確立した近代日本の数学の学統は金沢から始まるという話」なのだとのことです。下村はこれを、金沢出身の西田先生のいささかお国自慢めくほほえましい意見というのですが、なんだかおもしろい話だなあと思い、珍しい話を聞いたものだと思ったことでした。真偽のほどは判定することもできなかったのですが、そんなこともあるのかと強い印象を受け、いつまでも忘れませんでした。
次いで下村は関口開に言及し、西田先生の子供のころ、金沢に関口開という偉い数学の先生があったという話をしました。関口開はもとは和算家だったのですが、明治のはじめにまったく独学で西洋数学を勉強し、きわめて乏しい英語の知識で苦心してトドハンターの微積分を読み、翻訳しました。これは西田先生の「コニックセクションス」というエッセイを摘記したのですが、ともあれこれを読んで「関口開」という名を知りました。
 日本の近代数学の発祥の地は金沢であると指摘したのは西田先生の卓見ですが、身近の数学史の書物ではそんな見解は見たことがありません。下村もまた、金沢出身の西田先生のお国自慢だろうと受け止めて、ほほえましい意見であると書いている程度のことにすぎません。

西田幾多郎と高木貞治3 敬称の付け方について

ここまでのところで西田幾多郎のことを「西田」と敬称抜きで表記してきましたが、なんだか気持が落ち着きませんので、今回から「西田先生」と書くことにしたいと思います。人を呼ぶときに敬称をつけるかどうかは案外悩ましい問題です。岡潔先生とはただ一度だけ、必ずしもお会いしたとも言えないような形でお話をうかがう機会がありましたが、それ以上のことはありませんでした。エッセイを読んだり、数学の論文集に親しんだりしたきりですので、「先生」と呼ぶだけの根拠を欠いているようでもありますが、10代のころからずっと関心を寄せ続けてきましたので、敬称を抜いて客観的な感じで呼ぶのも呼びにくく、やはり「岡先生」と書きたくなってしまいます。敬称を添えるのは単に形式にすぎない場合もありますし、そのほうが多いのだろうとは思いますが、形式を離れてしまえば、呼ぶ側の気持ちのありようで決まります。
高木先生の場合はどうかといいますと、著作が文庫に入って復刊されたときに解説を書いたり、新書の形で小さな評伝を書いたりして、そのつど敬意と親しみが増していきました。それでやはり「高木先生」と呼びたくなりました。
その高木先生の評伝を書き継いでいるときに関口開に目が留まり、関口開の門下の北條時敬を知り、そのまた門下生の中に西田先生がいることを知りました。それで西田先生の著作に親しむ機会が増えました。つい最近のことです。西田先生の著作は前から気に掛けていたのですが、読んでもよくわかりませんので、あまりよい読者ではありませんでした。それが、関口開を介して高木先生とのつながりが目に見えてくるようになると、なんだか急にわかったような気分になったのはいかにも不思議です。西田先生のエッセイの中には高木先生の『近世数学史談』の感想もありますし、金沢の回想記などもあります。
 西田先生は早くから数学に深い関心を抱いていたようで、数理哲学に関する論文もあります。東北大学の講師だった数理哲学の田辺元を京大に招聘したのも西田先生です。
数理哲学の下村寅太郎は西田先生と田辺元の双方に深い影響を受けた人ですが、日本評論社の数学誌「数学セミナー」に高木先生を取り上げて、二度にわたってエッセイを寄せています。最初のエッセイは
「“高木貞治の生涯”落穂拾い、その他」
というもので、1976年2月号に掲載されました。続編は
「“高木貞治伝”落穂拾い(II)」
と題されて、1976年7月号に掲載されました。西田先生は、石川県加賀の関口開に着目し、金沢こそ、日本の近代数学の源泉であると語っていたということですが、下村寅太郎のエッセイを読んでそんなことをはじめて知り、大いに感心したものでした。

西田幾多郎と高木貞治2 学問の系譜をたどると

岩波新書で高木先生の小さな評伝を出したときのことですが、草稿の段階では西田幾多郎のことを相当に詳しく書きました。西田は哲学の人で、数学の高木先生とは全然別の人生を歩んだように見えるのですが、実は案外そうではなく、この二人をつなぐ意外な糸が存在します。そんなことに気づきましたので紹介したかったのですが、新書には分量の制限がありますので、思うにまかせませんでした。それでいつか想をあらためて、存分に語ってみたいと思ったことでした。
 西田と高木先生を結ぶ糸というのは石川県加賀の数学者、関口開のことで、西田には青年期に深い影響を受けた「人生の師匠」がいて、北條時敬(ほうじょう・ときゆき)という人ですが、北條先生のそのまた先生は関口開です。高木先生は岐阜の農村に生れた人で、加賀とは関係がありませんが、京都の第三高等学校に進んで河合十太郎に数学を学び、大きな影響を受けました。河合の影響で数学に進む決意をしたというほどですから、人生を左右するほどの力のある影響だったのですが、その河合もまた加賀の人で、関口開のお弟子です。西田は北條先生の影響を深く受けたあまり、数学に進んだかもしれなかったのですが、踏み止まり、哲学的思索の方面に進みました。ですが、それにもかかわらず、西田と高木先生は学問上ではともに関口開の孫弟子にあたります。

西田幾多郎と高木貞治1 短期集中連載のお知らせ

連載「近代数学史の成立」も28回を数え、「無」から「有」が生成されるプロセスを観察する局面に到達しましたが、実際にそのようなことがありうることが確認できたのは、それはそれでひとつの果実です。それでもう少し同種の事例を挙げていきたいのですが、急遽、エッセイをひとつ書くことになりました。
 それは西田幾多郎と高木貞治先生のことで、これもまた長年の懸案です。それで「西田幾多郎と高木貞治」と題して、しばらくの間、というのは書き留めておきたいことがひとまず尽くされるまでという意味ですが、書き継いでいきたいと思います。

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プロフィール

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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