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関口開と石川県加賀の数学18 落ち穂拾い(その4)衍象舎のことなど

 関口開の私塾「衍象舎」のことは、たとえば『関口開先生小伝』を見ると、「先生又数学研究所を自宅に設け衍象舎と名付け門人数輩を宿泊せしめ自ら舎長となりて数学を奨励せらる」と記されています。衍象舎が成立したのはいつころかということが気に掛かりますが、履歴書を見ると明治2年2月に北越戦争の後に加賀にもどってからという印象を受けます。他方、金沢の図書館で「算術稽古出席記」という文書のコピーを入手したのですが、その表紙には「練算堂」と「関口私塾」という二つの言葉が併記されていて、明治4年4月から明治12年までの出席者たちの名前が書き留められています。この「練算堂」というのがつまり関口開の私塾なのであろうと思われるのですが、それなら衍象舎はいつできたのでしょうか。
 最近、関口開の門人の田中鉄吉が編纂した『郷土数学』(改訂増補)という本を見ることができました。加賀の数学者達を次々と紹介する書物で、関口開のことも詳述されていますが、そこには「明治十年六月数学講究のため邸内に衍象舎を起し、傍ら生徒を集めて教授を施せり」と記されています。そうしますと衍象舎というのは練算堂が変容した姿を指してそう呼んだのでしょうか。

 数学の洋書ははじめ岡田秀之助が留学を終えて帰朝した際に、「ホッテン」と「チャンバー」の数学書をもってきましたので、それを研究しました。当初は欧米の数学書の入手は非常に困難だったのですが、巽中学(啓明学校ができる前に金沢に存在した学校のひとつです)のイギリス人教師のランベルトという人に依頼して、トドハンターの代数の教科書を購入したりしました。原書は定価7シリングのところ、関口開は「5両3分」を支払ったということです。どのくらいの金額なのか、判定できませんが、なんだかものすごく高価そうな印象があります。

 関口開は没後、野田山に埋葬されましたが、大正14年、蛤坂の妙慶寺墓域に移葬されました。戒名は「開校院勤学指道居士」です。
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関口開と石川県加賀の数学17 落ち穂拾い(その3)関口開の教授法

落ち穂拾いをもう少々。西町の軍艦所で関口開に洋算の手ほどきをした戸倉伊八郎のことですが、

蔵原清人「金沢に洋算を伝えた戸倉伊八郎」
「市史かなざわ」第6号(2000年3月)33−42頁

という論文を見つけて参照したところ、少しわかりました。戸倉は長州藩から長崎海軍伝習所に派遣され、ここで航海術や数学を学びました。教師はオランダ人です。

『関口開先生小伝』に河合十太郎のエッセイ「関口開に対する感想」が収録されていて、関口開の教授法を考えるうえで参考になるエピソードが書き留められています。河合ははじめ和算の三好善蔵のもとで點竄術(てんざんじゅつ。筆算式の代数)を学び、啓明学校(正確には、河合が入学したころは石川県中学師範学校と改称されていました)では関口開に洋算を学びました。
 ある日、円錐形に関する難問に出会ったことがあり、河合ははじめこれを和算の方法によって解こうとして、大いに煩悶しました。すると関口がその様子を見て、「西洋人は円錐形を直角三角形の「基股」を軸として回転するときに生じる曲面と考えている」とおもむろに言いました。「股(こ)」というのは和算の用語で、直角三角形の直角をはさむ長いほうの辺を指しています。関口のヒントはただこれだけことだったのですが、河合はこのひとことを深く思い、「潜思玩味」したところ、ついに一筋の光明をみいだして難問を解決することができました。
 だんだん学業が進んでトドハンターの代数学のテキストを読むことになりましたが、「変数論」のあたりがなかなかむずかしく、読んでも理解できませんでしたので関口開に質問しました。すると関口開はだまって本を閉じてしまいました。そうして本を手に取り、変数論の末尾に載せられている練習問題のうちの二、三を選び、それらを解くようにと要請しました。河合は失望しましたが、帰宅して思索を続けたところ、深更に及んでついに解法を得ることができました。よほどうれしかったようで、「快なる哉」と河合は書きつけています。しかもそれと同時に直面していた難関もおのずから釈然として消滅し、変数論の理論も自然に会得されました。
 河合が言及した「トドハンターの代数学」というのは、“Algebra for the Use of Colleges and Schools”(一八五八年)です。この本の第二十八章は”Variation”と題されていますが、河合はこれを「変数論」と訳出したのであろうと思います。”Variation”は「変化」「変動」という意味合いの言葉です。数学用語としてはよい訳語が見あたりませんが、いくつかの変数がある特定の相互依存関係により結ばれながら変化する様子がさまざまな角度から考察されています。

 『関口開先生小伝』には森外三郎(もり・ほかさぶろう。「がいざぶろう」と読むという説もあります)のエッセイ「関口開の教授法」も収録されています。森は大正期の三高の名物校長として知られていますが、金沢の出身で、河合十太郎とともに関口に数学を学んだ経歴の持ち主です。
 森外三郎が関口開に師事したのは石川県専門学校予科の最後の半年と、同校理学科の最初の二年間余でしたが、それ以前にも関口開の著作をテキストにして、関口の門下の人に数学を学んでいました。関口開が遺した著作は大部分が問題集で、森が石川県専門学校に入る前に実際に使ったのは『数学問題集』『點竄(てんざん)問題集』(アメリカのデーヴィスなどの代数の書物から抜粋し、編纂した代数の問題集)『幾何初学』(デーヴィスの幾何の書物を翻訳したもの)ですが、翻訳書の『幾何初学』以外の二冊は単に問題を集めたものでした。この事実によく象徴されているように、関口開の教授法の眼目は問題の解釈にありました。
 石川県専門学校では代数、幾何、三角術を教わりました。テキストは上記の『點竄問題集』『幾何初学』のほか、『幾何初学例題』(初等幾何学の例題三百七十五問を集め、巻末に代数的解釈を示し、例題七十五問を集めたもの)、アメリカのロビンソンの代数学と三角法の原書、トドハンターの代数学、円錐曲線法などでした。難解の箇所を質問すると、関口開は多くを語らず、問題の所在地を指示し、「論より証拠、まずこれを解け」と注意したものでした。これはつまり「注入主義」を排して「一種の開発主義」を取られたのであろうというのが、森外三郎の所見です。一方的に教え込むのを避けて、自分で何事かを悟ってほしかったのでしょう。

 森の在学中の石川県専門学校には生徒数はごく少なく、予科時代には森と河合を含めて全部でわずかに六人で、理学科に進んだときは河合と二人きりになりました。しかも河合は一年たらずのうちに東京に出たため、それからはただひとりのクラスになり、毎時間関口開と差し向かいで教わる恰好になりました。このころ森は十七、八歳の少年でした。
 森がテキストを読み、問題を考えている間、関口開は何かほかの仕事をしていましたが、質問すると応じてくれました。ときには森の筆算を注視して、まちがっているところがあると、黙って机上を石筆で突いたり、一言半句というか、わずかに暗示を与えたりしました。教師が教え、生徒は受動的にこれを受けるという教授法とは全然違いますが、森が思うに、これは関口開自身の体験に基づいて編み出された方法のようでした。関口開は和算から洋算に入った人で、独学自修をもって高等数学をきわめるにいたるという体験の持ち主でしたから、後進の指導にあたってもなるべく注入を避け、自発をうながす方法を採用したのであろうというのが森の推測です。
 石筆というのは蝋石(ろうせき)を鉛筆の形にしたもので、石盤に字を書くのに用います。石盤と石筆は明治期の終りがけあたりまで小学校などで広く使われました、その後、次第にノートと鉛筆に代っていきました。

 関口開の教授法はいつもこんなふうで、この方法は和算家が学生を導く方法そのものでした。和算では、一理を諒解させようとする場合、その理に関する数個の実例を挙げてそれらを理解させ、その後に類推して理論全体の理解へと導いていこうとするのが通例です。洋算はそうではなく、どこまでも諄々として理論を展開し、その後に実例を提示して理論と応用の理解を定着させようとします。関口は和算の達人で、しかも洋算のすぐれていることを承知していましたが、和算には和算の長所があるのでそれを捨てず、洋算の指導に生かそうとしたのでした。

関口開と石川県加賀の数学16 落ち穂拾い(その2)加賀藩士時代の関口開

 関口開は松原家に生まれました。父の名は松原信吾というのですが、例によって「信吾」は通称で、実名は「義敦」です。松原家の第四男とする文献と第五男とする文献があり、もう少し調べないと確定しません。
 安政4年に関口家の養子になりました。関口家の当主は関口甚兵衛という人で、「甚兵衛」は通称ですが、実名は不明です。身分は「定番徒士」。これはどのような身分なのだろうと思い、加賀藩の職制少し調べてみたところ、なんでも「御徒(おかち)」という身分があるのだとか。御徒は六組御徒と定番御徒に分かれます。六組御徒は藩主が出かける際に駕籠の回りで警護するのが役目で、定番御徒はお城の中で警護にあたります。殿様にお目通りのできる身分とできない身分に分けると、御徒は「御目見(おめみ)以下」とか「御目見得(おめみえ)以下」といって、殿様に直接会うことはできませんでした。
 給料のことを俸禄といいましたが、身分が高いと「知行取り」といって領地を与えられました。御徒は身分が低いので、領地ではなく、年に2回、春と年末に米を支給されました。これを「切米(きりまい)」というのだそうです。文久3年(1863年)の年末28日に養父関口甚兵衛が植を辞したのを受けて、関口開が関口家を相続して定番御徒になりましたが、その時点の俸禄は「切米40俵」とのことです。米は玄米です。加賀藩では米1俵は5斗、すなわち0.5石とのことですので、切米40俵は20石になります。米1石は150キログラムです。
 慶應元年(1865念)11月の時点で加賀藩の算用者になっています。これはつまり会計掛のことで、年貢の割合を決めたり、実際に収納作業に携わったり、藩士に切米を支給したりする作業を受け持ちました。
 加賀藩士の時代の関口開の仕事というと、おおよそこんなところでしょうか。

          関口開1
 
          関口開の肖像
        『関口開先生小伝』の口絵です。

関口開と石川県加賀の数学15 落ち穂拾い(その1)

 「関口開と石川県加賀の数学」はひとまず完結しましたが、落ち穂拾いを少々。
 正岡子規のエッセイ「筆まかせ」の明治22年(1889年)の記事に、こんなことが書かれています。

〈加賀は昔より学問も盛に且ッ数学を重んじければ、今日に在ても学者の輩出することは加賀を第一とす。殊に数学に長ずる者多し。〉

 明治22年といえば関口開の没後すでに5年目のことになります。子規がわざわざこのようなことを書くところをみると、加賀出身の人物に数学に長じる者が多いことは、この時期にはすでに相当に広く知られていたのではないかと思います。

 『加賀藩艦船小史』という本に矢島守一という人の回想が採録されていますが、そこには関口開が戸倉伊八郎に破門された経緯が記されています。

〈こゝに鈎深館には関係はないが面白き挿話がある。戸倉が我が藩に聘用せられた当時に、御算用者で関口開とて和算の大家があった。同人は御算用者瀧川先生の高弟で和算に於て造詣最深く、誰人も同人に並ぶ者はなかった。併し洋算は未だ習わなかったから直接戸倉を訪うて学習を始めた。戸倉は同人の力を知らぬから、自己秘蔵の書籍から少しずつ初歩の問題や例題を出して教授し、容易にその奥義を教えなかった。関口は甚だこれをもどかしく思い、其の上教授法の拙きことを常に遺憾に思って居た折柄、在る日戸倉の中座した時、傍に人なきを幸い窃に例の秘蔵書中から其の要部を摘録し、数日の後に式と答とを附して戸倉に示した。関口の考えでは斯く自己の力量を示さば、戸倉は必ず其の奥義を教え呉れんとの至って単純な意志であったが、戸倉はこれを手にするや、満面に朱を濺(そそ)ぎ何人の手からこれを窃み取ったかと、大に関口を詰責した。関口は毫もこれを隠さず其の事実を詳陳して、且百方其の悪意のないことを謝したが、戸倉は怒り解けず直様関口を破門したとのことである。〉

 非常に具体的な描写が重ねられていますが、脚色のような感じのする箇所もありますし、どこまでが本当なのか、わかりません。それでも関口開が戸倉に破門されたという出来事はわりと広く知られていたようで、あれこれのうわさが飛び交ったような印象があります。
 門人たちが編纂した『関口開先生小伝』には、この破門事件のことはまったく触れられていません。

関口開と石川県加賀の数学14 和算のこころ

 和算と洋算は等しく数学の名を負いながら、学問としての性格には大きな相違が感じられます。抽象と具象という観点から見ると、洋算には絶えず抽象に向かおうとする傾向が感知されるのに対し、和算はどこまでも具象にとどまろうとする姿勢が維持されているように思います。
 一例を挙げると、和算の特殊算のひとつに鶴亀算があります。鶴と亀が合わせて何匹いて、足の総数は何本と指定されたとき、鶴と亀はそれぞれ何匹いるかと問う問題ですが、これを解くのに「全部が鶴としてみよう」などと考えると成功します。全部が鶴と思うのは無理な感じもありますが、そんな場合には「すべての亀がいっせいに立ち上がったとしてみよう」などという状況を思い浮かべます。愉快で楽しいアイデアですが、このアイデアが有効なのは鶴亀算に対してのみで、流水算、植木算、旅人算、通過算など、他の特殊算には無意味です。各々の特殊算について、それを解くのに有効な個々別々のおもしろいアイデアを提示して解くのですが、そんなアイデアの数々のおもしろさを楽しむところに和算の特徴が見られるように思います。
 これに対し連立一次方程式を用いてよいのであれば、どんな特殊算もたいていみな連立方程式の解法に帰着され、単純で統一的な道筋をたどることによりやすやすと解けてしまいます。洋算の特徴がここにあります。眼目は連立方程式の解法理論そのものにあり、あれこれの特殊算は簡単な適用例にすぎません。解けても別におもしろいわけではありませんが、簡明な単一の原理に基づいて統一的に解けるシステムを構築するところにねらいが定められているわけで、それがつまり洋算の本質です。そのシステムそれ自体は組織化された式変形の集りであり、何かしら固有の意味がそこに付与されていることはないのですから、抽象的な感じがします。これに対して和算のほうはどこまでも具象的です。
 普遍と特殊という観点から見ると、洋算は特殊から普遍に向かおうとする傾向が顕著です。形式化の手続きを経て普遍にいたります。普遍の世界はさながら真理の世界であるかのようでもあります。和算は特殊を観察しますが、普遍を顧みないというのではなく、むしろ普遍は具象に現れると観念しているような印象があります。個々の特殊な数学的体験を通じて普遍を悟るというか、感知しようとする姿勢を感じます。
 日本の近代数学の流れを回想すると、高木貞治と岡潔という二人の数学者の姿が際立って目に映じます。高木先生は明治8年(1875年)、岡先生は明治34年(1901年)のお生まれですから、年齢の差は26年。四半世紀もの隔たりがありますし、高木先生は東大、岡先生は京大と、出身大学も異なっているのですが、実は二人とも河合十太郎の門人という共通点があります。高木先生は東大に入る前に三高で若い日の河合先生に学び、岡先生は京大で定年を間近に控えた時期の河合十太郎先生に学びました。それで、河合門下という面を見ると、兄弟弟子であることになりますが、その共通の師匠の河合先生のそのまた師匠は関口開です。
 和算から洋算へ。和算は消滅しましたが、関口開の洋算には「和算のこころ」が宿り、河合先生を通じて高木、岡両先生に伝わりました。高木先生の類体論と岡先生の多変数関数論には関口開の「和算のこころ」がありありと感知されます。このあたりの話はもう少し具体的に論証しなければならないのですが、詳しくは後の機会に譲ることにして、ひとまずこのあたりで一段落としたいと思います。
 関口開は明治17年3月23日から病気が重くなり、翌26日から療養生活に入りましたが、4月12日午前1時55分、石川県金沢区竪町93番地の自宅で亡くなりました。病名は腸チフスです。没後、門人たちが尾山神社の境内に石碑を建てました。円柱に円錐形を載せた巨石で、「関口先生記念標」という文字が刻まれています。揮毫は神田孝平です。すぐ近くに石版が添えられていて、そこには関口開の業績を語る453個の文字が敷き詰められています。紀念碑発起者謹撰。日付は明治18年12月です。

関口開と石川県加賀の数学13 日本の近代数学の二つの流れ

 明治10年(1877年)といえば西南戦争の起った年ですが、この年の9月、日本の数学者が一堂に会して「東京数学会社」を組織するという出来事がありました。「会社」というのは「ソサエティ(society)」のことで、「株式会社」などというときの「会社」すなわち「カンパニー(company)」ではなく、「学会」というほどの意味で使われています。明治17年には「東京数学物理学会」と改称されましたが、それからまたしばらくたって、というのは先の大戦の直後のことなのですが、数学と物理が分れることになり、今日の日本数学会と日本物理学会が成立して今日にいたっています。
 一番はじめの東京数学会社の会員は117名を数えたとのことで、官立の学校に所属する者もいれば在野の数学者もいました。金沢の関口開も会員になりました。川北朝鄰や福田理軒は和算家でした。菊池大麓はおりしもこの明治5年の5月に洋行を終えて帰朝したばかりで、満22歳でしたが、会員になりました。数学に心を寄せる者は菊池大麓や和算家たちばかりではなく、陸海軍の中にもいて、赤松則良や荒川重平は海軍の関係者、神保長致などは陸軍の関係者でした。
 このような数学者たちの世界で観察すると、和算家たちの勢力はいかにも大きそうに見えますし、わずか22歳の菊池大麓などはごく小さな存在のように目に映じます。ではありますが、実際には東京大学に依拠した菊池大麓の背後にはなにしろ明治政府が控えているのですから、潜在的な力はきわめて大きかったことになります。小学校の数学教育は洋算で行うことに決定したこともあり、和算家たちを支える基盤は失われ、急激に衰退しました。文部省は師範学校数学に心を寄せる者は全国から東京に参集し、日本にひとつしかない大学に入学し、数学科に所属して菊池大麓の講義を聴いて洋算を学びました。
 東大の一人目の数学教授の菊池大麓は蘭学の箕作家に生まれた人ですし、二人目の数学教授の藤澤利喜太郎もまた蘭学に通じた幕臣を父にもつ人で、二人とも和算とはまったく無関係でした。ところが全国各地から東大の数学科に集ってくる人たちの中には、和算の影響を受けた人が多かったのです。加賀の出身者が際立って多かったことは既述の通りですが、高木貞治、吉江琢兒、林鶴一、藤原松三郎などは出自は加賀ではないにもかかわらず、加賀出身の河合十太郎の影響を強く受けています。日本近代の数学史において加賀は特別な意味をもつ場所だったのですが、その加賀の数学的世界の根源には、関口開という唯一の光源がありました。
 明治維新の前後の日本の数学事情を観察すると和洋二つの数学が入り乱れていますし、洋算は洋算で脈絡もなく洋書が流入して、あれを読んだり、これを読んだり、混沌というほかはないありさまでした。高久守静のように和算と運命をともにして消えていった硬骨の人もいましたが、全体的に見て洋算の受容に向かう趨勢は強まっていきました。中心に位置を占めたのは東京に存在した唯一の大学で、そこには江戸期の蘭学の系譜に連なる菊池大麓、藤澤利喜太郎という二人の数学者がいました。菊池、藤澤はもともと和算とは縁がなく、蘭学という、ヨーロッパの学問を学ぶ家に生まれ、洋算も洋行先の現場で学び、ヨーロッパの近代数学を日本に直接移植する役割を担いました。ところがこの二人に教わる人たちの多くは、大学に入学する前にさまざまな形で関口開の影響を受けていました。和算と洋算が融合する契機がここにあります。

[補遺]
高久守静に教科書の作成を依頼した諸葛信澄は、師範学校の初代校長に就任した人物です。諸葛が高久に依頼したのは明治4年12月、小学校教師の養成を目的として師範学校の設立が決定されたのは明治5年7月4日で、生徒の募集も始まりました。教員はすべてアメリカ人で、テキストもアメリカで使われているものをそのまま使用しました。明治6年7月には第一回目の卒業生が出ています。
 明治10年の年初に小学校教員を辞職した高久は、6月、砲兵工廠仮火工場に雇われましたが、それから6年後の明治16年6月10日、亡くなりました。63歳でした。

関口開と石川県加賀の数学12 和算の運命

 高久守静が(小学校で教える数学は)和算と洋算のどちらなのかと尋ねたのに対し、吉川は「和算である」と明言しました。これを受けて高久は小学校教師になる決意を固めたのですが、吉川も大喜びでした。吉川が保証人となり、高久は明治4年11月25日付で「小学第一校授業生」を拝命しました。
 小学第一校は鞆絵(ともえ)学校(港区立御成門小学校の前身)、第三校は吉井学校(新宿区立愛日小学校の前身)、第四校は湯島学校(文京区立湯島小学校)、第五校は育英学校(台東区立台東育英小学校)、第六校は深川学校(江東区立深川小学校)です。
 翌明治5年の年賀式のおり、文部省の小学掛の諸葛信澄という人が高久ともうひとり、やはり授業生の瀬戸という人を別席に招き、小学校で使う数学の教科書を作成するようにとの依頼を受けました。明治政府としても、新たに整備される小学校や中学校で和洋どちらの数学を教えるのか、あるいは折衷的な教授法を採るのか、態度を鮮明にしなければならない局面に遭遇したのですが、学制頒布が実施される直前の5月の時点では和算採用の意見が優勢だったのでしょう。
 新教科書の要領は西洋式にならい、加減乗除から説き起こし按分逓折比例に終るようにするとの指示もありました。作成するのは高久ですが、問題集ですので、問題を選ぶのが基本的な作業になります。瀬戸の担当は校訂です。これは文部省の名で出版される教科書で、書名は『数学書』。体裁こそ西洋式であっても中味は和算です。
 5月になって、全5巻の問題集と同じく全5巻の解答集ができあがりました。全10巻になりますが、これを上木されました。上木(じょうぼく)というのは本を版木に彫ることですが、書物が出版されることという意味で用いられます。高久の苦心の『数学書』は大量に印刷されて全国各地の小学校に頒布され、教師たちが数学を教える際のテキストになることになりました。
 7月10日、高久は文部省に召喚され、御褒賜として金10円をいただきました。ところが事態は急変し、「一両月ヲ経テ、俄ニ洋算御主張之儀、洋々ト相聞ヘ、世間モ亦洋算ヲ尊崇スルコトトナリ」ということになって、急転直下、洋算の全面的採用が決定し、「但洋法を用ふ」と「学制」に明記されました。
 和洋両算のいずれを採るべきか、文部省の中でも意見が分かれていた様子がうかがわれますが、ひとたび洋算採用の方針が打ち出された以上、和算は衰退するほかのない運命に陥りました。ただし洋算を教えるといっても、教科書はどうするかとか、実際にはだれがどのように教えるのかとか、解決のむずかしい多くの困難がありました。明治6年4月、和算の全廃後一年もたたないうちに、文部省は「小学教則には、算術は洋法のみを用いるべきであると記されているが、それは従来の算術も合わせて教えてもさしつかえないという意味であり、「数学書」などを使って教授してほしい」という意味の布達(第37号)を出しているのですから、基本方針は定まったにしても、混乱はなかなか収拾されなかったのです。
 何よりも問題になるのは、洋算を教えるというときの「洋算」の中味です。ヨーロッパの数学書が流入するようになってから日も浅く、しかも程度の低い数学書ばかりでした。高久守静は和算ははるかに洋算にまさっていると見ていたようですが、もっともなところはたしかにあります。
 初期の混乱は確かに見られましたが、時勢の赴くところは高久にとっていかにも不本意でした。和算教授の許容を告げる明治6年の布達第37号は、翌明治7年10月の布達10号によって廃止されました。高久が編纂した『数学書』は文部省から東京府に伝えられ、それからついに某書店に払い下げられてしまいました。
 初期の大混乱の時代は長く続き、西欧近代の数学の本質が理解され、オイラーやガウスのような近代数学を創った人たちの数学を直接学ぶことができるようになるまで治まりそうにありませんでした。混乱期には人の運命も過酷でした。高久守静は明治10年まで小学校で教えていましたが、どこまでも洋算に傾斜して行く趨勢に抗議して辞職し、6年後に亡くなりました。消滅していく和算の運命を象徴する出来事です。

関口開と石川県加賀の数学11 和ナリヤ洋ナリヤ

 「学制」が公布されて小学校の教育の大綱が定められたのは明治5年8月2日(1872年9月4日)ですが、それから実際に日本の各地に小学校が建てられて、数学の教育もまた始まりました。問題はその数学の中味なのですが、加藤和平の回想に明らかなように、和算ではなく洋算が教えられていました。洋算を教えることは正式な決定事項ですが、教科書は存在せず、関口開の著作の数々が、明治初期の小学校での数学教育の現場において事実上の教科書の役割を果たしました。
 この間の消息を明らかにするには、和算家の高久守静(たかく・もりしず、文政4年〜明治16年;1821-1883)を紹介するのがよいと思います。「数学報知」という数学誌の第6号(明治23年11月)に川北有頂(かわきた・うちょうのエッセイ「高久慥齋(たかく・そうさい)君の伝」がよい参考になります。「慥齋」は高久の号。「有頂」は川北朝鄰(ともちか)の字(あざな)です。
 川北のエッセイによると、高久は明治4年11月25日(1872年1月5日)に文部省に召し出され、小学授業生を拝命しました。小学校の教師になったのですが(明治4年は学制公布の前年ですが、東京にはすでに小学校がありました)、それから明治6年6月16日(1873年7月10日)に一等授業生を拝命し、同7年11月20日には五等訓導拝命と変遷しましたが、同10年1月12日付で辞職しました。辞職するだけの諸事情があったのですが、川北は直接語ろうとはせず、「此辞職に対して慥齋の上書意見あり」として、高久が自分で書いた上表文をそのまま引いています。高久の「上表」に附された肩書きは「第三中学区公立第二番小学吉井学校五等訓導」。吉井学校は学制発布に先立って設立されたいわゆる「官立六校」の小学校のひとつです。「上表」の日付は明治10年1月10日です。
 この「上表」には「高久守静小学校教員勤務履歴」という一文が附されていますが、それによると、なんでも文部省の当初の方針は洋算ではなく和算を採用することだったのだそうで、高久に小学校の教科書の作成を依頼したというのです。
 明治4年6月、文部省の小学掛官員の吉川孝友という人が使いをよこして高久を招きました。約束した日に出向くと、ある高貴の人物が測量を学びたいとのこと。ついては月謝を30円ほど出すので引き受けてもらえないだろうかというのが吉川の話でした。高久はこれに対し、日本の測量の理は承知しているが、西洋の測量のことはわからないと応じました。
 このときはこれだけで終ったのですが、11月になってまた吉川からお招きがありました。吉川の言うには、このたび小学校を改革することになったが数学の教員が不足している。給料はたった8円しか出せないが、奉職してもらえないかというのでした。この申し出に対し、高久は、
  「其算ハ和ナリヤ洋ナリヤ」
と尋ねました。小学校の教師になったとして、自分が教える数学は和算と洋算のどちらなのか尋ねたのですが、吉川はこの問いに対し、
   「和算ナリ」
と答えました。そこで高久は、和算なら好むところであるから喜んで奉職する。給与が多いとか少ないとか、そんなことは問題ではないと応じました。こうして高久は小学校の教師になりました。

関口開と石川県加賀の数学10 関口開の教授法

 『関口開先生小伝』には門人たち数名の回想が収録されていますが。門人のひとりの森外三郎のエッセイ「関口先生の教授法」によると、森が関口開に師事したのは石川県専門学校予科の最後の半年と、同校理科の最初の二年間余でしたが、それ以前にも関口開の著作をテキストにして、関口開の門下の人に数学を学んでいたのだそうです。関口開は多くの著作を遺しましたが、大部分は問題集でした。石川県専門学校に入る前に実際に使ったのは『数学問題集』『點竄(てんざん)問題集』『幾何初学』ですが、翻訳書の『幾何初学』以外の二冊は単に問題を集めたものです。著作の多くが問題集であることに象徴されているように、関口開の教授法の眼目は問題の解釈にありました。
 石川県専門学校では代数、幾何、三角術を教わりました。テキストは『點竄問題集』『幾何初学』『幾何初学例題』のほか、アメリカのロビンソンの代数学と三角法の原書、トドハンターの代数学、円錐曲線法などでした。難解の箇所を質問すると、関口先生は多くを語らず、問題の所在地を指示し、「論より証拠、まずこれを解け」と注意したものでした。これはつまり「注入主義」を排して「一種の開発主義」を取られたのであろうというのが、森外三郎の所見でした。一方的に教え込むのを避けて、自分で何事かを悟ってほしかったのでしょう。
 関口開の独特の教授法のことは、上原直松のエッセイ「関口先生を追慕して」にも語られています。上原は石川県専門学校で関口先生に教わったのですが、関口先生は生徒に原書の教科書を読ませ、理解したか否かを問うてきました。難解の質問の箇所にはまず応用の例題を解かせ、そうすることにより理論の暗示を与えるというふうで、理論に関する文言の説明などは反復熟考をうながすのみにとどまりました。何事かを本人がみずから悟ってほしいと願っていたのでしょう。
 同じく門人の加藤和平のエッセイ『懐旧談』には明治初年の日本の洋算の消息が語られています。加藤和平は明治3年12月、維新直後の藩政大改革のころ、関口開のもとに入門しました。話が細かくなりますが、現在の金沢市の近辺は江戸期には前田家の領地で、一般に加賀藩と呼ばれています。明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還を受けて金沢藩と名乗ることになりました。次いで明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県が実行され、金沢藩は金沢県になりました(翌明治5年、石川県と改称されました)。それで金沢藩が存在したのは版籍奉還と廃藩置県の間のほんの二年ほどことになりますが、加藤和平が関口開に入門したのはちょうどこの一時期のことでした。
 藩政大改革の流れを受けて、金沢藩ではところどころに小学校を設置し、学科を読書、習字、洋算の三部に分け、部門ごとに専門の教師が教える体勢を整えたのですが、洋算の教師を確保することが喫緊の大問題になりました。「学制」が公布されて、学校教育の現場で全面的に洋算が採用されることが決まったのが明治5年。それに先立って金沢藩ではすでに洋算の採用に踏み切っていたことがわかりますが、洋算を教えることのできる教師が乏しいのが悩みの種でした。
 おりから材木町小学校が新設の運びとなりました。加藤和平ははじめ和算を学んだ人で、旧師は三好善蔵。関口開は同門の兄弟子でした。その三好善蔵の推薦を受けて、明治4年3月、材木町小学校の教員に任命されました。
 加藤和平は当時の洋算の教師たちの名前を11名まで挙げています。ほかに名前を忘れた人が二名。さらに加藤和平と関口開を加えると全部で15名になります。このうち二名は関口門下ではないということですが、差し引き13名の関口門下の教師が金沢の小学校で洋算を教えていたことになります。
 関口開の門下の人も門下ではない人も、毎月一回持ち回りで各々の家に一同集会し、教授方法などをめぐって打ち合わせをしました。洋算の翻訳書はどこにもありませんから、関口開がぽつぽつ翻訳して教授用の本を作りました。これが一冊出るとみな引っ張り合いで謄写したもので、中には明日入用だなどという人もいるくらいでした。関口開もまた小学校で教えていたのですが、帰宅すると門弟たちが続々と押し寄せてきますので、翻訳を急がないと教科書にさしつかえるというありさまでした。そうこうするうちに『数学問題集』が出版されましたので、ようやく教科書謄写の手数が省けるようになりました。
 『数学問題集』は上下二冊。明治4年、初版。明治8年、第二版。合計35000部ほども出ました。イギリスのチェーンバーズの数学書を基礎として編纂した算術の問題集です。この本は洋書の直訳で、問題の度量衡や貨幣はイギリスで使われているものでしたので、日本の日常生活には適しません。そこで加藤和平たち門下生がこの点を修正し、『新撰数学』を編集しました。度量衡の制度が日本の制度に改められたのに加え、内容もことごとく改正されました。初版は全3冊。明治6年刊行。第二版より合わせて全一冊にして明治8年刊行。以下、版を重ね、関口開没後の明治19年、第六版刊行。通算約22万部に達しました。明治3年から明治5、6年までの洋算教育はこのような状況でした。

関口開と石川県加賀の数学9 著作の数々

 金沢の石川県立図書館に「関口文庫」というのがあり、関口開の著作と訳書が集められています。それで閲覧を申し出たのですが、運ばれてきたのは小さな木箱で、上中下三段に区切られて、上段には7巻14冊、中段には9巻16冊、下段には10巻16冊、合わせて46冊の小冊子が詰め込まれていました。表記を簡略にして「巻」と書きましたが、性格に言うとすべてが活字になって出版社経由で刊行されてわけではなく、「稿」と「版」に分れます。「版」は通常の出版物ですが、「稿」はつまり「原稿」で、出版にいたらなかった作品です。入れ物の木箱も中味の書物もどちらもあまりにも小さいのには目を見張らされ、感慨がありました。実物の迫力というのは大きいものです。
 木箱の裏側に作品リストが記されていますが、そこに門人の田中鉄吉(たなか・おのきち)の言葉が添えられています。次のような言葉です。

〈以上は明治初年の頃より僅々十数年間に先生刻苦独学努力せられたる遺著にして稿本は悉く先生の自筆自装なり 大正八年十二月 石川県図書館に寄附に際し〉

 関口開の著訳書は全部で何冊くらいあるのでしょうか。田中鉄吉は『関口開小伝』の二人の編者のうちのひとりですが(もうひとりは上山小三郎)、その小伝には関口開の著作リストがありますが、そこには22冊の作品が挙げられています。一冊は和算書で、書名は『球類百題問答』。他の21冊はすべて洋算書です。この機会に、ひと通り紹介しておきたいと思います。

『数学稽古本』 訳 全一冊 成稿
明治3年。「成稿」というのは、完成した原稿ではあるけれども刊行にはいたらなかった本という意味です。イギリスのホットンという人の数学書の翻訳書というのですが、ホットンとはいかなる人物なのか、少し調べてみたものの不明でした。「石川県専門学校洋書目録」にもホットンという著者の名前は見あたりません。

『数学問題集』 編 上下二冊 刊行
明治4年、初版。明治8年、第二版。合計35000部も出ました。イギリスのチェーンバーズの数学書を基礎として編纂した算術の問題集です。この本は洋書の直訳で、問題の度量衡や貨幣はイギリスで使われているものでしたので、日本の日常生活には適しません。そこで加藤和平たち門下生がこの点を修正し、『新撰数学』を編集しました。度量衡の制度が日本の制度に改められたのに加え、内容もことごとく改正されました。初版は全3冊。明治6年刊行。第二版より合わせて全一冊にして明治8年刊行。以下、版を重ね、関口開没後の明治19年、第六版刊行。通算約22万部に達しました。
 「石川県専門学校洋書目録」を参照すると、そこに
W.and R.Chambers “Arithmetic, Theoretical and Practical”
(理論的および実践的な算術)
という本が出ています。また、目録には出ていませんが、W.and R.Chambersには“Introduction to arithmetic”(1860年)という算術書もあります。W.and R.ChambersというのはRobert(ロバート)とWilliam(ウィリアム)という二人のチェンバーズのことで、兄弟と思います。

『點竄(てんざん)問題集』 編 上下二冊 刊行
明治5年、初版。明治9年、第二版。
アメリカのデーヴィスなどの代数の書物から抜粋し、編纂した代数の問題集。加減乗除から二次方程式まで。第二版ではトドハンターの代数の書物も参照し、『改正點竄問題集』として刊行しました。

『幾何初学』 訳 全二冊 刊行
明治7年、初版。デーヴィスの幾何の書物を翻訳したもの。

『幾何初学例題』 著 全一冊 刊行
明治13年。初等幾何学の例題375問を集め、巻末に代数的解釈の一班を示し、例題75問を集めたもの。

『平三角』 編 全一冊 成稿
明治4年。平面三角法の初等的部分。範式と例題を編纂したもの。典拠は不明ですが、後述するように関口開はトドハンターの平面三角法の著作の翻訳を試みていますから、そこから例題を拾ったのではないかと思います。

『測量』 編 乾坤二冊 成稿
明治5年。陸地測量の様式と例題を編纂したもの。「距離高低より面積計算に至る」という説明がついています。

『弧三角』 編 上一冊 成稿
明治5年。球面三角法の初歩。辺および角の関係まで。下巻も企画されていたようですが、それはトドハンターの著作の翻訳書『弧三角術抄訳』に譲ったように思うという説明が添えられています。

『航海歴用法』 編 一冊 成稿
明治6年。

『微分術』 訳 一冊 成稿
明治7年。アメリカのロビンソンの微分法の著作を翻訳したもの。該当する原書と思われる本が「石川県専門学校洋書目録」に出ています。
Robinson,Horatio N. “A New Treatise on the Elements of Differential and Integral Calculus”
 この本は微分法と積分法の双方のテキストです。関口開はあるいはこの本の微分法の部分だけを訳出したのかもしれません。「目録」によると、この本には「石川県中学師範学校」の蔵書印が捺されているそうです。話が前後しましたが、「目録」に記載されている原書の現在の保管先は金沢大学の資料館です。

『算法窮理問答』 編 上中下三冊 刊行
明治7年。物理の理論と計算法を問答体に編纂したもの。物理思想の普及をめざした作品のようです。

『答氏 微分術』 訳 全三冊 成稿
明治7年以降。トドハンターの微分学の翻訳書。「目録」には、トドハンターの著作
“A Treatise on the Differential Calculus”
が記載されています。「答氏」はトドハンター。

『微分術附録』 著 全一冊 成稿
明治7年。主として微分学の極大極小に関する例題を集めたもの。典拠は明記されていませんが、たぶんトドハンターの著作でしょう。

『答氏 弧三角術抄訳』 訳 全一冊 成稿
明治8年。原書はトドハンターの球面三角法の著作。『弧三角』の後編に相当します。「目録」には、トドハンターの著作
 “Spherical Trigonometry for the Use of Colleges and Schools”
が出ています。

『答氏 平三角術抄訳』 訳 上中下三冊 成稿
明治9年から明治12年にかけて成立しました。解説には、トドハンターの球面三角法の大平面三角法を訳出したものと記されているのですが、平面三角法に「大」の一語が冠されている理由はよくわかりません。「目録」にはトドハンターの著作
 “Plane Trigonometry”
が挙げられています。

『答氏 幾何学』 訳 全5冊 成稿
明治9年から明治13年にかけて成立。トドハンターの著作『ユークリッド』の翻訳書。原書は、
 “The Elements of Euclid”
です。ユークリッドの『幾何学原論』の解説書です。「目録」にも出ています。

『答氏 積分術』 訳 全二冊 成稿
明治9年から明治11年にかけて成立。原書はトドハンターの著作
 “A Treatise on the Integral Calculus”
と思われます。この本は「目録」に記載されています。

『代数学』 訳 第二編上下二冊 第三編上中下三冊
明治10年。トドハンターの代数学の翻訳書ですが、その代数学は「大代数」のほうで、“Algebra for the Use of Colleges and Schools”を指すと思われます。『點竄問題集』の後編。第二編上巻は刊行されましたが、下巻は未刊。第三編も刊行にいたりませんでした。

『答氏 円錐形載断術』 訳 全二冊 成稿
明治10年から明治12年にかけて成立しました。原書はトドハンターの『コニックセクション』。トドハンターには”A Treatise on Conic Sections”という著作があります。書名を見る限り、翻訳の原書としてはこれがもっとも相応しいのではないかと思われるのですが、この本は見たことがありません。「目録」にも出ていません。他方、トドハンターには“A Treatise on Plane Co-Ordinate Geometry as Applied to the Straight Line and the Conic Sections”という著作もあります。これは「目録」に記載されていて、「円錐曲線法」として紹介されています。関口開が翻訳の典拠にしたのはこちらの本かもしれません。

『答氏 静力学解』 著 全一冊 成稿
明治14年。トドハンターの著作"A Treatise on Analytical Statics”の例題を解釈したもの。この本も「目録」に出ています。成稿ではありますが、実物はお粗末な紙片に小さな文字と図がぎっしりと敷き詰められた原稿で、感慨を誘われます。

『小伝』の著訳作リストには見られないものの、関口文庫にはおさめられている作品もあります。下記の2冊です。

『點竄(てんざん)文題集』 稿 三冊
『答氏 幾何学活用例』 稿

 これらの作品の背景には、関口開が参照した一系の英語の数学書が控えています。原書を参照し、関口開の翻訳を検討する作業を遂行することにより、関口開の学問の本当の姿がはじめて明るみに出されることと思いますが、関口開の刻苦精励の10年余を思いますと、なんだか気の遠くなるような思いです。

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