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ガウスの数学日記112 概観の終り

第145項目で語られるのは彗星の軌道に関する事柄です。

145.[彗星の軌道](1813年10月23日)
これは我々がこれまでに成し遂げたあらゆる事柄の中でも、もっとも繊細な洞察に満ちたものだ。だから、放物軌道の計算に関する何らかの簡易化について、ここで何らかの言葉をさしはさむようなことは、骨折りがいのないことである。

具体的なことは不明ですが、ガウスは何かしら大きな発見をしたのでしょう。この項目には日付が記入されていませんが、ガウス全集版のテキストではひとつ前の第144項目と同日の扱いになっています。もしそうなら1813年10月23日の記事ということになります。

 ガウスの数学日記は全部で146個の項目で編成されていますので、あとひとつ残っていますが、その最後の第146項目については前に言及しました。4次剰余の理論とレムニスケート関数に関するもので、数論と関数論との間に存在する可能性のある深遠な関係が示唆されていました。
 連載「ガウスの数学日記」は今回で112回目になりますが、ともあれ日記の本文の概観が終わりましたので、これで一段落です。特に印象に残ったことを思い返すと、著作『アリトメチカ研究』の中味が次第に形成されていく様子、算術幾何平均の考察を通じて楕円関数論の構想が生い立っていく情景、代数方程式論を語る言葉、天文学への関心などでしょうか。意味のわからない項目も多く、日記の全体を完全に解明するにはガウスの全集の全体に精通しなければならないと思います。小さな日記ではありますが、これを拡大していくと全12巻、14冊の全集になるのだろうという予感があります。まったくたいへんな日記です。
 日記を取り巻くあれこれのことも重要ですので、これからもときどき落ち穂拾いを試みたいと思います。
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ガウスの数学日記111 ゼーベルク天文台

前回の第141項目について補足を少々。ガウスは1799年にヘルムシュテット大学から哲学博士の学位を受けましたが、そのとき提出した論文のテーマは「代数学の基本定理の証明」でした。これを第一証明として、ガウスはその後も別証明を探索し、全部で四通りの証明を提出したのですが、数学日記の第141項目で語られたのは第二証明が発見されたときの情景です。ゲッチンゲン王立協会に報告されたのは1815年12月7日。翌1816年の「ゲッチンゲン王立協会新報告集」の巻3に掲載されました。
 1826年2月19日の日付で友人の天文学者オルバースに宛てた手紙の中で、ガウスは第141項目に見られるのと同じ心情を語っています。ガウス全集半テキストの註釈欄に該当箇所が引用されていますので、紹介したいと思います。

<私の学問上の生活の中でしばしば、諸事情により、うまくいかない仕事を脇に置かなければならないことがありました。もっとも後になってうまくいったのですが。たとえば、私たちの報告集[ゲッチンゲン王立協会新報告集]の巻3に掲載された方程式の理論の主定理に対する私の証明がそのような事例です。すでに以前、一度といわず到達していた地点にようやく立ち返るだけで、後になって10倍もの努力を重ねたのです。>

142.[楕円体の引力](1812年9月26日)
楕円体の引力を、その楕円体の外部に位置する点から測定するまったく新しい理論を発見した。
ゼーベルク、1812年9月26日

ゼーベルクというのは地名のようでもありますが、手元の小さな地名辞典にも出ていませんし、どうも弱りました。それでもう少し調べてみたところ、ドイツのチューリンゲン州の西部にゴータという町があり、そこに天文台があって、その名前が「ゼーベルク天文台」というらしいことがわかりました。ゴータにある天文台ですから、「ゴータ天文台」ともいうそうです。ガウスはこの天文台を訪問したのでしょう。

143.[楕円体の引力](1812年10月15日)
同じ理論の残りの部分をも、驚くべき簡明な新しい方法で解決した。
ゲッチンゲン、1812年10月15日

ガウスの数学日記110 代数学の基本定理の第二証明

前回の第138項目は3次剰余の理論と関係があります。記事の本文にも、「3次剰余3に関する定理を、値(x+1)/xの考察を通じて、エレガントな特別の方法で証明した」と明記されているのですが、ガウスが証明したのはどのような定理なのか、具体的なことはよくわかりません。ガウスは4次剰余の理論についてはまとまった論文を2篇書いていますが、3次剰余の理論に関しては断片が遺されたのみに留まります。数学日記の第138項目もそんな断片のひとつですが、ともあれ3次剰余をめぐってガウスが何事かを考えていたことだけはわかります。
 続く2項目では算術幾何平均が語られます。

139.[算術幾何平均](1809年6月20日)
算術幾何平均に関係のある級数をさらに深く考察した。
1809年6月20日

140.[算術幾何平均の5等分](1809年6月29日)
算術幾何平均に対して5等分を遂行した。
1809年6月29日

1809年は第138、139、140項目で終ります。次の第141項目が書かれたのは1812年になってからです。

141.[代数学の基本定理の第二証明](1812年2月29日)
これまでに書き続けてきた一連の記事は、運命のめぐりあわせが悪いためにまたしても中断されてしまったが、1812年のはじめ、再び取り上げたいと思う。1811年11月に、方程式の理論における基本定理の純粋に解析的な、不備のない証明を与えることに成功した。だが、紙の上に何も書き留めておかなかったので、本質的な部分は完全に記憶から消え失せてしまった。それを、十分に長い時間をかけて実りのない探索を続けた後に、幸いにもついに再び発見した。
1812年2月29日

「純粋に解析的な証明」というのは、今日の用語法では「純粋に代数的な証明」という意味合いになります。ガウスは代数学の基本定理の第二の証明を発見したのですが、論文の形で公表されたのは、3年後の1815年になってからでした。

ガウスの数学日記109 円周等分方程式の既約性など

連載「ガウスの数学日記」は第108回まで進んだところでひと休みになっていました。数学日記の項目は全部で146個。第136項から再開します。

136.[円周等分方程式の既約性](1808年6月12日)
方程式
    x^n-1=0
のすべての原始根を含む方程式
   X-1=0
は、有理係数をもつ諸因子に分解されえないことを、合成数nの値に対して証明した。
1808年6月12日

 次数が合成数という一般の場合に対して、円周等分方程式の既約性が語られています。X-1=0とあるのはX=0の誤植です。

137.[三次形式](1808年12月23日)
三次形式の理論と、方程式
   x^3+ny^3+nnz^3-3nxyz=1
の解法に着手した。
[1808年]12月23日

いろいろなことが連想される記事ですが、ガウスが何をめざしていたのか、これだけではよくわかりません。
 1808年の記事は第135、136、137項目の三つで終りで、次の第138項目から1809年の記事になります。

138.[三次剰余の理論](1809年1月6日)
3次剰余3に関する定理を、値(x+1)/xの考察を通じて、エレガントな特別の方法で証明した。ここで、(x+1)/xはつねに3個の値a、aε、aεεをもつ。ただし、二つの値しかもたない場合もある。それはε、εεを与える場合であるこれらの二つの値を与えるxは
   1/(ε-1)=(εε-1)/3, 1/(εε-1)=( ε-1)/3
である。したがって、それらの積は≡1である。

ここでεは1の3乗根ではなく、pは3n+1という形の素数として、合同式
   εε+ε+1≡0(mod.p)
の根を表しています。これを言い換えると、εは「pを法とする1の原始3乗根」です。

ガウスの数学日記108 数学日記の続き

ガウスの数学日記の解読を続けたいと思います。第127項目まで進みましたので、その次の第128項目から始めます。

128.[円周等分方程式](1806年4‐5月)
ほとんど同時に、関数(x^p-1)/(x-1)の4個の因子への分解を成し遂げた。
[1806年4-5月]

この項目には日付が添えられていないのですが、「ほとんど同時に」というのは、ひとつ手前の第127項目と同じころという意味と思います。その第127項目の日付は「1806年4月」ですので、第128項目が書かれた時期も「1806年4-5月」あたりと推定してよさそうです。
 円周等分方程式を4個の因子に分解するというのは何を意味しているのか、これだけではよくわかりませんが、ガウス全集版テキストの註釈には、4次剰余の理論と関係がありそうなことが示唆されています。
 1806年の記事はこれで終りで、以後、数学日記はしばらく中断されます。この年の11月10日、ガウスの庇護者のブラウンシュヴァイクのフェルディナント公が亡くなりました。

129.[天体の軌道決定](1807年1月21日)
地球を中心として四つの場所から測定することにより、ただし四つの場所のうち、もっとも遠い二つの場所は不確定として、その惑星の軌道を決定するための新しい方法。
1807年1月21日

続く第130‐134項目についてはすでに見た通りです。

135.[円周等分方程式](1808年5月10日)
三つの周期に分ける理論(358条)が、格段に簡単な土台に帰着された。
1808年5月10日

この第135項目はすでに1808年の記事になっています。フェルディナント公が亡くなったことを受けて、ガウスはゲッチンゲン大学からの招聘を受諾し、故郷のブラウンシュヴァイクを離れました。家族とともにゲッチンゲンに到着したのは1807年11月21日と記録されています。

旅の終り

飛田先生へのインタビューも終りましたので、出発点の博多にもどりました。9泊10日という長い旅行になり、中味もまた多彩でした。これからブログもまた出発点に立ち返り、「ガウスの数学日記」を続けたいと思います。全部で146個の項目のうち、残りは12個ですから、もう少しで読み終わります。

ガウスの数学日記107 打ち続く天文学への関心

ピアッツィの観測が2月11日までで終わったのは、ケレスが太陽の背後に回って見えなくなったためでした。1月1日に発見されてから、この間、わずかに40日ほどにすぎませんが、これだけの観測結果を元にして軌道を確定するのはなかなかむずかしいことですが、ガウスは「最小自乗法」を用いてこれに成功し、次にケレスが出現する日時を正確に言い当てました。それは12月7日のことで、この日、ツァッハとオルバースがケレスを再発見しました。
 数学日記の第124項目は1805年の記事ですが、テーマは補間法です。

124.[補間法](1805年11月)
補間法の理論をさらに磨きをかけた。
1805年11月

ガウスの遺稿の中には補間法を取り上げたものもありますが、どうして補間法に関心が寄せられたのかというと、これはやはり天文学と関係があったのだろうと思います。軌道計算などのために必要になったのでしょう。
 引き続き天文学に関する記事が続きます。

125.[天体の軌道決定](1806年1月)
太陽の回りを動く天体を太陽を中心として二つの場所から測定することにより、その天体の情報を確定するための新しい、きわめて完全な方法を発見した。
1806年1月

126.[天体の軌道決定](1806年5月)
地球を中心として三つの場所から測定することにより、その惑星の軌道を決定するための方法の完成度を大いに高めた。
1806年5月

127.[天体の軌道決定](1806年4月)
楕円と双曲線を放物線に帰着させる新しい方法。
1806年4月

第127項目は円錐曲線に関する言葉ですが、彗星の軌道決定に寄せる関心が、このような文言に反映しています。第126項目の日付は5月、第127項目の日付は4月で、逆転しています。

ガウスの数学日記106 小惑星ケレス

1801年は年明け早々に惑星ケレスが発見されるという、天文学上の事件が起った年でした。発見したのはジュゼッペ・ピアッツィという人で、イタリアのシチリア島のパレルモの天文台の台長でした。このニュースはドイツではしばらくの間、報告されなかったようですが、ツァッハの「月例通信」の6月号に、この発見を伝える記事が掲載されました。
ダニングトンのガウス伝にはこの間の消息が詳しく記されていますので、簡単に回想したいと思います。
 1月1日にケレスを発見したピアッツィは1月24日になってヨーロッパの各地に手紙を書いて、非常に小さい彗星(彗星か惑星かという点も当初は未確定でした)を発見したと伝えました。ケレスという名前が付けられたのですが、この呼称はローマ神話の女神ケレースに由来するとのこと。宛先として、ベルリン天文台の台長のボーデ、ミラノのオリアニ(どのような人か不明ですが、著名な天文学者だったのでしょう)、パリのラランデの名が挙げられています。2月、ラランデからツァッハに伝えられましたが、その際、ケレスの正確な位置は知らされませんでした。オリアニとボーデ宛の手紙は4月まで届かず、ボーデ宛の手紙などは実に71日を要しましたが、この二人もまた新発見の報をツァッハに伝えました。ということはつまり、「月例通信」の編集者のツァッハのもとにあちこちから情報が寄せられたということになりますが、これを受けて「月例通信」の6月号に「新惑星発見」の記事が掲載されました。
この間、当の発見者のピアッツィによる観測状況はどうかというと、ケレスを追跡できたのは2月11日まででした。その観測記録が早く公表されるとよかったのですが、ピアッツィにも事情があったようで、なかなか公表にいたりませんでした。その間、天文学者たちは盛んに手紙のやりとりを続けました。目標は新惑星の軌道を決定することでした。
 ピアッツィの完全な観測記録はようやく「月例通信」9月号に掲載されましたので、ガウスの知るところとなりました。それで他の天文学者たちと同様、ガウスもまたケレスの軌道決定に関心を示しました。数学日記の第119項目と第121項目は、この問題に向かうガウスの究明の模様を伝える記録です。

ガウスの数学日記105 天文学の新発見

お盆の帰省も終わりましたので、数学日記の解読作業も本来の順番にもどることにして、第118項目の続きの第119項目に立ち返りたいと思います。天文学に関する記述が続きます。

119.[天体の軌道決定](1801年9月半ば)
天体の軌道の原則を究明するためのもっとも簡単でもっとも簡便な新しい方法。
[1801年]9月半ば、ブラウンシュヴァイク


120.[月の運行](1801年8月)
月の運行の理論に着手した。
[1801年]8月

121.[天文学](1801年10月)
天文学の理論においてきわめて役に立つ非常に多くの新しい式を発見した。
1801年10月

ダニングトンの「ガウス伝」の巻末の年譜を参照すると、第120項目と第121項目の間の1801年9月29日に『アリトメチカ研究』が刊行されたとのことです。刊行年が1801年であることはこの著作の実物に明記されていますので明らかですが、「9月29日」という月日はどうしてわかるのでしょうか。ダニングトンは何らかの基本資料を参照したのだろうと思いますが、どのような資料なのか、見聞したことがありません。
 第119項目に附された日付は1801年の9月半ば、第120項目の日付は同年8月です。順序が逆になっていますが、第120項目が実際に書かれたのが8月のある日だったというわけではなく、あとになって書き加えられたのでしょう。

1801年は天文学上の新発見で議論が起った年でした。前に数学日記の第93項目を紹介したおりに、ガウスが「復活祭公式」を作って自分の生誕日を確定したというエピソードを伝えましたが、その公式は「Zachの雑誌」に掲載されました。そのときは諸事情がよくわからなかったのですが、少し調べてみると、Zachというのはフランツ・G・ザビエル・フォン・ツァッハという人で、ゼーベルク天文台の台長です。1754年の生れですから、ガウスより23歳ほど年長になります。ダニングトンのガウス伝には、陸軍中佐であるとか、男爵であるとかの情報が出ています。ガウスとは、1801年の時点から2、3年ほど前に知り合いました。
 そのツァッハが編集していたのが「Monatliche Correspondenz zur Beförderung der Erd- und Himmelskunde」という学術誌です。前に紹介したときは「zur Beförderung」という語句が欠如していたのですが、誌名を完全に書くとこんなふうになる模様です。この語句も含めて訳出すると、「天地の学問の進歩のための月例通信」という感じになります。「天地の学問」というのは「地球と天体を研究対象とする学問」というほどのことで、地理学と天文学を合わせれば宇宙全体みたいな感じになりそうです。

ガウスの数学日記104 4次剰余の理論とレムニスケート関数

数学日記の終わり掛けに、二度にわたって4次剰余の理論に出会います。ガウスは平方剰余相互法則を発見した当初から高次冪剰余相互法則の存在を確信していたように見えますが、実際に探究を試みたのは3次と4次の場合でした。そのうち論文の形で公表されるところにこぎつけたのは4次剰余の理論だけで、3次剰余の理論については断片が遺されるのみにとどまりました。

144.[4次剰余相互法則](1813年10月23日)
4次剰余の一般理論の基礎を確立しようとして、およそ7年間にわたってこのうえない情熱を傾けて探究を続けたが、何も実を結ばずに終わるのが常であった。それを、幸福なことに、わたしたちに息子が生れたのと同じ日についに明るみに出した。
1813年10月23日 ゲッチンゲン

4次剰余の理論の探究は7年間にわたったと言われていますが、第130項目に「3次および4次の剰余に関する理論が開始された」とあり、「1807年2月15日」という日付が添えられています。「7年間」という歳月はこの時点から数えたのでしょう。第144項目では、その7年間の探究が結実したと伝えられているのですが、4次剰余の理論を叙述した論文が実際に公表されたのはずっと後のことになります。1813年10月23日の時点で何が明るみに出されたのか、具体的な消息はよくわかりません。
 「息子」というのは1813年10月23日に生れたヴィルヘルムという男の子で、次男です。後年、アメリカに移住しました。アメリカには今もガウスの子孫が住んでいます。
 第146項目は最後の日記です。ここにも4次剰余の理論が現れるのですが、その現れ方というのはレムニスケート関数との関連において語られるというふうで、印象はあまりにも神秘的です。

146.[4次剰余の理論とレムニスケート関数](1814年7月9日)
帰納的に行われるあるきわめて重要な観察を通じ、4次剰余の理論はレムニスケート関数ときわめて優美に結び合わせられる。すなわち、a+biは素数とし、a-1+biは2+2iで割り切れるとすると、合同式
    1≡xx+yy+xxyy (mod.a+bi)
のあらゆる解の個数は
    (a-1)^2+bb
に等しい。ただし
    x=∞, y=±i ; x=±i, y=∞
も解に含めることにする。
1814年7月9日

 楕円関数論は数論とともに数学日記を支える大きな柱なのですが、レムニスケート関数、算術幾何平均、一般の楕円関数と展開するところまできて、その後の消息が途絶えていました。ところが最終項目にいたってまたしてもレムニスケート関数が登場し、しかも数論、すなわち4次剰余の理論との間に密接な関係があることがわかったというのですから、数学日記の二本の基幹線が融合したことになります。ということは、ガウスの数学的思の世界そのものが有機的なつながりを見せてきたということになります。
 それで第146項目のどこにレムニスケート関数が出ているのか、気に掛かりますが、二つのレムニスケート関数x=sin lemn u、y=sin lemn vを考えると、等式
1=x^2+y^2+x^2 y^2
が成立しますから、このあたりに合同式1≡xx+yy+xxyy (mod.a+bi)の出所がありそうな感じがします。ガウスはこの合同式の根の個数を勘定していますが、そのことと4次剰余の理論がどのように関連するのか、第146項目の文言だけではよくわかりません。4次相互法則の証明が出てきたりするといいのですが。
 レムニスケート関数の変数は複素数、合同式1≡xx+yy+xxyy (mod.a+bi)の法も複素数、4次相互法則が発見された数域も複素数。複素数というものの実在感がありありと感知される場面です。

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オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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