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岡潔先生の情緒の世界 11 情緒の数学史に向けて

 岡先生の論文集には岡先生の情緒がありのままに表現されていますが、ガウスの書き物にはガウスの情緒が現われています。この認識は非常に明確ですし、数学的発見とはちがいますが、岡先生やガウスの言葉に直接耳を傾けなければ決してわからなかったことですし、これはこれで発見は発見です。数学史研究の大きな成果と思い、うれしく思ったことでした。
 小平邦彦先生の話にもどって4次剰余相互法則のことを考えてみると、もしガウスがアーベルのように早世したとするなら、この法則は決して世に出なかったでしょうから、ベートーベンの第9交響曲と同じで、ガウスの手になる芸術作品です。岡先生が長い生涯をかけて解決したのは「ハルトークスの逆問題」ですが、この問題はそもそもそれ自体が岡先生の創意になるものですし、岡先生がいなければ決して解決されることはなかったでしょう。こんなふうにひとりひとりを数えていくと、数学史の流れの中にさながらかなめの石のような位置を占める一系の数学者たちが目に留まります。彼らこそ、真に数学を創った人々ですし、ていねいに描写を重ねていけばおのずと「情緒の数学史」が成立するでしょう。いつか実行してみたいです。
 数学は物理や化学のような自然諸科学ではなく、客観的自然のような何物かを先天的に想定して究明する学問ではありません。数学の学問的対象は人が作ること、言い換えると「情緒」が作り出すのであることを、岡先生やガウスの思索の姿ははっきりと示しています。ただし、岡先生とガウスでは情緒の色合いがだいぶ異なっているように思われますし、そこのところをどのように理解したらよいのでしょうか。このテーマは今後の課題として、ここまでのところでひとまず区切りをつけることにしたいと思います。
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岡潔先生の情緒の世界 10 ガウスの情緒

 この間の消息をもう少し具体的に観察しておきたいと思います。平方剰余相互法則の第一補充法則の発見に続いて、ガウスは平方剰余相互法則の本体を発見し、証明にも成功したのですが、この場合、証明に先立って平方剰余相互法則の姿形が見つかっていたことに留意したいと思います。帰納的な観察を通じて発見にいたったのですが、ともあれ数学的法則が見つかって、さてその次に証明を工夫するというのは、普通の手順というか、よくありがちな道筋です。それでも、第一補充法則を見ただけで、その背後に平方剰余相互法則の本体の存在を予測するというのはたいへんな離れ業ですし、ガウスならではのことであるのはまちがいありません。
 平方剰余相互法則にもましてはるかに神秘的な印象を与えるのは次数が4の相互法則、すなわち「4次の冪剰余相互法則」です。簡潔に「4次相互法則」と呼ばれることもありますが、これを発見したガウス自身による呼称は「4次剰余の理論における基本定理」です。以下、「4次相互法則」という呼称を採りたいと思います。
 ガウスが予感したのは任意の次数の相互法則、すなわち「高次冪剰余相互法則」だったのですが、長い探索の後に発見して公表することができたのは4次相互法則でした。ガウスがたどった足取りは「4次剰余の理論」という標題の2篇の論文に描かれていますが、この2篇の論文が公表されたのは非常に遅く、第一論文は1828年、第二論文は1832年と記録されています。1832年のガウスは55歳ですが、平方剰余相互法則の第一補充法則の発見に伴って高次冪剰余相互法則の存在を予感した17歳のころに立ち返ると、この間、実に38年という歳月が流れています。しかもこの2論文で報告されたのは4次相互法則の姿形だけで、証明は記されていませんでした。38年の歳月は4次相互法則の発見のみに費やされたことになります。
 実際には4次相互法則の証明が記された遺稿があるくらいですから、ガウスは証明を試みたばかりか、成功していたと考えられるのですが、公表にはいたりませんでした。
 ガウスは4次相互法則の存在を確信し、38年もの長期にわたった探索を続けたのですが、この事実こそ、数学の神秘です。4次相互法則が発見されたなら、それから先はアイゼンシュタインがそうしたように証明を工夫したり、クンマーのようにさらに一般的な相互法則の探索に向ったりすることになりますが、この段階になると数学の通常のイメージに合致してきます。ですが、ガウスが4次相互法則の姿を追い求めていたころは、この法則はガウスの心の中に存在するのみであり、ガウス以外のだれもそんな法則に関心を寄せませんでした。当のガウスにしても、4次相互法則は存在すると確信していたのはまちがいありませんが、実際にはあるのかないのか、本当のところはわかりません。4次相互法則はガウスの確信の中にのみ宿っていて、だからこそ38年にも及ぶ探索が可能だったのですが、ガウスの確信は大きな誤解だったのかもしれないのです。
 そんなわけですので、4次相互法則はガウスの心から生まれたと言ってもさしつかえないと思います。ガウスの情緒が4次相互法則という形に表現されたわけで、岡先生の言う通りなのですが、この事実に思いいたったのはつい3年ほど前のことでした。

岡潔先生の情緒の世界 9 ガウスの数論のはじまり

 ヴェイユはどのような意味合いで「ガウスのように」と言ったのか、実のところ真意は判然としないのですが、だいぶ前にはじめてヴェイユの言葉を目にして以来、「ガウスのように」というフレーズが不思議に気に掛かりました。ヴェイユの真意がどのあたりにあるのか、それはそれとして、古典研究を続けている中で、あるいはこうではないかと思いあたったことがあります。
 ガウスの全集は12巻14冊もあります。とてもすべてを解読するわけにはいきませんが、まずガウスの一番はじめの著作『アリトメチカ研究』を読み、それから数論の論文5篇を読みました。『アリトメチカ研究』の巻頭に長めの序文がついていて、数論の歴史の回想とともに、ガウスが数論に向うきっかけになったひとつの出来事が語られていました。当の本人の手になるオリジナルの著作ならではのことで、数論の著作もあまたある中で、ガウスの心情を紹介する記事など見たことがありません。
 ガウスが語ったのは「アリトメチカのすばらしい一定理」を発見したという一事です。本文の第108条に記されているということですので、参照すると、それは今日の数論でいう「平方剰余相互法則の第一補充則」にほかなりません。ガウスは何かのおりにたまたまこの命題に出会ったのですが、それ自体のみごとなことに感動するのと同時に、氷山の一角であろうと感じたというのです。このあたりが数学という学問の不思議なところです。
 ガウスの『アリトメチカ研究』が刊行されたのは1801年ですから、それ以来、すでに200年を越える歳月が流れました。それで、今だから言えるのですが、今日ではガウスが存在を予感した氷山は高次数の冪剰余相互法則を指しています。あるともないとも定かではない法則を「ある」と思ったのはガウスならではのことで、だれもがそんなふうに思えるわけではありませんから、この場面にはガウスひとりの心情が際立つばかりで、いわゆる数学の普遍性は認められません。他方、ガウスが存在すると思ったからといって、本当に存在するのかどうか、それもまた定かではありません。
 結果を見ると実際に存在する事が判明したのですが、それまではただガウスの心の中にあるのみでしたから、数学以前というか、形のない数学というか、数学の可能性というか、得体がしれません。ではありますが、数学はここから生まれてくるほかはないのもまた確かです。このような消息を指して、ガウスの情緒が表現を得て数学が生まれたのだと言えば、事の真相がみごとに言い当てられたような気がします。

岡潔先生の情緒の世界 8 ガウスのように

 だいぶ前のことになりますが、アンドレ・ヴェイユがはじめて来日したとき、日本の若い数学者たちと話し合ったことがあります。記録が残されているのですが、それを見ると、ヴェイユは「(数学は)ガウスのようにはじめよ」というアドバイスをしたのだそうです。ガウスのようにというのはどのような意味なのか、そのあたりの説明はありませんが、数学はアイデアが大事だという発言もありますから、「ガウスのようにアイデアをもってはじめよ」というほどの意味だったのかもしれません。
 ヴェイユの言葉は続き、ガウスのようにはじめるとすぐに、自分はガウスではないとわかるだろう、とのこと。ですが、それでもいいから、ともかくガウスのようにはじめよというのです。昔、このヴェイユの言葉を読んだときは、よく意味がわからなかったのですが、ガウスのようにというところに何だか深遠で雄大な感じがあって感激した覚えがあります。実際にガウスを読む前のことだったのですが、ガウスを読んだ後になって顧みると、「ガウスのように」というのは、「数学のカンバスに描こうとする絵の姿が心に描かれてからはじめよ」という意味の言葉のように耳に響きます。もしそうであれば、ヴェイユもまたガウスと同じ「一番はじめの人」である可能性がありますが、ここは議論の余地がありますし、ぼく自身も確信がもてませんので(つまり、そうではないような感じがありますので)、ひとまず保留にしておきたいと思います。
 ガウスのように出発せよと日本の若者を煽動したヴェイユは、「そうすれば,自分はガウスではないことがすぐにわかるだろう」と間髪を入れずに続け、それからさらに、それでもいいからとにかくガウスのように出発するようにと言い添えました。ヴェイユというのはそんなことを平然と口にする数学者でした。
 ヴェイユの言葉でもうひとつ問題になるのは「アイデア」の一語です。ヴェイユの見るところ、数学にはアイデアのあるものとないものがあるというのですが、では、ある論文を見たとして、はたしてそこにアイデアがあるのか否か、どうしたらわかるのでしょうか。それで、アイデアとは何かという問いを受けることになるのですが、これに対してヴェイユは「それはフォックステリアの問題だ」と応じました。フォックステリアというのは犬の一種で、狐狩りなどに使われるのだそうですが、別段、教えられたりしなくても、どこに狐がいるのか、フォックステリアはあたりまえのように嗅ぎ付けます。それと同様に、アイデアとは何かという定義がなくても、見る人が見ればアイデアの有無はおのずと明らかだというのでしょう。なんだか人を食ったような返答です。

岡潔先生の情緒の世界 7 「数学」と「数学ではないもの」

 岡先生の論文集から受ける印象はガウス、オイラー、ヤコビ、リーマンを読んで受ける印象と非常に似通っています。この鮮明な印象が得られたことは古典研究の大きな成果だったのですが、ではどうして古典研究に向ったのかというと岡先生の論文集を読んだためで、それまでに親しんできた数学書と比べてあまりにも異質であることに衝撃を受けたのです。
 今日の数学的状況の中に岡先生の論文集を配置すると、なにしろ類書は見られませんし、孤高というか孤立無援というか、とにかく特異です。それでいて岡先生の多変数関数論研究は現代数学の根底の大きな一角を定めたという評価も聞こえていたのですが、岡先生のほうではこれを喜ばず、現代数学は冬景色のようだとか、現代数学は死んでいるとかいうふうに、全面的に排斥しようとする姿勢を隠そうとしませんでした。そんな数学者は非常にまれというか、見たことがありません。それで、そのような発言を繰り返せば繰り返すほど岡先生はますます孤立に向うような感じがしたものでした。
 現代数学の形成に本質的に寄与したという当の本人が、その現代数学を否定するという姿は非常に異様で、なんだか理解しがたい状況に直面してしまったような感慨に襲われました。それでまた思ったのですが、数学にも歴史があり、古いギリシア時代の数学も数学、それ以前のバビロニアやエジプトの数学も数学、ヨーロッパ近代の数学も数学、それに日本にも中国にもインドにもアラビアにも数学と呼ばれる学問がありました。時代も地域も文化的背景もまったく異なっているのに、どうしてあれもこれもがみな等しく数学という名で総称されるのでしょうか。はたしてそんなことが可能なのでしょうか。
 ヨーロッパ近代の数学を顧みても、17世紀、18世紀、19世紀、20世紀と時代が流れていく中で数学の姿は大きく変容しているように思います。それでもなお同じ「数学」の一語で総称することが許されるのはどうしてなのでしょうか。「数学」と「数学ではないもの」を分つ境目はどのように形成され、どのようにして認識されるのでしょうか。

岡潔先生の情緒の世界 6 「一番はじめの人」の著作

 岡先生の論文集には岡先生の思索の跡がそのまま描かれていますが、後年、数学の古典を読むようになって、ガウスもオイラーも岡先生と同様であることがわかりました。ガウスの論文や著作にも他の数学者の名前は出てくることは出てくるのですが、他人の仕事に寄りかかっているふうはなく、自分はこうやったがだれそれはこんなことをしたというふうに文字通り参考にしているだけです。その意味において、ガウスは引用しないと言い切っても決して言い過ぎではありません。強いて言えば、「ガウスはガウスのみを引用する」というところでしょうか。ガウスは数学に理想があり、生涯を覆うほどの長い思索の中でどこまでも自分の理想を追い求め、何かしら大きな世界の構築をめざしていたような印象を受けるのですが、そんなところは岡先生と非常によく似ています。
 事のついでに他の数学者のことをもう少し顧みると、オイラーにも引用はありません。ラグランジュはオイラーを引用しています。オイラーとガウスはいわば「一番はじめの人」となのですが、ラグランジュはオイラーを継承した人で、オイラーが志して途中まで進んだ歩みのその先を開きました。ヤコビはどうかというと、楕円関数論の第一歩こそ、ルジャンドルの影響のもとで踏み出しましたが、ルジャンドルを継承したという感じはなく、ヤコビはヤコビで独自です。アーベルもまたルジャンドルの著作を通じて楕円関数論を学んだのですが、ルジャンドルの継承者という感じがしないのはヤコビの場合と同様です。思想的にはガウスの強い影響を受けていますが、ガウスとアーベルの関係はオイラーとラグランジュの関係とは異なっているように思います。アーベルはアーベルできわめて独自で、アーベルの論文には引用がありません。
 最近、コーシーの1825年の複素関数論の論文を垣間見たのですが、そこにはやはら引用がなく、コーシーは独自の世界を開こうと腐心している様子が感知されます。1851年にはリーマンの複素関数論の論文が出ていますが、そこにも引用は見られません。
 こうして具体的に観察してみると、数学の論文の中には、引用のある論文、言い換えると他の数学者の研究成果を踏まえて何事かをしようと論文のほかに、ごく少数ではありますが、引用のない論文、言い換えると、真に独自の世界を開こうとする「一番はじめの論文」があるように思います。「一番はじめの論文」は、なにしろそこにはそれまで見たことも聞いたこともない世界が描かれているのですから、著者の創意が充満しています。それを読もうとする企ての実相は、充満する著者の意志に沿って追随していこうとすることになります。数学的論理の言葉で書かれてはいますが、把握しようとする対象は論理を超越した場所に存在し、その場所というのはつまり著者ひとりの心の世界です。なにしろ世界でただひとり、その人のみが知る世界なのですから、そのようになるのは事の必然でもあります。岡先生はそのあたりの消息を指して、数学は情緒の表現であるというふうに言い表したのではないかと思います。

岡潔先生の情緒の世界 5 アナログ式に読むということ

 数学の本をアナログ式に読むというのはどのようなことなのでしょうか。これについて語る前に岡先生の論文集の印象を伝えておきたいと思いますが、何よりも先ず岡先生の論文集では参考文献というものの位置づけがきわめて特異です。数学の論文の参考文献というのは、著者がその論文を執筆するのにあたって参考にしたり引用したりした論文や著作のことで、たいていの場合、末尾に羅列されています。脚註、すなわち頁の最下部にスペースを確保して、必要のあるたびにそこに書き留めていく形をとることもあります。岡先生は後者の様式を採っています。
 岡先生の論文にも参考文献は出ていますが、それはたいていの場合、取り上げられた研究テーマの歴史的回想の場面においてです。だれがどのような数学的意図をもってこれこれの研究をしたと回想し、これを受けて自分はこうするのだという所見を表明するのが、岡先生のスタイルです。本文に移ると、定義もあり、命題もあり、証明もありますし、そんなところはたいていの数学の論文と同じですが、決定的に異なるところもあります。それは、書かれているのはどこまでも岡先生の思索の足跡ばかりという一事です。
 論文に著者の思索の足跡が書き留められるのは当然のことのように思われるかもしれませんが、必ずしもそうではなく、一般的に言うと著者の個人的な所感などを書くのは避けられる傾向が強いと見受けられます。数学の客観性に主眼を置く立場を取ると、著者の所感などは夾雑物であり、著者の主観を極力排除するのがよいとされているのではないかと思います。これに対し、岡先生の論文はまったく様子が違い、岡先生に独自の思想が広々と繰り広げられていく様子が顕著です。

岡潔先生の情緒の世界 4 デジタル式からアナログ式へ

 大学院に進んだ年の春4月から、いよいよ本気になって岡先生の論文集を読み始めました。それまでにほかの数学書をさんざん読みあさったものの、感動するということがまったくなく、ほとほと弱り果てた末の決断で、もうこれを読むしかないというくらいの決意でした。
 岡先生の論文集は、当時のぼくの数学的心情の世界ではいわば最後の砦のような位置を占めていたのですが、それでもそれまでの勉強がかえってわざわいしたのかどうか、読み始めた当初は、なんというか、姿勢が傲岸でした。傲岸というのはいくぶんおおげさな言い方ですが、多変数関数論のテキストなどもすでにいろいろ読んでいましたので、その知識を土台にして取り組めば、難解な(と言われていました)岡先生の論文集といえども相当に読めるだろうと思っていたように思います。整理されたきれいな理論の原型を眺めてみるというほどの気構えでした。同じ多変数関数論なのだから根本的に異なっているはずはなく、ただ用語や証明の仕方が少々古めかしい感じを与える程度のことと思っていて、名所旧跡を見物するくらいのつもりでした。
 それで、岡先生が作り出した独自の用語体系で書かれている(と言われていました)論文集を、普通に流布している理論体系に基づいて全面的に書き直したらいいのではないかと思い、その作業をもって「読んだ」ということとみなそうと考えていたように思い出されます。この姿勢は傲岸だったと今は思いますが、同じ数学なのだから今のテキストと岡先生の論文集の間に本質的な差異があるはずはないと思い込んでいたところには、「近代」のにおいがただよっています。この思い込みの根底には数学の普遍性を信じる心情が横たわっています。普遍性はつまらないと思っていたからこそ、岡先生の論文集が最後の砦になっていたにもかかわらず、普遍性の受容を拒否することもまたむずかしいことですし、はっきりと自己矛盾に陥っていました。
 こんな傲岸な姿勢は、実際に読み始めるとたちまち行き詰まってしまいました。岡先生の論文集は、なんというか、デジタル式に読むのは不可能で、それまでに読んできた数学書を読むのと同じように読みに掛かると、すぐにわけのわからない状況に直面し、先にすすむことができなくなってしまいます。それが、岡先生の論文集は難解と言われた理由だったのはないかと思います。
 岡先生の論文集はデジタル式に読むと読めませんが、こうすれば読めるという、もうひとつの読み方があります。それはアナログ式の読み方です。

岡潔先生の情緒の世界 3 「真理の世界」と「情緒の世界」

 コーシーがいなかったらはたして「コーシーの定理」は存在しなかったのかどうか、小平先生と岡先生ではくっきりと見解が分かれます。どちらが正しいのは、論理的な判断を可能にしてくれる基準はありませんが、他の数学者たちはどのように思っているのかというと、おおむね小平先生の所見が支持されているように思います。もっともこれはただそんな感じがするというだけのことで、広くアンケートがとられたというようなことはないのですが、岡先生のように数学を人の心の創造物と明言する数学者に出会ったことはありませんし、そんなことを語るエッセイを読んだこともありません。目に触れる限り、岡先生は唯一の例外でした。
 高校で学ぶ数学は別段、情緒の表現のようには思えませんでした。大学に進むと数学者たちがたくさんいましたが、講義を聞いても数学書を渉猟しても、目に触れる数学の姿はつまり論理の体系であり、情緒の陰影はどこにも見当たりませんでした。というよりもむしろ、個々人の情緒とは無縁の場所に、言い換えると「真理の世界」に、つとめて向かおうとしているような感じがありました。
 勉強を重ねていくにつれて数学の世界の状況がだんだんと判明してきたのですが、そのころの印象を率直に回想すると、大学で学ぶ数学はさっぱりおもしろくありませんでした。数学の書物は定義から出発して命題とその証明が続いていくのですが、読み進めるのはなかなかむずかしく、それなりに修業が必要です。ではありますが、定義も命題の言明も証明もみな明晰判明に記述されているのですし、証明の実体は簡単な論理を積み重ねて組み立てられているのですから、慣れてくるとすらすら読めるようになります。それでずいぶんたくさんの数学書を渉猟し、中には岡先生の理論が記されているという触れ込みの多変数関数論の本も何冊かありました。
 ところが困ったことに、どれほど読んでも心を打たれるということがありませんでした。多変数関数論の本には岡先生のお名前が頻出し、岡先生の名を冠せられた「岡の定理」や「岡の原理」などというものにも出会ったのですが、それらを理解しても別段、感激はありませんでした。これにはほとほと困惑し、いったい数学とはいかなる学問なのだろうかという、高校入学前に襲われたあの素朴な疑問に襲われ続けたものでした。
 今にして思うのですが、これはつまり「真理の世界」はひとりひとりの心の動きとは無関係なのではないでしょうか。地球は太陽の回っているというのはたぶん真理なのでしょうが、それは地球上に生きる人の心とは無関係ですし、そのような「普遍的真理」をどれほど説かれても感激するということはありません。普遍的真理の世界は存在するのかもしれませんが、それとは別に「情緒の世界」というべき世界が存在し、人生は情緒の世界に密着して推移しているのではないかと思います。数学書は普遍的真理の開示を装って叙述されていますから、明晰判明ではあっても感激は伴いません。普遍的真理というのは退屈なものです。
 岡先生は数学もまた情緒の世界から生まれるのだと語っているような感じがするのですが、はじめからそんなふうに思ったわけではなく、ある出来事が決定的な契機として作用しました。その契機とは、ほかならぬ岡先生の数学論文集を読んだことでした。
 岡先生の小さな論文集は早くから刊行されていましたので、購入して手もとに置いてありました。発行元は岩波書店で、一番はじめの版にはフランス語で書かれた9篇の論文が収録されていました。後に増補改訂版が出て、収録論文はひとつ増えて10篇になったのですが、大学院に進んでいよいよ意を決して読みにかかった時期に手もとにあったのは、9篇の論文をおさめた初版でした。意を決しないと読めないというのはいくぶん不可解な感じがありますし、もっていたのならもっと早いうちに読めばよかったではないかとも思われるところですが、岡理論を解説した本は読んでもオリジナルの岡先生の論文集は読まなかったのはなぜかというと、それなりのわけがありました。率直に言うと、読んでもわからないような気がしたのです。
 読みもしないうちから読んでもわからないような気がしたというのはなんだか変ですが、岡先生の論文集はいかにも異様な雰囲気に包まれていて、しばしばぱらぱらとめくっていたのですが、それだけでもすでに、大学で普通に接する講義や他の数学書とはまったく異質のにおいがただよってきたものでした。
 それで、それまでの勉強が全然役立たないような印象を受けたのですが、そうしますと完全に一からやりなおさなければならないことになる道理ですから、読むという決意が相当に強固になるまでは取り掛かることができなかったのです。

岡潔先生の情緒の世界2 岡潔先生のエッセイとの出会い

 中学生のころを回想すると、数学はきらいではありませんでしたが、特別に好きだったということもありませんでした。数学に寄せる関心のはじまりは、何を研究しているのかさっぱりわからない、変な学問があるものだ、と強く思ったことでしたから、形而上的というか、観念的というか、さてこれからどうなるのか、興味津々であるのと同時にいくぶん不安でもありました。高校で数学の授業を受けたり、書店で数学史の書物を手にとったりしても、数学とはかくかくしかじかの学問であるというたぐいの文言はみあたりませんでした。ぼくの抱いた素朴な疑問に応えてくれる文言を求めて渉猟していたのですが、秋10月になって岡潔先生の自伝的エッセイ『春の草』(日本経済新聞社)を書店の新刊書コーナーで見つけました。これが岡先生のお名前を認識したはじめです。
 『春の草』を購入して目を通し、これがきっかけになって『春宵十話』『人間の建設』など、岡先生の他の著作を読み始めたのですが、岡先生は「人の中心は情緒である」「数学は情緒を表現する学問である」と明快に発言していました。数学とは何々であるという、まさしくぼくが探し求めていた言葉ですので、まったくびっくりしました。情緒は心と同じで、岡先生のいう心は日本の心、すなわち日本的情緒です。日本的情緒をヨーロッパの人たちが数学と呼んでいる言葉をもって表現するのが数学研究の姿であるというのが、数学に寄せる岡先生の思想の根幹を作る認識です。
 岡先生の言葉は「数学とは何か」という素朴な問いに応えていましたので、印象は非常に鮮明で、目をそばだたせるほかはなかったのですが、新たな問題もまた発生しました。なぜかというと、数学を情緒の表現と見るということの意味合いを理解することができなかったためで、心を惹かれてやまない魅力的な指摘でありながら、情緒を表現したらどのようにして数学が生まれるのか、具体的なイメージはまったく結ばれませんでした。漠然とした印象でいうと、当時も今も、数学のみならず一般に自然諸科学は普遍性や客観性を主張する学問と理解されているのではないかと思います。どこかしらひとりひとりの人の感情とは無縁の場所に「普遍的真理の世界」が存在し、そこに存在する真理を探索するのが科学者の仕事であるというほどの、ヨーロッパ近代の根幹を作る考え方ですが、日本もこれを受け入れましたので、何となく常識のようになっているのではないかと思います。たとえある瞬間に人類が一斉に消滅したとしても、地球は依然として太陽の回りを回っているような感じがするものですが、その感じはヨーロッパ近代の思想に由来しています。
 これに対し岡先生は「数学は情緒の表現」というのですから、ヨーロッパ近代の思想とは真っ向から対立しています。数学の小平邦彦先生は漱石のエッセイ「夢十夜」を引き合いに出して数学を語ったことがあります。「夢十夜」に鎌倉期の仏師の運慶だったか快慶だったかの話が出ていて、仏像は自分が木を掘って作るのではなく、木の中に埋もれている仏の姿をあらわにするだけだというふうなことが語られているのですが、小平先生の見るところ数学研究の姿も同様で、数学の定理は自分が作ったのではなく、ここかしこにすでに存在しているものをたまたま自分が見つけたのだという感じがするというのです。御自分の体験に基づく所感です。
 数学は芸術とは違うとも小平先生は言っています。もしベートーベンが結核かなにかで早世していたとするなら第9交響曲はこの世に存在しなかったのですから、第9交響曲はベートーベンその人の創造物です。これに対し数学の複素変数関数論の「コーシーの定理」はそうではなく、たとえコーシーがこの定理を見つけなかったとしても、いつかはだれかが同じ命題を発見したに違いありません。したがって「コーシーの定理」はコーシー個人の創造物ではないことになります。
 数学は創造されるのか、発見されるのか、どちらなのかと小平先生はみずからに問い、「発見されるのだ」と明快に応じたことになります。この諒解様式はヨーロッパ近代の思想に沿うものですし、数学者を名乗る人たちの間ではだいたいにおいて常識的に受け入れられているように思いますが、岡先生の数学観はこれに真っ向から対峙しています。岡先生の言葉に沿えば、数学はひとりひとりの人の心が生み出した創造物なのですから、芸術と同じです。コーシーがいなかったなら「コーシーの定理」もまた存在しなかったことになりそうです。

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プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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