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ディリクレの「ヤコビの思い出」18 レムニスケート曲線に関心を寄せる

レムニスケート曲線はファニャノの名と切っても切れない関係で結ばれています。ディリクレもまたこの曲線を真っ先に話題にしています。

〈並外れた鋭敏さの持ち主である、教皇領に生まれたイタリアの数学者ファニャノは、ある注目に値する発見をしました。その発見というのは、そのころレムニスケートという名のもとで数学者たちの心をしばしばとらえていた曲線の弧長を表す積分は、円弧の長さを表示するいっそう簡単な積分と類似の諸性質を備えているというものです。たとえば、この種の二つの積分の一方が他方の2倍の値に等しいという場合には、それらの積分の限界の間にはある簡単な代数的関係が成立します。それで、レムニスケートの弧は、もしそれが高度な超越量に等しいとしても、円弧と同様に幾何学的な作図により2倍にしたり半分にしたりすることができるのです。〉

 ファニャノはイタリアのシニガリアという町に生まれた人ですが、この町は17世紀からこのかた教皇領で、直轄地になったということです。そこでディリクレはこの事実を指して、「(ファニャノは)教皇領に生まれた」と述べたのでしょう。
 ディリクレはファニャノの発見の一端を語っていますが、レムニスケート曲線をめぐってファニャノが何をしたのか、これまでにも何度か紹介する機会がありました。弧の等分や倍加ということに着目するとき、レムニスケートには円によく似た性質が備わっているというのがファニャノの発見の骨子ですが、他の曲線にはそんな性質は見られません。多種多様な曲線の中で円とレムニスケートだけが例外的な位置を占めているのですが、それならそもそもどうして弧長の等分や倍加に関心が寄せられたのかといえば、ここはやはりユークリッドの『原論』以来の歴史的背景を回想される場面なのではないかと思います。歴史的意識が個人に作用して思索の道筋を指し示すというのは、ありえないことではありません。古いギリシアに発生した課題が長い時を隔てて継承されたと考えるのは十分に可能ですし、この伝統のない文化圏の数学に曲線の等分や倍加の問題が発生する可能性は少ないのではないでしょうか。
 もうひとつ、レムニスケート曲線に数学者たちの注目が集まったのはどうしてなのでしょうか。ファニャノはヨハン・ベルヌーイの研究に影響を受けたようですが、それならヨハン・ベルヌーイはどうしてレムニスケートに着目したのかというと、イソクロナ・パラケントリカ(測心等時曲線)という曲線の弧長測定を試みたからで、ヨハンはそれをレムニスケート曲線の弧長の測定に帰着させることに成功しました。これが、レムニスケート曲線が注目された理由です。
 そうしますとイソクロナ・パラケントリカに関心が寄せられた理由を知りたくなりますが、あれこれと考えていくのも、今のところこのあたりが限度です。
 17世紀は実にさまざまな曲線が次々と持ち出され、考察されたものですが、レムニスケートもその中にありました。機会を見て、このあたりの消息をもう少し解明してみたいと思います。
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ファニャノにさかのぼる

 楕円関数論と関連して、ディリクレはここでアーベルの名を語ります。

〈この場合、もし独自の思索が多少とも長期にわたって訪れることがなかったとするなら、そのためにその分だけ遅くなってから独自の思索がやって来たことになります。そうして同じ時期のアーベルの思索と結び合わさって予期しない大きさに拡大し、その結果、解析学のきわめて重要な領域を完全に作り換えるという成り行きになりました。〉

〈この進展は同時期に二通りの異なる観点から歩みを始めました。それで、ヤコビの研究と並んで、同時代のアーベルの仕事について語る必要があります。もともとは互いに独立した発見だったのですが、後になって双方が互いに大きな影響を及ぼし合いましたので、一方の叙述は他方の叙述を考慮しないとほとんど理解できないほどになりました。〉

 ここで完結に語られているのは、アーベルとヤコビが手に手をとって新しい楕円関数論の構築に向った情景です。
 続いてディリクレは楕円関数論の回想に移ります。

〈アーベルとヤコビの名は楕円関数論に永遠に結ばれることになりましたが、この理論のはじまりは全世紀の前半にさかのぼります。〉

このような前置きに続いて、ディリクレはファニャノの名を挙げました。

ディリクレの「ヤコビの思い出」16 ルジャンドルの著作を読んだころ

 数論のほかにもうひとつ、ヤコビの心をとらえた数学の領域があります。それは楕円関数の理論です。

〈このテーマの追跡をさらに進めていく中で、ヤコビはそのころ、他の研究を通じて楕円関数の研究を取り出しました。この研究はまもないうちに彼に大きな名声をもたらして、この時代の第一級の数学者たちの中に位置を割り当てることになりました。
 この若い数学者はすでに多くの方向に挑戦して成果をおさめていたのですが、楕円関数の理論では長期にわたって幸運の支援を得られない状況にあったようでした。彼の友人のひとりで、ある日、彼がひどく不機嫌だったのを見た人が、不機嫌のわけを尋ねたのに対して、彼からこんな返答を受け取ったことがあります。「私はちょうどこの本(ルジャンドルの『演習』)を図書館に返そうとしているところなのです。この本は私にとって明々白々な災難です。いつもなら重要な作品を研究したなら、その作品はいつでも私を私自身の思索へと誘い、いつでも何かしら私にも利益がもたらされるものなのです。それが今回は完全にからっぽで、これっぽっちのアイデアにも誘われなかったのです。」〉

 ヤコビがルジャンドルの著作『積分演習』を読んだときの状況をありありと物語るエピソードです。何かの本で読んだような気もしますが、出所はディリクレの回想録だったのでしょう。ルジャンドルの著作を読んでも、ヤコビの心には何もアイデアが浮ばなかったというのですが、それなのにどうしてヤコビは楕円関数論に向ったのでしょうか。

ディリクレの「ヤコビの思い出」15 ガウスの数論を学ぶ

 もうひとつの論文は数論に関するものです。

〈もうひとつは「3次剰余」に関する論文です。この論文には証明なしにいくつかの定理が見られるのみなのですが、これらの定理は、帰納的考察の帰結ではありえませんし、ガウスがそれ以前に四半世紀に及ぶ数学的思索を開き、高等代数学と同じ程度に数の理論にも所属する学問領域に、ヤコビがそのころすでに新しい実り豊かな原理を手にしていたにちがいないことは疑われません。このことは後年の一出版物でも確認されます。ヤコビはそこで、当時すでにこの原理をガウスに手紙で伝えたとはっきりと述べています。〉

 原文はドイツ文に特有のだらだらとつながっていく長たらしいひとつの文章なのですが、適当に区切って訳文を作ってみました。訳読もなかなかむずかしいものです。外国語の勉強には、読むこと、書くこと、聴くこと、話すことの四つの要素がありますが、一番むずかしいのは「読むこと」で、何十年もかけて何千頁を読み重ねても、すらすらと読むというふうにはとてもなりません。新しい文献を読むときはそのつど「ゼロからの出発」みたいになります。
 数学の世界でヤコビの先輩格になるのはルジャンドルとガウスの二人であろうと思われますが、ヤコビはルジャンドルから楕円関数論を学び、ガウスから数論を学びました。ガウスの数論はガウスの創意の産物なのですが、ヤコビはこれを理解し、ガウスを越えた地点に進もうとした模様です。ヤコビの全集に、数論に関する論文が収録されています。
 ガウスの数論というのはつまり「相互法則」のことにほかならないのですが、ガウスは4次剰余相互法則をテーマと刷る論文を書き、3次剰余や、一般に高次の冪剰余の相互法則の存在をも示唆しました。そこでヤコビは高次相互法則の世界に向って独自に歩み始めました。ディリクレが語っているのはそのあたりの消息です。

ディリクレの「ヤコビの思い出」14 ヤコビの数学研究

 ヤコビを語るディリクレの言葉は、ヤコビの数学者としての研究の中味に及んでいきます。

〈ヤコビの一番はじめの論文は、彼はもうすでにすっかり完成された数学者であることを示しています。「積分の近似値の決定のためのガウスの新しい方法について」や「偏微分方程式の積分に対するパフの方法について」「などの論文に見られるように、ヤコビは既知の理論を新しい視点から考察して一段と簡易化したり、未解決の問題を取り扱って新しい諸結果に到達したりしています。」

 ディリクレは特に2篇の論文に言及しました。ひとつは引力の研究に関係があります。

〈後者の種類の研究のうち、ここでは特に二つの研究を語らなければなりません。ひとつは数頁の論文なのですが、彼はそこで、まずはじめにルジャンドルの手でこの学問に導入された奇妙な関数の、それまで知られていなかった基本性質を明らかにしました。それは、引力に関する後のあらゆる研究において重要な役割を果たしました。〉

 ディリクレはこのように述べているのですが、ここのところは実はよくわかりません。ルジャンドルというと「ルジャンドルの多項式」やそれに附随して導入される「ルジャンドル陪関数」などが念頭に浮かびます。ルジャンドルの多項式でしたら、それを表示するためのヤコビの工夫などもありますし、引力の研究との関連でいうとヤコビの「力学講義」などが回想されるところです。こんなことが連想されますが、具体的なことはわかりません。

ディリクレの「ヤコビの思い出」13 「クレルレの数学誌」

 アーベルが「クレルレの数学誌」の創刊時からの寄稿者だったことはよく知られている通りですが、ヤコビもまた「クレルレの数学誌」と縁が深く、しかもこの学術誌との関係は晩年にいたるまで続きました。

〈ヤコビの著作者としての経歴にとって、経歴のはじまりが数学雑誌の創設と重なり合ったのは幸運な状況でした。その雑誌の発行を通じて、われわれの同僚のクレルレは、学問研究の流布に対してばかりではなく、活気をもたらすという点においてもまた非常に大きな、永続的な功績を獲得しました。ヤコビはこの雑誌の最初期の協力者のひとりでしたが、死にいたるまでこの雑誌のもとに忠実にとどまりました。そうして二冊の特別の著作『新しい基礎』『アリトメチカの表』を別にすると、彼の他のほとんどすべての著作はまずはじめにクレルレの雑誌に発表されました。〉

 『新しい基礎』は『楕円関数論の新しい基礎』を指しています。『アリトメチカの表』というのはつまり数表の一種で、書名を省かずに書き下すと、

“Canon Arithmeticus Sive Tabulae Quibus Exhibentur Pro Singulis Numeris Primis Vel Primorum Potestatibus Infra 1000 Numeri Ad Datos Indices Et Indices”

というふうになります。どのような表なのか、詳しく調べたことがありませんので、よくわかりません。

ディリクレの「ヤコビの思い出」12 ベッセルと出会う

 ケーニヒスベルクでは天文学者のベッセルと知り合いました。

〈ケーニヒスベルクへの移住にあたり、ヤコビにとって重要な出来事は、偉大な天文学者ベッセルと個人的に知り合いになり、彼のものときわめて近い専門分野において、はじめてひとりの天才を間近に見ることになったことでした。この並はずれた人たちは毎日熱中して意見を交換して、互いに他を相手にして自分自身を鍛えたのですが、自発的に大きな努力を重ねることは彼の青春期のはじめのころから通常のことでした。この交友から受けた強い影響のことを、彼は後にしばしば語ったものでした。〉

 ベッセルの生地はヴェストファーレン(英語風にいうとウェストファリア)のミンデンという町です。著名な天文学者で、ケーニヒスベルクの天文台長でもありました。数学の方面では「ベッセル関数」に名を残しています。1846年3月17日、ケーニヒスベルクで亡くなりました。

ディリクレの「ヤコビの思い出」11 ケーニヒスベルクに移る

〈ヤコビが呼び起こし始めた注意深さがきっかけとなって、高等教育庁は彼の教育活動を一時的にケーニヒスベルクの私講師として継続するよう、彼に要請しました。ケーニヒスベルクでは、ちょうど数学教授に欠員が出たために、昇進のためにはベルリンにおけるよりもずっと見込みがあったのです。〉

 ベルリン大学で一年ほど講義をした後、ヤコビはケーニヒスベルクの大学に移ったのですが、ディリクレはその理由として「注意深さ」ということを挙げています。ここはどのような意味なのか、実はよくわかりません。大学で昇進するためにはベルリンにいるよりもケーニヒスベルクに移ったほうが有利だからと言われているのですが、そうしますとヤコビのためにそのような配慮がなされたことになります。ベルリンのヤコビは早々に高い評価を獲得し、将来を嘱望されたということでしょうか。
 ケーニヒスベルクに到着したのは1826年5月。ケーニヒスベルクにはフランツ・ノイマンとベッセルがいました。ベッセルは天文学の教授で、1784年7月22日の生まれですから、1826年5月の時点で満41歳でした。フランツ・ノイマンは数学者で、1798年9月11日の生まれですからヤコビより6歳の年長です。ベルリン大学で学位を取り、ヤコビと同時にケーニヒスベルクに移りました。

ディリクレの「ヤコビの思い出」10 無限小の方法

 ヤコビは21歳のときにベルリン大学の講師になり、はじめ「無限小の方法」を講義しました。

〈この21歳の講師は、講義の中で非常に早熟な判断を示しました。彼はそのころの無限小の方法がある大きな権威を通じて陥っていた不信に惑わされることなく、彼自身の表現にまっすぐに従って、聴講者たちを最良の結果を伴いながら納得させるようつとめたのです。その結果、あの疑わしい目で見られていた方法は、形が短縮されたという点において昔の人々の強力な方法と相違するだけのことで、この形を通じてはじめて、あらゆる複合的な疑問の場において欠くことのできないものとなるのです。〉

 「無限小の方法」というのは無限解析とか無限小解析などと呼ばれる方法のことで、おおよそ今日の微積分の方法を指していると見てさしつかえません。「無限解析」ではなく「無限小解析」と呼ぶのはフランスの流儀のようで、ロピタルのテキストの書名からしてすでに「曲線の理解のための無限小解析」というのでした。ディリクレにも「無限小解析の数論への応用」という、解析的数論の嚆矢となった名高い論文がありますが、ディリクレは若い日にフランスで教育を受けた人ですから、フランスの流儀になじみがあったのでしょう。
 ヤコビの講義は空間曲面と空間曲線がテーマだったということですが、無限解析という強力な手法を武器として、その適用領域をさまざまに拡大していこうとするところに、この時期の数学が歩もうとした道がありました。曲線論は無限解析の源泉ですが、曲面論はむずかしく、理論形成はまだこれからという状況でした。
 無限解析の力は非常に強力ですが、その根底には当初から理解の困難な状況が存在しました。19世紀になってからいわゆる厳密化ということが試みられたというのが通説で、担い手として挙げられるのはコーシー、ヴァイエルシュトラス、デデキント、カントールなどの人物です。ヤコビの名がこの系譜に配置されることはないのではないかと思いますが、無限解析の根底に横たわる困難に対してヤコビがまったく無関心だったとも思われません。実際には深い関心を寄せていて、具体的な試みを実戦していたことをディリクレは語っています。

ディリクレの「ヤコビの思い出」9 教育者として

 ここまでのところでヤコビ自身の手紙の引用はひとまず終り、再びディリクレの言葉にもどります。

〈ヤコビは、代数的分数の分解という、すでに何度も取り扱われたテーマを学位論文に選びました。彼はここで、まずはじめに、ラグランジュがわれわれのアカデミーの諸論文の中で証明なしに与えた注目に値する諸式を証明し、それから新しい分解の仕方へと歩を進めています。それは、それまでは単に考察がなされただけの諸式と同じく、完全に確定されたわけではなかったのです。そうしてヤコビは級数の変形に関する研究が附随する論文を出しましたが、その際、すでに新しい原理が目に留まります。彼は後の研究の中でその原理を何度も利用しました。〉

「代数的分数」とはあまり聞いたことのない言葉ですし、ラグランジュが証明なしで提示したいろいろな公式というのもよくわかりません。このあたりはディリクレの言葉をそのまま写しておくほかはありません。

〈学位を取得するとすぐに、ヤコビは大学で大学教授資格を取得して、空間内の曲面と曲線の理論に関する講義を担当しました。そのころの彼の講義のある聴講者の証言によれば、この一番はじめの登壇の場面で、彼の教師としての能力はすでに大きく展開されたにちがいありません。そうして彼は、講義のテーマをきわめて明晰に、しかも聴講者たちのひとりにきわめて刺激的な仕方で取り扱う手だてを心得ていました。〉

 ここでは、ヤコビはすぐれた教育者であったことが語られています。

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