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父を思う(45) 父の名残り

 戦争が終わって帰郷した父は再び桐工の教師になりました。敗戦の衝撃を受けて、戦後の日本は何もかもが一変しましたが、学制も例外ではありえず、桐生工業学校は桐生工業高校になりました。略称は桐工のままで変りません。それに伴って教員免許状も更新されたのですが、筆記試験や面接があったわけではなく、講習に通っただけでした。
 別の高校に移ることもなく桐工に居続けて、昭和49年4月1日付で定年退職。直後に村の教育長に就任し、村役場に通い始めました。この人事の背景には、花輪小学校時代の教え子たちの応援もあったのではないかと思います。
 教育長を10年続けて退任し、それからは自宅にあって雑文を書いたり講演をしたり。村案内をすることもありました。村に生まれ、村に生き、村で亡くなった生涯でした。
 桐工の卒業生たちとの交流はいつまでも続きました。戦後、桐工の校歌の文言が時勢に合わなくなったというので歌詞の変更が企図されたとき、父も応募して採用されました。1番から3番までのうち、2番の歌詞が変更されて、その2番の作詞者として父の名前が記載されたのですが、こんなところに父の名は今も生きています。
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父を思う(44) 召集解除

 玉音放送があって「情況終り」となってから、矢継早に命令が出ました。軍隊は解散と決まりましたので、銃も剣も不要になりました。軍隊に関する文書はすべて焼却処分にするというので、庭先に積み上げて燃やしました。兵たちはこれを囲み、高々と上がる炎を無言で見つめました。民家に新聞を見に行くと、東久邇宮殿下の「一億総懺悔」という談話が出ていました。東久邇宮殿下というのは東久邇宮稔彦王のことで、8月17日付で内閣総理大臣に就任した人です。
 その翌日、全員で川干しをして、いろいろな魚をとりました。また、兵器返還式が挙行されました。直立不動の姿勢で挙手の敬礼をする前で、銃工兵がヤスリで菊の御紋章をけずっていきました。これで完全に武装解除となりました。
 それからまた数日がすぎて、各地でそれぞれの任務についていた兵たちが原隊に復帰してきました。父の原隊の所在地は栃木県那須郡黒羽町(くろばねまち)だったようで、最寄りの駅は東野鉄道の黒羽駅。黒羽は芭蕉が奥の細道の旅の途中、長逗留したことで知られていますが、黒羽駅はなんだか郷里の足尾線のようなさびしい駅でした。
 黒羽町の学校に全員集合しました。士官学校出身の中隊長は皇軍再建を夢見てひとりひとりを呼び出して、軍の中核になるようにとすすめましたが、たいていみな理由をつけて断りました。それでも強引に現役兵を引き抜いて一個小隊を作り、新前橋の電気会社の倉庫に立てこもりました。ある下士官が「ばかが、マッカーサーにぶんなぐられるぞ」と吐き出すようにつぶやいたとかで、その下士官の軍隊手帳には末尾に「マッカーサー伝令を命ず」と記されていたというのですが、これはいったいどのような状況を物語っているのでしょうか。
 この立てこもりは年末12月ころまで続いたそうです。
 昭和20年9月8日、この日の日付をもって召集が解除されました。それで帰郷ということになるのですが、実際に郷里の生家にもどったのは何月何日だったのか、よくわかりません。父の回想には「二年四ヶ月の軍隊生活」という言葉がみられるのですが、この数字をそのまま受け取ると、入営が昭和18年6月20日ですから、帰郷したのは昭和20年10月の半ばすぎあたりになります。隊には毛布やら飯盒やら物品が集積されていましたが、それらをみなで均等に分けて、大きな一包みの荷物を作りました。6年もいた兵も半年ほどの兵もみな同一支給でした。新兵さんに、「なんだ、お前は荷物もらいに来たんだな」と言ってからかうと、「はい」と、うれしそうな返事が返ってきました。
 黒羽駅から東野線で西那須野駅まで。ここで東北本線に乗り換えて小山まで。
小山で両毛線に乗り換えて桐生まで。桐生で足尾線に乗り換えて郷里の花輪駅に着きました。父の戦争はこれで終りました。

父を思う(43) 終戦の詔書

 準備を重ねてきた本土決戦は実現にいたらず、大東亜戦争の実戦は昭和20年8月15日をもって終りました。この日、父の所属部隊の所在地は茨城県で、利根川沿いの境町と結城の中間地でした。正確な地名はわかりませんが、無人の野に東洋一の無線の鉄塔が並び立っていて不気味な印象があったということですから、調べれば判明すると思います。試みに地図を見ると古河市にNHK八俣(やまた)送信所がありますから、これを指しているのかもしれません。
 当日、宿舎の小学校の体育館前に全員集合の命令がありました。兵隊たちは何が何やらわからないままがやがやと集合し、地べたに腰をおろして待っていると、中隊の幹部が現われて玉音放送があると告げました。天皇陛下の御言葉がラジオで流れるというのですが、父が思うに、これは激励の御言葉に相違なく、疑ったものはないであろうとのことでした。「皇国の興廃この一戦にあり」という、日露戦争のおりのあの東郷大将の言葉が一瞬、頭をかすめました。
 感度の悪い雑音入りのくすんだラジオがじいじいと鳴り始めました。隊長が突然「気ヲ付ケ」の大声を発し、兵たちはみな襟を正して緊張しました。玉音放送の始まる予告があり、続いてラジオから玉音が流れ出しました。とても聞き取りにくかったのですが、天皇陛下は絶対ですし、雲の上の現人神なのですから、兵たちは緊張のおももちでひとしく放送に聞き入りました。
 玉音朗々と形容するにはあまりにも聞き取りがたく、激励にしては少し沈んでおられるという感じもありましたが、疑いを差し挟む余地などはなく、放送が終了してからみな立ち上がり、こもごも感想を述べ合いました。衆目の見るところ、「たいそう困難な局面になったから、しっかりやれということだよ」ということに落ち着きました。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」、とにかく軍隊用語でいえば困苦欠乏に堪えることと承知したのでした。
 「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」というのは玉音放送で語られた言葉ですが、この一句だけは妙に印象深く心に焼きつきました。
 兵たちは後方にいましたのでその分だけ聞き取りきくかったのかもしれないとも思われましたが、前列のほうにいた将校や下士官たちがぞろぞろと帰ってきましたので、
 「班長殿、しっかりやれという御言葉なのですか」
とおうかがいをたてました。どうもふにおちなかったのでこんなお尋ねになったのですが、
 「馬鹿者、情況終りということだ」
とどなられました。
 こんな経緯があってから兵たちはやっと納得しました。「どうも力ない御言葉と思った」とひとりの兵が言いました。「また百姓ができる」とだれかが言いました。実際のところ、軍隊生活から解放された気分が先に立って、がっかりしたり悲しんだりするのはその後のことで、「ほっとした」というのがいつわりのない真情だったのではないかと思われました。

父を思う(42) 古戦場訪問

 終戦後31年目の夏の一日、昭和51年8月14日のことですが、父に連れられて筑波山の麓を訪れました。ぼくは大学院の学生でした。石岡と真壁の間の街道なのですが、すっかり舗装されていました。農協にいたとかで、その農協ももうなかったと父は回想しているのですが、農協にいたというのはどのような状況だったのでしょうか。所属部隊は納部隊の一部分ということでよいとして、高崎で編成された後、本土決戦に備えて編成地を離れて筑波山麓に駐屯して陣地構築に従事しているというのですから、三々五々、現地の民家や農協や小学校などに宿営していたのではないかと思います。前線に出て野営ということになればまた別ですが、内地ですからまだそのくらいの余裕はあったのでしょう。
 よく自転車を借りた家はそのままありました。助川さんという人のお宅にはお風呂に入りにいったということですが、この家もありました。ただし代が代っていましたので、話が通じず、いくぶんちぐはぐになりました。当時は一本の障子もないあばら屋だったのが、新装されていたとか。
 筑波山にも足を運びました。掘っていた横穴を見物しようというので、むやみに広い田んぼの中を歩きました。現地の人に「へびに注意しなさいよ」と言われていたのですが、驚いたことに30センチ足らずの小さいまむしがここかしこにちょろちょろと出て来たり、ひなたぼっこをしていたりしていました。これにはまったく驚きました。実に不気味で、とても歩けませんでした。山の形は変わりませんし、穴の入り口も見えるのですが、とても近づいていく気になれずに退散しました。
 それでちょっと疑問に思ったのですが、30年前にもまむしはいたのでしょうし、それでも平気で穴を掘っていたのでしょうか。まむしが気になるのは平時だからこそで、戦時中はまむしどころではなかったということなのかもしれません。
 掘った穴には近づけませんでしたが、現地に出かけたことの意味はやはりあり、父の回想記の印象が現実味を帯びてきました。

父を思う(41) 本土決戦

 病院になる予定の横穴を見物したところ、中に入ると右に曲がり左に曲がり、入ったら最後、元のところに出られそうもない迷宮みたようになっていました。このような陣地を拠点にして戦闘をすることになるのですが、実際の戦闘はどんなふうに展開するのでしょうか。第一線の護宇部隊は、なにしろ「はりつけ部隊」と呼ばれているくらいですからほとんど抵抗することはできず、簡単に破れます。兵たちはどんどん引き上げてくるでしょうし、その前に一般住民も逃げてくるのは必至です。米軍がそれを追撃してくるのですが、そうすると第二線の納部隊の迎撃はどのような恰好になるのでしょうか。
 父はこの点に大きな疑問を感じ、ある将校に質問したそうです。するとその将校は、

〈退く日本軍と一般民に膚接(ふせつ)してM4戦車は進撃する。我が軍はこれを迎えて防御線を張り、あらかじめ測量してある地点まで来たら銃撃するのみ〉

と明快に答えました。膚接とは耳慣れない言葉ですが、これは軍隊用語のひとつではないかと思います。日本軍と米軍がぴったりとついて、さながら皮膚と皮膚が接するように進んでくる様子を言い表しているのですが、実にうまい言葉です。ではありますが、これを銃撃すれば日本軍により日本人が犠牲になることになります。父は、これでは日本人は全滅ではないか、ああ何とむちゃな、いやなことになったと思い、まったくがっかりしたと当時の心情を綴っています。
 司馬遼太郎もこれに似た話を伝えています。司馬は戦車兵で、終戦時の昭和20年には本土決戦準備のため栃木県佐野に駐屯していました。出身は大阪外国語学校。昭和18年秋の学徒出陣組の陸軍少尉で、久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊の小隊長でした。
 米軍の関東方面の上陸地点としては九十九里浜のほかに湘南海岸も想定されていました。ここに上陸した米軍が東京に向けて進撃してきた場合、司馬の戦車部隊は栃木から東京に移動して迎撃するのですが、その際、逃げて来る国民と戦車部隊がぶつかる恰好になります。その場合にはどうするのかと、大本営から派遣された参謀に司馬が尋ねたところ、参謀は「轢き殺していく」と応じました。これを聞いて、「なぜこんなばかなことを」と愕然としたというのが司馬の回想です。父の回想とよく似ています。
 その参謀は東北地方出身の陸軍少佐とのことで、実名は明記されていないのですが、当事者と思われる人たちの間では疑問視する声も出ています。中央公論社の「歴史と人物」という雑誌の昭和58年8月の増刊号では「太平洋戦争―終戦秘史」という特集が組まれていますが、そこで戦車第二十八連隊の中隊長のひとりの近藤新治大尉は、「あの話は、われわれの間で大問題になったんです。司馬さんといっしょの部隊にいた人たちに当ったけれど、だれもこの話を聞いていない。ひとりぐらい覚えていてもいいはずなのですがね」と語っています。
 というわけですので、父が聞いた「銃撃するのみ」と司馬が伝える「轢き殺していけ」を実証的に確認するのはむずかしそうですが、おそらくこれは正式の軍命令というようなものではなく、ある種の心構えというか、当時の作戦担当者たちの心情が有り体に表明された発言だったのではないかと思います。本土決戦ということ自体、はたして本当に遂行できるのかどうかわからない状況でした。勝算のある作戦を構築するのはもう無理で、これこれの場合にはどうするのかと聞かれても、実際にはどうしようもなかったのですし、中味の伴わない強気の発言をするしかなかったのでしょう。

父を思う(40) 筑波の麓

 父は終戦時には「納部隊」という部隊に所属していました。部隊名を「納」と呼ぶのは部隊の正体を秘匿するためで、正式な呼称は第81師団です。師団の傘下にいろいろな部隊が配置されているのですが、歩兵連隊では第171連隊、第172連隊、第173連隊の三つの連隊が納部隊に所属していました。各々の連隊には根拠地がありますが、第173連隊は高崎で編成された部隊ですから、父もこの部隊に所属したのでしょう。
 納部隊が編成されたのは昭和19年4月4日と記録されています。本土決戦に備えることを目的に編成された部隊でしたが、もう少し具体的にいうと、いよいよ本土決戦となる場合、米軍の上陸地としていくつかの海岸が想定されましたが、有力な候補地のひとつが九十九里浜で、ここから上陸すると筑波山にぶつかります。そこでこの方面で本土決戦に備えるということになると筑波山に陣地を構築して迎撃するという構えになりますから、父の所属部隊も高崎を出て筑波山麓に移動しました。父の回想記によると、石岡町から十二、三キロのところ、小幡村小幡に駐屯して、筑波山の横腹をえぐっていたということですが、小幡村というのは茨城県新治郡小幡村のことで、その小幡村内の大字のひとつに小幡があります。筑波山の東の麓に位置し、現在では石岡市の一区域に組み込まれています。
 日本側が想定した本土決戦の概況によると、九十九里浜に上陸した米軍はM4戦車を先頭にして進撃することになっていました。これを食い止めようとする日本軍の第一線部隊は護宇部隊と呼ばれていました。正式に言うと師団名があると思いますが、この部隊は大部隊ではありますが、装備はないも同然で、海岸沿いに配置されることだけが唯一の任務でした。別名を「はりつけ部隊」などといい、時間かせぎのための全滅必至の部隊でした。
 第二線が納部隊で、本部は結城にありました。第三線は仙台の青葉部隊で、これは戦車部隊ですが、群馬県あたりに配備されていたとか。群馬県までくればあとは山を越えて日本海ですから、第四線はありません。
 昭和19年の暮れから穴ほり作業が始まりました。何の目的なのか、さっぱりわからないまま、2メートル四方くらいの穴を掘り進みました。陣地構築の一環ですが、素人の集まりでした。工兵が指導するというので、どんな経験者かと思えば三ヶ月終了の新兵さんでした。与えられた用具は円匙(えんぴ)といって、要するにシャベルなのですが、ほかに30センチ程度のつるはしがありました。掘るほどに、つるはしはずんずん減っていきました。
 民間地からどんどん松の木を切り倒し、それを両側に立て、側板をはさみつけました。頭上には頂板を張りながら掘り進めました。これらの穴は糧秣庫でなったり、兵器庫になったり、病院になったりしました。糧秣というのは兵員用の食糧と軍馬用のまぐさ(秣)のことです。

父を思う(39) 体罰否定

 昭和18年12月1日、この日の日付で階級がひとつ進み、一等兵になりました。序列は第8位です。
 この日はまた学徒兵が入営してきた日でもありました。学徒出陣と呼ばれる現象が具体化したのですが、大学など、各種の高等教育機関に在籍する学生はそれまでは徴兵を猶予されていたのですが、昭和18年秋になってこの措置が撤廃され、在学の途中で応召されることになりました。ただし、徴兵されたのは文科系の学生のみで、理科系の学生は温存されました。兵器の研究開発のために必要と判断されたのでしょう。
 父は新兵教育係ということになりましたので、学徒兵の身上調査をする機会がありました。12名の学徒兵の身上書を見たのですが、月収300円以下の家庭はひとつもありませんでした。当時の小学校校長の月棒が90円ほどでしたから300円というのはたいへんな数字ですが、戦前の大学生の家庭というのはそうしたものでした。
 年が明けて昭和19年となり、2月、古兵の柳井一等兵と二人で組んで新兵40名をあずかりました。先生が二人、生徒が40人の学校のようなもので、こうなるともう私的制裁はありません。軍隊で私的制裁を受けるのは新兵だけということなのでしょうか。というよりもむしろ、40名の新兵の教育係になったのですから、今度は私的制裁を加えることのできる立場に立ったことになります。ですが、父はだれもなぐりませんでした。
 教育現場での体罰ということは今でもしばしば話題になり、教員の中には、なぐってもいいと思うとか、なぐった生徒は卒業後も懐かしそうに寄ってくるなどという人もいます。ですが、父は花輪小学校に勤務していたころから体罰を否定する考えの持ち主でした。もっともこれは平和主義というか、観念的に考えて暴力否定になったのではなく、きっかけになる具体的な出来事がありました。
 昭和9年ころのことのようですが、あるときひとりの子供がガラスを破りました。昭和9年は尋常科5年生の学級担任でしたから、ガラスを破ったのも5年生だったのでしょう。わりと腕力が強く、頭もよい子供だったのですが、何かしら見栄を張ろうとするかのような、意味のないことで窓ガラスをなぐりつけて破ったのですから、故意でした。父はこの行為をとがめたのですが、子供の態度はまったく不遜でした。なぜわざと破ったのだと聞くと、誤りもせず、むかっとした口調で、
 「ガラスを入れて直せばいいんだろ」
と言いました。父はこれを受けて、
 「ばかもの。同じガラスが入るか。悪かったら悪かったとなぜ言えないのだ。」
と一喝して、いきなり左右のほほをなぐりつけました。昭和9年の父は満21歳。若い教師でしたし、余裕もなかったのでしょう。
 なぐられた子供は黙ってしまいましたが、そればかりではなく、翌日もそのまた翌日も学校に出てきませんでした。このとき父は大いに反省しました。たった一度なぐりつけたからといって、ぴたりと行いがあらたまるということがあるものでしょうか。おそらくありえないことで、自分が子供のときのことを思っても、なぐった先生に尊敬を感じるどころか、いまだに憎しみが湧いてくるではないかと考えさせられました。
 体罰は教育ではない、なぐってまで教育する必要はないと心に決めて、この一件以降、暴力否定になりました。軍隊でも私的制裁などしなくとも新兵教育はできました。
 もっとも父の側で暴力否定と決めたからといって、子供たちがおとなしくなったわけではなく、授業中にごそごそ、もそもそと騒いだり、ちょっと目を離すとわっ叫びます。そこで白墨の小さいのを投げつけてにらんだり(まっすぐに投げると命中しないこともありますが、だんだん熟達して、天井にぽんと投げると放物線を描いてちょうど騒ぐ子供の頭の上に落ちるまでになったそうです)、どなりつけたり、近づいてにらみつけたり、校長室に呼んで話をしてみたりしましたが、なかなか効果がありません。それでついつい体罰に及ぶことにもなりがちなのでしょう。
 生徒が先生のいうことを聞かないのは、人間の力というか、教師自体に迫力がないからです。このあたりが教育の要諦で、人が人を教えるのですから、学力も人の力も合わせたうえで、肝心なのは「人間の力」です。年齢を重ねるにつれて、父はだんだんとそんなふうに考えるようになっていったのではないかと思います。

父を思う(38) 射撃訓練

 歩兵部隊に与えられた兵器は軽機関銃と歩兵銃と擲弾筒(てきだんとう)でした。擲弾筒というのは軽便な砲の一種で、弾道が曲線を描くところに特徴があります。これはつまり花火の代りに砲弾を打ち上げるようなものでしょうか。歩兵銃というのは文字通り兵隊のひとりひとりがもつ小銃のことで、日本軍では長い間、三八式(さんぱちしき)というのが使われていて、父が入隊した当初も三八式が支給されましたが、これはひどく重かったようで、まもなく九九式という軽い銃に変りました。
 三八式の「三八」というのは明治38年の「38」のことで、この年に採用されたのでこの名があります。これに対し「九九式」が採用されたのは昭和14年ですが、「一四式」とは呼びませんでした。「九九」というのは皇紀による年号のことで、昭和14年は西暦でいうと1939年ですが、日本皇紀で見ると2599年になりますので「九九式」という呼び名が定まりました。
 軽機関銃の呼び名も同様で、父が入隊したころはちょうど「九六式」が「九九式」に代ったばかりの時期でした。
 射撃は一発必中を理想としていましたので、きびしい訓練が続きました。ひとくちに射撃といってもいろいろで、射撃のときの姿勢により、寝射、膝射、立ち射と区分けされました。命中の確率が一番高いのは寝射で、銃をがっちりと保持し、目と◯の穴と銃口の▲の先と目標がぴったり重なれば必ず命中することになっています。したがって銃の保持ということをやかましくいい、さてそのうえで照準を合わせて引きがねを引けばよいのですが、その「引き金を引く」というところに困難がありました。まず息をとめ、照準が合ったのを確かめて、静かに静かにそっと引きがねを引くのですが、この状況を軍隊の教育用語では「闇夜に霜の落つるが如く」と言い表しました。霜が落ちるようにはなかなかいかず、少しでも力が入ると、留め金をはずれるとき「がくっ」と反動がきます。これを「がく引き」と称しました。
 小銃の火薬の力は相当に強く、弾丸を1600メートルも飛ばすほどというのですから、発射の歳に銃口がほんのわずかでも上がれば、100メートル、200メートル先ではどうなるかわかりません。これを要するに、ねらって打つと当らないことになっていました。
 こんなことを長々と書き綴ったのはなぜかといいますと、特別の訓練を受けた射撃種が特別の銃を使って狙撃する場合は話が別かもしれませんが、一般的に言うと「射撃はあたらない」のが普通ということを強調しておきたかったのです。
 父ははじめは小銃の修業をしましたが、まもなく優秀でなければなれないとおだてられた軽機関銃の担当になりました。機関銃というのはつまり自動小銃ですからひとりで持ち運ぶのですが、重さは小銃の三倍近くありました。それでいて行動は小銃班といっしょですからたいへんでした。
 機関銃にも二種類あり、軽機関銃のほかに重機、すなわち重機関銃というのがありました。重機は個人で運ぶのは無理で、馬に乗せて兵隊が6人ほどついて行動しますから、この点は楽でした。いずれにしても軽機も重機も戦闘の花形で、軽機は引きがねを引いていると30発の弾丸が飛び出しますから、軽機一挺で歩兵30人分という勘定になるのですが、これを敵川から見ると真っ先にねらわれるのは機関銃座でした。
 敵味方どちらから見ても戦闘の花形なのですから、普段から十分に訓練しておきたいところですが、浪費を避けるという観点から、実弾射撃の機会は年に何回しかありませんでした。三ヶ月の一期検閲期間でしたら一回だけだったでしょう。毎晩、分解手入れを繰り返し、基本と称して打つ真似を十分に重ねました。いよいよ実弾射撃となると実弾が与えられますが、わずかに5発。しかも5発の弾丸を3発と2発の二回に分けて打ち、これを「点射」と称しました。
 小銃でも軽機でも第一発目はがっちり固定されていますし、目標は200メートルほどですから必ず当ります。ですが、軽機は二発目は重心が動いて当りません。まして三発目になるとどこに飛んでいくやら見当もつかないというありさまです。
 さて、父が点射を試みたところ、なにしろ必中の名射手ということになっていたのだそうですから、点射の初回、すなわちはじめの二発はまちがいなくあたりました。それで射撃を終えて
 「五発二回点射残弾なし、異状ありません」
と報告したのですが、そのとき助手の上等兵が、
 「愚か者、まだ一発残っているではないか」
と大声でどなりました。これはつまり二発と二発しか打っていないということで、点射の二回目の引きがねの引き方をしくじったのです。それで恐縮して
 「はっ、悪くありました」
と申し述べたのですが、ここでまたしても意外なことに、
 「おい、見ろ、三発当っとるぞ」
と声がかかりました。遥か向こうの壕の中からあきらかに三発命中の表示が掲げられていました。ということはつまり四発中の三発が命中したということで、ありえない出来事です。
 そこに、小高い場所に立って双眼鏡を握って演習の模様を見守っていた中隊長が、
 「今の一発は◯◯二等兵のではない」
と大声で宣言しました。まったくその通りで、別の場所で演習中のどこかの中隊の兵隊が打った流れ弾にちがいないと父も思いました。こんなところまで飛んでくるとはよくよくのことで、だからねらった弾丸は当らないのだなどとひとり合点をしたりしたのですが、軍隊は結果がすべてですから、四発中三発命中と記録され、中隊第一の名射手ということにならざるをえませんでした。
 これが、父を射撃の名手にしたエピソードです。

父を思う(37) 高崎15連隊と東部第38部隊

 陳謝文と教育係と選手要員が重なり合ったためか、本当のところはよくわからないものの、ともかく父は野戦行を免れました。このうち選手要員というのは十五連隊内での中隊の対抗戦の選手ということですが、父がどうして選手要員として重視されたのかというと、中隊きっての射撃の名手ということになっていたからでした。これについて、父はひとつのエピソードを伝えています。
 そのエピソードを紹介する前に父の所属部隊のことを回想しておきたいと思います。これまで高崎連隊とか高崎歩兵第十五連隊などと表記してきましたが、正確には第十五連隊ではなく、「東部軍管区宇都宮師管区歩兵第三補充隊」というのが正式な名前のようで、これを「東部第38部隊」と呼んでいました。軍隊にもいろいろな部隊がありますし、なかなか複雑です。「東部軍管区宇都宮師管区歩兵第三補充隊」の通称が「東部第38部隊」で、所在地は高崎市の高松町。東部軍というのは関東地区の軍政を担当する軍の名前で、東部第38部隊はその直轄部隊ですから本来の任務は本土決戦でした。したがって野戦に出ることはないはずだったのですが、父は一度は野戦行を命じられましたし、一期の検閲後の序列が第9位以下の面々はスマトラ方面に出されたのですから、実際の運用の面ではいろいろなことがあったのでしょう。
 東部第38部隊はそれ自体が連隊だったようで、番号でいうと「第115連隊」と数えられた模様ですが、どうも調査が足らず、隔靴掻痒の感があります。折りを見て精密に調査したいと思います。
 高崎には古くから歩兵第15連隊が置かれていましたが、昭和15年8月、高崎を離れて満州のチチハルに移り、それから大東亜戦争が始まるとペリリュー島に移動して米軍を相手に激戦を展開しています。それで東部第38部隊もしくは第115連隊は「高崎15連隊」とは別の部隊なのですが、高崎の地に長く第15連隊が存在したという記憶は消えず、東部第38部隊もまた「高崎連隊」「高崎15連隊」「第15連隊」などと呼ばれていたのではないかと思います。近江屋の婿さんの密告状のために窮地に陥った父に同情した原軍曹は、「在郷軍人の将校のくせに十五連隊の教育方針を批判するとは生意気だ」と言って婿さんを批判したということですが、ここにも「15連隊」の呼称が生きています。
 父の回想記の記述によると、所属部隊は「東部第38部隊」で、その第五中隊第五班に配属されました。第五班は軽機、すなわち軽機関銃を担当する班でした。
 父の入営は昭和18年6月20日ですが、8月ころになると兵営の改装が始まりました、明治以来の兵舎だってのですが、鉄製のベッドが搬出されて木製になりました。これはつまり民間で行われていた鉄材供出の動きが軍隊にまで及んできたということのようでした。二階もできましたので、収容人員が二倍になる道理ですが、それから入営兵が続々と召集されてくるようになりました。
 ひとくちに召集といっても兵隊の種類もさまざまでした。教育召集なら三ヶ月の教育が終ればすぐに帰郷できましたが、補充召集というのは召集されたそのまま野戦行となる兵隊を集めるための召集ですので、入隊早々、新しい軍装を支給され、早い場合には一週間そこそこで編成が完了して出征していきました。下関を出るとまもなく「ぼか沈」で、高崎までうわさが聞こえてきました。父は臨時召集の補充兵ですから、すぐに野戦行とはならないことになっていたのは既述の通りです。懲罰や志願の場合にはこの限りではないことも上述の通りです。

父を思う(36) 新兵教育係要員

 野戦行を命ずという命令がくだされたのですから、これで運命は定まったのですが、投げてはならないという不思議な気分が湧いてきました。戦場で戦うならまだしも「ぼか沈」では犬死にもいいところですし、そもそも近江屋の婿さんの密告に基づいた懲罰人事というのが気に入りませんでした。それで、投げてはならぬと強く思うのですが、ではどうするかというと人事係の准尉の理解を得て命令を取り消してもらわなければなりません。人事係准尉の方針はすでに下されたのですが、まだ名簿に印がつけられた段階であり、正式な軍命令が布告されたわけではありません。わずかな時間差がありますから、なんとかして准尉の気持ちを変えさせることができれば運命は変わる道理です。
 そうはいっても具体的にどうすればよいかというと困るのですが、とにかく誠意を見せて陳謝しなければなりませんでした。みなが寝静まった二階の廊下の板敷きの間に、ぼんやりと電灯がついていました。そこに這いつくばって、ちびた鉛筆で綿々と陳謝の文を書きました。理屈はありません。自分が未熟であって皇軍の真意を理解しなかった。このたびの機会に十分に教育されて、本当の軍人精神を体得した。本日以後、面目一新、皇軍の優良なる兵士となって恪勤する決意をした、というふうな文章を巻紙に楷書できっちりと書きました。不寝番が異様な目をして通りました。六班の菅原軍曹(同情を寄せてくれた原軍曹とは別の人)が、無理するなよと言って通りました。夜中の2時ころまでかかって、一点一角まちがいなく書き上げました。
 翌日早々、准尉が出勤したのを見て中隊の事務室に行き、みごとな動作で敬礼し、誤りをわび、清書した文書を手渡しました。これが、自分でなしうる最大の手段でした。こんなことをして結果はどうでるか、まったく期待することはできませんでした。
 幾日かすぎて、ある日の夜9時、中隊事務室に出頭するようにとの連絡を受けました。来るべきものがいよいよ来て、生か死か、運命の分かれ道にさしかかりました。緊張のうえにもまた緊張が重なって、ただならぬ心情を抱えたままノックして事務室に入りました。准尉は自分の机の前にがっちりと腰かけていました。きっちりと敬礼し、
 〈◯◯二等兵、参りました。〉
と申告しました。「うむ」と准尉。次のひとことが本当の軍命令で、運命が決せられるのでした。
 准尉は、
 〈貴様は学校の先生であったな。〉
と言いました。言わずと知れたことで、ひとりひとりの兵士の個人情報のすべてを承知しているのが人事係准尉というものでした。ひとまずこの事実を確認したうえで、准尉は、
 〈よろしい。お前を新兵教育係要員として残す。〉
と宣告しました。野戦行は免れたのです。ああ、と張りつめた緊張が一気にくずれました。
 一度は野戦行を命じたにもかかわらず、准尉はどうして命令を取り消したのでしょうか。一編の陳謝文に影響を受けて心変わりをしたとはとても思えませんし、何かほかの理由があったのではないかと想像されるのですが、この当時の戦況を考えてみるに、三ヶ月ごとに新兵が入営してきます。そのほかにも臨時に入営してくる兵隊もいて、ひと通りの教育を受けるとどんどん戦地に出ていきました。そこで大問題となるのは教育係要員を確保することで、人事係准尉にとって、それが最大の課題でした。このあたりに命令変更の理由のひとつがありそうでした。
 もうひとつの理由として考えられるのは検閲序列でした。検閲序列というのはつまり成績の順序のことで、入営して三ヶ月の教育期間を終えた時点でひとりひとりに成績がついて序列が決まります。父は二位でした。第一位は25歳ほどの将校要員ですからこれは特別で、年輩の補充兵の中では一番でした。それと、父は射撃の名手ということになっていました。この件については後述しますが、とにかくそういうことになっていましたので、中隊対抗の銃剣道大会に欠かせない選手になっていて、手放すわけにはいきませんでした。そこで野戦要員としてはどうしても身体の弱い者や事故のあった者があてられることになるのでした。
 国の運命をかけて強敵と戦っているのですから、優秀な兵隊を選りすぐって前線に出すのが本当と思われるところですが、実際にはそうはならず、成績の思わしくない者から先に出すというのでした。アメリカとの戦いの帰趨よりも中隊の対抗戦のほうが重視されていたのですから、思えば変な話でした。
 昭和18年12月1日、父は一等兵に進級しました。密告事件の影響により序列は大きく下がって第8位になりました。准尉の言葉の通り、野戦行にはなりませんでしたが、第8位はぎりぎりの位置で、直下の第9位以下はすべて野戦行となりました。もっともこのときの行き先はスマトラのあたりでしたので、米軍との戦場にはならず、終戦後、全員無事に帰還しました。

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