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(岡潔先生を語る93)落穂拾い

 紀見村の岡先生の姿を点描することから始めて、岡先生の生涯と数学研究のあらましを語ってきましたが、第92回まで進んだところで晩年の岡先生に挨拶をする一群の天衆に出会い、舞台は大きく円を描いて第1回目にもどりました。物語としてはこれでひとまず完了した恰好になったのですが、言い落としたことや言い添えておきたいこともいくつかありますので、岡先生の研究記録の中から心に響く言葉を拾ってみたいと思います。

「研究室文書」の中に、表紙に
  「研究ノ記録 其ノ六」
と書かれた丸善のA5ノートがあります。昭和20年12月14日の「立案」から12月29日に至る日々の研究の記録ですが、研究テーマは不定域イデアルです。その途中、昭和20年12月27日の記事の中に、
 《定義が次第に変つて行くのは、それが研究の姿である。》
という言葉が見られます。終戦の年の年末ですが、岡先生の思索の姿をありのままに伝える言葉であり、率直で、しかも際立って神秘的な印象をぼくらの心に刻みます。解説や解釈は不要と思います。同じ日付で、「昨夜頭が自然に動いて色々考へた。ともかく書き止めて置く」とも書き留められています。

昭和26年(1951年)7月31日(水)
《それで数学のbetter halfは藝術であつて、これを欠いては私のやり方ではやりようがないのであります。》

"better half"と言えば「良き伴侶」というほどのことでしょうか。岡先生の数学の研究の仕方というのは、数学のカンバスに理想を投影し、理想を追い求める心のままに問題群を造型し、その解決をめざしていくのですから、ただのサイエンスではありません。数学者は数学の問題を解く機械ではなく、心に抱かれた数学の理想をよく表現する問題群の造型の場において、詩の心が現れるのです。だれもがみなそのようにやっているというわけではありませんが、岡先生の数学研究はそんなふうでした。このあたりの心情を指して、数学の道連れは芸術なのだと岡先生は言うのではないかと思います。

昭和26年(1951年)8月13日(日)
《研究対象が面影に立つようになれば、それまで見えなかつた秘密や聞きとれなかつたささやき声が、見えたり聞えたりするようになつて来るものです。まるで対象自身が生きていてそうしてくれるかのように。》

これもまた、数学を芸術と見る心から流露した言葉です。

 次に挙げるのは、岡先生の晩年の日記に出ている言葉です。「1974、1、6日 午後六時」すなわち昭和49年(1974年)1月6日、午後6時という日時が記入されています。この時点で岡先生は満72歳です。

 自然は映像である
 眞知の奥に眞情がある
 心情のおくに時がある
 時の奥に眞の自分がある
 私と彼女とがある

 これだけでは意味をつかみにくいのですが、この時期の岡先生は『春雨の曲』の執筆に心魂を傾けていたことを想起したいところです。『春雨の曲』は恋愛を歌う一巻の歌集とぼくは思いますが、このあたりの消息を詳述するとはてしがありません。

昭和28年(1953年)5月18-19日
《事実(又は現象)の感知と時代精神(の察知)
さて私達の立脚点(I)に立つてはるかに積分の所を遠望してみませう。この当時知られていたこと以外は何もしらないとして、問題はここから今日Cauchy(註。コーシー)。の第一定理の名でよばれている定理の存在が感知出来るかどうかと云ふことです。》
《それで感知と云ふ言葉の意味ですが、これは私達の新語であつて定理やその証明法の想像や模索をおこさせるもとになる、何がしかの・・・であって、現れ方はアツと思つたりチラツト見えたりするのです。普通正しい意味で数学と云つているものは、主觀の世界に生ひ立つた数学を文章の世界へ客觀的に投影した云はヾ影(かげ)ですから、これがなければ眼前三寸に一切が備つていても、誰も何時までも気付かないのです。》

 数学は「主觀の世界に生ひ立つた数学を文章の世界へ客觀的に投影した云はヾ影である」と岡先生は言うのですが、これをもう少し簡潔に言い表わせば、「数学は情緒の表現」という、岡先生に独自の言葉が生れるのではないかと思います。

昭和31年(1956年)4月3日
《代数函数論は多変数函数論の骨格―ピュイゾー展開 描冩 觀察 探索 心の中にものの見えたる光 未だ消えざる中に云ひともべし(芭蕉)》

代数関数論は多変数関数論の骨格と簡潔に指摘されています。岡先生の弁年の研究の実相を伝える貴重な数語です。

昭和34年(1959年)10月18日(日)
《感情の形がさきに出来る。それに知性を会せようとする。それが意志 人自身そうして成長するのではないか。》

「知」に先立って「情」があり、「知」は「情」の自由な動きを助ける場面で本領を発揮すると岡先生は言いたいのであろうと思います。

昭和35年(1960年)12月26日(月)
《数学とは人の心から現われて数の大海の表面に自身を表現して行くものでありまして、齢数千を数へて人で云へば四月生れとして数えて四つ位であつて四つになつたのはGeorg Friedrich Bernhard Riemann(註。ゲオルク・フリードリッヒ・ベルンハルト・リーマン)のときからであると私は思つています。》

 昭和35年11月、岡先生は文化勲章の親授式に出席するために上京し、奈良にもどった後、一時行方不明と報じられましたが、年末になって所在地が明らかになりました。ここに引いた言葉はその時期の研究記録に書き留められたものですが、数学を情緒の表現と見る視点が鮮明に打ち出されています。それと、岡先生はリーマンに深い親近感を抱き、数学に寄せる心情を同じくする大先輩と見ていることがわかります。

「岡潔先生を語る」という通し標題を掲げ、数学研究の推移の観察を眼目にしてここまで書き進めてきました。『春雨の曲』の解明が不十分ですし、これだけではまだ岡先生を語り尽くしたことにはなりませんが、それはこれからの大きな課題として、ここでひとまず筆を措きたいと思います。今後はまた出発点に立ち返り、中断したままになっている「オイラーを語る」の再開をめざします。
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(岡潔先生を語る92)天衆の挨拶を受ける

『春雨の曲』は非常に複雑な構造をもった作品で、根幹を作るテーマをつかむのも一筋縄ではいきませんが、理解のむずかしい思索が重ねられていく部分とは別に、岡先生の生涯に起った具体的な体験を紹介している箇所が散りばめられていることに気づきます。語られている事柄それ自体は実際の体験と思われますが、どのエピソードもみな神秘的な印象の伴う隠喩です。次に挙げるのは昭和11年の出来事で、描かれているのは、入院先の広島脳病院を退院するときの情景です。

《夜太田川の一つの分流(註。二股川)を、まだ広島市内ではあるがもう人家のまばらになっているあたりを、上流に向かって歩いていた。家に帰ろうとしているのであって、一九三六年の七月下旬(註。7月19日)のことである。
 道に面した一軒家にさしかかると、のりとを上げている声がしていたが、それがやんだかと思うと一人の老人がいきなり窓の障子を開けて首を出してわたしの方を見て、「ににぎの尊さまや」と云った。わたしはこんなことを云われたのは始めてのことなので、何だか気味がわるかった。
 それで少し元気を付けようと思って人気のない所へ来ると大声で、「響きを上げよ」と云った。そうすると川縁の草叢に眠ていた大きな犬が急に起き上がって川の中に飛びこんでバシャバシャと大きな水音を立てながら向こう岸へ渡って夜の闇に消えた。》

 岡先生の語るもうひとつの体験は昭和13年6月15日のお昼前の出来事で、静岡脳病院を退院して帰宅する途中、安倍川の川辺を歩く岡先生の目に映じた光景です。

《・・・わたしは吹き降りの中を阿部川(註。安倍川の誤記)の川縁を歩いていた。これは昼のことである。空には鴎かと思われる白い鳥と烏だろうと思う黒い鳥とが入り乱れて飛んでいた。わたしは白い鳥に科学一辺倒の人を連想し、黒い鳥に宗教一辺倒の人を連想した。今こんな風では到底日本はもたない。それで思わず鳥達に静まれと命令した。しかし仲々聞かない。私の開いた傘(蛇の目)は強い風を孕んでわたしのからだを安定させない。わたしは自分がこれだからいけないのだと思って、傘をすぼめてそれを逆に持って指揮刀のように左上から右下に強く振り下しながら、「静まれ」とも一度底力のある声で命令した。
  そうすると鳥達は河原に降りて、白い鳥は白い鳥、黒い鳥は黒い鳥と二列に整列した。
  わたしはこの世界のことは、自分はまだ何も知らないのだと云うことが次第にわかって来た。》

『春雨の曲』の終りがけで、岡先生はもうひとつの不思議なエピソードを語っています。岡先生の家は新薬師寺の近くにあり、帰宅するときは新薬師寺の土塀に沿う田舎の道を歩くのですが、ある日、帰途につく岡先生の側を「天衆」が次々と通り抜け、岡先生に挨拶したというのです。「天衆」の正体は不明ですし、はたして実際の体験と呼べるのかどうかも定かではありません。ただの幻影にすぎないようでもありますが、岡先生の心の目に強い実在感を伴って映じたであろうこともまた否定できません。この簡単なエピソードをはじめて読んだとき、岡先生の紀見村の日々のころ、地べたにしゃがみ込んで木の切れ端で数式や図を描きながら思索に打ち込む岡先生を取り囲み、わいわいとはやし立てる村の子どもたちの姿がありありと脳裡に浮かびました。この時期の村の子どもたちは、孤独な数学研究の日々を送る岡先生と向かい合う、唯一の友でした。その子どもたちが天衆に変容し、晩年の岡先生に挨拶しようと、新薬師寺の近辺で待ち構えていたかのような印象を受けました。『春雨の曲』の全体を通じて刻印される最も神秘的な印象です。

 岡先生は『春雨の曲』の中に「私の旅路」という一節を設定し、数学の研究過程を詳しく回想していますが、それは第9番目の論文あたりまでにとどまっています。きあれほど苦しめられた境界問題についての言及は見あたりませんし、代数関数論が語られる場面もありません。この沈黙はどうしたことなのか、今も最大の不審であり続けています。この論点についてはなお思索を続け、日をあらためて書き継ぎたいと思います。

(岡潔先生を語る91)『春雨の曲』がこの世に遺されるまで

 昭和51年(1976年)の年初、「生長の家」の機関誌「聖使命」(1月15日)に、岡先生の発言を紹介する記事
 「人類救済と日本歴史 此の世は造化放映の映像」
が掲載されました。「聖使命」の記者が岡先生の談話を記録した記事のようですが、末尾に、「本論を詳述した「春雨の曲」が今年の夏出版されます」と附言されているのが目に留まります。この『春雨の曲』は第4稿を指すと思われます。夏までに出版したいという岡先生の望みがうかがわれるメモですが、これは実現せず、改稿の試みが続けられました。
 この年の2月までに「春雨の曲」第5稿が完成しました。第5稿は第4稿とほぼ同一の原稿ですが、新たに書きおろされました。コピーが遺されています。また、年内に第6稿が書かれたと推定されますが、この稿についてはオリジナルもコピーも見あたりません。
「LIFE SCIENCEライフ・サイエンス」第3巻(4月20日発行)に、
 「人間への遥かなる旅路」
というインタビューが掲載されました。聞き手は社団法人生命科学振興会会長の松岡英宗。「現代の人間観」というシリーズの第38回目の記事ですが、岡先生の発言の中に近著への言及があり、一巻目は『春雨の曲』、第二巻は『旅路』と言われています。5月11日の京産大の講義でも、『春雨の曲』を書いたので、今、二冊目の本『旅路』を書こうとしているという言葉が見られます。著作全体の構成をめぐって、さまざまに思索を重ねていた様子がうかがわれます。
 昭和52年(1977年)、『春雨の曲』第7稿、巻の一「旅路」が完成しました。脱稿の日付は3月23日と記録されています。この日、原稿の二度目の読み直しが行われ、校正が完了しました。第7稿の原稿は第8稿に流用されたため、第7稿のオリジナルの原稿は存在しないのですが、完成した時点で作成されたコピーが遺されています。
 第7稿が完成した日の翌日の3月24日のことですが、この日、岡先生は『春雨の曲』巻の二「人の世」を書き始めたと記録されています。これも興味深い事実です。今日、第7稿として遺されている作品の構成を見ると、第一章「序曲」に続いて、第二章「旅路の原型」、第三章「私の旅路」、第四章「日本民族の旅路」と、「旅路の原型」が「私」から「日本民族」へと展開していく道筋がくっきりと目に映じます。
 4月13日、『春雨の曲』第7稿、巻の一「旅路」の清書稿が完成しました。毎日新聞社に渡して出版を依頼するためで、清書を担当したのは二人の書生(竹内壽康さんと三上昭洋さん)でした。翌4月14日(木)、竹内さんが毎日新聞社に濱田琉司を訪ね、岡先生の親書とともに『春雨の曲』第7稿、巻の一「旅路」を渡しましたが、だいぶ日時がすぎてから「出版できない」という返答がありました。非常に正式な手順を踏んだ出版依頼でしたから、今度は毎日新聞社としても正式に返答しないわけにはいかなかったのでしょう。竹内さんが毎日新聞社に原稿を受け取りに行きました。
 4月19日、京産大の講義で、

《7年かかってとうとう最近こういう本を書いた。「春雨の曲 巻の一 旅路」。引き続いて今、「巻の二 人の世」。こういう本を書いているんです。》

という話をしました。4月27日、市民大学講座奈良校の開校式に招かれて講演そ、『春雨の曲』序曲のIとIIの原稿を読みました。質問にも応じました。この時点ではまだ出版依頼中で、返答を待っているところなのでした。それから岡先生は「私の生い立ち」というエッセイを書きました。起筆の日付は不明ですが、遺されている原稿には
 「一九七七、一二、二六(月)、午前七時十分」
 (1977年12月26日(月)、午前7時10分)
という日付が記入されています。400字詰原稿用紙で43枚の作品です。このころにはすでに毎日新聞社の返答は届いていたことと思われます。第7稿の改稿へと向かう岡先生の心情がしのばれます。
 昭和53年(1978年)は岡先生がこの世にお別れした年になりました。1月2日の
昼、岡潔宅で恒例の新年会が開かれました。奈良女子大学の数学教室などの面々が岡家に集まり、岡先生も碁を楽しみました。出席者の中に碁の強い人がいて、岡先生は今年こそぜひ勝つのだとはりきり、朝からナポレオンを飲んだりしたということです。夜、風呂場で軽い心不全を起こし、意識不明の状態に陥りました。このとき意識を失った時間は15分ほどとも1時間ほどとも言われています。
 1月10日、京産大において1977年度の最終講義を行いました。1月13日、『春雨の曲』第8稿の筆を起しました。1月19日、起きあがることができなくなりました。ペンを執ることができず、口述と第7稿の補正という形で稿を進めました。書生の三上さんと竹内さんが筆記しました。2月28日、夜、気分がよく、『春雨の曲』の口述筆記を進めました。翌3月1日未明(午前3時33分と記録されています)、死去。行年78歳。満年齢は76歳と10箇月でした。書きかけの遺稿
 『春雨の曲』第8稿、巻の一 人類の自覚
が絶筆になりました。
 7月31日、『春雨の曲 第8稿』が私家版の形で刊行されました。校正者は三上昭洋。9月30日、旧稿『春雨の曲 第7稿』がやはり私家版の形で刊行されました。校正者として記されているのは藤田収、竹内壽康、三上昭洋の三人です。

(岡潔先生を語る90)『春雨の曲』第4稿まで

 破棄された初稿に続き、翌昭和47年、岡先生は「春雨の曲」の第2稿を書き上げました。初稿のときもそうでしたが、岡先生は今度もまた毎日新聞社に出版を依頼しました。京産大での講義の記録を参照すると、この年の10月6日の時点で毎日新聞社からの返答を待って待機中であることがわかります。ただし、反応はにぶく、はかばかしく話が進まないまま推移して、後にみずから依頼を取り下げることになりました。毎日新聞社は出すとも出さないとも態度を明確にしなかったのですが、あからさまに拒絶はしないものの、出版したいという考えがなかったことは明らかです。作品の内容がどうこうというよりも、おそらく売れ行きを考えてのことで、かつて岡先生のエッセイ集に寄せられたブームはすでに去ったという判断がなされたためと思います。講談社現代新書の編集部が『『流露』の刊行に難色を示したのと同じです。この第2稿も破棄されました。
 第2稿の後、「春雨の曲」は丸一年ほど放置されましたが、岡先生は昭和48年の暮れ、12月に入って第3稿へと向かう契機をつかみ、新たな取り組みを開始しました。昭和49年5月28日(この日は火曜日でした)、京産大での講義のおろ、岡先生は「春雨の曲」の第二篇「人」の原稿を読み上げました。この項目は第7稿には見あたりません。6月4日の講義では「春雨の曲」第一篇「日本民族」を読みました。第7稿の該当箇所を探すと、第一章「序曲」の「II」が「日本民族」と題されていることに気づきます。また、第四章の「日本民族の旅路」も目に留まります。それから夏休みをはさみ、9月24日のことですが、講義の途中で「春雨の曲」に言及し、

《今年中には出るだろう》
《それで書名が決まった。決まったのがだいたい1971年6月の末です。それから書き始めた、四年越し書いてる》
《三月いっぱいくらいには毎日新聞社から出す》

という話をしました。出版元としては一貫して毎日新聞社を望み、引き受けてくれそうな他の出版社を考慮した形跡はありません。岡先生の心の中では、おそらく毎日新聞に「春宵十話」を連載した当初の情景が回想されていたのであろうと思います。11月12日の講義では第一篇、第三章「造化の二神」を読みました。第7稿で見ると、第一章「序曲」の「IV」の「造化の二神」が該当します。こんなふうにいろいいろな原稿を書き、講義もして、「春雨の曲」の全容が次第に現われていくという経過をたどりました。
 昭和50年4月10日、「春雨の曲」第3稿が完成しました。末尾に、
 「一九七五年四月十日、木曜日」
という日付が記入されています。400字詰原稿用紙で606枚という大きな作品で、直筆の原稿は失われましたが、コピーが保存されています。昭和50年4月3日、奈良に岡先生を訪問した二人の愛読者(長谷川幸雄さんと大隈博行さん)に向かって、岡先生は、

《ともかく7月15日に(原稿を)毎日新聞社に渡します。そして、向こうで調べて、お出ししましょう、と言って印刷する。どれだけ、調べるのに、かかるか知りませんけどね。こういう本、出してもよいかどうか、新聞社の恥になりゃせんかと・・・。だいぶ、みんなと言うこと変わってますから、調べるのに時間かかるでしょ。三箇月くらい、かかるんじゃないかな。そしたら、7月15日に(原稿を)渡して、(本が出るのは)年内ということになるんでしょうね。後、印刷があるから。》

と語りました。実際に7月15日に毎日新聞社に原稿が渡されたのかどうか、第3稿の運命を伝える資料はありません。破棄されて、引き続き第4稿が試みられた可能性もあります。それと、毎日新聞社に原稿を渡す日として、4月3日の時点で早々と7月15日という日時が設定されていますが、これもまたいかにも不思議です。昭和11年(1936年)の6月、広島で起った事件の背後に、この点を考えるヒントがひそんでいるのではないかと思います。
 昭和11年6月23日の夜、太田川の分流の二股川の土手で事件が起り、その夜、岡先生は行方不明になりました。翌朝、発見されたのですが、『春雨の曲』ではその一夜が回想されて、こんなふうに語られています。

《一九三六年の七月にわたしは一晩中、わたしの家はその頃広島の牛田と云う、八幡神宮を祭ってある小高い丘の麓にあったのであるが、その丘の、家と反対の側、と云うと北西の方になるのだが、その丘の北西の斜面の笹原に寝て、星の一群を率いる宵の明星と話をした。》

 これは『春雨の曲』第3稿に見られる記述です。八幡神宮というのは早稲田神社のことで、岡先生の家は早稲田神社にのぼる石段の登り口のあたりにありました。「七月」は「六月」のまちがいなのですが、この時期の岡先生の数学研究の状況を回想すると、ちょうど第2論文の成立に確信を抱いたころに相当します。『春雨の曲』第7稿を参照すると、第2論文のあらすじを一応書き上げたのは7月10日ころと明記されていますが、7月10日前後には岡先生は広島で入院中でしたから、実際に原稿を書くことはできませんでした。岡先生は心情のカンバスに第2論文の全容を鮮明に描いたことになりますが、後年、その時期を回想して「7月10日ころ」と記述したことになります。この日時をもっと精密に詰めていくと7月15日という日付が浮上して、その日を期して、『春雨の曲』を毎日新聞社に渡したいと願ったのではないかと思います。岡先生の数学研究を支える力の根源はこの世にはなく、星の一群を率いる宵の明星だけが、岡先生の心情の唯一の寄る辺なのでした。
 昭和50年9月23日、75歳の岡先生は京産大の講義の中で、『春雨の曲』の第4稿を書いているという話をしました。第4稿第一篇の構成は、
 「第一章 自然とこころ」
 「第二章 日本民族」。
というのですが、第7稿の対応する箇所を見ると、「第一章 序曲」の「I」が「自然とこころ」と題されています。『春雨の曲』第4稿は12月になって完成しました。自筆の原稿は失われましたが、コピーが保存されています。「まえがき」の日付は「一九七五、一二、三」(1975年12月3日)です。

(岡潔先生を語る89)春雨の曲

 昭和39年3月18日、岡先生は満63歳の誕生日(戸籍上の誕生日。実際の誕生日は4月19日です)を翌日に控え、この日、奈良女子大学を定年退官しました。引き続き、4年間、奈良女子大学の非常勤講師を勤めましたが、昭和43年3月でそれも終りました。それから一年後の昭和44年4月、京都産業大学の荒木俊馬総長の要請を受け、理学部教授に就任しました。所属先は理学部ですが、数学は教えず、もっぱら教養課目「日本民族」を担当しました。毎週一回。一回一時間半の講義です。(昭和46年度以降の講義については録音テープが残されていて、「毎週一回」でまちがいありませんが、昭和44年に刊行された『神々の花園』には「月に二回」と記されています。もしかすると初年度は隔週の講義だったのかもしれません。)
 京産大の講義「日本民族」が始まって三年目の昭和46年のことですが、岡先生は「春雨の曲」という不思議な標題を立てて、エッセイとも自伝ともつかない新たな作品を書き始めました。昭和46年のうちに初稿を書き上げた模様ですが、気に入らず、それから絶え間なく書き直しを続けました。昭和52年はこの世にお別れした年の前年にあたります。この年、第7稿が完成し、出版に向けて努力もしたのですが、それでもまだ意に染まなかったようで、第8稿の筆を起し、亡くなる日(昭和53年3月1日)の前日まで口述筆記の形で継続しました。試みに第7稿の目次を挙げると、次の通りです。

 第一章 序曲
  I 自然とこころ
  II 日本民族
  III 始の生い立ちの記
  IV 造化の二神
 第二章 旅路の原型
 第三章 私の旅路
  I 幼年時代、小学時代
  II 中学時代
  III 高等学校時代、大学時代及び其の後
  IV 第九識の確認
  V 第十識の確認
  VI 第十一識の確認
  VII 私の其の後の旅路
 第四章 日本民族の旅路
  I 神代
  II 上代
  III 中世
  IV 近世及び現代
 第五章 無明、生死、染色体
  I 無明
  II 生死
  III 染色体

「春雨の曲」の初稿が執筆されたのは昭和46年7月のことでした。昭和46年9月28日、京産大での昭和46年度第12回目の講義の中で、岡先生はこんなふうに語っています。

《わたし七月に本を書いたの言いましたね。その前、本二冊(註。講談社現代新書の『曙』と『神々の花園』を指します)ほど書いた。それから二年間ほど何もしなかった。しなかったというのは、新しいことがわかってやせんので・・・。ところが六月の末ころからにわかに、何て言うか、わかってきたというよりも書きたくなった。それでだいたい七月いっぱいくらいかかって書いた。
・・・・・
そうして毎日新聞へ、もし出していいと思うなら出してよいと言ってやった。そうすると、やはりすぐじゃなかったですが、ちょっと時間あいてですが、出すことにするから、それからディテールを打ち合わせに近くうかがうと言ってきた。それからもう二十日には十分なるのに来ない。》

 同じ講義の中で、「異常な精神の高揚状態において書いた」とも岡先生は語っています。毎日新聞社に出版の話をもちかけたとのことですが、出すとも出さないとも返答がないうちに、岡先生の方から依頼を取り下げた模様です。この初稿は破棄されました。

(岡潔先生を語る88)著作活動の終焉

 昭和38年の『春宵十話』から昭和43年の『日本民族』まで、岡先生のエッセイ集は10冊を数えましたが、昭和44年にはさらに二冊のエッセイ集がラインナップに加わりました。二冊とも講談社現代新書です。

『曙』(講談社現代新書) 昭和44年6月1日発行
 九つの章から成り、各章の表紙に熊谷守一の絵
 「朝のはじまり」
 「地蔵菩薩」
 「宵月」
 「唯我独尊」
 「蝸牛」
 「普賢菩薩」
 「蒲公英に蝦」
 「河童」
 「猫」
が掲げられています。昭和42年10月18日の毎日新聞で熊谷守一の絵「アリ」を見て以来、この画家は岡先生の最高のお気に入りになりました。『曙』の最終章(第9章)の標題は「熊谷さんの画は何故見ていると楽しくなって来るか」というのです。岡先生が見た新聞記事は『熊谷守一画集』(一柿木版社刊行)の紹介記事でした。「まえがき」の日付は「一九六九年四月二十五日」です。
 第2章の標題は「造化頑小児」というのですが、これは「造化といういたずら童(わらべ)」の意です。ここで岡先生は「新社会党」「新民主党」という二つの名前をもつ新政党のアイデアと、「都市大学」の構想を表明しました。昭和44年といえば大学紛争が非常に盛り上がった時期で、大学では講義が行われなかったり、教官の研究室がめちゃくちゃに荒らされたり、入学試験が中止に追い込まれたりした大学もあるというふうで、日本の諸大学は従来の機能を喪失して荒廃のただ中にありました。岡先生はそんな現状を眼前に見て現実の大学の姿に深い幻滅を感じ、都市大学という名前のまったく新しい大学を夢見たのでした。実際には都市大学は日の目を見ませんでした。その代わり前年の秋にはすでに、岡先生の提唱を受ける形をとって「市民大学講座」というものが発足し、学生が募集され、講師陣も整い、昭和44年には日本の各地で盛んに講義が行われていました。
 昭和14年秋のことですが、郷里の紀見村で思索の日々を送る岡先生は、札幌の岡先生中谷宇吉郎に宛ててしばしば「一日一文」を書き送りました。これについてはだいぶ前に紹介したことがありますが、9月28日の書簡に出ている「一日一文」は「零モ數字ノ中」と題されていて、 岡先生は名のみあって実体のない大学を二つ作つたらどうだろうと提案していました。

《名ノミアツテ實體ノナイ大學ヲ二ツ造ツタラドウダラウ。經費ハ一錢モカカラナイ。一ツハ正ニツカフタメニ。他ノ一ツハ負ニツカフタメニ。之ハ将棋デ云ヘバ駒臺モ亦盤ノ内ト看做スノト同一種類ノ考ヘ方ダカラ勿論正統派デス。-0ノ大學ニツイテモ何モ好ンデ上野カ下野カノ何トカ云フ寺マデ聯想スルニ當ラナイデセウ。》

続いて岡先生は「書イテ見テ一寸奇僑ナ氣ガシナイデモナイガ、ドウセコンナノハ子供ガ波打ギワデ家ノ設計圖デモ書ク樣ナモノ。明日ニナレバマタモトノ平坦サニ還リマセウ」などと言い添えました。まるで空をつかむような正体不明の大学のアイデアですが、それから30年という歳月を経て、都市大学もしくは市民大学という衣裳をまとい、岡先生の心情の世界に描かれた夢の大学が実現したかのような情景です。
『曙』の第6章には「日本の国を守り抜こう」という標題が附されています。岡先生はここで「葦牙(あしかび)会」の構想を表明し、入会申込先として、
  茨城県筑波町筑波山梅田開拓筵
  梅田美保
が指定されました。岡先生の手になる「葦牙会趣意書」が残されています。

葦牙会趣意書
日本民族はいよいよ亡びるか興るかの瀬戸際に立つことになった。
日本の現状を病にたとえると横隔膜が生氣を失ったのである。病膏肓に入るとはこのことである。
私達は民族精神を下から盛り上げて、民族を死から救ひ、生氣溌溂たらしめねばならぬ。葦牙會を結成する所以であって、この名は古事記からとったのである。
  岡潔識

 この趣意書を見れば、葦牙会のアイデアもまた日本の現状に寄せる深刻な危機感に根ざしていることがわかります。そういうところは都市大学や市民大学のアイデアと同じです。筑波山の梅田開拓筵は神道系の宗教団体ですが、岡先生と晩年、親しく交友した胡蘭成(こらんせい)とゆかりが深く、岡先生は胡蘭成を通じて梅田開拓筵の梅田美保さんと知り合いました。胡蘭成は汪兆銘の国民政府の発足にあたり、参画した経験をもつ中国人で、戦後、日本に亡命し、奥多摩の自宅で亡くなりました。

『神々の花園』(講談社現代新書) 昭和44年10月16日発行
 このエッセイ集は第一編「神々の花園」と第二編「地上の新秩序」で構成されています。各篇の表紙には、またしても熊谷守一の絵「馬子」と「蟻」が掲げられています。「まえがき」の日付は「一九六九年六月二十四日」です。

 岡先生のエッセイ集はこれで12冊になりました。ほかの著作を見ると、二冊の講演集
『葦牙よ萌えあがれ』(心情圏) 昭和44年5月1日
『岡潔講演集』(市民大学講座出版局) 昭和53年10月7日
と、二冊の対談集

『人間の建設』(新潮社) 昭和40年10月20日
小林秀雄との対談
『心の対話』(日本ソノサービスセンター) 昭和43年3月29日
林房雄との対談

が目に留まりますが、刊行されたのはどれもみな昭和44年以前です。岡先生の作品はこの後も刊行されることがありましたが、それらはアンソロジーや再刊ですから、著作活動は実質的に昭和44年までで終焉したことになります。昭和38年から数えて7年になります。岡先生にしてみれば書きたいことは尽きませんでしたから、さらに書き継ぎたいという希望はあり、実際、新たな作品を書き上げて講談社の現代新書の編集部に送付されました。それは『流露』という作品です。
 昭和45年1月20日、岡先生は『流露』の「まえがき」を書きました。この作品は『曙』『神々の花園』の続篇のつもりで執筆されたのですが、講談社現代新書の編集部に送付したものの、刊行されないまま放置されてしまいました。現代新書に入ったエッセイ集は『風蘭』から『神々の花園』まで5冊を数えましたが、どうしたわけか、売れ行きが伸び悩んでいきました。編集部が『流露』の刊行をためらったのもそのためなのでした。
 岡先生の初期のエッセイは、超俗の数学者の描く飄々とした雰囲気をかもすというところに特徴があり、世の人々の意表を衝く奇抜な印象を伴う発言と行動とも相俟って人気が高まりました。数学というのは情緒、すなわち心の表現なのだと語つたり、文化勲章のおり、天皇陛下の御下問に答えて「数学は生命の燃焼によって作るのです」と答えたりしましたが、こういうところには幅広い支持があり、エッセイ集も歓迎されてよく売れました。ところが『一葉舟』では光明主義という、あまり知られるところのない宗教思想が説かれ、『昭和への遺書』『日本民族』『曙』『神々の花園』と進展すると、日本の現状を憂うる愛国の数学者という様相を呈してきました。どれほど異質のように見えようとも、超俗の数学者も宗教思想家も愛国の数学者も、どれもみな岡先生その人の姿なのですが、『春宵十話』や『風蘭』の読者は何かしら異様なものを感じ取り、距離を置くようになっていったということであろうと思います。
 保田與重郎は岡先生を評して、「間違つた者からは理解されまいと私は考へた」と語ったことがありましたが、事態はこの言葉の通りに推移して、講談社による『流露』の刊行拒絶という事態が現われました。
 岡先生の没後、担当の講談社の社員、藤井和子さんが『流露』の原稿を郵便で岡家に返送しました。「まえがき」の日付は「昭和四十五年、一月二十日」。400字詰原稿用紙で240枚の原稿です。四部構成で、(「春の巻」ではなくて)「冬の巻」に始まり、以下、「春の巻」「夏の巻」「秋の巻」と続きます。「まえがき」の末尾を見ると、
 《書名の流露とは、心の流露と云う意味である。》
という言葉が目に留まります。岡先生の公の場での活動はこの後も続き、雑誌や新聞にエッセイを寄稿し、あちこちで講演を繰り返しました。市民大学講座の講義も続きました。ですが、新しい著作はもう刊行されませんでした。『春宵十話』から『神々の花園』までの12冊のエッセイ集は、数学研究の場でいうと、さながら公表された連作「多変数解析関数について」を構成する10篇の論文のようなおもむきもあります。数学研究は第10番目の論文の後もなお続き、境界問題や内分岐領域の理論や代数関数論が未完成のままに遺されました。この事情は著作活動でも同様で、岡先生は『流露』以降も、出版の見通しのない独自の作品を書き続けました。それは『春雨の曲』という作品でした。

(岡潔先生を語る87)超俗の数学者から憂国の数学者へ

『春宵十話』を第一エッセイ集と見て、昭和42年までに刊行された岡先生のエッセイ集は7冊を数えましたが、昭和43年には一気に三冊のエッセイ集が刊行されました。

『一葉舟(ひとはぶね)』(読売新聞社) 昭和43年3月30日発行
昭和41年(1966年)3月20日から、読売新聞の宗教欄で連載「仏教と科学」が始まりました。月に一度の連載で、翌昭和42年1月まで書き継がれて計11回に達しました。毎回の標題は下記の通りですが、これらは岡先生が御自分でつけたのではなく、読売新聞の記者がエッセイの本文から鍵になりそうな言葉を拾ったのであろうと思われます。

 「数学を解く英知 古来、東洋人は知っていた」
 (3月20日)
 「大数学者にも限界 ヨーロッパ人に教えたい思想」
 (4月10日)
 「数学に?不死の信念? 重要な仏教からの知識」
 (5月15日)
 「万物は心のすがた 「大円鏡智」の世界観」
 (6月12日)
 「宇宙に満ちる如来の光 一切の現象は心にある」
 (7月24日)
 「平等智について 宇宙の一大理性 人間の巧妙な身体も支配」
 (8月14日)
 「遠い“人類の悟り” 小さな自我の浄化に30億年」
 (9月11日)
 「万物に「察知」の性 熟せば神の心を悟る」
 (10月9日)
 「一切を結ぶ察知 弁栄上人のとく真理の道」
 (11月13日)
 「千里を見通す天眼 鋭い察智は自然界と感応する」
 (12月11日)
 「「仏眼」開けば自在 貴重な遺産を見直そう」
 (昭和42年1月15日)

 エッセイ集『一葉舟』は連載「仏教と科学」を巻頭に配置し、ほかにもいくつかのエッセイを集めて編成されました。『春宵十話』から『春の雲』あたりまでのエッセイでは、どことなく俗世間を超越した数学者という雰囲気がかもされていましたが、『一葉舟』になると筆致が一変し、宗教的な視点から数学研究の姿を観察しているかのような印象があります。「大円鏡智」「平等智」「弁栄上人」などの言葉から察せられるように、岡先生のいう宗教は弁栄上人の光明主義を意味しています。読売新聞の昭和38年9月22日の「宗教」欄に、
「私の生活に現われた宗教-心の中に自然がある-」
という岡先生のエッセイが出ていますが、これも『一葉舟』に収録されました。光明主義との出会いと別れの物語は、岡先生の生涯を支える太柱のひとつです。
『一葉舟』の「あとがき」の日付は「昭和四十三年二月」。書名は『春の雲』と同じく土井晩翠の詩「星落秋風五丈原」から採られました。

  閑雲野鶴空濶く
  風に嘯く身はひとり、
  月を湖上に碎きては
  ゆくへ波間の舟ひと葉、
  ゆふべ暮鐘に誘はれて
  訪ふは山寺の松の影。
  (第二歌、第二節)

  江陵去りて行先は
  武昌夏口の秋の陣、
  一葉輕く棹さして
  三寸の舌呉に説けば
  見よ大江の風狂ひ
  焔亂れて姦雄の
  雄圖碎けぬ波あらく。
  (第三歌、第二節)

『昭和への遺書 敗るるもまたよき国へ』(月刊ペン社) 昭和43年6月20日発行
「まえがき」の日付は「昭和四十三年三月」。

『日本民族』(月刊ペン社) 昭和43年12月10日発行
「はしがき」の日付は「明治百年九月九日」。翌年1月15日、再版。

『昭和への遺書』と『日本民族』の二冊には、超俗の数学者でも仏教思想家でもない、岡先生のもうひとつの側面が現われています。それは、日本と日本民族を愛する憂国の数学者の姿です。

(岡潔先生を語る86)次々と出版されるエッセイ集

 岡先生の執筆活動は続き、週刊誌や新聞誌上に次々とエッセイを書き、相当の分量が蓄積されると単行本の形に編成されて出版されました。この状勢は昭和44年あたりまで続きます。岡先生は『春宵十話』においてこれまでの生涯を振り返り、『紫の火花』では現在の心情をしみじみと物語りましたが、ここからなお大きく歩を進め、独自の思想をさまざまな形で繰り広げていきました。『春宵十話』『紫の火花』以降に現われた岡先生のエッセイ集を書き並べ、ひとつひとつの本の形を紹介したいと思います。

『春風夏雨』(毎日新聞社) 昭和40年6月30日発行
 昭和39年4月、岡先生は「春風夏雨」という通しの標題で毎日新聞社の週刊誌「サンデー毎日」にエッセイの連載を始めました。この連載は非常に長く続き、4月5日号から12月27日号まで、39回に及びました。冒頭の二章「生命」「無明」と最終回「胃潰瘍」は口述筆記(記録者は松村記者)ですが、他は自分で執筆しました。挿し絵は河上一也です。昭和39年には、サンケイ新聞夕刊の「思うこと」という欄に、週に一度、3月6日から7月31日まで22回にわたってエッセイを連載しました。第一回は「自己」。最終回は「日本の現状(二)」でした。
 単行本『春風夏雨』は二つの連載「春風夏雨」と「思うこと」を二本の柱とし、「サンデー毎日」昭和39年1月12日号に「新春随想」という標題で掲載されたエッセイ「六十年後の日本」を添えて編成されました。収録にあたり、「思うこと」は「片雲」と改題されました。「春風夏雨」についても、多少の改訂と文章の書き直しが行われました。「はしがき」の日付は「一九六五年六月一日」。「あとがき」の執筆は「毎日新聞社図書編集部」、日付は「昭和四十年六月」。

『月影』(講談社現代新書) 昭和41年4月16日発行
 昭和40年5月2日から14日まで(3、6、10日は休載)、朝日新聞に「春の日 冬の日」という通し標題で岡先生のエッセイが連載されました。標題は芭蕉七部集の第一集とされる尾張五歌仙『冬の日』と、蕉門の荷兮(かけい)らによる続編『春の日』から採られました。当初、岡先生は15回の予定で原稿を書いたのですが、朝日新聞社の学芸部長が来訪し、10回分に直してほしいとお願いされたため、全10回ということになりました。この連載のほか、新聞、雑誌等に掲載した既出のエッセイと書き下ろしのエッセイを編集して『月影』が成立しました。挿し絵は小野竹喬。「まえがき」の日付は「一九六六年一月二十日」で、入院先の大阪労災病院で執筆されました。
 書名は島崎藤村の詩「月光五首」から採られました。

  はるかに聞けばたえだえに
  流れてひゞく谷の水
  げにやいみじき其声は
  いとしめやかにつま琴の
  板戸をもるゝ忍び音の
  糸のしらべに通ふらん
  ひゞきをあげよ谷間に
  むせびて下る河水や
  ひゞきをあげよ月影に
  しらべをつくる河水や
  よしや林の深くして
  眼には流れの見えずとも
  月の光にさそはれて
  夜の思を送れその琴
   (「月光五首」「其一」第四節)

『春の草 私の生い立ち』(日本経済新聞社) 昭和41年10月5日発行
 前年暮れ、昭和41年12月に日本経済新聞に連載された「私の履歴書」とほぼ同一の内容ですが、多少の削除と加筆が見られます。「昭和四十一年九月」の日付で「まえがき」が附され、次のように書名の由来が語られています。

《私たちのころ、少年雑誌の扉に詩があった。その一節を述べると、
  萌えよ萌えよ春の草
  生いよ生いよ野辺の草
  新しい夢をはぐくみて
  春のいのちをのばせかし
  それでこの本の表題を、何だか「春の草」としたくなったのである。》
 
ここで言われている「少年雑誌」は「日本少年」「少年世界」「少年」のいずれかと推定されるのですが、岡先生が紹介している詩は今も見つかりません。

『春の雲』(講談社現代新書) 昭和42年3月16日発行
 既出のエッセイ「ふるさとを行く」「夜明けを待つ」「科学と人間」、書き下ろしのエッセイ「冬に思う」「教育というもの」「芭蕉」「数学者リーマン」「ある日私の見たこと」、坂本繁二郎との対話「日本のこころ」(昭和42年1月1日から1月7日まで、西日本新聞紙上に7回に分けて掲載されました。ただし、第7回目の「根性」は省かれました)が収録されています。「まえがき」の日付は「昭和四十一年十二月十五日」。書名は土井晩翠の詩「星落秋風五丈原」から採りました。

  南方すでに定まりて
  兵は精しく糧は足る、
  君主の志うけつぎて
  姦を攘はん時は今、
  江漢常武いにしへの
  ためしを今にこゝに見る
  建興五年あけの空、
  日は暖かに大旗の
  龍蛇も動く春の雲、
  馬は嘶き人勇む
  三軍の師を随へて
  中原北にうち上る。
  (第四歌、第一節)

(岡潔先生を語る85)エッセイ集の刊行のはじまり

 長年にわたる多変数関数論研究が、カルタンやヴェイユやジーゲルなど、欧米の数学界を代表する数学者たちから高い評価を受けたことを背景にして、昭和35年秋11月、岡先生は第20回文化勲章を受章しました。マスコミのインタビューに応じたユニークな発言のあれこれが耳目を集め、「数学者・岡潔」の名は広々と人々の心に刻まれて、何かと話題にのぼるようになっていきました。11月6日付の朝日新聞の「人間の内側」という欄に、
 「自然の英知に純粋の喜び いま敗戦の悲しみを越える」
という記事が出ましたが、これは文化勲章受賞の反響のひとつです。「週刊公論」という週刊誌の12月27日号には、
 「失踪か?文化勲章の岡博士」
という記事が出て、岡先生は11月16日から年末にかけて行方不明と報じられました。12月23日付の岡先生のメモに「研究室へ帰る」と記されていますから、この日まで「行方不明」だったのでしょう。この日、岡先生は研究室で菊を生けました。それから午後、早川玲子さん、藤田さん、それに長女のすがねさんと連れ立って知足院に行き、依水園でお茶を飲みました。夜、毎日新聞社の奈良支局に勤務していた松村洋の訪問を受けました。
 翌12月24日は土曜日で、時雨になりました。松村記者に写真をとってもらったのですが、泣き顔しかできず、笑おうとするとますます泣き顔になりました。毎日新聞の昭和36年元旦の奈良版に
 「超俗数学者の新春放談 奈良女子大岡潔教授に聞く」
という記事が掲載されていますが、松村記者はこれを書くために岡先生を訪問したのでした。文化勲章受賞後の岡先生を世の中に紹介する一番はじめの記事ですから、松村記者はいわば岡先生を「発見した」人と言ってもよいのではないかと思います。
 昭和37年4月11日はパリ以来の親友の中谷宇吉郎が亡くなった日ですが、相前後して毎日新聞誌上に岡先生のエッセイ「春宵十話」の連載が始まりました。実際には直接執筆したというわけではなく、松村記者を相手にあれこれと物語り、松村記者がそれを筆記して作文するという経路をたどりました。4月14日は土曜日でしたが、この日も松村記者が岡家を訪ね、残りの二回分の口述筆記を行いました。連載開始は翌15日からで、岡先生御自身が題字を書きました。カットは小出卓二。「十話」の名の通り、全10回の連載でした。十個の話の題目は次の通りです。

(一)人の情緒と教育(4月15日)
(二)情緒が頭をつくる(4月16日)
(三)数学の思い出(4月17日)
(四)数学への踏み切り(4月18日)
(五)フランス留学と親友(4月19日)
(六)発見の鋭い喜び(4月20日)
(七)宗教と数学(4月22日)
(八)学を楽しむ(4月24日)
(九)情操と知力の光(4月25日)
(十)自然にしたがう(4月26日)

 こうして10個のタイトルを見るだけでも、ひとつひとつの話の背景に、岡先生に独自の人生の広がりが感知されるように思われて、感慨は尽きません。
 昭和38年2月10日、岡先生の第一エッセイ集
 『春宵十話』(毎日新聞社)
が出版されました。定価380円。すでに公表された三つのエッセイ「春宵十話」「中谷宇吉郎さんを思う」「新春放談」に、新たに19篇のエッセイ(すべて口述筆記。口述は前年3月から9月にかけて行われました。記録者は松村記者)と一篇の講演記録を合わせて編集されました。「春宵十話」の採録にあたり、若干の加筆訂正が行われました。「はしがき」の日付は「一九六三・一・三○」。「あとがき」の日付は「一九六三年一月」で、執筆者は「毎日新聞大阪本社社会部松村洋」と明記されています。昭和38年を代表する話題作になり、この年、「第17回毎日出版文化賞」を受賞しました。
 昭和39年には二冊のエッセイ集
『風蘭』(講談社現代新書) 昭和39年5月16日
『紫の火花』(朝日新聞社) 昭和39年6月5日
が刊行されました。『風蘭』は口述筆記で、前年(昭和38年)の夏、記録者は講談社の社員、藤井和子さんです。「まえがき」の日付は「一九六三年暮れ」。光明会の杉田善孝上人が「解説(無差別智の世界)」を執筆しました。岡先生は書名を『風蘭』と決めて、この書物のために
 「深山木の梢に生ふる風蘭の香り床しみ文に名づけつ」
という歌を作りました。書名ははじめ、「秋蝉賦(あきせみのうた)」と決まりかけていたのですが、かなり原稿ができたころ、岡先生が突然、「あれは、貧相でいかん」と言い、「風蘭」に変更されたというおもしろいエピソードがあります。ちょうど、いただきものの風蘭の花に熱をあげていた時期なのでした。これは藤井和子さんにうかがったエピソードです。藤井さんは奈良女子大学文学部英文科出身で、講談社に入社して二年目で、配属先は講談社現代新書の編集部でした。岡先生のエッセイ集を出したいと企図した山本編集長の指示を受け、奈良に岡先生を訪ねたということでした。
 もうひとつのエッセイ集『紫の火花』は、朝日新聞社の文芸誌「文芸朝日」に、「紫の火花」という通し標題で連載されたエッセイを中心に据えた作品です。昭和38年9月号から翌年1月号まで、この連載は5回にわたりました。挿し絵は奈良在住の画家、河上一也が担当しました。5回のエッセイの標題は次の通りです。

「すみれの言葉」(9月号)
「情緒」(10月号)
「独創とは何か」(11月号)
「秋に思う」(12月号)
「春の日射し」(昭和39年1月号)

 第一回「すみれの言葉」の冒頭に「紫の火花」という短文が配置され、標題の由来が明かされています。

《古い私の友人(といっても会ったことはないので、芥川が死んだのは私が大学を出て三年目だったのだが)は美に生涯をかけようと決めた夜、電線と水たまりとの間に散る紫の火花の上に自己の情緒を見て「他の何物にかえてもこれだけは取って置きたい」と思ったという。借りて表題とした。》

単行本『紫の火花』には、「紫の火花」のほかに公表ずみの6篇のエッセイと、未発表のエッセイ4篇が収録されています。「まえがき」の日付は「一九六四年春」。「あとがき」の執筆者は「朝日新聞大阪本社出版局編集部」、日付は「一九六四年四月」となっています。

(岡潔先生を語る84)打ち続く講演旅行と最後の研究

 年が明けて昭和40年(1965年)を迎えると、再び研究記録が現われ始めます。今度の研究テーマは内分岐領域で、研究記録は三つの封筒に分かれて整理されています。

(封筒1) 研究I
 封筒の表に「研究I」と書かれています。2月1日から4月3日にかけての記録で、本文98枚。2月は1日付と2日付の記録が3枚遺されているのみで終わります。次の記録は3月6日付に飛び、その次の記録は3月15日付。その後は5月11日までほぼ連日にわたって記述が続いています。失われた記録もあるような印象もあります。

(封筒2) 研究II
 封筒のおもてに
 「研究II」
と書かれています。「研究?」の続きで、4月4日から4月16日までの記録です。本文89枚。失われた記録もあります。

(封筒3) 内分岐した擬凸状域について
 封筒の表に
 「内分岐した擬凸状域について」
と書かれています。「研究II」の最終日(4月16日)の翌17日から記述が始まり、5月11日まで続きました。本文31枚。失われた記録もあります。

 昭和40年は4月初旬ころまでは講演もなく、在宅の日々が続いた模様です。遺されている研究記録を数えても、「研究I」は98枚、「研究II」は89枚と、短時日のうちに相当の分量にのぼっています。それに比して、引き続いて書き始められた記録「内分岐した擬凸状域について」(封筒)は、研究期間が一箇月弱にわたっているにもかかわらず、31枚の断片が遺されただけにとどまりました。
 この時期は訪問者も少なかったのですが、岡先生の年譜を参照すると、2月中旬(正確な日にちはわかりません)、国民文化研究会の理事長の小田村寅二郎の訪問を受けています。小田村理事長は吉田松陰の系譜につながる人物ですが、友人の夜久正雄とともに岡家を訪ね、この年の夏、大分県別府の城島高原で開催される予定の国民文化研究会主催第10回合宿教室への出講を依頼したのでした。岡先生はこれを引き受けました。
 4月11日は中谷宇吉郎の三回忌にあたる日でした。中谷宇吉郎の故郷、石川県動橋(いぶりばし)の中島町共同墓地の一画に墓碑が完成し、この日、除幕の供養が行われました。岡先生も参列し、宇吉郎の家族や宇吉郎の学問上のお弟子たち、それに弟の治宇二郎のお子さんと親しく語り合いました。この日の宿泊先は片山津温泉の旅館「矢田屋」です。4月21日にはみちさんとともに水源地にお花見に行ったというのですが、ただ「水源地」というのみで、何の水源地なのか、所在地はどこなのか、詳しいことはわかりません。4月24日、桜井市大神神社貴賓館において保田與重郎の著作『現代畸人傳』(昭和39年10月30日、新潮社刊)の出版記念祝賀会が開催されました。岡先生は特別来賓としてみちさんといっしょに出席し、挨拶しました。4月26日の夜、NHKテレビ放送「この人この道」にみちさんと秋月康夫といっしょに出演しました。実況ではなく、二日前の24日、奈良の岡家で録画取りが行われました。5月1日、故郷の和歌山県橋本市に行き、市制施行十周年記念式典に列席。5月2日、朝日新聞にエッセイ「春の日 冬の日」の連載開始(全10回)。5月から7月にかけての時期は講演はなかったようですが、8月に入ると新潮社から人が来て、小林秀雄との対談の企画を申し出ました。岡先生はこれを受け、16日、京都の料亭(名前はわかりません)で、「人間の建設」と名づけられた名高い対談が実現しました。午後1時に始まり、深更午前零時に及んだということです。ちょうど「大文字五山送り火」の日でもありました。
 8月21日は九州行の当日でした。この日、みちさんとともに奈良を発ち(このころはたいていみちさんといっしょでした)、大分の城島高原に向かい、22日午後、「ホテルきじま」を会場にして開催された国民文化研究会の第10回合宿教室において、三人の招聘講話のひとりとして、「日本的情緒について」という題目で講話を行いました。その後、中谷兄弟とゆかりの深い由布院の亀の井別荘に行き、二、三日逗留しました。9月中旬、国語問題協議会より講演の依頼があり、岡先生はこれを受諾しました。講演会は11月初め、東京で開催される予定でした。岡先生はこの講演に期するところがあったようで、上京に備えて静養につとめたということです。
 11月5日、上京。翌6日、第七回国語問題講演会において「日本語の読めない日本人」と題して講演を行いました。場所は朝日新聞社の講堂です。東京滞在はこの講演後も続き、7日、有楽町の日活ホテルで鈴木大拙と対談しました。妹の岡田泰子さんも同行しました。8日、神奈川県教育センターで講演「日本人と西欧文明」を行いました。聴衆の中に『脳の話』(岩波新書)の著者、時実利彦(ときざね・としひこ)がいて、この日の夜、江の島で会食しました。それから大磯の秋月康夫の家に泊まり、翌9日、奈良にもどりました。
 帰宅後、奈良女子大学の理学部の学生を相手に、「恥ずかしさ」というテーマで講演。また、日本経済新聞の「私の履歴書」欄のために録音を始めました(12月6日から31日まで、この連載は26回にわたりました)。講談社現代新書のための著作『月影』の素描の執筆、新聞、雑誌の新年号のためのエッセイの執筆と続き、さらに数通の手紙を書いたのですが、その直後の11月26日午前11時すぎ、吐血しました。胃潰瘍の再発でした。手術は成功したものの、予後が長引き、入院先の大阪労災病院で年を越しました。退院したのは翌昭和41年(1966年)2月8日。鯨岡家(長女すがねの嫁ぎ先)で静養後、奈良の自宅にもどったのは3月17日のことでした。その直後、3月20日から読売新聞の宗教欄に連載「仏教と科学」が始まりました。毎月一回で、翌昭和42年(1967年)1月まで11回に及びました。
 8月末、新築の家が完成し、法蓮佐保田町の家から新薬師寺の近くの奈良市高畑町436の1に転居しました。庭先に数学研究室と兼用のお念仏のための道場を建てたのはこのときのことです。10月は前年の夏に続く九州行で、みちさんとともに筑後柳川に赴いて、24日、西日本新聞社の企画により、料亭「お花」において八女在住の画家坂本繁二郎(さかもと・はんじろう)と対談しました。同じ10月には日本経済新聞社から自伝『春の草 私の生い立ち』も刊行されています。また、週刊朝日の企画により郷里の和歌山県橋本市に行き、母校の柱本小学校で講話も行いました。
 大病後の静養に続いて講演、対談、著作の執筆が引きも切らず、新聞雑誌への寄稿も相変わらず多かったのですが、11月に入り、ようやく数学の研究にもどるゆとりを得ることができました。11月は19日に6枚のメモが書かれただけで終わりましたが、12月に入ると、19日、21-23日、26-27日、28-29日と、わずかづつではありますが記述が続きます。「Rothstein(註。ロートスタイン)の定理」「二環定理」「一環定理」などという言葉が散見します。
 12月30日と31日、1枚の表紙と8枚の研究記録が書かれ、封筒におさめられました。封筒の表には、

 「XI-Rothstein(註。ロートスタイン)の定理に就て 
   1966.12.31」
(註。ロートスタインはドイツの数学者です)

と記入されました。これが、岡先生の今生での最後の研究記録になりました。以後、昭和53年3月1日に世を去るまで、数学の研究記録はもう見られません。数学研究はこうして終焉し、昭和42年(1967年)以降、岡先生は独自の宗教思想と民族主義思想を根底に据えたエッセイを書く思想家としての相貌を見せるようになっていきました。懸案の境界問題はついに解けず、内分岐領域の理論と代数関数論は未完成のままに放置され、数学の世界では今日もなお継承者の出現を見ない状態が続いています。「研究室文書」の全容を概観するだけでも至難ですし、かろうじて継承の可能性が開かれてくるためだけにも、没後30年という、迂遠というほかはない歳月の流れを俟たなければならなかったのでした。

Extra

プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
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オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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