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詩碑と句碑 

            詩碑ほほじろの聲4
             詩碑「ほほじろの聲」



     野尻湖句碑1
      清水基吉句碑

               信濃町公民館

                 信濃町公民館

        野尻湖句碑2
         小林一茶句碑


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野尻湖周遊 写真その1

平成23年9月29日
野尻湖畔散策のおりの写真です。

             中勘助詩碑「ほほじろの声」2

                         中勘助詩碑「ほほじろの声」1

      詩碑「ほほじろの聲」
      信濃町公民館前の広場に建てられています。


              野尻湖2
                弁天島の鳥居
                          野尻湖5
                             弁天島全景



中勘助ノート31 「島守」より

 中先生が弁天島にわたった日や島を離れた日の日付など、そんな細かい事情がどうしてわかるのかというと、中先生の「島守」という作品があるからです。パンフレット「ほほじろの声」に出ている藤木さんの記事も「島守」に取材しています。「島守」は昭和44年の弁天島の生活を記録した作品で、大正13年5月10日の日付で刊行された著作『犬 附島守』(岩波書店)において公表されました。
 本陣さんという不思議な呼称の由来も「島守」に書き留められています。本陣さんの本名は池田さんというのですが、池田家はかつて御本陣だったとのことです。村も街道筋にあたって宿場町として繁盛した時代があり、本陣もありました。本陣というのは大名や旗本など、特定の地位にある人たちだけの宿泊所です。どのみち江戸時代のことで、中先生が滞在した明治の終わりがけにはもう本陣は存在しなかったのですが、「本陣」という通り名のみ、池田家の当主の呼び名になりました。
 今、「村」と書きましたが、安養寺の所在地である現在の信濃町はかつては村でした。日本の地名表記はしばしば大きく変遷しますので混乱しがちなのですが、参考になりそうな資料として、中先生が明治44年10月23日付で安養寺の住職の藤木信西さんに宛てて書いた一枚のはがきが残されています。これは中先生が野尻湖畔を去って帰京してから書いた御礼のはがきですが、宛先の住所は「長野県上水内郡信濃尻村字野尻」となっています。「信濃尻村」というのが当時の地名です。「しなのじりむら」と読むのでしょう。
 このはがきの差出人の中先生の所在地は「東京市外千駄ヶ谷町871 那須利三郎方」と記されています。自分の家にはもどらなかったのです。文中に、「御地出発後途中群馬友人宅に二泊去る二十日帰京当家に仮寓仕候」とあります。弁天島の生活を切り上げて湖畔にもどったのは10月17日。翌18日に野尻湖に別れを告げて、上州群馬県で二泊した後、10月20日になって帰京したのでしょう。群馬県の友人というのはだれのことなのか、不明です。
 このはがきを発見したのは藤木信滉さんです。昭和48年になって詩碑を建てることになり、それを機に父の安養寺住職の信英さんと二人して安養寺の古文書を探索したところ、中先生の滞在時の消息をわずかに伝えるはがきが一枚だけ見つかりました。
 野尻湖は芙蓉の花の形をしていて、弁天島はそのひとつの花びらの中にあるのだそうです。中先生の「島守」の冒頭にそんなことが書かれています。弁天島は琵琶島というのが本当の名前のようですが、その由来は何かというと、学期の琵琶の形に似ているからなのだそうです。これは「島守」に書かれているわけではなく、別の方面からの情報です。

中勘助ノート30 安養寺

 野尻湖に向った中先生は湖畔の安養寺に住まいを定めました。「ほほじろの声」の詩碑が建てられたとき、小冊子(表紙に「ほほじろの声」と記されています)が作られたのですが、主に執筆したのは藤木信滉(ふじき・しんこう)さんという人です。藤木さんが寄せている記事によると、中先生が仮寓したのは安養寺の御堂の南座敷だったということです。
 藤木さんは安養寺に生まれた人で、長野県の県立図書館にお勤めでした。父は藤木信英といい、安養寺の住職。中先生が安養寺に滞在したころは13歳か14歳ほどでした。そのまた父、すなわち藤木さんの祖父にあたる人は藤木信西さんといい、この人が中先生の滞在当時の住職でした。中先生はどうして安養寺にお世話になることになったのか、この点は不明ですが、たぶん友人の岩波茂雄あたりの紹介を受けたのではないかと思います。岩波は信州諏訪の人で、一高に在学中に煩悶し、野尻湖の弁天島にこもって日々をすごした一時期があります。このあたりのことはもう少し詳しく調べてみたいです。
 昭和51年にはじめて野尻湖に出かけて安養寺を訪ねたとき、お目にかかったのは藤木さんの父の住職の信英さんだったように思います。
 弁天島というのは通称で、ほんとうは琵琶島というのですが、中先生が弁天島すなわち琵琶島にわたったのは明治44年9月23日のことで、社務所に寝泊まりして10月17日の朝までひとりで暮しました。弁天島には船でわたったのですが、そのときの船頭は本陣さんという人です。本陣さんとはまた不思議な名前ですが、本名を池田精治さんといいます。
 中先生を弁天島に運ぶとき、船頭の本陣さんは蓑笠を身につけていました。

中勘助ノート29 衛戍病院から野尻湖へ

 木島平村に行くにはどうしたらよいのか、詳しい経路を確認しないまま長野市から飯山線に乗りました。正確に言うと飯山線の起点駅は長野駅ではなく豊野駅で、長野駅から豊野駅までは信越本線なのですが、途中で乗り換えるわけではなく自然に延長して運行されていますので、この区別は実際には意味がありません。千曲川に沿って北上し、飯山駅で降りました。ちなみに千曲川というのは長野県内での呼称で、新潟県に入ると同じ川の名前が変わって信濃川になります。紀の川と吉野川の関係も同様で、奈良県の吉野川が和歌山県に入ると紀の川になります。高木貞治先生の故郷の岐阜県本巣市を流れる川は根尾川というのですが、本巣市内では薮川と呼ばれています。
 飯山市からタクシーで木島平村に向かい、望岳荘に中島さんをお訪ねしました。御高齢ではありましたが、お話振りは非常に鮮明で、中先生にまつわるあれこれの話をしてくれました。長年、お一人で暮らしていましたが、足腰が弱ってきたため一人暮らしがつらくなり、望岳荘に移ってきたとのことでした。
 少々話が飛びますが、昭和53年7月18日の訪問を初回として、翌昭和58年4月7日、もう一度お訪ねしました。このときの旅は4月3日から8日まで、5泊6日の日程で、博多から名古屋を経由して信州に向かいました。思いついて小さな博多人形を持参したのですが、中島さんはとても喜んで、ああうれしい、ああうれしい、と繰り返していました。それから少しの間ではありますがお手紙のやりとりをするようになりました。手もとに3通のお手紙がありますので、紹介したいと思いますが、その前に中先生と信州信濃町と中島さんとの関係をもう少し詳しく伝えておきたいと思います。といってもおおまかなことのみですが、まず信濃町が所属する郡は上水内郡といい、これは「かみみのちぐん」と読みます。9月末に黒姫駅からタクシーで野尻湖に向かう途次、運転手さんに読み方を教えていただきました。
 中先生がはじめて野尻湖に赴いたのは明治44年の夏8月のことで、このとき中先生は満26歳です。それまではどうしていたのかというと、大学を卒業したのが明治42年7月。東京帝国大学の文科大学国文科を卒業しましたが、入学したのは4年前の明治38年9月で、はじめは文科大学の英文科でした。二年後の明治40年9月から国文科に転じました。英文科では漱石先生の講義も聴いたのですが、漱石先生は第二学年の途中の明治40年4月に辞職して大学を離れました。東京帝大の講師と一高教授を兼任していたのですが、双方とも辞めて朝日新聞社に入社。満40歳でした。
 中先生は一高でも漱石先生に英語を教わっていますし、大学で英文科に進んだのも引き続き漱石先生の講義を聴きたかったからかもしれません。中先生が国文科に転じたのも漱石先生が大学を離れたことがきっかけになったのかもしれませんが、実際にはどうだったのか、はっきりしたことはわかりません。
 中先生は大学を出てからも就職などはせず、一年志願兵として兵役に服したりしたのですが、除隊後も家にもどりませんでした。近衛歩兵第四聯隊に入隊したのが明治43年12月。翌明治44年4月、病を得て衛戍(えいじゅ)病院(陸軍病院の旧称です)に入院。二ヶ月後の明治44年6月に除隊となったのですが、中先生の足は信州野尻湖畔に向かいました。率先して定職につかない人生を選んだかのようですし、実際にそうなったのですが、このあたりの経緯にはまことに不思議な印象があります。

中勘助ノート28 穂高と中村

 渡辺先生が作成した中先生の年譜を参照すると、大正13年の項に、「年寄と不治の病人の集りである家族の避暑避寒のために神奈川県平塚町西海岸に家を建てる。夏、冬を除く他の期間、昭和7年までそこに住む」と記されています。昭和7年の項を見ると、「九月、平塚の家を売却して、東京赤坂の家に同居」と出ています。そうしてみると中先生の平塚時代は7年ほどに及ぶことになります。もっとも平塚に暮したのは「夏、冬を除く他の期間」というのですから夏と冬には家族と入れ代りに赤坂に移ったのでしょう。
 平塚の日々は『しづかな流』という作品になって記録されました。このエッセイ集は昭和7年9月に岩波書店から刊行されましたが、ここにひんぱんに登場するお手伝いさんが中島まんさんです。
 昭和初年に刊行された『しづかな流』のお手伝いさんが、昭和50年代になってなお御健在とは思いもよらないことで、所在地が判明したと知ったときはほんとうに驚きました。この間、半世紀。数字のうえでは御健在というのも充分にありうるとはいうものの、どのようなところでどんなふうにしているのか、何しろ中先生の作品を通じて承知しているだけの人ですので、御本人の消息に触れたという一事はめざましく、たしかにひとつの発見なのでした。
 中島さんの消息をぼくに教えてくれたのは渡辺先生でした。渡辺先生はよいきっかけがあって中島さんを知って手紙のやりとりを続け、その文通の模様を「カンナ」に連載していました。ぼくが信州に向かうことをお伝えしたところ、中島さんをお訪ねしてはどうかと、御住所を教えていただきました。ぼくとしてもぜひお目にかかりたく思いましたので、昭和52年7月18日、中島さんを訪ねていった次第です。
 渡辺先生はどうして中島さんを知ったのかというと、昭和48年の秋に野尻湖畔に中先生の詩碑「ほほじろの声」が建てられたことがきっかけになりました。地元の信濃町の人たちが中心になって企画したのですが、渡辺先生は中先生の研究者として知られた方ですので、相談役のような役割を果たされました。それで信濃町の人たちと渡辺先生との間に交流が生まれ、その中から中島さんの近況が語られたのでした。
 詩碑が完成して除幕式が行われたのは昭和48年11月24日。和子奥様は招待されたのですが、健康状態が思わしくないため、代って妹の秀子さんが御遺族を代表して出席しました。その前後の様子を中野のお宅でうかがった思い出があります。
 中島さんは望岳荘という老人ホームで暮していました。望岳荘は今もあり、特別養護老人ホームになっていますが、昭和51年当時はどうだったのか、よくわかりません。現在の住所は長野県下高井郡木島平村大字穂高ですが、中島さんからいただいたお手紙を見ると、長野県下高井郡木島平村中村となっています。「穂高」ではなく「中村」。このあたりがやや不明朗ですが、木島平村の地図を見ると穂高の隣に中村という地名が記入されています。穂高は大字名で中村は小字名なのかもしれません。そのうち明らかになるでしょう。

中勘助ノート27 中島まんさんを訪ねて

 しばらく別の話が続きましたが、和子奥様のおたよりにもどりたいと思います。昭和53年6月1日付でおはがきをいただきました。

〈いよいよ助手になられ研究室にお席を持たれた御気持ちは如何ですか。御元気のことと存じますが、昨日のラヂオで御地の水不足の事をくわしく知って驚いて居ります。毎日の生活に欠かすことのできない水、お困りでせう。殊に夏に向って・・・。御健康に充分御注意願ひます。妹からくれぐれもよろしく申して居ります。〉

 この年はいっこうに雨が降らず、ダムの水が日ごとに減少して、博多の街は水不足に悩まされる毎日でした。5月20日から断水と、当時の記録に記されています。連日水の話でもちきりというありさまだったところ、6月に入ってようやく雨になりました。東京東北方面では大きな地震があり、昭和53年6月15日付のおはがきで消息を伝えていただきました。

〈めぐみの雨ほんとうに結構でした。早速おしらせ頂てほっと致しました。地震の御見舞あり難うございます。宮城は大変らしうございますね。東京は近頃ではめづらしいゆれでした。震度4、横ゆれの長いのでしたから遠くの大地震でせうと思ひましたが、大嫌ひですから余りいい気持ちしませんでした。梅雨になりましたのに昨日も今日も青空ですが、むし暑く閉口です。信州にお出かけの由、二三度夏を過したことがありますがいいところでございますね。八ヶ岳、霧ヶ峰を眺められるいいところでした。
九州のゑはがき、それぞれちがったいいところがたくさんありますね。純日本的のところ、異国的の風情、長崎など早く外國とのかかわりがあったからでせうね。今、辻邦生氏の「時の終りへの旅」を讀んで居ります。鈍い頭ゆゑどこまでわかったのかわかりませんが夢中です。〉

 「信州にお出かけの由」とありますが、信州の白馬で数学の研究会がありましたので、7月15日に博多を発ち、19日にもどりました。この間、7月18日に木島平に向かい、中島まんさんを訪ねました。中島さんは中先生が平塚に住んでいたころお手伝いをしていた人で、この当時は、郷里の老人ホーム「望岳荘」で暮していました。御高齢で、確か90歳ほどだったと思います。

中勘助ノート26 杉森久英の回想記より

 往時の記録採取の続き。日田に出かけたのは昭和52年3月6日、彦山行はこの年の連休中の5月4日です。日田でも彦山でも一泊しました。
 それと、補足を少々。まず中先生が大正6年5月はじめから二ヶ月ほど逗留した茨城の徳満寺の所在地のことですが、前に茨城県北相馬郡利根町布川と書きました。これで間違いというのではないのですが、これは現在の地名表記であり、大正7年当時はまだ利根町は存在しませんでした。当時の表記は「茨城県北相馬郡布川町」。昭和30年1月1日をもって、布川町、文村、文間村、東文間村が合併して新たに利根町が発足しました。
 岩波書店から刊行された中先生の全集には書簡集の巻があり、そこに大正5年7月19日付で徳満寺で書かれた和辻先生宛の手紙が収録されていますが、その手紙の日付は大正7年7月19日です。
 布川町の西側に利根川が流れ、その向こう側は千葉県の我孫子です。我孫子の中先生は高島さんという人のお宅に逗留しました。我孫子は現在の我孫子市ですが、中先生が滞在した当時の表記はまだ市ではなく、「千葉県東葛飾郡我孫子町我孫子」でした。ぼくが我孫子で見た中先生の手紙(はがき)も岩波版全集の書簡集に収録されていて、日付は大正12年12月24日。宛名は高島貫治郎と記されています。ぼくが実際に見たはがきの宛名も「高島」さんで、全集の記事でもそうなっています。ところが中先生が我孫子で書いた手紙を見ると、「高島」ではなく「高嶌」となっていて、「嶌」という字が使われています。これも「しま」と読むようで、こちらが正確な表記だったのでしょう。
 書簡集には大正7年に奈良に逗留したおりに和辻先生に宛てた手紙が収録されていて、そこに「奈良市東大寺二月堂元吉講社」という滞在先の住所が記されています。大正7年4月19日付の和辻先生宛の手紙が出ていますから、中先生は4月半ばころにはすでに奈良に移り住んでいたことがわかります。
 全然別の話になりますが、このごろ読んだ本に杉森久英の回想記『大政翼賛会前後』(1988年12月20日、文藝春秋社)というのがあり、そこに中先生が登場する場面があります。昭和10年代の半ばころのことで、当時、杉森久英は中央公論社の社員で、総合論壇誌「中央公論」の編集部員でした。

〈一度、松下さんから、中勘助に詩をたのんで来るようにといわれた。赤坂の豊川稲荷のむこうのあたりを入ったお家に訪ねると、眉が濃くて、いかめしい顔の老人が出て来た。私は「銀の匙」なんて、抒情的な文章のイメージから、女のように優しい人かと思っていたのに、案外の思いで、
「来月号にお願いします」
といったら、
「何枚ですか?」
といわれた。詩は一編、二編とはいうが、何枚と数えることはあまりない。でも、聞かれたからは答えねばなるまいと、
「まあ、二枚か三枚くらいでしょうか」
と答えた。そのまま帰ったが、締切り近くなって届いた封筒を見たら、二枚の随筆が入っていた。私は詩をたのんだつもりだけれど、詩よはっきり言わなかったので、中さんは文章と思い込んでいたのである。〉(73-74頁)

「松下さん」は「中央公論」誌の編集部員の松下英麿という人で、文壇関係を担当したとのこと。このとき中先生が「中央公論」に寄せたのは「随筆―逍遥」というエッセイで、昭和14年7月号に掲載されました。

中勘助ノート25 我孫子再訪

 前回、はじめて野尻湖に出かけたときの回想を書き留めましたが、当時の記録をよくよく読み返してみたところ、もう少し詳しい消息が判明しました。当時は安養寺のお坊さんは健在で、所蔵している中勘助の著作を見せていただいたりしたのですが、もうひとつ、なぜか記憶にないのですが、中先生が『銀の匙』を執筆したという「はなれ」の部屋に案内していただいた模様です。そんな出来事が記憶にないというのは驚きあきれるばかりですが、あきれついでにもうひとつ、弁天島にもわたったようでした。
 本年9月末に35年ぶりに野尻湖に出向いたおり、到着したのが遅すぎて弁天島にわたることができなかったのですが、次の機会には必ず行ってみようと決意したものでした。ところが実際には、この弁天島行は35年前にすでに実現していたのでした。「弁天島にわたる」とはっきりと記録されています。
 当時の記録からの取材をもう少し。鹿児島行のおり、渡辺先生と「我孫子訪問記」を書く約束を交わしたことは既述の通りですが、9月7日に我孫子に出かけて高島家を訪ね、中先生のお手紙を書き写したことがわかりました。ということは、この年の夏にはまだ「我孫子訪問記」は書いていないことになります。中先生のお手紙を紹介したいと思い、再度、訪問したのでしょう。「我孫子は4年前と変っていない」という記事もありますから、最初の我孫子行は昭和47年でまちがいないと思います。
 11月23日には山陰旅行からもどっています。松江では八重垣神社に行き、それから出雲大社にも行きました。萩を散策したのもこのときですが、行きか帰りか、明記されていませんが、たぶん帰り道に途中で下車したように思います。

中勘助ノート24 旅の日々の回想 鹿児島から信州へ

 和子奥様からいただいたお手紙を年代順に並べて紹介しているところですが、歳月の流れの中で案外いろいろなことが起りました。お手紙の記事のみを手掛りにして、あとは記憶のままに書いてきましたので、鹿児島に出かけた正確な日にち等々、曖昧なままになっています。それで、何十年ぶりかに当時の簡単な記録を参照したところ、いくぶん詳しい消息がわかりました。そのあたりの状況を、お手紙の紹介と合わせて少しずつ報告していきたいと思います。
 まずはじめて鹿児島に出かけたのはいつかということですが、昭和51年4月7日と判明しました。特急で5時間もかかった模様です。平成23年の現在では九州新幹線が開通していますので、博多から鹿児島まで略々1時間半程度ではないでしょうか。終着点の駅名も今は鹿児島中央駅ですが、当時は西鹿児島駅という名前で、地元の人は「西駅」と呼んでいました。
 鹿児島の渡辺先生のお宅は鹿児島市内の武(たけ)というところにありました。お子さんはなく、元気一杯の快活な奥様と、おとなしくて物静かな感じの先生のお二人の暮らしでした。奥様も文学畑の人で、師匠は田宮虎彦とのことでした。島尾敏雄さんのうわさ話、小宮豊隆先生のはがきの話など、いろいろな話をしました。ただし、小宮先生のはがきの話というのは何だったのか、今となっては不明です。
 7日は鹿児島市内で一泊。翌日、知覧に行き、知覧で一泊。二泊三日の鹿児島行でした。
 鹿児島からもどって引っ越しに取り掛かり、6月11日にほぼ完了しました。
 7月21日、上京。この日のお昼前に東京に着き、午後、中野に出向きました。翌22日に信州に行ったのですが、野尻湖まで足をのばす計画をお伝えしたところ、安養寺のお坊さんによろしくと、和子奥様から伝言を頼まれました。
 22日、新宿から中央本線で松本に向かい、松本から大糸線で信濃大町駅まで。到着は夕方になりました。信濃大町で一泊。翌23日、穂高に向かいました。穂高駅は大糸線の沿線にあります。碌山美術館を見物したのですが、これは当時読んでいた臼井吉見の作品『安曇野』の影響を受けてのことでした。24日と25日は湯田中温泉で数学の研究会があり、終了後、26日に野尻湖に向かいました。安養寺を訪ねるとお坊さんもお元気で、所蔵の中先生の作品を並べてみせてくれました。35年の昔の出来事です。

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オイラー研究所の所長です

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オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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