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「虹の章」の執筆を終えて12

 岡先生の評伝を書こうと決意してフィールドワークを開始したのは平成8年2月のことですが、それからすでに15年を超える月日が流れました。予想をはるかに超える長い歳月を要しましたが、この間、数え切れないほどの人に御教示を受け、親切にしていただきました。具体的な経緯については「岡潔先生をめぐる人々」という作品の中で詳しく報告したことがありますので、いつかよい機会を見て、作成中の「岡潔年譜」ともども出版したいと願っています。
 岡先生のエッセイの系譜は昭和38年の年初に刊行された『春宵十話』に始まり、昭和44年の『神々の花園』にいたるまで、正味7年ほど続きました。『春宵十話』の次は『風蘭』『紫の火花』『春風夏雨』と続きますが、このあたりまでのエッセイに偏在する岡先生の印象は「俗世間を離れた孤高の数学者」という言葉がぴったりあてはまりそうに思います。それから『一葉舟』あたりになると宗教的な雰囲気がただよってきますし、『日本民族』『昭和への遺書』では憂国の思想が全面に押し出されてきます。初期のイメージは大きく変容したかのように見えないこともないのですが、岡先生の実際の姿は不変です。岡先生は俗世間を超越した孤高の数学者であるのと同時に、人の心の働きの神秘に深い関心を寄せ、日本の国情を憂え、教育在り方を語る人でもありました。そうしてこのような多彩な発言の根底にはつねに、数学研究の場で、岡先生の心情の世界において長期にわたって繰り広げられた鬼気迫る体験が横たわっています。
岡先生の学問と生涯をここまで書き綴ってきて、現在の時点であらためて思うことがあります。それは、岡先生の数学研究には「西洋との対決」という姿勢が、若い日から晩年にいたるまで一筋に貫かれていたという一事です。日本的情緒を語り、欧米は間違っていると指摘する岡先生も、道元や芭蕉を友として数学研究に心身を傾ける岡先生も、どの岡先生も根源はひとつです。
ところが、晩年のそのまた晩年、すなわち最晩年の岡先生はもうひとつの相貌を見せ始め、心の世界の探究に向かいます。そのあたりの様相はもはや評伝の守備範囲を逸脱してしまいますので、本書では踏み込んでいくことができませんでした。もう一冊、岡先生の晩年の思想を論じる書物を書きたいと念願しています。
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「虹の章」の執筆を終えて11 龍神温泉の旅(2)

 そんなわけで岡先生の晩年の思想に深く分け入って論評するまでにはいたりませんでしたが、交友録という面では、どのような人とどのように交流したのか、相当に詳しい消息を明らかにすることができました。わけても保田先生との交友を詳述することができたのは大きな収穫ですが、これはひとえに栢木先生のおかげです。栢木先生が遺してくれた大量のメモがなかったなら、ここまでのことはとても判明せず、両先生の間にお付き合いがあったらしいという噂話の程度にとどまったに違いありません。
 昭和43年秋の龍神温泉行についても事情は同様で、細かな諸事情を明らかにすることができたのは、和歌山市在住の補陀さんに御教示をいただいたおかげです。龍神温泉行は岡、保田両先生と胡蘭成の三人が一堂に会した唯一の機会でした。そのようなことがあったことは、胡蘭成が『岡潔集』(全5巻、昭和44年、学習研究社)の月報に寄せたエッセイを見て承知していましたが、強く心を引かれたものの、どうしたら消息が判明するのか、途方に暮れる日々が続きました。途中の経緯を省略して結果だけをお伝えすると、まず栢木先生にお目にかかり、龍神温泉のことをお尋ねしたところ、それは補陀さんが知っている、保田先生の歌のお弟子だ、と教えていただきました。それで和歌山の郊外に補陀さんをお訪ねしたところ、探索の通路がいっぺんに開けました。そもそも補陀さんはこの龍神温泉行を提案して企画した当の本人なのでした。
 こんなわけで栢木先生とおかげで岡先生と保田先生の交友の様子がわかり、補陀さんのおかげで龍神温泉の旅の全容を把握することができました。もうひとつ、胡蘭成について詳しい消息を知る仕事がありました。このため筑波山の梅田筵に出向いて梅田美保さんにお目に掛かったり、胡蘭成の著作を集めたりしたのですが、そうこうするうちに蘭成をもっともよく知る人は羽村市在住の小山奈々子さんであることがわかりました。それで何度か羽村に足を運び、小山さんにお目にかかり、胡蘭成にまつわる素朴な疑問のあれこれをお尋ねしました。胡蘭成は『今生今世』という自叙伝の執筆を続けていたのですが、これも小山さんのおかげで見ることができました。
 保田先生の終焉の地は京都太秦の身余堂ですが、月に一度、「風日」歌会が開催されています(一月の新年歌会のみ大津の義仲寺に移ります)。ぼくは平成8年の秋10月の歌会にはじめて出席し、それからときどき出かけましたが、ここで酒井隆之、康之兄弟(酒井兄弟は双子です)に出会いました。そうこうするうちに酒井兄弟は「平成十年代」という同人誌を企画しましたので、ぼくも同人に加えてもらい、「龍神温泉の旅」という題目で連載を書き始めました。連載は6回まで続きました。掲載誌と発行日は下記の通りです。

第1回 「平成十年代」第2号(平成14年11月15日発行) 
第2回 「平成十年代」第3号(平成15年4月15日発行)
第3回 「平成十年代」第4号(平成15年10月15日発行)
第4回 「平成十年代」第5号(平成16年2月15日発行)
第5回 「平成十年代」第6号(平成16年9月15日発行)
第6回 「平成十年代」第7号(平成17年9月15日発行)

 ここまでのところで二年ほどの歳月を要していますが、なお未完結でした。次の「平成十年代」第8号の原稿の締め切りは平成18年1月末日と設定されたのですが、2月4日に原稿ができて、翌5日、酒井さんのところに送付しました。ところがこのあたりで諸事情が悪化したようで、第8号はついに刊行されず、「平成十年代」は廃刊となりました。そこで、書き続けて蓄積された文章をつなげてひとつの長い文章を作って推敲を重ね、さらに続きを書き加えて本稿「龍神温泉の旅」が成りました。文章を書くのは農作業のようなもので、長い歳月をかけてゆっくりと結晶するもののようで、一朝一夕にはできあがりません。

「虹の章」の執筆を終えて10 龍神温泉の旅(1)

 最後の文章「龍神温泉の旅」は岡先生と保田與重郎先生との交友録ですが、保田先生のほかにもうひとり、胡蘭成という中国人を加えて三幅対を構成したいというのが本来の企図でした。それで胡蘭成のこともできる限り詳しく紹介したのですが、いくぶん中途半端になってしまったという感じがあります。岡、保田両先生と胡蘭成の三人はどの二人もそれぞれに交友がありましたが、岡先生と保田先生、岡先生と胡蘭成ではお付き合いの仕方がだいぶ異なっていました。
 岡先生と保田先生は幾度も会う機会があり、ときには長時間にわたって語り合っていますが、手紙のやりとりなどはなく、確認することのできた範囲では、保田先生から岡先生への一通の封書が残されているばかりです。それに、このお二人が語り合う場面にはしばしば栢木先生が同席し、そのつど克明なメモを作成していますので、語り合いの様子が非常によくわかります。これに対し、岡先生と胡蘭成は会って話をする機会は何度もあり、一度などは話し合いの模様がテープに記録されたこともあったのですが、もっと重要なことには、わりとひんぱんに手紙のやりとりがありました。すなわち、往復書簡が残されていてそれを読むことにより当の本人の言葉を通して交友の模様を観察することができます。
 特に注目に値するのは胡蘭成に宛てて書かれた岡先生の手紙です。象徴的な一例を挙げますと、昭和52年12月23日、岡先生はこの日の日付で胡蘭成に長文の手紙を書いています。岡先生の生涯最後の書簡です。すでに年末のことで、岡先生は年明けとともに体調をくずし、3月1日に亡くなりました。400字詰原稿用紙で17枚。表紙が付けられ、「胡蘭成さんへの返信」と記入されました。投函されたわけではなく、岡先生の没後、書生の竹内さんが直接、胡蘭成のもとに届けました。その時期は昭和54年6月12日と推定されていますから、岡先生の没後1年3カ月の後のことになります。少々時間がたちすぎているようでもありますが、岡先生にしてもさらに遂行を重ねる考えだったのかもしれません。この手紙は胡蘭成の最後の著作『天と人との際』(昭和55年10月30日発行、清渚会、花曜社(発売))に全文が収録されました。また、梅田学筵の機関誌「いき」(「風動」の後継誌で、発行所は「梅田筵内 祭政会」とされている)第63号と第64号(ともに「岡潔博士追悼号」で、第63号は昭和53年5月3日発行、第64号は同年8月15日発行)にも分載されました。
 問題は手紙の内容なのですが、岡先生が人生の最後に到達した思索の姿が克明に吐露されていますので、岡先生に関心を寄せるほどの人にとっては不可欠の基本文献です。それにもかかわらず、本稿ではそこまで踏み込んでいくことができず、そこに不満が残ります。
 岡先生の晩年の思想の解明への踏み込みが足らないということでしたら、未完に終わった晩年の著作『春雨の曲』についても同じことが言えます。岡先生が心血を注いで改稿を繰り返した作品で、本書でも書名のみをときおり語りましたが、内容の解明にまでは及びませんでした。これに加えてさらにもうひとつ、岡先生が昭和46年度から京都産業大学で続けてきた講義「日本民族」の記録を解明することもまた重要な作業です。岡家の書生が同行して録音したテープが大量に残されています。もう一度繰り返して確認しておきますと、下記の三つが晩年の岡先生を知るうえでの基本資料です。

(1) 胡蘭成への書簡
(2) 『春雨の曲』
(3) 京都産業大学での講義

 この三つの資料を基礎にして岡先生の晩年の思索の姿を明らかにすることは、克明な行動の記録、すなわち評伝の成立を踏まえたうえでさらにその先に開かれていく作業ですが、依然として今後の課題です。

「虹の章」の執筆を終えて 9 人間の建設(小林秀雄との対話)

岡先生と小林秀雄の対話の記録は、「人間の建設」というタイトルがつけられて、はじめ「新潮」誌に掲載され、次に単行本の形で新潮社から出版されました。掲載誌の発売も単行本の刊行もともに昭和四十年の秋のことですが、平成二十年の年初に新潮文庫の一冊として久々に再刊されました。この間、小林秀雄の全集には収録されていたのですが、文庫という簡便な形で刊行された影響はやはり大きく、新たな読者が獲得された模様です。
岡先生と小林秀雄の間で語り合われた事柄は多岐にわたり、本当はそれらのすべてについて検討したいのですが、実行するのは至難です。ぼくの目にもっとも強い印象を伴って映じたのは、数学とは何かと小林秀雄に問われるままに、数学に寄せる心情を表明する岡先生の言葉の数々と、特攻隊を語り、小林秀雄に「あなた、そんなに日本主義ですか」と問われ、「純粋の日本人です」ときっぱりと応じる場面です。後者については「龍神温泉の旅」の中に紹介する機会がありましたので、本稿ではもっぱら数学を語る岡先生の言葉に焦点を当てたいと思いました。
そんなことを考えていたころのことですが、平成二十一年の秋に青土社の月刊誌「現代思想」の編集部から、同年十二月号の特集記事「日本の数学者たち―和算から現代数学まで」のための寄稿を依頼されましたので、一文を草しました。その稿を土台にして拡大し、本稿が成りました。岡先生は「数学は情緒を表現する学問である」という特異な数学観を表明したことで知られていますが、ヨーロッパ近代の数学の古典を読み重ねているうちに、数学を創造した代数学者たちもまたひとりひとりに固有の情緒を表現して数学を創っていると確信することができるようになりました。岡先生の言う通りでした。そこでその確信をそのまま書いて見ようと試みた次第です。ガウスの数論を引き合いに出しましたが、どうしてそうしたのかといいますと、ガウスの数論研究には、長い歳月をかけて情緒が表現されて数学が創造されていく姿が典型的に現れているからです。

「虹の章」の執筆を終えて8 正法眼藏―玉城先生の肖像―(3)

 岡先生の晩年の交友録に登場する人々の中で、九州八女の画家坂本繁二郎のことは当初から重視していました。それで「虹の章」は5つではなく6つの章で構成し、「日本のこころ 坂本繁二郎との対話」という一章を設定して岡、坂本両先生の対話の模様を再現したいと考えていました。ところが実際にあれこれの原稿を書いてみますと坂本さんの話題はあちこちに出てきます。特に玉城先生のお話の中にも登場しますので、その際、岡先生と坂本さんの対話についてだいぶ詳しく紹介しました。岡先生と小林秀雄との対話「人間の建設」でも、坂本さんのことがしきりに語られました。
 それで坂本さんの紹介のために特別の章を立てるまでもなく、ごく自然な形で語りつくされてしまうという恰好になり、勢いのおもむくところ「日本のこころ 坂本繁二郎との対話」という章立ても不要になりました。
それで岡先生と坂本さんの対話のことですが、対話の最後に「乱れた署名」に関する興味深いエピソードがあります。それを紹介したいと思いながらよい機会に恵まれませんでしたので、この場を借りて紹介しておきたいと思います。
 対話の場には西日本新聞社文化部の記者の谷口治達さんが同席していましたが、その谷口さんの著作『坂本繁二郎の道』(昭和43年、求龍堂)に「乱れた署名」が行われた場面が描かれています。両先生の対話の記録は西日本新聞に掲載されることになっていましたので、谷口さんはその記事に両先生の自筆の署名がほしいと思い、昼食の休憩の後に一枚の色紙を差し出して寄せ書きを求めました。そのとき一種の対決のような場面が現れたというのです。
 まず坂本さんからということで、色紙と中太のマジックを坂本さんの前に置きました。坂本さんは視力が衰えたことに加え、斜視手術後の視線の混乱などのため、最近は手ごたえのない墨の絵は書きにくいという話を聞いていましたので、谷口さんは硬い手ごたえのあるマジックを選びました。硯と筆も用意してありましたが、坂本さんは色紙を見つめて一呼吸おいてマジックをにぎりました。その右手がぶるぶるとふるえるので、一座が息をこらしていたところ、坂本さんは拝むような恰好で右手に左手を添えました。左手もまたふるえていたのですが、両手に力が入ったとみると両手のふるえが相殺したようにぴたりと止まり、色紙の中央やや下に横書きひらがなで「さかもと」とを大きく書きました。いつも油絵に記入するサインをです。谷口さんはこの場面を、「息づまるような時間、きりりと形の決まった文字、自分の老境の肉体的な障害を乗り越えた芸の重み、凄みが、書き終わったとたん、ほっとみんなの吐息を誘ったのである」と描写しています。坂本さんは懐紙でマジックの軸をふき、色紙とともに岡先生に渡しました。
 今度は岡先生の番でした。岡先生はたばこ数本をたて続けに吸い、それからジックを手にとって、「さかもと」の署名の左下の空白の部分に、「おか」とゆがんだ字を書きました。谷口さんの目には岡さんの姿勢が弱く見え、勝負あったという感じが一座に流れたということです。紙面は「おさかかもと」などとも読めるという状態で混乱し、寄せ書きにもなっていませんでした。坂本さんは表情ひとつ変えず見ていましたが、半年以上ものち、「あのとき、岡先生には上部右側に漢字で岡潔の二字を書いてほしかった」とつぶやいたそうです。
 坂本さんの感想は杉森麟さんも記録しています。杉森さんが聞いたところによると、坂本さんは画家の習性として、瞬時に構図を考えたとのこと。それで、ひらがなの「さかもと」の上に載せるようにして、漢字で「岡潔」と書いてほしかったのだそうです。岡先生のサインを見て、坂本さんは表情を変えなかったと谷口さんは書いていますが、杉森さんによるとぎょっとしたのだそうで、「あんなところに書くんだから」とときどき言っていたということです。再び谷口さんによると、岡先生にしてもその構図は充分によくわかっていたものの、その場では書けなかったのではないかというのですが、そうかもしれません。岡先生は立花邸の庭を見ながら「坂本先生は宮本武蔵のようです」と言ったとのことで、これも谷口さんが採取した言葉です。
 晩年の岡先生は実に多くの人と対談を重ねましたが、坂本さんとの対談は岡先生にとってもっとも気持ちのよい対談でした。

「虹の章」の執筆を終えて7 正法眼藏―玉城先生の肖像―(2)

 玉城先生は大正4年7月29日のお生まれで、昭和11年4月、東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科に入学しました。国文研の小田村先生は大正3年3月2日のお生まれで、昭和12年4月に東京帝国大学法学部政治学科に入学しましたから、両先生はほぼ同年で、所属学部こそ違うものの大学時代も重なり合っています。直接の面識はなかったと思いますが、いくぶん意外なつながりがあることに気づきましたので、お伝えしておきたいと思います。
玉城先生の若い日の師匠に足利浄円という人がいました。本名は藤澤浄円といい、浄土真宗本願寺派のお坊さんなのですが、寺をもっているわけではなく、非僧非俗というべき生活で、京都で出版業を営んでいました。昭和15年の春4月、満25歳の玉城先生は仏教の研究と信仰に挟まれて悩みがあり、ある日、矢も楯もたまらない心情に駆られるままに京都に行き、浄円先生を訪ねました。前触れなしの突然の訪問でした。後年、玉城先生はこのときの情景をこんなふうに回想しています。

「先生は着流しのまま玄関先に出てこられた。その瞬間、私は、あっ、この先生だ、と直覚した。私はこれまで何人もの、浄土系のすぐれた先生に出会っていた。そのすぐれていることは間違いないが、求道の筋において全面の信託を捧げるまでには至らなかった。それがたった一目で、全幅の信頼が結ばれてしまった。それはいくら思い廻らしてみても、ただ因縁という外はない。」(玉城康四郎『仏道探究』、平成11年、春秋社)

次に小田村先生と浄円先生のことですが、小田村家には神棚と仏壇があり、そのほかに観音像がありました。その観音像を小田村家に送付したのは浄円先生でした。話は昭和18年の年初にさかのぼりますが、精神科学研究所の幹部たちが東京憲兵隊により一斉に検挙されたのが2月14日。その三日前の紀元節の2月11日に小田村先生は山岸蓮子さんと結婚されました。奥様の父は山岸市三郎という人で、深く日蓮宗に帰依していましたが、奥様もまた信仰の心が厚く、結婚にあたり毎日礼拝するために小さな厨子に入った観音像を所望しました。
そこで小田村先生は、当時師事していた山本勝一(経済学者)の縁者である浄円先生に、仏像一基の探索を依頼しました。浄円先生はこれを快諾し、小田村先生の結婚後一週間ほどがすぎたころ、京都の古物商で仏像を求めて東京に送付しました。高さ一尺八寸(55センチ)。鎌倉時代の作と見られる木造の古仏で、小田村先生もまた奥様ともども日々の拝礼を続けました。
 こんなわけで玉城先生と小田村先生は浄円先生を介して御縁がありました。人と人は人を介して結ばれていることがありありと物語られていて、真に感銘の深い事実です。

「虹の章」の執筆を終えて6 正法眼藏―玉城先生の肖像―(1)

 岡潔先生のエッセイには宗教的関心が色濃く表明されていますが、主に語られているのは山崎弁栄上人の光明主義と道元の『正法眼蔵』です。岡先生と光明主義の関わりについては前二作の『星の章』『花の章』で詳述しましたので、今度は『正法眼蔵』を語る岡先生の言葉を具体的に紹介したいと思いました。なかなかむずかしい作業ですが、玉城先生の著作『仏教の根底にあるもの』(昭和57年、講談社)との出会いを通じて考えるヒントがもたらされました。
 この作品は昭和61年に講談社学術文庫の一冊になり、ぼくはそれを読んだのですが、一読してたちまち魅せられました。それから他の著作を読み、杉並のお宅に幾度か玉城先生をお訪ねしました。わけても岡先生の語る『正法眼蔵』に寄せて玉城先生のお考えをうかがうことができたのは実に大きな収穫で、この体験を基礎にして『虹の章』の一篇「正法眼蔵」を書くことができました。
 ちょうど岡先生の評伝の執筆が気に掛かりはじめたころのことですが、数学の杉浦光夫先生のお誘いを受けて文芸同人誌「五人」の仲間に加わりました。「五人」は、かつて台湾の台北に存在した台北高等学校の卒業生たちが創刊した同人誌で、英文学の奥井潔先生をはじめ、同人のひとりひとりがみな旧制度の高等学校の雰囲気を濃厚に漂わせていました。
 それで同人として原稿を寄せることになったのですが、真っ先に念頭に浮かんだのが、「玉城先生のことを書く」というアイデアでした。もっと具体的に言うと、まず自分自身のことを紹介し、玉城先生と出会うまでのあれこれを書きました。それから玉城先生御自身のことを紹介し、その玉城先生に岡先生のことを語ってもらうという方針を立てました。はたして成功するものやら、だいぶ危ぶまれたのですが、この機会を生かして思い切って取り組むほかはないと固く決意しました。この計画はともあれ実施され、「玉城先生の肖像」というタイトルを附して三回まで連載しました。順に挙げると下記の通りです。
 
「玉城先生の肖像(一)」「五人」第34号(平成8年8月31日発行)
「玉城先生の肖像(二)」「五人」第35号(平成10年8月31日発行)
「玉城先生の肖像(三)」「五人」第36号(平成12年11月21日発行)

第一回から第二回までの間が丸2年、第二回から第三回までの間がまたも2年をこえるというふうで、結局4年もかかったのですが、奥井先生が逝去されたこともあって「五人」は解散と決まり、連載も未完に終わりました。小節ごとに通し番号と小見出しをつけていったのですが、「二十三」まで進みました。最後に「続」という一文字を記入して続編執筆の意欲を示すとともに、今後の見通しを小見出しのみ書いておきました。下記の通りです。

二十四 中谷治宇二郎との別れ
二十五 岡潔先生の帰郷
二十六 山田又吉の死
二十七 『鳥の物語』
二十八 友情と「悲」の世界

これだけでは内容を推測することはできませんが、最後に「二十八 友情と「悲」の世界」を書き上げて完結にこぎつけたいと願っていました。これは今も達成できず、今度の『虹の章』の原稿も実際に「五人」に執筆したところまでが基礎になっています。第三回目の執筆中に玉城先生の逝去という出来事がありましたので、末尾に「補記」を書いたのですが、これをそのまま使って本稿の「エピローグ」にしました。「補記」の末尾には「平成12年3月16日」という日付が記入されています。

「虹の章」の執筆を終えて5 駒込千駄木町の一夜(3)

現在試みているのは「あとがき」ですから、当然のことながら本文が前提になっています。その肝心の本文が未刊なのですから、「あとがき」のみを長々と綴るのは、本末転倒というか、本当はおかしいのですが、成り行き上、仕方がありません。たとえば岡先生の評伝にどうして原理日本社の話が出てくるのか、諸事情は必ずしも分明ではないと思いますが、御諒解いただきたいと思います。
 それで、消息の不明瞭な話がもう少し続きますが、原理日本社と同じく国文研の源流の系譜に属する団体に精神科学研究所(精研と略称します)というのがあります。リーダーは田所廣泰という人で、一高、東大で小田村先生の5年先輩になります。昭和16年2月11日の紀元節を期して創立されました。精研の成立過程については本文で多少のことを書きましたが、最後の模様を語るまでにはいたりませんでしたので、そのあたりのことを少々書き添えておきます。
 精研が創立された昭和16年といいますと、この年の年末12月にハワイ海戦があり、大東亜戦争(戦後の呼称では太平洋戦争です)が始まりました。大東亜戦争の敵方は英米蘭、すなわちイギリスとアメリカとオランダですが、「支那事変をも含めて大東亜戦争と呼称す」と定められたところに、この戦争の性格が現れています。大東亜戦争は支那事変の解決の方途を模索する中で、支那事変の延長線上に生起したというのが当時の日本の認識だったのですが、そこで大きな問題となるのはどうしたら支那事変を解決できるかという一事です。精研は「支那事変解決を阻害するものは何か」という論陣を張り、支那事変を「自滅戦争」と見て、中国大陸から日本軍を即座に撤退させることを主張しました。当時の東條内閣の方針は「聖戦完遂」でしたから、精研の主張は反軍思想と見られることになり、監視がつき始めたのですが、昭和18年2月14日、東京憲兵隊により田所広泰たち精研の十名ほどの幹部がいっせいに検挙されました。数日後、小田村寅二郎先生もも勾留されました。小田村先生は後年の國文研の理事長です。
 精研の少し前に日本学生協会という組織ができていましたが、精研ともども解散を命じられました。これで国文研の源流は完全に崩壊しました。
 精研のリーダーの田所広泰は岩手県気仙郡盛町(さかりちょう)に疎開しましたが、終戦後の昭和21年6月18日、疎開地で病歿しました。盛町は現在の大船渡市の一角で、平成23年3月11日に発生した東日本大震災の被災地です。
 すでに13年の昔のことになりますが、国文研の機関紙「国民同胞」の第441号(平成10年7月10日発行)に、「岡潔と国民文化研究会」という短いエッセイを寄稿しました。それを土台にして、大幅に膨らませて「駒込千駄木町の一夜」ができました。岡先生の二度の国文研合宿講義には速記録が存在し、参照して紹介することができました。実に貴重な記録で、閲覧する機会を与えてくれた宝辺さんに心から感謝しています。

「虹の章」の執筆を終えて4 駒込千駄木町の一夜(2)

 國文研の源流のひとつひとつの来歴をめぐって、発足当初の消息についてはなるべく詳しく紹介するようにつとめましたが、その後の様子には触れることができませんでした。原理日本社は機関紙「原理日本」を舞台として多くの学者、思想家を糾弾する論陣を張ったことで知られています。中心になったのは蓑田胸喜です。試みに顧みると、東京帝大法学部の末弘厳太郎(民法、法社会学)、 美濃部達吉(憲法学、天皇機関説事件)、横田喜三郎(国際法学)、田中耕太郎(商法学、法哲学)、宮沢俊義(憲法学)、矢部貞治(政治学)、 南原繁(政治學)、経済学部の大内兵衛(財政学・マルクス経済学)、河合栄治郎(社会政策)、矢内原忠雄(植民政策)、京都帝大法学部の瀧川幸辰(刑法学、滝川事件)などの名が次々と念頭に浮かびます。哲学の西田幾多郎、田辺元、三木清、歴史学の津田左右吉なども批判の対象になりました。
 これらの人たちとはだいぶ毛色が違いますが、権藤成卿(農本主義の思想家)、安岡正篤(陽明學者、東洋思想家)、大川周明(日本主義の思想家)、それにヒットラーとナチズムも蓑田の批判を受けました。個人ではありませんが、昭和研究會(近衞文麿の政策研究團體)も批判されました。蓑田は蓑田に固有の視点に立って批判を繰り返したのですが、ひとことで言うと「和の立場から洋に向けられた批判」と見てよいのではないかと思います。
 保田與重郎は蓑田に会ったことがあるようで、保田の著作『日本浪曼派の時代』(昭和四十四年、至文堂)に多少の言及が見られます。「日本浪曼派広告」を「コギト」に出したころのことというのですから、昭和九年のことになりますが、保田はこんなふうに回想しています。

「そのころ私の見たところの判断では、学閥というものは、世間にあるというより、大学の内部に激しかった。一つの学部の中に、いくつかの閥をつくっていたように見えた。それは教授の地位を私するためである。大学の自治とか自由という善言は、わが国の大学では大体そういう実をいうものだった。その実例は、そのころ東京帝国大学の経済学部で、二派にわかれた争いがあった。各々の主任教授を中心としたその対立では、平素はマルクス主義と反マルクス主義で対抗している中堅級の助教授が、その主義も理論も棚上げにして、各自の主任教授の徒党へ集る。社会主義とは氷炭相入れない国家主義の老教授のもとへ、マルクス主義を以て平素処世上の態度としてきた若い連中が結集するのである。こういう事情とともに、そういう人々の心理が、私には全くわからなかった。強いていえば処世上の功利主義という外はない。」

 保田はこう言って、それから「こういうことは世間では忘れて了ったことだろうが、当人は忘れることはあるまいと思う」と言い添えて、そのうえで蓑田胸喜の名を挙げました。「経済学を学ばなくてよかったね」と保田に語りかけたというのです。

「有名な慶大教授の蓑田胸喜氏は、東大で哲学を専攻した学者だが、ある時私に、我々は経済学を学ばなかってよかったねといった。経済学をやるような人間は、みな人がらがいやしいと極言して嘆息された。そのころの東京帝国大学の経済学部の教授たちをながめて、この批評が当っていると、私は思った。そののちの戦中戦後のその人々の世渡りぶりを見て、私の心は滅入った。蓑田氏については私はよく知らないが、戦後にこの人を非難罵倒することによって、自己弁護をしたような多数の進歩主義者の便乗家とはちがって、私の印象では清潔な人物だった。極めて頑迷固陋といわれたが、筋が通っていた。勿論日本浪曼派とは無関係な人である。」

「ずいぶん困らされたという人がいるときいたが、世間栄達に無関心なものなら、何も困る必要はない。世渡りの妥協を自他に顧ない人で、世間の世渡りの思惑を無視する人があるものだ。困らされる人が、本当の学者なら、困るといってはならぬ。文士とか政治家とは、みなそういう超世間的のものだ。しかし世間なみの公務員や会社員の職をおびやかすようなことには、よほどの思慮がなくてはならぬが、文士同志学者同志では、そういう世俗の思慮は無用でよい。教授の職より学を愛することの出来る人なら、蓑田氏を怖れる必要がなかった筈だ。権力地位より正論に謹んだ人で蓑田氏を怖れた例を私は知らない。」

 昭和十六年、蓑田は国士館専門学校を退職しました。昭和十九年六月、郷里の八代に疎開。終戦の翌年の昭和二十一年一月三十日、縊死(いし)しました。墓は郷里の熊本県八代郡氷川町野津南山王の阿弥陀寺の境内にあります。
 蓑田胸喜の死を新聞で知った三井甲之が詠んだ歌一首。

   かくのごときこともありうる心地する
      すぐなる君がさがをおもへば

「虹の章」の執筆を終えて3 駒込千駄木町の一夜(1)

 岡先生は昭和40年と昭和44年の二度にわたって、国民文化研究会(国文研)の夏の合宿教室で講義を行いました。講義題目は一度目は「日本的情緒について」、二度目は「欧米は間違っている」というもので、二つの講演を合わせると、この時期の岡先生の思想がありありとうかがえるように思います。日本的情緒を語ることと欧米の間違いを指摘することとは、岡先生の心情の場では表裏一体をなしています。講義の舞台が国文研の夏季合宿であったこともまた興味の深いことですし、この二度の講義にはかねがね心を引かれていました。
 そんなわけで岡先生の国文研講義の模様を再現してみたいとかねがね考えていたのですが、事柄の性格上、解明の焦点は二つあります。ひとつは講義の舞台となった国文研というものを紹介することで、そのためにはこの団体の淵源を訪ねなければなりません。もうひとつの焦点は岡先生の講義の内容をなるべく具体的に紹介することですが、言うは易く行うは難し。どちらも実際に取り掛かると実にむずかしい作業を強いられました。
 国文研の発足は終戦後の昭和31年ですが、源流は戦前にさかのぼります。具体的に観察すると、沼波瓊音が始めた一高瑞穂会、三井甲之と蓑田胸喜が創立した原理日本社、それに黒上正一郎と梅木紹男の友情から生まれた一高昭信会と東京高師信和会が目に留まります。これらは別々の団体ではありますが、相互に親密に連繋し、全体としてひとつの源流を形成しています。日本の近代も大正期に入るとデモクラシーの潮流が流入し、西暦一九一七年(大正六年)にロシア帝国で起ったロシア革命の影響を受けて、社会主義の波もまた大きく及び始めました。この二つの新思潮は相互に相容れない面ももちろんありますが、日本から見ればどちらも「和魂洋才」の「洋」であることは変わりませんし、「洋と洋は相通じる」ということもまた一面の真理です。これに対し、上記の国文研の源流は「和の系譜」に連なっていると言えるのではないかと思います。
「洋」の作る強大な新思潮の波浪の前では和の系譜はひ弱に見えることもありますが、黒上が探究した聖徳太子をはじめ、道元、芭蕉、宣長等々、日本ではこの系譜からときどき天才が生まれます。岡先生も明らかにこの系譜に位置を占めていますし、岡先生と国文研を結ぶ糸もこのあたりに内在していたのであろうと思います。

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