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リーマンを語る 272. ルジャンドルとヤコビの往復書簡より その74

 『概論』巻1の序文を最後まで読んでおきたいと思います。

〈第一種楕円関数の変換と関連のあるすべての事柄を汲み尽くした後に、第二種関数を研究するのは自然である。私は、これらの関数は第一種関数と類似の多くの変換を受け入れることを証明する。諸式はずっと複雑になるが、それは、それらの式に含まれる代数的量に起因するのである。だが、完全関数の場合にはその代数的量が消失するので、それらの式は大幅に単純化される。〉

〈この第一補足を構成する相当に多くの研究について、これ以上は立ち入らない。第一補足はヤコビ氏の二定理をp=3とp=5の場合に適用するところで終る。これらの場合には第一番目と第二番目の新しい「はしご」が発生する。〉

〈第二の補足と、それに、必要とあらば、それ以降にさらに引き続く補足において、新たな諸発見によってもたらされるいっそう注目すべき事柄の説明を、私自身の所見と適切な進展を附して、継続する予定である。〉

『概論』巻1の書き出しの部分はこれで終わり、末尾に「パリ、1828年8月12日」と、日付が記入されています。以下、本文が続きます。巻2と巻3には序文はありません。目次を概観すると、楕円関数論への虚数の導入ということを積極的に語ろうとする姿勢が見えますし、さらに、楕円関数を越えて「超楕円関数」の世界に向かおうとする傾向がはっきりと現われています。ルジャンドルは「超楕円関数」という言葉を使っているわけではなく、この言葉について何事かを語ろうとすると、それはそれでなかなかたいへんです。
 ルジャンドルが二篇の論文を書き、それらを土台にして『演習』を出版したころの心情を回想すると、当初のねらいは「楕円的な超越物」の理論を作ることでした。解析学における「超越的なもの」というと円と対数しか認知されていなかったころでした。その先に踏み込んでいくと「楕円的なもの」に遭遇することはファニャノやオイラーやランデンやラグランジュにより自覚されていましたが、この4人を先覚者と見て、「楕円的なもの」の作る世界の解明に向かったのがルジャンドルでした。
 ルジャンドルの努力は『演習』3巻に結実しましたが、そこにヤコビとアーベルが現われました。しかもアーベルの思索は「楕円的なもの」に留まらず、いきなり「パリの論文」を書いたりしたのですが、上記のような理論展開の経緯を回想すると、「パリの論文」がいかに恐るべき作品だったのか、ありありと諒解されます。「パリの論文」の対象ははじめから「完全に一般的な超越物」(もう少し正確に言うと、完全に一般的な代数関数の積分として出現する超越物)で、しかもアーベルはそれを楕円関数論よりも先に書いたのでした。どうしてそんなことができたのか、まったく不思議ですし、ルジャンドルが理解できなかったのも当然といえば当然です。
 「パリの論文」のテーマとなった「超越的なもの」の中で、「楕円的なもの」の次に配置されるものを指して「超楕円的なもの」と呼ぶことがあります。アーベルは「パリの論文」で試みた理論展開を「超楕円的なもの」に限定して一篇の論文を書きました。それは「クレルレの数学誌」に掲載されましたので、ヤコビの目に留まりましたが、ヤコビはその論文の意味を即座に理解して、どれほど重要な論文なのか、ルジャンドルに説きました。そのあたりのやりとりはヤコビとルジャンドルの往復書簡中の白眉です。
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ガウスの数論論文集に寄せて18. 落ち穂拾いをもう少し

 前回引用した箇所には注目に値する脚注が附されています。それをはじめて見たときの印象はあまりにもめざましく、今もありありと思い出されます。4次剰余の理論を十全に展開するには有理数域にとどまっていてはだめで。数域を拡大してガウス数域に移らなけらばならないとガウスは言うのですが、ガウスはここに脚注をつけて、こんなことを言っています。

<事のついでに、ここではせめて、このように定められた領域は4次剰余の理論のために特に適切であることに留意するとよい。同様にして、3次剰余の理論はa+bhという形の数の考察を基礎にして、その土台の上に建てなければならない。ここで、hは方程式h^3-1=0の虚根、たとえばh=-1/2+ √(3/4)・iである。同様に、いっそう高次の冪剰余の理論では他の虚量の導入が要請される。>

これによると、4次剰余の理論の展開にあたってガウス整数が導入された理由がよくわかりますが、それと同時に、ガウスの念頭にあったのは4次剰余の理論ばかりではなく、一般に高次の冪剰余の理論を探索していたことがわかります。4次剰余の理論でしたら「1の4乗根」、すなわち「4乗すると1になる数」を考えます。それはつまり1とi=√-1と-i=-√-1と-1の四つですが、1は冪を作らなくてもそのままですでに1ですし、-1は4乗する前に2乗しただけで早くも1になってしまいますから、この二つは捨てるとi=√-1と-i=-√-1が残ります。この二つは符号が異なるだけですので、一方のi=√-1だけを採用します。i=√-1というのはつまり「4乗してはじめて1になる数」ですが、そのような数は実数の範囲には存在せず、複素数の世界においてみつかります。
同様に、3次剰余の理論の場合には「3乗してはじめて1になる数」が考えられていることが明記されています。それもやはり複素数です。いっそう高次の冪剰余の理論の場合にはどのような数を考えなければならないのかというと、ガウスは「他の虚量の導入が要請される」というばかりではっきりと書いているわけではないのですが、「虚量」であることはまちがいありません。それに、明記されていないとはいうものの、ガウスの念頭にあった「虚量」の姿は実際には明らかです。すなわち、次数nの冪剰余理論の場合でしたら、適合する虚量というのは「n乗してはじめて1になる数」のことにほかなりません。そのような数を普通、「原始n乗根」と呼んでいます。円周等分の理論との関連が早期される場面です。
 有理数の作る数域に原始n乗根を添加して生成される数域は円分体と呼ばれますが、ガウスの確信に共鳴して高次冪剰余の理論というものの存在を信じ、そのうえでさらにガウスの指針に沿うのであれば、「円分体を舞台にして高次冪剰余の理論の構成をめざす」という方針が定まります。ガウスの後、これを実際に遂行した人物が現れました。それはクンマーという数学者です。ガウスの確信とガウスの指針は上記の通りで、あるやなしやというほどの本当にわずかなものにすぎないことを思いますと、クンマーという人もまたただ者ではないという感慨に襲われます。
 こんなふうにガウスは著作と論文のあちこちに「数論を考えるヒント」を配置していますが、それらはみなガウスの心情の声なのですから、ガウス自身が書いた一番はじめの作品を見なければ決してわからないものばかりです。この事実にくれぐれも留意して、ガウスの数論論文集に寄せて解説を書いてみたいと思います。

ガウスの数論論文集に寄せて17. 「4次剰余の理論」より

 ガウスの数論論文集の概観にあたり、オリジナルを読まなければわからないことのあれこれを拾ってきましたが、それもほぼ終わりましたし、この短期連載もそろそろ簡潔です。落ち穂拾いのようなつもりで「4次剰余の理論」からもう少しガウスの言葉を拾うと、「第一論文」の序文に、「われわれは今、この研究の公表に向けて準備を整えることにより、4次剰余の理論を開始する」という宣言が読み取れます。実に堂々たる宣言で、感動的でさえあります。この言葉に続いて、「われわれはこの第一論文において、アリトメチカの領域を拡張しなくともなお完全に片づくような研究を説明する」と言われていますが、これはつまり有理整数の範囲で4次剰余の理論の探究を続けて行けるところまで行くという方針の表明にほかなりません。なんでもないことのようですが、ガウスは数論探究の足場を率直に語っていることがわかります。ガウスは秘密主義というよりもむしろあけすけに何でも語ろうとする人のような印象を受けますが、ガウスにはライバルはいなかったのですから、何を話しても優先権の問題などが発生する気遣いはありません。ガウスにしてみれば完全にひとりきりで数論の探究を続けているのですし、案外、語り合う友を求めていたのかもしれません。
 次に引くのは「第二論文」の第30章に見られる言葉です。

<われわれはすでに1805年にこのテーマについて熟考を開始したが、それからすぐに、前に第1条で示唆しておいたように、一般理論の真実の泉の探索は、アリトメチカの領域を拡大して、その中で行わなければならないという確信に到達した。>
<詳しく言うと、これまでに究明されてきた諸問題では、高等的アリトメチカは実整数のみを取り扱ってきたが、4次剰余に関する諸定理はアリトメチカの領域を虚の量にまで広げて、制限なしに、a+biという形の数がアリトメチカの対象となるようにしてはじめて、際立った簡明さと真正の美しさをもって明るい光を放つのである。・・・われわれはこのような数を複素整数と呼ぶ。・・・この論文では、複素数に関する基本事項とともに、4次剰余の理論のはじまりの部分を確立する。全容を展開するのは、これから引き続いて行うことにしたいと思う。>

ここで語られているのは、数論に複素数が導入されたときの一番はじめの情景です。論文の中で「複素数に関する基本事項」が叙述されますが、そこには今日のいわゆる複素平面も登場します。数学にどうして複素数を導入しなければならないのかというと、4次剰余に関する諸定理が「際立った簡明さと真正の美しさをもって明るい光を放つ」ようにするためというのですが、複素数というものの実在感をこれほど雄弁に物語るものはなく、「自乗したら負になる数」はあるのかないのかなどという疑問はまったく問題になりません。

ガウスの数論論文集に寄せて16. 数域の拡大に向かう

ガウスの数論の諸論文の序文に目を通してちょっと気づいたことですが、数論の特徴として今日でもよく語られることのひとつに、「命題そのものは単純だが証明はむずかしい」というのがあります。これを言い出したのはだれなのだろうかとつねづね思っていたのですが、これはガウスに由来するのではないかと思い当たりました。念のためにガウスの言葉を引くと、「アリトメチカの一定理の新しい証明」の序文はこんなふうに書き出されています。

<アリトメチカでは、帰納的考察の途中で、思いがけない偶然によりきわめて美しい新たな真理が唐突に出現するということが、非常にひんぱんに起るのである。それらの真理の証明は深い場所に秘められ、闇に覆われていて、あらゆる試みをあざわらい、透徹した洞察力をもってする探究も手が届かない.>

また、「平方剰余の理論における基本定理の新しい証明と拡張」の序文を見ると、次のような言葉が目に留まります。

<平方剰余に関する基本定理は高等的アリトメチカの最も美しい真理に所属するが、帰納的な道筋をたどって容易にみいだされた。だが、これを証明するのははるかに困難であった。この種の研究の際には、帰納的な道筋により、いわば自然に探究者に差し出される単純な真理の証明がきわめて深い場所に秘められていて、まずはじめに多くのむなしい試みがなされ、その後に、探し求められたきたものとはまったく違う方法で、最後になって明るみに出されるということがしばしば起るものである。>

このような趣旨の言葉はフェルマ、オイラー、ラグランジュ、ルジャンドルにも見られませんでしたし、数論に寄与した人というとほかには見あたらないのですから、淵源がガウスで、ガウスの言葉が広まって今日に至っていると見てまちがいないのではないかと思います。
 次に引くのは「4次剰余の理論」の「第一論文」の序文の言葉です。

<平方剰余の理論は、高等的アリトメチカのとびきりみごとな宝物に数え入れるべき少数の基本定理に帰着されるが、それらの定理は、周知のように、まずはじめに帰納的な道筋を通ってたやくす発見され、それからいろいろな方法で証明されて、これ以上望まれることは何も残されていない。>

これはつまり平方剰余の理論との別れの言葉です。続いて語られるのは、高次冪剰余の理論に向かおうとする際の、いわば挨拶の言葉です。

<だが、三次と四次の剰余の理論ははるかに高い壁に囲まれている。われわれが1805年に究明を開始したとき、さながら入り口のあたりに置いてあるかのようなあれこれの事柄のほかに、二、三の特別な定理もたしかにもたらされた。それらの定理はひとつには簡明さのために、またひとつには証明のむずかしさのために際立っている。>

 研究を開始したのは1805年と明記されていますが、このようなことも「足場を見せている」ことになるのではないかと思います。

<だが、われわれはすぐに、これまでに用いられていたアリトメチカの諸原理は一般理論を確立するためには決して十分ではなく、高等的アリトメチカの領域をほとんど無限に拡大することが必然的に要請されるという一事を認識するにいたった。これをどのような意味合いにおいて諒解するべきなのかということは、この研究のこれからの流れの中で一点の曇りもなく明らかにされるであろう。>

「高等的アリトメチカの領域をほとんど無限に拡大することが必然的に要請される」という、実に不思議な言葉が語られています。高次冪剰余の理論が展開される場所は、素朴に考えると有理整数の領域でよいのではないかと考えられますし、当然のことと思われるところです。ガウスもはじめはそう思っていたようで、有理整数域において4次相互法則を探索しました。その痕跡を叙述したのがつまり「第一論文」の内容です。
 有理整数域に限定して探索してもいろいろな命題が見いだされるのですし、特に二つの補充法則が見つかりました。ところが4次相互法則の本体は見つかりませんでした。このあたりに高い壁があり、探索の場所を拡大して複素整数域に及ぼさなければならなかったのですが、ここがガウスの数論の節目であり、しかも同時に今日の代数的整数論の第一歩が印された場所でもあります。ガウスはそのようなあれこれの心情を率直に吐露しているのですが、実にめざましいことで、感動を覚えます。オリジナルを読まなければわからないことがここにもあります。

ガウスの数論論文集に寄せて15. 4次剰余の理論に向けて

 ガウスの数論については以前、「ガウスの遺産」というタイトルをつけて語り続けたことがありますし、その連載を元にして『ガウスの数論 わたしのガウス』という本を出したとき、記述の拡大と精密化をめざしました。その際、参考にしたのは実際にはガウスの論文だけでした。数学に心を寄せるほどの人たちの中にガウスを知らないという人はありえませんし、この200年ほどの間には多くの人たちがガウスについて連綿として語り続けてきましたから、参考文献を収集すればたちまち山積みになります。評伝もいくつも出ています。それにもかかわらず、ガウスを語るうえで最良かつ不可欠の基本文献はガウスが自分で書いた諸論文であり、この点は将来も決して変わりません。ガウスを読んでガウスを語るのが基本中の基本ですが、実はこれが最大の難事で、自分の体験を振り返ってみると、ガウスの数論とはこのようなものであろうという所見を表明できるようになるまでに、略略30年ほどの日時を要しました。
 というわけですので、ガウスの論文だけを基礎にして、限界に達するまで歩を伸ばしてガウスを語ればそれで十分で、「ガウスの遺産」も『ガウスの数論 わたしのガウス』も、叙述にあたって参考にしたのはガウスの論文のみという状況になりました。もっともアーベルやクロネッカーに言及した箇所もありますが、その場合にも参照したのはアーベルとクロネッカーの一番はじめの言葉だけでした。
 それでガウスを語る場合の足場を形成するのはガウスの論文だけということになりますので、『ガウス数論論文集』を世に出すことが重要な意味をもってきます。その場合、解説のポイントになるのは何かというと、「ガウスを読まなければわからないこと」「ガウスの言葉を直接聞くことによってはじめてわかること」を指摘することです。数学は人がクリエイト(創造)する学問であるとは、岡潔先生とガウスに教わって理解したことですが、まさにそれゆえにガウスの数論も見る人が変われば姿形が変容します。ガウスはこんなことをしたが、その本質はこうだったとか、だれそれはこう言ったが本当はこうだとか、そうも言えるがこうも言えるというたぐいの言説は山をなしています。これを要するに、数学の歴史もまた人がクリエイトするということにほかなりません。
 歴史観は変遷しますから、ガウスの数論に対する批評も時代ごとに移り変わり、時代を代表する定番のような所見が存在します。それらの所見を渉猟するのも興味がないわけではないのですが、根幹を作るのはやはり「ガウス自身の心情」で、ここを押さえないことには理解の足場が定まりません。そんなふうに思いながらガウスの論文を観察してきたのですが、ここでもまた同じ話の繰返しを恐れずに強調しておきたいのは、「ガウスに聞かなければわからないこと」ははっきりと存在します。顕著な事例を挙げると、ガウスは平方剰余相互法則の証明を8通りも考案しましたが、それはなぜだったのでしょうか。これは素朴な疑問ですが、答はすでにわかっています。ガウスが真に探索していたのは3次と4次の相互法則の証明で、そこに通じる道を開いてくれることを期待して、平方剰余相互法則の新証明を探っていたのでした。
 円周等分方程式の理論は代数方程式論の特殊な一領域としか見えませんが、ガウスはどうしてそれを「アリトメチカ研究」という書名の本の中に入れたのでしょうか。これもまた素朴な疑問ですが、ガウス自身の言葉により、この疑問もたちまち解消しました。すなわち、円周等分方程式論から「ガウスの和」が取り出され、その数値決定の様式の中には平方剰余相互法則の証明の原理がひそんでいます。それが、円周等分方程式論が数論でありうる理由です。
 ガウスは3次剰余の理論についてはまとまった論文を書きませんでしたが、4次剰余の理論については二篇の論文を書いて公表しました。二篇といっても実態は一篇の論文で、第一論文は第23節まで、「第二論文」は第24節から第76節までというふうに二論文の全体を通じて全部で76個の節に通し番号が附されています。4次の相互法則の形については帰納的考察により早くから把握していたようですが(これもガウス自身がそう言っているのだわかります)、証明がむずかしく、さすがのガウスも長期にわたって思索を強いられました。相互法則ですから二つの補充法則がともなっているのですが、4次剰余の二論文には補充法則の証明は記されているものの、4次相互法則の本体の証明は欠如しています。4次相互法則の本体は「第二論文」の第67節で表明されていますが、その直後にこんなことが書かれています。

<この定理のきわめて大きな単純さにもかかわらず、その証明は高等的アリトメチカの深い場所に隠された神秘と見なければならない。この証明は、少なくとも状勢がどのようになっているのかという点については、繊細をきわめた研究によりはじめて解き明かすことができるが、そうするとこの論文の限界をはるかに越えてしまう。そこでわれわれは、この証明の公表ならびにこの定理と、この論文の冒頭で帰納的考察を通じて確立するべく着手した諸定理との関係の解明を、第三番目の論文まで留保することにする。しかし最後に、第63、64条で挙げられた諸定理の証明に必要な事柄を、この場で報告しておきたいと思う。>

 こんな率直な言葉を見ると、4次相互法則の証明の探索の現場で非常に難渋した様子がありありと伝わってきますが、ともかく証明を獲得したのはまちがいのないことのように思います。証明はないけれどもひとまず命題のみ報告するというのではなく、証明を確保して、4次剰余の理論の全容が見えたという確信を得てはじめて公表する考えになったということでしょう。こんなこともまたガウス本人に聞かなければわからないことのひとつです。

ガウスの数論論文集に寄せて14. ガウスの数論に親しんだころ

 各々の論文の訳読に関する基本的なデータを添えるのをうっかりしていましたので、少々補足しておきたいと思います。それは論文をはじめて読んだときの日付のことなのですが、当時のノートに記されている日付は下記の通りです。

「4次剰余の理論1」
初翻訳稿 ドイツ語訳からの重訳
昭和59年(1984年)4月27日−5月3日

「4次剰余の理論2」
初翻訳稿 ドイツ語訳からの重訳
昭和59年(1984年)5月3日−5月21日

ガウスの論文が公表された順に沿って読んだのではなく、まずはじめに取り組んだのは4次剰余の二論文でした。高次の冪剰余の理論というものに非常に心を引かれていたためで、当時の心情は今もありありと思い出されます。ガウスの数論の秘密はこのあたりにあると思ったのです。
4月27日から5月3日まで、ちょうど一週間かかって第一論文が読み終わりました。読み終えたその日から第二論文に取り掛かりましたが、読み終えるのに5月21日までかかっています。この間、19日です。第二論文は長篇で、それに数学の内容もなかなか複雑ですので、そうそうすらすらと読み進めるというわけにはいきませんでした。

「アリトメチカの一定理の新しい証明」
初翻訳稿 ドイツ語訳からの重訳
昭和59年(1984年)5月29日−6月1日

「ある種の特異級数の和」
初翻訳稿 ドイツ語訳からの重訳
昭和59年(1984年)7月6日−7月13日

「平方剰余の理論における基本定理の新しい証明と拡張」
初翻訳稿 ドイツ語訳からの重訳
昭和59年(1984年)7月14日−7月16日

4次剰余の二論文に続いて残る三篇の論文を読みました。「アリトメチカの一定理の新しい証明」と「平方剰余の理論における基本定理の新しい証明と拡張」はいずれも短編ですし、時間はかかりませんでした。「ある種の特異級数の和」には8日間を要していますが、この論文は、何というか、重量感がありました。「アリトメチカの一定理の新しい証明」を読み終えてから「ある種の特異級数の和」に取り組むまで、一か月以上もの空白期間がありますが、この時期にはガウスの未公表の数論の原稿を読んでいました。
これらの論文はみなドイツ語訳をテキストにして読んだのですが、だんだんとラテン語が読めるようになるのにつれてラテン語の原論文を参照し、訳文を作りなおしました。これは実に根気のいる作業で、時間がかかりました。
こんなふうにしてともあれガウスの数論の諸論文にひと通り目を通したのですが、これで何かがわかったのかというと、判然としない状態が非常に長く続きました。長い間には「ああ、わかった」とガウス全集点のいく箇所がここかしこと増えていったのですが、なかなか根本的なところを理解するにはいたりませんでした。「ガウスの数論とは何か」と自問して、明快に自答できるようになるまでは、とうてい根本を理解したとは言えないと思いますが、そもそもどのように答えたなら、明快に自答したことになるのでしょうか。
これは難問ですが、つい最近になってにわかに得心がいったことがあります。それは、ひとつには数学は「人」がクリエイト(創造)する学問であるということで、もうひとつは、ガウスの数論はガウスがクリエイトした数学であるということです。岡潔先生は、数学は情緒の表現であるという言葉を遺しました。岡先生の論文集には確かに岡先生の情緒が表現されているという感じがありますし、それはまちがいなくそうなのですが、岡先生のほかにも情緒を表現した数学者がいるのかどうか、実は具体的にこれがそうだと指摘するには至りませんでした。ところが、あるときふと、ガウスの数論がそうなのではないかと思い当たりました。4次剰余の理論にはその兆候が一段と際立っています。
念のために繰り返しておきたいのですが、この点に気がついたのはつい最近のことです。ガウスの数論にひと通り目を通したのはずいぶん前のことになりますし、ガウスの叙述はきわめてていねいですので、論証を追うという点では不明瞭なところはありませんでした。それでもなお、ガウスの数論は先人の継承ではなくガウスが単独で創りだしたものだったとは、なかなか気がつきませんでした。気がついたということはそれはそれで数学的発見の一種であろうと思いますし、うれしかったのですが、どうしてこんな時間がかかったのか、まったく不思議です。

ガウスの数論論文集に寄せて13. 平方剰余の理論との別れ

 1808年の論文「ある種の特異級数の和」に続いて、1818年には「平方剰余の理論における基本定理の新しい証明と拡張」という論文が公表されました。1817年2月10日にゲッチンゲン王立協会で報告され、同年刊行の「ゲッチンゲン王立協会新報告集4」に掲載されたのですが、前作「ある種の特異級数の和」から9年という歳月が流れています。その「ある種の特異級数の和」の第33節に、「後ほど、まったく異なる原理に基づく他の二つの証明を再度、説明する予定である」という言葉が見られますが、「平方剰余の理論における基本定理の新しい証明と拡張」でようやく「他の二つの証明」が世に出されたことになります。
 この論文では平方剰余相互法則の二つの証明が紹介されていて、ガウスはそれらをそれぞれ第5証明、第6証明と呼んでいますが、この呼称は実際に公表された順番通りです。第5証明はいわゆる初等的証明の一例になっていると思われます。第6証明はどこかしら不思議な感じのする証明で、初等的ともいえず、そうかといって何かしら斬新な基本原理に支えられているというふうでもありません。証明の様式を見ると、円周等分方程式と関係がありそうでもあります。
論文の末尾にもうひとつ、「与えられた正整数が、与えられた正素数の平方剰余になるか、平方非剰余になるかを決定するための新しいアルゴリズム」が添えられています。
9年前に約束した証明の公表が今ころになってしまったのは不可解ですが、これについてはガウス自身の弁明が序文に記されています。3次と4次の相互法則の探索と関係があるというのですが、ガウスの言葉をそのまま引いてみたいと思います。

<1805年に3次剰余および4次剰余の理論の研究を始めたとき、これははるかに困難なテーマなのだが、私はかつて平方剰余の理論において陥ったのとほとんど同じ運命に遭遇したのである。もう少し詳しく言うと、この問題を完全に処理し、平方剰余に関する諸定理との不思議な類似が遍在する諸定理は、適切な仕方で追い求めるや否や、帰納的な道筋により難なく見つかった。>

<これに対し、それらの定理のあらゆる面から見て完全な証明に達しようとする試みは、長い間、ことごとくむなしかった。この事態が原動力になって、相異なる多くの方法のうちのどれかしらは、同じ仲間のテーマの吟味に寄与しうるのではないかという希望を抱きつつ、平方剰余に関する既知の証明になお別の証明を付け加えようとして、私は大いに骨を折ったのである。>

このようなガウスの言葉を見ると、数論の場でのガウスの探索は3次剰余と4次剰余の理論に向けられていたことがわかります。具体的に言うと、ガウスは3次と4次の相互法則の存在を確信し、それらの姿を明るみに出すとともに証明をも与えたいと望んでいました。定理の形は帰納的な考察を通じてたやすく見つかったとのことですが、証明がむずかしく、さすがのガウスも行き詰まった模様です。そこで平方剰余相互法則の証明をさまざまに工夫して、それらの中に3次と4次の相互法則の証明にも有効なものが出現することを期待したのでしょう。
 ガウスの言葉を続けると、「この望みは決してはかなくはなかった。そうしてたゆまぬ研究はついに幸福な成功をもって飾られた」とのこと。そうして近々、「研究の成果を公表することができるであろう」というのですが、これはついに実現しませんでした。ただし、ガウスの遺稿の中に4次の相互法則の証明を書いたメモがあり、追随していくと正しい証明になっています。その証明法は円周等分方程式論に基礎を置くように見えるのですが、第6証明の手法の延長線上に配置されています。ガウスは基本方針を貫徹したことになりますが、完成度が低いと思ったのかどうか、公表には至りませんでした。このような消息が諒解されるのもオリジナルならではで、ガウスが自分で書いた一番はじめの論文を読まなければわからないことばかりです。
 というわけですので、ガウスとしては3次もしくは4次の相互法則の証明を完成の域に高め、その後に公表する考えだったと見てようと思います。ではありますが、ガウスはそれに先だって、9年前に約束した平方剰余相互法則の二証明を公表することにしました。その理由もまたガウス自身が語っているのですが、ガウスは「この困難な仕事に着手する前に、再度平方剰余の理論に手をもどし、これ以上なお語るべき事柄を処理して、高等的アリトメチカのこの領域に、いわば別れを告げる決心をした」というのです。長年にわたって親しみを深めてきた平方剰余の理論に別れを告げて、いよいよ高次の冪剰余相互法則の世界に分け入ろうとする際の、緊張に満ちた心情が率直に吐露されています。そんなことが感知されるのもまた古典読解の醍醐味です。

ガウスの数論論文集に寄せて12. 源泉に返る

 ガウスの和は今日の数論のテキストにも必ず見られますし、ガウスの和の数値の算出に続いて、そこから平方剰余相互法則の証明が取りだされる様子も正確に記されています。それならガウスの論文と同じことではありますが、そのような叙述を読んでいつも不審に思うのは、いったいだれがなぜこのような和を考えたのだろうか、という疑問です。それに、数論のテキストの他の記述ともかみあっていないように見えるのも、なんだか変でした。かみあっていないというのはどういうことかというと、ガウスの和の話はひとつの独立したエピソードであり、おもしろそうではあるけれども削除してもさしつかえないかのように見えるということです。
 ガウスの和はだれが考えたのかという疑問については、なにしろガウスの和という名前がついているくらいですから、ガウスなのだろうと思われました。
 天下りにガウスの和を設定し、諸性質を書き出していき、さらに進んで平方剰余相互法則の証明に及ぶというのは、それはそれとしておもしろい話ではありますが、それだけではこの話のそもそもの由来はわかりません。そこに不満が残るためにいつまでも釈然としない気持ちが残るのですが、ガウスのオリジナルの論文を読めばそんなことはなく、ガウス自身が率先して論文の動機を語っているのですからいっさいが明瞭です。1808年の論文「ある種の特異級数の和」は1801年の著作『アリトメチカ研究』の第7章の円周等分方程式論の続きであることもよくわかりますし、何よりも平方剰余相互法則の証明がそもそものはじめからのねらいであったことが飲み込めます。数学がわかるかわからないかのポイントは実はこのあたりにあります。単に論証に追随するだけの学問ではなく、ガウスの数論の場合でしたら、相互法則の理論の存在を確信するというガウスの心情に共感できるか否かが分かれ目になります。大きな心情の枠の中で緻密な論証や大量の計算が行われるのが、ガウスのような人の創造の現場の状況であり、決してその逆ではありません。
 もっとも、言うは易く行うは難しで、そこまで理解するにはどうしても一番はじめの作品を熟読しなければなりませんし、たいへんな時間を要します。それでも源泉に立ち返らなければわからないものはいつまでもわかりませんし、古典研究の意義のまたそこにあるのですが、数学はまったくむずかしい学問です。

ガウスの数論論文集に寄せて11. ガウスの和から平方剰余相互法則へ

 論文を読むと考察の道筋がよくわかるなどというのはあたりまえのことのように思えますが。そんなことをどうしてわざわざ強調したのかといいますと、ガウスは足場を残さないと言われることが多いからです。深い思索の末に成熟した果実のみを表に出して、そこに至るまでの道筋は隠してしまうというほどのことと思いますが、実際にはどうもそうではないのではないかという感慨にしばしば襲われました。『アリトメチカ研究』の序文には数論に向かうきっかけとなった数学的体験を率直に書き留めていますし、本文に移っても、ガウスの和の符合決定はむずかしくてまだできないとか、ガウスの心情はあちこちで吐露されています。そのような言葉はどれも「足場」なのではないでしょうか。
 「ある種の特異級数の和」にもどりますと、ガウスはここでもまた序文を寄せて考察の足跡を顕わにしています。ガウスの和の数値例をいくつか挙げて一般的な状勢を推定した後に、それを『アリトメチカ研究』の段階で証明することはできないことを語り、「当然のことながら,きわめて高い壁に囲まれていると見なければならない」というのです。
ガウスはがウスの和を
W=1+r+r^4+r^9+ ・・・ +r^{(n-1)^2}
という形に提示します。ここでrは方程式x^n-1=0の固有根。すなわち、rはn乗してはじめて1になる根です。nは素数とは限定されず、任意の自然数が想定されているのですが、この点がつまり一般性の度合いの高さが際立っているところです。そうして丹念に考察を積み上げていってガウスの和Wの値を求めるのですが、驚くべきことにガウスは二通りの仕方でこれを遂行します。この「二通りの仕方」というところが重要で、両者を比較することにより、次に挙げる「きわめて美しい定理」が表明されます。

定理
a,b,c, …は相異なる正の奇素数を表すとし,それらの積をnと定める.これらの数のうちm個は4μ+3という形とし,残る数は4μ+1という形とする.このとき,これらの数a,b,c,…のうちn/a,n/b,n/c,…がそれぞれa,b,c,…の非剰余であるものの個数は,mが4μもしくは4μ+1という形なら偶数であり,mが4μ+2もしくは4μ+3という形なら奇数である.

この命題だけをいきなり持ち出されたなら、足場はまったく見えませんし、ガウスの和と関係があるようにも見えません。それに、いったい何のためにこんな命題を出してきたのか、その意味もわかりません。ところがガウスは、ねらいは平方剰余相互法則の証明にあることを一番はじめに表明し、そのためにはガウスの和が求められればよいことを語り、しかも重要なのは和そのものというよりもむしろ和の求め方にあることをも隠さず、そのうえで上記の命題を記述しています。これはすなわち帰納的考察の精神なのではないでしょうか。
 ガウスの歩みにそのまま追随して読み進めていけば、ガウスの思索の流れはさらさらと流れていき、どこにもむずかしいところはありません。しかも、先に進むにつれて興味はますます深まっていくばかりです。それに加えてもうひとこと、読み返すたびに新たな発見があることを付け加えておきたいと思います。
 平方剰余相互法則は上記の「きわめて美しい定理」からたちどころに導かれます。

ガウスの数論論文集に寄せて10. 考察の足場を見せる

 「アリトメチカの一定理の新しい証明」は1808年1月15日にゲッチンゲン王立協会で報告され、同年刊行の「ゲッチンゲン王立協会報告集16」に掲載されましたが、この年の8月24日にはやはりゲッチンゲン王立協会において「ある種の特異級数の和」という論文の概要が報告されています。この論文のテーマもやはり平方剰余相互法則ですが、内容は『アリトメチカ研究』の第7章の円周等分方程式論の続きで、「ガウスの和」と呼ばれる和の符合決定問題が解決されるとともに、そこから平方剰余相互法則の新たな証明が取りだされています。詳細については『ガウスの数論 わたしのガウス』で報告しましたが、注目に値するのはこの論文の刊行年です。1808年8月24日に報告がなされているにもかかわらず、完全な論文の形で出版されたのは1811年になってからのことでした。掲載誌は「ゲッチンゲン王立協会新報告集1」で、前の論文の掲載誌が単に「報告集」となっていたのに対し、今度は「新」の一字が冠されて「新報告集」となっています。ひとつの雑誌のシリーズが終焉し、新たなシリーズが発足したことがわかります。
 掲載誌の変遷過程は次の通りです。

 「ゲッチンゲン王立協会報告集」
"Commentationes Societatis Regiae Scientiarum Gottingensis"
巻1(1779年)から巻16(1808年)まで刊行。

「ゲッチンゲン王立協会新報告集」
"Commentationes Societatis Regiae Scientiarum Gottingensis recentiores"
巻1(1811年)から巻8(1841年)まで刊行。

 それで「ある種の特異級数の和」という論文についてですが、数学上の意義についてはあちこちで何度も言及した通りです。ガウスは「ガウスの和」の数値の確定をめざし、著作『アリトメチカ研究』の段階では大きさ、すなわち和の絶対値は求められたのですが、符合の決定には至りませんでした。ガウスはそこにたいへんな困難を感知したようで、継続して思索を続け、ようやくできたと思ってゲッチンゲン王立協会で報告したのが1808年の夏。ところが完全な形の論文を公表したのは1811年のことでした。この間、3年。掲載誌の「報告集」の終刊から新シリーズの「新報告集」が発足するまでの期間にちょうど対応していますが、論文の中味についてなお吟味を重ねるということもあったことと思われます。
 論文の中味を見ると、最後にガウス自身が「きわめて美しい定理」と呼んでいる命題が表明されそこから平方剰余相互法則が取りだされるのですが、そこに至るまで、ガウスは丹念に予備的考察を続けています。冒頭に具体例をいくつも配列してガウスの和の数値決定を例示しているところなどは特にめざましく、考察の道筋が手に取るようにわかります。

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