Entries

数学における抽象化とは何か (9)具象への回帰を願う

 九州数学史シンポジウムでの講演と大討論会のための準備のつもりで、「リーマンを語る」の連載を一時中断し、「数学の抽象化とは何か」と題してとりとめのないことを書き続けてきましたが、いよいよ明日から研究会が始まりますので、この短期連載もひとまず打ち切らなければなりません。あらましを書くだけにして3回か4回程度で終了する見通しだったのですが、だらだらと続いて今回で9回目です。話は尽きませんが、きりがありません。
 現在は抽象に本質を見る見方が支配していますから、対抗して具象の意義を強調したのですが、人間にたとえると具象と抽象は心と体に対応します。不即不離というか、本来は対立してはならない関係です。具象には深さがあり、学ぶ喜びが伴いますが、和算の特殊算にさらにひとつを付け加えてもマンネリになります。具象が生きるためには抽象の枠組みが有効で、ガロアの代数方程式論からガロア理論を抽出することができたおかげで類体論の理論的枠組みが整いました。岡先生の不定域イデアルの理論から層係数コホモロジーの理論を抽出することができたおかげで解析的連接層の概念が確定し、代数化して代数的連接層の概念が手に入り、代数幾何への応用が可能になりました。抽象には抽象に特有の力強さがあり、議論を精密化する効果があります。
 ガロアが代数方程式論の論文を書いてパリの科学アカデミーに提出したとき、一度目は担当者が紛失したとかで梨のつぶてになりましたが、二度目にはポアソンの所見というのが伝えられています。ガロアはガウスの円周等分方程式論の影響を受けていますから、代数的可解性は根の相互関係によって規定されるというガウスの基本思想を理解していました。それでガロアの論文には方程式の代数的可解性を左右する必要十分条件が「ある種の特定の根の相互関係」の形で記述されています。ポアソンの所見はその条件に対するものですが、ポアソンの見るところ、方程式を解いて根を求めようとしているのに、探索が可能かどうかの判定を根に関する条件の形で記述するのでは議論が巡回してしまうではないか、というのでした。
 ではどうすればよいのかというと、方程式が提示されたとき、眼前に与えられているのはその方程式の係数だけです。そこで可解性の判定条件は係数に関する文言として表明されなければならないというのです。一理はありますが、浅い理解です。ただし、しばしば語られるようにポアソンはガロアを理解しなかったというのは適切ではなく、ガウスを理解しなかったというべきであろうと思います。ガウスを理解するのは実は至難であり、これを理解したのはアーベルとガロアの二人のみでした。ガウスにしてみれば、円周等分方程式の諸根の間に成立する特殊な相互関係に着目することにより、実際に円周等分方程式を代数的に解いてみせたのですから、ポアソンの批判はまったく該当せず、耳に入れば定めし一笑に附したことでしょう。
 ポアソンの批判には一理ありますし、具体的でもありますが、この具象性には魅力がありません。具象のすべてが深いのではなく、退屈な具象もあるということであり、だからこそ抽象の力強さが爽快な気分をもたらしてくれることがあるのではないかと思います。他方、抽象から出発して抽象を抽象化すると空疎になります。これは抽象の弱点ですが、現在の数学に見られる抽象の中にはこの陥穽に落ちているものが非常に多いのではないかという感じがあります。抽象の枠の中で具象が生き生きと生きるのが、数学のみならず学問芸術の理想です。
 はてしがありませんのでこのあたりでやめておきます。最後に結論めいたことを少々。抽象には問題を解決する力はありますが、問題を生む力はありません。これに対し、具象には数学そのものを創造する力があります。具象は難問を創造し、しばしば自分で作り出した困難にぶつかって立往生することがありますが、それ自身がまた創造の契機になります。1930年代の抽象化の始まりのころからすでに、具象への回帰は抽象に課された大きな課題であり続けているのではないかと思います。
 シンポジウムでおもしろいことがありましたらそのつどお伝えします。
スポンサーサイト

数学における抽象化とは何か (8)具象と抽象の分れ

 アーベルによる一番はじめの「不可能の証明」は、ひんぱんに話題にはなるものの証明の中味に立ち入って紹介されることはめったにありません。どうしてそんなふうになってしまうのかというと、アーベル自身の証明は代数方程式論の内部でのみ有効な方法によるもので、ガロアの証明のように抽象への道を開くことがなかったためであろうと思います。
 アーベルは数学という学問に心を寄せ始めた当初から代数方程式論に深い関心を抱いたようで、一番はじめに書いた論文は「不可能の証明」ならぬ「可能の証明」でした。これはこの場限りの造語です。変な言葉ですが、アーベルは5次方程式の根の公式を発見したと思ったのです。すなわち、5次方程式は代数的に解けると思ったのです。それは間違っていたのですが、その後、アーベルは考えの向きを逆転し、根の公式は存在しないという視点に足場を移して「不可能の証明」に成功したのでした。
 それで問題になるのはアーベルの証明法ですが、アーベルはガロアとはまったく異なる道を切り開いて「不可能の証明」の山頂に到達しました。根の公式の存在証明の試みと「不可能の証明」の試みとは正反対のような感じがしますし、めざすところが正反対ですので観念的に見るとそれはそうなのですが、証明の仕方に視線を向けると、アーベルの場合には考察の実体は同じことになります。根の公式の存在を信じてその存在を証明しようとするのは、方程式の係数に五種の代数的演算(加減乗除の四演算に「冪根を作る」という演算を合わせて五つです)を施して形成される代数的な式の中から、提示された方程式をぴったり満たすものを見つけようとする作業にほかなりません。これに対し、「不可能の証明」というのは、そのような式が存在しないことを示す行為です。
 根の公式の存在と「不可能の証明」は、視点は真逆ではありますが、提示された代数方程式の係数を手持ちにして代数式を組み立てようとする点は同じです。「不可能の証明」ということでしたら、アーベルは一般の5次方程式が代数的に解けると仮定した場合、根の形はどのように表示されるだろうかという観点から思索を進めました。代数的に解ける方程式の根は、それはもちろん代数的式で表示されるのですが、何かしら特徴のある形になりそうです。そこでアーベルはその形を確定し、さてその次に、そのような形の代数式は存在しえないことを示したのでした。これがアーベルの「不可能の証明」の姿です。ガロアの証明がまるでヘリコプターで上昇して山頂に降り立ったかのようであるのに対し、アーベルの証明には山肌に沿って登攀路を開いていくようなおもむきがあります。ガロアの証明には抽象が感じられ、アーベルの証明には具象が感じられます。
 今日の数学は抽象化がすみずみまで行き渡っていますから、現在の地点に足場を定めて歴史の流れを振り返ると、ガロアの代数方程式論から今日のガロア理論が抽出されていくプロセスは、1930年代の抽象化の典型例のように見えます。ガロア理論の評価が高いのはそのためであり、反面、アーベルの「不可能の証明」があまり語られないのもまたそのためです。近代以前の古い数学のように見えるのでしょう。
 ところがアーベルの代数方程式論にはガロアにはないものが備わっています。アーベルとガロアの次の世代のドイツの数学者クロネッカーが指摘したことなのですが、「不可能の証明」は代数方程式論の一里塚ではあっても終着点ではなく、さらにその先に未開の曠野が横たわっているのでした。それは「クロネッカーの青春の夢」という言葉に象徴される世界です。ここではこれ以上立ち入って語る余裕はありませんが、クロネッカーは「代数的可解方程式の本性を知りたい」と欲し、ガロアではなくアーベルの思索に沿って歩を進めました。1826年3月、パリへの旅の途次、フライベルクに立ち寄ったアーベルはベルリンのクレルレに宛てて一通の手紙を書きました。その一部分がアーベルの全集に掲載されていますが、アーベルは方程式の係数を有理整数に限定して代数的に解ける5次方程式を考察し、そのような方程式の根を表示する代数式の形はこのようになると宣言して具体的に書き表しました。特に説明もなく、ほんの断片にすぎないメモなのですが、クロネッカーの目を奪い、「アーベル方程式の構成問題」へと展開していきました。これによって代数方程式論と整数論が出会い、それからまた長い歳月を経てヒルベルトと高木先生の類体論に結実しました。これが19世紀のドイツの数論の歴史です。
 アーベルの具象には汎用性はありませんが深さがあり、「不可能の証明」を越えていく力が備わっています。具象は「その人に固有の何物か」ですから一般に難解で、だれもが同じ様式で理解できるというわけにはいきませんが、「その人」の思索に共鳴することができれば「わかった」という揺るぎない実感が得られ、しかもそこには深い喜びが伴います。抽象はだれもが同じ様式で易々と受け入れますが、全般に退屈です。抽象はしばしば難解と見られますが、たいていの場合、難解と退屈が混同されているように思います。
 ガロアの理論は類体論の枠の形成に寄与しましたが、アーベルの思索は類体論の生命になりました。身体のない理論は考えられませんが、心が伴わなければ身体は動きません。どこまでも代数方程式論の領域内で思索したアーベルのほうが、実際には数学の心の生成に寄与しました。身体は具象的な感じがしますが、数学の身体は実は抽象的です。心は抽象的な感じがしますが、数学の心は実は具象的です。類体論の枠が先にできてそこに心が吹き込まれたのではなく、代数方程式論に寄せるアーベルとクロネッカーの思索が先にあって、その後にそれを包み込む枠組が工夫されたというのが歴史の実際の姿です。
 アーベルとクロネッカーの思索はどこまでも具象的であり、その姿は岡先生の不定域イデアルの理論に似通っています。ガロア理論は抽象の度合いが極度に高く、カルタンの層係数コホモロジーの理論に似通っています。
 アーベルとガロアによる二つの代数方程式論は、数学における具象と抽象の分れの相の恰好の例を与えていますが、具象と抽象が分れる前に、両者が融合していた時代がありました。それはガウスの円周等分方程式論のことなのですが、もっと広く見ると、ガウスの数論の世界は具象的でもあり抽象的でもある。変な言い方ではありますが、「具象がぎっしりと詰め込まれた抽象の世界」のような感じがします。具象と抽象の分れは数学にとって幸福な事態とは言えず、渾然として一体となった姿が望ましい。そこで、ガウスの数論こそ、数学という学問がいつも立ち返るべき理想の姿であることを、特に言葉をあらためて強調しておきたいと思います。

数学における抽象化とは何か (7)数学の本質の所在を求めて

 ガロア理論の発祥の地は代数方程式論ですが、今日のガロア理論を代数方程式の理論と見ることはできません。こんなふうにそれ自体としては何の意味もない理論を構築し、具象の世界のあれこれを統制制御しようとする姿勢はヨーロッパの数学に顕著に認められる現象です。これまでのところで、和算の特殊算に対する連立一次方程式論、岡先生の不定域イデアルに対するカルタンとセールの層係数コホモロジーを類例として挙げてみましたが、前者の具象的な諸理論の根底に後者の抽象的な諸理論が横たわっていて、抽象が具体をコントロールしているように見えないでもありません。
 それで、「本質」ということを言うのであれば、数学の本質は抽象にあり、具象を制御する抽象の発見こそが数学の進展であるという見方が可能になりそうです。この視点に立てば「不可能の証明」などは代数方程式論という特定の具象世界に現われたひとつのエピソードにすぎず、それ自体はたいして重要な問題ではなく、ただガロア理論が発見されるための契機として作用したところに数学的意味合いが認められるという評価になります。
 数論からもうひとつの例を求めると、相互法則と類体論が恰好の事例を供給してくれるように思います。歴史の流れを遡行して類体論の起源を探索すると平方剰余相互法則に出会います。ガウスはこの法則を17歳のときに発見し、全部で8通りもの証明に成功したのですが、平方剰余相互法則に続いて高次冪剰余相互法則の探索に向かい、実際に4次剰余相互法則を発見しました。ガウスは証明ももっていたようですが、公表しませんでした。それでガウスが秘匿した証明を明るみに出し、さらに歩を進めて一般の高次冪剰余の探索に向かおうとすることが、ガウスの継承者たちの道標になりました。この流れは楕円関数論とも関連が深いのですが、ヤコビ、ディリクレ、クンマー、クロネッカー、ウェーバー、ヒルベルトというふうにおおよそ100年の数論史を規定することになりました。最後の段階でヒルベルトが類体論のアイデアを提出し、それを高木先生が継承して大きく延長して完成の域に高め、その基盤のうえに一般相互法則が確立されました。
 これはガウスから高木先生にいたる数論史の概要ですが、今日の数論のテキストで大きな位置を占めているのは類体論とその一般化であり、相互法則などは高々練習問題程度の取扱いになっているにすぎません。平方剰余相互法則は若い日のガウスによる偉大な発見だったのですが、現在では初等整数論におけるエピソードです。類体論そのものについてはさまざまな証明法が工夫されたり、一般化が模索されたりしています。ということはつまり平方剰余相互法則などは類体論が発見されるための契機としてのみ意味をもちうるにすぎないということであり、ガロア理論と「不可能の証明」の関係と同じです。
 ではありますが、このあたりの消息をもう少し詰めていきますと、別の側面が目に留まります。多変数関数論の場合、不定域イデアルの理論を層係数コホモロジーの理論に書き換えるだけでは、縦のものを横にするというか、単なる翻案にすぎません。層係数コホモロジーの理論が真に生きるための鍵をにぎるのは「連接性」の概念で、この概念を導いた「有限基底をもつ不定域イデアル」というアイデアへこそ、不定域イデアルの理論の核心なのでした。層係数コホモロジーの理論に生命の息吹を吹き込んだのは不定域イデアルの理論であり、だからこそ、カルタンたちは岡先生の研究を高く評価したのであろうと思います。
 代数方程式論ではどうかというと、ガロア理論の中核は「群」の概念にあるとはよく言われるところです。そこでガロアはどうしてこの概念に着目したのだろうと問うてみると、「代数方程式の代数的可解性を左右するのは何か」という問いに対するガウスの答に逢着します。そもそもこの問いを提出したのはガウス自身なのですが、ガウスはみずから「それは根の相互関係である」と応じ、実際にこのアイデアに基づいて円周等分方程式を代数的に解いてみせました。「根の相互関係」というところを抽象化すると、方程式のガロア群という概念が得られます。詳しく述べるときりがありませんが、ここではひとつだけ、ガウスが円周等分方程式を代数的に解いていったプロセスは、ガロア理論を適用して円周等分方程式を解くのとそっくりそのまま同じであることを指摘しておきたいと思います。
 ガウスに先立ってラグランジュがいて、方程式の代数的可解性をめぐって省察を加えたことがあります。その当時は3次と4次の方程式の代数的解法はいくつも知られていたのですが、ラグランジュは根の置換に着目することにより、多種多様な解法のよってきたる所以を統一的に解釈してみせました。それは確かにめざましい情景ですし、20世紀のいわゆる抽象化の萌芽とさえ見えますが、単に既製の解法を説明してみせただけではガロア理論は生まれません。方程式のガロア群への道を開いたのは、「代数的可解性は根の相互関係で定まる」というガウスの認識です。どこからともなく抽象が降ってきたのではなく、先行する具象的世界の中に抽象をリードする思索がひそんでいたことに、特に注意を喚起しておきたいと思います。具象を制御する抽象の中に本質を見るのではなく、抽象化を可能ならしめる具象的思索こそ、真に本質の名に値するのではないでしょうか。この論点をここで提起しておきたいと思います。
 類体論の論理的な構造に着目するとガロア理論にそっくりです。というよりもむしろ類体論とは数論に現われたガロア理論と諒解してもよさそうです。ですが、ここでもまた「類体論に生命を与えるものは何か」という問いに出会います。層係数コホモロジーの理論に生命をあらしめた「有限基底をもつ不定域イデアル」や、ガロア理論に生命を吹き込んだ「根の相互関係が代数的可解性を左右する」という認識に相当するものは、類体論にも確かに認められます。それは代数方程式論におけるアーベルによるもうひとつの貢献、すなわち「アーベル方程式」の概念です。
 ここではいわゆる古典的類体論、すなわち高木先生が発見した類体論のことを考えているのですが、この類体論は単に数体に適用されたガロア理論というだけに留まりません。何しろどんな相対アーベル数体も類体として認識することができるということがこの理論の基本定理になっていて、高木先生がこの事実を発見したことが類体論成立の根底になったというくらいですから、類体論と相対アーベル数体論は切り離すことはできません。それならアーベル数体という概念はどこから発生したのかといえば、出所は代数方程式論で、アーベルのアーベル方程式論がアーベル数体という概念の根源です。
 ここまで話を進めてきて、ようやくアーベル方程式を語ることのできる場面に行き当たりました。

数学における抽象化とは何か (6)ガロア理論とみみずの熱冷まし

 古典の世界に沈潜し始めてから今日にいたるまで、おおよそ30年ほどの歳月が流れましたが、結局のところどのような考えになったのかといいますと、ヨーロッパ近代の数学にはオイラーとガウスという二つの源泉があると確信するようになりました。オイラーもガウスもだれひとりとして知らない者のない大数学者ですが、源泉が二つあるとわざわざ強調しようとしたところに、実は真意があります。つまり、数学の姿の移り変わりを語る際に、「進歩」という観念に視点を置くのを避けて、数学はオイラーの段階からガウスの段階へと進歩したという類いの文言を退けたいと思ったのです。
 数学には確かに進歩するという側面があります。オイラーが試みてできなかったことをガウスが手がけて成功したりした事例はいくつも数えられると思いますし、17世紀にフェルマが書き残した命題が20世紀の終りがけになって証明されたことなどを観察すると、進歩という言葉がぴったりあてはまりそうに思います。数学は確かに進歩しますが、それは数学の技術的な側面にのみ該当する見方なのではないでしょうか。従来はだれの目にも触れなかった新事実の発見とか、だれも関心を寄せなかった数学的情景を自覚して表明する人が現れるとか、単純に進歩という観念のみもってするのでは律しきれない状況も、数学にはしばしば観察されます。ある時期には多くの人の関心を引いて盛んに究明されながら、ふと気づくと顧みる人もないままに打ち捨てられているようなテーマもあります。そのような面に着目すると、数学の進歩という観念はなんだか色あせて、むしろ「変容」という言葉のほうがよりよく真相を言い当てているのではないかと思われます。
 技術は進歩するが、歴史は進歩もせず後退もしない。歴史の相は変容するが、技術には変容はない。古典を耽読するうちに、次第にそんなふうに思うようになりました。
 あまり観念的な話ばかりになってもつまりませんので、アーベルとガロアによる二つの代数方程式論について考えてみたいと思います。当面の関心は数学における具象と抽象というところにありますので、アーベルの具象とガロアの抽象を対比させてみたいのです。
 アーベルもガロアもガウスの影響のもとで独自の数学的世界を描き出していったのですが、代数方程式論の領域ではアーベルの理論は二つの焦点をもっています。ひとつは「不可能の証明」、もうひとつは「アーベル方程式」の概念の発見です。どちらもガウスの円周等分方程式論から取り出されました。「不可能の証明」というのはつまり代数方程式の次数が4を越えると「根の公式」が存在しないこと、すなわち5次以上の一般代数方程式を代数的に解くのは不可能であることの証明のことですが、この証明に最初に成功したのはアーベルですので、通常これを「アーベルの定理」と呼んでいます。ですが、現在の大学でアーベルによる一番はじめの証明が紹介されることはまずありません。
 アーベル自身の証明ではないとしても「不可能の証明」は代数の講義で取り上げられることがありますが、それはいわゆる「ガロア理論」の枠組みの中での出来事です。
 アーベルに少し遅れてガロアが出て、アーベルとは別の原理に基づいて「不可能の証明」を遂行しました。ガロアの証明は今日のガロア理論の原型で、ガロア理論の中核は「ガロア対応」を記述するところにありますが、これを代数方程式論に適用すると、「方程式のガロア群が可解群であること」という、代数的に解けるための必要十分条件が手に入ります。そこで一般5次方程式のガロア群を観察すると、それは5次の対称群であり、可解群ではありません。これがガロアによる「不可能の証明」です。なんだか雲をつかむような証明ですが、そんな印象はどこから発生するのだろうと考えてみますと、今日のガロア理論の抽象性に由来するのではないかと思います。
 ガロア対応というのは体の拡大の様相を群の言葉でコントロールしようとする理論ですが、それ自体は代数方程式論とは何の関係もありません。ただ単に体と群の間にそんな対応関係が認められるというだけのことであり、代数方程式論ばかりではなく、そこには何かしら具象性を感じさせる属性は何もありません。すなわち、意味もなく空中に浮かんでいるだけの抽象的な存在物なのですが、その代りさまざまな具体的な数学的現象にあてはまります。代数方程式論はそのひとつの事例にすぎません。この状況は和算の特殊算と連立一次方程式の関係によく似ています。代数方程式論は特殊算のひとつで、鶴亀算みたいなもの。今日のガロア理論に相当するのは連立一次方程式の解法理論です。
 ガロアによる「不可能の証明」の構造がすでにこのような抽象性を内包するものだったようで、ガロア以降、デデキントやカミーユ・ジョルダンの手を経て今日のガロア理論が形成されました。ガロア自身は鶴亀算の攻略に向かったのでしょうが、その解き方の実質はつまり連立一次方程式の解法理論だったということなのでしょう。ガロアの論文を腑分けすれば、そこからガロア対応が抽出されますが、これを実際に遂行したのはデデキントとカミーユ・ジョルダンでした。
 ガロアの論文から今日のガロア理論にいたるまでのプロセスは、20世紀のはじめに始まる数学の抽象化のプロセスの先駆というか、恰好のモデルです。みみずを煎じて飲むと熱冷ましの薬になると昔から言われてきましたが、これは本当のようで、実際に効いたという話を聞いたことがあります。それならどうして効くのかといえば、何かしら熱冷ましに効用を示す物質が含まれているからにちがいないと考えるのが近代というもので、なお一歩を進めて、そんな物質を抽出することができれば、もはやみみずそのものは不要になる道理です。この抽出過程を指して抽象化と呼んでいるのではないか。抽象化とはみみずの熱冷ましのことなのではないか。このごろそんなふうに考えるようになりました。

数学における抽象化とは何か (5)岡先生の論文集から「昨日の世界」へ

 多変数関数論の勉強では、はじめカルタンセミナーに基礎を置くモダンな感じのする一群のテキストに取り組んで大いに苦しめられましたが、その後に岡先生の論文集に親しむことにより数学という学問の印象が一変しました。どうも二種類の数学があるようだと思い始めたのですが、それと同時に、まさかそんなはずはあるまいという声もまたどこかから聞こえてきました。カルタンセミナーの記録はカルタン自身の手で岡先生のもとに送られてきましたから、岡先生は早くから目にしていたのですが、よい感じをもたなかったようで、「これは私の理論ではない」などというふうで御機嫌が悪かったという話が伝えられています。抽象化への傾斜が止らない数学の現状にもきびしい批判の目を向けていて、第10番目の論文の冒頭でわざわざこの件を持ち出して、「まるで冬の景色のようだ」などと書き記しています。どちらも実に興味の深いエピソードですが、こんなことを公言してはばからないのは岡先生くらいのものでしたし、それに、岡先生の発言が正面から受け止められて議論の対象になるということもありませんでした。
 岡先生の発言には魅力があり、心を惹かれたのですが、岡先生の小さな論文集一冊をもって抽象数学の全体と対峙するのも勇気のいることです。それでも岡先生と同じ考えの人もどこかにいるに違いないという思いもありました。
 高木貞治先生は1930年代によく「過渡期の数学」ということを言っていました。数学の抽象化が眼前でたいへんな勢いで進行している。現在は過渡期であるという認識を語り、抽象に向かう必然性に理解を示しつつ、同時に数学の将来に寄せてそこはかとない不安を口にするという主旨の一系のエッセイを書き続けました。昭和25年の「科学」(岩波書店)には「現代数学の抽象的性格について」というエッセイが掲載されていますが、そこには、

〈新思潮は「決河の勢」をもってまず代数学を征服した。ついで位相学を再建し、線形作用素の理論を統一し、確率論に数学的なる基礎を与えるという勢いを示し、数学の全'曠野を風靡してその面貌を一変せしめるに至った〉

などと書かれています。
 高木先生はよほど思うところがあったようで、数学の抽象化をめぐって盛んに発言を繰り返したのですが、不思議なことに格別の反応はありませんでした。ということはつまり高木先生の問題提起にもかかわらず論議の対象にはついにならなかったということですが、おおまかに見ると高木先生よりも前もしくは少し後くらいの世代の数学者たちは、数学の抽象化を快く受け止めてはいなかったような印象があります。高木先生よりもずっと若い世代になりますと、数学を学び始めた当初から数学はすでに抽象的になっているのですから、それをそのまま受け止めるのが数学を学ぶということになる道理です。それでやはり抽象化が問題にされることはありませんでした。
 ところが、こんな趨勢の中にあって岡先生は例外中の例外で、高木先生の心情に共鳴して抽象化の問題を正面から受け止めたほとんど唯一の人でした(「ほとんど唯一」と言ったのはほかにもいるかもしれないからですが、具体的には知りません)。高木先生の講演記録「過渡期の数学」が刊行されたのは昭和10年ですが、岡先生はすぐに入手して読んでいます。この問題に早くから敏感に反応した様子がうかがえるのですが、後年、公に発言する機会を得たときに岡先生が表明したのは、数学の抽象化を冬景色になぞらえるという、きわめて根源的な批判だったのでした。ですが、無視されたというか、敬遠されたというか、抽象化の問題はまたしても盛り上がりを見せませんでした。
 高木先生が提起して岡先生が特異な印象のある所見を表明したのが抽象化の問題ですが、その情景を心にしつつ、岡先生の論文集とカルタンセミナーに触発されて、次第に古典の世界に心が誘われるようになりました。数学は昔から抽象的だったのではなく、20世紀のはじめ、30年代あたりから顕著になってきたのですが、それならそれ以前の数学は必ずしも抽象的ではなかったのではないかと思われました。実際にはデデキントの実数論とか、カントールの集合論とか、クラインのエルランゲン目録などに象徴されるように抽象への道を示唆する徴候はここかしこに現われていたのですが、基調は具象でした。シュテファン・ツヴァイクのいう「昨日の世界」や「人類の星の時間」が回想されて、そこには岡先生のような数学者がいて、後年の抽象化における翻案の対象になったのではないかと思われました。岡先生の論文集がなければ解析的連接層の理論はできませんでしたが、それと同様に、抽象化を支えた具象が存在したのではないかと思われたのでした。
 それで解読の計画を立て、ガウスの数論から始めて、アーベル、ヤコビ、ディリクレ、アイゼンシュタイン、クロネッカー、ディリクレ、エルミート、ヒルベルト等々、10年ほど古典に沈潜する時代が続きました。ガウスに教えられてオイラーの世界にも親しみました。これがつまりぼくにとっての数学史研究だったのですが、そうしたらどうなったかといいますと、印象をひとことで言い表しますと、「岡先生のような人がたくさんいる」という確信に到達しました。19世紀の数学を創造した数学者たちはみな岡先生のようで、彼らの論文や著作を読んで受ける印象は岡先生の論文集を読んだときに受けた印象と寸分違わず同じでした。実に心強いことで、大いに励まされました。
 岡先生の論文集に誘われて「昨日の世界」に踏み込んでいくと、そこには「人類の星の時間」が力強く流れていました。そんな印象を受けました。

数学における抽象化とは何か (4)山の登り方にたとえると

 抽象化された数学を学んで受ける印象は、舗装された道路をバスで山頂に登る感じに似ているのではないかと思います。群馬県の赤城山も麓の前橋あたりから山頂まで舗装された道ができていて、定期的にバスが運行していますので簡単に登れます。バスに乗って山頂に向かうのも山登りは山登りですが、この山登りには抽象性を感じます。その抽象の感覚はどこから来るのかと考えてみますと、山登りの様式がだれにとっても同じという、様式の普遍性に由来するのではないかと思います。「だれにとっても同じ」で「だれもが容易になしうる」というのですから、現に今、自分が登っているのでありながら、別に自分でなくても同じなのですから、自分はだれかの代理人のようなものであり、「登っているのは自分ではない」と、ふと思うことがあるかもしれません。だれかの代理人といっても、その「だれか」というのは実在する特定の人物ではなく、抽象的な「山に登る人」が考えられていることになります。
 この感覚は今日の数学を学ぶ際に体験する感覚とよく似ています。代数のテキストを読んでガロアの理論を勉強するという場合、テキストに書かれている通りに歩いていけば最後に基本定理に到達します。別にむずかしいことはなく、簡単な論理が重ねられているだけですのですらすらと進みます。舗装された道をバスで登るのと同じことで、名所旧跡をたどる観光旅行のようなものでしょうか。連立一次方程式の解き方さえ押さえておけば、和算のどんな特殊算も易々と解けてしまう感覚にも通じますし、カルタンの二つの定理AとBさえ諒解すれば、あれこれの命題がたちどころに導出される感覚にも通じます。爽快な気分が味わえて悪くはないのですが、深遠な感銘を受けるというのとは違います。きれいな景色を見れば悪い感じはしませんが、そのときの感じは心を打たれるというのとはだいぶ違います。なぜかというと、これらの体験は「自分だけの体験」ではないからです。
 バス旅行と数学の勉強が違うところといえば、バスの旅がどこまでも快適なのに対し、数学の場合にはなかなか忍耐が続かず、ついつい途中で投げ出してしまいがちになるところくらいです。
 バス旅行は快適ではありますが、ふと疑問がわくこともあります。それは、どうしてここに道があるのだろうという素朴な疑問です。一番先に登攀した人がいなければ舗装道路を作ることはできないのではないか。では、だれが最初にこの山に登ろうと思い立ったのでしょうか。その人はどのようにして登攀路を開いたのでしょうか。山登りを思い立つのも道を開くのも「その人ひとりだけの体験」ですし、成功すれば感銘は深いであろうと想像されますが、それもまたどこまでも「その人だけの感銘」であり、そこには抽象性に特有の普遍性は見られません。「発見の喜び」は個人的な体験の中にのみ宿っています。
 アンリ・カルタンの次の世代の人にセールという数学者がいます。もともと位相幾何の人でしたが、1950年代の始めカルタンが主宰するセミナーに参加して中心になって活躍しました。カルタンのセミナーでは毎年、解明するべきテーマを決めて丸々一年をかけて取り組むのですが、ある年(確か1951年だったと思います)のテーマは岡先生の第7論文であり、またある年(確か1953年だったような)のテーマは岡先生の第8論文でした。第7論文の解明を通じて不定域イデアルの理論が層係数コホモロジーの理論に翻案され、第8論文の解明を通じて、晩年の岡先生がめざした内分岐領域の理論は解析幾何学へと変容しました。それ以来、多変数関数論は関数の理論というよりもなんだか一種の幾何学のような感じになりました。
 一年にわたるセミナーが終了すると報告集が刊行されるのですが、多変数関数論をテーマにした二年分の報告集はその後のさまざまなテキストの基礎になりました。当初はそれらを入手して取り組んだのですが、後日、というのは大学院に進んでからのことですが、岡先生の論文集を読みました。カルタンセミナーも岡先生の論文集もともに多変数関数論なのですし、同じ名前の二つの理論があるとは思いませんでしたから、岡先生の論文集には、それまでに勉強してきたのと同じ理論が少々別の言葉で書かれているのだろうという程度に考えていました。カルタンセミナーの形成過程をたどりつつ、源泉をのぞいてみたいというほどの気持ちでした。
 ところが実際に読み始めると、第一番目の論文の序文からしてすでに様子が違い、それまでに親しんできたテキストとは全然別の空気が充満していました。知的もしくは論理的に見れば別々のはずはないのですが、読み進めていくときに受ける感じがまったく異質で、同じ数学の理論とはとても思えませんでした。そのときの印象は実に鮮烈で、数学という学問のイメージが根底から覆されるような思いでした。
 根底から覆されると困ったのかというと、実はそうではなく、それどころか心からうれしく思いました。というのは、それまでに重ねてきた数学の勉強はどうもおもしろくなく、こんなはずはないと思いながら無理に無理を重ねて勉強を続けてきたのですが、さっぱり身につきませんでした。ブルバキの数学原論にも興味がもてず、カルタンセミナーに基礎を置く多変数関数論のテキストにも感動がなく、ファン・デア・ヴェルデンの『現代代数学』でガロア理論などを学んでも、これといった感銘はありませんでした。読めばすらすらと先に進んでいくのですが、心に掛かるものがないというか、何事かがわかったという喜びはついに得られませんでした。
 ところが岡先生の論文集は全然別で、第一論文の冒頭の一行からしてすでにただならぬ気配に満たされていました。不思議なことがあるものだ。あれも数学、これも数学。同じであって同じではない。この奇妙な印象はどこからわいてくるのだろうといぶかしく思ったものですが、岡先生の論文は非常によくわかりました。わかったというのはどのようなことを指すのかというと、岡先生の論文には岡先生の思索の跡が丹念に描かれていますから、その道筋にそのまま沿ってアナログ式にたどっていって、岡先生の思索に共鳴することができたように思ったというほどのことです。このようなわかり方はそれまでになかったことで、これもまた数学かと思い、まったく新しい数学を発見したかのような喜びがありました。
 岡先生の論文集は難解と言われていて、なんとなく敬遠されているような感じで、実際に読まれることはまれになっていたのではないかと思います。岡先生は研究がまとまると数学の学会で講演もしましたし、論文にまとめて公表する試みも継続して行いました。第一論文(上空移行の原理の発見)、第二論文(正則領域におけるクザンの第一問題の解決)、第三論文(「岡の原理」の表明)と続き、第六番目の論文では二個の複素変数の空間内において「ハルトークスの逆問題」を解決するところにまで到達しました。
 日本ではまったく反響がありませんでしたが、ヨーロッパには、ドイツのベンケとパリのアンリ・カルタンのように、少数ではありますが早くから岡先生の論文を注視する人たちがいました。彼らは岡先生の論文を研究したのですが、そこから何が生まれたのかというと、カルタンセミナーに見られるような高い抽象性を備えた数学でした。これを要するに、和算の特殊算を研究して、そこから連立一次方程式の解法理論を抽出するという感じでしょうか。

数学における抽象化とは何か (3)多変数関数論からの例 岡の理論とカルタンの理論

 鶴亀算と連立一次方程式の話の次に、少々唐突な感じがしないでもありませんが、多変数関数論に例を求めて数学の具象と抽象について語ってみたいと思います。
 今日、ぼくらが多変数関数論と呼んでいる理論の骨格はおおよそ1950年代に形が現われたのですが、岡潔先生とアンリ・カルタンの名を冠して「岡・カルタンの理論」と呼ばれることがあります。この理論の形成過程を詳しく語ろうとするとたいへんなことになりますが、ぼく自身の体験に沿ってあらましを回想してみたいと思います。岡の理論の具象性とカルタンの理論の抽象性を対比させてみたいのです。
 多変数関数論の勉強を始めたころにはすでに「岡・カルタンの理論」は成立していて、何種類かの教科書も現われていました。日本にも一松信先生の著作がありました。それで、そんな教科書を集めて勉強したのですが、それらのテキストで展開されている理論の基礎になっているのは「層」と「コホモロジー」の理論で、それらを合わせると「層に係数をもつコホモロジー」の理論ができます。層の中でも「連接的」と言われる層が重要な位置を占め、さらに形容句を附して「解析的連接層」というものを考えると、カルタンの名を冠する二つの定理が表明されて、長い証明が遂行されます。それらの二定理のひとつは「カルタンの定理A」と呼ばれ、もうひとつは「カルタンの定理B」と呼ばれています。
 多変数関数論の勉強という名のもとで、おおよそこんなことを理解しようとして苦心を払ったのですが、何のことかわからない定義が次々と出現するのですから大いに困惑しました。ときおり「解析的」という言葉に出会いますので、何となく解析関数論のような感じがするというだけのことで、この理論のどこをどう見れば関数論のように見えるのか、さっぱり理解できませんでした。
 やみくもに山を登るとともかく頂上に到達し、そこには「カルタンの二つの定理」がありました。さてそれから、「カルタンの二定理」の高みから下界を広やかに見下ろすと、従来から多変数関数論の基本問題とされていた諸問題、すなわち岡先生が苦心して解決したクザンの第一問題、クザンの第二問題にまつわる岡の原理、ポアンカレの問題等々がたちまち解決されてしまうのでした。それらはみな「カルタンの二定理」から派生する一系の命題にほかなりません。
 層もコホモロジーもそれ自体には何の意味もなく層係数コホモロジーの理論というのは諸概念が組み合わされた機械的装置にすぎませんが、ひとたび構築されて勢いよく動き始めると、あれこれの諸問題がみな解決されてしまいます。岡先生は正則領域でクザンの第一問題を解決するために「上空移行の原理」という卓抜なアイデアを提案しましたし、「岡の原理」には、解析性の根底に横たわる連続性原理に寄せる深遠な洞察が見られました。それらはさながら和算における個々の特殊算に特有のアイデアのようで、岡先生はそんなふうにして次々と困難を克服していったのですが、こんな様子を見るにつけても岡先生の理論はまるで和算のようだという感慨に襲われます。
 岡先生の数学研究には歩を進めるごとに発見があり、発見に伴う「鋭い喜び」があります。カルタンの理論は透明度が高くて爽快ですが、学ぶ喜びはありません。岡先生の理論は困難の所在が明快で、どのように克服されたのかがよくわかりますので、岡先生の心情との共鳴が起り、岡先生とともに発見の喜びを感受することができます。カルタンの理論は精密機械のようなもので、それ自体はカルタンという人物とは無関係に存在します。カルタンの理論を学ぶのは機械の操作方法を学ぶということですから、熟練度が高まると自由に操ることができるようになって快適ですが、感銘をうけるとか、心を揺さぶられるということとは無縁です。
 岡先生の理論は岡先生の心情の動きにアナログ式に追随していかなければ「わかった」という感じがしませんから、その意味において非常に個性的な学問です。論理を越えた世界に接触していますので、だれもが容易に理解するというわけにはいかず、わかる人にはわかってもわからない人にはわからないということが起りえます。カルタンの理論は簡単な論理の連なりですから難解ということはありえず、だれでもやすやすと受け入れることができます。もっとも論理の鎖が非常に長いものですから、途中で退屈して放り出してしまうことはあるかもしれません。車の運転を習ったりコンピュータの使い方に習熟するという感じでしょうか。理解の仕方も一様で、人によって受け入れ方が異なるなどということはありません。やさしい学問なのですが、その代りどこまで進んでいっても岡先生のいう「発見の喜び」には出会いません。
 岡先生の理論とカルタンの理論を比較するとおおよそこんな感じになりますが、もうひとつ、重大な論点があります。それは、「連接性」の概念に関することです。
 岡先生は7番目の論文で「不定域イデアル」という概念を提示したのですが、カルタンの目にはこれは「層」の概念と映じました。それで、これはよく言われることですが、カルタンは岡先生の「不定域イデアル」の理論を「層係数コホモロジーの理論」と本質的に同じものと見たというのですが、「層係数コホモロジーの理論」という精密機械を組み立ててもそれだけは機械は動きません。機械が作動するには燃料が必要ですが、「層係数コホモロジーの理論」を動かすのに必要な燃料とは何かというと、それは「連接性」という概念であろうと思います。連接的な層、縮めて連接層という概念装置を設定するからこそ、コホモロジーの理論も作動するのですし、なおいっそうの代数化も可能になって、「解析的な連接層」にならって「代数的な連接層」の概念を提示することも可能になります。これで多変数関数論ならぬ「解析的な幾何学」から「代数的な幾何学」への橋が架かります。
 それなら、そんな連接性の概念はどこから来たのかというと、出所は岡先生の7番目の論文です。岡先生の多変数関数論には当初から「上空移行の原理」というアイデアがあり、岡先生はこれを内分岐領域の場にまで広げたいと願っていたのですが、そのために岡先生はいくつかの基本的な不定域イデアルを提示して、それらが「有限基底」をもつことを証明しようとしました。しかも実際に成功し、その土台の上に8番目の論文において内分岐領域において上空移行の原理を確立することができました。これもまた「鋭い喜び」の伴う数学的発見です。
 岡先生には明確な目標があり、そのためにはどうすればよいのかという思索を通じて、「二三の不定域イデアルが有限基底をもつこと」を示せばよいのだという結論に達しました。ここで認識された「有限基底をもつ不定域イデアル」という観念を層の理論に移すと、連接層の概念が手に入ります。岡先生がめざした地点を定義に変えて新しい概念が獲得されたということになります。
 不定域イデアルのままでは代数幾何への応用の道は開かれなかったと思いますが、他方、層係数コホモロジーの理論をどれほど精密に展開しても、決して連接性の概念は入手できなかったろうと思います。これを要するに、具象の追究は深さを誘い、抽象の追究は広がりを可能にするということでしょうか。

数学における抽象化とは何か (2)鶴亀算と連立一次方程式

 和算には特殊算と呼ばれる一系の問題があります。ざっと振り返ると、鶴亀算、旅人算(出会い算と追いかけ算)、和差算、過不足算、年齢算、集合算、方陣算などがあるそうですが、自分で和算書を渉猟して確認したわけではありませんので確信をもって言明することはできません。昔の小学校ではしばしばお目にかかり、そんな問題ばかりを集めた問題集を見たこともあります。全体に難問が多く、現在の小学校の算数では教えないという話を聞いたことがありますが、今でも私立中学の入試問題には頻出なのではないでしょうか。
 鶴亀算では、「すべての亀がいっせいに立ち上がったとせよ」などという状況を想定すると解決しますが、他の特殊算についても同様で、それぞれの特殊算に固有のおもしろいアイデアがあります。個々の具象性に接しておもしろさを感受するというか、おもしろい問題をおもしろく解くところに和算に特有の楽しさがあり、解決の鍵をにぎるアイデアを思いついたりすると、だれしも「発見の喜び」に似たうれしさに襲われるのではないでしょうか。
 こんなことを思いながら和算の世界の様相を想像すると、和算家たちは次々とおもしろい問題を提案し、新しいアイデアを出し合って解くことに喜びをみいだしていたのではないかという感じがします。特殊算に限ったことではありませんが、各地の神社に奉納されている算額などにも、このような趣味を追い求める心が現われているように思います。一昨年の秋、福岡市の筥崎宮の境内に掲げられている算額を見たことがあります。「数術五條」というタイトルが附され、幾何の問題が5題、並んでいるのですが、問題文の上部にはきれいに彩色された絵が描かれています。どれもなかなかの難問ですが、問題そのものが実におもしろく、図もきれいです。
 こんな和算の諸問題を別の方面から観察すると、洋算には普通に存在して、和算には見かけないものがあります。それは一般理論です。それと、個々の特殊算は確かにおもしろいとしても、非常に多くの特殊算が蓄積されたうえにさらにもう一題を提案するということになりますと、屋上に屋を架すというか、さすがに飽和状態になって、マンネリに陥るきらいがあるのではないかという気もします。
 洋算に目を転じると、洋算には一般理論があり、洋算の立場から見ると、和算の特殊算はどれも連立一次方程式の解法理論の具体的な適用例にすぎません。連立一次方程式の解法というと線形代数の一部分ですが、日本の教育課程では中学で教わる数学ではじめてお目にかかるのではないかと思います。小学校であれほど悩まされた難問が、求めたい数値をひとまずxやyなどの文字に置き換えて方程式を立て、それから加減乗除の演算を形式的にあてはめていくとxやyの数値がたちまち出てきます。まるで魔法のようで、どうしてすらすらと解けてしまったのだろうと、狐につままれたような感慨に襲われるのではないでしょうか。和算の特殊算を和算のアイデアで解くのと様相は異なりますが、これはこれで心を打たれる出来事です。
 連立一次方程式というのはいくつかの文字と数字が組み合わされて作られた一次式のシステムであり、そこに見られる文字そのものには何の意味もありません。そんな方程式系の解法理論というのはつまり式変形のアルゴリズムにほかならず、そこには「何のために」という目的はありません。意味も目的もなく、抽象性のみが充満しているのですが、だからこそかえって普遍性に似た属性が立ち現われて、たとえば和算の特殊算のどれにも適用することができます。小学校の算数で和算の難問にさんざん悩まれた後に中学の代数に接すると、かつての難解さがたちまち氷解する光景を目の当たりにして、さながら一陣の涼風がさわやかに吹き抜けたかのようなすがすがしい印象を受けるのではないでしょうか。
 抽象こそが具象の本質であるかのようでもありますし、実際にそんな批評を見たこともありますが、これは洋算の立場から見たときの光景です。洋算の視点から数学教育を論じれば、鶴亀算のような個別の難問をあまり教えるのは好ましいことではなく、なるべく早くから連立一次方程式の解法を教えるべきだという意見になりそうです。
 連立一次方程式の解法理論の特質をもう少し考えてみたいのですが、これを学ぶのに何かしら特別のアイデアなどは必要なく、ただどこまでも知的もしくは論理的に一歩一歩進んでいくだけで、必ず終着点に達します。鶴亀算の場合のように「亀がいっせいに立ち上がったとしてみよう」などという奇抜なアイデアは出る幕がありません。この学習の道筋にはそれ自体に普遍性があり、だれもが同じ道を歩み、同じレベルの理解に到達することになります。アルゴリズムを受け入れるだけのことですからむずかしいということはなく、人によって理解の仕方が異なるということもありえません。数学はだれでも理解できるはずだとか、数学は答がひとつだ等々の評言がよくあてはまります。
 連立一次方程式の解法理論はだれもが容易に理解できるはずですし、実際にその通りであろうとぼくも思いますが、ここにひとつ大きな問題があります。それは、この理論には「発見の喜び」が欠如しているという一事です。知的もしくは論理的に筋道を追うのはたやすいとしても、だからといって別段おもしろいわけではありませんし、むしろきわめて退屈です。そのためかどうか、今日の大学でも数学教育は非常に効率が悪く、連立一次方程式の解法理論を包含する線形代数など、丸一年をかけて教わるのですが、歩どまりが悪くてなかなか身につきません。どこまでも倦まずに歩いていけば必ずゴールに着くのですが、あまりにも道筋が平坦なうえ、景色も単色で変化にとぼしいため、歩くのが飽きてしまうのではないかと思います。和算の特殊算が鎧袖一触、たちまち解けてしまう光景の中にはカタルシスがありますが、それは応用例の断片にすぎません。
 和算には具象性の喜びがありますが、洋算にはありません。洋算には抽象性に起因する知的な透明感がありますが、これは和算にはありません。それなら数学とはいったい何を思索し、何を研究する学問なのでしょうか。

数学における抽象化とは何か (1)日本の近代数学の二源泉

 故国の友ホルンボエに宛てたアーベルのパリ便りを読んでいる途中ですが、今月14日から三日間の日程で九州大学において「九州数学史シンポジウム」が開催されますので、アーベルの手紙を読むのをひと休みして、しばらく、といっても5回か6回程度のことと思いますが、数学の抽象化ということについて考察してみたいと思います。今度のシンポジウムでは初日と二日目を通じて10件の講演が予定されていますが、三日目の最終日、すなわち2月16日には「大討論会」が企画されています。設定されているテーマは二つあり、ひとつは「日本の数学と西洋の数学」というのですが、もうひとつは「数学における抽象化とは何か」です。この二つのテーマは一見すると無関係のようですが、実は密接につながっています。
 昨年は高木先生の評伝の執筆に打ち込んで、ほとんど丸一年を費やすことになりましたが、書き終えた時点で振り返ると、新たな課題が三つほど浮上してきたような感慨に襲われました。ひとつは明治初期の日本におけるヨーロッパ近代の数学の受容のプロセスを解明することです。これは基本的な課題ですのでこれまでにいろいろな研究が重ねられてきていると思いますが、高木先生の評伝執筆を通じて痛感したのは、日本の洋算、すなわち日本近代の土地に移されたヨーロッパ近代の数学には「和臭」があるのではないかということでした。和臭というのはあまりよい言葉ではありませんが、「日本の匂い」と言い換えれば少々きれいな感じになります。
 岡潔先生はフランス留学を終えて帰国し、郷里の和歌山県紀見村の故郷にもどろうとして南海高野線の天見駅で下車して岡家のある紀見峠の頂上に向けて歩き始めました。駅に降りると木の葉の匂いが鼻を打ち、そのとき岡先生は日本にもどったと強い感情に襲われたということです。フランスの木の葉には匂いがないというのですが、岡先生の言葉に見られる「日本の木の葉の匂い」は日本近代の数学の受容過程に当初から組み込まれていたのではないかというのが、高木先生の評伝の執筆を通じて得られた仮説です。あるいはすでに同じことを主張していた人もあるかもしれませんが、ともかくそんなふうに思いました。
 漠然とそんなふうに思ったというのではなく、具体的な諸事実を観察してこのような印象を受けて、ああそうだったのかとはじめて合点のいくような感じがしました。明治初期の日本でヨーロッパ近代の数学を受け入れた場所として考えられるのは、東京にただひとつだけ存在した大学でした。大学の名前もやや複雑に変遷しましたので、精密に記述するとめんどうなことになりますが、まず「東京大学」が成立し、それから「帝国大学」になりました。高木先生は帝国大学に入学したのですが、卒業の前に日清戦争があり、戦後、京都にもうひとつの帝国大学ができることになりましたので、地名を冠して「東京帝国大学」と名乗ることになりました。高木先生は帝国大学に入学して東京帝国大学を卒業しました。
 帝国大学の前の東京大学の時代のことですが、数学科の卒業生は毎年ひとりとか二人というほどで、卒業生がいない年もありました。本当に少数なのですが、卒業生のひとりひとりの出身地を見ると圧倒的に多くが石川県金沢の人でした。西田幾多郎の師匠の北條時敬も加賀、高木先生の三高時代の数学の先生の河合十太郎も加賀、三高の名物校長として知られた森外三郎も加賀でした。それで加賀とはいったいどんなところなのだろうという疑問が起るのですが、加賀には関口開という和算出身の洋算家がいて、北條時敬も河合十太郎も森外三郎もみな関口開の門下生なのでした。加賀の国で関口先生のもとで洋算を学び、それから東京に出て、日本にひとつしかない大学に進んで数学の勉強を続けるというルートがくっきりと存在したわけで、まったく驚嘆に値する現象です。
 関口開は幕末の和算家ですが、維新の直前に洋算に関心を寄せ、当初は加賀藩の軍艦所でかんたんな洋算を学んだのですが、まもなく軍艦所を離れ(諸事情があって破門されたということです)、それから独学で英語を学び、英語の数学書の翻訳を手がけました。これに対し、東京大学には菊池大麓と藤澤利喜太郎という二人の数学者がいましたが、二人とも幕末の蘭学の家に生まれた人で、和算とはまったく無縁です。若い日に洋行し、菊池大麓はイギリス、藤澤利喜太郎ははじめイギリスに行き、後にドイツに移って数学を学びました。日本の近代のはじめには、ヨーロッパ近代の数学の受け入れ先が加賀と東京の二ヶ所にあったことになります。
 関口開の洋算は英語の数学書を紹介するものであり、それほどレベルの高いものではありませんでした。菊池大麓の洋算はイギリスの数学を中心とするもので、トドハンターとウイルソンとか、関口開が解読を試みた数学とそれほど隔たっているものではありませんでした。菊池大麓の次の藤澤利喜太郎になると、楕円関数論とか複素変数関数論とか、格段にレベルが高くなり、ヨーロッパの数学研究の現状がほぼそのまま日本に移されたかのような感じがあります。それはそうなのですが、日本で数学を学ぶ者の多くは、人数が多いわけではないものの、関口開と藤澤利喜太郎という、いわば「二人の師匠」に教えを受けるという恰好になりました。和算の匂いのする洋算と直輸入された洋算という二種類の洋算に出会うことになったのですが、この状況ははたして日本の洋算の性格に何ほどかのことを刻印したと言えるのでしょうか。
 高木先生の評伝を執筆してこんなことをつくづく考えさせられました。

Extra

プロフィール

オイラー研究所の所長です

Author:オイラー研究所の所長です
FC2ブログへようこそ!
オイラーを研究して40年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。
西暦2011年は岡潔先生の生誕110年の節目の年です。
西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

最近の記事

FC2カウンター

月別アーカイブ

最近のトラックバック

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる