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高木貞治 西欧近代の数学と日本 182. 落ち穂拾い(30)

 高木先生の年譜を紹介しようとして分載してきましたが、前回までで完了しました。また、「落ち穂拾い」と称して断片的なエピソードを紹介したり、写真を掲示したりもしましたが、これもほぼ尽きました。細かくみればまだ残されている話題はありますが、まあまあこれくらいでよいのではないかと思います。
 高木先生の生涯を回想してあらためて思うのは、数学という学問は「人が創造する学問」であるという一事です。高木先生は岐阜の農村に生まれ、岐阜町、京都を経て東京に出て、さらに洋行してドイツに行きました。郷里ですごした少年期には野川湘東先生に書や画を学び、京都の三高では河合十太郎先生に数学を教わって大いに触発され、東京の帝大では藤澤利喜太郎先生の指導のもとで代数を学び、クロネッカーの代数方程式論に接触してドイツの数論史の流れに分け入っていくことになりました。
 クロネッカーはアーベルが残した断片に示唆を受けて「クロネッカーの青春の夢」を心に描き、ヒルベルトはヒルベルトで類体論というさらに大きな夢を描き出しました。夢を描いたのはクロネッカー、ヒルベルトという特定の個人なのですから、夢の属性はクロネッカーという人、ヒルベルトという「人」と切り離して考えることはできません。高木先生もまたこの「夢の系譜」に連なる人と思います。岡潔先生もそのようなタイプの数学者です。世界でただひとり、「その人でなければできない数学」というのはたしかに存在し、しかもそのような数学だけが、数学の世界を真に豊かにしていく力を備えています。
 難問を解くというのであればだれが解いても同じことですが、何もない場所に夢を描き、しかも本当に具体的な形を与えるなどという芸当の味わいはまた格別です。非常にまれなことで、近代数学史を顧みても数えるほどの事例しか見あたらないのですが、数学の魅力というか、人の心を引き付けてやまない魔力の根源は「無から有が生まれる」という、魔法のような属性にひそんでいます。
 100年後、200年後に明治大正昭和期の日本の近代を振り返るとき、数学の領域では高木先生と岡先生のお二人の名前が特別の光を帯びて、見る者の目に映じることになるだろうと思います。
 最後に高木先生の写真2葉を掲げておきます。



     高木貞治1925年ころ*

    1925年ころの高木先生


          高木貞治1951年*


        1951年の高木先生
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高木貞治 西欧近代の数学と日本 181. 年譜(8)

 高木先生の年譜の紹介も今回で終りです。記述がだんだんとまばらになり、亡くなる前の10年ほどは空白が目立ちます。晩年の高木先生の消息はよくわかりません。門下生は非常に多く、没後編まれた追想録には非常に多くの人が思い出などを寄せていますが、たいていは学生時代に聴いた講義風景などで、晩年の様子を伝えてくれるエッセイはありません。このあたりのことは今後の課題にしたいです。


(昭和20年以後)

昭和20年(1945年) 満70歳
4月13日,この日の深夜に行われた空襲により,東京都本郷区駒込曙町24番地(現在,東京都文京区本駒込)の家が焼失した.山梨県南都留郡谷村町(やむらまち)(現在,都留市)に疎開.終戦後の9月27日,郷里の生家に移動した.
 この夜の空襲は午後11時ころに始まり,約4時間に及んだ.B29,約170機(米軍側資料では330機).
9月下旬
長野県諏訪の鉱泉旅館「神の湯」に逗留.東大物理学教室の学生の疎開先であった.学生たちを相手に講話「整数とは何か」を行った.
9月27日
岐阜県本巣郡一色村数屋の生家に移動した.

昭和21年(1946年)
10月1日,疎開先から東京にもどり,東京都淀橋区諏訪町182番地(現在,東京都新宿区高田馬場一丁目)に住所を定めた.

昭和22年(1947年)
12月
狭心症のため吉江琢兒没.

「故会員掛谷宗一君略歴」(帝国学士院記事,第5巻,第2・3号,1947年11月,191-192頁)

昭和23年(1948年)
2月25日
『代数的整数論』(岩波書店)刊行.
8月14日
「考へ方研究社」主催の第3次大学数学講座で特別講義「数学の自由性」を行う.5時10分から.開始直前に土砂降りになり,全身びしょぬれになって「考へ方研究社」(東京都千代田区神田一つ橋2の3)に到着した.社員一同,飛び出して出迎えたところ,高木貞治は「ひどい雨ですね」と微笑したという.
 第3次大学数学講座は8月2日,開講.毎日,午後5時から7時まで.A組とB組に分れた.A組は8月2日から8月12日まで.B組は8月16日から8月26日まで.

「考へ方のいろいろ」(「考へ方」第31巻,第1号,1948年4月1日発行.「考へ方研究社」の数学誌「考へ方」は昭和18年10月から誌名が変り,「数学錬成」となった.昭和20年1月号をもって発刊打ち切り.この時期,藤森良蔵の自宅は東京市豊島区西巣鴨2丁目2272番地にあったが,昭和20年4月13日の夜半の空襲を受けて炎上したため,埼玉県北足立郡大和町の仮住居に転居した.終戦を経て,昭和20年12月1日,ガリ版刷り4頁で復刊した.対象は直接購買者のみ.第31巻,第1号から活版刷りになって再出発.)
「数学の自由性」(「考へ方」第31巻,第7号,1948年10月1日発行)
「故会員吉江琢兒君略歴」(日本学士院紀要,第6巻,第2・3号,1948年11月,204-205頁)

昭和24年(1949年)
6月1日
『数学の自由性』(考へ方研究社)刊行.「高数研究」と「考へ方」に掲載したエッセイを集めた.

 序 
 1 数学の自由性 (日付なし)
 2 考え方のいろいろ 昭和23年(1948年)3月
 3 わたしの好きな数学史 1936.7.31
 4 彼理憤慨 1936.7.31
 5 微積の体系といったようなこと (日付なし)
 6 Newton.Euclid.幾何読本 1938.11.30
 7 日本語で数学を書く,等々 (日付なし)
 8 応用と実用 1940.8.31
 9 或る試験問題の話 1941.9.5
 10 昔と今(円周率をめぐって) 1942.8.30
 11 数学の辻説法 1943.3.23
 12 数学の実用性 1943.6.26
 13 虫干し 1944.9
 藤森良夫 高木貞治先生への感激 昭和24年(1949年)4月29日

8月20日
『数の概念』(岩波書店)刊行.

昭和25年(1950年)
「我が道を行く」(『私の哲学 ひとびとの哲学叢書』 中央公論社) 談話筆録.末尾に「昭和二十四年八月五日 高田馬場の自宅にて談.文責 市井三郎」と記されている.
「現代数学の抽象的性格について」(「科学」第20巻,第12号、538頁、岩波書店。昭和25年12月)

昭和26年(1951年) 満76歳(数え年77歳.喜寿)
2月,間歇性跛行症と診断され,医師の勧告にしたがい喫煙をやめた.
「 “科学”の成年式に寄せて」(「科学」第21巻、第4号、176頁、岩波書店。昭和21年4月)

昭和27年(1952年) 満77歳
「中学時代のこと」(「学図」第1巻,第3号.学校図書)

昭和28年(1953年) 満78歳

昭和29年(1954年) 満79歳

昭和30年(1955年) 満80歳
9月8-13日
「代数的整数論国際シンポジウム」(東京―日光)の名誉議長をつとめた.

「一数学者の回想」(「文藝春秋」11月号)
「明治の先生がた」(『東京大学80年 赤門教授らくがき帳』 鱒書房)

昭和31年(1956年) 満81歳

昭和32年(1957年) 満82歳
「謎」(「心」第10巻,2月号,146-147頁)

昭和33年(1958年) 満83歳

昭和34年(1959年) 満84歳

昭和35年(1960年)
2月28日 東京大学附属病院において没.満84歳.
3月3日 青山葬儀場において葬儀.

昭和36年(1961年)

昭和48年(1973年)
欧文論文集”The Collected Papers of Teiji Takagi”(岩波書店)が刊行された。編纂者は黒田成勝。序文は彌永昌吉。収録された論文は計26篇。

平成20年(2008年)
5月10日
『新式算術講義』(筑摩書房,ちくま学芸文庫M&S)再刊.

平成22年(2010年)
3月10日
『数学の自由性』(筑摩書房,ちくま学芸文庫M&S)再刊.

高木貞治 西欧近代の数学と日本 180. 年譜(7)

 昭和13年から昭和20年までの年譜です。著作目録も兼ねていますが、目録は目録で別に作成するほうがよいかもしれません。
 昭和15年(1940年)11月2日付で岩波書店の店主、岩波茂雄が出資して「風樹会」という奨学金補助組織が設立され、高木先生は理事のひとりになりました。岡潔先生は昭和17年の末、もしくはたぶん年明けの昭和18年のはじめころから風樹会の奨学金を受け始めたのですが、これは高木先生の推薦があって実現したと見てまちがいありません。理事の顔ぶれを見たり、高木先生の門下の北大の数学者たち、吉田先生とか功力先生などと岡先生の関係を考えたりしてそんなふうに思うのですが、何かしらこの推測を裏付けてくれる文書を見たわけではありません。少し探索してみましたが、風樹会のことはどうもよくわかりません。
 年譜には記入しませんでしたが、戦中戦後を通じてお二人の間に交流があったことは忘れられません。


昭和13年(1938年) 満63歳
5月10日
『解析概論:微分積分法及初等函数論』(岩波書店)刊行。612頁。定価7円。東大理学部での講義「微分積分学」の講義原案を岩波講座「数学」に「解析概論」として発表。補筆改訂を施して単行本として刊行した。
9月28日
『藤澤博士追想録』発行。編纂兼発行者、東京帝国大学理学部数学教室内、藤澤博士記念会(代表者、高木貞治)。「教育」第3巻、第8号に掲載された高木貞治のエッセイ「日本の数学と藤澤博士」が再録された。
11月23日(新嘗祭)
上野池の端「浜の家」において開催された「高数研究」誌主催の座談会に出席する。出席者は高木貞治のほか、吉江琢兒、掛谷宗一、末綱恕一、小倉金之助、鍋島信太郎。「高木、吉江両長老に物を訊く会」という趣旨で行われた。
座談会の記録は「高数研究」第3巻、第7号(昭和14年4月1日発行)に掲載された。

昭和14年(1939年) 満64歳
7月30日
『数学教育講演集』(日本中等教育数学会編、東京開成館)刊行。日本中等教育数学会総会における講演記録から27篇が集められた。大正10年の第三回総会の際の高木貞治の講演記録「すとらすぶるぐニ於ケル数学者大会ノ話」が収録された。
「数学漫談(Newton、Euclid、幾何読本)(「高数研究」第3巻、第4号、昭和14年1月1日発行) 署名「Tkg。」。末尾の日付(13。11。30)。
「日本語で数学を書く等々」(「高数研究」第4巻、第1号、昭和14年10月1日発行) 署名「Tkg。」。末尾の日付(14。9。1)。

昭和15年(1940年) 満65歳
11月2日
岩波書店主岩波茂雄の発意により、哲学・数学・物理学など、基礎的学問の研究者を対象にする奨学金補助組織、財団法人風樹会が設立された。10月30日、財団法人設立の願書を提出し、11月2日、許可された。 創立当初の理事は、高木貞治、小泉信三、田辺元、和辻哲郎、和達清夫であった。
11月10日
第二回文化勲章受賞。この日が授与式であった。同時に受賞したのは西田幾多郎(哲学)、佐々木隆興(生化学、病理学)、川合芳三郎(玉堂、日本画)。午後3時から賞勲局総裁室において授与式。西田幾多郎は病気のため出席できなかった。下條総裁からそれぞれ勲章と勲記が伝達された。午後4時、勲章を佩用して参内し、東車寄せにおいて御礼の記帳をして退出した。
 高木貞治の談話
「光栄の文化勲章を拝受し誠に恐懼感激にたえません。現在第一流の数学者はほとんどアメリカに集っているありさまで、ドイツからもずいぶんアメリカに渡った人が多いが、日本の数学界は何分人も少ないのでまだ国際的水準にまで達しているとは申されないでしょう。数学は直接応用できるものではありませんが、この時局に対して・・・」(朝日新聞、昭和15年11月11日)。
西田幾多郎の談話(家人を通して)
「恩師の井上哲次郎先生はじめ諸先輩がいるのに、自分が受賞する事は恐懼感激に堪えない。」(同上)
佐々木隆興の談話
「明治35年東大医科卒業以来アミノ酸と癌生成の研究を続けてきた自分が文化勲章を拝受しまして、責任の重くなった事を痛感。ますます研究を進めなければならぬと思っています。」(同上)
川合玉堂の談話
「一門の光栄これに過ぎるものはない。」(同上)
 この日、宮中外苑において紀元二千六百年式典が挙行された。翌11日、同じく宮中外苑において紀元二千六百年奉祝会が挙行された。
 この後、大阪毎日新聞社の招待を受けて大阪で講演。数の理論の基礎の話をした。

12月7日
東大の数学教室談話会において講演「回顧と展望」を行う。加筆して「改造」(改造社)1941年1月号に掲載された。昭和17年3月、河出書房の「科学新書」の一冊として『近世数学史談』が刊行されたとき、収録された。
また、速記録が、高木貞治の校閲を経たうえで「高数研究」第5巻、第4号(昭和16年1月1日発行)に掲載された。

[補記]
河出書房の『近世数学史談』収録された「回顧と展望」の末尾には、「昭和15年12月7日、東京帝大、数学談話会に於ける講演」と記されている。他方、「高数研究」第5巻、第4号に掲載された講演記録「回顧と展望」に附された編集部の「御断り」によると、講演が行われたのは「12月6日」ということである。昭和15年12月6日は金曜日、12月7日は土曜日。数学教室の談話会が土曜日に行われたというのは不自然な感じがあるから、「12月6日」が正しいのではないかと思われるが、未確認。

「数学の応用・それの実用性などということ(応用と実用)」(「高数研究」第5巻、第1号、昭和15年10月1日発行) 末尾の日付(15。8。31)。

昭和16年(1941年) 満66歳
9月1日
藤原工業大学の教授に就任した。昭和22年7月31日まで。
藤原工業大学は藤原銀次郎が私財800万円を投じて設立した私立の工業単科大学である。昭和14年(1939年)5月26日、設置が許可された。設置場所は横浜市日吉。大学予科2年、本科3年の5年制であった。昭和19年8月5日、慶応義塾大学に統合され、慶応義塾大学工学部になった。
11月15日
大塚数学会の数学講演会において講演「数学に於ける抽象、実用、言語、教育等々」を行う。講演記録は「大塚数学会誌」(第11巻、昭和17年11月)に掲載された。

「高木貞治 掛谷宗一 両博士縦横対談記」(「高数研究」第5巻、第8号、昭和16年5月1日発行)
「或る試験問題の話」(「高数研究」第6巻、第1号、昭和16年10月1日発行) 書名「Tkg。」 末尾の日付(16。9。5)
「高数研究」第6巻、第3号(昭和16年12月1日発行)のアンケート特集記事「虚数は不実用的か」に応じ、「元来実用・不実用は物それ自身にあるのではない。吾々が使いこなせるものが実用的で、使いこなし能わざるものが不実用的である」という所見を表明した。

昭和17年(1942年) 満67歳
3月15日
『近世数学史談』第二版刊行(河出書房、科学新書)。講演記録「回顧と展望」とエッセイ「ヒルベルト訪問記」が附録として加えられた。
7月5日
上野濱亭において開催された日土大学座談会に出席した。出席者は高木貞治、末綱恕一と「考へ方研究社」の藤森良蔵、藤森良夫、岩田康、田島一郎。座談会の記録は「高数研究」第6巻、第11号(昭和17年8月1日発行)に「高木 末綱両博士を囲む日土大学座談会」と題して掲載された。

「昔と今(円周率をめぐって)」(「高数研究」第7巻、第1号、昭和17年10月1日発行。「未定稿」とされている。) 末尾の日付(17。8。30)。
「仕官三十六人の問題(オイラーの方陣)」(「高数研究」第7巻、第3号、昭和17年12月1日発行)
「数学に於ける抽象、実用、言語、教育等々」(大塚数学会誌、第11巻、1-8頁。昭和17年11月) 「大塚数学会誌」は第11巻を最後に休刊。

昭和18年(1943年) 満68歳
6月10日
『数学小景』(岩波書店)刊行。
6月26日
日本数学錬成所で講演「数学雑話」。日本数学錬成所では毎週土曜日に特別講演が行われていた。
7月23日
午後5時半より日本数学錬成所において第一回錬成所総会が開催された。高木貞治、掛谷宗一ほか数学者40名ほどが出席した。午後9時半まで、4時間に及んだ。
7月25日―8月22日
新制第9回日土大学に7人の講師のひとりとして出講。課目は「数学雑話」。6時間。毎日夜間。午後6時から午後9時まで。日曜休講。正確な講義日程は不明。他の講師は能代清(名大教授)、功力金次郎(北大教授)、吉田洋一(北大教授)、入江盛一(北大助教授)、福原満洲雄(九大教授)、古屋茂(中央航空研究所、研究官)。

「仕官三十六人の問題(承前)」(「高数研究」7巻4号、昭和18年1月)
「数学の辻説法」(「高数研究」7巻8号、昭和18年5月)
「数学雑話―日本数学錬成所特別講演よりー」(「高数研究」7巻11号、昭和18年8月1日発行) 末尾の日付(一八・六・二六)。

昭和19年(1944年) 満69歳
1月15日
『数学の本質―講演集―』(大塚数学会編、甲鳥書林)刊行。「過渡期の数学」(大塚数学会誌、第3巻、第2号)と昭「数学に於ける抽象、実用、言語、教育等々」(「大塚数学会誌」第11巻)が掲載された。
8月15日
新制の第10回日土大学で講演を行う。

「虫干し」(「高数研究」「高数研究」第9巻、第1号、昭和19年10月)
「オイレル方陣について」(「科学」第14巻、第2号、42-44頁、岩波書店。昭和19年2月)

昭和20年(1945年) 満70歳
4月13日、この日の深夜に行われた空襲により、東京都本郷区駒込曙町24番地(現在、東京都文京区本駒込)の家が焼失した。山梨県南都留郡谷村町(やむらまち)(現在、都留市)に疎開。終戦後の9月27日、郷里の生家に移動した。
 この夜の空襲は午後11時ころに始まり、約4時間に及んだ。B29、約170機(米軍側資料では330機)。
9月下旬
長野県諏訪の鉱泉旅館「神の湯」に逗留。東大物理学教室の学生の疎開先であった。学生たちを相手に講話「整数とは何か」を行った。
9月27日
岐阜県本巣郡一色村数屋の生家に移動した。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 179. 落ち穂拾い(29)

 東京在住のO.K.先生より明治初期の官報のコピーをいくつか送っていただきました。O.K.先生は数学者ですが、近年は明治期の日本の数学教育史に感心を寄せ、詳しい調査を続けています。
 明治19年6月22日付の官報には「文部省令第14号:が掲載されていました。その中味は尋常中学校の「学科及其程度」の規定で、各学年ごとに学科と授業時間が定められているのですが、それとは別に興味深い事実が判明しました。
 それは各学年の呼称のことなのですが、尋常中学の修業年限は五年ですから、入学して第一年目の生徒は「一年生」、五年目の最終学年の生徒は「五年生」と呼ぶのであろうと思われるところです。今日の流儀ではそうなります。
 ところがこれは尋常中学にはあてはまりません。「尋常中学校に於ては五級を設け」とありますが、入学したときの学年を第五級と称し、以下順にひとつずつ数字が減少し、第五年目の学年は第一級になります。一年生、二年生・・・という呼称は存在せず、第五級、第四級・・・と呼ばれます。これは意外な事実でした。

  第一年 第五級
  第二年 第四級
  第三年 第三級
  第四年 第二級
  第五年 第一級

高木貞治 西欧近代の数学と日本 178. 年譜 (6)

(昭和8年から昭和12年まで)

昭和8年(1933年) 満58歳
4月2-3日
東北帝大において日本数学物理学会が開催された。高木貞治は第一日(4月2日)の午後、「自然数論について」といえ演題で講演を行った。講演時間は20分。
10月
「新修輓近高等数学講座」(共立社)の刊行が始まる。昭和11年(1936年)完結。全35巻。第1巻配本(10月18日発行)の第2巻は『近世数学史談』。
12月23日
藤澤利喜太郎没。

「自昭和五年至昭和七年 万国学術研究会議竝各協会総会参列報告」(学術研究会議、昭和8年4月)
「自然数論について」(「科学」第3巻、第3号、378-380頁、岩波書店。昭和8年3月)

昭和9年(1934年) 満59歳
8月
第七次日土大学講習会において講義「新代数学概論」を行う。
日土大学講習会は「考へ方研究社」の藤森良蔵が開設した事業である。企画にあたり、藤森良蔵は大阪の塩見理化学研究所の所長、小倉金之助を訪ねて相談した。小倉は東京物理学校の2年後輩(明治38年2月卒業)。小倉は、高木貞治に出てもらうにはまず林鶴一に出てもらうのがよいと助言した。第一次の日土大学講習会は昭和4年に実現した。期間は12月21日から一週間。
日土大学講習会は高木貞治の協力のもとに回を重ね、第七次をもって終了。昭和10年10月、新制日土大学が発足した。

 第一次 林鶴一 「実用数学」 昭和4年12月
 第二次 掛谷宗一 「函数論」 昭和5年8月
 第三次 園正造 「近代代数学」 昭和6年1月
 第四次 藤原松三郎 「数学解析概論」 昭和6年8月
 第五次 小倉金之助 「数学教育史」 昭和7年8月
 第六次 窪田忠彦 「幾何学雑論」 昭和8年8月
 第七次 高木貞治 「新代数学概論」 昭和9年8月
 第七次 竹内端三 「等角写像」 昭和9年8月

11月24日
大塚数学界の数学講演会において講演「過渡期の数学」。大塚数学会誌、第3巻、第2号に掲載された。「大塚数学会誌」は「東京文理科大学東京高等師範学校大塚数学会」の機関誌。

昭和10年(1935年) 満60歳
8月
考へ方主義宣伝25周年記念事業として新制日土大学講習会が発足した。
8月24日
『数学雑談』(共立社)刊行。「新修輓近高等数学講座」、巻1。第17回配本。
「新修輓近高等數學講座」に収録された『数学雑談』は、「輓近高等數學講座」の「数学雑談」と「新修輓近高等數學講座」の「続数学雑談」を合わせて編成された。「続」は「4 無理数」以下。
10月20日
『過渡期の数学 大阪帝国大学数学講演集 I』(岩波書店)刊行。
12月26-28日
 文部省で開催された数学講習会において吉江琢兒、田辺元とともに講義「訓練上数学の価値 附 数学的論理学」を行った。高等学校の数学、特に文科の数学の教授改善を目的として、全国の高等学校、大学予科の数学の教員を文部省に集めた。吉江琢兒の講義は「高等学校文科数学教材の取扱方に就いて」、田辺元の講義は「思想史的に見たる数学の発達」。これらの三つの講義の記録を編纂して、翌昭和11年、『一般的教養としての数学について』(岩波書店)が刊行された。

「過渡期の数学」(大塚数学会誌、第3巻、第2号、69-71頁。昭和10年5月10日発行)
「日本の数学と藤澤博士」(「教育」、第3巻、第8号、岩波書店。昭和10年8月) 『藤澤博士追想録』(昭和13年)230-239頁、および「数理科学」(日本科学技術史大系)(第一法規、日本科学史学会編、1969年9月)112-113、190-191頁に再録された。

昭和11年(1936年) 満61歳
3月31日
定年を迎え、東京帝国大学を退官した。
9月11日
東京帝国大学名誉教授。
10月1日
「考へ方研究社」の数学誌「高数研究」第1巻、第1号、10月号発刊。「高等数学入門」「大学数学解放」をスローガンに掲げて企画された。この年の4月、9月に第1巻第1号を発刊することが決定した。6月、発刊の趣意を述べたパンフレットができあがった。日土大学の機関誌としての役割ももたせた。昭和19年12月号をもって終巻。
11月25日
『一般的教養としての数学について』(岩波書店)刊行。講演記録「訓練上数学の価値 附 数学的論理学」が収録された。
11月5日
日本数学物理学会主催の第13回特別講演会において講演「黎明の数学基礎論」。定刻の6時半には会場の数学教室別館(実はバラック)の周辺におよそ300人の聴衆が集ったため、委員の掛谷宗一が急遽、会場を新築の理学部二号館に移した。定刻に1時間遅れて、午後7時半開会。終了したのは9時近くであった。

「数学漫談(祝高数研究発刊)」(「高数研究」第1巻、第1号、昭和11年10月1日発行。二つのエッセイで構成されている。「1。わたしの好きな数学史」「2。彼理憤慨」。末尾の日付は「11。7。31」)
「数学教育偶感」(『師範大学講座数学教育』第5巻、博聞館、所載)

昭和12年(1937年) 満62歳
11月27日
帰朝した辻正次の歓迎会に出席した。午後3時から5時まで談話会。辻正次と伊藤清(東大学生)の講演があった。引き続き赤門前の「鉢の木」において晩餐会。出席者約50名。高木貞治のほか、吉江琢兒、藤原松三郎も出席した。

「数学漫談(微積の体系といったようなこと)」(「高数研究12月号」第2巻、第3号、1-4頁、昭和12年12月1日発行)。署名「TKG」。末尾の日付「12。11。5(昭和12年11月5日)」。
「数学・世界・像」(「科学」第7巻、第5号。岩波書店)

高木貞治 西欧近代の数学と日本 177. 落ち穂拾い(28)

 高木先生のノート「平面幾何学問題集」を紹介します。最後の頁に「明治18年3月朔日」という日付が記入されています。「朔日」は「1日」の意です。明治18年3月というと、高木先生は満9歳。一色小学校の高等科の第一年目の後期生ですが、とても小学生の勉強ノートには見えません。


          平面幾何学問題集 /~


      平面幾何学問題集/本文*~


高木貞治 西欧近代の数学と日本 176. 年譜(5)

年譜の続き。
大正12年から昭和7年まで。
昭和7年には岩波講座「数学」の刊行が始まりました。


大正12年(1923年) 満48歳
1月20日
チェコスロバキア数学物理学会より「数学物理学会名誉会員」に推薦された。
6月8日
学術会議会員になる。

大正13年(1924年) 満49歳


大正14年(1925年) 満50歳
母、つね没。
6月27日
帝国学士院会員になる。

「フレドホルム行列式に関するノート」( 長岡教授在職満二十五年記念祝賀會、Anniversary volume dedicated to professor Hantaro Nagaoka by his friends and pupils on the completion of twenty-five years of his professorship、313-318頁)

大正15年、昭和元年(1926年) 満51歳
「代数の一問題に関する諸注意」(日本数学輯報、第2巻、13-17頁)
「代数方程式の相互還元について」(帝国学士院記事、第2巻、41-42頁)

昭和2年(1927年) 満52歳
論文紹介「整数論講義(E・ランダウ)(E。Landau、 Vorlesungen über Zahlentheorie、 Leipzig、 1927)」、「日本数学物理学会誌」第1巻(1927-1928年)、219-221頁。
論文紹介「一般相互法則の証明(E・アルチン)(E。Artin、 Beweis des allgemeinen Reziprozitätsgesetzes、 ハンブルク大学数学セミナー論文集、第5巻(1927年)、353-364頁)、「日本数学物理学会誌」第1巻(1927-1928年)、221-223頁。

昭和3年(1928年) 満53歳
4月
共立社から「輓近高等数学講座」の刊行が始まる。全18巻。昭和4年(1929年)10月までに完結した。「数学雑談」が分載された。

昭和4年(1929年) 満54歳
4月6日
オスロ大学よりアーベル没後百年記念式典にあたり、高木貞治ほか15人の数学者に名誉博士の称号が授与された。高木貞治は、類体論の基本定理、すなわち「アーベル体は類体である」という事実の発見を記念するためと思った(「一数学者の回想」より)。高木貞治のほかの15人は次の通り。ブロウエル、エンゲル、フエター、アダマール、ハーディー、ヘンゼル、ユーエル、ランダウ、リンデレーフ、パンルベ、フラグメン、ビンケルル、ド・ラ。ヴァレ・プーサン、ヴェブレン、ワイル。
 4月6日はアーベルの命日である。アーベルは1829年4月6日、満26歳で没。

昭和5年(1930年) 満55歳
1月
共立社から「続輓近高等数学講座」の刊行が始まる。全16巻。昭和6年(1931年)11月までに完結した。「近世数学史談」と「続数学雑談」が分載された。
7月1日
『代数学講義』(共立社)刊行。

昭和6年(1931年) 満56歳
3月15日
『初等整数論講義』(共立社)刊行。

昭和7年(1932年) 満57歳
4月
「解析概論」の講義を始める。
7月12日―12月3日
欧州各国に出張。7月12日、神戸出港。8月20日、ナポリ着。ローマ、フィレンツェを経て9月3日、チューリッヒ着。12月3日、神戸着。
9月5-12日
チューリッヒで開催された第9回国際数学者会議に日本学術研究会議代表として出席した。会場はチューリッヒ連邦工科学校とチューリッヒ大学。議長はチューリッヒ大学のルドルフ・フエター。高木貞治は副議長のひとりであった。また、第一回フィールズ賞選考委員のひとりに選ばれた。
 宿泊先のホテル・エーデンにおいて、出席者たちを招待した。招待されたのはシュバレー、ハッセ、ネーター、タウスキー、ファン・デア・ヴェルデン、チェボタレフ、彌永昌吉、南雲道夫、守屋美賀雄、三村征雄、三村たか子。計11人。
国際数学者会議の後、ドイツ行。ゲッチンゲンではヒルベルトを訪問した。
11月
岩波講座「数学」の配本が始まる。11月20日に第一回目の配本があり、以後、おおよそ月に一回ずつ配本が続いた。昭和10年8月、第30回目の配本があり、講座が完結した。高木貞治は「解析概論」と「代数的整数論」の執筆を担当した。
 「解析概論」は「一般項目」のひとつで8回にわたって分載された。全472頁。「代数的整数論」は6回にわたって分載された。
 第一回目の配本に「書信」が収録された。内容は手紙2通。一通は岩波茂雄宛。チューリッヒの第9回国際数学者会議の状況報告。末尾に「九月下旬 ぱりニテ」と記入された。もう一通はS君宛で、ヒルベルト訪問記。1932年10月8日、ゲッチンゲンにおいて執筆したと明記されている。「ヒルベルト訪問記」は『近世数学史談』第2版(昭和17年3月、河出書房)に収録された。
「月報」に4回にわたって記事を寄せた。
1「解析概論について」 第5回配本(昭和8年4月5日発行) 末尾に記された日付は「昭和八、二、二八」。
2「涓滴」 第10回配本(昭和8年9月1日発行) 末尾に記された日付は「昭和8、8、8」。
3「代数的整数論について」 第19回配本(昭和9年6月9日発行) 末尾に記された日付は「九、五、二一」。
4「終刊に際して」 第30回配本(昭和10年8月15日発行) 末尾に記された日付は「昭和十、八、一」。

12月3日
帰国。この日、神戸港に到着した。

高木貞治 西欧近代の数学と日本 175. 落ち穂拾い(27)

 高木先生は三高で河合十太郎先生に数学を教わりました。三角法の講義ノートが遺されています。河合先生の鮮明な写真があるといいのですけど、ぼんやりしたものしかありません。


        三高時代/河合先生の講義ノート~

三高に入学して第一年目河合先生の初等三角法の講義ノート。最下部に「1892年」という年が記入されています。
テキストはトドハンターの著作でした。


            河合十太郎 ~

            河合十太郎先生

高木貞治 西欧近代の数学と日本 174. 落ち穂拾い(26)

 高木先生は岐阜中学に在学中、ウィルソンの著作をテキストにして立体幾何を勉強しました。テキストは英語で書かれていますが、高木先生は翻訳稿を作成しました。本巣の「高木貞治博士記念室」に保管されています。


           ウィルソン/立体幾何学/高木貞治訳/表紙~

              第一頁


      ウィルソン/立体幾何学/高木貞治訳~

        表紙

高木貞治 西欧近代の数学と日本 173. 落ち穂拾い(25)


    東京帝国大学紀要理科19表紙~

  東京帝国大学紀要 理科 19

           東京帝国大学理科大学紀要26表紙~

        東京帝国大学理科大学紀要 26


 東京帝国大学理科大学の紀要が創刊されたのは明治20年(1887年)ということで、誌名の英語表記は
 Journal of the College of Science. Imperial University of Tokyo
でした。第一巻の実物は見たことがないのですが、最近、第二巻以降のすべての巻を見ることができました。第44巻まで続き、最終巻を構成する諸論文の発行年は大正11年(1922年)から大正12年(1923年)にわたっています。途中で誌名が変り、
Journal of the Faculty of Science, Imperial University of Tokyo
となりましたが、これは大正8年(1919年)に大学の組織の模様変えがあって、分科大学制が学部制に変更されたことを受けた措置でした。組織の模様変えとともに誌名もすぐに変れば混乱しないでよかったようにも思うのですが、誌名の変更まで少し日時を要しました。
 それはそれでよいとして、問題は初期の“Journal of the College of Science. Imperial University of Tokyo”の日本語による表記のことなのですが、また少し詳しいことがわかりました。すなわち
 第25巻(1908年)までは「東京帝国大学紀要 理科」
 第26巻(1909年)から「東京帝国大学理科大学紀要」
 第39巻(1916―1919年)から最終巻までは「東京帝国大学理学部紀要」
というふうに、三通りの表記が試みられていました。これには驚きもし、あきれもしましたが、事実の確定はむずかしいとまたしても思い知らされたことでした。

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