日々のつれづれ


記事の内容

前へ | 次へ

(岡潔先生を語る39)伊豆伊東温泉
2007/12/26 04:14

 広島で事件が起ったのは昭和11年6月23日のことでした。この日の夜、岡先生は京都大学の数学者で学生時代の恩師でもある園正造の歓迎会に出席したのですが、途中で心身の調子が悪くなって帰宅し、それから一時、行方不明になりました。翌朝、判明したことによりますと、岡先生は自宅の近くの二股土手を通行中の修道中学の夜学生たちを襲い、ひとりの中学生の帽子、書籍、靴などを取りあげ、もうひとりの中学生からは帽子、自転車などを没収するなどして、それから牛田山の笹原に寝そべって一夜を明かしたというのですが、詳しい経緯は今も不明です。被害者の中学生の家族が強盗にあったと警察に訴えたため、新聞沙汰になり、全国各地の地方新聞に、広島文理科大学の助教授が起した不可解な事件を報じる記事が掲載されました。札幌の中谷宇吉郎は北海タイムスを見て事件を知り、急遽、岡先生の同僚の平岩馨邦に電報を打って消息を訪ねました。ともあれ病気ということになって入院することになり、刑事事件になるのは免れたのですが、奥さんのみちさんも秋月康夫などの友人や大学の同僚たちもみな狼狽し、郷里から父の岡寛治が幾度も広島にやってくるという事態にもなり、だれも狼狽してたいへんな騒ぎになりました。途中で一時退院したものの、また入院し、結局、最後の退院は9月13日になりました。
 退院後はどうするか、関係者の鳩首協議が繰り返されましたが、本人の意向も汲み、伊豆伊東の中谷宇吉郎のもとでしばらく静養するのがよいのではないかということになりました。中谷家も病人が多く、何よりも宇吉郎本人が原因不明の病気にかかって調子が悪かったため、思い切って一家を挙げて転地し、秋から伊東で静養することになっていたのですが、岡先生の心情を汲む中谷宇吉郎は進んで岡先生に声をかけてくれました。岡先生はそこに合流しようというのです。この計画は岡先生も気に入って、非常に乗り気を見せました。 11月2日に熱海に着いてから12月6日に伊東を離れるまで、おおよそ一箇月ほどの長期にわたる逗留になりました。岡先生が第2論文をフランス語で書き上げたのは、この伊東滞在のときなのでした。
 6月23日の広島の事件の原因は何だったのか、何かしら岡先生の心に起った事柄を理解する人はひとりもいませんでしたが、数学研究の推移に照らして考え合わせてみますと、事件の前と退院の後に第2論文の日本文による草稿が試みられていたことが目に留まります。この第2論文は前年夏の上空移行の原理の発見を受けて成立した論文で、第1論文では有理凸状領域においてクザンの第一問題が解けることが示されたことを踏まえ、さらに思索を延長して、第2論文では任意の正則領域においてクザンの第一問題が解けることが証明されました。ベンケ、トゥルレンの著作に出ていた予想をはるかに越える、完全に一般的で、しかも簡明な定理でした。岡先生の興奮ぶりも容易に想像されるところであり、中谷治宇二郎の死をはじめとする人生の苦も相俟って、事件の背景が形成されたように思います。ただし、第1論文のときとは違い、第2論文の成立については、「発見の鋭い喜び」を語る岡先生の言葉は遺されていません。
 岡先生は12月8日の夜9時前に広島にもどり、12月10日、第2論文「多変数解析函数について II 正則領域」が広島大学理科紀要に受理されました。翌昭和12年の広島大学理科紀要は二分冊から成りますが、岡先生の第2論文は、「1937年3月」という日付をもつ第2分冊に掲載されました。

カテゴリ:岡先生の回想

前へ | 次へ

コメントを見る(0)
コメントを書く
トラックバック(0)
BlogTOP
このユーザーのホーム

ログイン



Powered By FC2ブログ